9/8(土)「ラスト・ヒッピー・スタンディング?」
(その後いろいろと思うところがあり、この稿は全文削除しました。「ヒッピー幻想」の実態についてはいずれきちんと書くつもりですが、いまはタイトルに疑問符だけ付けて残しておきます。 08・3/2)
8/29(水)「皆既月食」
昨日はそれまでの好天とは打って変わった曇り空で午後には雨もぱらついた。気温こそ30度を下回ったが湿気も多く、何か心身ともに重苦しくて落ち着かない。この天気では月食は無理かなと思ったが、夕方建築中の家の現場まで犬の散歩に出ると西から晴れてきた。ここは村はずれの畑の真ん中で月や星を見るには絶好の場所である。東の空には相変わらずどんよりとした雲がかかっていたが、西山が晴れれば天気も回復するかもしれない。そう思っていったん家に戻りビールなど飲んで出直してくると、天竜川をはさんで東側、向こう正面の南アの山々の頭上に、ほぼ地球の影に入りぼんやり赤みを帯びた月が雲の合間から見えてきた。その麓では雷がところどころで白く光っている。作りかけの玄関に腰を下ろして、しばしその眺めに見入った。
人々がかくも月食や流星の出現に一喜一憂するのは、それらを実際目にすることで、自分たちが自転や公転を繰り返す宇宙の法則の下で太陽系宇宙の地球という星に現にいま生きているという当たり前のことを、いやでも実感するからだろう。逆に言うと、いかにふだんの我々の暮らしがそういう実感からかけ離れたところで営まれているかということでもある。
ところで前回日本で皆既月食が見られたのは6年半前の2001年1月10日だったという。9月11日の米国同時多発テロのあった年だが、冬だったせいかまるで自分の記憶にない。というより生活に追われ、月食など眺める余裕のない暮らしをしていた時期だったからかもしれない。そのさらに前、山の廃村に住んでいた頃やインドの旅で見た月食のことはいまでもよく覚えているのだから不思議なものだ。
1時間ほどして家に戻り、遅い夕食を済ませてから東京の実家に電話を入れると、東京はものすごい雷雨で月は見られないとの由。そうかさっき見たあの雷は東京方面で光っていたんだなと納得する。その後月はまた地球の影を抜けて次第に明るく満ち、昨夜の伊那谷は煌々とした光が照らす素晴らしい月夜となった。
8/21(火)「コバラム村の影法師」
伊那谷も酷暑が続いている。先日も炎天下、頭にタオルを巻いただけで畑の草刈りをしていたら、危うく熱中症になるところだった。いつもの悪い癖で、なまじっかエンジン式の刈り払い機など使うと、作業の乗りに入ってしまって半端でやめられなくなる。汗びっしょりになって家に戻り、何度もシャワーを浴びて頭を冷やしたが、半日頭痛が続いた。
しかしこう暑いとどうしてもインドを思い出してしまう。ことにハーブクッキーなど食べて真昼の山の林道を歩いていたりすると、白く乾いた地面にくっきりと映る自分の影法師があまりにリアルで、光と影の織りなすだんだら模様に見入ってしまう。そしてそれが一人歩きを始めそうな錯覚に捉われる。ドリアングレイではないが、影法師だけはある時点から歳を取っていないようだ。その錯覚に身をまかせて炎天下の山道を歩き続けていると、いつのまにか四半世紀前の南インド・コバラム村へと時空がワープしてしまい、南国の椰子の木陰道を歩いている影法師が目に浮かんでくる。
影法師の一人はジーパンをちょん切った半ズボンに洗い晒しのTシャツ、足にはビーチサンダルを突っかけ、赤いスカーフを頭に巻いている。もう一人の友人は緑色のルンギーを腰に巻き、真っ黒に日焼けした上半身は裸のままだ。あだ名をトロンパと言った。トランペットをリュックに詰めてあちこち旅してきたからそう呼ばれるのかと思っていたが、本人に言わせるとトレッカーの間でヒマラヤの難所として知られるトロンパス峠を一日で越えたからそう呼ばれるようになったのだという。二人ともビーチの茶店でたっぷりジョイントを吸った後、どちらが言い出したのか隣村のバザールにうまいボンダ(団子風の揚げ菓子)を食わせる店があるから散歩がてら歩いて行ってみようということになった。バスでなら15分ほどの距離である。海からの風はさわやかだったが陽射しは強烈で、ビーチの砂浜も裸足では長く歩けない。生卵をしばらく砂に埋めておくと、半熟の卵ができあがった。
ココ椰子の木陰道を歩いているうちに、さっき吸ったジョイントがすっかり効いてきて夢うつつ状態に入り、歩いている自分が本物なのか地面に映る影法師の方が本物なのかだんだん区別がつかなくなってきた。周囲にはどこまでも背の高い椰子の林が広がっている。ふと気がついたら二人ともすっかり前後の時間感覚を忘れて道に迷ってしまい、炎天下のどこをどうさ迷い歩いたのか、同じ道を何度も行きつ戻りつした挙句、数時間かけてまた振り出しのコバラム村に戻ってきた。丘の上から椰子の葉で屋根を葺いた見覚えのある漁師小屋を目にし、ビーチの砂浜に打ち寄せる波の音を耳にしてほっとしたことが昨日のことのように思い出される。
その小さな漁村ケララ州コバラム村も、その後激しい観光開発の波に洗われ、すっかり変わってしまったらしい。欧米や日本からの観光客の急増に伴い、次々に新しいホテルやレストランが建ち並び、観光客の出すゴミや残飯などがビーチの端に山のように積み上げられ、あるいは川に投棄されて、深刻な病気が発生する事態にまで至った。90年代半ばから観光客の流れは鈍くなり、2000年には全盛期の半分近くまで観光客の数は落ち込んだという。そんな話が環境問題の典型として、なんと大学受験の入試問題に載っていたと、夏期講習で高3に英語を教える女房が先日教えてくれた。
トロンパとは帰国後も何度か会ったが、まもなく南米へ渡り、ボリビア辺りから手紙をもらったのが最後で音信が途切れた。また日本へ戻ったら今度は堅気になって旅行代理店にでも勤めるよと言っていたが、今頃どこでどうしているだろうか?
8/11(土)「明の森と暗の森」
山を歩いていると、ある地点を境に人間界を離れて異世界に深く入ったなと感じる瞬間がある。人間の力よりも自然界の掟が支配する領域に足を踏み入れた感じとでも言おうか。先日も池山から空木岳にかけての森を歩いていて、そういう感じを強く持った。池山小屋近くの水場を過ぎて空木岳登山道を直進すると、それまでのカラマツを中心とした明るい雑木林から、昼なお鬱蒼として暗いコメツガとトウヒの原生林帯へと入る。するといきなり世界が暗転して別次元の領域に入った感覚にとらわれる。ひんやりとした空気と、辺りを取り巻く静寂さの中に潜む獣の気配。ここまでくると市民社会の強ばりから解放されていつも深い安堵のため息をつく。以前カモシカを見かけたのもこの森だった。ここからが本当の奥山なのだろう。
この森が好きなのは、そんな北斜面に広がる鬱蒼とした針葉樹林帯の急坂を登りきると、今度は尾根の向こう側の南斜面にダケカンバの明るい森が忽然と開けてくるからだ。みごとな明と暗の対照だ。尾根をはさんでぐるっと一周すると、この両方の森の雰囲気をじっくり味わうことができる。
尾根筋をもう少し登ればマセナギと呼ぶ切り立った崖上の見晴らし地点(標高約2000m)に出て、塩見から赤石・聖岳に至る南アルプス南部の山々を見渡すこともできる。ぼくの場合、だいたいそこまで登って一息入れてからダケカンバの林をゆっくり下り、野生動物観察棟で昼寝などしてから下山するというのが、とっておきの夏の日帰りコースである。
(ただしダケカンバの森の小道はこのところすっかり笹藪が茂って歩きにくくなっているのが残念。国から予算をもらって「20世紀市民の森」の一環として道を付けたのなら、森の整備もボランティア頼みにしないで、きちんと行政で予算を組んで草刈りぐらいしてもらいたいところだ。池山への道もすっかり藪ってしまっている)。
7/26(木)「ナナオと実さん 老いるということ」
「えっ、これがあのナナオ? すっかりお爺さんになっちゃって…」
世界をまたにかける放浪の詩人ナナオサカキがしばらく大鹿村の知人宅に滞在していると聞き、先日、女房の芳枝が会いに出かけた。そのときのスナップが出来上がったので、見せてもらった。ぼくは十年前に飯田のお寺で詩の朗読会があったとき久々にその威風堂々とした姿や張りのある声に接してナナオ健在を印象づけられたが、あのときの面影はもはやない。関東大震災の年に生まれたというから、ナナオも今年で84歳。写真で見る老詩人の目は、どこか虚ろで往年の輝きを失っている。肩まで垂らしたライオンのような白髪と髭、カルフォルニア製のしゃれたTシャツと半ズボン姿は相変わらずだが、その目はもう自らの内側を見つめているようだ。二十年ぶりに詩人と会った芳枝は、会うなり「あ、これはもう昔のナナオじゃない。とてもポエトリー・リーディングなんか無理だ」と思ったそうだが、その感じがよくわかる。
(左・内田ボブ 右・ナナオ 大鹿村で)
彼女がわざわざナナオに会いに出かけたのは、もうひとつ理由がある。ナナオが昔親しくしていた池田実さんの消息を確かめたかったからだ。
我々はナナオの元々の知り合いだったわけではなく、東京を出てから三年ほど暮らした生坂村の清水平にある山の中の一軒家に、ナナオたちが偶々その前住んでいて、そんなことからときどき顔を合わせるようになった。いわば地縁の関係である。
その地縁につながる共通の知人に、清水平の2キロほど山の上に住んでおられた実さんがいた。年はナナオより十歳上の古老だったが、我々のような都会から流れてきた余所者にも山の隣人として親身に対応してくださり、何かとお世話になった。実さんは我々が清水平を出てまもなく、体調を崩して松本の市街地に住む長男夫婦の家に引き取られていった。その後年賀状のやり取りなどは続いたが、目を悪くされていたこともあり、年々書体が崩れ、葉書の字を判読するのがむずかしくなり、嫁さんが代筆で賀状の返事を寄越した年を最後に音信が途絶えた。(一度松本のお宅でお会いした頃の実さんが、ちょうどいまのナナオと同じ位の老齢で、すっかり好々爺になられたものの、山で暮らしていた頃の精悍さはもはやなかったことを思い出す)。
芳枝がナナオに確かめると、実さんはやはりもう亡くなっていたことが判明した。「ひとつ残念だったのは、彼が山で死ねなかったことです」。やはりあの崩れた字は何ものかだったのだ。
戦中派のナナオと実さんは我々にはまたうかがい知れぬ心の交流があったようで、片や世捨て人のビート詩人として、片や過疎の山に住む百姓の古老としてお互いにその生き様を認めていたところがある。ナナオの「廃屋」という詩をあしらって実さんが描いた山水画を、詩人がニューヨークのエンパイヤステートビルの屋上で掲げた写真を実さんは額に入れていつも大事にしていた。ナナオの詩も、清水平で家族とともに暮らしていた頃の詩がいまでもひときわ輝きを放っていると思う(→「ラブレター」)。
実さんから聞いた話でいまでも覚えているエピソードがある。ナナオの父親が亡くなったおり、鹿児島の実家から電話があり、ナナオに取りついでくれという。電話のない清水平に知らせにいくとナナオがやってきて、実家とやりとりをした。七人兄弟の末っ子であるナナオは、ことのほか父親に可愛がられていて、遺産を全部譲ると言われたらしい。さて、どうしたものか。実さんに相談すると、「ナナオさん、あんた詩人なんだから、いまさらそんな財産なんて放棄しちゃいなさい」と言われ、ナナオはその通り実行したという。
もうひとつ覚えていること。実さんはナナオに、「あなた宗教やれば教祖になれるよ」とよく言ったそうだが、どこまで持ち上げられてもナナオは決して宗教には手を染めなかった。スピリチュアルムーブメントの広がりの中で、日本でもこれだけ「ミニ教祖」が林立しているいま、どこまでも一介の詩人であり続けるナナオの存在は異色ですらある。
しかし知人の家を転々として居候暮らしを続け、まるで江戸時代の俳人井月の晩年のようになってきたナナオが、これからどう自分の生を締めくくっていくのか? それは神のみぞ知る。
(*実さんについては、以前こちらにも書きました→「囲炉裏への挽歌」)
7/22(日)「ビンディの話 入笠山で」
山上界と下界ってほんとうに違うもんだなと思う。昨日の昼、南ア北端の入笠山へ車で行ったとき、市街地は薄曇りだったが、牧場より上は濃い霧にすっぽりと蔽われていて10メートル先も見えないぐらいだった。湿気冷えで寒く、熱いお茶がほしくなる気候だ。
そんな天気の下、山頂直下の森では「白いアナグマの祭り」の火の儀式が秘教的な雰囲気の中で執り行われていた。去年は、入笠山の尾根に計画されていた巨大な風力発電事業への反対運動として有志が集まって行われたキャンプインだが、今年は人間と自然界の調和を祈って、インドのとあるアシュラムから来日したセレモニーチームがヒンドゥー教のグル・ババジから受け継いだ火の儀式を執り行うという。行く途中なぜか車が故障してしまい修理に手間取り、「ハーレークリシュナ、ハーレーラーマ」と繰り返し歌う最後のバジャン(神の賛歌)にしか間に合わなかった。だがよく見ると、テントの下でハーモニウムを弾きながら儀式を司る白い髭もじゃの温厚そうなリーダーも、歌をうたう女性も服装はインド服だが西洋人だった。日本人の男性が両面太鼓を叩いてリズムを刻んでいる。
歌が終って皆ぞろぞろと立ち上がるところを見たら、20人ほどの参加者全員が額やおでこにヒンドゥー教への帰依をしめすビンディという赤い色粉をつけていたのに気付き、あれっ?と思う。だって参加者の半数以上は顔見知りだが、ふだんはネイティブ・アメリカンの儀式や、シュタイナーやキリスト教神秘主義、日本の新興宗教に参加している者などいろいろだからだ。まさか皆ヒンドゥー教に改宗したわけじゃあるまい? 後れてカメラ片手に聖なる囲いの中に入ってきた伊那在住のオーストラリア人ピーターは、靴を脱ぐように注意されるとあたふたと会場を出ていってしまった。無理もない。彼はユダヤ教徒のはずだ。
ぼくは儀式の場に入るにあたって、合掌したり裸足になることは厭わないが、いきなりビンディをつけられることにはためらいを感じる。もっと早く来て、その場面に立ち会ったらどうしたろうかと思った。藤原新也は若い頃インドでこれを塗られることにとことん抵抗して喧嘩にまでなった話を最近の本にも書いているが(「黄泉の犬」)、ぼくは逆に20代の頃はインドのお寺やアシュラムで額に赤い粉や灰を塗られるのにそんなに抵抗は感じなかった。むしろそういうかたちでインド世界の奥深くへ入っていける錯覚に恍惚としていた面もある。しかしオウム真理教の事件があってからは、醒めるべきところは醒めていないとやばいなと思うようになった。あらゆる宗教は帰依を要求する。しかしロゴス(理性)で抵抗できるところは抵抗する。それでもなお入ってくるものがあったら、それは運命として受け入れる。廃村で暮らしていた頃、自分がオウムであっても決しておかしくなかったと戦慄を覚えた身にとって、それが必要なスタンスだった。スピリチュアリティを売り物にするイベントや儀式は、それぐらいいま伊那谷でも花盛りである。
帰りがけ、牧場を抜けたところで山道に入り、一息つく。昔この麓の芝平という集落に住んでいた頃、犬を連れてよく登ってきた道だ。晴れていれば正面に蓼科が拝めるのだが、霧で霞んで遠くは見えない。雑木林にもやう白い霧が幻想的な雰囲気を醸し出していてつい見とれてしまう。そこからゆっくり芝平峠を下り、山室川沿いの昔住んでいた家に立ち寄る頃には霧は上がっていた。ぼくの後釜でこの家に入った陶芸家のMさんは留守。去年の大雨で浸水した家は相当傷んでいたが、庭先を見ると、昔自分の手で植えた桜の木が、前見たときよりもぐっと巨木に生長していたのでうれしくなる。
伊那の市街地まで下りると、いつのまにか夏の陽射しが舗装路に降り注いでいた。
7/20(金)「高遠
本の家」
いやあやっぱり驚いたな。東京の人たちっていうのは、田舎の人間が絶対考えもしないことをやってしまうんだよね。その荒唐無稽さというか、向こう見ずな実行力というか、(かつてそうだった自分のことを棚にあげていうと)その「無知と勇気と金の使い方」に驚きかつ感嘆しました。
高遠町長藤に古民家を改造してオープンした「喫茶と古本 高遠本の家」のことです。首都圏に住むオンライン古書店などのメンバー6名が集まって、ウェールズの片田舎にある古本屋が集まった町「ヘイ・オン・ワイ」のような本の町を日本のどこかに創ろうというプロジェクトが進行しているのを知ったのは、つい十日ほど前のこと。(http://blog.goo.ne.jp/booktown_2007/m/200707)。しかもその第一号店が紆余屈折の果て、高遠にオープンするという。いかに世の流れに疎い私でも、かつて十年暮らした高遠にそんな店ができると聞けば関心も湧く。趣旨には大筋で賛同するし、伊那谷に住むオンライン古書店の端くれとして何か協力できないかと思い、店の場所をよく確かめた。そして、唸った。えっ、長藤の栗田? 杖突峠から街道沿いに下ってきたあの何もないところ? 町はずれならともかく、あんな半端な場所で店が成立するんだろうか? いったい誰を相手に商売しようというのだろう?
……といくつもの疑問を抱きながらも、百聞は一見に如かず。オープン当日の今日、足を運んできました。そして思ったのが上のような感想というわけです。太い柱や黒々とした梁に囲まれた店の中はいかにも東京の中央線界隈にありそうな文学書を中心とした渋い古本屋の棚揃え。BGMにはクラシックが流れ、ウォーホルや寺山修司のポスターが貼られた座敷に上がり込んでコーヒーを飲みながらごろごろ本を読んだりもできる。この周辺は昔宅急便のアルバイトで隈なく配達して回ったところでどんな田舎か知っているだけに、不思議な空間に迷い込んだような面白みがありました。
ともかくオープンしたからには、赤字覚悟で頑張って続けてもらいたいものです。駐車場がどこにあるのかすぐわからないのが難点だけど、この方面に来ることがあったら一見の価値はあります。(目立たない看板しか出ていないので、車だと見過ごしてしまう可能性あり)。営業時間は、平日15:00〜20:00/土日祝日10:00〜18:00/火・水曜定休。0265-96-2677。
7/8(日)「聖と俗のバランス」
昨夜仕事で遅くなったため、すっかり寝坊して昼近くなってから犬の散歩。梅雨の合間の晴れ間とはいえ舗装路はさすがに暑く、陽射しを避けて神社の境内に入り木陰で一息つく。狭いながらもご神木の杉の木立に囲まれた鎮守の森だ。伊那谷でも市街地ではもうこういうところにしか森は残されていない。結果として残された聖域。石段に腰をかけて、人間にはこういう聖なる空間がどうしても必要なんだなと物思いにふける。
この頃、ハレ(聖)とケ(俗)のバランスということをよく考える。どちらかにバランスが偏り過ぎると心身ともに無理が生じてどこかおかしくなる。若いときのようにぶっとんでばかりいても暮らせないが、市民社会はケがハレを圧倒している世界だから、意識してささやかなハレの場を作っていかないと窒息してしまいそうになる。決してスクエアをバカにしているわけではないが、スクエアにバカにされてもいけない。だんだん歳を取ってくると、どういうふうにこの聖と俗のバランスを自分の中でとっていくか、あるいはそれをうまくキープしていけるか、その辺が長生きの秘訣なんじゃないかという気がしてくる。
我々には子どもがいないし、地球の将来を信じてもいないし、とくに長寿を望んできたわけではないが、いま建てている家の一反ほどの土地の周囲に木をたくさん植えたので、もう少し長生きをしてそれらが大きくなるのを見たいという希望が出てきた。
借家暮らしの辛いところは、何といっても庭に木を植えてもその生長を最後まで見守ることができない点にある。以前住んでいた入笠山の芝平という廃村でも庭に桜を植えたが、住んでいる頃はまだ小さな蕾をつける程度だった。しかし山を降りて何年かたってから春に訪ねてみると、自分の背丈ぐらいだった若木がすっかり大きくなって頭上に満開の花を咲かせていたので胸が熱くなった。今度はそういう思いをしなくても、生きている限りは木の生長を見守れるのがうれしい。
桜はもちろん、梅、桃、カリン、枇杷など実のなる木をはじめ、沈丁花、リラ、ハナミズキ、コナラなど苗木を見つけてきては手当たり次第に植えていった。長らく放置されていた土地だったためヨモギやスギナの根っこが一面にはびこっていて植え付けには難渋しているが、もともとは神社の上の雑木林だったところである。自分たちが死んだら、いずれは木々が繁り森に還っていけばよい。そう思うと何か元気が出てくる。
東京世田谷のはずれに鬱蒼としたくぬぎの森を残した徳富蘆花の恒春園だって、移り住んだ当初は周囲に何もない吹きっさらしの土地だったという。蘆花のように、死して自分の土地に聖なる空間=森を残せたら…と思う今日この頃である。
7/1(日)「棟上げ」
春から建て始めた家がようやく棟上げまでこぎつけた。ビルダーの面々を誘って、中間祝いの食事会をする。現場を任せている大鹿村のシャイアン、プレム、豊橋から来ている一歩の三人組はフリークの間ではよく知られる古株だが、全員50代で背中まで垂らした長髪には白いものが混じる。「こんな感じで頼まれて、チーム組んで人の家を建てるのも最後になるかもしれないな」とは棟梁のシャイアンの弁。しばらくログ材の杉の皮むきをやってくれていた息子の風麻君も言っていたが、「ログを一軒建てると腰をやられるってみんなよく言うよ」。実際丸太は重い。よく乾いた輸入材のキットならともかく、山から伐り出したばかりの国産の杉の丸太を使っているから、余計重い。ぼくも風麻君と一緒に皮むきを少し手伝ったが、まだ生ま乾きの頃だったから仕上げた丸太をよいしょっと持ち上げて転がすだけでうっと腰にきた。ログ積みの作業に入ってからも、低予算のためクレーン車など使わずに全部人力でやっているから大変だった。いつかも現場を見に行ったら、小さな滑車を横木に取り付けてそこにロープを通し、一階の天井の梁に使う太い丸太を3人がかりで持ち上げている場面に遭遇した。さすがにシャイアンもちょっと照れて、「いまどきこんなことやっているのは俺らだけだろうな」と笑っていた。「もうほとんどインドの世界だね」とぼくも笑うしかなかった。
横には飯場用に小さなパオも張ってあるし、そんな三人組がやっている現場だから近所の人が散歩がてらよく様子を伺いに来る。もちろんほとんどは冷やかしだが、なかには変わった人もいて、現場に泊り込みの一歩さんによると、「端材を少し分けてくれないか」と言ってきた爺さんと話をしていたら、昔シベリヤに抑留されていた頃、向こうでログハウスの建設に従事させられていたそうで、「丸太の間に苔を詰めると隙間ができなくてよい」という知恵まで披露してくれたそうだ。
二階は在来工法で建てるので、足場を組んでからはわりとスイスイ作業は進行しているようだ。ともかく大きな事故もなく、大雨が降る前に屋根が載ってよかったと皆で乾杯する。
6/26(火)「水争い」
雨の合間をぬって、近くの「かんてんぱぱガーデン」まで水汲みに行く。敷地内の一画に地下 130m から汲み上げた地下水の水飲み場があって、結構おいしい水なので重宝している。
山で暮らしていた頃から水汲みは日課のひとつになっていたし、水道のカルキ臭い水でまずいお茶を飲むことを思えば、水汲みの労そのものは厭わない。だいたい大きなヤカンに2杯。これだけあれば、夫婦二人一日に使う飲用水は足りる。だから以前はよくリュックにペットボトルなど詰めて、犬の散歩がてらぶらぶらと水汲みに出かけたものだ。
ところが「かんてんぱぱ」の水場は駐車場に隣接しているため、遠くから車で水汲みに来る人が年々増え、土日など長時間列を作って並ばなければならなくなった(中には名古屋から毎月高速道路で水汲みに来る人までいる!)。しかも皆汲んでいく水の量が半端でない。ペットボトル1ダースなんて当たり前。専用の水タンクで車の荷台をいっぱいにして帰る人も珍しくなくなった。無理もない。健康ブームの昨今、スーパーなどで有料で売られているミネラルウォーターがここではただで汲めるのだから。だがもともと一私企業が近隣住民と観光客のために始めたささやかなサービスである。これだけ人が集まる事態は想定していなかっただろう。誰かが水場を長く占有するようになれば、当然それをめぐっていざこざが起きる。水場はいつも殺気立った雰囲気に包まれるようになった。
それが嫌でしばらく「かんてんぱぱ」の水場からは足が遠のいていた。冬は落ち葉が堆積して使えなくなるとはいえ、家の近くの神社の下にもちょろちょろと湧き水が出ているし、何も水場は「かんてんぱぱ」だけではない。しかしさすがに会社としても考えたようで、去年道路を隔てた研究所の敷地内に新しくポンプを引いて大きな水場を設置した。今度は初めから水汲みを想定して水圧も強くしてあり、蛇口の数も増えた。おかげで以前のようにあさましい水争いをしなくてもすむようになった。そこでいまではぼくもほぼ週1回、車にペットボトルを積んで水汲みにきている次第。
そんなこともあり、いま建てている家の庭に井戸を掘れないかと思い、先日複数の業者に土地を見にきてもらった。3社のうち2社までが、掘っても無駄だという意見。残りの1社は50メートル以上掘れば出るという。工費は約150万円。よほど考えたが、すでに現場には道路を掘って仮設の水道を引いてあるし、これ以上冒険する予算はないから今回は見送ることにした。しかし山で暮らし始めて以来、いつも水に泣かされてきた女房の芳枝は諦め切れない様子で、「いつか生活が繰り回せるようになったら、私のへそくりで井戸を掘るから」と言ってきかない。
6/23(土)「あやめ園のスピーカー」
強烈な夏の陽射しだ。林道の白く乾いた地面の上に森の梢がくっきりとした影をつくる。真昼の裏山・物見や城。ふと昔歩いたインドの炎天下の道を思い出す。今年も空梅雨気味だ。こうして照るだけ照って、最後にどっと降るのだろうか。林道のところどころには、土砂崩れで斜面がえぐれた去年の大雨災害の痕がまだ生々しく残っている。
快晴の週末、豊橋から泊り込みでログハウス作りの手伝いに来てくれている一歩さんたちを誘って、そんな山道を登る。棘のある枝葉にぶらさがるキチイゴの実を見つけては手でもいで口に放りこむ。甘酸っぱい野生の味が舌の上に広がってゆく。1時間ほど歩き、山頂の物見や城で風に吹かれてから野田あやめ園へ。丘の湿地帯にあやめが群生しているところだが、一週間前に比べるとさすがにピークは過ぎた感じだ。花の盛りはあっという間だなと思う。それでもまだ辺り一面に青や白の花弁が首を垂れていて、見ているだけでも涼しい。今日も他に人は誰もいない。
ところでふだん無人のこのあやめ園では、野生の湿地帯が獣に荒らされないよう役場が知恵をしぼり、園内の数ヶ所にスピーカーを設けて、そこから時々奇妙な警戒音(?)が発せられる。今日も皆で木陰で雑談しながら涼んでいると、突然シュワシュワシュワ…という異音がスピーカーから響いてきてびっくりした。初めての獣はやはりこの音には驚くだろう。自然界では絶対耳にしない音だからだ。現に一歩さんが連れてきた雄の雑種犬アレックス号は、山で初めて聞くこの異音に怯えて木の下にうずくまっている。以前はこの後に続けて男の声で「オイ!コラコラコラコラッ!」という駄目押し音まで入っていて人間の方が驚かされたものだが、さすがに評判が良くなかったのかこの頃はあまり聞かなくなった。
アレックスの怯えた表情を見ていて、わが家の犬たちの反応を思い出した。以前飼っていたやはり雄の雑種犬ポンタの場合は、音が響いてくるとスピーカーを遠巻きにして吠えていた。そういう犬だった。いま飼っている雌の柴犬リラは、「オイッ、コラコラ…」という男の声が聞えてくると、逃げるどころか逆にスピーカーにすり寄って行って抱きついていた。さすがにこの頃は慣れてもうそんなこともしなくなったが、犬といってもそれぞれ個性があるものだなと思い出しておかしくなる。
6/13(水)山の景観(4)「御嶽と木曽駒の森」
目の前に雲を被った御嶽を拝みながら初蝉の声を聞く。右手には斑雪が残る乗鞍と穂高連峰。初夏の木曽駒の森から見ると、御嶽と乗鞍は夫婦のようにみえる。もちろん御嶽が男性で乗鞍が女性形だ。それにしても御嶽は大きい。独立峰でこれだけ大きな山は、たぶん日本では他にないのではないか。山頂部が噴火で吹き飛ばされる前は御嶽こそが富士山を抜いて日本一高い山だったという言い伝えがあるが、こうして目の前にその大きな裾野を広げた雄大な山容を眺めていると、その話がにわかに真実味を帯びて感じられてくる。実際、その台形の火口部の上に、かつてあったはずの山頂部を思い描いてみるといい。すると優に四千メートルを越える幻の巨峰がそこに出現して、その幻影にすら圧倒される。
二週続けて木曽にきた。木曽の森は深い。キビオ峠登山口から1時間ほど歩き、三合目の木曽見台で御嶽を仰ぎ見てから、原生林帯に入る。思わずはっと目が覚めるような森が広がっている。この苔むした巨木の数々。
同じ駒ケ岳でも、ロープウェイの通る伊那側ではこれだけ太い樹々はそんなに見かけない。木曽はそれだけ森の樹齢が深い。樹々の発する霊気が森全体に漂っている。登山口には「熊出没注意」の看板がかかっているが、決して冗談ではなく、この森のどこかに熊がいる、それを皮膚感覚で実感する。そこに足を踏み入れるだけで、畏れとも怖れともつかぬ緊張感を覚え、ぞくぞくしてくる。生き物としての野生に目覚めるのだろう。原初の森は人を正気に戻してくれる。
しかし去年まではこんなにたやすく伊那から木曽へ出てくることはできなかった。伊那の人間にとって木曽は近くて遠い隣の谷だった。間に中央アルプスという衝立がはさまっていたのだから。ところがその中アの山腹をくり貫いて権兵衛トンネルが開通したおかげで、伊那と木曽の距離は一気に縮まった。そういう意味ではありがたいトンネルだが、全部で四つあるうちの一番長いトンネル(全長4470m)にはカーブというものがまったくない。どこまでも真っ直ぐに続くコンクリートの回廊を車で走っていると、どこか抽象的な迷路のような世界に引きずり込まれていきそうになる。こんな真っ直ぐな空間は自然界には存在しない。だから運転していて緊張する(森で覚える緊張感とはまったく別種のものだが)。いつも原初の森に向かうために、人間の近代技術の粋を駆使して作られた巨大なトンネルという人工物を潜り抜けていかねばならない。何か矛盾を感じるけれども、いい悪いではなく、それがあるがままの現実だ。
ところでこれまで駒ケ岳、空木岳、越百山と伊那側から中アの山頂に三回登ったことがあるが、いつも木曽側はガスが出ていて一度も御嶽を拝むことができなかった。その念願の霊山御嶽をいまは家から1時間も車を走らせれば、いつでも気軽にサンドイッチなどつまみながら眺めることができる。やはり世界が広がったことは確かだ。
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