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展覧会の紹介

ユトリロ展 2003年5月14−26日
 大丸札幌店7階ホール(中央区北5西4)
6月22日−7月21日
 道立釧路芸術館(釧路市幸町4)
7月29日−9月23日
 道立函館美術館(函館市五稜郭町)

 ユトリロの名前や、どのような絵を描いていたかは、すくなくとも日本では有名である。
 これまでの美術全集のたぐいでは、かならずといっていいほど1冊を割り当てられてきた。
 しかし、なんでだろう。美術史のなかで、それほど重要な役割を果たしてきた画家なのか。
 そもそも、エコール・ド・パリの画家たちの美術史における意義って、なんなんだろうって思ってしまう。
 もちろん、かつてのような、印象派から後期印象派を経て最終的に抽象表現主義にいきつく−的な、単線的、直線的な進歩史観を持ってきて、エコール・ド・パリがうまくあてはまるところがないと言ったところで、しかたない。
 でも、ユトリロの絵って
「だからどうしたのさ」
と突っ込みたくなる。
 とりたててうまいとも、感情がこもっているとも思えないからだ。
 さびしい街角の絵ということであれば、わが佐伯祐三や赤穴宏、松本竣介のほうが、はるかに情感のただよう良い絵を描いているように筆者には思われる。

 画家たちと雑談していると、モネ、ルノワール、ゴッホ、セザンヌ、マティス、ボナール、ピカソ、デュビュッフェといった名がときおり出てくる。
 しかし、ユトリロの名前は聞いたことがない。
 画家のエッセーでも事情はおなじである。
 彼を引き合いに出して、じぶんはいい絵を描きたいという文章を、読んだおぼえがない。
 音楽の世界で「ミュージシャンズ・ミュージシャン」という言いかたがある。一般的な人気はべつにして、同業者の尊敬をあつめているミュージシャンというような意味だ。つまり、“通好み”を高く評価する風潮があるのだ。
 その伝でいうとユトリロは、あまり同業者から言及されない画家だといえる。“ペインタ-ズ・ペインター”ではないのだ。

 実際の街路をスケッチせず、絵はがきを見ながら描いていた−というあたりが、日本の画家たちに軽蔑されているのかもしれない。
 日本の美術教育は長い間粉本主義で、お手本をそのまま描くことがえらいとされてきたから、その反動で、絵はがきや写真を見て絵を描く手合いには風当たりが強い。
 街でスケッチしていると、子どもたちが寄ってきてバカにするので、しかたなく室内での作業にしたというから、同情すべき面もある。
 とはいえ、後期の絵に登場する点景の人物たちはどの作品でも、おなじ格好をして歩いており、実際の街路を見て描いていないのはバレバレで、やはり興ざめは否めない。

 では、なぜユトリロは有名なのか。
 それは、彼がすぐれて“パリの画家”であったということに尽きるのではないか。
 エコール・ド・パリでは、マリー・ローランサン、シャガール、スーティン、フジタ、モディリアニなど、人物画をよくした画家が多い。パリの町並みばかり描いていたのはユトリロくらいであろう。
 パリを
「19世紀の首都」
と呼んだのはベンヤミンだが、20世紀のある時期までまちがいなくパリは、世界の文化の中心地だった。
 だから、ベンヤミンだけでなく、デュシャンもヘミングウェイもピカソもパリに向かった。リルケは「マルテの手記」で「人々は死ぬためにこの都会に来ているのではないか」と書いた。だいたい、エコール・ド・パリの画家でフランス人なのはユトリロぐらいしかいないのではないか。
 
 パリへのあこがれという点では、日本人は、他の国民におとらなかったであろう。
 萩原朔太郎の初期の有名な詩がある。題は「旅上」。前半を引用する。
ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広を着て
気ままなる旅にいでてみん。
 なお、この詩は大正3年ごろに書かれたものであることを思うと、「背広」というもの自体が相当にハイカラでかっこいいものとしてとらえられていたことを想起しよう。
 とりわけ、一部の日本人がじっさいに欧洲へ行くようになり、しかし大半の人にとってはあこがれの域を出なかったという時期は、第1次世界大戦の終結した1919年ごろから、ふたたび世界情勢が緊迫化する1939年ごろまでである。
 この時期、多くの画家やその卵たちがパリへと旅立った。そこへ本物があるという確信があり、パリこそが絵画を計るものさしだった。独立美術協会の創立会員でパリに行ったことがなかったのは三岸好太郎をふくめ14人中4人だけだったという話を読んだことがある。そもそも、独立美術や、その前身とされている1930年協会が設立されたのも、当時の二科や春陽といった公募展の先輩格が
「パリの最先端にくらべて古い」
と、彼ら若手画家の目にうつったための不満が、大きな理由であった。
 さらに、島崎藤村や横光利一や和辻哲郎や金子光晴らがパリへ向かったのは
「西欧(文化や文明)をこの目で見るならパリだ」
ということが彼らにとってほとんど自明だったためではないだろうか。
 高村光太郎の絶唱「雨に打たるるカテドラル」は、ノートルダム寺院を西洋文明の象徴ととらえてこそ成立するのである。すくなくても、物質面では西洋に追いついた国に住んでいるわたしたちには、その絶望的ともいえる西洋への距離感、あこがれ、あるいはその裏返しとしての反撥は、もはや想像するしかない。

 ちょうど20世紀後半から現在までのニューヨークに似た位置付けの都市といえるのかもしれない。
 テレビ番組「たけしの誰でもピカソ」の視聴者参加コーナー「勝ち抜きアートバトル」で、最高賞に
「ニューヨークでの個展」
の権利が与えられたのは、二科展にむかしから「パリ賞」(パリへの留学つき)があるのと好対照をなしているように思える。
 しかし、いま挙げたような知識人だけではなく、パリへのあこがれはもっと広範囲にわたっていた。そして、そのあこがれを、もっともよく体現する存在がユトリロだったとはいえまいか。パリの街路に対していだく「リアルなイメージ」を、ユトリロが表現しているように、彼らには思われたのであろう。
 あまりにあこがれがありすぎると、横光のように、大した観察もせずに帰ってくることになるのだが。

 なお、近年出た「西洋美術館」(小学館)は1000ページを超す大冊だが、たとえばデュシャンについては2ページの特集になっているのに対し、ユトリロは、「エコール・ド・パリ」の2ページの中で3、4行ほどふれられているにすぎない。このあたりが妥当な扱いではないのかなという気がする。
 
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