トラヴェル・ミステリについて
地図をどんなに精密に探してもドーセット州の沿岸にコーシイ島なる島、
そしてそこにあるヴィクトリア風の城館なるものを発見する事はできないでしょう。
どちらも、作者と読者の間でのみ現実性を持つものだからです。(P.D.ジェイムズ「皮膚の下の頭蓋骨」)
「瀕死の探偵」というサイトで偶然、有瀬慎二氏と火曜サスペンスなどの最近の推理ドラマの話題になった。彼が言うには「愚にも似つかない刑事やたまたま事件に遭遇して解決しようと企むおばさんは全然面白くないです。トリックも大したことないし。」と言ったのだが、僕の意見と少し違う。火曜サスペンスが詰まらないと言う意見では同じなのだが、僕が問題にしているのは本来、事件にウェイトがおかれるはずの推理小説が「観光案内」にウェイトが置かれている、という点だ。
トラヴェル・ミステリと言うのは本来、有栖川有栖の「マジック・ミラー」のように時刻表を使い、アリバイを崩すもの、ポーツマスが英と米の二箇所にある事を利用した聞き間違いによるトリック、有栖川有栖の「海のある奈良に死す」のような独特の地形を利用したトリックなどがある。しかし火曜サスペンスを見ていると、どこでも出来るようなトリックなのにあえて観光名所でやる場合が多い。また、有瀬氏が指摘しているように、トリック自体も非常に薄っぺらいものが多い。あるいはトリックそのものすらない場合もある。
これでは本末転倒で、観光案内がメインだという指摘が来ても仕方ない。しかしミステリを書くに当たり、現地取材はしなければならないという疑問が沸いてくるだろう。そうではない。実際、ポオは「モルグ街の殺人」を書いた時に仏国へ取材へ行ったのだろうか?当時のポオも経済状況からしても仏国へ行けなかったものだと考える。しかし、「モルグ街の殺人」は百年以上経った現在でも推理小説の古典として愛されている。
また、トラヴェル・ミステリでも名探偵コナンの「南紀白浜ミステリー・ツアー」は観光よりもトリックにウェイトを置いて、観光案内と言うイメージは全くない。今の火曜サスペンスを見ていると十返舎一九の「東海道中膝栗毛」と内容的にほぼ変わらない。
スポンサーがJRなのである程度、観光が入っても仕方ないかも知れない。しかし火曜サスペンスは「観光案内」の度合が大きすぎるように感じられる。推理小説とは前述したように数学のエッセンスが詰まっているのが本来の姿と思う。決して「観光」のエッセンスなど含まれてはいないのだ。
最近では「トリック」等、“本来の”推理ドラマもあるがまだまだ知名度が薄いし、倒叙(最初に殺人が起こり、その後、探偵役が犯人を推理すると言う手法)が新鮮に感じられ、かつフェアな勝負だった古畑任三郎は終わってしまった。
ゲームでは「逆転裁判2」が発売され、フェアな勝負が好まれるようになってきた。*オンラインで発表されている推理小説は、「富山探偵事務所」、「幻影書庫」のようにフェアな勝負をしているものもある。うかうかしていると「観光案内」の推理ドラマはゲームや、オンライン小説に内容面で座を奪われる事になるうかもしれない。
*こちらの記事に関しては僕が前に書いた「ゲームから見る本格派復興」参照の事
参考文献