§囲炉裏への挽歌


 
山に住んで、囲炉裏を焚くようになって十年あまりになる。特にはじ
めの三年は電気のない家で暮らしていたので、それだけ囲炉裏の火の印
象は強烈で、いまだに記憶に焼き付いている。囲炉裏にはやはりランプ
の仄暗い明かりがふさわしい。電気の人工的な明かりと薪の炎とは相殺
しあうからだ。闇があってこそ光は輝くのだ。
 火想感という言葉があるが、ランプの下、炉端に座って火を見つめて
いると、誰もが根が生えたようになり、夜更けまでなかなか火の側を離
れようとはしなかった。
 薪の炎は時に踊ったり、泣いたり、笑ったり、怒ったりもする。燃え
て崩れゆく薪の一本一本が、それぞれの木が長い年月にわたって無言で
蓄えてきた内面の思いを炎として吐露しているかのように思えてくるこ
ともあった。
 王者の風格で、いつまでも静かに堂々と燃えるクヌギの赤い炎。それ
に対して白く明るい炎を立てて、どこまでも上品に燃えるケヤキには女
王の風情があった。ナラの暖かさと火持ちの良さは、人間なら壮年期の
男性の安定感を思わせた。ニセアカシヤは青年のように勢いよく燃えて
好きな薪だったが、燃え尽きるのも早い。クワは節やこぶだらけで薪割
りには手こずったが、結構火力があり煮炊きには便利だった。カラマツ
は火力が強いだけで、バチバチとはぜてすぐ燃え尽きてしまい、燠も取
れない。クリやクルミをうっかり炉にくべた日には火力が弱すぎて全然
暖まらず、ヤカンのお湯を沸かすだけでもひと苦労した。
 ひと口に薪の火と言っても、木によっていろんな性格や表情がある。
それはちょうど、木肌の感触や匂いや硬さ、枝ぶりや葉のかたち、実や
花の色がそれぞれの樹木によって異なるのと同じことだ。木は炎となっ
て燃えることにより、その生涯を終える。炎は木の生命と個性の証だっ
た。深夜、燃え残った燠火が暗闇に赤く明滅する様は、まるで森の子宮
のような、原始の火の胎動を思わせた。

          *

 安藤昌益は「人家の囲炉裏には宇宙の気の運行のすべてが備わってい
る。それはひとつの小宇宙である」という意味のことを述べて、独自の
自然哲学を論証しているが(「自然真営道大序」)、たしかにその通り
で、囲炉裏の灰(土気)の上で、薪、燃える火、鍋、煮水の四行(木・
火・金・水)が進退を繰り返しながら互いに関係しあって循環していく
姿は、一個の小宇宙を彷彿とさせる。その小宇宙を取り囲むようにして
毎日火を焚いて暮らしていると、家の中に囲炉裏という中心となる磁場
が自ずとできあがってくる。そして、この磁場を中心にして、物の配置
や人の座る場所などの生活空間が無理なく定まっていき、一日の暮らし
のリズムも、朝に晩に火を焚くことを節目としてゆっくりと回転してい
くようになる。火とともに家は呼吸をはじめ、火を落とすと家も寝るの
である。
 しかも煮炊きに使う囲炉裏の火は、同時に暖房にもなり、照明にもな
る。残った燠で、暖かいコタツもできる。木灰は畑の肥料になるし、洗
剤としても使える。何よりも屋内で火を焚くことにより、湿気を吸いや
すい木造の家屋がよく乾き締まって、家そのものが長持ちするようにな
る。昔の日本家屋というものは実にエコロジカルにできていたものだな
とつくづく感心した。その中心にあったのが囲炉裏なのだ。
 ということは逆に、火を焚かなくなれば、家も呼吸をやめる。それが
生き物としての家の宿命だ。一度葺けば百年は持つと言われる茅葺き屋
根ならまだしも、一世代に一回は葺き替えねばならない古いわら葺き屋
根など、山の中なら放っておけば十年もたたずに腐って落ちてしまう。
実際、信州の過疎の山村には、そうして朽ち果てた廃屋がゴロゴロして
いる。 
 たぶん囲炉裏の火とは、家の生命の炎であったのだ。この炎を朝に晩
に囲むことにより、ひとつ屋根に暮らすもの同士がお互いの温みを共有
しあい、顔をたしかめあう、それがひと昔前の日本の大家族の姿であっ
たのであろう。雨の日も晴れの日も雪の日も、つらい時も悲しい時もう
れしい時も、ともかくそうやって火を囲むことで成立していた日本の農
山村の大家族。おそらく現代の日本の〈家〉から消えてしまったものこ
そ、この囲炉裏の火に象徴されるような何かなのだ。

          *

 十年前、二kmほど山の上にMさんという古老が住んでおられて、薪の
ことや鋸の手入れの仕方などをいろいろと教わった。全部合わせても三
軒しか住んでいない典型的な山間の過疎集落である。何かわからないこ
とがあると、えっちらおっちら山道を登って行ってはMさん宅にお邪魔
をした。
 今思い起こしてみても、Mさんの家の古い囲炉裏には、長年使いこま
れたものならではの風格があった。冬の暇な時などに鋸の目立てを習い
がてら遊びに行くと、「さあさあ、ま、火にでもあたりましょう」と言
って、よく乾いたクヌギやナラの太薪を抱えてきて、惜し気もなく囲炉
裏にくべてくれた。そして柴をほんのひとつかみ使うだけで、まるで職
人芸のようにポッと火を点けてしまう。ふだんから湿り気味の細薪で煙
ばかり出して焚き付けには苦労していたぼくは、これだけで思わず嘆息
してしまうのであった。
 それから自在鉤に鉄瓶を吊るして火にかけ、お茶を飲みながら四方山
話にふけるのだったが、話に夢中になってくるとMさんは、時には火箸
で囲炉裏の灰に地図を描いて説明を加えたりした。
 ………あの時、川中島で上杉はなぜあのような陣の立て方をしたのか
? そこのところがいまだによくわからない。それで一方の武田の方は
というと、ここにこういうかたちで陣取って……… などと話を続けな
がら、薪が少し煙ってきたなと思うと火箸で突いてひょいと向きを変え
る。そうすると火はまた勢いよくメラメラと燃え上がり、鉄瓶からも湯
気がシュッシュッと吹き出すのであった。
 こうして、山の中に閉じこめられたような冬の一日を暖かい囲炉裏の
前で過ごしていると、いつのまにか夕闇迫る時刻になってくる。「じゃ、
そろそろこの辺で」と腰を上げると、Mさんは「少し菜っ葉でも持って
いきましょう」と言って、自家製の野沢菜漬けや白菜などを帰りに持た
せてくれるのが常だった。
 そんなMさんの家を、現在の地へ引っ越してから、久しぶりに訪ねた
ことがある。あらかじめ連絡してあったので、Mさんは裏山で野生のヒ
ラタケをたくさん採ってきて、ごちそうしようと待ち構えていてくれた。
ところが、ふと囲炉裏の方を見ると、もう秋だというのに板で蓋がして
ある。Mさんの囲炉裏に蓋がしてあるのは、この時初めて見た。思わず
何か胸騒ぎを覚えたが、Mさんはというと、電気ゴタツにあたりながら、
「農協にプロパンを至急届けるように言ってあるんだが、まだ持ってこ
ない」と落ち着かない様子である。そしていつまでたっても、一向に囲
炉裏を焚く気配はない。
 奥さんは病院暮らしで、日頃からほとんど一人暮らしのMさんである。
そういえば以前、腰を痛めて、薪集めも思うようにいかないとこぼして
いたことがあったっけ……。血圧も高くなり、町に住む長男が時々病院
まで送り迎えしているとも聞いた。結局、その晩はとうとう囲炉裏は焚
かれずに、話も弾まないままMさんとはお別れした。
 それから間もなくのことである、Mさんが山を降りたと聞いたのは。
その時、咄嗟に思い浮かべたのは、あの板で塞がれた囲炉裏のことだっ
た。長年、山で暮らしてきた老人にとって、火が焚けなくなることは、
山に住めなくなることを意味する。その後、Mさんが身を寄せたという
市街地にある長男夫婦のお宅を訪ねて行ってみたが、新建材のピカピカ
磨かれた洋間で対面する、かなり耳の遠くなったMさんは、すっかり好
好爺になられたもののどこか場違いな雰囲気で、お互い何となく手持ち
無沙汰で、あまり話をすることもなかった。

          *

 今時、周囲を見回してみても、日常的に囲炉裏を焚いている家など、
ほとんど見当たらない。それも仕方のないことだ。この原子力とコンピ
ューターの時代に、囲炉裏を焚くような暮らしと市民社会の生活とは、
どうしても折り合えないからだ。気の遠くなるような歳月をかけて築か
れてきたものが、崩れていく時のスピードは早い。家の中心は、囲炉裏
からテレビにすっかり取って代られた。かくいうぼく自身、いろんな事
情から今年で山を降りることになった。これで囲炉裏の火ともいよいよ
お別れである。

(1997秋) *平成十年度 第四回小諸・藤村文学賞優秀作

→戻る