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展覧会の紹介

THE ドラえもん展  2003年5月24日−7月6日
道立旭川美術館(旭川市常磐公園)

2002年7月13日−9月23日 サントリーミュージアム〔天保山〕(大阪)
03年3月15日−5月5日 そごう美術館(横浜)
8月2−26日 松坂屋美術館(名古屋)
11月1日−12月23日 大分市美術館
04年3月5日−4月11日 島根県立美術館
 
 すなわち、仮象が衰退し、アウラが凋落するのと並行して、巨大な遊戯空間が得られるということが洞察されてくる。(ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」)
 5月24日から7月6日まで道立旭川美術館でひらかれた「THE ドラえもん展」を見てTHEドラえもん展衝撃を受けた。
 その衝撃がどういうものであったかを説明するのはかなりむつかしい。
 ただ、美術館の会場がこれまで見たどんな展覧会とも異なって見えたのも確かである。

 この展覧会は、主催者の
「あなたのドラえもんをつくってください」
という依頼状にこたえた約30人が出品している。アドバイザーという肩書でテキストを寄せた柏木博を別格として、ほかは40代以下ばかりで、日比野克彦、福田実蘭、奈良美智、村上隆、森村泰昌、中村哲也といった美術界での有名どころにくわえ、写真のヒロミックスや佐内正史、「Zucca」ブランドの小野塚秋良、音楽の小曽根真など多彩な顔ぶれである。
 まず目に入るのが、三つのモニターで流されている「デジタルファクトリー 杉山知之」によるアニメーション「ドラファクトリー」である。そこでは、両耳のついたドラえもんが工場でオートメーション生産されている(ご存知のとおり、原作では、のび太の家にいるドラえもんはかつてネズミにかじられたために耳がないという設定になっている)。
 マンガの中でドラえもんは一体限りの存在のようにふるまっているが、のび太の孫の孫の時代には貧乏人でも買えるごくありふれたネコ型ロボットなのだ。
 そういう設定が頭ではわかっていても、きわだって高性能かつ個性的なドラえもんという存在がつぎつぎと複製されている映像は、おどろきであった。
 そこで筆者が思い浮かべたのが、ドイツ生まれの思想家ベンヤミン(1892−1940年)の提唱した名高い概念「アウラ」である。

 ベンヤミンが活躍した時代は、映画、写真、レコードといった複製芸術が急速に普及した、芸術にとっての転換期でもあった。もちろんその事態は、いまなお加速度をつけて進んでいるのだが。
 彼は、複製の浸透にともない、オリジナル作品の持つ「いま、ここにある」という真正さが喪失していくのが避けられないことを論じた。これが「アウラの凋落」という事態である。「アウラ」はドイツ語読みであり、ようするに「オーラ」とおなじ語である。
 複製芸術の氾濫という事態を彼はいたずらになげいたのではなかった。この時代が人々の知覚をどのように変革していくかを考察したのだった。

 もっとも、最初に引用したのは、映画についての言説であって、美術館やドラえもんについて予言したのではないことは、いうまでもない。

 さて、美術館はむしろこの時代の変化にあらがってきたようにも見える。稀少かつ貴重なオリジナル作品を収集、陳列し、その前ではくつろいだりおしゃべりをしたりしながら見ることははばかられるような雰囲気であった。それは、芸術作品が一気に複製作品に置き換わったわけではない以上、やむをえない措置であるといえるだろう。
 複製芸術にたずさわり、あるいは、それを享受している側も依然として「アウラ」をありがたがっている面もあった。写真展となると展示されるのはきまって「オリジナルプリント」であるのは言うまでもない。
 また、マンガをテーマにした展覧会は道内の美術館でも何度かひらかれているが、そこでは、本来鑑賞されるために描かれたものではない原画が麗々しくケースにならべられる。複製芸術の展覧会であるにもかかわらず「非・複製」的なものが重要な展示物になってしまう。さらにいうならば、アニメの絵はマスプロダクト的な均質の塗りを特徴とするはずなのに、そのアニメのポスターや原作本に(たとえば)安彦良和や貞本義行が召喚されるのは彼らの手がきの描線の味わいが「アートっぽい」というふうに受容されていたためではないのだろうか。

 ところが、この「THE ドラえもん展」ときたら、オリジナル作品信仰みたいな雰囲気がおそろしく稀薄なのだ。
 映像やインタラクティブアート、あるいはコンピュータで制作されインクジェット出力された作品が多いためだろう。デジタル作品は、木版画などとちがい、理論的には無限数の同一作品を生産することが可能である。
 オリジナル信仰から最もあっけらかんと遠くに位置するように筆者の目に見えたのが、蜷川実花の「ドラちゃん1日デートの巻」である。
 ドラえもんの着ぐるみとあゆみちゃんというモデルの女の子が芦ノ湖とおぼしき場所でデートをするようすを何枚かの写真でとらえた、ある意味でたわいもないというか、ほほえましい作品なのだが、例によって壁面の展示物はさわってはいけないことになっている。
 ところがその前に、おなじ写真をサービス判にプリントしたアルバムが置いてあって、こちらは自由にめくって見ることができるのだ。
 従来の展示であれば壁面にあるのがオリジナルで、さわってもいいほうが複製であっただろう。そこに序列の差は明らかである。しかし蜷川の作品では、オリジナルとコピーの区別はあっさりと乗り越えられているように見え、筆者にはちょっとしたおどろきだった。
 そしてまた、いちばん「アウラ」を感じさせたのが、工業製品であるバカラグラスのドラえもんだったというのも、皮肉といえば皮肉であった。

 最後に、もうひとつたいせつな特徴を挙げれば、出品者の中にアートディレクターやグラフィックデザイナーが多いことだ。彼ら・彼女らは視覚芸術にたずさわり、日常わたしたちが目にする多くのイメージを生産しているにもかかわらず、これまで美術の世界では不当な冷遇を受けてきた。「芸術のための芸術」を「生活のための芸術」よりも優位に置くのはイデオロギーにすぎないのではないだろうか。

 
(「美術ペン」110号に加筆)
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