<第1書架>

読んだ本を思いつくまま
並べてみました・・・!

佐山和夫「ジャップ・ミカドの謎 米プロ野球日本人第一号を追う」(文藝春秋社)
TV番組「知ってるつもり」で、およそ90年前、米国本土で「ジャップ・ミカド」として活躍した日本人野球プレイヤーのことを取りたことがあった。

 いうなら、現在活躍中の野茂、イチロー、新庄、佐々木、長谷川らの大先達というわけである。
僕が知ったのは、スポーツ・ジャーナリスト、佐山和夫氏の「黒人野球のヒーローたち」(中公新書)を読んだときであるが、それに言及されていたのは、わずかに2ページ弱。が、おそらくこの時点で、ある程度のことは判っていたものと思われる。
 1996年4月、佐山氏の調査は本書として結実する。

  野茂英雄の大リーグデビューより80年も昔、米本土で「ジャップ・ミカド」の名で活躍した日本人選手がいたという。その謎を追っての時空を越える旅は、戦前、来日した黒人のプロ野球チームを調べている中で佐山氏が、米国の野球関係者から教示されたことがそのスタートとなった。
戦前、黒人野球の名門チームだった「カンザスシティ・モナクス」の前身たる「オール・ネイションズ」の選手の写真の中、ひとり写っている東洋人の貌。
かれこそ、チーム・メートより「ジャップ・ミカド」と呼ばれた日本人だった。
その写真が撮られたのは、1913年。もしこれが事実なら、「ミカド」こそ日本人プロ野球選手第一号となり、球史は新たなページを書き加えることとなる。
 が、その探索の旅は、容易なものではなかった。

 「ミカド」が在籍した「オール・ネイションズ」の試合ぶりを報道した当時の新聞記事に、「彼」についての記述があまりにすくない。ついで、「彼」の名前の読み方がミカド、ミカマ、マクム、マック・カミ、マッカミ、マコミと、一貫性がない。
 1914年、「カンザスシティ・ジャーナル」に掲載された日本人選手の紹介記事に「東京大学の出身、訪米した日本の大学チームの一員」とあったのを手がかりに調査するもまったくの進展なし。
 が、思いもかけぬところより解決の糸口は与えられることとなった。
 SF作家にして古典SF研究家でもある横田順彌さん。
その横田氏から佐山氏のもとに、「ジャップ・ミカドとは、早稲田大学の選手だった三神吾朗さんでは」との連絡が寄せられたという。

 たしかに横田氏の著作「天狗倶楽部怪傑伝」(朝日ソノラマ 1993)に、三神吾朗の名前はあった。明治時代の末期、1909年、東京に早稲田大学出身者を中心としたスポーツ愛好団体が誕生した。これが「天狗倶楽部」である。くわしくは横田氏の著作に譲るけども、そのメンバー多士済々、主宰たる押川春浪のバンカラぶりも反映してか、なんともユニークな存在だったらしい。
で、その「天狗倶楽部怪傑伝」の末尾に1924年(大正13)の時点での倶楽部の会員名簿が掲載されている。そのなかに、われらが三神吾朗の名が見えている。

    三神吾朗(在米、ノックスカレージ在学)と、ある。

 ただ問題なのは、この三神吾朗と、米国で「ジャップ・ミカド」として知られた日本人と同一人物なのか、ということである。
 佐山氏は、これに一応の解答を与えておられる。

 三神吾朗の実家、三神家は山梨、甲府の大地主、素封家であったらしい。
父・有長は長崎に留学するほど向学心のあった人物。起業家としても先見の明があった人で、とても大家のボンボンではなかった。母「とよ」との間に誕生した11人の子どもたちは、そんな父親の影響からかそれぞれに異色の人材へと育っていった。
 三神吾朗のすぐ上の兄、八四郎ともども、クラーク博士の影響を筆者は指摘しておられる(本書十六章「アメリカ雄飛の謎」)が、それと同等に、子々孫々、三神家に伝えられてきた「先進性」「開拓魂」とでもいうものをもっと重視すべきではないのか。
そんな気がしている。
林直道「日本歴史推理紀行」 (青木書店)
 経済学者で歴史に関心をもつ著者が、学会出張の折りなどに歴史の秘話を訪ね歩いて二十年、一冊にまとめた労作だ。十一編がまとめられている。
といって堅苦しい論文集というワケではなく、謎の古代文字だの、太平記だの、李舜臣提督の事跡だの、楠木正成の強さの秘密だの、楽しい話題満載の好著である。

 その一編に、丹後半島にある天の橋立をめぐるエピソードが紹介されている。
1937年、日中戦争の前夜。
軍需物資の大型船への積み込みを可能にするため、橋立の中央部を切断しようとする計画がもちあがった。。それに対して真っ向から反対したのは地元の宮津町・町長の三井長右右衛門。政府か中央の意志を代表してやってきた伍堂卓雄商工大臣(林銑十郎内閣)のたび重なる「説得」にもかかわらず、クビをタテにふらなかった。

 「いくさは一時のもの、百年も続くわけはない。だが橋立は切断すれば二度と元へは戻らない。日本人の心のシンボルが消える」
 正論である。
が、あの時代、軍部の意向を体現した権力者に反対することはヘタしたら生命の危険をも意味したハズである。しかしそうした身の危険を顧みず、三井長右右衛門がその主張を貫けたのは何故なのか?著者はその秘密として、次の二点を指摘されている。
 第一に、北前船の寄港地、丹後若狭方面最大の漁業基地、そして「丹後縮緬」の中心地として隆盛を誇ったことからくる「中央の政治家とて何するものぞ!」という気概。
 第二に、そうした経済基盤に加え、宮津市に存在した「天橋義塾」の存在に求めている。これは自由民権時代、日本全国に設立された学習結社のひとつである。そうした精神的支柱、血脈。

 以上の二点が、軍部の暴挙に立ち向かった三井翁の心中にあったのではないか?
むろん真相は余人の知るところではないだろうが、これから天の橋立を訪れる人はそうしたエピソードを胸にかの地を望んでも一興だとおもう。
ジョン・クリストファー「トリポッド1 襲来」(ハヤカワ文庫)
 かって学研より「三本足シリーズ」三部作として刊行された(1978〜79)ものがあった。絶版状態であり、まさに「伝説」のシリーズ本であった。
本書は、88年に作者が新たに書き加えた「前日譚」をシリーズにくわえ、四分冊とした新訳版である。
旧訳版では、「トリポッド」侵攻の経緯は、主人公の少年たちが反攻のための情報をもとめて「敵」のドーム・シティ(たしかパリあたりだったか?)に潜入したときその一端が記述されていただけである。
この第一作では、その発端が明らかにされている。
イラストがポップな印象なため、「軽い感じ」のストーリーに思えるのだが、その実体は、どうして恐怖と戦慄をともなう深刻な話となっている。
 世界各地に出現した三本足の「戦闘機械」は当初、各国の軍隊に軽く一蹴されたのだが、じつはソレは侵略のささやかな始まりにすぎなかった。
やがてテレビ番組を通じてのサイコ・コントロールが開始され、「トリポッド」の尖兵と化す人間たちが激増していく。そして精神的奴隷に堕ちた人間たちが人類の過半を占めたとき・・・!

 主人公の少年たちとその一家は、イギリスの家をすて、スイスの係累を頼って難を逃れようとする。が、そこにも「トリポッド」に洗脳された「キャップ人」(帽子タイプの洗脳装置をかぶっているのでそう呼称される)は押し寄せてくる。主人公たちは更に山岳地帯へと脱出し、後日の反撃を期するのである。ローリー達の意志は、100年後、彼らと同じ西の島国より旅立った少年がアルプスの麓に辿り着いたとき受け継がれることになる。
  その時、歴史は、激動を開始する・・・!

  本書の少年たちこそ、およそ100年以上の未来世界にて、人類復活をかけて闘うレジスタンスの一派となった祖であろう。続編が待たれる。
「トンデモ本の世界」 と学会・編(宝島社文庫)
 トンデモ本、とはなんなのか?
ずいぶんと一般化されてきた感のあるコトバではあるが、ライターの藤倉珊氏の定義によると、「著者が意図したものとは異なる視点から読んで楽しめるもの」だそうだ。
本書は、その一部を紹介したもの。
一読、抱腹絶倒とはこのこと。会社で読み、同僚に奇異の視線をあびてしまった!
この手の本、公衆の面前で読まぬ方が無難。
にしても、世の中、こんなろくでもない本が溢れていたとは、意外。

 いまさら言うまでもないが、「トンデモ本」とはベツに奇想天外な内容の本にあらず。
著者は大まじめに書いていると思われる。
ただ客観的によむと、常識はずれ、妄想、とんちんかんな内容に充ち満ちている書物のこと。

 だから、むしろ読者の側が大いに問題となる。
まともな常識、判断力を有しているかどうか、がある意味試される。
だがしかし、本書は、そうした「トンデモ本」をベツにやり玉に挙げ、駆除しようというのではない。
笑いのめすというか、酒の肴にして楽しもうという趣向のようだ。
こういう態度、正しいと思う。
真剣になってはダメである。自分をふくめて笑いとばす、そのくらい余裕がないとロクなことにならない。焚書なんていう最悪の結果になりかねない。

なかでも僕が笑えたのは、「トンデモ小説古今東西」として紹介されている門田泰明「黒豹シリーズ」
そして、志茂田景樹「極光の艦隊」など。
たしかに「黒豹シリーズ」など本屋さんの棚の目立つとこにド〜ンとならんでいるのだが、まさか、そんな内容の奇天烈本とは思わなかった!
それが人気のベスト・セラーになっているとは、摩訶不思議なお話。
清水義範「開国ニッポン」 (集英社文庫)
 この著者には、「架空日本史」とでもいうジャンルの作品がある。
秀吉に実子が誕生していたら、その後の歴史はどう変わったかという「金鯱の夢」がそうだ。
そしてこの作品では、日本が「鎖国」をしなかったらどんな歴史になってたろう?そんな架空日本史が展開されている。

 どうやら著者の考える歴史の分岐点は、日本に帰化したウィリアム・アダムス、すなわち三浦按針にありそうである。彼が初代将軍、家康にある提案をするのだけど、それがその後の歴史を左右する結果となっていくのだ。
本書の解説者も指摘しておられるが、著者は歴史に対して深い造詣をもって本作品を執筆してあるとおもう。思いつきで奇矯なストーリーをつづっているわけでは決してない。
だからこそ、ひょっとしたらありえたかも?と読者を唸らせる虚構の世界が構築できるのだろう。

 むろん、そんなこむずかしいコトを考える必要はないのだ。読者は「正統な歴史」では味わえない組み合わせの妙味を味わえばいい。「鎖国」という因子が日本史から取り除かれた結果・・・。由井正雪が江戸で最初のアイス・クリーム店のオーナーとなったり、将軍・綱吉が母桂昌院のためにフランス風の宮殿を建設したり、吉宗がイギリス本国から大科学者アイザック・ニュートンを招き、江戸で講演会を催すこととなったり・・・。

ともかく、その後の歴史は抱腹絶倒、奇想天外なもののオンパレード!
歴史好きにも、そうでない人にも楽しめる一冊である。

 あ、それと、ひとつ蛇足ながら。本書、67ページ〜70ページにかけて。
ある人物の科白が、奇妙な印刷となっている。初め僕もパニクったのだが(笑)コレ、べつに印刷ミスではない。返品などなさらぬよう!


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