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展覧会の紹介

時の貌(かお)/時の旅
−20世紀・北海道美術
2003年4月18日(金)−7月13日(日)
道立近代美術館(中央区北1西17)

 20世紀をおよそ10年ごとに区切って、年表と、道立近代美術館の所蔵作品六十数点で、100年間の「北海道美術」を振り返ってみようという、おさらいには絶好の企画。
 年表に、このウェブサイトがしるされているというので、一部で話題にもなりました(笑い)。
 それはさておき、いろんな作品がつくられてきたんだなあ−ということがわかると同時に、美術作品も時代の流れと無縁ではありえないということが実感できます。
 1920年代の前衛運動の波は、しっかり東京から北海道にも押し寄せてきていますし、50−60年代の抽象画には、高度成長の熱気みたいなものが感じられます。


 そもそも、展覧会の劈頭(へきとう)を飾るのが、林竹治郎「朝の祈り」というのが、「北海道美術」の性格を或(あ)る程度規定しているような気がしてなりません。
 この絵以前にも、道内に美術が存在しなかったわけでないのは、もちろんです。
 名高いアイヌ絵師、蛎崎波響らの活躍がありましたし、幕末・明治期の美術については昨年、道開拓記念館の劃期的(かっきてき)な展覧会「描かれた北海道」で脚光を浴びました。
 ただし、函館圏をのぞけば、やはり林竹治郎の活躍が「北海道美術」の歴史の最初の1ページを飾るにふさわしいのでしょう。
 最初の1ページが、洋画だということと、キリスト教信仰を主題にしていることは、近代国家になってから西洋の力を借りて開拓が急速に進められた北海道らしい現象とはいえないでしょうか。札幌農学校の初代校長クラークなど、開拓使はたくさんのお雇い外国人を連れてきました。クラークは生徒にキリスト教入信をすすめ(というか、なかば強制し)、札幌には西洋建築が軒を連ねました。
 1901−10年はこの1点だけ。


 つぎの作品が、「或る女」「カインの末裔」などで近代日本文学を代表する小説家である有島武郎の油絵「やちだもの木立」です。
 印象派的なタッチで、彼が絵画でも玄人はだしだったことがわかります。
 有島は、札幌農学校の教師として札幌滞在中、道内でももっとも歴史の古い美術団体のひとつ北大黒百合会の創設にかかわるとともに、複製西洋画の展覧会を札幌で組織するなど、美術の啓蒙にも尽くした、北海道の美術史に欠かせない人物です。
 また、彼は、美術評論もいくつか書いており、小説家の感想文という範囲を超えたものとして漱石ともども記憶されるべきものでしょう。
 1910年代は計2点で、もう1点は、中原悌二郎の代表作「若きカフカス人」です。
 中原は、旭川出身で、日本の近代彫刻を語るにあたって外せない人物です。


 と、この調子で書いていくと、いつまでたっても終わりませんから、ちがった角度からこの展覧会をながめてみたいと思います。
 1901−10年は1点、11−20年は2点でしたが、21−30年は木版画やポスターを含めて17点もあります。いちばん多いのは、61−70年代の19点で、これ以降は、10年に2、3点ずつと激減します。
 最初の20年間は、まだ道内の美術活動がさかんになっていない時期ですから、すくないのは道理ですが、70年代以降は道内の美術がおとろえていったのでしょうか。そんなはずはありません。
 美術館の収集作品は、どうしても或る程度評価の固まった作家のものが中心となります。そりゃそうです。税金で美術品を買うのですから、「一発屋」の作品に飛びつくわけにはいきません。
 わかい作家が良い作品を発表したとしても、すぐに創作から手を引いてしまうようであれば、購入はしないでしょう。


 それにしても、美術館はどうやって収集作品を決めるのでしょうか。
 言いかえると、良い作品とか、歴史にのこる作品というのは、だれがどうやって決めてきたのでしょうか。
 この展覧会場に集められているのは、美術館によって、良い作品、歴史にのこすべき作品であると判定されたものばかりです。
 美術作品の判断は、近代においては、かなりの程度まで団体展・公募展の判定に依存していたということは指摘できると思います。
 たとえば、「朝の祈り」にしても、この絵がのこされてきたのは、帝展に道内から唯一入選したためでしょう。
 また、上野山清貢の名声は、帝展に三年連続で特選になったことに拠っています。
 戦前の公募展は、昨今よりもはるかに高倍率でしたから、入選しなかった絵はどこかへ打ち棄てられてしまったかもしれません。
 歴史ということで、見逃せないのは、新聞・雑誌の存在です。戦前までの日本美術史は、数多く書かれていますが(そして、その反対に、戦後の日本美術史は、3冊くらいしかないのですが)、匠秀夫さんの本などを見ると、典拠になっているのは、ほとんど当時の新聞や美術雑誌です。
 ということは、何十年か後になって書かれる歴史とはいえ、その選択基準は当時のものにかなりの部分まで拠っており、その時まったく無名だった人が将来見直されて有名になるという可能性は、ほとんどないということです。ジャーナリズムにたずさわる人は、けっこう責任重大なのです。


 さて、さきほども書いたように、日展の成立から戦争直後くらいまでは、日本の美術はほとんど団体展・公募展中心にうごいてきました。
 純文学を批評する人が基本的に「文学界」「新潮」「群像」「すばる」を毎月読んでいれば済む(ほかにも「新日本文学」「早稲田文学」「文藝」や、書き下ろし単行本などもあるのですが)のとおなじように、美術を批評する人は、上野の東京都美術館に定期的に足を運んでおれば事足りたのです。
 しかし、戦後しばらくして、団体展・公募展に属さない作家が擡頭(たいとう)してきます。絵画や彫刻でも、また「現代美術」といわれる分野の作家でも同様です。
 筆者が見たところ、名作・歴史にのこる作品というものが急にはっきりしなくなる時期と一致しています。
 そしてそれは「現代美術」というものの性質ともふかく関係してくるように思えます。
 「モダニズム絵画」であれば、或る程度までは客観的な判断が可能です。
 そういうことを書くと
「てやんでえ、絵は感性だい。オレがいいと思ったものがいいんだい」
などと言う人が出てきそうです。言うのは勝手ですが、ざんねんながら間違いです。
 しかし、現代美術だと、立場によって、評価がまったく変わってくることがあります。
 すくなくても「よく描けているか」だけでは判断ができないどころか、それが批評のさまたげになることだってあるのです。


 札幌では、美術の中心が公募展をはなれるのが、中央よりもすこしおくれたようです。
 わかい人には信じられないでしょうが、50年代ぐらいまでは、公募展(道内では、道展、全道展、新道展)に所属せずに絵画などを発表するということはほとんど考えられないことでした。また、公募展の若手会員・会友などがあつまってグループ展などをひらくと、先輩会員から
「お前ら、勝手なことやるんじゃない」
と大目玉を喰らったそうです。
 じっさい、今回の展覧会の出品作のうち過半数を占める1951−70年の作品の大半は、公募展の有力作家たちによるものです。
 いまとちがってギャラリーもすくなく、ベテラン会員たちがしっかり会場をおさえていました。60年代までは、若手が入り込む余地はほとんどなかったのです。
 また、有力な会員たち、あるいは若手がグループを結成し、作品をならべるということもよくおこなわれていたようです。
 ということは、北海道の美術を見るには、三大公募展と、グループ展をしっかりチェックしておけば、かなりの程度は大丈夫だったといえそうです。


 大規模なグループ展は、道立近代美術館の開館(1977年)後は同館でひらかれることも多く、北海道の美術を語るにあたって重要な役割をはたしてきたようです。そのことは、今回の展覧会の年表に、いくつものグループ展が載っていたことからもわかると思います(個展は皆無)。
 ただし、同館が道内の有力作家を選抜して毎年ひらき、優秀作は買い上げていた「北海道現代美術展」や、それにひきつづき毎年開催されていた「北海道の美術」が80年代でおわり、若手作家に焦点を当てて道内各館を巡回した「北海道・今日の美術」も97年を最後にひらかれていません。
 このことは、同館が、「北海道の美術の現在」を記述していくことから撤退したことを意味すると思います。
 70年代以降の作品がこの展覧会にすくないのは、公募展の地位・役割が相対的に低下していった時代にあって、ではどうやってそれに代わる評価の軸を美術館みずからが見出していくか−という試行の反映のような気もします。


 さて、名作選定のほかに、もうひとつ見逃せないのは、「北海道の美術」とか「北海道美術」とはそもそも何か、ということです。
 道内に住んでいる人が道内で発表した絵画や彫刻を「北海道の美術」と呼ぶことに異論をさしはさむ余地はないでしょう。
 しかし、この展覧会には、道内の出身で、のち東京などに出て活動した画家や彫刻家がずいぶん多いのです。
 先に挙げた中原悌二郎、上野山清貢がそうだし、中村善策、岩橋英遠、田辺三重松、松島正幸、三岸好太郎、菊池精二、本郷新、久保守、難波田龍起、田中忠雄、片岡球子、因藤壽、松樹路人、伊藤隆道、安田侃など、挙げればきりがありません。
 なかには、有島武郎、外山卯三郎、北岡文雄など何年か滞在しただけの人もいます。もちろん、いずれも、道内の美術史にのこした足跡は大きいのですが。
 しかし、斎藤清は全道展会員だった時期がありますし、川上澄生は全道展の創立会員でした。棟方志功が道展に出品したことがあるという話を聞いたこともあります。
 また、道内に住んでいながら、道内の公募展には出品しなかった人も、案外、わたしたちの視野から抜け落ちてしまいがちです。
 今回の展覧会に出すべきだったとまでは言いませんが、たとえば深川在住だった主体展会員・與志崎朗や、千歳の独立美術会員・高橋伸が、「北海道の美術史」で正当な位置を得ているとは言いがたいように思えます。
 さらに、この展覧会には、映像作品こそありますが、工芸や写真は1点もありません。
 この問題を突き詰めていくと、いろいろあるのですが、どこかで線をひかなくてはならない以上、あまり厳密に考えてもむりが生じるのかもしれません。


 なお、年表についてですが、取り上げるべき歴史事項については人それぞれの見方があるでしょうから、ここではふたつの点を指摘しておくにとどめます。
 ひとつは、貸し画廊のオープンをていねいにとりあげたのはいいのですが、あまりにも札幌に偏してはいまいか、ということです。
 さいとうギャラリーやコンチネンタルギャラリーが発表の場として重要なのは理解できますが、ささき画廊や画廊丹青(いずれも釧路)、ヒラマ画廊(旭川)、弘文堂画廊(帯広)、いしい画廊(函館)などを黙殺してよいということにはならないでしょう。
 もう1点。雑誌についてです。
 かつて木路毛五郎さんが中心になって発刊した批評誌「ZAN THAN」(06年4月訂正)が脱落しています。これについては、吉田豪介さんの「北海道の美術史」にも記述がないようですから、どこかで救い上げておかなくては−と思います。
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