東京ばたばた日記 

2001年10月19日(金)〜21日(日)

 ▼二紀展自由美術展独立展創画展
 ▼MOMA展小川マリ安田侃カラヴァッジョ展手探りのキッス―日本の現代写真
 ▼川俣正高橋三太郎20世紀イタリア美術村上隆
 ▼キリンアートアワード横浜トリエンナーレ

 比寿から山手線に乗り、渋谷で下車。地下鉄・銀座線に乗り換え、次の表参道で下りる。青山の、現代美術関連の書籍の品揃えでは日本一のナディッフ(渋谷区神宮前4の9の8)に行くためである。ここは以前、都築響一さんが木村伊兵衛賞を受賞した時にインタビューした思い出のある店である。併設されたギャラリーで、いまや日本の現代美術を代表する作家・川俣正(三笠出身)の個展が開かれているため、見に行くのだ。

 れども、この「一度行ったことがある」というのがかえって良くなかった。道に迷ってしまったのである。
 歩いているうちに外苑西通りまで来てしまい、わけもわからず裏道に入ると、オープンしたばかりの「ポスターギャラリー」というのがあって、赤瀬川原平の特集をやっていた(新潮文庫「櫻画報大全」に掲載されていながら文字が小さくて読めない「皇紀…」のポスターなんかもあった)。そこのお姉さんに道を聞いたら、親切に地図まで書いて教えてくれました。どうもありがとう!
 さて、いったん青山通りまで出て、ぶじナディッフまでたどり着けた。
 川俣正展は、11月3日から来年1月14日まで水戸芸術館で開かれる個展「川俣正デイリーニュース」の、制作素材を部屋全体にぶちまけたインスタレーションであった。題して「ブック・イン・プログレス デイリーニュース」。同展覧会の図録のゲラとかが、部屋中にある、というだけである。ただ、水戸芸術館への期待はいやがおうにも高まりますね。新聞をテーマに、大量の新聞をばらまいたインスタレーションになるとのことです。
 この展示は10月12日から11月25日まで。
 ナディッフでは、ほしい本はいっぱいあったのだが、金はないし、帰りの荷物はただでさえ図録でずっしりと重くなっているので、心を鬼にして足早に通り過ぎた。ただ、川俣正の本のうち、1983年に札幌で行われた彼の初期の、伝説的なプロジェクトの図録「TETRA HOUSE N-3 W-26 PROJECT」(英語版)が1000円で売られていたので、これだけは買った。やはり、北海道の美術史に残る事件だと思うので。もちろん筆者はリアルタイムでは知らないわけだけど。

 ディッフのすぐ近くに、リブラボ(神宮前4の3の2)というインテリアショップがあって、高橋三太郎「木の家具展」が開かれているので、これも見た。「都会暮らし」がテーマとあって、あまりうるさい主張のない、白木のさわやかなテーブルやいすがメーンだった。
 28日で終了。
 芳名録に名前を書こうとしたら、すぐ上に筆者と同じ会社の東京支社の人間が名前を記していた。

 参道の駅周辺は、オープンカフェだらけ。いつから、こんな「にわかパリ」になったんだ。東京はいいよな、札幌より暖かいから。
 さて、きょう最後の美術館は、東京都現代美術館である。ここは、金、土は午後9時まで開いている。
 地下鉄・千代田線に乗って、二重橋前で下り、東京駅前(丸の内口)から都バスで行こうとした。しかし、同館前行きのバスは出たばかり。あと25分は来ない。
 仕方がないから、再び、大手町から東西線に乗って木場で下りた。下りるとすぐ、同館の前を通る都バスが停留所に止まっていたので飛び乗った。着いたのは7時半。なんとかなりそうだ。

 ず、「村上隆 召還するかドアを開けるか回復するか全滅するか」(8月25日から11月4日)。
 この個展が、正直言って、この2日間見た中で、いちばん批評がむずかしい。
 だって、まともにやったら、西洋と日本の美術史総体を相手にしなくちゃいけないんだから。
 反対側から見ると、村上隆は、ものすごく自分の表現に対して、意識的なのだ。自分の表現が、西洋と日本の美術の流れの中で、どういう位置付けにあるかを、きちんとつかみ、何をどうやればいいのかを冷静に実行しているのだ。それも、目に見える作品だけじゃなくて、プレゼンテーション、キュレーション(展覧会企画)、さらには梱包に至るまで…
 たとえば、横8メートルにおよぶ巨大な銀箔の上に小さくふたりのDOB(ドッブ)君(村上隆の作品に頻出する、某ミッキーマウス似のキャラクター)が描かれている「ごっこ」は、空白の広大さで空間の広がりを表現する日本の伝統的絵画の文脈を踏まえて制作されているし、美術館の壁に描かれたスプラッシュペインティングは、ポロックやデ・クーニングら米国の抽象表現主義のパロディーであると同時に曽我簫白ら日本の画家たちの筆触を踏まえたものである。以下いちいち指摘しないけど、村上の作品全体が、ほっとけば陰影の無い平坦な絵をかいてしまう日本人、であることを、きちんと批評的に踏まえたうえで制作されている。
 まあ、ようするに、批評ゴコロをそそる作品なんですね。たんなるオタクのパロディーでも、日本国内でしか通用しない表現でも、決してない。だからこそ、海外の「現代美術」の業界で高い評価を受けている。
 そこがねえ…。筆者には、「批評家狙い」がなんだか見え透いているような気がして、どうもノレなかったのだ。「解釈オチ」とまでは言わないけどさ。
 むしろ、この展覧会タイトルと、初日のオープニングイベントによって、90年代以降活況を見せている日本ロック界と現代美術との回路がつくられたことこそが、この個展の最大の意義なんじゃないかと思ったくらいだ(蛇足ですが、このタイトルは「くるり」の曲の一節から採られたものです)。

 も、帰ってから図録をじっくり読んで、だいぶ考えが変わった。
 ここまで徹底して、いままでの美術史と戦略的にわたりあうのは、やっぱりすごいと思う。森村泰昌に「美術史の娘」というシリーズがあったけど、村上の方がより「美術史の娘」だ。
 さらに、色の指定など細部に亘るおそろしいまでのこだわりとマニュアル化は、まさに日本の、工業製品にも通じる芸の細かさ、だと思う。日本美術のバロック性、というか、手先の器用さにこだわる性質は、これまではむしろ洋画壇などでは排斥の対象と見られていなくもなかったが、村上は、開き直って、その路線を突っ走っている。

 OMAとカラヴァッジョとイタリア美術をのぞくすべての展覧会の項で、北海道との関連に言及しているが、この村上隆については、DOB君の語源くらいしか見つけられないように思っていた(つまり、マンガ「いなかっぺ大将」で主人公が口にする「ドボジテドボジテ」と由利徹のギャグ「オシャ、マンベ」の略)。
 しかし、図録を見ると、道内在住のビジュアルメディア評論家、村雨ケンジが月刊「モデルグラフィックス」98年5月号に書いた「無意識の『典型』、演じる『典型』 【ボーメ展とProject ko2を巡って】」が、村上本人によって
「極めてハイレベルな批評」
「日本のアートクリティックがお呼び(ママ)もつかない程の論」
と絶賛されているではないか(98ページ)。
 村上は続けて
「真摯な姿勢で模型業界から私の提唱するフィギュア=アートという図式に対しての疑問を村雨氏自身が模型界の住人でもある立場をキープしつつフィギュアをアートと呼ぶことへの疑問と可能性を掘り下げてくれた。結果、一気に新しいアートの扉を開け放つこととなった」
と述べている。
 考えてみれば、現代美術とオタクの双方に通暁し、両分野を往還しているという点では、村雨ケンジは、村上を上回るほどの自由さでそれを行ってきているのである。いちど、彼の村上論を聞きたいものです。

 て、村上隆についてはいずれ稿をあらためるとして、おなじ東京都現代美術館で開かれている20世紀イタリア美術(9月22日〜12月2日)も見たので、書いておこう。
 でも、正直言って、あまりわくわくしなかった。
 すごく強引かもしれないけれど、イタリア美術って、日本とよく似たポジションにあるんじゃないかと思う。つまり、ずっとパリやニューヨークを追いかける立場にあったこと。伝統の重みからなかなか抜け出せなかったこと。1970年前後に偶然、素材をそのまま提示するような作風の現代美術が出現したこと−である。
 「未来派」というのも、マニフェストは有名だけど、実際の作品となると、正直言ってなかなかツライものがある。
 それ以後、キリコという独特の存在を例外として、「アルテ・ポーヴェラ」まではずっと先進地の後追いをやっていたわけだから、それは日本と通じる物悲しさがあるのだ。

 9時まで開いているというのは、勤め人にとってものすごくありがたいことだけど、館内は拍子抜けするほどすいていた。以前にも、首都圏の某美術館の人に聞いたけれど、夜間開館というのは、リクエストがあるわりには、実際やってみると入場者数は惨憺たるものらしい。
 さて、本日の美術館巡りはこれで終わりなのだが、筆者にはどうしてももう1カ所行きたいところがあった。
 東京湾岸に、夜になると石畳に埋め込まれた電燈が規則的に明滅するところがあり、新橋と有明を結ぶ新交通システム「ゆりかもめ」が開通したばかりのころ、その幻想的な美しさに感動した記憶があった。そこをもう一度訪れたかったのだ。
 東京の地図で調べると、そこは「有明」の駅前にあり、「光と石の広場」というらしい。
 美術館の前からタクシーに乗り、新木場へ。1940円。そこから、りんかい線に乗って有明で下車。
有明の「光と石の広場」 ありました。幅数センチ、長さ80メートルほどの帯が8本、地上に埋め込まれ、青、紫、緑…と数秒おきに色を変えて、地味に光っている。
 その帯と帯の間には、四つ葉のクローバー型をしたオレンジ色の電燈が、やはり規則的に埋められている。
 それらの光は、ネオンサインのような派手さはなく、夜の底でしずかに光っている、という感じだ。
 一つのサイクルはおよそ7分。その間、色を変えたり、明滅したりしている。
 筆者は、30分ほど飽かずにその光の明滅を見ていた。
 もっとも、足を止めて見る人はだれもいないようである。
 何時から何時まで光っていて、だれがデザインして、どこの管轄で…といった基本的な事柄はぜんぜんわからない。ただ、筆者にとって、東京でいちばん好きなスポットのひとつです。願わくば、これ以上建物が増えてほしくない。前回来たときには無かったホテルができてたけど、あまり明るくなると光の効果も薄れるから。

 んかい線は、いずれ大井町まで延伸されるらしいが、現在は天王洲アイル(モノレールで、浜松町の次の駅)どまりなので、有明からは「ゆりかもめ」で帰る。
 1996年に「ゆりかもめ」に乗ったころは、台場のあたりは建物が少なかったが、いまはショッピングモールの「ヴィーナスフォート」なんかができて、乗客も増えている。
 とりわけ美しいのが、ヴィーナスフォートの横にある観覧車。さまざまな光の模様を明滅させている。「ゆりかもめ」は、かなり遠回りをして走っていることもあって、かなり長い時間車窓から楽しめる。上の写真で、右上に見える青い光もこの観覧車のものだ。
 この一帯は、バブル時代に構想された現代建築の見本場といった趣を呈している。ガラスと鉄骨と電飾がまばゆい。この風景を見ていると、不況というのはどこの国の話かと思えてしまう。これだけの人工都市をこしらえておいて、わたしたちは何が不満なのかとすら思う。もっともそれは、筆者がバブル時代、留萌と北見に住んでいて、あの時代がどんなものか直接には知らず、その結果バブル崩壊に伴うトラウマやショックも少なかったという事情に起因するのかもしれない。
 新橋から京浜東北線に乗って大井町で下り、ホテルに着いたのは11時ころであった。夕食は食えなかった。まあ、やむをえない。

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