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異色としか形容できない科学者たちの列伝。
その中から・・・。
ヘンリー・キャヴェンディッシュ(1731〜1810)
公爵家につらなるイギリス名門貴族の長男に生まれた科学者。父親と同様、王立科学協会の会員。
優秀な科学者であったが、同時に奇癖の持ち主としても有名であった。生涯独身と通したが、コレは大変な女嫌いがその理由とされる。女性とカオをあわすことさえ避けていた。
ある日、新顔の女中がうっかり顔をあわせてしまい、即座にクビになったこともある。
また内気な人柄といえば聞こえは良いが、他人と話すことが殆ど出来なかった。
科学者仲間でのパーティでも対話がまるで成立しなかったらしい。
しかし、だからと云って、学者仲間から軽視されたり、疎外されたことはなかった。
キャヴェンディッシュが発表する論文から、そして重い口の端々から、人々は彼の天才を感じとっていたのである。
しかし、キャヴェンディッシュの真価を世界が知ったのは、彼の死後のことになる。
キャヴェンディッシュが残したおびただしい科学論文が調査された結果、途方もない事実が日の目をみたのだ。
科学史に燦然とのこる、ファラデー、オーム、クーロンらの発見した法則はその遙か以前にキャヴェンディッシュによって発見されていたことが明白になったのである。
どれひとつをとっても、まさにノーベル賞クラスの発見を、彼一人でやってのけていたのである。
研究することのみに生き甲斐をみいだし、発表して名声をえることに全く意欲を覚えなかったキャヴェンディッシュ・・・奇人ぶりもここまでいくと、感動ものである。
(莫大な遺産を相続し、生活の心配をしなくてよかった彼だからこその無欲、との見方もあるだろうけどもネ・・・)
新発見したモノを、一瞬でも早く世界に認知させようとドタバタ劇をくり返す人々。
彼らに比して、キャヴェンディッシュの執着しないその無欲さは爽やかな風となって吹き抜けていく。そんな気がする。
<追記>
このキャヴェンディッシュのことは、清水義範氏も作品の題材とされた。「陽のあたらない坂道」(新潮文庫)収録の「沈黙の先駆者」がソレ。
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唐の太宗皇帝の御代、遠く天竺まで求法の旅をした玄奘の冒険物語。
私たちは玄奘を「西遊記」の三蔵法師のイメージ、つまり無類のさらわれ役としてみなしがちであるが、(TVの夏目雅子ら女優の影響からか?)実態はかなりちがっていた。
少なくとも、本書では天才的な頭脳と、強靭なまでの意志をもち、権力に媚びない気骨をもっている人物として、玄奘は描かれている。
そして、唐の第二代皇帝、李世民。玄奘が聖の代表なら、李世民は俗のトップとして、正に対立者としてこの物語を構成しているものと思われる。玄奘が天竺へ旅だってじつに十九年をへだて、李世民は、ついに長安に生還した玄奘と対面している。このそれぞれの意味で時代に冠絶した両者が、どのような思いでこの会見にのぞんだのか、余人に知るすべはない。できうることなら、このシリーズ、そのあたりまで書き込んでもらいたいものだ。
本書の構成は以下の五章より成り立っている。三章までは、単行本「チャイナ・ドリーム」(徳間書店 3巻まで刊行)に収録。四章、五章は書き下し
第一章 天馬千里行
第二章 金狼姫迷情
第三章 葱嶺無涯
第四章 縛芻河 狂涛
第五章 炎天の黒嵐
玄奘は一見、向かうところ敵なしの超人みたいな印象であるが、しかし、彼にも弱点はあるらしく、それが露骨なまでに現れるのが、第二章においてである。高昌国なる国の、たぐいまれな美女である紅蓮公主にぞっこん惚れ込まれ、迫られたときの玄奘は日頃の冷静沈着さはどこへやら、慌てふためきなすところをしらず・・・というじつに人間くさいシーンを披露してくれるのである。玄奘にとって、彼女とはよほど相性がワルかったらしい。笑える。
余談ではあるが、この時玄奘に王妹以上に惚れこみ自分の補佐役として国に留まるよう懇願した高昌国王・麹文泰は、天竺より帰国のさいに今一度自国に立ち寄るという条件で玄奘を送り出したのだが、ついに両者は再会することはなかった。玄奘が天竺に滞在していた西暦640年、高昌国は唐により滅ぼされていたのだから。玄奘の旅程のコースをなぞるが如く、唐が軍事介入をおこした事実に小松左京氏はある推論をたてられていたのを記憶している。その是非、如何?
「玄奘と李世民」については、伴野朗さんに「中国歴史散歩」(集英社1400円)というエッセイ集があり、その中に詳しい。関心のある方は、ご一読あれ。 |
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スティーヴン・グールド「ワイルド・サイド」上・下2巻 ハヤカワ文庫 |
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スティーヴン・グールドの、「ジャンパー」につづく第2長編。
上・下2巻本として刊行された。
主人公のチャーリーをはじめ、メインの連中は高校を卒業したばかりの若者たち。本書は、7年前に失踪した伯父から異世界へと通じるトンネルを引き継いだチャーリーと、その仲間たちがくりひろげる冒険ストーリーである。
異世界へのトンネル、というテーマで僕などすぐ想起するのは、石川英輔さんの「亜空間不動産株式会社」(講談社 1981)である。たしかに両者は似かよったテーマをあつかっている。異世界へのトンネルを発見し、それでもって金儲けをたくらむチーム。だが、そのアプローチはずいぶん違うようである。
石川さんの作品では、本業が不動産会社ということで、それもさすが大人のやることで、かなり現実を見据え、キチンと戦略をたててとりくんでいたようである。
が、一方の、わがチャーリーの一味は、そこはまだ子どものやること。まず最初に活動資金を確保するために、20世紀では絶滅したが異世界はにいまだ生存していたリョコウバトを売りにだしたのはいいが、早くも大人たちに不審がられたりしていて、なんだか危なっかしい。
もっとも高校を卒業したばかりの若者のグループにしては、本命の金鉱発掘に備えるため、異世界に基地をつくったり、メンバーに飛行機の操縦を修得させたり、けっこう頑張っているな〜という印象はある。
それどころか、日本の高校生に同じことをやれといっても、ここまでできるかどうか。石川英輔さんの描くところの村崎不動産の面々は、ご存知のごとく、日本の政治・経済はおろか、ついには世界全体の動向を左右するまでの力を蓄えたのだが、ま、これはチャーリー一派に同じことを望むのがムリかもしれない。
村崎不動産の面々が発見した世界は、いうならば「リゾート惑星」とでもいうべきもので、先住者や危険な猛獣などが棲んでいたならば、また物語は別の方向へとむかっていたハズである。その点、チャーリーたちは、内に、未だ絶滅していない先史時代の肉食獣、外に彼らの秘密を狙っている大人たちを敵としてもっているのだから、苦労はあまりあるものがある。
チャーリーたちがいかにして、自分たちの異世界を守り抜くのか、起死回生の大秘策を期待してもバチはあたらないと思うが、如何? |
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フレドリック・ブラウン「73光年の妖怪」 創元推理文庫 |
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とある古書店で、本書を発見。
1963年に初版発行。 コレは、1978年28版。100円で購入。
作品の冒頭、米国の片田舎にころがっている正体不明の物体。
一見小さなカメに似ているが、そうではなく、これこそ73光年もの離れた惑星から地球へと送られてきた異星の生物。べつに本人の意思でやってきたワケでなく、犯罪をおかした結果、追放されたのだ。いわば流刑者。その方法としては、どうやら瞬間転送機のたぐいが使用されたらしい。
この地球がえらばれたのは、無作為の選択の結果であり、追放した側もソコがどんな環境の星かまったく知らなかった。こうなると、追放とはいえ事実上の死刑。
が、流刑者の「彼」にとっては幸運なことに地球は生存に適した星だったわけ。「彼」には四次元レーダーにも似た感覚があり、自分を中心にしたある距離の範囲内のことはすべてを見通すことができる。また(ここが肝心なのだが)知性生物の心に憑依することで、その生物をあやつる能力があるのだ。いったん取り憑いたら最期、「彼」が死ぬ以外解放されることはない。
故郷の星では「彼」の種族は、そうした知性生物をコントロールし、社会生活を営んでいる。どうもその種族は、寄生するためのより上等な生物を探していたフシもあったりするのだな。
でもって、「彼」は流刑になったこの地球で、奇跡的にも人間という絶好の寄生体を発見してしまったというワケ。
この作品、ジャンルでいうと「侵略テーマ」になると思うのですが、しかし、お判りのように、この「彼」、積極的な、自発的な侵略者ではない。唯、生き延びたかっただけ。自分の星に還りたかっただけ。
もう少し弁護すると、ついでに地球と人類のコトを報告すれば恩赦はおろか、種族内の英雄にもなれるかも?と欲をかいただけ・・・。
生きのびようとする「彼」の意志と、ソレが招来する地球人類にとっての結果の、巨大なまでの乖離。そこに両種族の生存を賭けた死闘がスタートした・・・そうもいえるでしょう。
考えてみると、「彼」も可哀想なヤツです。
が、人間にしてみれば、彼の望みが達成されたら困るのですよね。人類が絶滅する危機に遭遇するワケだから。
故郷の星に還るべくその能力を駆使して策動する「彼」と、その結果生じた「怪死事件」に尋常でないモノを看取して真相を突き止めるべく行動する天才科学者!
まさに異種の知性体同士が斬り結ぶ死闘!
この辺りの緊迫感、そして「彼」の境遇にも一抹の同情を感じてしまう。
「73光年の妖怪」の読者が味わうブレンド感、ってトコか?
古書店なんかでみかけたら、ソッコーでゲットすることをお薦めする! |
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南條範夫「三百年のベール」は、およそ100年前に書かれた幻の奇書ともいうべき村岡素一郎「史疑徳川家康事蹟」をベースにした歴史ミステリーである。
異伝徳川家康との副題があるように、本書は、家康の出自に関する異色作である。
が、これはそれだけではなく、明治時代に実在した村岡素一郎なる在野の歴史研究家の評伝ともいうべきか。
徳富蘇峰「近世日本國民史」の一節に、「家康は、家康である。新田義重の後と言うたとて、別段、名誉でなく、また、乞食坊主の子孫だと言うたとて、別段恥辱でもない」とあるそうだ。
作者の南條氏は、この一節から家康が乞食坊主の子孫、との異説があるとの予想をつけられたらしいのだが、数年後、村岡素一郎「史疑徳川家康事跡」なる古書を偶然に発見。その内容から、蘇峰はコレをいっていたのか、と確信されたとのこと。
奇説とはいえ、蘇峰に言及されるとはやはり尋常な内容ではない。
現代でこそ「ほう、おもしろい!」ですまされるだろうが、かの本が書かれた時代はいまだ幕臣の多くが存命していたのである。とりようによっては神祖家康への誹謗中傷として有形無形の妨害があったのかもしれない。
本作品の中で村岡ならぬ「平岡素一郎」がその仮説の過激さに激昂した人々に暴行をうけるシーンがある。実際こんなことがあったかどうか不明だが、あるいはもっと陰湿なちをうけたのかも?
結局、「史疑徳川家康事跡」は耳目をあつめることなく歴史に埋もれる運命にあったのであるが、南條氏のこの作品がその再生に一役買うことになったのであった。
<付記>
ただ断っておくが、ぼくは最初、村岡素一郎という人物の実在そのものを疑っていたのである。
筆者の「あとがき」そのものの中に、フィクションがないとはいえない。
昔、「SFマガジン」に連載され、のち単行本、文庫としてまとめられた半村良「産霊山秘録」には完全に騙されたクチである。
あの作品の冒頭、登場する「神統拾遺」とかいう史料、作者がもっともらしく披露するものでヒの民が実在したものと思いこんでしまった!
リアルタイムで当時、「SFマガジン」を購読中の読者の中で、少なからぬファンがそうだったのではあるまいか?なにしろ連載第一回の「産霊山秘録」には作者の「前口上」までついていて、いかにもそれらしい雰囲気を盛り上げていたのだから。
一部の作家はかくのごとく、凶悪なまでに嘘つきな存在なのだ(笑) |
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