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つれづれ日録の題字2004年10月〜JRの普通列車の中 

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 12月20日(月)〜29日(水)

 この10日間は、筆者としては異例のことに、ほぼカレンダーどおりに休んでいた。
 ただし、20−22日は忘年会がつづいた。
 下に、19日休みと書いてあるけど、深夜になってから、遅れをとりもどすため原稿を書いていた。

 26日、スマトラで巨大地震があり、インド洋に大きな津波が発生した。
 この稿を書いている段階で、死者は6万人ともいわれている。

 この大災厄が、人類にたいする警鐘であるかのように言う人もあるが、筆者はそういう見方に組しない。
 災害はいつでも偶然に起きる。
 そして、マスコミに報道されなかった災害は、なかったも同然のようになってしまうのが、残念だが現実である。
 数年前、アフガニスタン・パキスタンで起きた地震で数千人が死んだが、テレビクルーが入れない山奥だったため、新聞でも小さな扱いだった。
 ほんとうに警鐘であるなら、ホワイトハウスにでも起きればいいのであって、貧しい国や、独立を求めて闘っている地方に、津波が押し寄せるはずはないだろうと思う。

 掲示板にも書いたが、米画家のトム・ウェッセルマンが死んだ。
 「グレート・アメリカンヌード」のシリーズで知られるポップアーティストだった。

 詩人の石垣りんさんも亡くなった。
 平易なことばで、まっすぐ人間の深淵にとどく詩を書いて、この人の右に出る人はいなかったのではないか。


 12月15日(水)〜19日(日)

 右の写真は、そろそろススキに飽きてきたというだけで、とくにふかい意味はありません。
 函館線の山崎駅(八雲町内)に停車中に撮影したものです。

 でも、青いモケットがいまでも使われていて、なつかしい。

 15日から断続的に雪。
 積雪はまだ少ないが、どうやら根雪のようだ。

 朝から、長万部郵便局の年賀状セレモニーとか、不二家八雲店が特別養護老人ホームにケーキを差し入れるとかの取材。
 夜は「おやじの会」という、ひとことで説明するのがむずかしい団体に連れられて、或る人の家でのむ。「おやじ」なのに、女性も大勢。たのしい酒である。

 16日は午後から落部漁港へ。
 スケソウが毎日どんどん水揚げされているというので行き当たりばったりにいったら、うまいぐあいに作業中だった。
 夜は忘年会。日本酒をつがれすぎたせいか、2次会でねむってしまう。
 もっとも、目が覚めるとまた酒宴に参加するのであった。

 2晩、宴席がつづいて、仕事がたまったので、17日は朝5時に起きて原稿書き。
 午前は長万部町議会の傍聴。
 けっきょく9時ごろまで仕事していた。つかれた。

 18日。
 午前は、子ども二人の通う幼稚園のクリスマス会。
 わざわざ札幌から両親が、孫の晴れ姿を見に来る。
 三十数年前、筆者は、「東方の3博士」の役であったが、せがれは、男子の園児が少ないため「ローマ人」「宿屋の主人」「羊飼い」と、ひとり3役をこなしていた。長いせりふをすらすら言える愚息をいくぶん見直した(←親ばか)。
 だいたい筆者は「ローマ人」と聞いて
「いったい老魔人なんて、福音書のどこに出てくるのだろう」
と思っていたのだ(←単なるバカ)。

 午後から仕事。
 時間的にいろいろ重複していたこともあって、いくつかの行事取材を省略。関係者のみなさん、すいません。

 19日。
 休む。
 さすがにつかれた。年賀状作業、まったく進捗せず。


 アクセスが15万件を達成しました。
 10万件が昨年12月でしたので、およそ1年で5万を積み上げたことになります。
 みなさまのおかげです。
 今後とも情報提供などで、みなさんのご協力をお願いします。


 12月11日(土)〜14日(火)

 八雲町ブイタウシナイのススキ11日は長万部で取材。
 クリスマスパーティにさそわれていたのだが、ほとんど参加できなかった。

 12、13日は連休にした。
 なにもせず、寝てばかり。

 14日は八雲町議会の傍聴など。
 夜は、イルミネーションを派手につけてる家の写真を撮りに行く。寒い。ただし、ことしの八雲は雪はまだほとんどない。

 この間、いろいろなことがあった。
 北朝鮮からもらってきためぐみさんの骨がにせものだったとか、苫前のほうで地震があったとか、北海道新幹線が新函館まで来年度着工することが決まったとか、ダイエーの経営再建で棒二森屋(函館駅前のデパート)が売りに出されることになったとか、イラク自衛隊派遣を1年間延長することが決まったとか、いろいろあったが、個人的にいちばんびっくりしたのは、道内地場最大手の広告代理店パブリックセンターが事実上倒産したことだった。
 まったく予想してなかったからだ。
 道内の景気がいかに恢復(かいふく)していないか、よくわかる。
 また道新(北海道新聞)は、なんぼか損したんだろうなあ。
 ちなみに、恋愛小説の第一人者藤堂志津子さんが、作家になる前に働いてたのがパブリックセンターです。


 11月30日(火)〜12月10日(金)

 30日。
 家人がめずらしく函館に買い物に行ったので、子どもたちを幼稚園に迎えに行き、その足で駅へ向かう。

 12月1日。
 函館市と4町村合併。
 漁協、ハーベスター八雲(旧ケンタッキー農場)、いずれも新年号の関連取材。
 夜は長万部の取材。

 2日。
 八雲町議会の特別委を傍聴。
 午後、長万部の鶏農家の取材。おもしろい。新年号だけではもったいないので、いつか長い記事を書こうと思う。
 郵便局に寄って帰る。

 3日
 午前中は原稿の執筆など。
 八雲町立栄浜小学校午後、八雲町市街から約20キロ南にある栄浜小学校でスクールコンサート。
 八雲高の先生によるトランペットの演奏。全校児童6人による、見事な合奏。
 20キロ離れていてもまだ八雲町内なのだ。
 それにしても、おとぎばなしに出てきそうなかわいらしい校舎です。

 トランペットによる「いつも、何度でも」をじっと聴きながら考えた。
 じぶんの仕事は、たとえば毎日毎日おなじことをくりかえしている人にくらべれば、あちこちに行けて、いろんな人に会えて、なんとめぐまれていることだろう。
 仕事で、こんな美しい曲も聴ける。
 多少、つかれてもがんばろう。

 しかし、やっぱり帰ると疲れて、なにもしたくないのであった。

 「いつも、何度でも」って、下降進行コードだったんだな。
 ちょっと、感動が薄まった感じがする。
 あのコード進行に頼らずにきれいなメロディーって、書けないもんなのかなあ。

 4日
 午前5時起床、原稿を相当書き進める。
 ふたたび、こんどは4人でハーベスターへ行き(今シーズン一番乗り)、バイキングを食べるかたわら、写真も撮る。
 どこまで休みでどこまで仕事なのか分からない行動である。
 午後は、手づくりチーズを楽しむ会に出て、学校の先生方によるコンサートを聴きに行く。
 どうしてクラシック畑の人は、楽譜を見て演奏するのだろうか。
 ピアノならともかく、管楽器はシングルノートでしょう。童謡みたいな短く簡単な曲でも、暗譜って、できないんだろうか。

 午後3時23分、特急で札幌へ。
 車内で、小檜山博さんのエッセー集「人生という旅」を読む。泣きそうになる。
 父母の家に泊まる。
 それにしても車が少ない。雪が降らなくても札幌の人は冬になると出不精になるのだろうか。

 5日。日曜日
 終日雪が降った。
 朝8時の特急ホワイトアローで美唄へ。
 というと、みんなおどろくのだけれど、札幌から美唄までは特急で40分。はっきりいって、芸術の森より近いのだ。
美唄駅の近く。アーチには「パチンコ」と書いてある 美唄市民会館で、北浦晃さんの絵画展を見る。
 朝9時前に着いたが、幸い会場はあいていた。

 9時46分、美唄発のホワイトアローで札幌に戻る。
 なぜか車内は大混雑で、札幌まで立っていた。
 札幌駅から真駒内まで南北線に乗り、タクシーで芸術の森美術館(札幌市南区芸術の森2)へ行き、最終日の丸山隆彫刻展を見た。

 帰りはバスで真駒内駅へ行き、南北線で大通下車。
 STV北2条ビル、道新ぎゃらりー、アートスペース201。
 東西線で1駅だけ乗ってバスセンター下車、札幌市民ギャラリー、千歳鶴酒ミュージアム。
 ふたたび東西線で、西18丁目駅へ。
 ミヤシタ。雪をこいでエスキス。さらに雪をこいでプレステイジギャラリー。
 ここで、エルエテに寄ってないことに気がつくが、とにかく交通事情が悪いので、やむを得まい。
 タクシーに乗って、どらーるにちょっと寄ってもらって、札幌駅にもどる。
 大丸に10分間だけ行き、本のまとめ買い。
 特急の発車する30分ほど前にプラットフォームに到着する。指定席が満席なので、大事をとって早めにならぶ。
 ところが、特急の運転手がヘタで、駅に入ってくるとき、停車位置が大幅にずれてしまい、行列が大混乱におちいってしまった。あぶなく、もうすこしですわれないところだった。
 特急は東室蘭まで、通路まで人をあふれさせたまま走った。
 筆者も、八雲で降りなくてはならないので、熟睡ができない。
 21時44分着。家人が傘を持って迎えに来てくれていた。

美唄市民会館 美唄市民会館の渋い食堂。閉まっていた

 6日
 さすがに午前は取材に出る気がしない。
 午後は熊石町・八雲町合併協議会の取材。いきなり新町名が「八雲町」に決まってしまう。
 夜は、警察につきあって、セーフティナイト作戦の取材。ようするに、国道沿いで赤色灯をぐるぐるまわしているだけなのだが、これがスピード抑止に効果があるのだ。

 7日
 午前は新年号関係の原稿。
 午後は、函館支社から写真部の人が新年号の取材に来るはずだったが
「梁井君、写真うまいでしょ」
とかなんとか言いくるめられて、じぶんで撮ることになる。
 夜は長万部で、合併問題説明会。
 町長がはなかぜをひいて、つらそうだった。

 8日
 そのはなかぜをもらったのかどうか知らないが、熱が出て(といっても37度ぐらい)、1日ダウンして寝ていた。

 9日
 国縫での取材を済ませた後、黒松内で合併協議会。
 ふだんは見たこともないマスコミの人がたくさん来ている(って、あんたもマスコミでしょうが)。
 案の定、長万部との合併協議会は解散になった。
 加藤町長は、少しかぜもよくなったようで
「残念。ま、頭を冷やして考えますよ」
と言って、さっさと会場を立ち去ってしまった。
 原稿のやりとりなんぞをやっているうちに、けっきょく10時ぐらいまで会社にいる。

 10日
 午前中はたまった新聞の整理。
 午後、長万部で高校の取材など。
 すごい雷雨が断続的に降る。長万部に行く途中、雷雲の中に虹が見えた。
 帰路は、雷雨なのに、西空は一部晴れて夕焼けが見えていた。
 なんとも奇妙な光景だった。


 11月29日(月)

 夢を見た。
 40歳にして大学に入りなおすというものだった。
 現実とちがい、あの疲れの感覚がまったくない。
 目が覚めて、愕然。
 にんにくのCFじゃないけど、もうくたびれている。

 朝起きたら雪が積もっていた。
 朝7時半には原稿書きスタート。
 漁協、少年少女町議会、などなど。
 夜6時半には切り上げる。
 サイトの更新つづき。

 11月28日(日) 

 2週間ぶり休む。
 昼まで爆睡。
 いろいろ予定はあったのだが、サイトをちょこっと更新したのみ。グーグルの検索窓をつけてみた。しかし、当サイト内の検索は不可能で、www5b.biglobe.ne.jp内の検索になってしまう。

 11月27日(土)

 午前はきのうまでにかけなかった原稿。
 午後は、長万部で、理科大と小学生の科学教室の取材。
 8時に寝る。しかし電話などあり、就寝は10時ごろ。

 11月26日(金)

 疲労ピーク。
 夕方、ほとんど原稿を書く体力がのこっていない。
 夜早く寝たら、夜中に目が覚めてしまって、日本酒を飲みながら、国木田独歩の研究書を読む。

 11月25日(木)

 午前中は、また講演。
 しかし、あまりおもしろくない。
 なぜ、おもしろくないか、考えてみた。
 まず、初めになぞをふっておいて、聴衆に考えさせるなどのくふうがたりないのだろう。

 午後は、長万部と黒松内の合併協議会。
 予測より半月早く、協議会解散への流れが決定的になる。
 さらに超多忙になる。
 3時間で約180行を書く。

 11月24日(水)

 さすがにつかれがたまってきている。
 午後から夕方にかけ、取材4件。

 11月23日(火)

 仕事。
 八雲、熊石の合併協議会は、きょうも開催されるのである。
 小委員会ふたつをじーっと聴いている。
 あれこれ駆け回るよりは、会議取材は、体力的にまだ楽だ。

 11月22日(月)

 学校関係の取材の多い1日。

 11月21日(日)

 仕事。
 長万部で剣道大会など。
 夜は早めにきりあげる。


 11月20日(土)

 ここから16日までが今回執筆分です。

 前日と同様の半ドンモード。
 午後から取材。シルバープラザで、バドミントン・バルセロナ五輪代表の陣内貴美子さんの講演会。
 夜は津軽圭介ショー。
 津軽民謡のすごさにびっくりする。
 こういう歌手の声を聴いていると、実名を出すと悪いですが、元ちとせなんて子供みたいな気がする。

 陣内さんの講演も感動した。
 あと25年早く聞いておれば、じぶんの人生も変わったかもしれないとさえ思った。
 しかし、彼女と筆者はほとんどおなじ年なので、それはむりです。
 彼女は子どものとき、こう教わったそうな。

早く強くなりたければ基礎をやりなさい。

 16歳でナショナルチームの合宿に呼ばれ、しかしほとんどコートには入れてもらえず、1週間基礎練習ばかりやって地元の熊本に帰ると、川上哲治(元巨人軍監督)の「球がとまって見えた」じゃないけど高校生の打つシャトルがどこに行くかぜんぶ分かるようになっていた−。

 それで、彼女はその格言をあらためて実感するそうだけど、すごい話ですね。

 17日に五十嵐さんの講演を聞いたときも思ったのだが、じぶんは夢を実現するために、いったい何をしてきたかというと、はなはだ心もとない。

 じぶんの若いころは、夢を追い求める、なんて、ダサいと言うか、かっこ悪いという風潮があったような気もする。
 でも、風潮のせいにするのは、よくないな。

 たしかなのは、偏差値以外に、進路を選ぶ資料がほとんどなかったことである。
 「じぶんはこういう勉強をしたいからこういう学校にいく」
という選択をしたくても、1980年ごろはインターネットもなかったし、そういう観点から書かれた本も皆無で、調べようがなかった。これは事実。
 その点ではいまの中高生などはめぐまれている。

 ただ、わたしたちの前で講演をする人は、大なり小なり夢をかなえた人である。

 たぶん、世の中には、夢がかなわなかった人のほうが多い。
 そういう人の話のほうが役に立つような気もしないでもない。
 ただ、そういう人が講演することは、あまりないだろう。

 「夢をかなえよう」「個性を生かそう」
という掛け声がいまの世の中にはあふれている。
 でも、ほんとに夢を実現してしまう人は、そんな声がなくても、周囲の無理解をはねのけて実現してしまうがむしゃらな人なんだと思う。
 ムードにのって、気軽に夢を追う若い人が増えると、地道な職業を選ぶ人が減って、文学賞とかオーディションとかの応募人数とフリーターばかりが多くなるような気がするのは、考えすぎだろうか。

 「テレビに出ている人」イコール「偉い人」じゃない。ふつうにしっかり生きている人がいちばんえらい。
 そう思う。
 そう思わなきゃやってられないし。

 長文多謝。

 11月19日(金)

 どうしようもなくつかれていたので、なんとなく「休みモード」に。
 しかし、朝原稿を書いて、午前中、家人の買い物につきあい、郵便局で写真展の写真を撮った。なんだか休みっぽくない。
 午後はひたすら眠る。
 夕方から熊石へ。
 八雲の合併の相手となる熊石町でも、新町建設計画の説明会。
 50人ほど出席。八雲は昼と夜あわせて60人くらいだから、人口比でいくと、熊石のほうが出席率が高い(八雲は17300人、熊石は3500人)。
 それにしても、八雲の町民は
「八雲の名前を残してほしい」
と言うし、熊石の人は
「八雲町の名前になるんだったら、対等合併とはいえない」
と言うし、なかなかむつかしいもんです。
 帰宅は10時近くになる。

 11月18日(木)

 書かなくてはならない原稿がたまっていたので、朝4時半に起床し、暗い旅館を一人で出て、支局にもどった。
 しかし、ねむくてたまらず、けっきょく自宅で2時間ほど朝寝。
 朝7−9時くらいまで、原稿を書いたが、とうてい追いつかない。
 長万部の議会を傍聴し、「新町建設計画」の説明会を聴き、八雲高の卓球選手を取材し、夜ふたたび「新町建設計画」説明会。
 疲れていて、原稿がまったくすすまない。
 あきらめて寝る。

 11月17日(水)

 朝、町内を流れる砂蘭部川で、砂防ダムの悪影響で川底の低下が起きていると指摘する写真家やNPOの人と施工管理者の土木現業所などとの現地視察に同行。
 風と雨でむちゃくちゃ寒かったが、しだいにおさまる。
 昼は、酪農家で、牛舎に監視カメラを導入した人の取材。
 昼食の時間がなく、長万部中学に直行。HTBディレクターの講演。
 夕方から、温泉おぼこ荘。渡島支庁が主催して道内外の業者を呼んで観光視察をしているので、1泊2日の日程のうち、宴会のみ加わらせてもらう。
 温泉に入り、一泊。ああ。いい気分。

 なお、「土木現業所」も「支庁」も、道の役所です。

 11月16日(火)

 午前中は、たまった原稿の執筆など。
 午後は、調理師会の研修。
 「大根の酢の物みぞれあえ」
などをおすそ分けしてもらう。
 公民館、商工会などをまわり、税務署主催の表彰式に出て、少年野球チームの取材のため、指定された町内会館へ。
 そしたら、子どもたちのご苦労様会兼父母の忘年会だった。
 スポーツをしている子の親御さんは、週末は遠征などで大変だと思う(八雲のようなところの場合、練習試合をやろうとすると、近場にチームがないので必然的に遠征になってしまう)。
 ボランティアの指導陣ともども、おつかれさまです。


 11月15日(月)

 仕事。
 午後は長万部の議会に張り付く。 

 北海道新聞の朝刊に、陸上自衛隊撤退の試案が出ていた。
 このとおりにはならないと思うが、道内の自衛隊が削減されるのは間違いないだろう。
 道内の自治体にとっては、人口とか予算が減る話題ばかりがつづいている。

 11月14日(日)

 噴火湾沿いの新聞販売店の会合に出席する。
 会場は森町の濁川温泉。
 地図マニアの筆者にとって、ここはあこがれの土地である。
 5万分の1地図などを見るとわかるけれど、濁川とは、海岸から狭い渓谷をさかのぼっていったところに突如ひろがる、五角形の盆地なのだ。
 あちこちで温泉がわきだしているのを見ると、どうもこれはカルデラのようである。水はないけれど。

 夜は「展覧会の紹介」のテキストを書く。
 北の彫刻展、流政之展など。
 堀内正和展については、未完である。

 11月12日(金)・13日(土)

 午前中は取材が2件。
 昼から函館で会議のため出張。
 会議と反省会という名の飲み会の後、深夜、函館駅に行き、夜行急行「はまなす」で札幌へ。
 若かりしころは座席の夜行列車なんてへっちゃらだったけど、中年になったので、寝台でしっかり寝ていく。
 でも、B寝台は、あまり広いとはいえない。

 13日朝6時過ぎ札幌着。

 ここでおどろいたのが、早朝、札幌駅には、営業している喫茶店やファストフードの店が、まったく見当たらないのだ。
 持参したパソコンでも開いてテキストでも書こうと思っていたので、これは参った。
 東京ではありえない話だ。

 思い出したこと。
 18歳当時、筆者は、朝6時半に開いている喫茶店が札幌のどこにあるのか、ちゃーんと知っていたのだ。
 いまでも、不思議だと思う。なんで、あんなこと知ってたのか。

 7時になると、大通西3丁目の、明治生命ビル2階にある「リトルスプーン」が店を開く。旧「ユーハイム」というと、わかるひともいるでしょう。
 たすかった。
 大通公園を見下ろすカウンター席について、カレードッグとコーヒーを註文。
 公園内に取り付けられたホワイトイルミネーションが、通電していないのに、きらきらと光る。
 遠くの山が冠雪しているのが見える。

 その後、東西線で西18丁目まで乗り、ギャラリーDORAL。
 札幌に戻り、JRで野幌。タクシーでセラミックアートセンター。
 帰りはジェイ・アール北海道バスで、大麻でJR乗り換え。
 また地下鉄で円山公園。タクシーでギャラリー門馬アネックス。
 またタクシーで近代美術館。
 Hさん、Sさんと昼食。Hさんの車に乗り、3人でギャラリー巡り。プレステイジ、テンポラリースペース、CAI、エルエテ、ミヤシタで解散。
 4たびタクシーで千歳鶴・酒ミュージアム。
 徒歩で、スカイホール、さいとうギャラリー、アートスペース201。
 南北線で札幌駅に戻り、最終のスーパー北斗で八雲に帰った。

 結局、時間がなくて、コンチネンタルギャラリーの3人展と、芸術の森美術館の丸山隆展には行けなかった。
 後者は、また日を改めて、万難を排して行くつもり。

 11月11日(木)

 黒松内と長万部の合併協議会。
 はじめて黒松内の市街地に行く。
 小ぢんまりした町だ。
 新しい家が多い。
 協議会は意外と紛糾せず、淡々とすすんだ。
 けさの新聞の1面の「地方交付税、3割減」が、ショックだったのかもしれない。
 もしほんとうに交付税が3割減れば、半数以上の町村では、来年度の予算が編成できないのではないかと思われる。
 政府の地方いじめは、目に余る。

 帰路のラジオで、アラファト議長が死去したニュースを知る。

 「あーとだいありー」の更新をする暇がないのがつらい。

 11月10日(水)

 朝7時に、八雲町議からの電話。
 仕事を早くはじめるはめになる。

 それにしても暖かい。
 北海道人は、11月になると完全に冬を覚悟して生きるものだが、ことしは、晩秋がいつになく長い。
 落部公園に行ったら、ドウダンツツジが真っ赤だった。
 「3,4日前はもっときれいだったんだよ」
と公園の人。
 ツツジの向こうに、落部の町と噴火湾が見える。

 11月9日(火)

 八雲の町議会。
 午後は、砂蘭部川で、サケの遡上を観察していた。
 市街地にほど近いのに、これだけサケがうようよ上って自然産卵している川って、あまりないんじゃないか。
 そう思ってシャッターを切ったのだけど、水中のサケほど、写真になるとちゃんと見えない被写体もないと思う。

 11月8日(月)

 最近ショックだったことがふたつある。

 ひとつ。
 ドライブ中の話。
 筆者(こどもたちに)「青い斜め線の標識がついているから、50キロ制限の区間はここで終わりだよ」
 家人「へー、知らなかった」
 筆者「…」

 知らなかったって、運転免許持ってんでしょ!?

 ふたつ。
 筆者はひどくつかれているので、さぞかし休んでないんだろうとじぶんでは思っていた。

 で、10月に何日休んだか、あらためてかぞえてみた。

 3日間。
 やはり少ない。
 ところが、「半日休み」というのが、なんと7日もある。午前だけ働いて昼から休み、とか、反対に、昼から仕事とか、そういう日である(なんといっても、ひとりしかいない職場なので、そのへんは自由自在)。
 つまり、なんだかんだいって、6、7日は休んでいる計算なのだ。
 まー、たしかに、標準的な労働者なら、10月は11日は休んでいるんだけどね。

 11月7日(日)

 「スケジュール」に掲載された、開催中の展覧会が、じつに44にも上っております。
 これは、札幌にいても、全部見られそうにない数です。
 当サイトへの変わらぬ情報提供を、深く感謝します。

 この日は仕事の後、函館に行き、美術館で最終日の「スーパーリアリズム展」を見た。

 ぎゃらりー807にも寄った。
 仕上げに、谷地頭温泉に入ったのだが、あまりの大きさに驚いた。
 これって、民業圧迫にならないのだろうか。


 11月6日(土)

 朝6時半から原稿書き。
 けっきょく夕方まで仕事。

 夜はサイトの更新。
 しかし、「あーとだいありー」のほうまでは、手が回らない。

 苫前沖で漁船転覆、4人不明。
 アラファト議長の容態悪化。

 11月5日(金)

 ほぼ終日、長万部の議会にはりついていた。合併問題はどうなることやら。

 国縫の沼に羽を休めていたはずのハクチョウの姿が見えない。残念。

 米大統領選でブッシュ再選。
 やれやれ。

 11月4日(木)

 熱が出る。
 支局でおとなしくしていたが、来客や電話はいつものようにある。

 11月3日(水)

 断固休みをとった。

 取材する予定の催しのうち、ひとつは予告記事をたくさん書くことでクリアし、もうひとつは知り合いに写真をたのんでおいた。
 休むためには、このような工夫(悪知恵?)も必要なのだ。

 朝5時に起きる
 予定だったが、となりにねている寝相のわるい息子に3回ほどけっ飛ばされ、午前1時に目がさめてねむれなくなる。
 起きておればいいのに、缶ビールや日本酒を飲んで朝3時ごろ就寝。1日、なんとなく気分がすぐれなかった。
 それでも5時50分、家を出発。家人がサンドイッチを持たせてくれる(感動)。
 6時すぎの寝台特急「北斗星」で札幌へ。

 青函トンネル開通直後の「北斗星」は日本を代表するブルートレインとして、寝台券はプラチナチケットとよばれたほどの人気列車だったが、筆者は初めて。しかも、朝3時間のみの乗車である。車内は、意外なほどすいていた。

 午前は小樽の市立文学館で古本展、美術館で大月源二展。
 藪半で新そばを食う。
 快速列車で札幌に戻り、タクシーで札幌市民ギャラリーへ。道展をやや駆け足で見る。
 さいとうギャラリーで、八雲の陶芸家の個展の取材。(休みでも仕事をしているのであった)
 ラ・ガレリアは1、2階が日産のショールームになっていた。どうやって車を入れたのか。地下鉄並みに悩む。
 スカイホール、STV北2条ビル、札幌時計台ギャラリー。
 またタクシーに乗って、エルエテギャラリースペース。ベースとピアニカとスティックというめずらしい3人組のライブ。
 「難波田龍起全版画集」を思い切って購入。
 3たびタクシーで、FABカフェ2階。偶然、森迫くんと会い、コーヒーを飲む。
 大通から地下鉄に乗って札幌駅へ。スーパー北斗で八雲に戻った。

 見たい展覧会の半分もまわれていないので、13日にふたたび札幌へ行く予定。


 11月2日(火)

 きょうもおなじペースで仕事。

 ちょっと旧聞に属する話題だけれど、札幌・手稲区の連続車放火事件の容疑者の住所について考えている。
 たしか、手稲曙8の12だった。
 あの附近は、筆者も行ったことがある。
 ちょうど、市街化調整区域の境界のそばで、広大な札幌の住宅地が唐突に終わり、あとは石狩湾につづく広漠とした荒地がひろがっているのみである。
 「大都市と農地あるいは山林の境」
であれば、日本中のあちこちにあるだろうけど、
「大都市と荒地の境」
というのは、そんなにないだろうと思う。
 そういうところに住んでいる人がすべて犯罪に走るわけでは、もちろんない。
 でも、そこの住民の心象風景というのはどんなものなのだろうと、ふと思うことがある。

 11月1日(月)

 仕事。
 午後6時に切り上げ、早く寝る。
 まあ、筆者は朝8時から働いているので、怠けているというそしりは受けないとは思うが。

 或る札幌の方から、札幌時計台ギャラリー(中央区北1西3)での個展の案内状がとどいた。ありがとうございます。
 しかし、会期が

2003年9月29日(月)〜10月4日(土)

になっているのだ。
 うーん。


 10月31日(日)

 とても10月の末日とは信じられないあたたかさ。
 そのせいか、ねむくてたまらず、マチの文化祭の取材を、かんぺきに失念していた。
 こんなこと、八雲に赴任して初めて。
 やっぱり、つかれてるのかなあ。
 がっくり。

 ひる前、嵯峨(八雲のジャズ喫茶)のママに呼び止められた。
 お店に黒岩静枝さんの一行が来ているという。大沼でのライブの帰路らしい。
 筆者は黒岩さんに会うのはたぶん8年ぶりぐらいだと思う。札幌の誇るジャズボーカリストです。

 函館美術館の「ビデオアート展 北海道映像の新時代」のラインナップが決まったようだ。
 昨年、札幌でひらかれたおなじタイトルの催しと一部上映作品はだぶっているが、あの出田郷くん(現在オランダ)の「existence」が上映されるのは、すごいと思う。
 美術作品が、けっして技量の誇示でも、概念の遊びでもなく、出田くんの「生への根源的な疑問」と結びついていることを表した、彼のキーになる映像作品だと、筆者は思っている。
 これだけを見に
「函館に来い」
とはちょっと言いにくいけれど、でも「まぼろしの名作」とだけは言っておきたい。

 10月30日(土)

 快晴。
 札幌から両親が孫の顔を見に来る。
 筆者は午後から仕事。
 夜は、スケジュール表の更新作業。

 10月29日(金)

 きょうも仕事。
 さすがに疲れてきて、28、29日とやたらと就寝時間が早くなる。
 それでも起きる時間はいつもとおなじ。

 10月28日(木)

 一度に大きな地震が来るより、「小分け」になったほうが、一般的には被害が少ないと考えられるけれど、今回の「新潟県中越地震」にかんしていえば、余震の回数の多さは常軌を逸している。

 がけ崩れの現場から2歳の男の子が救出された。
 2歳だから、たすかったんだろうと思う。
 もっと小さかったら、自力でミルクをのむこともできない。
 もっと長じていたら、母の死を認識して、精神的なショックが大きかっただろう。


 10月27日(水)

 午後10時半まで仕事。
 それからこのサイトの更新作業。
 表紙のTOPICSが大量に更新あり。

 イラクで日本人が人質になる。
 それにしても、いったいなにしに行ったんだ、こいつ。「すいませんでした」じゃ、すまんだろう。とりあえず、高遠さんたちには、いちおう目的があったんだけど。

 10月26日(火)

 先週に引き続き、半ドンとし、午後から家人と函館へ。
 ただし、その途中、落部漁協に立ち寄って、サケの山漬けの取材なんぞしていたもんだから、函館に滞在していたのは1時間半ほど。
 今度こそ、じっくり見てまわるぞと思う(筆者の函館滞在は、いつも時間がない)。

 10月25日(月)

 朝5時前に起きて原稿書き。
 早起きしすぎて疲れてしまい、午前中2時間弱、昼寝。
 午後は、長万部で、黒松内町との合併協議会。なにやらあやしい雲行き。

 日本シリーズ第7戦。西武ライオンズが優勝した。
 全体的に、どちらの投手も、疲れていて、配球が雑だった。打撃戦が多かったのは、そのせいだと思う。
 まあ、派手な打ち合いのほうがおもしろいといえばおもしろいんだけど。

 10月24日(日)

 仕事(一部、家族サービスつき)。
 ただし、秋味まつりのあと、カナディアンカヌー倶楽部のみなさんのお世話で、遊楽部川の川くだりを楽しむ。
 もうちょっと水量があるとゆっくりできるのだろうけど、水の少ないところや、必死でこがなくてはならないところが多く、ちょっと消耗した。
 続いて、熊石の町内会のみなさんが八雲の図書館などを見学に来るという、ほのぼのとした話題の取材。
 
 夜は、町営温泉おぼこ荘で日帰り入浴。露天風呂は、川のせせらぎを聞き、月をめでつつ、貸し切り状態。あ〜、あずましい
 ついで焼肉という、豪華な一日だった。

 10月23日(土)

 仕事(一部、家族サービスつき)。
 午前は、遊楽部川のサケ観察会。町公民館の行事。
 川にどんどんサケが遡上してくる。けっこう感動した。寒いけど。
 午後は、本社のアテネ五輪派遣記者による講演。これも公民館の行事。

 新潟県で震度6の地震が3度発生。
 開業以来はじめて新幹線が脱線した。幸い、けが人はなし。
 しかし、地震の死者は増えそう。
 こないだ、颱風(たいふう)で兵庫県豊岡市の大半が水没したばかりというのに。


 10月22日(金)

 八雲高校で、中学三年生向けの学校説明会が開かれたので、ようすを見に行く。
 少子化時代で、公立高校といえども、生徒集めには余念がない。
 校長先生は
「鶏口となるも牛後となるなかれ、といいます。駒大苫小牧の野球部に入って万年補欠でいるより、中規模校のわが八雲高で全道を目指したほうがいいのではないか」
とあいさつしていた。

 なるほど。

 10月21日(木)

 颱風(たいふう)が来なくてほっとした。
 しかし、本州はすごいことになっている。


 10月20日(水)
 朝、新聞各紙を見ると、北大の医師らが女性に乱暴して逮捕されたという記事が載っており、読むと、八雲町富士見町の看護師も逮捕されている。
 げっ、おなじ町内じゃんか。
 しかも、町立の八雲総合病院の男らしい。
 しかし、きのうもきょうも、本社も函館支社も、「町幹部の談話を聞いて来い!」とか、べつになにも言ってこない。
 まー、殺人事件とかじゃないからいいか(いちおう役場には後で行きました)。
 殺人なんかだと、火の粉がぜったいこっちにふってくるもんね。
 筆者も、地方版の仕事をおっぽり出して、あちこち走り回らんきゃならん。
 

 「まさか」同僚ら絶句
 事件翌日も冷静に勤務

 ●日、札幌で女性を殺した疑いで逮捕された渡島管内■■町どこそこ、町職員、誰野何某(23)は、事件の翌日は夜勤で、午後五時から普段通り、町立博物館で勤務していた。
 「まさか…。いつもと同じそぶりで、とても大きな事件を起こしたようには見えなかった」と同僚の学芸員は驚いた表情で語る。
 同館のほにゃらら館長によると、勤務態度はまじめで、口数は少ないほう。入って3カ月間、問題は起こしていないという。
 同町では昨年七月にも、強盗容疑で●●課の職員が逮捕されたばかり。相次ぐ職員の不祥事に▼町長は「まことに申し訳ない気持ちでいっぱい。いっそうの綱紀粛正に努める」と沈痛な面持ちだ。
 見学に来ていた同町の主婦(53)は「この施設は地域でも大切な役割を果たしている。だからこそ、いっそうしっかりしてほしいのだが」と険しい表情で話していた。


 …みたいな記事を書いて出さなくてはならないのだ(以上は、もちろんフィクションです)。
 やりたくないなあ。
 世の中には、新聞記者は、なにか事件や事故が起きたほうが飯のたねができていいだろう…と思っている人が多いようだが、そしてそういう記者もいるだろうが、筆者はひたすら平和を望んでいます。

 21日、上記の架空記事の表現を手直ししました。

 10月19日(火)
 昼前から急きょ思い立って、休日ということにする。
 もっとも、新聞社が火曜日に休んでいるとは、世間は(社内の他部署も)思っていないので、電話やファクスなどはどんどんくる。しかたない。
 いっそどこかに出かけてしまえばいいのだが、あまり遠出すると、こんどはそのせいでくたびれてしまい、なんのために休日宣言したのかわからなくなってしまう。
 したがって、家人と出かけた先は、Aコープと図書館だった(近すぎ)。
 あるいは、道新の支局長が昼間からさぼって買い物しているとか誰かから思われてるかもしれないが、そんなことまで気にしちゃおれん。
 Aコープでは、サンマが1匹50円(しかもうまかった!)。
 図書館では、ロビーでひらかれていた陶芸展の写真を撮ったりしていたので、家人から、ほんとに休みなのかと言われる。
 夕方は、ウィーンから招いた兄弟のミニコンサート。ふたりで2台のピアノを弾く。
 4人で聴きに行ったが、終わって娘(4歳)のほうを見ると、いすに姿勢正しくすわったまま寝ていた。
 大物だ。
 夜はテレビで日本シリーズ観戦。両チーム満塁ホームランが1本ずつ出るハデな試合で、見ていてたのしい。缶ビール飲んでナイター見てるなんて、じぶんのオヤジ度をつくづく感じる。


 10月18日(月)

 すこし仕事への意欲が戻り、シコシコ原稿書きにいそしむ。

 上八雲から林道をドライブ。
 先週、植樹祭で行ったトワルベツ川の上流からどこに抜けるのか、行ってみたかったのだ。
 林道の割には、幅も広く立派な道である。
 後半は、かなり尾根のようなところを走った。周囲は、山頂が平らで、まるで一大高原地帯のようだ。これほど標高が高いのに起伏の穏やかなところは、日本では珍しいのではないか(網走管内美幌町から女満別町にかけても似たような地形が広がっているが)。
 そのうち、山崎に出た。

 10月17日(日)

 午後から仕事。
 もし早朝に目が覚めれば、札幌まで車を暴走させて、芸術の森美術館(札幌市南区芸術の森2)での丸山隆彫刻展のオープニングパーティに出ようかと、チラッと思ったけど、そうそう都合よく起きることなんてできないのであった。

 10月16日(土)

 仕事。例によって行事取材。
 八雲町ロードレースの開会式を見る。
 壮年男子はエントリーがいない。
 ということは、出場して完走しさえすれば絶対に優勝である。
 3キロぐらいなんとかなるような気もするな。と、来年のことを考える筆者であった。


 10月12日(火)−15日(金)

 いやー。盛り上がらんなあ。仕事。

 16日にスケジュール表の更新をしました。


 10月11日(月)

 連休! いつ以来だろう。。。
 空模様が悪いこともあって、どこへも行かずヒッキー状態。

 あーとだいありーを更新。
 「北の彫刻展」「流政之展」「堀内正和の世界」については、稿をあらためる予定です。

 フランスの思想家ジャック・デリダさんが亡くなりましたが、彼は美術にも関心が高かったらしく、その方面の著作がかなりあります。
 「基底材を猛り狂わせる」はアルトーのデッサン論。筆者は、碓井良平さんにすすめられて読みましたが、挫折しました。
 ほかに、デリダ流のカント解釈「絵画における真理」や「盲者の記憶―自画像およびその他の廃墟」などがあります。

 10月10日(日)

 休み、爆睡。
 朝7時に起きて、また9時にねてしまい、夕食の前まで寝ていた。
 しかも夜9時に寝てしまった。
 いったい、どうしてこんなに眠れるのか。じぶんでもわからない。

 なお、妻の妹一家は、みごと道内の「道の駅」82カ所を制覇したそうです。おめでとう!


 10月9日(土)

 昼過ぎまで仕事。
 きのうから妻の妹一家が泊まりに来ていて、きょうは道南の「道の駅」制覇をするというので、朝から出かけている。
 夕方からねむくてたまらず、自宅の居間で横になっていたら、みんなが帰ってきて、4歳の娘から
「パパ、ちゃんと働きなさい」
と言われた。
 1日あそびまわっているやつになんでこんなこと言われんきゃならんのじゃ(T_T)

 10月8日(金)

 朝から忙しい1日。
 役場で表彰状の伝達、中心部で交通安全運動、農村活性化施設で農家のおばさんたちの漬物つくり、長万部で商業高校の研究会と、取材が相次ぐ。
 午後は八雲高校新聞局がことしの新聞コンクールで総合賞をとったので、その取材。夕方は、噴火湾パノラマパーク(仮称)の工事の進捗状況について。

 長万部−八雲間の国道沿いは、ススキがうつくしい。
 晴れた日に逆光で見ると、穂が光をはらんでいるようだ。
 四季をあらわすことばとして「青春、朱夏、白秋、玄冬」といわれる。
 むかしから、どうして秋が白なんだろうと思っていたが、これはススキのことを言っているんだろうと思う。

 ついに米国の調査団が、イラクと同時テロとが無関係であることをみとめた。
 あたりまえだろう。
 それでも、あの戦争が正しかったと言い張るブッシュ政権は、いったいなにを考えているのやら(なにも考えていないのではないかという気がする)。

 10月7日(木)

 朝は、上の湯小学校跡でガラス工房をひらいている田村泰人さんのところにおじゃまする。
 これは全道的なことだと思うのだけど、廃校跡にアトリエをひらいている画家や工芸家は八雲にも何人かいる。
 なかなか良いところだと思うので、興味のある方、都会暮らしに疲れた方は、八雲町役場に相談してはいかがでしょうか。いま、おあつらえの物件があるかどうかはわかりませんが。

 10月6日(水)

 疲労がたまっていたので、おもいきって「逆半ドン」(?)とし、午前中は自宅で寝ていた。
 しかし、午後からはマジメに仕事に走り回り、あまり疲れはとれてないようなのであった。

 午後、米国カリフォルニアで活動するニュークリア・ウェールズ・サキソフォン・オーケストラなる、サックスばかり6人からなる楽団の演奏会で長万部へ行った。
 なかなかたのしい演奏だった。こういうのをタダで聴けるのが、地方のいいところかもしれない。
 バッハは、コルトレーンのシーツ・オブ・サウンドに似ていると思った。


 10月5日(火)

 朝5時過ぎから、たまった原稿書きなど。
 昼間は、本社から上司2人が仕事ぶりを見に来る。
 7月以来、上司がそばにいないところで働いているので、やや緊張する。
 夕方はねむかった。

 表紙のトピックスを大量に更新した。

 

 10月4日(月)

 さすがに疲れがたまってきている。
 午前中は新聞の整理などをして体力の恢復を待った。
 午後は、上八雲地区にある北里大の牧場などに取材に行く。帰宅7時半。

 10月3日(日)

 北海道浅井学園大学北方圏学術情報センター ポルトギャラリー(中央区南1西22きょうも午前中は体育館などで行事の取材。
 午後から家族サービスを兼ねて、森(八雲の隣町。といっても33キロある)の青葉が丘公園で遊んだ後、砂原の「道の駅」までドライブ。
 道道森砂原線は、緩やかなカーブが続き、沿道には古い家がならんで、ドライブしていてとてもたのしかった。
 八雲に戻ってから、さいきんオープンした温泉「和の湯」に入ったあと、焼肉屋へ。地元産の肉を食ったら、めちゃくちゃうまかった。

 アクセスが14万に達しました。
 筆者の転居で7月以降、更新が極端に滞っていますが、アクセス数はそれほど減っていません。
 勝手ながら、今後とも皆様のサポートをよろしくお願いいたします。


 10月2日(土)

 なぜか行事がやたらと多い1日。
 朝9時の「梅村庭園」写生会を皮切りに、町民スポーツフェスティバル(なぜか団体なわとびで盛り上がっていた)、道立公園予定地の「公園作り体験会」の様子をのぞいた後、昼食でいったん自宅に戻る。
 午後は、写生会の審査(筆者は審査員もやっている)、長万部に行ってPTAの研修会、八雲に戻って青少年健全育成推進協議会創立20周年記念の講演会。
 5時過ぎに支局に帰り、7時過ぎまで原稿書き。

 10時間ぐらいしか働いていないけど、疲れた。

 掲示板にも書いたけど、苫小牧のベテラン画家の遠藤ミマンさんが亡くなった。
 90歳で、小川マリさんを別格とすれば、高齢者の多い全道展会員でも最高齢だった。
 筆者ははじめ(1996年ごろ)、女性だと思っていた。
 ご本人にお会いしたら、ひょうひょうとしたおじいさんだった。「ミマン」というのは筆名だ。
「おお、おたくはどこから出現したのですか」
と、まるで星みたいなことを言われて、なんだかおかしかった。
 全道展は、どっちかというと重たい絵が多いんだけど、その中で、やわらかく童心にみちた明るい色彩で、会場にやすらぎをもたらしていたと思う。
 もっとも、甘さに陥らなかったのは、とにかく厳密なまでに構図を追求していたためだと思う。
 晩年は入退院を繰り返していたが、病院の寝台の上で、見舞いに来た人や、花をスケッチしたものをコラージュして作品に仕立てたのは、画家魂みたいなものを感じさせ、心打たれるものがあった。
 そういえば、作品集を出したいという話をしてらしたと思ったけど、どうなったんだろう。
 ご冥福をお祈りします。