展覧会の紹介

ぼくらのヒーローヒロイン展
2002年7月26日−9月19日
市立小樽美術館(色内1)

 登場する作家は12人。
 いわゆる「現代美術」の分野で注目されている村上隆、奈良美智、西山美なコ、美少女フィギュアの第一人者・BOME、「ウルトラマン」シリーズなどのヒーローもので怪獣のデザインや制作にたずさわった成田亨、高山良策、池谷仙克、人気アニメ「機動戦士ガンダム」の原画を担当した漫画家・安彦良和、少女漫画家の池田理代子、いがらしゆみこ、山岸凉子、そして漫画や絵画、現代美術の間を往還したタイガー立石といった顔ぶれです。

 特定の大物漫画家に焦点を当てた展覧会は、近年は公立美術館でもちょくちょくひらかれるようになってきていますが、ここまで(良い意味で)はちゃめちゃというか、分野逸脱的というか、越境的な展覧会というのもめずらしいんじゃないでしょうか。
 BOME(1961年生まれの日本人男性です)の公立美術館の登場は、はじめてのことらしいです。なんでも、村上隆が出品の条件にしたとか。
 BOMEのフィギュアは、いわゆる「美術」だとは分類されていません。
 ところが、見た目はそれほど変わらない村上隆の「プロジェクトKo」は「美術」だということになっている。東京都現代美術館での個展でも展示されました。
 このふたりの“作品”をならべて展示することで、ある種の制度を、あっけらかんと乗り越えてしまっているのだとおもいます。それは「美術館で展示されるような美術」のほうがえらく、アニメやオタクの文脈で語られる立体物のほうが、格が下だというおもいこみです。
 じっさいは、どっちが上というものではないでしょう。いや、あるいはフィギュアの出来としては、BOMEのほうが、オタクの審美眼ではすぐれているのかもしれません。萌え要素はきっと多いよ(この言い回しがなんのことやら分からない人はとりあえず東浩紀「動物化するポストモダン」講談社現代新書をめくってみましょう)。それはともかくこれらのフィギュアは、もともと平面の少女を、立体にして、なおかつ平面的でありうるという、じつはむずかしい課題を達成しているのです。
 しかも、これは某メーリングリストでだれかが指摘していたことですが、現代美術の側(村上隆)はオタク的なものを必要としているのに、オタクの側では現代美術なんてあってもなくてもかまわないわけですから、ジャンルの勢いということでいえば、現代美術は分が悪いともいえます。
 もっとも、元来日本では、西洋ほどには高級美術と大衆美術の格差がなかったという言い方も可能です。ただし、それは、アカデミズムがなかったことを意味しません(日本のアカデミズムはいうまでもなく狩野派と土佐派でしょう)。
 これは筆者の偏見かもしれませんが、「プロジェクトKo」や、「レッドロープ」は、東京都現代美術館で見たときよりも、生き生きしているように感じられました。

 「美術」というカテゴリーは、周辺文化をどんどん巻き込んでいきます。アヴァンギャルドは「こんなの美術じゃないぜ」というものをかかげて、上の世代に挑戦していきましたが、「美術」の側ではそれをたくみに取り込んでしまい、つぎの時代には、ひとつ前のアヴァンギャルドはすっかり「体制内文化」になってしまいます。村上隆の活動には、そういうきまりきった運動を避けつつ、つねに西洋によって決められてきた「美術の枠組み」の決定権を、いくぶんでもこちらに奪い返そうという戦略性がうかがえます。

 村上隆が参照したのとは別のマンガ文化に着目したのが西山美なコでしょう。
 彼女は、少女マンガを表層的に模倣するのではなく、その精神のエッセンスを批評的に表現しようとこころみているようにおもわれます。
 砂糖、卵白、ゼラチンでつくられたお菓子のばらの花は、そのはかなさ、壊れやすさが、少女マンガによって描かれたような悩み多き思春期を象徴しているようです。
 また、今回の展覧会ではいちばんの大作「あこがれのシンデレラステージ」(ほんとは、前と後にハートマークがつくんだけど、JIS水準では出ないんだよな)は、少女マンガのはなやかさ、あこがれの側面を表現しているのです。なにせ、材質が特製の段ボール。「りぼん」の付録を思い出させます。

 このステージに躍る、肥痩(ひそう)のある描線は、ちょっと前のマンガの線です(少年マンガでいえば「大友克洋以前」という時代区分が可能かと思いますが、少女マンガでは勉強不足でわかりません。松苗あけみ以後? 違うか)。そしてこの線を見ていると、近年の少女マンガの不振をおもいだして、複雑なきもちになります。西洋やバレエや学校の先輩へのあこがれが、少女マンガ(の読者)を成立させる重要なファクターだったわけですが、あこがれを飛び越して先輩とすぐにセックスしてしまうような少女が増えてしまっては、少女マンガの前提がなりたたないわけです。

 もうひとつ、これは図録で伊藤隆介さんが指摘していたことでもありますが、そもそもマンガやアニメにはオリジナルという概念が稀薄です。
 たとえば、「出品者・安彦良和」という表記はどこまで正しいのか。
 たしかに彼の原画が展示されているのですが、しかし、同時に並んでいる「ガンダム」のモビルスーツのプラモデルは、安彦良和がデザインしたものでも、接着剤をつかって作ったものでもありません。
 おなじ形のドムが3つならんでいるので、筆者はおもわずニヤリとしたのですが、この展示では、「美術」にとっての前提、すなわち「或る傑出した才能が個性的な“作品”をつくる」というオリジナリティー神話が、みごとに裏切られているのです。
 この神話は、はるか昔からつづいてきたようについ錯覚してしまいがちですが、じつはわたしたちは百済観音をつくった彫刻家(いや、当時は職人だった)の名をけっして知りえないわけだし、ルーベンスの絵のうちでどこを弟子がかいたかまではわからない。
 おなじ構造が、ウルトラマンの怪獣たちにもいえます。ここで展示されている原画類はマニア垂涎のものであることはまちがいないのでしょうが、しかしこの原画だけでは意味は完結せず、これらはテレビで放映された怪獣の元のすがたとしてはじめて意味をなすのです。もちろん、それ自体もおもしろい絵ではあるのですが。

 個人的には、1983年の「ユリイカ」に連載されていたタイガー立石の「デジタルコミック」の原画が展示されていて、それが方眼紙に書かれていたことを知ったのが、最大の発見でした。「デジタル」とはいっても、その白と黒の四角形からなる小さなコマは、当時大流行した「インベーダーゲーム」のチープな(やすっぽい)画面を連想させ、いまとなってはむしろなつかしいイメージです。
 彼こそは、いわゆる「美術」と、マンガなどのオタク文化とを越境したごく初期の人物といえるのではないかとおもいます。早世(1941−88)が惜しまれます。

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