東京ばたばた日記 

2001年10月19日(金)〜21日(日)

 ▼二紀展自由美術展独立展創画展
 ▼MOMA展小川マリ安田侃カラヴァッジョ展手探りのキッス―日本の現代写真
 ▼川俣正高橋三太郎20世紀イタリア美術村上隆
 ▼キリンアートアワード横浜トリエンナーレ

 美術館で大幅に時間を食ってしまった。
 さて次は、上野の森美術館で開かれている、MOMA ニューヨーク近代美術館名作展(10月6日〜来年2月3日)。
 MOMAの愛称で知られる同館が改装中という機会を利用して、ふだんは門外不出の名作をいっきに貸し出したという展覧会で、19世紀終わりから20世紀半ばまでの絵画と彫刻計75点を紹介している。
 確かにすごい。マティス18点、ピカソ11点、ほかにもアンリ・ルソー、ブラック、ゴッホ、セザンヌ、ボナール、クレー、カンディンスキー、ミロ、デュシャン、シャガール、キリコ、モンドリアン、モディリアニなど、とにかく超豪華メンバー。しかも、各作家の代表作クラスが多く、まるで美術の教科書を見ているようだ(人の頭越しに)。デュシャンの例の自転車の車輪もある。戦後の再制作だけど。
 とりわけ、ダリ「記憶の固執」には、ものすごい人垣ができていた。時計がぐにゃりと曲がるイメージって、たしかに有名だからね。
 それに比べると、戦後美術の記念碑的作品であるデ・クーニング「女」、デュビュッフェ「コール・ド・ダム(貴婦人の肉体):青のショートサーキット」の前はあまり人の姿もなかった(~_~;)

 まりに豪華すぎて、現実感がわいてこないのだが、さて、どうしてこれらの作品が現在「名作」と呼ばれるようになったかという「キャノナイズ(=カノン化)」の問題を考えるとおもしろいかもしれないと思った。
 マティスの「ダンス」なんて、それまでのアカデミズム的な絵から見るとほとんど子供の落書きである。
 落書きだからこそ偉いわけなんだけど。そこに、どういう「目の変化」「価値観の転換」があったのか。
 ひょっとするとこれらの作品はMOMAが所有しているから名品とされるようになったという一面すらあるのではないか−とかね。

 作品を筆者ごときが解説していっても仕方ないから、個人的に気に入った2人について書いておこう。
 ひとりはブランクーシ
 まさに抽象彫刻の原点とでもいうべき「新生児」「おんどり」など4点が展示されている。
 余分なものをぎりぎりまで殺ぎ落とした、簡素のきわみのフォルム。にもかかわらず、そこには、優美さとシャープさがあり、見る人をさまざまな思いに誘う豊饒さがある。
 20世紀以降、彫刻を手がける人は、だれでもが一度は通過、あるいは回帰しなくてはいけない作家なのではないか、とすら思った。

 う一人はポロック
 戦中の2点はそれほど感心しなかったが、全盛期の「五尋の深み」「ナンバー1A 1948」はやはりすごい。
 彼の抽象画は、アクションペインティングなどと称され、一見デタラメに絵の具をぶちまけているかのように思っている人もいるかもしれないが、じつは実に周到に線を描き、点をドリッピングしているのだ。色の配分などもちゃんと計算されている。だからこそ見る者は、画面に顔を近づけると、その線の重なりと絵の具の飛沫の配置が織り成す画面に魅せられ、容易に離れることができなくなるのだ。
 これらの作品はどこか、深閑とした森を思わせる。筆者が難波田龍起や鎌田俳捺子(札幌。全道展会員)の絵をすきなのは、あるいはポロックに惹かれるのとどこか関連があるのかもしれないな。

 場を出るとそこはミュージアムショップ(売店でいいと思うんだけどなー、どうしてカタカナを使うのかなあ)で、さらに混雑していた。
 筆者はお金がないので図録以外はほとんど買い物をしなかったが(T_T)、そこではユーミン初期の名曲「瞳を閉じて」が流れていた。
 なんだか頭にこびりついてしまい、東京にいる間中「♪雨がやんだら〜」と、頭の中で反復していた。個人的な好みの強さという点では、近現代美術の名作もささやかなポップソングの1曲もあまりかわらないのだから、人間というのはおもしろい(というか、筆者がおもしろいだけか?)。

 野から京浜東北線で新橋へ。
 銀座8丁目、中央通に面した兜屋画廊で小川マリ展
 小川さんは札幌生まれ、東京在住。春陽会会員で、全道展の創立会員である。ことし100歳! 100歳で個展を開くのって、やっぱりすごくないか!? 小倉遊亀さんに匹敵する快挙だと思う(朝日の東京版には大きく出ていた。文化面のBOXでしかあつかわない道新の価値基準はまったくおかしい)。
 作品は、1987年から今年にかけての20点。この間、作風はほとんど変わっておらず、枯淡の境地ともいうべきあっさりした色合いの静物画が大半である。青梅とか枯葉とか、何気ないモティーフの選択のなかにも、季節の移ろいを静かに感じ取っている画家の息遣いが感じられ、なんともほっとする作品である。
 いつまでもお元気で絵筆を執りつづけてほしい。
 画廊には本人もいらして、来客と応対していた。

 黒の東京都庭園美術館に行くため、新橋から山手線に乗る。
 目黒駅近くには1988年、ゆえあって2週間近く滞在していたことがあったが、すでにそのころの面影はあまりグリル庭園から
ない。
 美術館の入り口に「グリル庭園」というレストランがあって、店先はオープンテラスになっている。たまたま席があいたし、腹も減ったので、スパゲティのセットのランチを注文した。
 その後、どんどんお客さんが入ってきて、店の前で待っているので、なんだか悪い気がした。
 テラスの前には、安田侃(美唄出身)の作品が置かれている。彼の彫刻を見ながら昼食を食べ、珈琲をすする。なんだかとても贅沢な時間を過ごしているように思った。
 パスタはおいしかったし、接客も気持ちよく、おすすめのお店です。

 田侃の作品展は、本年度いっぱい行われている。作品展といっても、10点あまりの彫刻が、庭園内に点在しているのだ。
 確固とした存在感。それと同時に、まるで遠い昔からそこに置かれてあるような自然さ。ほんとに不思議安田侃「真夢」なんだけど、本来なら相矛盾するその二つの要素を、彼の彫刻は備えているのだ。
 左の写真は、入り口からのアプローチに置かれてある「真夢」。真ん中がくりぬかれた直方体の内部に球が浮かんでいる、じつにシンプルな構成だ。まんなかの球にふれる。大理石のひんやりとした感触から、何億年というはるかな時間の流れが伝わってくるようだ。
 もうひとつ、美術館の建物の前にあった「天泉」という作品も気に入った。かまくらのような形と色。中に入っても、不思議と圧迫感はない。丸みを帯びたフォルムが、限りない優しさを宿している。
 庭園美術館の庭の芝生は、東京ではめずらしく立ち入りが自由で、たくさんの家族連れやカップルが敷物をしいて思い思いの時を過ごしている。まるで幸福を絵に書いたような光景である。
 そういう光景に、安田侃の彫刻はよく似合う。彼の作品のもうひとつの特徴は、子どもにすごく人気があることだ。観察していると、上ったりさわったり、まるで遊具のようだ。こんなに子どもが寄ってくる美術作品というのも、ちょっと珍しいと思う。

 て、美術館の建物の中で行われているカラヴァッジョ展(9月29日〜12月16日)。
 主催の朝日新聞がやたらと気合を入れて紙面で展開しているせいなのか、たいへんな混雑であった。
 カラヴァッジョはイタリアの画家(1571〜1601年)。光と闇を大胆に用いたドラマチックな作風で、バロック美術の先駆者といわれている。一流の画家でありながら、殺人を犯す無頼漢の一面を持つ−といった伝記的事実も、あるいは注目されているのだろう。
 これまで数多くの西洋の巨匠の個展が開かれてきた日本でも、カラヴァッジョの本格的な紹介はこれが初めてとのこと。イタリアの各美術館でも彼の作品はコレクションの目玉になっているだろうから、今回を逃すと、まとめて機会はもうほとんどないであろう。
 もっとも、生涯が短く、もともとの点数がそれほど多くないこともあって、彼の真作は39点中8点のみ。残りは「カラヴァッジェスキ」と総称される、カラヴァッジョの影響を受けた一群の画家たちの絵であった。少なくとも、筆者は知らない人ばかりである。
 出品作の中では、「特別出品」と銘打たれている「エマオの晩餐」が、やはり忘れがたい。真っ暗な闇の中、左上から差し込む光線の中に浮かび上がる5人の人物。中央の、復活したイエスの静謐な表情。抑制された周囲の人物の描写。どうして、このような深い精神性を帯びた作品がかけるのか、不思議な気持ちがした。
 彼の作品は、明度の差もさることながら、色数がごく限られているのも一因だろう。白と黒、肌色のほかは、赤など、限られた色が使われているだけである。
 カラヴァッジェスキの一部の作品を除くと、キリスト教を題材にしたものがほとんどである。レオナルドやボッティチェリのころと違い、反宗教改革の嵐がイタリアに吹き荒れた時代であることを考えると、当然だろう。東京都庭園美術館の猫

 術館の横に猫がいたので写真を撮りました。

 こから10分あまり歩いて、恵比寿ガーデンプレイス内にある東京都写真美術館へ。「手探りのキッス−日本の現代写真」(9月11日から11月25日)を見に行く。
 結論から先に言うと、「現代写真」という文脈なしには成り立たない展覧会だと思った。
 ようするに、「現代写真」というカテゴリーに守られていて初めて見るに値する作品が多く、たんなる写真として見た場合、あまり評価できないものが半数を占めている。
 もちろん、文脈からまったく離れた場所で成立しない写真(あるいは表現一般)が多いのは、事実である。しかし、たとえば前田真三のラベンダー畑の写真や、カルティエ=ブレッソンのパリの街角を撮ったスナップが、ほとんど文脈と関係なしに美しいのもまた事実である。
 写真のうち、どれが「現代写真」で、どれが「現代写真」でないかを決めるのは、作者本人がそう称しているかどうかだったり、市場や、発表するギャラリーや、キュレイターの判断にすぎない。中味から判断されるものではないのである。はっきり言って、それは供給側の論理であり、見る側にとってはどうでもよいことである。にもかかわらず、「現代写真」であるがゆえに、そう呼びなわされていない写真よりも高く評価される事情がもしあるとすれば、笑止せざるをえまい。

 品者8人のうち、米田知子は知的な作風である。彼女の「部屋」シリーズは、何気ない部屋を被写体にしているが、じつはそれらがスターリンの生家だったり、マッカーサーの執務室だったりする。彼女は、不可視のはずの20世紀の歴史を、見える形にしようとしているのである。
 渡辺剛の「Border and Sight」シリーズは、社会的な関心から出発しながらも、風景の美しさが逆説的に人間の愚かしさのようなものを浮き彫りにして興味深かった。悲惨な内戦で揺れたクロアティアとボスニア・ヘルツェゴヴィナの国境線には、牧歌的な池と疎林の光景が広がっている。一方、本来国境などないはずのベルファスト(北アイルランド)市内には、プロテスタント区域とカトリック区域を隔てる高い壁が無機質にどこまでも伸びているのだ。
 しかし、意識的に社会と自分のつながりを考えている作家はこの2人だけであって、あとは「現代」でカテゴライズするには、自分のことしか考えていない、というか、コンセプトの甘い作品に感じられた。男のヌードが「衝撃的」なんて、学芸員が自分のうぶさを表明しているだけに過ぎないんじゃないか。そんな写真、そこらへんの雑誌にいくらでもあるんじゃないの? 東京都写真美術館に展示されるから「衝撃的」で、同性愛者の雑誌やレディースコミックに載るなら「衝撃的」でないとするなら、そんなにばかげた話はない。
 その中で、小林伸一郎のDEATHTOPIAシリーズは、日本各地の廃墟が主題で、独特の美しさがある。15点のうち、鴻の舞(紋別)、清水沢(夕張)、羽幌、手稲(札幌)の4点が道内で撮影されている。展覧会のちらしやポスターにも使われている「HASHIMA」と題された作品は、汚れた部屋にトルソのようなマネキンが置かれていて、とてもほんとうにある光景とは思えぬほど終末的な色彩が濃い。どれも、「廃墟の美」をうまく表現しているが、このような展覧会よりむしろ、丸田祥三や風間健介らとともに「廃墟特集」のテーマで企画した方が面白かったのではないかという気もする。
 鈴木涼子(札幌在住)の作品は、6月に札幌・コンチネンタルギャラリーで開いた個展と基本的に同じ。

 お、「手探りのキッス」の図録は、淡交社から発売されているので、一般の書店に注文して入手することができます。
 ミュージアムショップで買い物をして外に出たら、もう夕闇だった。
 恵比寿ガーデンプレイスは、サッポロファクトリーをでかくしたような町だが(どちらもサッポロビールの工場跡の再開発だから当たり前なんだけど)、きょうはゆっくりしていく時間がない。暗くなってきた空に細い月がかかっているのが見える。
 ここから恵比寿駅からはかなりの距離があるが、動く歩道があるので7、8分で駅に着いた。
 

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