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展覧会の紹介
青春の洋画 戦前までの道南美術 |
2003年1月19日−3月23日 道立函館美術館(函館市五稜郭町) |
北海道の美術史を考えるときに函館を中心とした道南の存在を見落とすわけにはいかない。 ひらけたのは札幌・小樽よりはるかに早かった。明治初期、札幌の和人の人口がわずか7人だったとき、函館(当時は箱館)は明治政府と旧幕臣側との戦争の最後の舞台になっている。下岡蓮杖の「函館戦争図」は、わが国の洋画史の最初期の絵のひとつだ。 この展覧会の初めをかざるのは、横山松三郎(1838−84)の「菊」。 横山は写真家としても、日本の黎明期を代表する人物。択捉生まれ。洋画に初めて接したのは、箱館に移り、ロシア人の画家レーマンの助手を務めたとき。写真術は、横浜で下岡蓮杖から習得したという。その後、いったん箱館にもどったあと、写真館を横浜に、ついで東京・上野池之端に開設。76年(明治9年)−81年には陸軍士官学校の教官を務めている。 退官後は、写真の膜面を剥がして表面に油絵の具を塗る「写真油絵」という技法を編みだしている。 写真と洋画を同一人物が取り組むというのは、現代から見ると奇異な感もするが、「写実」という実用性から、似たような技術として当時の人にはとらえられていたのだろう。 「菊」は、キャンバスではなく、なんと絹に描かれている。顔料は洋画でも支持体は「日本画」のままだったのである。たしかに写実的ではあるが、妙な生々しさが感じられる。 第2部は「画壇の形成」。 洋画家の団体「赤光社」が設立されるのは1921年(大正10年)。 北大の「黒百合会」や北海高校(当時は北海中)の「どんぐり会」よりは遅いものの、道展(北海道美術協会)の旗揚げより4年早い。 このコーナーからは、池谷寅一(とらかず、1892=明治25年−1983年=昭和58年)と天間正五郎(1899−1981年)のふたりが、創立直後の道展に参画している。 このころから、全国規模の公募展が設立され、道南の画家も出品するようになる。 内山精一(1892−1977)は、昭和4年の春陽会に入選している。この時代の春陽会はたいへんな厳選であった。 山本行雄(1902−62)は、二科に出品したほか、一度だけアクションにも出品している。アクションは大正12年に結成され、すぐに未来派美術協会に合流する前衛団体であった。 また戦後、池谷は一水会賞を得、天間は日本版画協会の会員になっている。 第3部は「青春への道」。 道南の美術史を語るときに欠かせない田辺三重松(1897−1971)の初期の2点をはじめ、酒谷小三郎(1896−1957)、笹野順太朗(会場パネルは「順太郎」。1900−45)、佐野忠吉(ちゅうきち。1897−1966)の絵がならぶ。 行動展の創立会員など、戦後日本の洋画壇を代表する画家になった田辺の「トラピスト修道院の夏」(1932年=昭和7年)は、後の日本的フォーヴィスムの画風がすでに固まりつつあるとおぼしき風景画。 ジャワで戦歿した笹野の「廃園(谷地頭風景)」は、人気のない公園が、軽快な色彩で描かれた1枚で、なぜか胸にしみる絵であった。 佐野は根室生まれ。大正15年に函館に移り、その後二科や光風展に出品している。 第4部は「洋画の青春」 ここに登場する4人のうち3人が春陽会に出品しているが、なにか函館とつながりがあったのだろうか。 このうち橋本三郎(1913−89)と岩船修三(1914−89)は全道展の創立会員であり、戦後の道南画壇をリードした存在。橋本は戦後、赤光社の再建にも尽くした。岩船の「毀された建物」はシュルレアリスムふうの異色作だ。 最後は「中央画壇からの風」 長谷川二郎(1904−88)は、会場のパネルでは「長谷川〓次郎」(〓は、「燐」のへんがにずい)となっていたが、どっちがただしいのだろう。 出品作はつぎのとおり。 横山松三郎「菊」 高桑千代雄(1895−1922)「裸婦」(1920) 鈴木巌(1892−?)「静かな朝」 工藤三郎(1888−1932) 山本行雄「静物(モティーブ・イン・ライト)(1920) 内山精一「曇日春景」 池谷寅一「毛糸帽子の自画像」(1923) 天間正五郎「自画像」、「人物1」(1930) 田辺三重松「造船場町」(1930)、「トラピスト修道院の夏」(1932) 酒谷小三郎「時計のある静物」、「西洋婦人像」(1928ごろ) 笹谷順太郎「春待つ山」(1941)、「廃園(谷地頭風景)」 佐野忠吉「裸婦」(1920) 桜田角二郎(1914−34)「臼尻海岸」(1934) 能登幸(こう。1909−46)「神戸風景」(1940)「宝塚冬日」(1931) 橋本三郎「湿地」(1941)「樹間望岬」(1936) 岩船修三「海の静物」(1934)「毀された建物」(1938ごろ) 前田政雄(1904−74)「駒ヶ岳」(1959)「『新日本百景』より小笠原母島」(1939) 長谷川二郎「モンルージュ付近ヂプシーの馬車」(1932) 小松原勝市(1913−94)「赤い風車の婦人」(1940) 早瀬龍江(1095−90)「花園」(1939) |
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この稿を書くにあたり、1997年の展覧会「寫眞渡來のころ」図録を参考にしました。 |
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