《§伊那谷スケッチ 第4部 2013冬〜2014秋》
10/3(金)「御嶽噴火」
御嶽が突然噴火して多数の犠牲者が出てから明日で一週間になる。噴火の後遺症というか、精神的なダメージがじわじわときている。伊那谷と木曽谷との間には中央アルプスが聳えているから、いくらか火山灰こそ降ったとはいえ直接的な影響があったわけではない。それでも巨峰御嶽は自分にとって別格の山で、とくに中央アルプスを貫通した権兵衛トンネルができて以来、何度も足を運んできた山だけに、被災した登山者のことが他人事に思えなかった。
おまけに噴火当日は、勤務している病院の事務当直だった。ドクターヘリの受け入れやらトリアージの準備などで災害モード一色となり、いやでも緊張が高まった。結果的にそんなに多くの患者は搬送されてこなかったが、それでも気道熱傷や大腿骨骨折の患者などを目の当たりにすると、それが自分であっても決しておかしくないという思いを禁じえなかった。現に噴火の前日、木曽福島の裏山にあたる城山(児野山)に犬を連れて登り、山頂から雲を被った御嶽を間近に拝んできたばかりだった。
(これが里山とは思えない城山の林)
御嶽の登山道は一番古い黒沢口を初め、深い原生林を長く歩く開田口、濁川温泉からの小坂口、キャンプ場から森を行く胡桃島口、スキー場が近くにできてほとんど人が歩かなくなった日和田口など、いろんなコースを歩いてみたが、敬遠していてまだ一度も行ってないのが、今回被害が集中した最も登山者の多い王滝口だった。ここは早出すれば日帰りも可能だから、今年あたり一度は出かけてみようと思っていたところだった。久々に快晴となった土曜が仕事でなければ、ひょっとして紅葉を見がてら王滝方面へ車を走らせていたかもしれない。
登山といえば先週初めまで、25歳のアメリカ人のバックパッカーを家に泊めて仕事を手伝ってもらっていたのだが、インディアナ州出身の山が好きな青年で、待ち合わせの当日、時間を持て余して伊那市駅から中アの経ヶ岳まで歩いて往復してきたというから驚いた。登山口近くの温泉までバスで行っても20分以上はかかる。それを大きなリュックを背負って車道を歩いて行き、そこから山頂(2296m)まで通常の人なら6〜7時間はかかる距離をほとんど走るようにして往復してきたらしい。
駐車場の砂利敷きや垣根の剪定などをやってもらったが、聞くと富士山に登ろうと思って友人と一緒に行ったがあまりに人が多すぎて五合目で降りてきたという。「それなら御嶽へ行くといい。何万年か前に山頂が噴火して吹っ飛ぶ前は、富士山より高い巨大な山だったんだ。まさにザ・マウンテンとはこの山のことだ、君にはぜひ勧めるよ」。
交通アクセスを調べるとロープウェイのある王滝口ならバスの便がありそうだ。一時はすっかりその気になっていた彼だが、結局古本市の搬入の手伝いなどをした後、都合で予定より早く伊那を出て、ヒッチハイクで権兵衛トンネルを抜けて木曽へ行き、御嶽へは登らずに妻籠から中仙道を歩いて馬籠で野宿。中津川へと下って行った。あのままもう少しわが家に長居して週末の休みに王滝口から御嶽に登っていたら、外国人の犠牲者の一人となっていたかもしれない。
それにしても亡くなった登山者の誰もが、噴火のほんの数秒前まで、まさかこんなかたちで自分が災害に巻き込まれて死んでいくなどとは夢にも思っていなかったにちがいない。しかしこの時代、災害による突然死がいかに増えていることか。3・11の地震と津波を思い出すまでもなく、夏には広島と前後して同じ木曽で台風による土石流が発生して中学生の男子が亡くなっている。死者こそ出なかったが、この冬の豪雪による多数の車の立ち往生なども、ふつうの出来事ではなかった。夏も冬もふつうの天気でないのだ。それがここ数年続いている。天の気が狂えば、地の気も狂う。
火山灰の影響でか山の端を無気味な茜色に染めて西山の木曽方面に沈む夕日を目で追いながら、いよいよ来るべきものがくるのかな、という気がしきりにしている。
8/19(火)「労働とエポケー」
池山野生動物観察棟にて。
林道の途中からしとしと雨。お盆を過ぎ、さすがに登山客は減ったが、それでも空木岳からの下山者がカラコロと鐘を鳴らしながら幾組も通り過ぎる。7月の後半に熊の親子連れが登山道近辺で目撃されたので、注意を呼びかける看板が立っている。
昨年来病院の夜勤事務からは遠ざかっていたのだが、昨日は人が足りなくて久しぶりに一晩通しの夜勤に入った。夜明け方、椅子にもたれてうつらうつらしていると、拷問の第一歩はまず囚人を眠らせないことだったななどと考える。遠い昔、通勤電車の吊革につかまってうつらうつらしていた記憶がなぜか甦ってくる。8時半で上がり、家に戻ってから昼まで寝たが、その後半日、ぼーっとした虚脱状態のまま過ごす。半分躁状態なのだが、何もきちんとやることができず、明晰に筋道を立ててものを考えることもできない。そうか、ほとんど眠れなかった夜勤明けは、いつもこんな感じだったなと思い出す。
まだレギュラーで当直に入っていた去年の夏のメモには、こんなことが書いてある。
「当直明けの朝9時、誰もいないY温泉の湯舟に浸かり、ボォーッとしている。虚脱感と至福と悔恨の気持ちが入り混じったエポケー状態。こういうひと時に浸りたくて、夜勤をやっているのかとさえ思う。
昨夕は例のごとくに、些細な会計ミスをさもおおごとに指摘するおれ宛のレセプト・コピーのチェックに始まって、日曜とあって結構混んで複雑な会計が続く。22時半過ぎて、ようやく患者が途切れ、しばらくシモーヌ・ヴェイユの「労働と人生についての省察」を読み続ける。深夜零時まで珍しく患者来ず、うつらうつらしてきたところで仮眠ベッドに横になる。夢に入り始めたら、内線電話が鳴る。1時頃、72歳のお婆さん、下痢と嘔吐を訴えて来院。しばらくして点滴が終わり、診察室から出てきたのはいいが、待合の廊下で横になったり、トイレに駆け込んだまま出てこなかったりを繰り返した挙句、やっと会計が済んだと思ったら廊下で激しく嘔吐。やむなく看護師が再度当直の医師を呼び、再び点滴。CTも撮って、結局入院となる。
そうこうしている間に、夫の浮気問題で死にたくなったと、降圧剤を大量に飲んだ40歳の主婦が、当の夫に介抱されながら連れてこられる。それとほとんど同時に、今度は心臓が急に苦しくなったと言って、坊主頭のスポーツマン風の男が頭をびしょびしょにして、25歳の女を背負って現れる。外は結構降っているらしい。結局、自殺未遂の主婦は胃洗浄をして入院。不整脈の若い女は、心電図と血液検査だけして帰ったが、会計処理など全部終わったのが4時半。それから仮眠に入るが、付き添いの家族の人に起こされたりして、やっぱり眠れない。ボォーッとした状態で何とか朝の引継ぎを済ませ、急いでY温泉へ。湯舟からあがり、誰もいない朝の脱衣場で蛇口から水の滴が垂れる音を放心状態で聞いている」。
その日読んでいた本の中で、シモーヌ・ヴェイユは、過酷な労働の後の精神と肉体のエポケー(判断停止)状態について、繰り返し繰り返し述べている。
〈こういう生活がもたらすもっともつよい誘惑に、わたしもまた、ほとんどうちかつことができないようになった。それは、もはや考えることをしないという誘惑である。それだけが苦しまずにすむ、ただ一つの、唯一の方法なのだ〉
〈仕事の時間以外は、うつらうつらと半分居眠ったような状態に沈みこんでいたいという気持ちにばかりさそわれる〉
〈休暇−土曜と日曜、頭痛−水曜の昼まで、ほとんどまったくの虚脱状態〉
〈ものを考えるのをやめなければならないということの屈辱感を、心の底から感じる〉
学生の頃、これらの言葉を含む「工場日記」を一度は読んだはずなのだが、去年読み返してみるまで、まったく覚えていなかった。それがいまはびしびしと入ってくる。
問題は彼女も指摘しているように、それでいて何年かたつと(一年間でもよいのだが)、
〈疲れてへとへとになっていることは自覚しながらも、もう苦しいという気持はなくなるようになる〉
〈苦しくはあるが、とにかく「わるくない仕事なのだ」と思って、元気をつける〉
というふうに現状に慣れていくことにある。
私自身、この半覚半睡状態に身を預けてしまうと、それが一種のドラッグのトリップのような状態になり、その反復が自虐的な快感にすらなってくるという経験を何度ももった。だから仕事や待遇に対する不満は山ほどあっても、次第にこの変則的な受け身の日常に慣れ、そこから抜けられなくなってくるのだ。
さすがにもう一晩通しの夜勤からは足を洗ったが、都会をドロップアウトした人間が、年を取ってから田舎の末端でありつける仕事など限られている。昔は病院の正規の職員がやっていた仕事が、きつい仕事ほど下請けに回され、派遣会社を通じて我々のような者にまで回ってくる。だから同僚にも都会から移住した中高年者が少なくなく、昼間は自営で自分の仕事や畑をやり、週何日かは当直に入るという生活を送っている人が結構いる。(なかには夕方5時から翌朝8時半までの夜勤を週5日!こなしている剛の者もいる)。
さてこんなことを書いているうちに雨も上がった。ふだんなら、この標高1500mの小屋の板の間でごろりと横になって惰眠をむさぼるところだが、今日はあいにくの天気で肌寒く、虻も飛び交っていてうるさい。陽も射してきたところなので、犬を放して茸でも物色しながら下界に降りることにしよう。
7/6
(日)「様変わりするバックパッカー」
春から秋の間、ときどき海外からの旅行者を泊めて、畑の草取りなどをしてもらっていることは以前にも書いた(→2009夏「過ぎ行く者」)。あれから5年。その間、2011年の3.11をはさんで旅行者は激減し、一時は助っ人を見つけるのにも大変苦労した。無理もない。未曾有の原発事故と大地震のあった島国に、誰が好きこのんで「有機農業」の手伝いになど来るだろうか。しかしこの時代、出来事が忘れ去られるのも早い。その後また旅行者は少しずつ増え始め、いまはWWOOFの代りにHelpXというネットワークに加盟してバックパッカーを受け入れている。条件は三食お茶寝泊りを提供する代りに、一日6時間の肉体労働だ。今年はまだチェコの二十代の女性と三十代半ばのスペイン人の男性が滞在していっただけだが、他にも希望者との問い合わせのメールのやり取りなどを通して、バックパッカーの質がかなり変わったことを実感している。
スペイン人のG君を例にとってみると、彼はマドリード出身だが現住所はスペインではなくイギリスにある。日本でいうところのフリーターで、現在は無職。3カ月の観光ビザでロンドンから渡来し、東京は素通りして山梨の山間部の果樹園で1カ月ヘルパーとして働く。その後、長野のわが家までヒッチハイクで移動。3週間ほど滞在して草取りを中心に働いてもらったが、休みの日も貸してあげた自転車で近くの河原をサイクリングしてくる程度で、レストランへも喫茶店にも行かず、三食わが家でたらふく食べ、知っている限り一銭もお金は使わなかった。仕事はゆっくりていねいにやってくれたが、ときたま持参のフルートを吹き鳴らす以外、夜はいつもタブレットに向かい何やら調べていて、最終的にイギリスでまた最低賃金の倉庫の仕事が見つかったとかで、結局木曽にも京都にも寄ることなく、成田からロンドンへ戻っていった。
彼からスペインの雇用状況の話などを聞いたので、あとで調べてみると、スペインはギリシャと並んでEU諸国では失業率が断トツで、政府公式発表で25%超(日本は4%)。なかでも25歳以下の若年層の失業率は60%を越えているというから凄い。これでは国に帰りたくても帰れないのは仕方がない。当然仕事にあぶれた若者はイギリスやフランスなど同じEU域内の「富裕国」に職を求めて流れていく。こうして同じEUであっても、その中に厳とした貧富の差が生まれている。最近わが家のヘルパーに応募してくるのは、こうしたEU域内の「第三諸国」の若者が圧倒的に多いのだ。
ちなみにイギリスの場合、最低賃金といっても約5・5ポンド、円に換算すれば時給1000円以上だから、こつこつ働いて金を貯め、格安運賃で日本などに飛び(成田→ロンドンが片道300£=約5万円)、ウーファーやヘルパーとして田舎で過ごせば、ほとんど金を使わずに暮らすことができる。異国にいてもインターネットだけは通じるから、夜はだいたい故郷の家族や友人たちとメールやskypeなどして過ごす。この数年、こうしたバックパッカーが俄然増えている。
もっとも日本の若者だって海外で似たようなことをさんざんやっているのだろうし、我々の年代のバックパッカーも、自分たちの国でアルバイトして貯めた金でインドや東南アジアなど「経済格差」のある国々を安く旅して回り、貧乏旅行という名の一種の「居候」を繰り返していたともいえるから、大きな顔はできない。私自身、二十代の頃、失業保険をもらいながらタイの島で一ヶ月ほど何もせずにぶらぶらしていたことがある。しかしあの頃はインターネットもメールもウーフもなかった。同じ旅をするにしても、もっと手探りで直接的でアナログの部分が大きかった。ましてや安く滞在する旅先として、欧米人から「治安の良い」日本が選ばれることもなかった。
だがいまこうして馬齢を重ね、逆に海外からの旅行者を日本の田舎で受け入れる立場になってみると、2メートル近い髭面の大男のG君と食卓を囲んで、彼のスペイン語なまりのブロークンな英語を聞きながら、世界の移り変わりをいやでも肌で実感せざるをえない。まさに The Times They Are A-Changin' * である。
*
話のついでに、大分前のCDですが、ケヴ・モがピアノの弾き語りで切々と歌い上げる「時代は変わる」は聞かせますね(「Peace Back By Popular Demand」所収)。
2014年 2/7(金)「ジヴァゴ」再読
冬になるとロシア文学が読みたくなる。今年は正月明けから「ドクトル・ジヴァゴ」の新訳(工藤正廣・未知谷刊)を紐解き、最近読了。高価で分厚い本なので、昨年オークションで落としたものをまとめて読める機会を待っていた。しかしやはりいいものは何度読んでもいい。「ジヴァゴ」を読むのは三十代の頃、新潮文庫の江川卓訳を読んで以来三度目だが、今回がいちばん時間がかかったように思う。ディテールについてはほとんど忘れているから、一行一行が実に新鮮で、とくにパステルナークの場合、小説の散文としては密度が濃すぎるぐらいの彫りこまれた詩的文体だから、それを味わいつつ行を追っていくだけで飽きなかった。
ところで読み終わってまだ「ジヴァゴ」の余韻のなかにいるとき、耳の聞こえない作曲家のスキャンダルが発覚した。たまたまこの作曲家のことは、去年夜勤の仮眠室で深夜のTVを見て妙に印象に残っていた。そこで「ジヴァゴ」の、本筋とはあまり関係のない挿話が甦ってきた。
場面は第五章。年代は1917年の後、ドイツ軍との前線で負傷したジヴァゴが、野戦病院から列車でモスクワへ戻る途中のことだ。汽車の中で、同じコンパートンメントに座った狩猟家の若者が、しきりに彼の口元を見て話しかけてくるのだが、その甲高い発音があまりに不快かつ奇妙で、医師ジヴァゴは「これは何らかの脳現象が引き起こした病気にちがいない」と思って、早々に上段の座席に横になって寝てしまう。しかし蝋燭の火が消えた後になって、窓がまだ半分開いたままであることに気づき、暗闇の中で隣人にそれを尋ねるが返事がない。やむなくマッチを擦って、その明かりの下で同じことを尋ねると今度は明瞭な返事がかえってきた。そこでジヴァゴは「どうやらこの若者は明かりの下でだけ話すことになれているらしい」と考えて再び横になる。
翌朝になってジヴァゴはこの若者が聾唖者であることを初めて知らされる。聴覚によってではなく、眼で、人の咽喉の動きを見て話すことを習得した若い狩猟家だったのである。彼は暗闇では会話ができない。(そして小説ではこの若者がロシア革命時、脱走兵を主体にウクライナで二週間だけ続いた「幻の千年王国」の中心にいた「霊感に打たれてしゃべりだした聾唖者」の後の姿だと暗示される。古来、障害をもった者と奇跡はよく結びつけられる)。
翻って現代の「霊感を受けた」作曲家のスキャンダルに接して、そういえば昨年TVで彼のどことなく胡散臭い姿を見て、なぜいつも濃いサングラスを掛けているのか訝しく思ったことを思い出した。障害者ということでなんとなく納得してしまいがちだが、耳の聞こえない人間にとって、眼は外界と接するもっとも大事な器官であるはずだ。聾唖者は眼で人の口元を見て、人の言葉を理解し自らも語るのである。思うに彼はあまりに演技をしすぎたのではないか。有名であり続けるとは、なんと大変なことだろう。
小説の終章、ラーラと別れ、ストリーニコフの死を見届け、長い流浪の果てにジヴァゴは乞食のような姿でモスクワに戻ってくる。そして再び住みついた昔の家の門番の娘と一緒になり、アルバイトで薪を鋸で引く仕事に出るくだりがある。薪のストックをとある住宅の主人の書斎に運んでいると、主人は何か読書に夢中になっていて、彼らを見向きもしない。通りすがりに何にそんなに読みふけっているのかと思ってジヴァゴがそっとのぞいてみると、それは昔出版されたジヴァゴの詩集だった。このシーンは切ない。
以前読んだときの印象ではこのときジヴァゴはもう50歳を過ぎていたように思っていたが、小説中の年齢ではまだ40歳に届かないぐらいだった。そんなに若かったのか(つまり、それだけ自分が年を取ったのか)とちょっと驚いた。
パステルナークがノーベル文学賞を辞退した後に書かれ、死後に発表された晩年の詩篇に、次のような一節がある。
名声を得ることは 醜い
高みへ上げるのはそんなものじゃない
文書館をもうけて
原稿管理に心をくだくなど似ってのほか
創造の目的は 自己を捧げること
大評判でも成功でもない
何の意味も価値もないのに
多数の口の端にのぼるなど恥ずべきこと
(中略)
無名であることに沈潜すること
自分の足どりをかくすこと
一寸先も見えず
地形が霧の中にかくれるように
(「晴れようとき」工藤正廣訳)
ノーベル賞事件で一切の発表の場を奪われ、この言葉を人知れず記した詩人の気持ちが、この頃なんだかよくわかる気がするのである。
12/30(月)「詩を歌にすること ナナオ・石原吉郎・高田渡」
冥界にいるTよ。久しぶりに便りをする。実に長いこと書いてこなかった(一年半ぶりぐらいかな)。食うための仕事や日々の生活に追われていたこともあるが、ひとつにはネット上にこういう身辺雑記風の書き物を無際限に続けていくことに対する疑問があった。ひと昔前なら個人誌なり同人誌なり、限られた読者を相手に(つまりある程度顔の見える関係で)書いていたような事柄を、いまでは気軽にネット上で、不特定多数の読者を相手に発信することができる。昔なら限られた作家や表現者しか公けにできなかった個人の日記やプライベートな言説が、いまではネット上を無限に飛び交っている。こんなことは歴史上初めてのことだ。
しかし誰にでもオープンであるということは、逆に誰が見て読んでいるのかわからないということでもあり、ときどき思わぬ方向からとんでもない反応が返ってきてぎょっとしたりする。それを覚悟の上で、原稿料をもらうわけでもなく、どこまで好きで書き続けていくのか? コンピューター・ウイルスだけでなく、ネット上の個人的な言説の発信にも、いつまでもナイーブなままではいられないなとこの頃思うようになった。
もうひとつはね、書くかわりに歌っていたんだよ。こんなに歌にはまったのは、はるか昔の中学生の頃、おまえと夜の学校の塀に登り、岡林信康の歌をがなって以来のことだと思う。還暦間近の遅れてきたオールド・フォークシンガーというわけさ。
きっかけはやはり3・11だった。それまでもインド音楽はやっていたけれど、楽器の演奏が主で自分で歌うことはまずなかった。ところがたまたま顔を出すようになったライブ喫茶オーリアッドの三浦久さんから、ひょんなことからサカキナナオの詩を一度朗読してほしいと頼まれたのが二年前の夏。ちょうど毎日のように原発の半径10キロ圏内、30キロ圏内、100キロ圏内という数字がマスコミを騒がせていた頃だった。ナナオの代表作「ラブレター」を読み返してみると、見事にそれへのアンチテーゼとなっている。というより、本来ありうべき土地と空間の姿をこれほど見事に描き出している詩を他に知らない。昔から好きな詩だったし、塾の子どもたちと読んだこともある。ナナオ本人にも、「どうしてこの詩を誰も歌にしないんでしょうか?」と聞いたこともあり、どうせならこの際自分で曲をつけて歌ってみようと思ったのが始まりだった。久々にボロギターを取り出してコードを手探りし、曲をつけて歌ってみたというわけだ。
ところが一曲歌ができるとまた他にも歌ってみたくなり、たまたま病院の夜勤を辞めて暇だったこともあり、山で暮らし始めた原点に戻った気分で、生坂村在住時代に書かれたナナオの詩に少しずつ曲をつけていった。同じ谷の廃屋に暮らしていたご縁から、その頃の詩は体感としてよくわかるものが多いからね。つい最近亡くなったばかりの老詩人へのオマージュの気持ちもあった。これは結構楽しい作業で、朝、犬の散歩をしながら浮かんできた曲のフレーズを口ずさみ、少しずつ歌を膨らませていく。戻ってきてギターでコードをつまびき、テレコに吹き込む。新しい曲ができあがると週末のオーリアッドのオープンマイクへ行き歌わせてもらい、だんだん自分のものにしていく。ナナオの詩の効用はね、歌っていると自分の心が素直になっていくことだな。こうして、「ラブレター」「七行」「酢で」「はたらき」「すばらしい一日」「カルテ」などの詩が歌になっていった。
一方、ある程度ナナオの詩を歌いこむようになってくると、今度はナナオの詩とまったく対極にある石原吉郎の詩が妙に思い起こされてくるようになった。3・11の後、これで世の中少しは変わるんじゃないかという期待が急速にしぼんでいった去年の夏頃からだろうか。二十代の頃、あれほど入れこんでいた詩人なのに、ラーゲリ体験を突き詰めた救いのない思考に行き詰まりを感じてインドへ高飛びして以来、長らく遠ざかっていた石原吉郎の詩句が、こんな時代だからこそ新たな相貌を帯びて自分の前に甦ってきた感じだった。久々に詩集を紐解いてみると、特に初期の詩篇には詩人自らがどこかで述べていたと思うが「ある種の流れるような独特のリズム」が常にあって、それに音感のチューニングが合うと自ずから曲が立ち上がってくるという按配だった。こうして「橋をわたるフランソワ」「伝説」「自転車にのるクラリモンド」「くしゃみと町」「酒がのみたい夜」「葬式列車」などの詩に曲がつけられていった。
石原吉郎の場合も曲ができるとオーリアッドに歌いに行ったが、これはナナオのときとは反応が違い、詩が抽象的にすぎていまひとつ歌い手の気持ちが聞き手に伝わらないもどかしさがあった。
例えば「酒がのみたい夜」は昔から好きな詩で、冒頭の「酒がのみたい夜は/酒だけでない/未来へも罪障へも/口をつけたいのだ」というフレーズが、一人で飲んでいるときなどふっと口をついて出てくることがよくあったが、この「未来へも罪障へも」という言葉が歌を聴いているだけではなんだかよくわからないという感想をもらった。「罪」ならまだわかるけど「罪障」と言われてもぴんとこない、と。なるほどそう言われればそうかなと思い、いろいろと原詩をわかりやすく省略化して歌ってみたりしたのだが、どうもぱっとしない。そんなとき、この「酒がのみたい夜」はずっと昔に高田渡が歌にしてステージでもよく歌っていたことを初めて知った。石原吉郎の詩を誰かが歌にしているなんて、それまで全然知らなかったんだよ。そこでCDを取り寄せてじっくり聴いてみると、高田渡の場合、原詩を大胆に書き変えて、ほとんど自分の詩にしてしまっている。とくにぼくがさんざん悩んだ「罪障」という言葉は、それ自体をカットしてしまっている。プロの歌い手というのは、ここまでやるのかとちょっと驚いたな。
参考までに、石原吉郎の原詩と高田渡のバージョンを次に載せておこう。
「酒がのみたい夜」 詩・石原吉郎
酒がのみたい夜は
酒だけでない
未来へも罪障へも
口をつけたいのだ
日のあけくれへ
うずくまる腰や
夕ぐれとともにしずむ肩
酒がのみたいやつを
しっかりと砲座に据え
行動をその片側へ
たきぎのように一挙に積みあげる
夜がこないと
いうことの意味だ
酒がのみたい夜はそれだけでも
時刻は巨きな
枡のようだ
血の出るほど打たれた頬が
そこでも ここでも
まだほてっているのに
林立するうなじばかりが
まっさおな夜明けを
まちのぞむのだ
酒がのみたい夜は
青銅の指がたまねぎを剥き
着物のように着る夜も
ぬぐ夜も
工兵のようにふしあわせに
真夜中の大地を掘りかえして
夜明けは だれの
ぶどうのひとふさだ
「酒が飲みたい夜は」 曲・高田渡
酒が飲みたい夜は 酒だけではない
未来へも口をつけたいのだ
日の明け暮れ うずくまる腰や
夕暮れとともに沈む肩
血の出るほど 打たれた頬が
そこでもここでも まだほてっているのに
うなじばかりが まっさおな夜明けを
まっさおな夜明けを待ち望んでいる
酒が飲みたい夜は ささくれ立った指が
着物のように着た夜を剥ぐ
真夜中の大地を 掘りかえす
夜明けは誰の ぶどうのひとふさだ
酒が飲みたい夜は 酒だけではない
未来へも口をつけたいのだ
日の明け暮れ うずくまる腰や
夕暮れとともに沈む肩
……ここまで渡さんがやってしまっているのであれば、この期に及んでぼくが下手な書き変えをしてもしょうがないなと諦め、ぼくはやはりたとえわかりにくくても原詩のまま歌おうと決めた次第である。だってね、読むたびにこの詩のどこにぞくぞくするのかというと、「未来へも罪障へも/口をつけたいのだ」という、まさにこの「未来」と「罪障」というアンビヴァレントな二つの言葉の響き合いにあるからだ。いくら歌にするためとはいえ、詩のキイワードとも言える「罪障」という言葉を削ってしまっては、原詩の持つニュアンスが半減してしまうと思うのだがどうだろう。アル中で逝ったおまえにそれを聞くのは酷だろうか。いずれにしろ原詩のオリジナリティを大切にするか、歌としての伝わり方を大事にするか、他人の詩に曲をつける場合、その辺がどこかで問われるんだな。(ちなみに高田渡には、もうひとつ石原吉郎の詩に曲をつけた「さびしいといま」という歌があって、これも結構抽象度の高い詩なのだが、こちらは原詩を一言一句変えることなくそのまま歌っている)。
さて今回はこんなところにしておくよ。そのうち、満月の夜にでも歌を聞きに地上に降りてこないか、冥界にいるTよ。
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