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展覧会の紹介

奄美を描いた画家
田中一村展
2004年5月12−24日
大丸札幌店(中央区北5西3 地図A

1月2−25日・横浜・そごう美術館▼3月17−29日・大丸ミュージアム・心斎橋▼4月6−14日・福岡三越▼4月16−25日・福屋広島駅前店▼4月28日−5月9日・大丸ミュージアム・東京
5月27日−6月8日・大丸ミュージアムKOBE▼6月12−21日・山形屋文化ホール(鹿児島)
特別展:6月25日−7月5日 桐蔭学園メモリアルアカデミウム(横浜)

 ここでは「田中一村と展覧会芸術」というテーマでちょっと書いてみたいと思います。

 いまわたしたちが、絵画などの美術作品を見るのは、美術館でひらかれる展覧会で−ということが多いでしょう。
 熱心な人は、街のギャラリーに行ったり、デパートの催事場で−ということもあるでしょう。
 いずれにせよ、それらは「展覧会」であることにはちがいありません。
 一定期間ひらかれて、不特定多数の人が無料あるいはそれほど高くない入場料で見ることができるシステムです。
 しかし、人々が「展覧会」で絵を見るようになったのは、それほど古いことではないのです。
 ゴーゴリの「肖像画」やゾラの「制作」といったあたりにも触れてみたい欲求に駆られますが、話がややこしくなるので、ここでは日本にしぼって進めていきます。
 以前は「書画会」というのがありました。
 これは、あらかじめ決められたメンバーが、作家の書や画を鑑定し、鑑賞するというもので、いまでも日本画の画商のあいだでは似たようなことがおこなわれているはずです。
 作者がおれば、そこに出席し、すばやい筆で軸のひとつでもパッと書いたことでしょう。
 また、若い作家であれば、地元の議員や医者など有力者が頒布会のようなものを組織し、展覧会というよりは展示即売のような形式で、作品を買ってあげ、作家の支援をするといったことも、戦前にはよくおこなわれていたようです。
 あるいは、寺院やお金持ちのふすまであるとか、明治期までさかんだった錦絵、浮世絵などの複製芸術が、人々と美術の接点だったわけです。
 もっと卑近な例をあげれば、各地を旅行して有力者のもとに滞在し、そこで求めに応じて書画を制作、売りつけていた画家は、以前はかなりいたようです。地方の人々にとって、絵描きとは、ギターを持った流しの歌手とか、放浪のこじきと、あまり変わらない存在だったようです。
 大正から昭和にかけて「公募展」が増えたこと、さらに戦後は「貸し画廊」が都市を中心に急速に普及して、「美術品の鑑賞は展覧会で」という形式が一般的になったのだと思います。
 ちなみに、地方都市に美術館がひろまるのは、戦後もしばらくたってからのことです。

 そこで田中一村に話がようやくもどるのですが、今回の展覧会の、とりわけ前半部分に出品されているのは、そういう「展覧会用」ではない絵なんですよね。
 つまり、後援者のもとめで描いたふすまだったり、おそらくリクエストに応じて描いた風景やめでたいモティーフの色紙だったり(ここらへんが流しの歌手に似ていますよね。だれも知らない持ち歌より、他人のヒット曲を歌うように要求されるのです)、売るための掛け軸だったりするのです。
 そこで制作される絵は、いかに大きく目立ち、他とのちがいをきわだたせようとして描かれる公募展用の絵とは、おのずとことなったものになるはずです。また、ひとつのテーマに沿ってじぶんの画題を追究するという、個展ではやりやすい制作形式もとられないことでしょう。
 しかし、考えてみれば、つい先年までこういった一村のような画家のありかたのほうがふつうで、じぶんの画業を追い求め生活苦もいとわず大作にいどむ芸術家タイプは、近代になってから登場してきた類型なのです。
 そもそも「個性の発揮」というのが、近代になってから出てきた考え方です。一村に求められていたのは、個性ではなく、或る程度「型」にそって、手早く一定の水準の絵を生み出すことでした。そのラインでは、一村の絵は、たしかにうまい。
 筆者が感服したのは「千葉寺・雪の日」です。
 右奥に配された松の木の枝から、雪が落ちる一瞬を描いています。
 静寂に覆われた雪の日。ぱらぱら、どさっという音がして、枝に積もった雪が落ち、またあたりは静けさに満ちる…。
 まるで芭蕉の「古池や…」を地で行くような境地といえないでしょうか。

 ほかにも、花鳥画などどれもうまい。
 ただし、このうまさは、一村が独力で開拓したものがすべてではなく、先人の墨の使い方などをまねた上でのうまさなのです。
 言いかえれば、芸術家というよりは職人なのでしょう。
 念のためにつけくわえておけば、そのことが一村の評価をおとしめるものではないと、筆者は思います。
 また、彼がいかに、身のまわりの自然を熱心に観察しスケッチしていたかは、一連の鳥の絵や、「四季花譜図」などでわかります。
 しかし、たしかに、このような画家のありかたは昔はふつうだったとはいえ、一村は20世紀の画家です。先に例として挙げた「千葉寺・雪の日」などは、もはや戦後の作です。彼が、時代遅れの存在になりつつあったことは否定できません。
 彼は、戦後になってから青龍社や日展に挑戦しますが、落選もしたようです。
 落選していた一村がこのように評価され、必死の思いで入選を果たしていた多くの画家が忘れられていくのですから、歴史というのはわからないものです。
 それはさておき、おそらく一村のうまさは、公募展の入選にあたっては、むしろ妨げになったことでしょう。
 愚直なまでに対象に迫りその画家の個性をあらわしていく近代の描き方とはことなり、或る程度のところでさっと旧来の型にまとめあげてしまう一種の癖が、一村の絵には抜きがたくあるようです。
 くりかえしになりますが、それ自体はけっして否定すべきことではないのですが…

 そのことにはおそらく一村自身も気がついていた。西日本にスケッチ旅行に出かけたのは、じぶんの画風をもう一度洗いなおすための旅だったのではないでしょうか。
 そして、奄美に移住する。そこで一村の絵が、ようやく一村の絵として開花するのです。
 奄美に生えている植物は、これまでの一村のまとめ方、日本画家が蓄積してきたコツでは、まとめきれません。百合やツユクサや松であれば、或る程度のパターンが身についていて、さして苦労しなくても絵として成立させることができる。でも、ビロウやガジュマルは、そうはいきません。ここで初めて一村は、それまで身についた腕と描法を、いったんかっこに入れて、虚心坦懐に自然と向き合ったのではないか−というのが筆者の考えです。
 奄美の絵が公募展などに出されることはありませんでしたが、どのモティーフも大きく描かれ、しかも結果的には、それまでの軸装の絵よりも幅広のサイズで、すべて額装されており、一村の絵は「展覧会向き」にようやくなったといえることができるのではないでしょうか。これまた、よしあしはべつの話ですが。

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