展覧会の紹介

ロバート・メイプルソープ 2002年8月24日−9月25日
芸術の森美術館(南区芸術の森2)
10月17日−29日
大丸ミュージアム・東京
2003年1月30日−2月11日
大丸ミュージアム・心斎橋

 「つねにある種の距離がある」
 多木浩二が、彼の写真を評して言った言葉だ(「マリ・クレール」92年7月号)。
 メイプルソープの写真は、どれも完璧なまでの美しさをもっている。
 しかし、どれも、どこか人工的なにおいがする。
 ほとんどの写真は、背景がない。たいていの人物は、裸体か、ごくシンプルな衣裳を身につけているだけ。被写体は、社会的な属性を剥ぎ取られ、物体そのものとしてしか表現されない。言い換えると、たいていの写真では、バックに写った風景とか、人物の服装や背景から、彼あるいは彼女がどういう人物であり、どういう気持ちで写っているかを、なんとなく判断できるのに対し、メイプルソープの写真からは、そういうものを読み取るのはほとんど不可能である。
 人間だけだといって、それは、デュビュッフェの絵やジャコメッティの彫刻などともあり方は異なる。彼らの作品には、社会的な属性を差し引いてもなおそこにのこる人間の実存や尊厳に対するリスペクトが底流や時代背景としてあったが、メイプルソープの写真にはそれすら感じられない。そこには、ただ、研ぎ澄まされた肉体があるだけだ。


 だから、作者が被写体にたいして抱いている感情のようなものも、それほど立ち表れてはこない。いや、たぶん作者は、被写体を愛しているのだろうとおもう。ただ、それが、人間的な感情としてにじみ出てこないのだ。ニューヨーク・パンクロックの女王パティ・スミスの肖像が何点かあったが、とても同棲していた相手とは思えないほど、クールに、或る種の距離感をもって撮影されている。
 今回の出品作のうちで、被写体が笑っているのは2点しかない。うち1点のセルフポートレイトは、腕を伸ばして自分の肉体の一部だけを撮った変則的な構図だ。
 顔が写らない、背中から撮ったものも多い。男性器が正面からとらえられた写真が展示できないという事情を勘案しても、ほかの写真家ならばそもそもこれほど大量に、人間を後からは撮らないだろう。
 属性を捨象した肉体や花は、彫刻に似ている。たしかに、彼はインタビューでこう言っている。
「怠け者が彫刻に手を出そうとすると、こんなやり方を思いつく、というところかな」(「美術手帖」89年6月号)
 古典彫刻の持つ完璧さ。メイプルソープの写真は、それを現代に再現させたということができるとおもう。
 そして、その完璧さゆえに、現代美術のめまぐるしいトレンドに左右されることなく、いまなおこうして日本で死後2度目の回顧展が開かれていることからも分かるように、根強く支持されているのではないだろうか。

 ただし、20世紀後半であるから、それまで彫刻などが漠然と有していた決まりごとはやぶられているし、ギリシャ・ローマをそのままのかたちで再現することはもはやできない。
 裸体のリサ・ライオンが弓を引いている写真がある。
 筆者は、ブールデルの「弓を引くヘラクレス」を想起した。ブールデルには、古典古代への素朴な憧れがある。しかし、メイプルソープは、その憧れをストレートに表現することがもはやむなしいことだと知っている。だから、女性に弓を引かせたのではないか。(彼女の肉体は、ミケランジェロの彫刻を思わせる)
 黒人男性を多く被写体としたことも、おなじである。古典的な彫刻は、いずれも白い肌をして、アフリカ系を結果的に排除していたし、写真もおなじだった。
 ただ単にうつくしければよい、というメイプルソープの姿勢で、アフリカ系男性の肉体美が、写真におさめられることになったのだとおもう。

 近代の絵画や彫刻の場合、たとえ裸婦がモティーフでも、裸婦が持つ性的、社会的な含意などはいったんかっこにくくられ、形や色彩の美だけが鑑賞の対象となる。
 しかし、そうはいっても、見ているのは人間だから、なにがしかの感情がそこに投影されるのは避けられまい。
 メイプルソープの場合は、同性愛者であり、エイズで死んだという「物語」が、よけいなことはいっさい語っていないはずの作品群の裏側に張り付いている。
 しかも、彼は、米国社会では少数派のカトリックだった。
 そうしたことが、彼を、どこか内向的に、直接的なコミュニケーションを苦手にしたのかもしれない。

 それにしても、最晩年の花の写真のうつくしいこと。
 この世のものとは思えない色彩は、カラヴァッジオを想起させる。

 張り付いているといえば、どうして彼の写真は、濃厚に「死」の空気をただよわせているのだろう。

(9月30日)

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