展覧会の紹介

「木田金次郎と茂木幹」展
 西と東の交感
2002年7月3日−10月29日
木田金次郎美術館
(後志管内岩内町万代51の3)

 北海道は広い。根室は遠い。筆者もまだ根室市内には行ったことがない。
 札幌からだと、特急と快速を乗り継いで6時間かかる。東京から新幹線で福岡に行くよりも長い。
 前橋生まれの茂木幹がとつぜん根室に赴き、歯科医院を開業したのが1929年(昭和4年)。
 当時の「時刻表」を見る。上野発の夜行列車が午後11時半。もちろん、寝台とかリクライニングシートはない。各駅停車で、座席は硬い。青森着が翌日の午後10時5分。青函連絡船で眠り、午前5時に函館着。9時に出る小樽行き普通列車に乗り、小樽着午後7時10分。根室行きに乗り換え、到着が翌日の午後3時33分。計88時間、足掛け4日の大旅行である。
 いま東京から88時間かかる所といったら、海外でも相当辺鄙な地ではないだろうか。
 当時の北海道は、本州人にとっては「外地」、要は植民地である。知り合いもいない“辺疆(へんきょう)”の地に行った彼の心境をいま、うかがい知ることはできないが、現在とは比較にならぬほどの覚悟があったことは疑いを容れない。

 木田金次郎は、生涯に亘ってそれほど画風に変遷の跡が見られない上、華やかな画壇の交流もとぼしかったようだから、毎年の特別展の開催にあたって館の苦労はたいへんなものだろうと思う。
 しかし、木田といえども、完全に孤高をつらぬいていたのではもちろんなく、何人かの画家とは交流があったようだ。そのうちのひとりが茂木であった。
 図録によると、ふたりの交流が始まったのは昭和10年代はじめころらしい。その後、戦争中には、ふたりとも近隣の村落に疎開もしており、じっさいに二人が岩内と根室を行き来するのは、戦後になってからである。
 ふたたび「時刻表」を見る。昭和22年、岩内を午後6時37分に出て、2回乗り換えた後、根室に着くのは翌日の午後4時48分。1950年代以降にはいくらなんでももうすこしスピードアップしているとおもうが、現代でもなお日帰りは不可能である。ともあれ、この隔たりを越える強い思いがふたりの間にあったのだろう。

 地元の人や、ほかの人がどう感じているかはわからないが、筆者には、道東、とりわけ釧路・根室地方の風土というのは、異質なものに感じられる。
 北海道には、たいていの年は、いくら短いとは言え夏がある。しかし、釧路・根室の海岸地方は、夏がないのにひとしい。毎日のように霧が空を覆い、太陽は姿を見せてくれないのだ。
 釧路では、最高気温が25度を超えることはめずらしい。気象台が観測をはじめてから、30度を記録したことはなんと歴史上2回しかないのだ。根室も、気温は似たようなものだ。
 釧路の郊外には、茫漠とした原野がひろがっている。木はまばらで、あとは湿地と草原だ。北海道の他の地方では、平坦な地の多くは田畑に開墾されてしまったが、この地方では、夏の低温のために、たいていの農作物はそだたない。牧草は生育できるので、酪農は行われているが、草地にせぬままに放置されたままの土地がいまも多くのこされている。
 こういう地方を旅しているときの心持は、一言で言って「寂寥」である。すさまじいまでの、寂しさである。近代の風景画が、作者の内面の反映であるとすれば、日本国内で、道東の風景ほど、人間の孤独感をよく表現できるところはないのではあるまいか。
 茂木の代表作ともいえる絵に「慟哭(どうこく)の森へ」がある。森、といっても、他の地方のような豊かさをたたえた森林ではなく、疎らな木が、きびしい気象条件のためにゆがみ、折れ曲がっているような地帯である。そこで、強風に泣きながらしかし力強く、晩秋の空の下、黒い枝を張っている1本の黒い木に、画家の共感を読み取ることができると思う。
 ほかに「野末」にしろ「青い花」にしろ、激しいタッチで塗られた色彩のかなたに、己の孤独さと向き合った画家の精神の極北―この画家は「チヌカルコロ」(アイヌ語で北極星の意)を名乗っていた―が、織り込まれているのである。
 

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