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展覧会の紹介

北海道立体表現展'03 2003年9月6日−15日
道立近代美術館(中央区北1西17)

ギャラリートークの風景。作品は下沢敏也さん 一昨年に続き、2回目の開催。
 今年見た展覧会のなかでも屈指のおもしろさだと思う。

 なにがおもしろいといって、「立体表現」というくくりが絶妙なんだと思う。
 「彫刻」というカテゴリーとはちがう。もちろん、彫刻作品は出てるけど。また、通常は「工芸」という分野に入れられる作家が何人も大型作品を出品している。さらに、どちらかというと「現代美術」という分類の作家によるインスタレーションがある。
 といって、彫刻があるからとはいえ首や裸婦はないし、工芸でも陶器があるわけではない。「現代美術」でもビデオアートなどはない。存在感たっぷりのバラエティーに富んだ作品群が、通常ギャラリーでひらかれている展覧会よりはるかにゆったりとした会場で鑑賞でき、しかも隣同士の作品が相互にひびきあうという一種のコラボレーション状態になっているわけだから、おもしろくないわけがないのだ。

 個人的には、工芸の作家をまねいたのがよかった。展覧会自体の幅が増したと思う。
 案内状でしか見ることができなかった下澤敏也「to move's」。
 陶芸家の下澤さんは、札幌ではうつわの展覧会をひらいているけど、インスタレーションはもっぱら関西など本州での個展でしか発表していなかった。
 高さ128センチの陶と土でできた塔が14個、ストーンヘンジのように輪を描いている。表面は、暴風雨が過ぎ去ったあとの大地の表面のように、荒々しい。ずっしりとした重みが、周囲の空間にまでつたわっていくみたいだ。
 下澤さんは、ギャラリートークで
「風化と浸蝕というテーマでずっとやっています。しばらくこのテーマでつくりつづけていくことになると思います」
と話していた。

 それでは、以後は、ギャラリートークでの作家自身のことばを引用するかたちで、紹介していきたいと思う。

 田村陽子「…どこへ…」
 240センチ×360センチの空間を、天井から吊り下げた2300本以上の緑のテグス糸で埋めつくした。
 素材は下澤さんと対照的でごく細くささやかなものだが、行為の集積が、会場空間を変容させている。
 わたしは織物もしていまして、ボビンに糸をまくのですが、テグスってまいても、とても反撥してくるくるってなっちゃうんですね。ウールや木綿はけっしてこんなかたちにはなりません。扱いにくいんですけど、そのまま置いておくとかたちになって取り出せたのがおもしろくて、この形態から何かできないかと思ってつくったのがこの作品になりました。
 日常の行為の積み重ねということでいえば、つぎのふたりにふれないわけにはいかない。

 楢原武正「大地/開墾 2003-9」
 楢原さんは、さびた釘、針金、廃材などによるインスタレーションをつくりつづけている。インスタレーションなので、展覧会で使用した部材は何度でも再使用できる。毎日、ひまをみては、錆びた針金を板に巻いたり、釘を木に打ち付けたりしている。個展のときは、トラック数台分の廃材などを運び込み、会場空間を変容させてしまうのだ。そのパワーは、圧倒されるものがある。
 筆者はお邪魔したことがないのだが、アトリエはたぶんすごいことになってるんじゃないかな。
 ただ、これは筆者が以前から何度か書いている個人的な感想なんだけど、大地の開墾というよりは、なんだか世紀末的というか、終末的な光景のように見えてしまうのだ。もっとも、今回の作品は、屹立する錆び釘の塔が、全体を造形的に引き締めているけれど。
 根っこは十勝の風景です。「大地/開墾」をテーマにずっとやっています。自然の素朴さ、力強さ、厳しさ、可能性を追求しています。(中央の塔は)丸太に釘を、ひとつにつき3万本くらい打ち付けており、2カ月半くらいかかっています。朝晩つねに手を動かして毎日コツコツと、作業をしています。機械文明に対抗して、手仕事をつづけていくというのがぼくの生き方で、対抗精神はつねにもっていたい。そこから開墾精神みたいなものをつくりあげていく。インスタレーションっていうのは彫刻とちがって、これで終わりっていうのがなくて、きりがないんですね。でも、これが生きている証と思って、がんばっていきたいです。
 大滝憲二「Universals-2-6・2832」
 むかしは立体をつくっていた大滝さんだけど、近年は、染料というか溶剤の皮膜部分を剥がして作品にするという行為を日々つづけている。いわば、ほとんど厚さのない、皮膜のみの作品であるわけで、それが立体表現展に出ているというのはなんだかおもしろい。
 今回は、オレンジ色の山がふたつ、スポットライトの下にある。
 色の塊です。それも蛍光色の。じぶんの思いとしては、見えるものと見えないものとでは、見えないものの方が大事ではないかと。今回は2832枚に、フラットな世界になりますようにという願いをこめました。
 現代への批判をこめた作品も目立った。
 野又圭司「New Order」
 正三角形をつらねた半球形の木製ドーム。直径4メートル、高さ2・4メートルと、これまでの野又作品でも屈指の大きさである。踏み台に乗って透明な窓から中をのぞくと、内壁には空が描かれ、緑の大地の中にビルが立っているのが見える。
 ドームの中につくってあるのは、飛行機がつっこんだニューヨークのビルをイメージしています。テロの事件そのものよりも、その後の世界情勢とかを見てつくづくイヤな世の中になったなあという悲しみと怒りをこめてつくりました。
 「どうしてビルがひとつなんですか」
と訊いたら
「あんまり説明的になっちゃうのもいやだし」。

 林教司「Satiation-03」
 昨年の個展、新道展に出したインスタレーションと、基本的におなじで、白く塗ったテーブルの上に、両手の石膏像がならぶ。右手のナイフが、フォークを持った左手に食い込んでいるさまを描写しており、いろんなものを食い尽くして、ついにはじぶんの手まで食おうとする、人間の際限なき欲望を諷刺している。
 作品名は「飽食」の意味。
 林さんはギャラリートークを欠席したが、「人間は、際限ない欲望の結果、戦争や異常気象を引き起こし、行き詰まろうとしている。現代への問いを作品にこめた」というメッセージを寄せた。この場にこのインスタレーションを出してきたということは、たぶんじぶんの作品系列でもこれが気に入っているんだろうと思う。

 藤本和彦「THE IDEAL NATURE SET」
 これまでの、いささか理屈っぽい作品にくらべると、じつに明快。緑のカーペットでくるんだ棒を、ビニールで梱包している。
 モノをビニールにつつんでホチキスでとめ、梱包(こんぽう)していくという作品をつくっています。今回ちょっとこれまでとちがうのは、花火セットみたいな持ち手をつけたことです。道新で「お手軽な自然志向への皮肉」とありましたが、まさにその通りでして、自然をお持ち帰りできるような雰囲気を出してみました。
 自然保護をもちろん否定はしませんし、こつこつと細かい実践をやっていくことは大事だと思いますが、知らないうちに破壊していることの方が多いのではないでしょうか。さいきん、じぶんはこんなに自然を保護していますよと、過度に評価する傾向がどうも鼻につきます。そういうことへの皮肉をこめてみました。
 仲嶋貴将「“対話”」
 これまでの「熱変」シリーズの彫刻から作風を一変させた。
 絵の具をぶちまけた樹脂の塊がひもとつながり、金具で引っ掛けられているさまは、まるで堵殺場の動物の皮のよう。死体がぶらさがっているようにも見える。けっして具象的でないにもかかわらず、剥き出しで、生々しい、インスタレーション。その醜さは、人間の、そして時代の醜さでもあるだろう。
 作者には、展覧会の会期中に「9・11」をむかえることが念頭にあったという。
 野又さんとおなじく「9・11」をテーマにしています。造形とも彫刻ともちがう表現になっていると思います。自分と世界の関係を、薄っぺらな素材で表してみたというところもあります。外を見てください。作品に対し、すごくきれいですよね。でも、あしたもおなじ太陽が昇るとだれが言い切れるでしょう。
 荒井善則「Soft Landing to Window」
 作風の一変といえば、この作家の平面インスタレーションというべき作品にもおどろいた。インスタレーションにしろ版画にしろ、いろいろな色彩や線が躍る、動感ある空間をつくっている作品が多かったからだ。
 今回は、白の正方形が横に6個、3列ならんでいる。上の列と下の列は、正方形のさらに内側に、やや傾いた正方形が浮き出ているのが見え、中央の列には、円形がうかんでいる。シンプルな作品である。
 なるべく壁と同化させ、なるべく単純な形とおさえた色でいこうとしました。もうひとつ、北海道でつくった、あるいはつかったものを作品に入れようとつとめています。下の四角に入っているのは、電線の碍子(がいし)です。丸と線の中に必要なものだと思い、入れてみました。
 また、ギャラリートークの際に配布したプリントの文章もここで引用しておこう。
 立体であっても 立体でない
 そこには 色があっても 色でない
 床から壁面に向かい その中に埋没する形

 生活の中から生まれ 消えて行った形の発掘
 北海道の空気の中で 人々の息吹きが聞こえて来る
 生活の意識と 機能優先のシンプル機構
 無に帰する色彩は 白への回帰
 形をつくる線は 角と丸
 そして そこから生まれ出る 陰と影に集約される
 表現としての立体

 壁に設置した作家があとふたり。
 柿崎煕「林縁から」
 「水脈の肖像」展など、グループ展のオルガナイザーとしても活躍する柿崎さんは、これまでのインスタレーションの延長線上にある作品を発表した。ただし、今回はすべてが白だけで、軽やかな着彩はほどこされていない。
 柿崎さんは札幌の隣町の石狩に住んでいるが、この作品とタイトルが、大都会とはいっても、東京などとことなって自然がわりあい近くにある札幌や石狩の性格をあらわしていると思う。
 桂の木を削ってみがいています。作品のきっかけは、自分は野鳥を見るのが好きで、林に入ってみているうちに自然や環境について考えるようになりました。植物が種子を飛ばして、生命をつなげていくさまに感動したんです。作品は、鳥の羽根や、植物の形態、生態からヒントを得ています。
 毛内やすはる「あらわれ」
 三角錐や渦巻き型、ひし形など、ピンクに塗られた大小の立体29個が壁から突き出て、不規則に配置され、ポップな印象をあたえる。2001年の(今はなき)this is galleryにおける個展が、天井からこれらの立体を吊り下げることで、遊園地のような落ち着きのない空間になっていったのに比べると、作品としてのまとまりを感じさせる。よく見ると、表面にアルファベットが、時計の反対まわりに順番にしるされているものもあり、立体と絵画の間を越境しようという作者の問題意識をのぞかせている。
 壁に対してどんなかたちをとるのかを考えてつくりました。素材は紙で、油絵の具で色を塗っています。そのため自由度が高く、いろんな動きを感じさせることができます。中は空洞で、じつは軽いのですが、石のように重くも見える、そういう矛盾が同居しているようでもあります。全体的には浮遊感みたいなものを出せたらいいと思っています。
 鈴木武子「Woman2003. 可能性を秘めている」
 ずっと女性を作り続けています。自分で感動したい、おもしろいものにわくわくしたいというのが目標なんです。あとは、いかにいろんな色彩を使うか、立体に描く、ということを考えています。原色や赤の使用は、わたしにとって、「女性」を表現していく上で、大切なことなんです。また、裏側も考えてつくっているので、裏側も見てみてください。

 阿部典英「ネエダンナサンあるいは彼方から」

 「貝で遊ぶ」のところでも書いたが、すべての作品に全力投球するのではなく、メリハリをつけるのがアベテン流だと思う。
 それでいて、軽い作品は、けっして「流して」いるのではなく、彼の持ち味であるユーモアがただよっていて、見逃せない。
 宇宙人を思わせるかたちだが、細い脚は、道立近代美術館所蔵の作品を思わせる。宇宙人は、同時に森の精霊でもあるのだろう。未知なものへのドキドキワクワク感を、作者はおそらくうしなっていないのだと思った。

 ずっと木だけつかってきたんですが、今回は「彼方から」っていう題で、どこからか来てほしいなあということで、動くイメージを表現してみました。脚の部分は鉄とステンレスをつかっています。地球に大接近している火星から来たのかもしれませんね。
 高橋昭五郎「風韻(ふういん)」
 ふだんから、自然ってすごいなあ、力強くて神秘的だなあと、畏敬の念を抱いています。
 芸術芸術って、いくらがんばっていても、自然にはかなわないなあとおもいながらつくっているのです。あまり木を傷めないで作品にまとめたいという気持ちがあります。題名はいちおうついていますが、あまり意味はありません。結局は、わたしなんですよ。これ、私ににてるでしょ。

 武田亨恵「無の存在」
 見えないものをつくりたい、というのが私の思いです。布と木でつくった枠を張り合わせ四角い箱状のモノに押し付けたらこういうかたちになりました。見た人が、四角い箱を想像してくれるんじゃないかと思って。
 椎名澄子 「真果」
 今回の展覧会で最小の立体2点からなる。現代の美術においては、一定以上の大きさという要素が必要とされる場合が多いけれど、彼女の場合は、小ささがひとつのポイントになっているような気がする。なんだか、いとおしくて抱きしめたくなるようなサイズの感覚なのだ。
 しゃがんで作品をのぞき込むと、幹のほらに人のような形がうずくまっているのが見える。
 そういえば、今回は、しゃがんで作品を見るということをずいぶんやってみた。
 子供になったような気分で立体に接すると、なぜか作品に対して素直な畏怖(いふ)の気持ちを持てるような気がした。 
 テラコッタという、土の素焼きの素材をつかっています。植物的な形態をもちいて人体をつくるということをやっていまして、人の命の実のなる木という意味で「真果」という題をつけました。
 野口裕司「□」
 雲や空をつうじて人と人はつながっていると思います。だれかが空をながめていて、またべつのだれかも空を眺めている、するとオレはひとりじゃないぞといううれしさが涌いてくるんです。そして、空の向こうには宇宙がある。作りながら、亡くなった母のことを思いうかべていました。いまはいない母と、空を介在してつながっていたのかもしれません。
 こちらはしゃがんで見るのではなくて、ジャンプして見る作品かも。それでも、暗い箱の中がどうなっていて、どうやって灯りが漏れているのかはわからないのだけれども。

 佐々木けいし「漾(よう)」
 厚さ1センチの鉄板で作っています。どこから見てもまっすぐに見えますが、見る場所を変えると、彎曲しています。真ん中のX印にあわせて鉄をくっつけると、熱が発生して引っ張られてカーブが生じるのです。一見直線ーというなかに曲線を見る、という作品です。
 松井茂樹「触覚 」
 視覚のほかに触覚もたいせつにした作品です。金属的な感じと、木の自然な感じを、どうくみあわせるか腐心しました。だから、みんなにさわって感じてほしいのです。木の球がたくさんついていますが、うごくようになっている球があるんですよ。みんなの手の感触が木に移って、金属といい感じに染まっていくのではないかと期待しています。
  直径数センチの木の球が、裏表あわせて1152個とりつけられている。ひらぺったい、どこか木馬のような作品だ。

 小石巧「目を閉じて -海風-」

 木彫2点からなる大作。
 いずれも、部材を会場で組み立てた、インスタレーション的な作品だ。
 向かって右側のは、ヨットを思わせるかたちで、部材を一つはずせばくずれてしまいそうな、微妙なバランス。
 左側の方は、横長の部材が、印象的な横線をみせている。こちらは、風か水平線か。
 小石さんは風景ということをいう。つまり、この横線は、水平線の一部分であって、その線がずっとどこまでも延長されているというふうに想像してほしい、というのだ。
 もっとも筆者には、そのラインのうつくしさが、まず印象につよくのこってしまう。

 ちょっとよくばってふたつの組み合わせを考えてみました。わたしの彫刻の基本は風景です。アトリエの目の前に広い牧草畑があるので、これをつくりたいと心が誘われます。大地、空、海…いろいろ入れたいといつも考えています。ただ、彫刻にとりいれるには広すぎるので、それらを一度切り取って、じぶんの中からわき出るものとあわせて造形しているのですが、とにかく「もっと大きく、広くできないか」ということは、木を削りながらいつも考えています。最初に思っていたかたちとは、つくっているうちにどんどん変わっていきます。今回は、ベースは海です。はてしない風景をきりとってかたちをつくっていきたいと思います。
 渡辺潤「記憶の断片」
 小さいときに見ていたり、遊んでいたりした場所や風景、粘土や雪であそんでいたこと、それらをもう一回大人になって体験してみて、遊んでみようかなって思ったのがきっかけです。小さいころはいろんなものが大きく見えたのかなあって思います。それで、子の背丈ぐらいの大きさでつくりました。
 原田ミドー「龍の舌」
 これはアメリカインディアンのおじいちゃんから聞いた話です。少年が、人生の心配事があったので、神さまに聞きました。「じぶんは責任と義務を果たすことができるのでしょうか」
 神さまは答えました。
「心配はいらない。わたしは足下についていて、お前をみちびいてあげよう。足元を見てごらん。そこにはわたしの足跡があるから」
 少年は成長してりっぱな青年となり、妻をめとりましたが、妻は亡くなり、ひとりの小さい子がのこされました。悲しくてつらかったけれど、その男の子を育て上げました。
 この「民話」(あるいは神話)は、作者の口から語られてこそ意味があるような気もしたので、以下は略する。
 ただ、そのラストは、作者の、美術にかける思いがつたわってきて、ちょっと感動的なので、記す。
 将来これが公園に立って、子どもがそばにすわって朝日や夕日を見てくれたら…、これをホームベースにしてくれてもいい。あと10年はぼくも自分で石をけずれる。それ以降は手助けなしでは石の彫刻はできないと思うけど、10年は応援してください。
 人物、というよりは、神が何気なく、すっと立っているような、そんな神々しささえ感じられる抽象彫刻。
 彼は、活溌に展覧会などをひらいているけど、一般的な貸しギャラリーはあまりつかわない。じぶんの作品が、せまい美術業界だけではなくもっと広い世界に知れ渡ってほしいという願いがつよいのだと思う。そういう、コミュニケーションへの楽観的な見方もふくめて原田はロマン主義者なのだなあと感じる(これは褒め言葉です)。

 森川亮輔「咲来メール(sakkuru mail)NO.1,ニレ」
 ニレの大木の根の部分を上にしてつくりました。半分は腐っていました。中空に、見えない大きな根が、枝のようにひろがっているようすを想像していただければと思います。年輪をかぞえたら230以上あり、削り出したらおもしろいなあと思いました。弧のかたちはなんにもいじっていません。木がぼくにあたえてくれたかたちであり、それがおもしろさだと思います。かたちとは別の何かをうけとってほしいです。
 かつて砂澤ビッキがすごした上川管内音威子府村で、素材の木を最大限に生かす木彫にとりくんでいるのだろう。ほとんど未知の作家だったが、新鮮。

 山田吉泰「SI PARLAND(かたらい…)」
 ふたりの人物の語り合いです。男だったり女だったり、場所も原っぱだったり海辺だったり、いろんな空間が思い浮かびます。世相がとげとげしいので、そういう話し合いなのかな、というかたちになってしまいました。
 FRPによる人体の造形だが、かなりデフォルメされている。風だといわれれば、そうだと思うかもしれないし、木が語り合っているのかもしれない。

 加藤宏子「huntin'」
 題の「ハンティング」は、狩りをする、という意味で、じぶんでは「さぐっていく」「見つける」という意味もこめています。石が曲がっているように見えるといわれました。そう言われるとうれしいのですが、もちろん石を曲げるのはちょっと無理なことです。無理なことを見せることができれば、と思いながら、素材そのものの良さというか、石にしかできないことを見せつつ、しかも意外なことをやりたいですね。石もみんなもがんばっているということを暗示したいです。
 前回の個展では、いかにじぶんが造形主義者であるかを強調していたけれど、やはりトリッキーなところが丸山隆の最良の弟子だなーと、筆者はしみじみ思う。この場合のトリッキーさは、小ざかしさに通ずるのではなく、ものごとの存在をあらためて根元から問い直す機会となるのである。

 泉修次「共振−5本の弦」
 むかしから音楽や楽器がすきで、とくにギターにはひかれていました。ギターは穴をふさいだら音が出ません。この作品は、五つが響き合うイメージをもとにつくりました。じぶんは日常ではいいかげんな正確なので、せめて作品ぐらいはきちんとつくりたい。テーマは作品そのものからおそわっているようなものです。

 泉さんの作品はいつも
「緊張」
という語を思い出させる。張り詰めた空気があたりにぴーんとながれているのだ。

 伊藤隆弘「存在の考察2003」
 「存在の考察」という題がついていますが、これはテーマそのものです。言いたいことを、そぎ落としてそぎ落として、取っ払って、そして何ができるのか。これは「立つ」「石の対比」という点にしぼって作りました。
 ふたつの塔のような存在について伊藤さんは、事前に、位置や高さなどをシミュレートしたとか。つかず離れず、じつに「むずむずするような」微妙な間隔で立っているふたつの塔は、じっと見ていると、哲学的な思考を人に促す。まさに「存在の考察」だ。

 渡辺行夫「流出する記憶のための石垣」 

 彼の作品は、いつも建築的なスケール感がある。
 今回の作品でも、しゃがんで壁をそっとなでながら、頭上にひろがる葉のざわめきを聞いていると、ふいにじぶんが遠い異国に来てしまったかのような錯覚におちいった。それはすてきな体験だった。
 この場にじぶんの作品がないのは安心できますね(笑い)。展示されるときのことを想定してつくっていますから、屋内というのは想定していないので、無理を言って屋外に置かせてもらいました。
 抽象作品はわかりにくい、とよく言われますが、つくっているほうからすると、シンプルで、じつに単純明快です。石がすきで、石が積んであるのが好きなんです。もし、なにも感じなかったらあなたにとってそれはいい作品ではないと思うし、感じたらいい作品なのだと思います。それだけのことです。だから、見る方もきわめてシンプルに見てほしいと思います。感性はそれぞれ違いますから、たまたま一致したらそれはそれですばらしいことです。皆さんが何を感じようと、自分では自分の作品をすばらしいと思うだけです。 

 ほかに、岡沼淳一「影の風音」、中江紀洋「夢のあと」は、ギャラリートークには欠席した。
 岡沼さんは、十勝川水系の川辺の埋もれ木をくみあわせたパワフルかつシンプルな作品。
 中江さんのインスタレーションはいつものとおりだが、背後にある歯は1555個! もっとも、先日の釧路市立美術館の個展ではもっと大きな作品があったらしい。

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