「イザヤ書」解説

【解説】は聖典や教会の出版物から持ってきた。
私自身の推測や、教会以外の人の解釈については(私的)という文字を入れた。

目次 解説   イザヤとイザヤ書の概要   イザヤ書を読むにあたって   イザヤ書を理解するための10の鍵   モルモン書による引用と解説   イザヤは神の計画の全容を理解していた   日曜学校資料より   セミナリー資料より   インスティテュート資料より   その他の教会出版物より 本文                     10   11 12 13 14 15 16 17 18 19 20   21 22 23 24 25 26 27 28 29 30   31 32 33 34 35 36 37 38 39 40   41 42 43 44 45 46 47 48 49 50   51 52 53 54 55 56 57 58 59 60   61 62 63 64 65 66
【イザヤとイザヤ書の概要】 聖句ガイドより イザヤ 旧約の預言者。紀元前740-701年にかけて預言した。イザヤはヒゼキヤ王の中心的な 相談役として、宗教と政治の両面で大きな影響力を持っていた。 イエスは他のどの預言者の預言よりもイザヤの預言を多く引用された。 イザヤの言葉は、ペテロ、ヨハネ、パウロによっても、『新約聖書』によく引用されている。 『モルモン書』と『教義と聖約』は、他のどの預言者の言葉よりもイザヤの言葉を多く含み、 その解釈に大きな貢献をしている。 ニーファイはイザヤの言葉を引いて民を教えた(2ニフ12-24章;イザ2-14章)。 主はニーファイ人に「イザヤの言葉はまことに偉大」であり、イザヤの預言したすべての ことは成就すると言われた(3ニフ23:1-3)。 イザヤ書 『旧約聖書』の中の1書。 イザヤの預言の多くは贖い主の来臨について述べたものであり、 主の地上での務めと末日における偉大な王としての来臨の両面を含んでいる。 イザヤはイスラエルの将来についても多くの預言を残している。 第1章は、イザヤ書全体に対する序章である。 イザヤ7:14;9:6-7;11:1-5;53:1-12;61:1-3は、救い主の使命をあらかじめ示すものである。 第2;11;12;35章には、福音が回復されイスラエルが集められ、 乾いた地がばらのように花咲く、末日の数々の出来事が記されている。 第29章には、『モルモン書』の出現に関する預言がある(2ニフ27章)。 第40-46章には、エホバが異教徒の礼拝する偶像神をしのぐまことの神であることが 宣言されている。 残る第47-66章には、主がその民の中にとどまられることとともに、 イスラエルの最終的な回復とシオンの設立に伴う様々な出来事が描かれている。
【イザヤ書を読むにあたって】 ・イザヤ書は現代の私たちのために書かれた。   イザヤ書は主の再臨が近い末日の私達に向けて書かれている。   ヨハネの黙示録やモルモン書と同じ目的を持っている。   モルモン書にイザヤ書が多く引用されているのはこのためである。 ・イザヤ書はなぜわかりにくいか   ・イザヤの時代の出来事や文化などを知っていないと、理解できない点がある。    ニーファイも次のように言っている。    「イザヤが語った多くの事柄は、わたしの民の多くの者にとって理解しにくいもの    である。それは、彼らがユダヤ人の預言の仕方を知らないからである。それは、ユ    ダヤ人が闇の業にふけり、忌まわしい行いに走っていたので、わたしニーファイは    ユダヤ人の風習について多くのことを民に教えなかったからである。    イザヤの言葉はあなたがたには分かりにくいが、預言の霊に満たされている人々に    は分かりやすい。    ユダヤ人に話された事柄をユダヤ人ほどよく理解できる者は、ユダヤ人の風習を教    わっていないかぎり、ほかにいない。」(2ニーファイ25:1-5)   ・現代の文明を昔の人が見た場合、不思議な表現をするしかなかった。    例)5章26-29節   ・改変をふぜぐため、読み解く知識のある人のみにわかるようにした。    末日までの長い間、貴い内容を保護するために、このような方法をとった。    ヨハネの黙示録も同じ方法をとっている。    神殿での儀式に用いられる象徴も同じ。    神殿での儀式の内容を外部に公表する人がいるが、    そのような人は、本当の理解には至っていない。    もっとも貴いものは、外に漏れないのである。   ・代名詞が誰を指しているのかわかりにくい。    たとえば、「私」がイザヤなのか、キリストなのか、戸惑う。    義人に対して言っているのか、悪人に対して言っているのか、わかりにくい。    また、ある節では、義人に対してに言っていたかと思うと、    次の節では、突然、悪人に対してに変わっていることもある。    また、イザヤの時代について言っているのか、末日について言っているのか    わかりにくいこともある。    さらに難しいのは、同時に複数のことを言っていることである。    同時にイザヤに時代と末日の時代について言っていたり、    イザヤに対してと、私達に対して同時に言っている。
【イザヤ書を理解するための10の鍵】 十二使徒定員会 ブルース・R ・マッコンキー  私たちの永遠の救いが、イザヤ書をニーファイと同じように深く正確に理解する能力が あるか否かにかかっているとすれば、私たちはニーファイと共に主の楽しい法廷の前に立 つとき、いったいどうなることだろうか。ニーファイは確かにイザヤ書を深く正確に理解 していた。また主はイザヤ書について「まことに偉大」(3ニーファイ23:1)と言っておられ る。  しかしレーマンとレミュエルにとって、イザヤの言葉は封じた書物同然であった。若い ニーファイのふたりの兄は、イスラエルの偉大な聖見者が書いた文字を読み、理解するこ とはできたが、しかしそこに含まれている本当の預言の意味をくみ取ることはできなかっ た。未知の言語で記された言葉を読んでいるかのようであったからである。  復活された主は、ニーファイ人と、私たちを含めたイスラエルの全家に向かって、さら にすべての異邦人にもイザヤの言葉を熱心に研究するよう命じられた。主は言われた。 「イザヤは、イスラエルの家に属するわたしの民について、すべてのことを述べた。そこ で、どうしても彼は異邦人にも語る必要があった。彼の語ったことはすべて、彼の語った 言葉のとおりにこれまで起こっており、またこれからも起こるであろう。 」(3ニーファイ 23:1-3)  レーマンとレミュエルは、今日のキリスト教界を象徴する原型である。ふたりは永遠の 破滅に通じる下降の道をたどっていたので、霊的な識別の力を欠いていた。そのために、 この古代の預言者の難解な教えを理解することが、全くと言ってよいほどできなかったの である。  父のリーハイは、「まことに偉大なことを多く兄たちに語ったが、それは主に尋ねない かぎり理解しにくいことであった。」そのときふたりの兄は、父の教えに背き、主に頼る ことを拒み、父の教えの本当の意味を理解しようとしなかった。ニーファイはふたりに 「主に尋ねたのですか」と聞いている。それに対しふたりは、「主に尋ねてはいない。主 はこんなことを我々に明らかにしてくださらないからだ」と答えている。  そこでニーファイは、主なる神御自身の言葉で、人が啓示された言葉の本当の意味を知 るための法則と、事実知ることができるという大きな約束を次のように引用している。 「もしあなたがたが心をかたくなにせず、わたしの戒めを熱心に守りながら、答えを与え られると信じて信仰をもってわたしに求めれば、これらのことは必ずあなたがたに明らか にされる」(1ニーファイ15:1-11参照)  ニーファイはまたこうも言っている。「わたしはイザヤの言葉を喜んでいる。」(2ニー ファイ25:5) 個人的な気持を述べるなら、私もイザヤとその言葉に対して、ニーファイと 同じように喜びを感じている。しかしニーファイやイザヤの到達していた地点に達するた めには、私も彼らの言葉を語り、彼らと同じ思いを抱き、彼らと同じ知識を持たなければ ならない。また彼らが信じ教えたことを、私も信じ教え、彼らと同じように生活しなけれ ばならない。  事実私の救いは(またあなたがたの救いも)、イザヤ書をニーファイと同じように深く正 しく理解する能力があるか否かにかかっていると思われる。  ところでニーファイやイザヤの知っていたことが、私たちに知らされないということが あるだろうか。人を片寄り見ることをされない神は、すべての子らに同じような機会を与 えられるのではないだろうか。彼らに啓示された事柄を私たちにも示すための原則と、そ の原則の要求する条件を神は宣言し、その条件を満たせば啓示を与えようと約束されたの ではなかったか。  主エホバはイザヤに、「おとめがみこもって男の子を産む」と啓示された。(イザヤ7:14) その名前は、「神われらと共にいます」という意味である。この「子」は「大能の神、と こしえの父」となって、「そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく」続くので あった(イザヤ9:6,7)。また「自分を、とがの供え物」となし、「その墓は悪しき者と共 に設けられる」のであった(イザヤ53:9,10)。イザヤは全人類に対する瞭罪の約束をこう 述べている。「あなたの死者は生き、彼らのなきがらは起きる」(イザヤ26:19)。この神 は終りの日にイスラエルを集め、「主にあがなわれた者は帰ってきて、その頭に、とこし えの喜びをいただき、歌うたいつつ、シオンに来る」(イザヤ35:10)。そして主の民は、 主がシオンに帰られるのを、まのあたりに見るであろう。(イザヤ52:8)もし以上のことや 他の数多くの輝かしい真理がイザヤやニーファイに知らされていたのなら、どうして私た ちに知らされないのだろうか。このふたりの預言者が私たちの知らないことを知っていな ければならない理由が何かあるのだろうか。主エホバは私たちの神でもあるのではなかろ うか。  しかし、多くの人がイザヤ書を難解な書と考えていることは事実である。今日の諸教会 は、イザヤの言葉をほとんど理解できないでいる。「イザヤが語った多くの事柄は、わた しの民の多くの者にとって理解しにくいものである。」(2ニーファイ25:1)とニーファイ は言っている。この真実の教会の中にも、聖霊の賜によって啓発されているはずであるの に、モルモン書のイザヤの引用の部分をとばして読む者がいる。このような人はイザヤの 言葉を封じられた書物の言葉のように見なしているのである。そして事実、彼らにっては 封じられた言葉なのである。もし多くの人が考えているように、イザヤ書が最も難解な書 物のひとつに数えられるとするなら、同時に彼の言葉は私たちが精通し、熟慮すべき最も 重要なものと考えなければならない。一部の末日聖徒は、イザヤの手になる預言的な言葉 の封印を解き、その意味を一べつしようと試みているが、この貴重な宝に関する限り、聖 徒の間においてもまだかすかなろうそくの光しかともっていないようである。  しかし聖見者イザヤの見た示現は、枡の下に隠しておく必要はない。イザヤの預言の言 葉は、すべての教会員の心に明るい光をともすものである。もし人が救いの計画と、末日 のイスラエルに働きかける主のみ手についてよく理解し、知識を得たいと心から願うなら ―この態度はイザヤの言葉を熱心に調べよという主の戒め(3ニーファイ23:1)に沿うもの である―私はその人々に、ひとつの鍵を差し上げたい。その鍵を用いれば、キリストのそ の律法を証するこの証人の筆からほと走り出る光と知識の宝庫の扉を開けることができる のである。いろいろな意味でイザヤはイスラエルの最も偉大な預言者であった。ではイザ ヤを理解するための10の鍵を掲げよう。 1.救いの計画について詳細な知識を得、時の初めから今日に至るまで神が地上の人の子   らにどのように働きかけてこられたかを知る  イザヤ書は他の書、例えばモルモン書のニーファイ第二書やモロナイ書のように、救い の教義を詳しく説明した書ではない。イザヤ書はすでに知識を得ている人々、中でも、イ エスが主であってその贖いの血によって救いがもたらされることと、天父の王国に受け継 ぎを得るには、信仰、悔改め、バプテスマ、聖霊の賜、そして義にかなった業が必要であ ることを知っている人々に向けて書かれたものである。一例をあげるなら、イザヤ書14章 に出てくるルシフェルとその軍勢が肉体を得ることなく地に投げ落とされる話を理解する には、前世のことと天上の戦いの知識を前もって得ていなくてはならない。 2.主の永遠の計画の中におけるイスラエルの位置と行く末を知る  イザヤは選民イスラエルをこよなく愛し、彼の関心も選民の上に集中していた。彼は末 日にヤコブの子孫が勝利をおさめ、栄光を得ることを詳細にわたって預言し、多くのペー ジを費やしている。彼は特に回復について多くを語った預言者である。  この地が始まって以来すべての聖い預言者が預言したように、主の計画は万物の更新を 必要としていた。この万物の更新とは、これまでのいずれかの時代の人々が所有していた すべての真理、教義、力、神権、賜、恵み、奇跡、儀式、力強い業が再び現われることで ある。アダムが享受した福音は、偉大な福千年の時代にアダムの子らの心に宿るであろう。 主が選び、愛された民イスラエルは、再び王国を所有し、再び受け継ぎの地に住むであろ う。そして地球も楽園の状態に戻り、エノクの市の平安と完全な状態が千年間地上に見ら れるであろう。  イザヤが書いたのはこういった事柄である。数多くいる古代の預言者の中でも、イザヤ は、私たちに回復のよきおとずれと福音の回復、そして永遠の誓約が再び確立されること、 王国がイスラエルに回復されること、さらに主が勝利のうちに戻ってこられ、千年の間栄 光のうちに統治されることを記録して残してくれた預言者である。 3.イザヤが記した主な教義について知る  イザヤが記した主な教義は7つに分類することができる。 (1)末日にジョセフ・スミスを通して福音が回復されること、 (2)末日にイスラエルが集合し、最後の勝利と栄光を得ること、 (3)モルモン書がキリストの新しい証人として登場し、   教義上の理解を最終的には根底から改革すること、 (4)末日における国々の背教的な状態、 (5)主の最初の来臨に関する預言、 (6)キリストの再臨と福千年の統治、 (7)イザヤ在世当時の歴史上の出来事と当時にかかわる預言。  この7つの中でも、回復の日と、過去、現在、未来のイスラエルの集合が特に強調され ている。  教会員の間には、怠惰な研究態度と狭い視野のために、福音の回復はすでに過去のもの となったと見る傾向がある。私たちは、イスラエルの集合は今も進行中であるとはいえ、 その大部分はすでに終了したと考えがちである。御父の王国で完全な祝福を得るために必 要な教義と神権と鍵を所有しているという点で、私たちが永遠の福音を完全な姿で持って いるのは事実である。またイスラエルの残りの者が集められ、エフライムとマナセ(そし て他の部族)のごく一部が教会に加入し、贖い主を再び知るに至ったことも確かである。  しかし、アダム、エノク、ノア、アブラハムに知られていた数々の真理の回復は、まだ 始まったばかりである。モルモン書の封じられた部分もまだこれから翻訳されなければな らない。すべてのことが新たに啓示されるのは、主が来臨されるまで待たなければならな い。回復の時代の最盛期はまだ先なのである。そしてイスラエルについて言えば、彼らに 対する約束が実現するのは、福千年に入ってからのことである。「国と主権と全天下の国 々の権威」とが「いと高き者の聖徒たる民に与えられる」(ダニエル7:27)輝かしい日はま だ先のことである。私たちは今その端緒を開こうとしている。しかし、私たちに示されよ うとしている、理解を越えた栄光と驚くべき事柄は、なお将来に待たなければならない。 回復の預言者イザヤが語ったことの多くは、まだこれから成就するのである。  イザヤはメシヤの来臨を予告した預言者として広く知られている。それは彼が主の最初 の来臨を豊富に、美しくかつ完全な言葉で預言しているからである。これは正にその通り である。霊感された言葉が今日まで伝えられている旧世界の預言者の中で、この点に関し て、イザヤに匹敵する人物はいない。このメシヤの最初の来臨は、すでに過去の事柄であ る。従って霊的な洞察力に欠ける人でも、主の誕生、伝道、死に関してイザヤの預言が成 就したことを知ることができる。  しかし私たちが本当にイザヤの書き残したものを理解することができれば、彼が実際に 回復の預言者であって、ヤコブの子孫の力強い聖見者であるという明白な事実を、いくら 強調しても強調しすぎるということはないであろう。イザヤは私たちの時代を先見し、霊 的に弱く、落胆している当時のイスラエル人を力づけ、子孫に約束された栄光と勝利を保 証したのであった。彼は末日にイスラエルの子孫が主に立ち帰り、真理と正義のうちに主 に仕えることを知っていた。 4.モルモン書を参考にする  イザヤ書は、66章1,292節から成っている。彼の書き残したものは、聖書よりも真ちゅ う版に完全な姿で保存されていた。ニーファイ人の預言者たちは、この聖書から414節引 用し、少なへくとも他の34節に注釈を加えている。(同じ節が2度にわたって引用された り、注釈を加えられたりしている所が、5,6ヵ所ある。)言い換えれば、イザヤ書の3分の 1(正確には32パーセント)がモルモン書に引用され、それ以外に約3パーセントに注釈が加 えられているということである。  ここで次の事実に注意を払い、その意義を考えていただきたい。それは、モルモン書の 預言者たちが自分の用いた引用部分に解釈を加えているということである。その結果、こ の末日の聖典は、この旧約の預言の書を証する証書となり、そこに含まれた真理を明らか にするものとなったのである。モルモン書はイザヤ書の世界で最も優れた注解書である。  人は大胆な宣言だと思うかも知れないが、神がニーファイ人の証人を通して啓示された ことをまず学び、信じないかぎり、この時代の人は誰ひとりイザヤの書いたものを理解す ることはできないと断言したい。イザヤ書について数多くの真理がこの聖典に記されてい る。主御自身このモルモン書について「あなたがたの主、あなたがたの神が生きているよ うに確かに、その書は真実である。」(教義と聖約17:6)と確認しておられる。パウロが言 ったように、神は「ご自分より上のものがないので、ご自分をさして誓われるのである (ヘブル6:13)。主は、モルモン書が、従ってその中に記録されているイザヤの言葉が、御 自身のみこころであり、声であると、御自身の名前によって宣言しておられる。そのこと から神の聖徒は、イザヤ書が複数の著者によって書かれたとする数々の学説は、例によっ て教会内外で知者を自称する人々が自信をもって提出している移り変りの激しい学説のひ とつにすぎないことを知るのである。 5.末日の啓示を使う  主はこの時代に、直接の啓示によってイザヤの言葉を解釈し、承認し、明らかにし、ま た強調された。あの聖なる使いモロナイは、1823年9月21日にジョセフ・スミスを訪れた とき、「イザヤ書の第11章を引用し、それはまさに成就しようとしている」(ジョセフ・ スミス-歴史:40) と言った。教義と聖約第113章には、イザヤ書11章と52章の数節の啓示 された解釈が記されている。また101章はこの古代の預言者の書第65章を理解するための 鍵を含んでおり、第133章に記された主の言葉から同じく第35,51,63,64各章の理解が開け るのである。教義の聖約の脚注が示すように、末日の啓示がイザヤの言葉を引用、注釈、 解釈している所が100ヵ所前後ある。このように教義と聖約には、約2500年前にイザヤに 働きかけた聖きみたまの感化がそのまま伝えられているのである。  またジョセフ・スミスや、この神権時代におけるその他の霊感された教師の説教には、 この偉大な聖見者の言葉に言及したり、説明したりしているものが数多くある。預言者の 書のある節の中に、いつ、どこで、何について書かれたものであるかを明らかにする預言 的な宣言がひとつでもあれば、その章節全体、あるいは関連ある章節の本当の意味がよく 理解できることがままある。  啓示を理解するには確かに啓示が必要である。古代に真理を啓示した主エホバが、今日 同じ永遠の真理を啓示し、古代の言葉と今日の言葉を照合されることは、きわめて自然な ことである。主がそうされるのは、私たちがあらゆる時代を通じて語られた主の言葉を知 って、祝福を得るためである。 6.新約聖書がイザヤ書をどのように解釈しているかを知る  イザヤは預言者が預言者と仰ぐ人物である。彼の言葉は、聖典の著者となった人々の心 の中に生きており、新約聖書で少なくとも57回引用されている。パウロはイザヤの言葉に よく言及し、数多くの書簡の中で20回ほど引用している。ペテロはイザヤの言葉を権威あ るものとして7回引用している。またマタイも7回、マルコ、ルカは福音書で5回引用し、 使徒行伝、ヨハネの福音書、黙示録にも各4回引用されている。以上の引用の一部は重複 しており、一部はメシヤの来臨の預言であり、そのすべてがイザヤ書本文の啓示された意 味を確認している。 7.イザヤ書を旧約聖書の前後関係から学ぶ  旧約聖書の他の預言者も、イザヤが述べたと同じ教義を説き、同じ望みをイスラエルに 与えている。イザヤの言った意味を十分理解するためには、彼と相前後して活躍した旧約 の預言者が同じような状況にあって同じ主題について何と言っているかを知ることが大切 である。例えば、イザヤ書2:2-4はミカ書4:1-3に引用されている。イザヤは、すべての国 民が、末日に集合したイスラエルによって建てられた神殿に流れ込んでくる様を、上記の 有名な句で預言したあと、この集合に続いて起こる福千年のある出来事を描写している。 ミカは大体において同じことを語っているが、福千年に起こる別の出来事を列挙していて、 私たちの理解を広めてくれる。復活された主は、第三ニーファイ第20,21章を見ればわか るように、ミカ書第4,5章を引用されているので、私たちはこのことについて確信を得る ことができる。 8.イザヤの時代におけるユダヤ人の預言のしかたを知る  ニーファイ人の多くがイザヤの言葉を理解できなかった理由のひとつは、彼らが「ユダ ヤ人の預言の仕方」(2ニーファイ25:1)を知らなかったことであった。同じことが今日の いわゆるすべてのキリスト教徒についても言えるし、多くの末日聖徒についても言える。  ニーファイは、わかりやすい簡単な言葉で預言する方法を選んでいる。しかし、彼の郷 里のヘブル人の預言者たちにとっては、必ずしもそうなることが賢明な方法ではなかった。 民が邪悪なため、イザヤや他の預言者は、比ゆ的表現や、型、象徴を使って語ることがよ くあった。彼らが言おうとすることは、事実上たとえ話の中に隠されていたのである。 (2ニーファイ25:1-8)。  例えば、処女降誕の預言は、地方の史実を歌う吟唱の中に埋没し、霊的に暗い者にとっ ては約700年後に肉体に宿った主エホバの誕生とは何の関係もない、何か過去の未知の出 来事と解されたのであった(イザヤ第7章)。同様に、末日の背教とキリストの再臨を扱っ た数多くの章は、古代の諸国と関連づけて書かれている。しかしこの諸国の滅亡は、主の 大いなる恐るべき日が最後に来たときに、すべての諸国にふりかかる滅亡の象徴であり、 型、影なのである。第13,14章はその典型的な例である。私たちがこの書き方を知り、モ ルモン書に出ている解釈の鍵を使えば、また末日の啓示を活用すれば、イザヤの言葉は私 たちの眼前に開けてくるであろう。 9.預言のみたまを待つ  最後にいかなる聖句であろうと例外なく、聖句を理解するためには、その真理を述べた 人が受けた同じ預言のみたまを持たなければならない。これ以外に方法はない。聖典は聖 霊の力によって神から与えられるのである。人が創り出すものではない。聖典の意味する ところは、聖霊が意図した意味なのである。聖句を解釈するには、聖きみたまの力によっ て啓発されなければならない(2ペテロ1:20,21)。預言者を理解するには預言者が必要であ る。すべての忠実な教会員は、「イエスのあかし」すなわち「預言の霊」(黙示19:10)を 持たなければならない。ニーファイはこう言っている。「イザヤの言葉は、預言の霊に満 たされている人々には分かりやすい。」(2ニーファイ25:4)主のみこころを知ることに関 する限り、これがあらゆる事柄の本質をなし、すべての論争にとどめをさすものである。 10.誠実な態度で研究に没頭する  節ごとに、ひとつの教えごとに、段落、章ごとに精読し、熟慮し、祈る。イザヤが自問 している通りである。「彼はだれに知識を教えようとするのか。だれにおとずれを説きあ かそうとするのか。」そしてイザヤはこう答えている。「乳をやめ、乳ぶさを離れた者に …それは教訓に教訓、教訓に教訓、規則に規則、規則に規則。ここにも少し、そこにも少 し教えるのだ。」(イザヤ28:9,10)  イザヤはイエスのことを証したためふたつに割き殺されたと言い伝えられているが、こ こで彼が書いた全66章を概観し、さらに詳細な分析を加えるための手引きとしたい。 「イザヤの言葉は、まことに偉大なる価値あり」とニーファイは書いている。多くの人が イザヤの預言を理解できないでいるが、イザヤの「預言の言葉は明るく光輝を放っている。」 最後に  聖見者、回復の預言者、メシヤの降臨を予告した預言者イザヤについて説明してきたが、 あとはただふたつのことを加えれば十分である。  1.聖典を理解し、救いの教義について深い洞察を得ても、それが人の生活を変え、完 成される方向に向かわせるものでなければ、何の価値もない。知っている人の心の中に生 きていなければならないのである。  2.イザヤの書いたことは真理である。イザヤは当時神の代弁者であった。彼が私たち の時代に見られると約束した栄光と驚くべき事柄は必ず実現するであろう。そしてもし私 たちが真実かつ忠実であれば、生存中であろうと死後であろうとその事柄に参与するに違 いない。これが私の証である。
【モルモン書による引用と解説】 モルモン書へ引用されている部分、モルモン書での解き明かし部分。 モルモン書へはイザヤ書の約3分の1が引用されている。 モルモン書はイザヤ書の解説書でもある。 第1ニーファイ   15章  解説   19章  解説 イザヤ書の勧め   20章  引用 イザヤ48章   21章  引用 イザヤ49章   22章  解説 イザヤ書の解き明かし 第2ニーファイ    6章  解説 イザヤ49章の解き明かし    7章  引用 イザヤ50章    8章  引用 イザヤ51章    9章  解説 イザヤ書の解き明かし   10章  解説 イザヤ書の解き明かし   11章  解説 イザヤ書の勧め   12章  引用 イザヤ 2章   13章  引用 イザヤ 3章   14章  引用 イザヤ 4章   15章  引用 イザヤ 5章   16章  引用 イザヤ 6章   17章  引用 イザヤ 7章   18章  引用 イザヤ 8章   19章  引用 イザヤ 9章   20章  引用 イザヤ10章   21章  引用 イザヤ11章   22章  引用 イザヤ12章   23章  引用 イザヤ13章   24章  引用 イザヤ14章   25章  解説 イザヤ書読解の鍵   26章  解説 イザヤ29章関連   27章  引用 イザヤ29章   28章  解説 イザヤ書の解き明かし   29章  解説 イザヤ書の解き明かし   30章  解説 イザヤ書の解き明かし   31章  解説   32章  解説   33章  解説 モーサヤ   12章  解説 イザヤ52章(部分)   13章  解説 イザヤ書の解き明かし   14章  引用 イザヤ53章   15章  解説 イザヤ52章(部分)   16章  解説 イザヤ書の解き明かし 第3ニーファイ   16章  解説 イザヤ52章(部分)   20章  解説 イザヤ52章(部分)   21章  解説 イザヤ書52章の解き明かし   22章  引用 イザヤ54章   23章  解説 イザヤ書の勧め モルモン    8章  解説 イザヤ書の勧め
【イザヤは神の計画の全容を理解していた】 イザヤは紀元前740-701年に活躍した預言者だった。 この時代はイスラエルの散乱が始まった時代だった。 後退事象(堕落、民の背教、イスラエルの散乱など)が、すべて成就された時代だった。 復帰事象(贖い、福音の回復、イスラエルの集合など)は、まだ始まっていなかった。 復帰事象について知らない人は、これだけを見て、神様の計画は頓挫したと感じる。 しかし、イザヤは神の計画の全体像を理解していたので、復帰事象が起こることを知って いた。そこでイザヤはこの復帰事象について多くの予言をイザヤ書に書き記した。 イザヤ書には、キリストの贖い、モルモン書の出現、ジョセフ・スミスによる神権と福音 の回復、キリストの再臨と福千年の始まりなど、偉大な予言が記されている。 イザヤ書は神の計画の全体像を最も完全に捉えた書物なのである。 そういうことからも、イザヤ書は他の多くの聖典に引用されている。 関連情報)   他の教会との違いを一言で説明してください   「先のものは後になり、後のものは先になる」法則
【日曜学校資料より】 イザヤは救い主の地上における使命について、 イスラエルが邪悪に染まったために訪れる破壊について、 末日のイスラエルの使命と行く末について、 多くのことを預言している。 イザヤの警告と預言の多くは、邪悪がはびこっていたイザヤの時代と現代に向けて述べら れた。 バビロンは世の邪悪の象徴としてしばしば用いられる。 イザヤは、メシヤが降臨して、亡くなり、そして復活することを預言した。 イザヤは、救い主の贖いに関連する出来事を数多く預言した。 イザヤは、イスラエルの散乱について述べ、 救い主が約束した民の集合について預言した。 イザヤはすべてのイスラエルの子らに向けて書いており、ニーファイの家族も含まれ、 私達も含まれている。 イスラエルの家は、旧約の預言者で主からイスラエルという名を授けられたヤコブの子孫 である。主はイスラエルとある聖約を交わされ、その子孫は神の聖約の民と見なされた。 しかし、何世代も後に、その子孫の多くは主に背き、やがて全地に散乱するようになった。 異邦人という言葉は、まだ福音を知らない人々を指す。イザヤは、末日に異邦人は福音を 与えられ、イスラエルの家を教え、集めるうえで役立つだろうと教えた。 イザヤの言葉は預言の霊に満たされている人々には分かりやすい。 金属の版に彫り刻むことは容易ではなく、ニーファイの小版の余白は限られていた。そう であれば、ニーファイはなぜ、イザヤの多くの言葉を自分の記録に書き写すという骨の折 れる作業をしたのだろうか。それは、これらの言葉を見る者が心を高めて、すべての人の ために喜べるようにするためだった。ある意味、イザヤの言葉を読むようにという勧めは、 喜ぶようにという勧めである。あなたもニーファイのように、イスラエルの集合やメシヤ の訪れ、義人に約束されている福千年の平和に関するイザヤの預言に喜びを感じることが できる。災難と暗闇の日にも大きな光を見たことを喜ぶことができる。救いの井戸から水 をくむことができることを喜べる。言い換えれば、キリストのことを喜ぶことができる。 イザヤの教えへの理解を深めるには、どうすればよいだろうか。   ニーファイは、一部の人にとって、イザヤの言葉は分かりにくいことを認めている。   ニーファイのように、古代ユダヤの文化や地理に親しみのない人にとっては確かにそ   うだろう。しかし、ニーファイはイザヤの言葉に意味を見いだす助けとなる勧告も与   えてくれた。   彼の言葉を自分に当てはめる。     イザヤの教えの多くには、考えうる意味や応用方法が複数含まれている。例えば、     イスラエルの離散と集合に関するイザヤの言葉は、救い主に立ち返って主のもと     に集められる必要があることについて考えるよう促してくれるだろう。   預言の霊に満たされるよう求める。     イザヤの預言を理解する最善の方法は、御霊から霊感を求めることである。霊的     な導きを求めて祈ろう。一度にすべてのことを理解できないかもしれないが、御     霊は、今日の生活に必要なことを理解できるよう助けてくれる。   また、聖典の中にある学習補助資料が役立つかもしれない。   例えば、脚注、章の見出し、『聖句ガイド』などである。 正しい道とはキリストを信じることである。   ニーファイは、イザヤの引用の前後に、イエス・キリストについての証を述べている。   彼は、子孫に、キリストを信じ、神と和解するように説き勧め、イエス・キリストを   信じ、従うようあなたを説得している。   救い主に関するイザヤの教えの多くは、象徴を通して述べられていることを心に留め   ておくとよいだろう。例えば、救い主は、ぶどう園の主人、石、光などの象徴で表さ   れているのに気づくだろう。 高ぶる者とこの世の者はへりくだる。   ニーファイは、高慢が民の崩壊を引き起こすことを予見していた。ニーファイは民に、   イザヤが繰り返し民に与えた、高慢に対する警告を告げた。2章と3章の中から、高慢   についてイザヤが述べている言葉を探そう。例えば、「高ぶる」「傲慢」など。 福千年の間、神の民は平和を享受する。   イザヤは、将来起こるイスラエルの集合と平和な福千年について教えた。末日聖徒で   ある私達は、キリストが福千年に統治をされるのに備えて、末日に神の民を集める手   助けをするよう招かれている。
【セミナリー資料より】 イザヤ書は、聖文のほかの著者から、どの書よりも注目と称賛を受けてきた。ニーファイ は、イザヤが書いたものを兄たちに、主なる贖い主を信じるようさらに十分に勧めるため に用いたと語っており、また、イザヤの言葉に喜びを感じると言っている。さらに、イザ ヤの言葉は民の心を高めて、すべての人のために喜べるようにすると言っている。ニーフ ァイの弟ヤコブは、イスラエルの家の者はイザヤの言葉を自分自身に当てはめなさいと教 えている。救い主御自身も、イザヤが書いたものに最大の称賛をお与えになっている。 新約聖書の中で、イザヤはいかなる預言者よりも数多く引用されている。モルモン書の著 者たちが引用したり、別の言葉で言い直したりしたイザヤの言葉は、イザヤ書の35パーセ ントに相当する。教義と聖約では、イザヤ書から引用したり、言い直したり、あるいはそ の教えを解釈したりしているところが約100か所ある。キリストが復活の後にニーファイ 人を訪れられたとき、イエスは民に「これらのことを熱心に調べなさい。イザヤの言葉は まことに偉大だからである」と言われた。 イザヤについての重要な背景 イザヤが生きて預言をしていたのは紀元前740-700年ごろのことだった。その期間に、イ スラエル(北王国)はアッスリヤ人に征服されていた。イザヤが住んでいたユダ(南王国) は、アッスリヤに貢ぎ物を納めさせられていて、同じく滅亡が迫っていた。しかしユダの 王ヒゼキヤがイザヤの勧告に従ったので、民は救われた。イザヤはユダに、民は今後も悔 い改めなければならず、そうしなければアッスリヤではなくバビロンによって滅ぽされる であろうと警告した。イザヤはイエス・キリストの降誕および再臨について、旧約のどの 預言者よりも多く語っている。イザヤの教え方は霊感による独特のものだった。イザヤの 預言の多くは、その時代だけでなく、イエス・キリストの時代、今日、そして将来にも当 てはまる。ある節に書いてあることが複数の時期に当てはまることもある。 イザヤ書の読み方 イザヤはイスラエルの部族に向かって語った神の預言者であり、すばらしい才能を持った 書き手でもあり、なおかつ詩人でもあった。そのため、イザヤが書いたものの中には、へ プライ語からほかの言語に翻訳すると、理解しづらくなる部分もある。比喩表現や象徴を 用いることによって、イザヤは力強く教えている。イザヤ書には、「月はあわて、日は恥 じる」「山と丘とは声を放って喜び歌い、野にある木はみな手を打つ」「あなたの言葉は ちりの中から、さえずる」などの表現が出てきます。このような比喩表現の奥にあるもの を読み取って、イザヤが表そうとしている気持ちや原則を理解するなら、これらはとても 大きな意味を帯びてくるだろう。聖霊の助けを求めるとき、イザヤ書はあらゆる聖文の中 でも特に霊感にあふれた力強い書となる。 イザヤ書のあらまし 全般的なテーマ  主題               参照箇所 -------------------------------------------------------------------------------- 裁き          ユダ               1〜12章          もろもろの国民          13〜23章          主の日              24〜27章          裁きと祝福            28〜35章 歴史に関する部分          エルサレムが滅亡から守れれる。  36〜39章          ヒゼキヤの命が延ばされる。 メシヤの約束          イスラエルの解放         40〜48章          イスラエルの解放者        49〜57章          イスラエルの栄えある未来     58〜66章
【インスティテュート資料より】 イザヤの書物の重要さ   イザヤの名前は「エホバは救う」または「主は救い」という意味である。彼の生涯と   教えは、キリストの教えとキリストが備えられた救いの道を示している。ヨハネは   「イエスのあかしは、すなわち預言の霊である」と記した。この言葉を評価基準とす   れば、イザヤは紛れもなく最も偉大な預言者の一人である。力強く雄弁に、キリスト   とその業について証したからである。   ニーファイ人を訪れたときにイザヤの言葉を熱心に調べなさいと命じられたように、   救い主御自身がその書物の重要さを認めておられる。主は、「イザヤの言葉はまこと   に偉大である。確かにイザヤは、イスラエルの家に属するわたしの民について、すべ   てのことを述べた」と言われた。ヤコブが民に語った次の言葉もわたしたちとかかわ   りがある。「あなたがたはイスラエルの家の者であるので、イザヤが述べたことの中   には、あなたがたにたとえて差し支えないものがたくさんある。」わたしたちもイス   ラエルの家に属する者なのである。   イザヤの言葉はほかの聖典にもいちばん頻繁に引用されている。『聖書』のイザヤ書   は66の章から成り、合計1,292の節がある。『モルモン書』の預言者たちはその中の   414の節(イザヤ書の32パーセント)を引用し、ほかに少なくとも34の節(3パーセント)   を言い換えて用いている。ニーファイ人の預言者たちは、限られた金版の中にイザヤ   書のほぼ35パーセントを載せるほど、イザヤの書き物を重視した。『新約聖書』の著   者たちもイザヤの教えや預言を尊重していた。『新約聖書』では、少なくとも57回引   用されている。   末日の啓示でもイザヤの言葉は強調されている。『教義と聖約』は引用や言い替え、   教えの説明で、およそ100か所イザヤの言葉に言及している。両者の密接な関連が分   かるのは、イザヤ11章,52章を霊感によって説明している教義と聖約113章である。イ   ザヤ65章を理解する鍵は教義と聖約101章にあり,133章はイザヤ35,51,63,64章の理解   を深めてくれる。『教義と聖約』の中にはイザヤの言い回しがたくさん見受けられる。   教義と聖約133:3,15,27,40-53,67-70を、   イザヤ52:10,12;51:10;64:1-4;63:1-9;50:2-3,11と比べてみよう。   預言者ニーファイは、イザヤは民の理解しにくい多くのことを語ったと述べている。   それは今日の民にとっても同じである。聖霊の賜物を受けた聖徒でさえ、多くはイザ   ヤの言葉をほとんど理解していない。ブルース・R・マッコンキー長老はこう書いて   いる。「多くの人が考えているように、イザヤ書が最も難解な書物の一つに数えられ   るとするなら、同時に彼の言葉はわたしたちが精通し、熟慮すべき最も重要なものと   考えなければならない。イザヤの預言の言葉は、すべての教会員の心に明るい光をと   もすものである。」   ニーファイはイザヤの書物を学び、解釈し、喜んだ。わたしたちもニーファイのよう   にイザヤ書を理解する必要のあることについて、マッコンキー長老は言った。「わた   したちの永遠の救いが、イザヤ書をニーファイと同じように深く正確に理解する能力   があるか否かにかかっている。」   マッコンキー長老は、人がもしイザヤやニーファイの行った所へ行きたいならば、彼   らのように信じ、考え、知り、教え、生活しなければならないと説明した。それはわ   たしたちも同じである。イザヤ書は確かに、祈りによる入念な研究に値するものであ   る。心からそれを望む人々は理解できるであろう。 イザヤを理解する鍵   イザヤの書物を理解したいと心から望む人たちにとって、幾つかの秘訣がある。その   鍵を使えば、イザヤの教えを深く洞察し、真理の知識が増して、イザヤ書をニーファ   イのように明瞭に理解することができるようになる。それについて次に述べる。   1)犠牲を払って勉強し、努力する     イザヤ書は聖典の中でも、レベルが高い書といえるであろう。読者はすでに福音     や主の救いの計画を知っているものと見なし、説明的な記述はほとんどしていな     い。イザヤ書は、霊的に長じた人々に伝えようとして、象徴を多く使った詩的、     文学的様式で書かれている。     イザヤの言葉は、教え方においてイエスのたとえに似ている。弟子たちがなぜた     とえで語られるのかと尋ねたとき、イエスはこう言われた。「あなたがたには、     天国の奥義を知ることが許されているが、彼ら一般の人には許されていない。だ     から、彼らにはたとえで語るのである。それは、彼らが、見ても見ず、聞いても     聞かず、また悟らないからである。この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、     その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らないため     である。しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいで     ある。」     イエスの時代、多くの人は霊的に未熟で、教えを受ける用意ができていなかった。     たとえによって、霊的に大人である人々に教えると同時に、理解し、従う用意の     ない人々からは教えを隠すことができたのである。そうすることによって、大勢     の人たちが、守れない原則を知ったせいで罪に定められることを免れたのである。     同じような意図がイザヤにもあった。そういう訳でイザヤも言葉上教えを隠し、     心で理解しようとする人々のために教えを取っておいたのである。霊的な言葉で     言えば、イザヤの書物は乳ではなく肉である。それを理解するには霊的に成熟す     ることが要求される。     主はニーファイ人にイザヤの言葉を研究せよと命じられたときに、その学び方を     教えておられる。熱心に調べるようにと言われたのである。ただ読むだけでは十     分でない。イザヤ書を理解するには、祈りをもって教えを熟考し、分析し、ほか     の聖文を参照して、熱心に調べなければならない。個々の語句や節は、広く福音     の全体や末日の預言に照らして注意深く学ぶ必要がある。   2)「預言の霊」を持つ     ニーファイは、イザヤの言葉は預言の霊に満たされている人々には分かりやすい     と教えた。聖霊の力によってもたらされるイエスのあかしは、すなわち預言の霊     である。しかしながら預言の霊は、イエスは生きておられるという単なる信仰を     はるかに超えたものである。それには、イエスは文字どおりの神の御子であられ     ることを理解することも含まれる。イエスがこの世に来られた目的と、イエスの     使命の意味と意義を正しく理解することが含まれる。子らにとっての、特にバプ     テスマの聖約により霊的に生まれ変わり、主の息子、娘となっている人々にとっ     ての福音の計画を理解することも含まれる。これらはすべて、聖霊の力を通じて     もたらされるものである。預言者イザヤは預言の霊の力を受けて書いた。彼の書     物は同じ霊の力によって解釈されねばならない。イザヤ書を知ろうと願う人は、     キリストについて学び、聖霊を伴侶とするよう求めなければならない。     ペテロは、預言者は霊感によって教えを述べるので、その教えを正しく理解する     には同じ聖霊によらなければならないことを明らかにしている。『モルモン書』     は預言の霊を得る方法を教えている。主に仕え、主の御心を行おうと努める人々     は、聖文を熱心に調べ、しばしば祈り、また断食もすることによって、預言の霊     を得ることができる。主は、自分を備えて真心から求める人に知識を与えてくだ     さる。     預言者ジョセフ・スミスはこう語ったことがある。「神がジョセフに啓示したこ     とで、十二使徒にお知らせにならないことはなかった。また、たとえ聖徒たちの     最も小さき者であっても、それを受けることが可能であれば、すぐさますべての     ことを知らせてくださる。」この真理は、無論イザヤの書物を理解することにも     通じる。   3)ユダヤ人の預言の仕方を知る     民がイザヤの書物を理解できないことについてニーファイが挙げた一つの理由は、     彼らがユダヤ人の預言の仕方を知らないからであった。その預言の仕方には、幾     つかの要素がある。     モーセの律法       『旧約聖書』の時代、イスラエルの家は『旧約聖書』の最初の5書に書かれ       たモーセの律法によって生活していた。イザヤの書物のおもな目的の一つは、       この律法の聖約に民の注意を促し、従わせようということであった。また       その律法は、民にキリストについて教え、キリストのことをいつも思わせ、       キリストに近づかせようとするものであった。モーセの律法は、ユダヤ人の       預言がわき出る源であった。ユダヤ人の預言の仕方を理解するには彼らの律       法を理解しなければならない。       イザヤは自分の書を、律法の中のモーセの歌の引用から始めている(イザヤ1       :2を申命32:1と比較)。この歌は民になじみ深かったので、ヘブライ人は歌       がすぐに分かった。ほとんどの人がそらんじていた律法の中の語句は、文中       で見るよりもはるかに多くのものを彼らの心に伝えたのである。イザヤはモ       ーセの律法を知っていた人々に実に効果的に伝えることができた。個々の語       や節の意味するところをいちいち詳しく説明する必要がなかったからである。       このことは、末日聖徒にとって理解し難いことではない。彼らも同じことを       経験している。キンボール大管長の「???を速めなさい」という言葉が何       を速めるのか、どういう意味なのか、活発な教会員であれば皆分かることで       ある。マッケイ大管長の「いかなる成功も???の失敗を償うことはできな       い」という言葉にしても同じである。読み手と書き手の双方がよく知ってい       る事柄を採り上げたとき、多くについて説明が不要になる。イザヤとヘブラ       イ人の場合もそうであった。     比喩的文章       イザヤは書物の中で、東洋的な思考の仕方をするヘブライ人によく理解され       るイメージや比喩を用いた。しかし欧米人にとっては、東洋的な物の書き方       は理解しにくいことが多い。イザヤは、用いた一語一語を欠かさず解釈して       もらう気はなかった。隠喩、直喩、類推、たとえ、象徴を頻繁に使用してい       る。幾つかの例を挙げてみよう。       イザヤ1:1ではイザヤが自分でユダとエルサレムについて語っていると述べ       ているにもかかわらず、1:10では「ソドムよ、主の言葉を聞け。ゴモラの民       よ、」と言っている。ソドムとゴモラは罪悪のためアブラハムの時代に滅び       ているので、イザヤが実際にソドムとゴモラに語っているはずはない。彼は       ユダが実に邪悪で、ソドムとゴモラのような滅亡の瀬戸際にあることを一段       と激しく伝えるために、この二つの町の名を使ったのである。       イザヤ28:23-29の文章は、文化的背景や文章形式を考慮して読む必要のある       ことを示している。イザヤの時代の農民生活に詳しい人にとっては、土地を       耕し、種をまき、脱穀する様子を描写したイザヤの言葉は、鮮やかな情景を       はっきり描いてくれる。しかし、その順序が分からない人には、イザヤが29       節で用いている直喩を理解することは難しいであろう。ここでイザヤは種ま       きと刈り入れを、この民に対する主の業と、善人と悪人を分ける世の刈り入       れとに比べたのである。C・F・カイルとF・デリッチはこの箇所をこう説明       した。「表現は実に威厳を持ち、預言者が高きみくらに住まう神の知恵を頂       いていたことが即座に分かる。農夫が畑や果物を扱う際に踏む賢明な天与の       順序は、教師たる神御自身がその国民を扱う際に踏む賢明な手順を象徴して       いる。イスラエルはエホバの畑である。エホバの懲罰は、その畑を強制的に       起こし、返し、耕す『すき』や『つるはし』である。だがそれはいつまでも       続くわけではない。畑がそうして緩んで軟らかくなり、再び肥沃になると、       苦しみの多いすき返しは終わり、今度は様々な方法で、しかもあふれるばか       りの恩寵により、恵みの種まきや植え付けが行われる。さらに言えば、イス       ラエルは、エホバの打ち場の子である。主は打たれる。打つばかりか、たた       くことさえされる。しかし確かに打ちはするが、主はいつまでも打ち続けら       れるわけではない。それはカスパリが説明しているとおりである。『主は国       民すべてを同じ厳しさで罰せられない。人によっては、ほかの人よりもはる       かに厳しく罰せられる人もいるが、そのような人に対しても、いつまでも罰       し続けるわけではなく、神の御心が果たされて、罪のもみ殼が除かれれば、       罰はすぐにやむのである。そして、もみ殻以外の何物でもない極悪人と、国       そのものの殻とが罰によって吹き散らされるのである。』これが、このたと       えの裏に隠された厳粛な教え、愛に満ちた慰めである。」       イザヤ48章では、民のかたくなさを示すために「その首は鉄の筋」という隠       喩を使っている。10節には、民を清め、精練する「苦しみの炉」という言葉       がある。18節では、義人に与えられる心の平安を語るのに「あなたの平安は       川のように」という直喩を用い、19節では、イスラエルが主に従ったときに       得られる多くの子孫(砂粒のように多い)を表すのに「あなたの子孫は砂粒       のようになって」という、これも直喩使っている。こうした比喩の使用によ       って、著者の文章に迫力と美しさと生命感が加わっている。       イザヤ44:13-20では、預言者はイスラエルの偶像礼拝を詩的な言葉で描写し       た。イザヤは、同じ木から人の拝む神々と日用品ができるさまを語りながら、       偶像礼拝の愚かさについて一段と強烈なイメージを描き出している。このよ       うな言い方は、ただ偶像礼拝をやめよと言うよりもはるかに説得力がある。     両義性と深遠な言葉遣い       預言の言葉によく見られることだが、イザヤの書物にも二重の意味を持つ箇       所がある。つまり、その言葉が複数の場合に当てはまるか、複数回成就する       というものである。二重の意味を持った句が、特定の人のみを対象とするか、       あるいは特定の人にしか理解されないように意図した言葉と結びつけている       箇所もある。このような深遠な表現を通して宗教上の概念を理解できるのは、       然るべき宗教的背景を持った人だけである。彼らはそれ以上の説明がなくて       も、容易に理解することができるのである。例えばイザヤ2:2では、「もろ       もろの山のかしらとして」立つ「主の家の山」について言われている。ハロ       ルド・B・リー大管長は、「主の家の山」という言葉は「場所であるととも       に義人の定義でもある」と述べている。「主の家の山は、もろもろの山のか       しらとして堅く立ち」の言葉は、ユタの山々の頂上に開拓者が来て教会と神       殿を建てたことで成就されたが、ユダヤ人がエルサレムに帰り、そこにやが       て主の家が立つことも成就するはずである。それは一般に、神の力と権威が       あって、しかも神がその民と交わられる場所をいう。「すべての国はこれに       流れてき」という事実は、初期にユタ山地の谷へ聖徒たちが集合したことと、       より広範な意味におけるシオンへの聖徒の集合の両方を指すと見てよい。シ       オンという語も幾つかに適用され、アメリカの新エルサレム、ユダヤのエル       サレム、主の民、または世界各地の彼らが集まる場所をいう場合がある。イ       ザヤはこうした言葉を使うことによって、彼の言葉の特別な意義を理解する       人々に、奥深い霊的な意味を伝えているのである。       14,15章で、イザヤはイスラエルの集合と、やがてはバビロンに勝つことに       ついて書いている。この象徴は、両義性を示す優れた例である。「バビロン」       は、イザヤの時代に実在したバビロニヤの国と、世の悪およびバビロニヤに       見られる、この世におけるサタンの支配の両方を指して用いられている。イ       ザヤはバビロンについて書いたこれらの章で、将来のバビロンの崩壊(国と       して、およびこの世の象徴として)と、イスラエルの勝利と、前世において       ルシフェルとその軍勢が投げ落とされたことに通じる概念を用いている。彼       の言葉は両義性を持つとともに深遠である。イザヤの示した教えを完全に把       握できるのは、主の救いの計画を理解できる人だけである。イザヤの時代に       成就したメッセージは、終わりの日に起こる出来事の予型でもある。その意       味において、イザヤ書の多くの章は両義的であるといえる。ニーファイがユ       ダヤ人の預言の仕方について話した点は、表現と意味の豊かさであったと思       われる。頻繁にモーセの律法に言及し、比喩や象徴的な言葉、二重の意味を       持つ難解な語句が随所に用いられている。現代の読者は古代イスラエルの時       代や文化を十分に把握することはできないが、イザヤが完全な意味を伝えよ       うとして用いた語法や工夫を理解すれば、イザヤ書をより深く理解できるで       あろう。   4)聖地とその周辺の地理を知る     イザヤは、近隣諸国や聖地の都市や町のことをよく語っている。彼が語る地域の     地理を知れば、書いていることがもっと鮮明になり、迫力を持ってくる。その良     い例がイザヤ10:24-34である。イザヤは、迫り来る強力なアッスリヤ軍を目前に     して、主がイスラエルのために力を発揮して彼らを守られることについて述べて     いる。28-32節にはエルサレム近郊の町の名が挙げられ、アッスリヤは町を次々     に倒しながらノブまで来るが、主はエルサレムの住民を守られると言っている。     ここに言われている町々がエルサレムの北16キロ以内にあって、ノブの集落はエ     ルサレムの城壁のすぐ外、神殿の東門を見下ろす位置にあることを知れば、文章     はにわかに意義を増してくる。     イザヤは地理を比喩的にも使っている。理解すれば言葉に深みが増す技法である。     先に述べたように、バビロンは悪と腐敗の象徴であった。エジプト、アッスリヤ、     そのほかの邪悪な国々も、悪の象徴として使われている。ソドムとゴモラの町は     同様に不義を表していた。イスラエル周辺のカナン人、ペリシテ人、アモリ人な     ど、イスラエルを取り巻く偶像礼拝の民の名は、背教時代のイスラエルに見られ     た邪神礼拝を表すのにしばしば用いられている。イドマヤ(エドム)は、俗世の     典型とされている。北の山々と丈の高い杉を産したレバノンやバシャンは、高慢、     尊大を暗示する。北王国の有力部族であるエフライムと首都サマリヤは、一般に     北王国全体を代表して語られる。地理上の言葉が用いられている場合には、その     実際の場所と、それによって象徴される概念の両方を示していることが多い。   5)神の裁きと預言の成就について学ぶ     主はどの時代にも一貫して子らに向かわれる。主は変わられない。主に変化はな     い、主は昨日も今日も永遠に同じく、永遠から永遠に同じくまします。その踏む     道は永遠に変わらぬ一つの環である。自分の救いを得ようと努める子らにとって、     この一貫性は最も重要なものである。預言者から与えられる主の勧告を理解して     従おうとするときにも、それは大事である。イザヤの書物を理解するには、ほか     の預言者たちを通じて与えられた主の教えや業について知る必要がある。イザヤ     の時代の民は、各時代に示されてきたと同じ原則に従って祝福や災いを受けた。     どんな行動が民を神から遠ざけ、主の怒りを招いたかを知れば、イザヤの警告や     主張はよく理解されるであろう。主は、イザヤが非難したような罪悪に対しては、     いつの時代にも同じ扱いをされる。主はどの神権時代にも、すべての結果にはそ     の基となる律法があるというメッセージを与えてこられた。わたしたちはその律     法を知ることによって、イザヤをはじめとする預言者たちの記録を理解する土台     を築くことができるのである。     主は多くの預言者に地上の歴史の大パノラマを啓示してこられた。彼らの書いた     ものを学ぶと、イザヤの書物が主の全計画のどこに位置するかが分かるようにな     る。例えば、ゼノスが語ったオリーブの木のたとえに照らしてみれば、イザヤの     書物はより深く理解される。その中に、イスラエルの家の歴史と将来が語られて     いるからである。イスラエルの散乱、養育、集合、最終的な行く末についてはゼ     ノスが語り、ヤコブも自分の記録の中に引用している。これらの事柄について知     識を得ておけば、正しい見方でイザヤの書物を見ることができる。ある預言者の     預言が、別の預言者の書物や預言を正しく理解する助けになるのはよくあること     である。ニーファイはこう預言した。「イザヤの預言が成就する日に、すなわち     それらの預言が事実となるときに、人々はそれが確かであることを知るであろう。     それはイザヤの言葉が、終わりの時に、彼らにとって大いに価値のあるものとな     ることを知っているからである。彼らはその日に、イザヤの言葉を理解するから     である。」この神権時代に起きつつある出来事の中に、イザヤの言葉の成就を多     く見いだすことができる。ニーファイは、イザヤの預言が事実となるのを見る人     々にはそれが理解できることを知っていた。   6)イザヤの書物の歴史的状況を理解する     イザヤを理解するには、彼が働きかけた民の歴史的背景を理解することも必要で     ある。イスラエルのエジプト脱出から始めて、荒れ野の放浪、神との聖約、カナ     ン征服、士師の統治とイスラエル統一王国の誕生、ダビデ王の黄金時代、2国へ     の分裂に至るまでの、イスラエルの歴史の全体像を把握しておくことも大切であ     る。また、イスラエルの背教、周辺諸国の圧迫による苦しみ、それによって民が     神から遠ざかったことなどについても理解しておく必要がある。イザヤは直接に     その歴史から、数々の比喩や概念を使用した。イザヤの意図をつかむためにイス     ラエルの歴史を知らねばならないこともある。彼は時代の状態とそれが主の民に     及ぼす影響についてしばしば語っているので、彼の書物は背景を正しくつかんで     読むことが不可欠である。   7)『モルモン書」の利用     『モルモン書』は世界で最も優れたイザヤ書の注解書である。『モルモン書』の     預言者はイザヤの書物を愛してそこからよく引用した。『モルモン書』はかなり     の部分が霊感を受けての解釈や説明に当てられている。『モルモン書』の預言者     たちはその資料を、紀元前600年よりも昔に書かれた真鍮の版から入手した。し     たがって『モルモン書』の中のイザヤの文書は、現存する最も正確でしかも最古     の文書であり、中には彼と同じ歴史的、文化的背景を持つ預言者たちの注釈をも     提供している。主御自身が『モルモン書』の確かなことを断言され、それはまた、     中に含まれているイザヤの書物の証ともなっている。   8)すべての聖典を学んで十分に理解する     『モルモン書』にはイザヤの言葉が引用、解釈され、『新約聖書』の著者たちも     イザヤ書を各所で解説している。『教義と聖約』ではイザヤの言葉が採り上げら     れて説明され、ほかにも多くが引用され、その限りにおいて意味が明確になって     いる。     聖文を知れば知るほど、イザヤ書が分かってくる。福音の計画を形作る各要素は、     互いに関連し合っている。どの時代の聖文記録者も、共通した言葉遣いをし、深     く関連し合った概念を示しているが、これはすべて福音の持つ一貫性によるもの     である。したがって、最新の聖句を用いて最古の聖文の教えを理解することがで     きるのである。     あなたが聖文を学べば学ぶほど、パズルのかけらはつながって、大きな美しい全     体像を形成していく。   9)イザヤ書は「言葉に言葉を加え」て理解される     主は常に、戒めを守る道を子らに備えておられる。イザヤの言葉を調べなさいと     言われたとき、指示に従う人々がイザヤの教えを理解でき、感化を受けるであろ     うことを、主は十分御存じであった。進んで真剣に学ぼうとする人にとってイザ     ヤ書は分かりやすい書となる。この書が伝える最大の教えは、イザヤの預言の成     就を見ることのできる現代の聖徒のためのものである。自分の生活を整え、主の     王国の建設に貢献しようと励むときに大きな力となる光を、イザヤは求めるすべ     ての人に与えてくれるであろう。一度に全部ではないが、確実に理解していくこ     とができる。真理の探求者の努力に応じて、教えに教え、訓戒に訓戒を加えて理     解は深まっていくのである。 イザヤの世界   預言者イザヤの言葉の重要性については、聖典のほかの書の中にも数多く述べられて   いる。救い主御自身も、イザヤの言葉を熱心に調べなさいと命じておられる。イザヤ   はどの時代に生きていたのか、だれと一緒に働いたのか。時代的な環境や情勢はどう   だったのか。旧約の預言者について、その生涯や時代背景を伝えてくれる資料は皆無   に等しい。しかしイザヤが働いた時代については、一般的にかなりの資料が残されて   いる。ブルース・R・マッコンキー長老は、イザヤ書の15の章はおもにイザヤの時代に   その地方で実際に起きた出来事、あるいは歴史的な出来事が書かれているものである   とした。ここでは、イザヤの住んでいた世界、またこの偉大な預言者が遭遇した問題   や、彼の働きについて述べる。   イザヤはユダの4人の王の治世下に政治家としての役割をも併せ持つ預言者として仕   えた。この当時の歴史的な記録はおもに次の3つの資料から取られている。列王紀下、   歴代志下およびイザヤ書である。   伝説によれば、イザヤはマナセの手によってのこぎりで二つに裂かれて殉教したこと   になっている。   イザヤに関する聖文の記述の編年史的要約     次の年表は、預言者イザヤの働きに関する出来事を要約して、年代順にまとめた     ものである。列王紀と歴代志の2書の記述およびイザヤ書の関連記事を整理し、     ユダ王国のこの時代の出来事をまとめてある。     ()の中の年代はイスラエルの北王国の出来事を示す。     *印の付いている年代は、説明上一時的に時代がさかのぼることを示している。     年代       参照聖句         出来事     紀元前792年       列下15:1-4, 歴下26:1-4         アザリヤすなわちウジヤ(これは一般的には即位後の名と考えられてい         る)がユダの王となる。彼は24年にわたる父親との共同統治を含め、52         年間国を治めた。     768-750年       歴下26:5-7         ウジヤは預言者ゼカリヤ(『旧約聖書』のゼカリヤ書を書いたあのゼカ         リヤではない)の助言を求める。ウジヤはペリシテ人を征服、脅威の的         になっていた砂漠の民を打ち破る。       歴下26:8-15         ユダが強大な軍事国家として確立する。エルサレムの防備が進み、軍備         も整えられた。農業にも進歩が見られた。隣国の中にはこの強大な国家         に対し貢ぎ物を納める国もあった。     750年       歴下26:16-21         ウジヤは高慢になり、自分には神殿の儀式を執行する権限があると考え         た。権能もなく神殿の儀式を執り行おうとしたため、神の裁きを招き、         らい病となる。息子のヨタムが一緒に10年間統治する。       歴下26:22         『聖書』には、イザヤがウジヤの統治の歴史記録を書いたとあるが、そ         の記録は現存していない。     740年*         列下15:7, 歴下26:23         ヨタムが単独の統治を開始する。(この続きについては、以下の記述を         参照する。列王下15:32-35; 歴代下27:1-6)     (753年)       列下15:8-12         ゼカリヤが父ヤラベアム2世の跡を継いで、イスラエル(北王国)を6か         月間治める。     (752年)       列下15:13-15         シャルムが1か月間治め、その後イスラエルで暗殺される。       列下15:16-18         北王国で、メナヘムによる罪悪と恐怖に満ちた統治が始まり、以後10年         にわたって続く。     743年       列下15:19-21         北王国がアッスリヤの攻撃を受ける。テグラテピレセル3世(別名プル)         からの貢ぎ物の要求にこたえるために、イスラエル王は自国の富める者         から金銀を徴収した。ニムロデのテグラテピレセル3世に関する古代の         歴史文書は、この聖文に書かれたこの出来事が歴史的な事実であったこ         とを裏づけている。これには「サマリヤのメナヘム」により金銀が貢ぎ         物としてささげられたという記述がある。     (742年)       列下15:22-26         ペカヒヤがイスラエルで2年間統治する。その後、後継者により暗殺され         る。     (740年)       列下15:27-31         レマリヤの息子ペカが北王国を統治する。この王はアッスリヤに対抗す         るためにスリヤと同盟を結んだ。この連合はユダにとっても脅威となっ         た。(この続きについては列王下15:37;16:5-6を参照する。)最終的には         テグラテピレセル3世が北の地域を攻め落とし、多くの住民を捕虜とし         た。この軍事行動は、ホセアが北王国の王位に就く道を開くことになる。         イザヤは、神の国(すなわちユダとイスラエル)にさらに加えられる脅威         について警告した言葉の中で、この侵略に触れている(イザヤ9:1参照)。     740年       列下15:32-35, 歴下27:1-6         ヨタムが神殿の門を拡張し、ユダの国の防備をさらに固める。アンモン         人はウジヤ王のときからの進貢を拒否しようとしたが、失敗に終わる。     735年       列下15:36-38, 歴下27:7-9         イスラエル王ペカとスリヤ王レヂンの連合軍が、ユダ制圧を目指し、こ         の時代に進撃を開始する。     732年**       歴下27:9; 28:1         アハズが父王ヨタムの死去まで3年間一緒に統治する。     735年       列下16:1-4, 歴下28:1-4         アハズの統治は宗教上の律法に相反するもので、偶像礼拝の慣行を取り         入れ、自分の子供をいけにえの犠牲にささげることさえ行った。     735-720年       列下16:5-6, 歴下28:5-15         イスラエル(エフライム)、スリヤの連合軍がユダとエルサレムを攻撃、         征服は失敗に終わる。しかし、多少の領土は獲得した。       イザヤ7:1-6         イザヤは主の命を受けて、アハズ王のもとへ赴き、イスラエルとスリヤ         の過去の関係から判断して、アッスリヤとは国防を目的としたいかなる         政治同盟も結んではならないと警告する。       イザヤ7:6-9; 8:9-18         同年イザヤは、国は目前に迫った征服の危機を免れると預言する。さら         に、エフライム(イスラエル)は国家としては滅ぼされるであろうと警告         する。       イザヤ7:10-16; 9:6-7         預言者イザヤ、ユダは前世で予任された務めを果たすために、メシヤの         家としてその子孫が残されると証する。       イザヤ7:17-25; 8:1-8; 9:8-12         イザヤ、ユダはアッスリヤによって踏みにじられるが、イスラエルやス         リヤの人々のように滅ぼされることはないと預言する。また、スリヤと         ダマスコの没落(イザヤ17:1-4参照)、さらにはイスラエル(サマリヤと         エフライム。イザヤ28:1-4参照)の民の没落も預言する。       イザヤ10:5-19         イザヤ、アッスリヤによってサマリヤが滅ぼされるだけでなく、後にエ         ルサレムとあらゆる邪悪な者たちも滅びると預言する。さらにまた、ア         ッスリヤの滅びも示される。       列下16:7, 歴下28:16         アハズは預言者イザヤの助言を拒み、アッスリヤと同盟を結ぼうとする。       歴下28:17-19         ユダはその指導力の弱さのため、隣国のエドムとペリシテの攻撃を受け         る。その結果幾つかの町と国土の一部を失う。       列下16:8-9, 歴下28:20-21         アッスリヤの援助を確約するため、アハズ王、神殿と王の倉庫から宝物         を取り出し貢ぎ物として差し出す。富める者には財の供出を強要した。         古代アッスリヤの文書にも、このアハズ王の貢ぎ物に関する記録がある。         ユダの敵の来襲に際し、アッスリヤからの救援はまったくなかった。       列下16:10-16         アハズ王が征服直後のダマスコの町へテグラテピレセル3世を訪問する。         ダマスコで王座に似た異教徒の祭壇を見たアハズは、それに従って同じ         ものをエルサレムの神殿の中にも建てるよう命じた。       歴下28:22-23         アハズ王がダマスコの神々に犠牲をささげる。       列下16:17-20, 歴下28:24-26         アハズ王が神殿の器物の一部を破損ないしは改造し、神殿を閉鎖する。         また、国中に罪深い偶像礼拝のための場所を設けた。     (732年)**       列下15:30-31; 17:1-2         ホセアがアッスリヤにより、イスラエルの王として即位させられる。カ         ラすなわちニムロデで発見されたアッスリヤ王の歴史記録には、ホセア         はアッスリヤに隷属する王でしかなかったことが記録されている。     (725年)       列下17:3-4         シャルマネセル5世が紀元前727年にアッスリヤの王となる。時を同じく         して、ホセア王がアッスリヤに対して反乱を起こす。ホセア王はこの支         配者交替の時期を利用して、それまでの進貢をやめ、エジプトからの援         助を仰ごうと画策した。エジプト王に使者が派遣された。この王は一般         にはエジプトを征服したエチオピヤ人であり、第24王朝の創始者として         エジプトを支配した人物であると考えられている。     (724-721年)       列下17:5         イスラエルの地とその首都サマリヤが3年間包囲される。この期間の終         わりごろ、サルゴン2世がアッスリヤの支配者となる。     (722年)***       列下17:6-17         サルゴン2世の指揮の下で、サマリヤが最終的に陥落する。イスラエル         の民はサルゴンによって捕らえられとりことなり、アッスリヤヘ引いて         行かれた。これがサルゴンの統治下の出来事であったかどうか疑問視す         る者もいるが、このサルゴンの宮殿の銘文には「サマリヤの征服者」と         してその名を刻んである。こうした古代の文書には同様に、北の10部族         の住民も捕らわれて連れて行かれたと記録されている。後に、この大集         団はこの捕囚の境遇から逃れ、聖典の記録にも姿を見せなくなってしま         う。そのために、イスラエルの「行方の知れない部族」と呼ばれるよう         になるのである。     721年       列下17:18-19         このアッスリヤによる大規模な破壊の後、唯一生き残った国家はユダだ         けとなってしまう。     (721年)       列下17:24         アッスリヤは征服して人口の少なくなったイスラエル、特に首都であっ         たサマリヤ地域に再び人々を定住させ始める。サルゴンの宮殿の壁面に         は、メソポタミヤ地域から移住させた人々の住む地域をアッスリヤの新         しい属領にしたという銘刻文がある。     (720年)       列下17:25-41         新しく移住した人々がそこで多くの問題を経験する。彼らは因習に従っ         たために、その地の神を知らずにいた。そこで最終的にはアッスリヤは、         捕らえていた人々の中からレピ人と祭司たちをイスラエルの地に派遣し、         新しい住民たちにその神について教えさせた。そのため、彼らは主を礼         拝するとともに、自分たちが移住に際して持ち込んだ神々も礼拝した。         その後、この定住者たちはおもにエホバを礼拝するようになり、祭司た         ちの家族と異族間結婚をするようになった。やがて、彼らはサマリヤ人         と呼ばれるようになった。       イザヤ19:1-15; 20:1-6         アッスリヤの文書によれば、周辺の属領や新しく征服したサマリヤにお         いてかなりの数の反乱が断続的に起こったことが記録されている。この         ため、ガザとダマスコが再びアッスリヤ領として編入された。アッスリ         ヤの属国のうちこうした反乱を起こした国はエジプトに援助を求めた。         このような事態に直面して、イザヤは不実なエジプトと組んではならな         いとユダに向かって警告した。イザヤはさらに、当時異国(エチオピヤ)         の支配者に統治され、弱体化したエジプトはアッスリヤに打ち破られて         しまうと警告した。バビロンも別の方向からの反乱を企てていたために、         アッスリヤはこれまでイスラエルの地に向けていた関心と配慮とを変更         する必要が出てきた。     715年       列下18:1-6, 歴下31:1-32:12         ヒゼキヤがその父アハズの跡を継いで王となる。ヒゼキヤは父の持ち込         んだ偶像礼拝の習慣を自分の国から一掃しようと努めた。モーセの時代         から伝えられてきた神聖な青銅のへびでさえも、間違った礼拝の対象と         なっていた。そのためヒゼキヤはこれを打ち砕いた。     715-701年       歴下29:1-11         ヒゼキヤは神殿を再開し、レビ人たちにそこで儀式を執り行う準備をす         るよう命じる。       歴下29:12-19         レビ人が宮を清め、元の状態に戻した。       歴下29:20-36         真実の信仰と犠牲のささげ物とがユダの国に再び確立される。       歴下30:1-12         過越の祭を再開するに当たり、ヒゼキヤはイスラエルとユダの全地に使         者を送り、エルサレムに招いた。しかし、どの国にもこの呼びかけをあ         ざ笑い、無視する者が多かった。       歴下30:13-27         招きにこたえた信仰深い人々が、ユダでこの神聖な祭が再開されたこと         を祝って喜ぶ。       歴下31:1         礼拝に参加した人々が、偽りの宗教を国内から排除しようと努力を続け         る。       歴下31:2-10         神権組織が出来上がり、継続してその務めを果たすことになる。祭司の         職にある人々の生活を支えるために什分の一が納められた。       歴下31:11-21         実務面を処理する組織が作られ、血統と生得権とによりレビ人の諸権利         が定められる。     705年       列下18:7         サルゴンの戦死が引き金となってアッスリヤ帝国の全土に反乱が起きる。         ヒゼキヤ王は父の代からの進貢を拒み、エジプトと同盟を結んで援助を         得ようと考えた。しかし、イザヤはエジプトからの援助を期待すること         自体が愚かなことであると警告していた。     (722年)***       列下18:9-12         イザヤは、北のイスラエルとサマリヤがシャルマネセル5世とサルゴン         2世の手で滅ぼされることになると、何度も繰り返して記録している。         これはアッスリヤの強大さを思い出させるためである。     701年       列下18:13-16         サルゴンの跡を継いだセナケリブがユダとペリシテの領地に攻め入り、         強制的な進貢に合意させる。この王の侵略の記録には、56の町ないしは         とりで、および数多くの村を攻め落としたと書かれている。エルサレム         にいたヒゼキヤが長期にわたって包囲されたことについては、次のよう         に書かれている。「わたしは王自身もかごの中の烏のように閉じ込めた。」         アッスリヤは、すでに占領したラキシに作戦本部を置いた。エルサレム         の南西40キロの地点である。この包囲作戦に苦しんだヒゼキヤは貢ぎ物         を送った。その大部分が神殿の中にあったものである。こうして和平工         作が進められた。このような貢ぎ物を受け取ったことを確認する記事が         同様に古代の文書にも記録されている。       歴下32:1-8         こうして貢ぎ物を送ったにもかかわらず、包囲は続いた。そのため、ヒ         ゼキヤは町のとりでを強化し、水を確保するために一大事業を開始した。         トンネル(水道)の工事が行われ、町の中まで安全に水を引き、貯水池に         蓄えておくようにした。預言者イザヤは、エルサレムはやがて滅ぼされ         ると警告するに当たって、ヒゼキヤがこうした準備をしたことについて         触れている。このトンネルは今なお存在し、シロアムあるいはヒゼキヤ         のトンネルという名前が付けられている。トンネルに刻まれた古代の銘         文には、この建設のことが記録されており、おもにその事業にはヒゼキ         ヤがかかわっていたことが分かっている。       列下18:17-18, 歴下32:9-10, イザヤ36:2-3         包囲が続いたため、アッスリヤはセナケリブ王の代理を派遣して、エル         サレムに降伏するよう求めた。ヒゼキヤは交渉のために、自分の部下を         町の城壁の外へ派遣した。       列下18:19-25, 歴下32:11-12, イザヤ36:4-10         アッスリヤの使者は、アッスリヤ軍に対抗できるかどうか民の力を試し         てみよと迫り、ユダがエジプトと同盟を結んだことを非難した。最後に、         ユダの神がユダを滅ぼすよう命じたのである、と冒涜の言葉を口にした。       列下18:26, イザヤ36:11         ヒゼキヤの代理人たちは、民に交渉の過程を悟られないように、ヘブラ         イ語ではなくスリヤ(アラム)語で交渉を進めることを要求する。       列下18:27-35, 歴下32:18-19, イザヤ36:12-20         アッスリヤの役人たちはこの要求を無視し、ユダの民の言葉で、ヒゼキ         ヤ王や神を頼って解放してもらおうと願っても無駄であると叫んだ。ま         た戦いがアッスリヤの勝利に終わろうとしている今、ユダの神にどのよ         うな力があるのか見せてみよ、と威圧した。       列下18:36-37, 歴下32:16-17, イザヤ36:21-22         ヒゼキヤから派遣された代理人たちは、口を開いてはならないと命じら         れていた。そのため、まったく何も答えずに帰って王に報告する。こう         した口頭での要求に加えて、手紙も送られてきた。       列下19:1-5, 歴下32:20, イザヤ37:1-5         自分の代理人たちの報告を受けたヒゼキヤ王は、預言者イザヤのもとへ         部下を遣わして助言と指示を求めた。       列下19:6-13, イザヤ37:6-13         イザヤ、アッスリヤの退去と、セナケリブの帰還後の死を預言する。ア         ッスリヤを代表して交渉していた役人が報告のために帰ると、主要部隊         がラキシに程近いリブナで戦闘に従事していることを知らされる。さら         にまた、アッスリヤはエジプトのエチオピヤ王からの攻撃の脅威にもさ         らされていた。この結果、エルサレムの包囲軍に対する圧力も増大して         いた。       列下19:14-35, 歴下32:21, イザヤ37:14-36         ヒゼキヤはアッスリヤからの手紙を受け取ると、敵の手から解放される         よう祈りのうちに主に願う。主の答えは預言者イザヤを通して王に与え         られる。その預言には、アッスリヤが滅ぼされること、ユダがやがて祝         福を受け繁栄することが約束されていた。ヒゼキヤは預言者イザヤの指         示に従い、ユダの民は主により敵の手から解放された。エルサレム周辺         で陣を張っていたアッスリヤ人は打ち殺され、数多くの犠牲者を出した。       列下19:36-37, 歴下32:21-23, イザヤ37:37-38         生き残ったアッスリヤ人は包囲をあきらめ、故国に引き揚げる。そこで         セナケリブは暗殺され、イザヤの預言が成就した。この奇跡的な解放に         よって、近隣諸国からヒゼキヤと神に対してささげ物、宝物が届けられ         た。       列下20:1-11, 歴下32:24, イザヤ38         ヒゼキヤ王が高慢になり、病気になって死ぬばかりとなる。預言者イザ         ヤは王は死ぬと預言する。ヒゼキヤが主に嘆願すると、預言者イザヤが         まだ王の宮殿を出ないうちに霊感が下り、戻ってヒゼキヤにもう15年命         が延ばされることになったと告げる。このとき王の病気の治療法もあわ         せて与えられた。預言者イザヤはヒゼキヤの病の回復が主の癒しによる         ものであることの証明として、一つのしるしが与えられると預言した。         それは父のアハズの作った日時計によって昼が長くなったことが示され         るというものであった。     701-686年       歴下32:25-26         しかしヒゼキヤには依然として、克服すべき高慢な心が残っていた。ヒ         ゼキヤ王は自分の高慢と反逆心を悲しみ、また命が延ばされたことに感         謝の祈りをささげた。やがて、ヒゼキヤは十分に謙遜になり、その統治         の間中、主の恵みを賜った。       歴下32:27-30         民も王も豊かに祝福を受け、繁栄してこの世の富にも恵まれる。       列下20:12-13, 歴下32:31, イザヤ39:1-2         メロダクバラダン(バビロンの王子で、自国ではマルダカパリデナと呼         ばれた)は、かつてアッスリヤの統治に対して反旗を翻したが、この度         はユダの王を見舞うために贈り物とともに友好の使者を派遣する。ヒゼ         キヤはその使者たちに国の宝庫や武器庫をことごとく見せた。       列下20:14-19, イザヤ39:3-8         その後、預言者イザヤは、王国の富や武器を隠すことなく見せたことで         王を激しく責めた。イザヤはまた、やがてバビロンによってユダが征服         され滅ぼされるであろうと預言した。       列下20:20-21, 歴下32:20,32-33         水道の建設は、ヒゼキヤ王の重要な功績の一つとして記述されている。     697年***       列下21:1-2, 歴下33:1-2         マナセが父とともに王位に君臨する。マナセは明らかに父王の最後の11         年間を一緒に統治した。     686年       列下21:3-16, 歴下33:3-10         父の死去に伴いマナセによる統治が開始したが、彼は豊かな国を次第に         背教と偶像礼拝の泥沼へと深く引きずり込んでいった。彼らが悪を行っ         たことは、主がイスラエルの人々の前に滅ぼされた国々の民よりもはな         はだしかった。預言者たちは、神に反逆するこの国にはやがて裁きと完         全な滅びとが待ち受けていると預言した。マナセは多くの罪のない者の         血を流した。     679年       歴下33:11-17         アッスリヤの支配者でありセナケリブの息子の一人エサルハドンが再び         ユダの地に進攻を開始する。この度は、エルサレムを含む21の町が貢ぎ         物を納めることになった。アッスリヤにこの敗北を喫し、罰を受けた後         で、マナセは民の中で多少の改革を試みるが、見るべき成果はほとんど         なかった。    イザヤの書物についての勧告   「さて見よ、わたしはあなたがたに言う。あなたがたはこれらのことを調べなさい。   まことにわたしは、これらのことを熱心に調べるようにという戒めを、あなたがたに   与える。イザヤの言葉はまことに偉大だからである。」(3ニーファイ23:1)   この教えは、救い主がニーファイ人に向けて与えられたものであるが、「これらこと   を熱心に調べるように」という戒めは、取りも直さず現代のわたしたちに与えられた   チャレンジである。イザヤは、神がその子らにどのような業をしようとされているの   かということについて、深く洞察していた。彼はシオンの社会、言い換えれば日の栄   えの社会の、力や原則について理解していたし、自分の時代や将来にそれをどう取り   入れるかについても知っていた。また、当時の人々の霊性を強化する一方で、やがて   シオンの確立のために人々が召され、それが実行に移される日が来ることも預言して   いたのである。イザヤ書の前半には、この偉大な出来事に関係する聖句が数多く書か   れている。 イザヤ書の構成   イザヤ書は、預言者イザヤの著作を編集したものであり、恐らくは彼の著作の一部の   抄録であろう。第1章から第39章まではイザヤの働きについて書かれてあり、第40章   から第66章までは将来に起こる事柄に関してイザヤの受けた示現と啓示が書かれてい   る。記述の順序が必ずしも年代順ではないため、各章ごとにその歴史的な背景に合わ   せて入念に研究する必要がある。 イザヤ書第13-23章   イザヤ書の第13章から23章までは、苦悩に満ちた「託宣」の集大成であって、イザヤ   の時代の国々に下される裁きについて書かれている。バビロン、アッスリヤ、ペリシ   テ、モアブ、ダマスコ(スリヤ)、エジプトをはじめとする様々な国々が、預言者の   重々しい裁きの言葉の対象となっている。聖文の言葉が次々と襲いかかる裁きの言葉   のように思えるかもしれないが、全体的に見ると、こうした苦悩に満ちた言葉は、古   代の世界にも現代の世界にも重要な意味を投げかけている。   イザヤ14章では、主はイザヤを通じて、イスラエルの家の邪悪な行いを叱責し、その   悪事のために大いなる裁きが下されることになると預言された。一般的に、こうした   裁きは、ほかの国々の手によって下されることになった。こう尋ねる人もいよう。   「イスラエルが邪悪だったことは分かる。しかし、どんなに悪いときであっても、周   囲の異教徒の国々より悪かったということはなかったはずだ。むしろ、多少なりとも   良かったことの方が多いのではないか。それなのにイスラエルは滅ぼされ、ほかの国   々は逃れられるというのはどういう訳か。」   主は、この一連の託宣を通じて、世界もまた裁きを受けることになると示された。こ   の部分でも、イザヤはこれまでの章と同様に、両義的表現を再々使って、自分の民に   向かうと同時に、現代のわたしたちにも向けて預言している。13章から23章にかけて   書かれていることは、9つの異なる国々に向かって与えられたものであり、主の目か   ら見てすでに悔い改めの時は過ぎていること、彼らもまたいずれ神の裁きに合うこと   などの警告であるが、これらの国々はそれぞれが現代の象徴でもあった。このように、   バビロンやそのほかの国々の状態や将来について研究すると、暗い気持ちになるかも   しれない。しかし、同時に認識しなければならないのは、その悪事のために裁きを受   けた古代のバビロンは、現代のバビロン、すなわち世界を象徴するものでもあったと   いうことである。イザヤが鋭い警告を与えた相手は、現代のバビロンなのである。   13章から14章にかけての長い部分は、ニーファイも『モルモン書』中に引用している。 イザヤ書第24-35章   イザヤは預言者であったばかりでなく、聖見者でもあった。アンモンは「聖見者は預   言者よりも偉大である。聖見者は啓示者であり、預言者でもある」と言っている。さ   らに「聖見者は過去のことも将来のことも知ることがでる。解訳器によってすべての   ことが示される。というよりむしろ、秘密のことが明らかにされ、隠れたことが明る   みに出る」と続けている。   イザヤはあらゆる時代を通じて最も力ある聖見者の一人であった。預言者ジョセフ・   スミスが次のように語ったとき、思い浮かべていた人物の中にイザヤがいたことは間   違いない。「神の啓示を探求しなさい。預言について研究しなさい。神がこの世に聖   見者や預言者を送ってくださることを喜びなさい。その中には、神の奥義を見た人、   洪水の来る前にそれを預見した人、地上から天にまで届くはしごを天使が昇り降りし   ているのを見た人、山から石が切り出されてそれが全地に満ちるのを見た人、神の御   子が至福の位から降臨し地上で人々とともに暮らされるのを見た人、解放する者がシ   オンから出て来てヤコブから不敬な行為を葬り去るのを見た人がいる。また、主が山   上で地球の変貌を示されたときに主の栄光を見た人や、主が邪悪な者たちに復讐して   おられたときにあらゆる山が低くされあらゆる谷が高くされるのを見た人、真理が地   からわき出るのを見また主がその選民を集めるために再臨される、その直前の終わり   の日に義人が天から見下ろしているのを見た人もいる。さらに、地上における邪悪な   者の終末を見、創造の安息日が平安の冠をかぶるのを見た人、サタンがしばらくの間   解き放される輝かしい一千年の終結を見た人、あらゆる人がその業に応じて裁きを受   けるその日の光景を見た人、義人が永遠の受け継ぎにあずかるときの神の町の場所を   確保するために天地が去り行くのを見た人もいる。ともにこの世に寄留する人々よ、   自分を清め、同じ栄光に到達するのは、そして、自分で見、自分で知ることは、あな   たがたの特権である。」   イザヤ24章では、強調点に明らかに大きな変化が見られる。この章では、イザヤがや   がて来る最後の神権時代への待望を強めていくが、それにつれて彼の聖見者としての   役割がいっそう深くかつ明確になってくる。   イザヤの示現の視野の広さを考え、それがどの世代にも当てはまることを考えると、   イエス御自身が、イザヤの言葉はまことに偉大であると言われ、これらのことを熱心   に調べるようにと命じられたのも、別段驚くには及ばない。   前掲のジョセフ・スミスの言葉の最後の部分に注目してほしい。ジョセフは、聖見者   たちがこれまで見てきたあらゆることを「自分で見、自分で知ることは、あなたがた   の特権である」と言っている。そのためには、聖見者たちの言いたものを丹念に研究   することも一つの方法である。イザヤ言の中でもきわめて重要なこの箇所を研究する   に当たり、イザヤが見たものを自分でも見られるよう、努力してみよう。 イザヤと『教義と聖約』   数多くの預言者が幾度となくイザヤ書から引用しているが、『新約聖書』や『モルモ   ン書』を書いた人々にとって、これは別段驚くほどのことではない。『旧約聖書』こ   そ唯一のよりどころとなる聖典だったからである。イザヤの記録とジョセフ・スミス   の受けた啓示の間にきわめて似通った言葉遣いがあることに驚く人もいる。ジョセフ   ・スミスのころのキリスト教会は『新約聖書』を重視するあまり、『旧約聖書』の価   値を過小評価していたからである。しかし、互いに2,500年以上も離れてはいるもの   の、イザヤとジョセフ・スミスはともに同じ神に召され、同じような霊的な召しを受   け、同じ神権を授けられたのである。この二人の預言者の受けた啓示の言葉を比較で   きる表を以下に掲載する。   イザヤ  教義と聖約   1:2    76:1   1:16-17  88:123-124   1:18   50:10   1:19   64:34   8:16   88:84;109:46   11:1-10  113:1-6   24:5   1:15   24:20   88:87   25:6   58:8   28:10   128:21   28:15   45:31   28:21   95:4;101:95   29:14   6:1   34:4   88:87   34:5   1:13,36   34:8   133:51-52   35:3   81:5   35:10   66:11;101:18;133:33 イザヤ書第36-47章   この章はヒゼキヤ王の時代にユダで起こった様々な出来事である。この一連の出来事   はバビロン捕囚の序曲を成すものである。また、捕囚の期間、約束のメシヤへの待望   について書かれている。イザヤは人の作った神々に頼ることの無益さについて、劇的   な表現を用いて語り、ユダがやがて束縛から解き放され、ユダを苦しめてきたバビロ   ンが滅ぼされることを預言した。   イザヤ書の40章以降は、イザヤ本人ではなく、別の律法学者たちの筆になるものであ   ると主張する人たちがいる。しかし、末日の聖典からは、イザヤが散文体から韻文調   に変えただけであることが分かっている。40章以降の箇所にも、イザヤ独特の語法や   表現が随所に見受けられるのである。また、これらがイザヤによって記録されたもの   であることは、現代の啓示でも確認されている。 聖句対照表   (イザヤ36-39;列王紀下18-21;歴代志下32-33)   イザヤ  列王紀下 歴代志下   36:2   18:17   32:9   36:3   18:18   32:10   36:4   18:19   32:11   36:5   18:20   36:6   18:21   36:7   18:22   32:11-12   36:8   18:23   36:9   18:24   36:10   18:25   36:11   18:26   36:12   18:27   36:13   18:28   32:18   36:14   18:29   36:15   18:30   32:12   36:16   18:31   32:11-19   36:17-18 18:32   36:18   18:33   32:13   36:19   18:34   36:20   18:35   32:14   36:21   18:36   36:22   18:37             32:15-17   37:1   19:1   37:2   19:2   37:3   19:3   37:4   19:4   32:20   37:5   19:5   37:6   19:6   37:7   19:7   37:8   19:8   37:9   19:9   37:10   19:10   37:11   19:11   37:12   19:12   37:13   19:13   37:14   19:14   37:15-16 19:15   37:17   19:16   37:18   19:17   37:19   19:18   37:20   19:19   37:21   19:20   37:22   19:21   37:23   19:22   37:24   19:23   37:25   19:24   37:26   19:25   37:27   19:26   37:28   19:27   37:29   19:28   37:30   19:29   37:31   19:30   37:32   19:31   37:33   19:32   37:34   19:33   37:35   19:34   37:36   19:35   32:21   37:37   19:36   32:21   37:38   19:37             32:22-23   38:1   20:1   32:24   38:2   20:2   32:24   38:3   20:3   38:4   20:4   38:5   20:5        20:5   38:5   20:6   38:6   20:6   38:7   20:9   38:8   20:9        20:10   38:8   20:11   32:24   38:9-20       32:26   38:21   20:7   38:22   20:8   32:24             32:27-29   39:1   20:12   32:31   39:2   20:13   39:3   20:14   39:4   20:15   39:5   20:16   39:6   20:17   39:7   20:18   39:8   20:19 あなたがたは、バビロンから出なさい   世の人々は何のはばかることもなく、権力を手中にして、その勢力を広げたいと野心   を抱き、多くの人を従えたいと傲慢な望みを持っている。しかし、そのような人々に、   彼らが望んでいる権限が与えられることはない。悪事はどのようなものであろうとも、   必ず罰を受ける。それが強大な兵力の下に圧制を行ったバビロンという国であろうと   も、まさに自分に従う者を文字どおり奴隷にしてしまうこの世の霊のバビロンであろ   うとも、同じことである。バビロンはやがて滅ぼされる。だからこそ、主は預言者た   ちを通じてその民に警告を与えておられるのである。「あなたがたはバビロンから、   霊のバビロンである悪の中から出なさい。」バビロンは滅ぼされてちりとなる。自分   のよこしまな性格の奴隷となって辱めを受ける。人々の称賛を失う。自分の所有物だ   と誇っていた子供たち(臣下)や伴侶(結婚することによって、女性を社会的な恥辱   から守ってきた)をも否定されてしまう。自分がまったく知らない力によって滅ぼさ   れる。あたかも火で焼かれるように、地上から一掃されてしまう。   実に、イザヤはアルマと同様に、悪事は決して幸福を生じたことがないと言っている   のである。   イザヤの言葉が書かれた目的は、人の子が平安に暮らすためには天地の生ける神であ   るメシヤに従わなければならないという偉大な原則を教えることである。歴史全体を   眺めてみて、現代の人々が「イスラエル人は何と愚かだったことか。なぜ先のことが   見えなかったのか」と言うことはたやすい。しかし、自分たちも今またバビロンの人   々と同じ過ちを犯していながら、霊のバビロンとバビロンに仕える人々とを待ち受け   る滅びには、気がつかないでいるのである。   イザヤの言わんとしていたことはこれである。その言葉は、古代のイスラエルに向け   られたものであると同時に、現代のわたしたちにも向けられたものなのである。 イザヤ書第48-54章   ニーファイは好んでイザヤ書から引用した。ニーファイの書いた57の章のうち、19は   イザヤ書からの引用であり、そのほかにもイザヤ書が部分的に引用されている箇所が   ある。イザヤ書全66章のうち、3分の1近くが『モルモン書』の中に何らかの形で採り   上げられている。それゆえ、ニーファイがイザヤについて触れるときにその名前を挙   げず、単に「預言者」とだけ呼ぶこともあるのも、別段驚くには当たらない。ニーフ   ァイは自分がイザヤ書を民に読んで聞かせるのは、主なる贖い主を信じるようさらに   十分に勧めるためであると説明している。   イザヤ48章から54章までには、イザヤのすばらしい働きの幾つかが書き記されている。   この7つ章のうち6章は、部分的に多少異なったところがあるが、すべて『モルモン書』   の中にも載せられている。52章は「モルモン書」の随所に引用されている。それゆえ   『モルモン書』は、イザヤの著作のこの部分を理解するためにはまたとない助けにな   る。 キリストについてのイザヤの証は、末日聖徒にとっても価値あるものである   末日聖徒こそイザヤの予見したことを完全に理解できる唯一の民である。世の学者た   ちは、イザヤ書の歴史や言葉を理解するうえで重要な貢献をしてきた。しかし、イザ   ヤの預言を理解する鍵を与えることができるのは、現代の預言者だけである。だから   こそ、末日聖徒は、ほかのいかなる人々にも増して、「イザヤの言葉はまことに偉大   である」と救い主が言われた理由を理解できるのである。 あなたもキリストを知ることができるようになる   多少の時間と努力を必要とするが、四福音書から、キリストの生涯の最後の週につい   ての記録を読めば、あなたもイザヤの言うエホバ、すなわちイスラエルの聖者に関し   て非常に有意義な経験をすることができる。それから、イザヤ53章をゆっくりと、し   かもよく考えながら再読する。それぞれの聖句の意味を注意深く考えるのである。   イエスが最初に降臨されたとき、御自分の民のところへ行ったが、民は御自分のこと   を知らなかったと言われた。イザヤがキリストを証する召しを与えられたのは、キリ   ストを拒む人は決してよしとされないということを明らかにするためであった。あな   たはキリストが再びおいでになるとき、その御方こそキリストだと分かるだろうか。 イザヤ書第55-66章   イエスは、イザヤの言葉はまことに偉大であると言われた。確かに、イザヤの言葉は   その表現力だけでなく、未来を見通し、将来の世代のことを明らかにする能力という   点においても、偉大である。とりわけ興味深いのは、イザヤがわたしたちの時代すな   わち終わりの日と、それに続く偉大な福千年について書いたことである。イエスが言   われた次の言葉はまさしく至言であった。「イザヤの言葉はまことに偉大である。確   かにイザヤは、イスラエルの家に属するわたしの民について、すべてのことを述べた。」   地上では災難や苦悩が増え続けるが、そうしたものから解放される場所もある   預言者たちはどの時代にあっても、民に向かい、罪を犯してはならないと警告してい   る。わたしたちの時代は、これが最後の時代という意味で、特別な時代である。すな   わち、イエス・キリストが地上に戻られる直前の時代なのである。サタンも人を神か   ら引き離そうと最後の奮闘をしている。1894年6月にウイルフォード・ウッドラフ大   管長は次のように言った。「目の前に絶えず夜の示現が開かれ、この世界のうえにま   さに下されようとしている力ある裁きの数々が見える、またわたしは神と世の前にこ   の責任を持っている。どうしてこの民と地上の国々に対して警告の声を上げずに自分   の声を抑えていることができるだろうか。そして今日のこの日から、裁きが下される   のである。地上では災難や苦悩が増え続けている。しかし、そうしたことには皆意味   がある。聖文や啓示を読みなさい。それを読めば、こうしたことが分かるようになる   のである。」   それゆえ、世界が騒乱状態にあり、戦争が絶えず勃発し、邪悪が増大していたとして   も、何ら驚くには当たらない。こうしたことはすべて預言されており、わたしたちを   驚かすようなことではないからである。ジョセフ・フィールデイング・スミス大管長   は次のように教えている。「今日の世界では、国々の間で災難、騒乱、苦悩、社会不   安、そして論争もある。平安はない。平和の君がそれを持って来られるまで平安はな   いのである。そしてその君の声は世界に向かって悔い改めよという警告の声である。   この点についてはすでに読んだと思う。それはこの啓示の最初の節にあり、わたしも   すでに引用したと思う。義人たちはバビロンから、すなわちこの世から離れよとの命   をすでに受けている。それはすでに回復されているイエス・キリストの福音を受け入   れるためであり、また神の王国の中に場所を見いだすためでもある。」   マリオン・G・ロムニー副管長も、地上から平和が取り去られるという約束について   触れ、次のように言っている。「上記の言葉が語りかけられてから140年以上たった   今、地より平和は取り去られ、悪魔は自分の領土を支配し、主もまたその聖徒らを支   配しておられる。主が世を裁くたくために降って来て、その民の中で治められる日が   近づいている。しかし、そのときまで、人も国家も、現在の歩みを続けるならば、大   きな惨禍がわたしたちを待ち受けていることであろう。さらに多くの戦争と戦争のう   わさが聞かれ方々で地震もあり、さらに多くの荒廃もある。全地が混乱すると言われ   ている。これは主御自身の言葉である。主はこの災難の到来を預言し、警告を与えら   れた。主はその災難から逃れる手段を与えるべく、福音を回復し、教会を再建された   のである。」   ヒュー・B・ブラウン副管長は、慰めと確信の言葉を次のように語っている。「兄弟   たちに申し上げたい。世界中にあふれる災難、不安定な情勢、暴動、また混沌のただ   中にあって、世の大多数の人々がほとんど気づかぬうちに、一つの王国がすでに設立   されている。この王国は父なる神が管理される王国であり、キリスト・イエスがその   王である。今話したように、すべての人が知っているわけではないが、その王国は権   能と力をもって転がり出ている。その権能と力は、あなたがたの中のある人々がまだ   生きている問に、敵を打ち破るであろう。」   ウッドラフ大管長は、この災禍の時代にあっても避け所を見いだせることについて次   のように語っている。「まさに門口にあるこの大きな災禍や裁きから逃れ、身を守る   ことのできる人々はいるだろうか。わたしは皆さんに申し上げたい。自分に与えられ   た神権を尊び、祝福を受けるにふさわしい生活をしている神の神権者だけが、この安   全と保護とを受けることができるのである。この地上では彼らだけである。そのほか   の人々はいかなる人であろうと、これらの裁きから逃れる権利を持たない。裁きはま   さに門口にある。この民でさえもそれを完全に逃れることはできないであろう。その   裁きはソドムとゴモラの裁きのように下されるであろう。そして神権者以外何人もそ   の激しい裁きから安全に守られる者はいないであろう。」
【その他の教会出版物より】 救い主はイザヤの言葉はまことに偉大であると教え、イザヤの言葉を研究するよう命じて いる。(3ニーファイ23:1) イザヤの言葉の多くは、イエス・キリストの現世での務めと再臨について象徴を用いて教 えている。イザヤの言葉には大きな価値があるため、ニーファイはニーファイ第二書の12 章から24章にそれを書き記し、読んだ人が心を高めて喜べるようにした。 イザヤはアモツの子。 4人のユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世に生活し、預言した。 イザヤは紀元前740年から701年まで預言者として仕えた。ほぼ40年間。預言者の召しを受 けたとき、イザヤはわたしたちがよく思い浮かべる白髪の老人ではなかったかもしれない。 この召しについては、 ニーファイ第二書16章で読むことができる。 ウジヤが死亡した年(紀元前740年)にその働きを始め、ヒゼキヤの治世の終り頃まで続けた。 マナセによってのこぎりを使って殺され、殉教したと言われている。 イザヤはエルサレムの出身であり、都市部を中心に活躍した。 イザヤはウジヤ王のいとこであり、貴族の出であろう。 イザヤには家族があった。女預言者であるイザヤの妻のことと、生まれたばかりの息子の 名前を主から授かったことについては、ニーファイ第二書18章3節で読むことができる。 イザヤはヒゼキヤ王の中心的な相談役であり、エルサレムでは大きな影響力を持っていた。 イザヤは、聖文で最も多く引用されている預言者である。イザヤ書の32パーセントがモル モン書に引用され、そのほかにも3パーセントが、言葉を変えて用いられている。 イザヤという名前の意味は、「主(ヤーウェ)は救い」である。確かにイザヤはそれにつ いて教えていた。 イザヤ書のテーマ ・イザヤの時代 ・北のイスラエル王国の状態と捕囚 ・南のユダ王国の状態と捕囚 ・他の国々の状態と最終的な滅亡 ・イザヤから見た将来の出来事 ・メシヤの訪れ(1回目と2回目) ・福音の回復、末日、福千年 予言的未来形 イザヤは過去、現在、未来のことをひっくるめて現在のように語っている。 これらは、予言的未来形と呼ばれる。 イザヤはいろいろな出来事を年代順に並べることよりも、テーマを主眼に置いている。
第1章   【解説】   古代イスラエルにおける背教と反抗。   悔改めを呼びかける。   回復の約束とそれに続く悪人の滅亡の予告。   イスラエルは背教し、反抗的で堕落している。   ほんの少しの者だけに信仰がある。   彼らの犠牲と祭礼は受入られない。   彼らは悔い改めて、正しい行いをするように呼びかけられる。   シオンは回復の時に贖われる。   時系列的には6章が初め。   教義と聖約も時系列的になっていない。序文として与えられた啓示を1章にもってき   ている。   イザヤ書の1章も同じ。これから読むものの心構えを説いている。   理解したいなら、身を清くして、聖霊の助けを得なければならない。   イザヤ書は聖霊が私たちを教えるために使う教科書。   1章は清さを保つことを説明している。   イザヤ書は北王国が滅ぼされるのを見た。   南王国に悔い改めを叫んだ。   【セミナリー解説】   イザヤ、イスラエルに悔い改めを求める。   聖書に載っているイザヤ書の各章は、イザヤが書いた順番に並んでいるのかどうか分   かっていない。しかし、イザヤのメッセージを完全に伝えるうえで最も効果的な順番   となるように注意深く並べられている。イザヤ1章はイザヤ書の前書きのようであり、   イザヤ書全体に何が書いてあるかを以下のように予告し、要約している。   (1)民の行いが主の怒りを招いている(1-9節)   (2)民が悔い改める必要はないと思っている理由(10-15節)   (3)民が悔い改めるなら主は何を約束しておられるか(16-19,25-27節)   (4)悔い改めないと何か起こるか(20-24,28-31節)   イザヤの教えと預言の多くは、まるでイザヤが今日語っているかのように、わたした   ちに当てはまる。 01)アモツの子イザヤがユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの世にユダとエルサ   レムについて見た幻。   【解説】   イザヤが見た幻     イザヤの受けた啓示(幻)には、イザヤが生きていた時代の様々な問題や将来の     出来事を洞察する偉大な預言を見ることができる。 02)天よ、聞け、地よ、耳を傾けよ、   主が次のように語られたから、   「わたしは子を養い育てた、   しかし彼らはわたしにそむいた。   【解説】   養う = 世話をし、食物や衣服を与える 03)牛はその飼主を知り、   ろばはその主人のまぐさおけを知る。   しかしイスラエルは知らず、   わが民は悟らない」。 04)ああ、罪深い国びと、不義を負う民、   悪をなす者のすえ、堕落せる子らよ。   彼らは主を捨て、   イスラエルの聖者をあなどり、   これをうとんじ遠ざかった。   【解説】   不義を負う = 罪の重荷を負う   堕落せる子 = 罪人   イスラエルの聖者     救い主を表すこの聖なる称号は、預言者イザヤを通じて啓示されたものかもしれ     ない。この称号が使用された最初の記録がイザヤ言だからである。イザヤ書には     この称号が約30回登場するが、エレミヤ言では2回、エゼキエル書では1回、そし     て詩篇では3回しか見られない。『旧約聖書』ではほかにどこにも使われていな     い。ただ1回だけ、列王下19:22に出てくるが、これはイザヤの言葉である。『モ     ルモン書』の預言者のリーハイやニーファイ、ヤコブは、この表現を39回使って     いるが、そのうちイザヤ言から引用したものは4回しかない。 05)あなたがたは、どうして重ね重ねそむいて、   なおも打たれようとするのか。   その頭はことごとく病み、   その心は全く弱りはてている。 06)足のうらから頭まで、   完全なところがなく、   傷と打ち傷と生傷ばかりだ。   これを絞り出すものなく、包むものなく、   油をもってやわらげるものもない。   【解説】   完全な = けがや病気のない 07)あなたがたの国は荒れすたれ、   町々は火で焼かれ、   田畑のものはあなたがたの前で外国人に食われ、   滅ぼされたソドムのように荒れすたれた。   【解説】   荒れすたれる = 滅亡する 08)シオンの娘はぶどう畑の仮小屋のように、   きゅうり畑の番小屋のように、   包囲された町のように、ただひとり残った。   【解説】   ぶどう畑の仮小屋、きゅうり畑の番小屋 = 一時的な住まい   「ぶどう畑の仮小屋」とは何か     ぶどうやきゅうりの収穫の時期が近づくと、小さな仮小屋が畑に作られた。畑の     持ち主や召し使いが、作物を盗難や動物から守るために見張ったのである。一般     的に、こうした小屋は造りも粗雑で、建てるのも早かった。そして収穫が終われ     ば見捨てられ、荒廃して、収穫の遺物となって取り残されたのである。エルサレ     ムもこれと同じであった。かつては誇りに満ち、有益な存在であったものが、今     では霊的な怠慢のゆえに、見捨てられ、荒涼とした廃虚のような所となってしま     ったのである。 09)もし万軍の主が、   われわれに少しの生存者を残されなかったなら、   われわれはソドムのようになり、   またゴモラと同じようになったであろう。   【解説】   生存者 = 民の残った者たち   われわれに少しの生存者を残されなかったなら     ユダの血統が将来に備えて残されるということが、この預言の中に約束されてい     る。パウロは、これと同じ意味でこの聖句を引用した。(ローマ9:29)   1-9節 主に対する反逆     イスラエルが起こした反逆は、最も重い罪を犯したことの証明である。エホバは     イスラエルの民を子として、エジプトと荒れ野で、養い育てられた。ところが、     彼らは、約束の地で、成人すると、主に背を向けたのである。民の苦難は、癒さ     れることのない傷や生傷にたとえることができる。イスラエルの民が完全に反逆     したことは、頭や心、そして足の裏から頭までと書かれていることから明らかに     分かる。言い換えれば、霊の癌がイスラエルの全身を冒していたのである。イス     ラエルの国家には、霊的に健全な要素はほとんど残っていなかった。そのために     国土が完全に荒れ廃れたのである。 10)あなたがたソドムのつかさたちよ、   主の言葉を聞け。   あなたがたゴモラの民よ、   われわれの神の教に耳を傾けよ。 11)主は言われる、   「あなたがたがささげる多くの犠牲は、   わたしになんの益があるか。   わたしは雄羊の燔祭と、   肥えた獣の脂肪とに飽いている。   わたしは雄牛あるいは小羊、   あるいは雄やぎの血を喜ばない。   【解説】   燔祭(はんさい) = 神にささげる焼いて行ういけにえ   脂肪 = 捧げるいけにえの中でも最も価値がある部分 12)あなたがたは、わたしにまみえようとして来るが、   だれが、わたしの庭を踏み荒すことを求めたか。   【解説】   だれが、わたしの庭を踏み荒すことを求めたか     = だれがあなたがたをわたしの家に招いたのか 13)あなたがたは、もはや、   むなしい供え物を携えてきてはならない。   薫香は、わたしの忌みきらうものだ。   新月、安息日、また会衆を呼び集めること――   わたしは不義と聖会とに耐えられない。   【解説】   むなしい供え物 = 意味のないささげ物   薫香(くんこう) = よい香りのする煙、儀式の中で炊かれる香り 14)あなたがたの新月と定めの祭とは、   わが魂の憎むもの、   それはわたしの重荷となり、   わたしは、それを負うのに疲れた。 15)あなたがたが手を伸べるとき、   わたしは目をおおって、あなたがたを見ない。   たとい多くの祈をささげても、わたしは聞かない。   あなたがたの手は血まみれである。   【解説】   手を伸べる = 祈る   10-15節 心のこもらない礼拝の偽善性     この聖句の中で、主はモーセの律法、特に律法の実践と儀式を否定されたわけで     はない。ここで責められているのは、モーセの律法に従ったささげ物や祭式を偽     善的に行っているという点である。イスラエルはこうした宗教活動を偽って行い、     ただ外形的な要求を満たしていただけで、救い主に礼拝の心を向けるという真心     からの目的をもって礼拝していなかったのである。イスラエルの民を指してソド     ムとゴモラと呼んでいるが(10節)、これはイスラエルの民の罪と腐敗がいかに深     刻であったかを如実に示している。   戒めを破ったことを悔い改めず、自分を愛するように隣人を愛さないで、礼拝によっ   て主に近づこうとしてもそれは無益である。   礼拝の目的は、神を知り、その属性をみずから体現することである。 16)あなたがたは身を洗って、清くなり、   わたしの目の前からあなたがたの悪い行いを除き、   悪を行うことをやめ、 17)善を行うことをならい、公平を求め、   しえたげる者を戒め、   みなしごを正しく守り、寡婦の訴えを弁護せよ。   【解説】   しえたげる者を戒める     = 重荷を負っている者に希望を与え、重荷が軽くなるように手を貸す   寡婦(かふ) = 夫に死に別れて再婚しないでいる女性。やもめ。未亡人 18)主は言われる、   さあ、われわれは互に論じよう。   たといあなたがたの罪は緋のようであっても、   雪のように白くなるのだ。   紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。   【解説】   心から悔い改めた人には完全な赦しが与えられることの約束   主は厳格であってイスラエルの民に強い口調で語っておられるが、主がどのようにし   て悔い改めを勧めておられるかを知ると主の愛を感じることができる。罪や問題を主   の方法で解決するとき、必ずしも一瞬のうちに簡単に解決するとは限らないが、その   場しのぎではない長期的な解決が得られる。 19)もし、あなたがたが快く従うなら、   地の良き物を食べることができる。 20)しかし、あなたがたが拒みそむくならば、   つるぎで滅ぼされる」。   これは主がその口で語られたことである。   【解説】   16-20節     この神の約束は、聖典の中で最も印象深いものの一つである。この約束は、キリ     ストの贖いと真心からの悔い改めを通して、罪を犯すすべての人に希望を与え、     正義の要求から彼らを解放する。   16-20節 悔い改めよとの呼びかけ、赦しの約束     イスラエルの家を痛烈に批判しているさなかにあっても、主は、心から悔い改め     るならばイスラエルは国家として救いにあずかることができると言われた。この     聖句は、悔い改めて赦しを求める人々を励ますためにしばしば引用されるが、も     ともとは一つの国家を対象に与えられた言葉であって、一個人を対象にしたもの     ではない。ジョセフ・フイールディング・スミス大管長は次のように言っている。     「これは一個人に与えられた約束ではなく、反逆している国家に与えられたもの     である。主がイスラエルやユダにどれほどの数の預言者を遣わそうとも、また主     がどれほどの回数悔い改めを説こうとも、歴史全体を通じてイスラエルとユダは     反抗的であった。ここに書かれている約束は、主のもとに帰るならば、過去の罪     は赦され、主は再び御自分の民として受け入れてくださり、豊かに祝福を下さる。     そして、引き続き主の聖約の民として存在していくことができるというものであ     る。」     しかしながらニーファイは、イザヤの言葉を引用して、すべての聖文を自分たち     に当てはめて、それが自分たちの利益となり、知識となるようにした。この美し     い約束は、もともとは一国家としてのイスラエルに与えられたものであるが、個     人に当てはめることもできるのは当然である。チャールズ・W・ペンローズ長老     は、主がイスラエルに与えられた約束を、特定の条件を満たすべき人に当てはめ     て次のように言っている。「踏み行うべき道は示されている。すなわち、信じて     悔い改める者は皆、水の中へ連れて行かれ、その古い生活を葬ってもらわなけれ     ばならない。古い自分をその行いとともに捨て去り、キリストの埋葬に倣って葬     られ、キリストの復活に倣って再び起き上がらなければならない。こうして水か     ら上がったときには、もし信じて悔い改め、バプテスマを施すために神から遣わ     された人によってバプテスマを施されたならば、そのときには、『たといあなた     がたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、     羊の毛のようになるのだ。』清められ、新しく生まれ、水から生まれた人たちは、     神聖な聖餐を頂く度に、神に誓いを立てる。それは、引き続き神の道に従い、神     の道を歩み、キリストの名を受け、あらゆることにキリストを忘れずその戒めを     守るという約束である。こうして適切な方法で清められ、汚れを除かれ、白くさ     れ、ちょうどこの世に送られてきたばかりの子供のように、染みや汚れのない状     態になったとき、そのときに初めて、肉体は聖餐を受けるにふさわしいものとな     るのである。」     ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は、16節にある洗いという言葉はバ     プテスマのことを指している可能性があると言っている。『モルモン書』からは、     これ以外にイザヤは少なくとも1回はバプテスマについて教えたことが分かって     いる(1ニーファイ20:1) → イザヤ48章   19-20節 祝福か、のろいか     これと同じような条件付きの約束と警告が、末日の聖徒たちにも与えられている。     (教聖約64:34-35) 21)かつては忠信であった町、   どうして遊女となったのか。   昔は公平で満ち、   正義がそのうちにやどっていたのに、   今は人を殺す者ばかりとなってしまった。 22)あなたの銀はかすとなり、   あなたのぶどう酒は水をまじえ、   【解説】   かす = 金属の中の不純物 23)あなたのつかさたちはそむいて、   盗びとの仲間となり、   みな、まいないを好み、贈り物を追い求め、   みなしごを正しく守らず、   寡婦の訴えは彼らに届かない。   【解説】   寡婦(かふ) = 夫に死に別れて再婚しないでいる女性。やもめ。未亡人 24)このゆえに、主、万軍の主、   イスラエルの全能者は言われる、   「ああ、わたしはわが敵にむかって憤りをもらし、   わがあだにむかって恨みをはらす。 25)わたしはまた、わが手をあなたに向け、   あなたのかすを灰汁で溶かすように溶かし去り、   あなたの混ざり物をすべて取り除く。   【解説】   かす = 金属の中の不純物   灰汁(あく) = 植物を焼いた灰を水に浸して得る上澄み液。アルカリ性を示し、          古来、洗剤・漂白剤として、また染色などに用いた   溶かし去る = 不純物を取り除く 26)こうして、あなたのさばきびとをもとのとおりに、   あなたの議官を初めのとおりに回復する。   その後あなたは正義の都、   忠信の町ととなえられる」。   【解説】   議官(ぎかん) = 政府の高官   「さばきびと」とは、現代の教会でいうと、ビショップやステーク会長。 27)シオンは公平をもってあがなわれ、   そのうちの悔い改める者は、   正義をもってあがなわれる。 28)しかし、そむく者と罪びととは共に滅ぼされ、   主を捨てる者は滅びうせる。 29)あなたがたは、みずから喜んだかしの木によって、   はずかしめを受け、   みずから選んだ園によって、恥じ赤らむ。 30)あなたがたは葉の枯れるかしの木のように、   水のない園のようになり、 31)強い者も麻くずのように、   そのわざは火花のようになり、   その二つのものは共に燃えて、それを消す者はない。
第2章   【解説】   末日にイスラエルが神殿に集合すること。   末日におけるイスラエルの状態。   福千年の状態とキリストの再臨。   イザヤ、末日の神殿とイスラエルの集合、それに福千年の裁きと平和を見る。   高ぶる者と悪を行う者は、主の再臨の時に低くされる。   主がシオンに君臨する。   2-14章の全般的な解釈が2ニーファイ11,19,25,26章に出ている。   第2ニーファイ12-24章は、ニーファイが真鍮版からイザヤ2-14章を引用したもので   あるが、多少言い回しに違いが見受けられる。   引用:2ニーファイ12   関連:ミカ4,5。3ニーファイ20,21。   参照 「イザヤ書 英語版比較」   【セミナリー解説】   主の山に来る。   イエス・キリストの再臨によって、地上に福千年と呼ばれる1千年の平和な期間が訪   れる。悪人は救い主の来臨のときに滅ぼされるが、主を迎える準備のできている人は   命を助けられて主とともに喜ぶ。預言の中でイザヤは、昔および現代のイスラエルに、   主に会って福千年で生活するのに備えるために、何を行わなければならないかを教え   ている。この預言は「二重」の意味を持っている。つまり、複数の時期や場所に当て   はめることができる。だから、この預言は昔のイスラエルが主の王国を確立するため   に行わなければならなかったことについての一般原則を教えるだけでなく、再臨と福   千年に先立つ終りの時に立てられる王国の具体的な場所についても示している。 01)アモツの子イザヤがユダとエルサレムについて示された言葉。   【解説】   この節はニーファイ第2書12章では次のようになっている。     「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見た言葉。   イザヤは主からの示現によって御告げを受けた。 02)終りの日に次のことが起る。   主の家の山は、   もろもろの山のかしらとして堅く立ち、   もろもろの峰よりも高くそびえ、   すべて国はこれに流れてき、   【解説】   この節はニーファイ第2書12章では次のようになっている。     さて、終わりの時に次のことが起こる。     主の家の山は山々の頂に堅く立ち、     もろもろの丘よりも高くそびえ、     すべての国民はそこに流れて来る。   主の家の山 = 神殿     エルサレムの神殿、ソルトレーク神殿、ミズーリ州の神殿   もろもろの山 = いろんな宗教や教会 03)多くの民は来て言う、   「さあ、われわれは主の山に登り、   ヤコブの神の家へ行こう。   彼はその道をわれわれに教えられる、   われわれはその道に歩もう」と。   律法はシオンから出、   主の言葉はエルサレムから出るからである。   【解説】   この節はニーファイ第2書12章では次のようになっている。     多くの民が来て言う。     『さあ、わたしたちは主の山に登り、     ヤコブの神の家へ行こう。     主は御自分の道をわたしたちに教えてくださる。     わたしたちは主の道を歩もう。』     律法はシオンから出、     主の言葉はエルサレムから出るからである。   ヤコブ = 全イスラエルの民   シオン = 新エルサレム = ミズーリ州インディペンデンス   エルサレム = 現在のエルサレム   以下の神殿が建てられたのち、福千年の時代が来て、律法がシオンから出、主の言葉   がエルサレムから出る。     1.ソルトレーク・シティーや他の山岳地帯にある神殿     2.シオン(新エルサレム)の神殿       アメリカ合衆国ミズーリ州ジャクソン郡の中にある山に建てられる。     3.エルサレムの神殿       ユダヤ人がエルサレムに逃れる時の山に建てられる。   多くの人々が神殿に集まってきて、神の道を学び、神の道を歩むことになる。   シオン     ・シオンの町は新エルサレムと同一の町である。     ・シオンはアメリカ大陸(ミズーリ州ジャクソン郡)に建てられる。     ・神の律法がここから出ていく。(政治の首都)     ・エフライムとそのともがらの集合地となる。     ・エルサレムよりもさらに豊かなる祝福が与えられる。   エルサレム     ・パレスチナ地方にあるエルサレム     ・ユダヤ人がすべての罪から清められ、聖別された後で、聖なる町となる。     ・主の言葉がここから民に送られる(宗教的な首都)     ・ユダとイスラエルの家のともがらの集合地となる。   これらの2つの町は世の贖い主の世界の首都となり、主が住まわれる。   律法を送り出していくという原則は、福音の御業が根を張れる条件を整備していくと   いう業にも深くかかわってきている。合衆国憲法は、神の霊感によって書かれた。   そして、多くの国々がその政治形態を採用していくことだろう。   「律法はシオンから出、主の言葉はエルサレムから出る」     ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は、このイザヤの預言の言葉につい     て次のように説明している。     「わたしたちは預言者ジョセフ・スミスに与えられた啓示からシオンの町と新エ     ルサレムが同一の町であることを知っている。     昔からあるエルサレムは、ユダヤ人がすべての罪から清められ、聖別された後で、     聖なる町となり、そこに主が住まわれることになる。主はそこから御自分の言葉     をすべての民に送られるであろう。同様にアメリカ大陸にもシオンの町、新エル     サレムが築かれ、そこから神の律法が出ていくことになる。この二つのことの間     に矛盾はない。なぜならば、いずれの町も世の贖い主の本部となり、そこから必     要に応じて布告が出されるからである。エルサレムはユダとイスラエルの家のそ     のともがらの集合地となり、シオンはエフライムとそのともがらの集合地となる。     後者の方にさらに貴い祝福が与えられる。     シオンの地とパレスチナにある二つの町は、福千年の間、神の王国の首都となる。     さて、準備が進められ、イスラエルが集合している間に、多くの民がシオンの地     に来てこう言っている。『さあ、われわれは主の山に登り、ヤコブの神の家へ行     こう。』末日聖徒がこの預言を成就している。なぜならば、末日聖徒は全地の四     隅から集められており、この山岳地帯の谷あいに来て主の家に入っているからで     ある。ここで彼らは回復された福音から主の道を学び、現在完成された神殿で祝     福を受けている。さらに今後それほど遠くない将来に、主はシオンの町の建設を     命じられるだろう。またパレスチナにあるエルサレムは時が来れば清められ、聖     都となって、ユダヤ人の住まいとなるだろう。そのとき彼らは清められ、イエス・     キリストを贖い主として受け入れていなければならない。」     聖徒たちが二つの世界本部の設立の時を待っている間にも、律法を送り出してい     くという原則は、福音とその祝福を広めるという業だけでなく、福音の業が根を     張れるような条件を整備していくという業にも深くかかわってきている。     ハロルド・B・リー大管長は次のように言っている。     「わたしはこれまで、律法はシオンから出るという言葉の意味を度々考えてきた。     何年か前、幹部の兄弟たちとアイダホフォールズ神殿へ行ったとき、わたしは大     管長会のささげる霊感に満ちた祈りの中で、この『律法はシオンから出』という     言葉の定義を聞いた。大管長会の言われた言葉に注目していただきたい。『我ら     は汝に感謝し奉る。我らに立憲政体を授けし人々が、汝の目にかないたる賢き人     々にして、まさにこの神聖なる文書〔合衆国憲法を指す〕を産み出す目的をもっ     て汝がこの人々を挙げたりとの啓示を、汝らは我らに下し給えり。     我ら祈り奉る。天の下、あらゆる王や統治者や万国の民が、自由であるがゆえに     また汝の導きがあるがゆえに、この国の人々が享受せし祝福を同様に受けんと願     い、同様な政治形態を採用せんとの強い気持ちを抱かんことを。かくして、「律     法はシオンから出、主の言葉はエルサレムから出る」とのイザヤとミカとの古代     の預言が成就するものなり。』」 04)彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、   多くの民のために仲裁に立たれる。   こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、   そのやりを打ちかえて、かまとし、   国は国にむかって、つるぎをあげず、   彼らはもはや戦いのことを学ばない。   【解説】   仲裁に立つ = 裁く、正す   この節はニーファイ第2書12章では次のようになっている。     主は国民の中で裁きを行い、     多くの人を責められる。     彼らは剣を鋤先に、     槍を鎌に打ち直し、     国民は国民に向かって剣を上げず、     彼らはもう戦いのことを学ばない。   福千年の始まりと、それに伴う変化   2-4節   イスラエルが神殿とその儀式と律法を何よりも優先するときにシオンが確立される。   イザヤは自分の見た示現について伝え、一つの預言をしている、その預言はこれまで   に様々な形で成就してきている。イザヤのメッセージは次のようなものである。   「主の民が主と主の家を何よりも優先するとき、また民が主の家に行って熱心に主の   勧告を求めるとき、シオンが確立され、平和と永遠の命の約束とを受ける。 」   現代の預言者たちも同じ教義を教えている。ハワード・W・ハンター大管長は次のよ   うに語っている。「神殿での礼拝、神殿で交わす聖約、神殿結婚など、神殿で行われ   る事柄を地上での究極の目標とし、現世の生涯における至上の経験としよう。」   この預言のもう一つの成就は、主の家がもろもろの山のかしらとして立つことである。   これは神殿を最優先することを象徴的に述べているだけでなく、末日における教会本   部の場所についても文字どおりに預言している。イザヤのこの預言について、ブルー   ス・R・マッコンキー長老はこう語っている。「これは具体的にはソルトレーク神殿、   およびロッキー山脈に建てられたほかの神殿について述べており、また広い意味では   ミズーリ州ジャクソン郡の新エルサレムに今後建てられる神殿について述べている。」   B・H・ロバーツ長老は、シオンから出る律法の重要性について次のように教えている。   「わたしにとってそれは、一つには、シオンの律法である。シオンの律法とは、この   地の民法の基本原則であり、シオンから出る律法の原則であり、この祝福された自由   の地でこれから確立され維持される民法である。それはやがては、全世界のすべての   地に直接的あるいは間接的に祝福と自由をもたらすだろう。」 05)ヤコブの家よ、   さあ、われわれは主の光に歩もう。   【解説】   この節はニーファイ第2書12章では次のようになっている。     おお、ヤコブの家よ、     さあ、わたしたちは主の光の中を歩もう。     さあ、歩もうではないか。     あなたがたは皆、これまで悪の道に迷ってきた。   1-5節 終りの日に主の家の山は堅く立ち     これと同じ聖句がミカ4:1-5にある。この啓示は最初にイザヤに与えられたもの     か、それともミカに与えられたものかは定かでない。     最後の神権時代における「主の山」とは教会の回復を指している。ハロルド・B     ・リー大管長は次のように言っている。「この時代における主の教会の出現は、     『主の家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち』という古代の預言が成     就する先駆けであった。」     ほかにもリー大管長は次のように言っている。「もろもろの山のかしらに教会を     立てる開拓者たちの出現とともに、わたしたちの初期の指導者は、それをもって、     この預言の成就の先駆けであると宣言した。」     ソルトレーク・シティーに教会本部を設立したことは、この霊感に満ちた宣言の     成就のほんの始まりでしかない。しかしユタ州に教会の本部が置かれたことには、     非常に大きな意味があった。リグランド・リチャーズ長老は次のように言ってい     る。「わたしはこの地のヤコブの神の家において、イザヤ2:3の聖句がまさしく     文字どおりに成就していると考えている。ソルトレーク神殿は、記録に残ってい     るほかのいかなる建物よりも、多くの人々をあらゆる地から集め、主の道とその     道を歩む方法とを教えている。」     しかし、この聖句で言っていることは、ソルトレーク・シテイーの枠をはるかに     越えている。3節によれば、最終的にはほかにも世界の中心があることになって     いる。そのときに初めて、この預言の言葉が完全に成就するのである。   4-5節 福千年の始まり     この部分は、福千年の始まりと、それに伴う変化について書かれたものである。     『モルモン書』にあるイザヤの記録には、5節に次のような言葉が加えられている。     「さあ、歩もうではないか。あなたがたは皆、これまで悪の道に迷ってきた。」     この聖句からは、イスラエルでは広く背教が進んでいたこと、および再臨の前に     イスラエルが主のもとに帰ることが分かる。 06)あなたはあなたの民ヤコブの家を捨てられた。   これは彼らが東の国からの占い師をもって満たし、   ペリシテびとのように占い者となり、   外国人と同盟を結んだからである。   【解説】   この節はニーファイ第2書12章では次のようになっている。     それゆえ、おお、主よ、あなたはあなたの民、ヤコブの家を捨てられた。     それは彼らが、東方からのものを国に満たし、     ペリシテ人のように占い師に聴き、     見知らぬ者の子供たちと交わるのを好むからである。   占い師 = しるしやお告げによって未来を予告する人   交わる = 手を打ち合う、契約を結ぶ   同盟(どうめい) = 個人・団体または国家などが、互いに共通の目的を達成するた            に同一の行動をとることを約束すること。また、それによって            成立した関係   6-22節 誇る者と邪悪な者は低くされる     2章は、基本的な霊性にかかわる問題を要約したものである。この問題は、イザ     ヤの時代にイスラエルが抱えた問題でもあるし、再臨の前に人々の中で再度起こ     る問題でもある。ここの部分は、イザヤの預言の両義性を示す優れた例の一つで     ある。イザヤの預言は、ユダとエルサレムについて言われたものではあるが、終     わりの日やイエスの再臨とも関係があることは明らかである。   「東方からのものを国に満たし」とは、様々な教えや異国の信仰を持ち込むこと。   「彼らは東の国からのものを満たした」     これは言い換えれば、彼らが権勢と支持とを求めて、様々な宗教哲学やアッスリ     ヤの神々、そのほか異邦人の国々に目を向けたことを指している。現在、人々は     知恵と導きとを得るために、人の作ったいろいろな宗教や哲学に目を向けてはい     るが、福音には目もくれずにいる。   「彼らは占い師に聞く」     これは、将来のことが預言できると主張した偽預言者のことを指している。今日、     まことの預言者はほとんど無視され、人々はあらゆる種類のえせ宗教家やカウン     セラーの導きに頼っている。   「外国人と同盟を結んだ」     C・F・カイルとF・デリッチの翻訳によれば、「外国人の子らと手を結ぶ」とい     うことである。つまり、古代のイスラエルはあらゆる邪悪を行うに当たって異邦     人の国々と手を結んでいたのである。現代の社会も、主に頼らずに、世の様々な     影響と手を組んでいる。 07)彼らの国には金銀が満ち、その財宝は限りない。   また彼らの国には馬が満ち、その戦車も限りない。   【解説】   この節はニーファイ第2書12章では次のようになっている。     彼らの地には銀と金が満ち、彼らの宝には限りがない。     彼らの地には馬も満ち、戦車も限りなくある。   「国には金銀が満ちる」     これは、その民が豊かになり、物質主義的になるということである。この時代に     は人々の心は世の物についたが、終わりの日にも、再び物質主義的な考え方が広     まることになる。   「国には馬が満ち、その戦車も限りない」     馬は戦争の象徴であり、戦車も同様であった。現代は「戦争と戦争のうわさ」を     特徴とする時代である。 08)また彼らの国には偶像が満ち、   彼らはその手のわざを拝み、   その指で作ったものを拝む。   【解説】   この節はニーファイ第2書12章では次のようになっている。     彼らの地には偶像も満ち、     彼らは自分の手の業、     すなわち自分自身の指で造ったものを拝む。   当時この国は偶像礼拝で満ちていたが、現代も人々はなお偽りの神々に心を向けてい   る。だがその神々はもはや木や石で作られた偶像ではない。 09)こうして人はかがめられ、人々は低くされる。   どうか彼らをおゆるしにならぬように。   【解説】   この節はニーファイ第2書12章では次のようになっている。     地位の低い者は身をかがめず、地位の高い者はへりくだらない。     それゆえ、彼をお赦しにならないように。   「身をかがめず」とは、神に対して。それどことか、偶像を拝むこと。   「地位の低い者は身をかがめず、地位のの高い者はへりくだらない」     『モルモン書』の記録とイザヤの書いたものには相違がある。このことから、イ     ザヤがここでは偶像礼拝のことを重ねて言っているのではなく、人々がまことの     神を礼拝しなくなる日が来ることを指して言っているのだということが分かる。     『教義と聖約』のはしがきの中で、主は、終わりの日にはこの過ちが最大の関心     事になると言われた。(教義と聖約1:16)     古代のイスラエルはその罪のために、その身に神の裁きを招いた。そして、同じ     問題が原因で、終わりの日の人々は同じようにその身に悲しみと問題を招くこと     になる。『モルモン書』にはこのほかにも相違があるが、それらはイザヤの言わ     んとすることをもっと明確にしている。 10)あなたは岩の間にはいり、ちりの中にかくれて、   主の恐るべきみ前と、その威光の輝きとを避けよ。   【解説】   威光 = 偉大さや権威   この節はニーファイ第2書12章では次のようになっている。     おお、あなたがた悪人たちよ、岩の中に入り、土の中に隠れよ。     主への畏れと主の尊厳の輝きが、あなたがたを打つからである。 11)その日には目をあげて高ぶる者は低くせられ、   おごる人はかがめられ、   主のみ高くあげられる。   【解説】   おごる = 高慢な   この節はニーファイ第2書12章では次のようになっている。     そしてその日には、目を上げて高ぶる者は低くされ、     傲慢な者はかがめられ、     ただ主だけが高められる。 12)これは、万軍の主の一日があって、   すべて誇る者と高ぶる者、   すべておのれを高くする者と得意な者とに   臨むからである。   【解説】   この節はニーファイ第2書12章では次のようになっている。     それは、万軍の主の日が間もなくすべての国民に、     まことにすべての者に、すなわち、誇り高ぶる者に、     また思い上がるすべての者に臨んで、     その者は低くされるからである。 13)またレバノンの高くそびえるすべての香柏、   バシャンのすべてのかしの木、   【解説】   この節はニーファイ第2書12章では次のようになっている。     主の日は、レバノンの杉が高くそびえているために、そのすべての杉に臨み、     またバシャンのすべてのかしの木に臨む。   レバノンの香柏(こうはく) = レバノン国で産出された当時有名な良い香りのする                 高級木材   「レバノンの香柏」「バシヤンのかしの木」とは何か     香柏やかしの木は、古代の中東では最も高く伸び、しかも人目を引く木であった。     それゆえ、こうした木は、偉大な美しさを持つ国がやがて滅ぼされることの象徴     であるばかりでなく、世の人々の高慢とおごりの象徴でもあった。 14)またすべての高い山々、   すべてのそびえ立つ峰々、   【解説】   この節はニーファイ第2書12章では次のようになっている。     また、すべての高い山、すべての丘、     思い上がるすべての国民、すべての人、 15)すべての高きやぐら、   すべての堅固な城壁、   【解説】   この節はニーファイ第2書12章では次のようになっている。     また、すべての高いやぐら、     すべての堅固な城壁、 16)タルシシのすべての船、   すべての麗しい船舶に臨む。   【解説】   この節はニーファイ第2書12章では次のようになっている。     また、海のすべての船、     タルシシのすべての船、     すべての好ましい景色に臨む。   ほかの国々との貿易もやむことになろう。そうした貿易は、ウジヤ王とヨタム王の治   世中に始められ、繁栄していたものである。   モルモン書には聖書の欽定訳にはない表現が加えられている。古代の七十人訳聖書   (ギリシャ語旧約聖書)は、モルモン書に加えられている表現と一致している。     モルモン書 and upon all the ships of the sea(海のすべての船)     欽定訳   ―――     七十人訳  and upon every ship of the sea  (海のすべての船)     モルモン書 and upon all the ships of Tarshish(タルシシのすべての船)     欽定訳   and upon all the ships of Tarshish(タルシシのすべての船)     七十人訳  ―――     モルモン書 and upon all pleasant pictures    (すべての好ましい景色)     欽定訳   and upon all pleasant pictures    (すべての好ましい景色)     七十人訳  and upon every view of ships of beauty(すべての美しい船の眺め)   モルモン書からわかることは、この節の原典には3つの文節が含まれてお   り、しかもその3文節とも"and upon all"で始まっていることである。平   凡な偶然によって、欽定訳では最初の1文節が欠落した。しかし、七十人   訳では、欠落していなかった。ところが七十人訳では2番目の文節が欠落   し、3番目の文節は原形を損なってしまったようである。モルモン書では   3つの文節とも欠落がない。学者の中には、ジョセフ・スミスは七十人訳   から最初の文節を引き写したのであると考えている人もいる。しかし、ジ   ョセフ・スミスはギリシャ語がわからなかった。しかも、モルモン書を翻   訳していた1829年から1830年にかけて、七十人訳を入手していた   証拠もない。   ちなみに、日本語の口語訳聖書では、2つ目の欽定訳と、3つ目の七十人訳に一致する。   これからわかるのは、聖書が長い年数のうちに、翻訳や筆写の過程で変質したことと、   モルモン書が最も原形を保っていることである。 17)その日には高ぶる者はかがめられ、   おごる人は低くせられ、   主のみ高くあげられる。   【解説】   その日 = 主が栄光のうちに来臨される日   おごる = 高慢な   この節はニーファイ第2書12章では次のようになっている。     その日には、高ぶる者はかがめられ、     傲慢な者は低くされ、     ただ主だけが高められる。 18)こうして偶像はことごとく滅びうせる。   【解説】   この節はニーファイ第2書12章では次のようになっている。     そして、主は偶像をことごとく廃される。 19)主が立って地を脅かされるとき、   人々は岩のほら穴にはいり、また地の穴にはいって、   主の恐るべきみ前と、その威光の輝きとを避ける。   【解説】   威光 = 偉大さや権威   この節はニーファイ第2書12章では次のようになっている。     主が地を激しく揺り動かされると、     主への畏れが彼らに生じ、主の尊厳の輝きが彼らを打つので、     彼らは岩の洞穴や地の穴に入る。 20)その日、人々は拝むためにみずから造った   しろがねの偶像と、こがねの偶像とを、   もぐらもちと、こうもりに投げ与え、   【解説】   この節はニーファイ第2書12章では次のようになっている。     その日、人は拝むために自分で造った     銀の偶像と金の偶像を、     もぐらやこうもりに投げ与え、   もぐらもち = もぐらの別名 21)岩のほら穴や、がけの裂け目にはいり、   主が立って地を脅かされるとき、   主の恐るべきみ前と、その威光の輝きとを避ける。   【解説】   威光 = 偉大さや権威   この節はニーファイ第2書12章では次のようになっている。     岩の割れ目や、険しい岩の頂に入る。     主が地を激しく揺り動かされると、     主への畏れが彼らに生じ、主の大いなる尊厳の輝きが彼らを打つからである。 22)あなたがたは鼻から息の出入りする人に、たよることをやめよ、   このような者はなんの価値があろうか。   【解説】   この節はニーファイ第2書12章では次のようになっている。     あなたがたは、鼻で息をする人間に頼むことをやめよ。     そのような者に何の価値があろうか。」   死すべき人間に頼るのをやめる。死すべき人間は神に比べれば取るに足りない。   人にのみ頼ることの弱さについての警告てある。
第3章   【解説】   散乱し背信した再臨前のイスラエルの状態。   ユダとエルサレム、不従順のために罰せられる。   主、御自分の民を弁護し、また裁かれる。   シオンの娘たち、世俗につかって、のろいと苦しみを受ける。   引用:2ニーファイ13。   参照 「イザヤ書 英語版比較」   【セミナリー解説】   高慢についての預言   イザヤは当時のイスラエルとユダの邪悪な状態についてさらに述べ、民の悪事のため   に起こることを預言している。イザヤは非常に描写的な表現で、イスラエルの家を高   慢な女性たちになぞらえている。女性たちは、当時の流行の最先端を行くスタイルで   完全に着飾り、外見の美しさを非常に気にかけていたが、真の内面的な霊性に注意を   向けていなかった。わたしたちはこれらの教えを、高慢と邪悪の結果に関する警告と   して、自分に当てはめることができる。 01)見よ、主、万軍の主は   エルサレムとユダから   ささえとなり、頼みとなるもの――   すべてささえとなるパン、   すべてささえとなる水――を取り去られる。   【解説】   この節はニーファイ第2書13章では次のようになっている。     「見よ、万軍の主なる主は、     エルサレムとユダから柱と杖、     すなわち、杖と頼むすべてのパンと、     柱と頼むすべての水を取り去られる。 02)すなわち勇士と軍人、   裁判官と預言者、   占い師と長老、   【解説】   この節はニーファイ第2書13章では次のようになっている。     また勇士、戦士、     さばきつかさ、預言者、     賢者、長老、 03)五十人の長と身分の高い人、   議官と巧みな魔術師、   老練なまじない師を取り去られる。   【解説】   この節はニーファイ第2書13章では次のようになっている。     50人の長、高官、     議官、熟練した職人、     雄弁な演説家を取り去られる。   議官(ぎかん) = 政府の高官   まじない師 = 不可思議なものの威力を借りて、災いや病気などを起こした          り、また除いたりする術を持つ者 04)わたしはわらべを立てて彼らの君とし、   みどりごに彼らを治めさせる。   【解説】   この節はニーファイ第2書13章では次のようになっている。     『わたしは子供たちを彼らの君とし、     みどりごが彼らを治める。』   みどりご = 生まれたばかりの子供、あるいは3歳ぐらいまでの幼児 05)民は互に相しえたげ、   人はおのおのその隣をしえたげ、   若い者は老いたる者にむかって高ぶり、   卑しい者は尊い者にむかって高ぶる。   【解説】   この節はニーファイ第2書13章では次のようになっている。     民は互いに虐げ合い、     隣人同士が虐げ合い、     子供は長老に向かって高ぶり、     地位の低い者は高貴な者に向かって高ぶる。 06)その時、人はその父の家で、兄弟をつかまえて言う、   「あなたは外套を持っている、   わたしたちのつかさびとになって、   この荒れ跡をあなたの手で治めてください」と。   【解説】   この節はニーファイ第2書13章では次のようになっている。     そのとき、人は自分の父の家にいる兄弟に取りすがって言う。     『あなたには衣があります。     わたしたちを治める者になって、     あなたの手でこの破滅が起こらないようにしてください。』   外套(がいとう) = 防寒などのため、衣服の上に着るゆったりした服。            オーバー・マント 07)その日、彼は声をあげて言う、   「わたしはいやす者となることはできません、   わたしの家にはパンもなく、外套もありません、   わたしを立てて、   民のつかさびとにしないでください」。   【解説】   この節はニーファイ第2書13章では次のようになっている。     その日、彼は誓って言う。     『わたしの家にはパンも着る物もないので、     わたしは癒す者にはなれません。     わたしを民を治める者にしないでください。』   癒す者 = 傷を縛る者   わたしは、あなたの問題を解決できないということ 08)これは彼らの言葉と行いとが主にそむき、   その栄光の目をおかしたので、   エルサレムはつまずき、ユダは倒れたからである。   【解説】   この節はニーファイ第2書13章では次のようになっている。     民の舌と行いが主に背いて、     主の栄光の目を怒らせたために、     エルサレムは滅び、ユダは倒れたのである。   1-8節 ユダが倒れるとの預言の言葉     預言者イザヤは、当時の著名な役人や尊敬されている人々などをその代表として     挙げ、やがてユダとエルサレムに滅亡の時が来ることを告げた。著名な人物とは、     政治、軍事、教育、宗教の指導者のことを指す。そのような人々がいなくなると、     この国は若い傀儡(かいらい:操り人形のこと)による独裁統治に堕していくよ     うになる。そして、最終的には、支配者一族の中で最後の権力闘争が起こり、無     政府状態に突入してしまうのである。民は必死に指導者を探し求める。そのため、     上品な衣服を着て他人とは違っているということだけを根拠に支配者を選び出そ     うとする。しかし、同族の指導者でさえ助けを拒むのである。『モルモン書』か     らは、6節の意味がもっとはっきり理解できる。すなわち、民は支配者に、破滅     を防ぐようにと嘆願するのである。 09)彼らの不公平は彼らにむかって不利なあかしをし、   ソドムのようにその罪をあらわして隠さない。   わざわいなるかな、   彼らはみずから悪の報いをうけた。   【解説】   この節はニーファイ第2書13章では次のようになっている。     彼らの顔つきは彼らについて不利な証言をし、     彼らの罪があたかもソドムのようであることを表しており、     彼らはそれを隠すことができない。     彼らは災いである。     彼らは自ら悪の報いを受けたのである。   「彼らの不公平は彼らにむかって不利なあかしをし」     『モルモン書』を読むと、この重要な聖句の意味がはっきりする。人はそれぞれ     に、自分の思いや態度がいかなるものかを周囲に放射している。よしあしはとも     かく、それがその人のほんとうの姿なのである。イザヤは、不従順な者は他人の     目から自分の罪の結果を隠すことができないと警告しているのである。この原則     について、デピッド・O・マッケイ大管長は次のように言っている。     「この世で生活している人はだれでも皆、良きにつけ悪しきにつけ、周囲に影響     を与えている。言葉や行いだけでなく、ひととなりすべてが人々に影響を与える     のである。人はだれでも、自分のほんとうのひととなりを放射している。わたし     たちの周囲にいる人々に影響を与えているものは、ありのままのわたしたちであ     る。それはおのずから放射されていく。     一個人としてわたしたちはもっと気高い考えを持つ必要がある。低俗な考え方や     欲求を助長するようなことがあってはならない。そのような考えを持てば、それ     は自然と現れるからである。気高い考えを持ち、気高い望みをはぐくむようにす     れば、人に会うときに、とりわけ人と交わるときに、それが放射される。」 10)正しい人に言え、彼らはさいわいであると。   彼らはその行いの実を食べるからである。   【解説】   この節はニーファイ第2書13章では次のようになっている。     義人に、彼らは幸いであることを告げなさい。     彼らは自分の行いの実を食べるからである。 11)悪しき者はわざわいだ、彼は災をうける。   その手のなした事が彼に報いられるからである。   【解説】   この節はニーファイ第2書13章では次のようになっている。     悪人は滅びるので災いである。     彼らの手の報いが彼らに及ぶからである。 12)わが民は幼な子にしえたげられ、   女たちに治められる。   ああ、わが民よ、あなたを導く者は   かえって、あなたを迷わせ、   あなたの行くべき道を混乱させる。   【解説】   この節はニーファイ第2書13章では次のようになっている。     わたしの民は子供たちに虐げられ、     女たちに治められる。     おお、わたしの民よ、     あなたを導く者たちはあなたを誤らせ、     あなたの歩む道を絶やす。 13)主は言い争うために立ちあがり、   その民をさばくために立たれる。   【解説】   この節はニーファイ第2書13章では次のようになっている。     主は弁護するために立ち上がり、     民を裁くために立たれる。   弁護する = 論争する 14)主はその民の長老と君たちとをさばいて、   「あなたがたは、ぶどう畑を食い荒した。   貧しい者からかすめとった物は、   あなたがたの家にある。   【解説】   この節はニーファイ第2書13章では次のようになっている。     主は御自分の民の長老たちと君たちについて裁きを行われる。     あなたがたはぶどう園を食い尽くし、     あなたがたの家には貧しい者から奪ったものがある。   君たち = 統治者、指導者   食い尽くす = 焼く   奪ったもの = 横領したもの   民が「ぶどう畑を食い荒した」ことで主が怒られたのはなぜか     ぶどう畑というのは、選ばれた民の象徴である。また、イスラエルの支配者たち     は、ぶどう畑を見守る者と呼ばれていた。ところが主のぶどう畑を守護せずに、     民を抑圧し、ぶどう畑を食い尽くしていたのである。 15)なぜ、あなたがたはわが民を踏みにじり、   貧しい者の顔をすり砕くのか」と   万軍の神、主は言われる。   【解説】   この節はニーファイ第2書13章では次のようになっている。     『どういうつもりなのか。     あなたがたはわたしの民を打ち砕き、     貧しい者の顔をすりつぶす。』     万軍の主なる神はそう言われる。 16)主は言われた、   シオンの娘らは高ぶり、   首をのばしてあるき、目でこびをおくり、   その行くとき気どって歩き、   その足でりんりんと鳴り響かす。   【解説】   この節はニーファイ第2書13章では次のようになっている。     さらに主は言われる。     『シオンの娘たちは高ぶり、     首を伸ばして目でこびを売りながら歩き、     小またで歩きながら、     その足で鈴の音を出す。』   小またで歩く = 気取った様子で、小またで歩く 17)それゆえ、主はシオンの娘らの頭を   撃って、かさぶたでおおい、   彼らの隠れた所をあらわされる。   【解説】   この節はニーファイ第2書13章では次のようになっている。     それゆえ、主はシオンの娘たちの頭の頂を打ってかさぶたで覆い、     また主は彼女たちの隠し所をあらわにされる。   あらわにされる = 露出させ、恥をかかせる 18)その日、主は彼らの美しい装身具と服装すなわち、くるぶし輪、髪ひも、月形の飾り、   【解説】   この節はニーファイ第2書13章では次のようになっている。     その日、主は彼女たちの鈴の音を出す飾り物、髪にかぶせる網、月形の飾り物、   くるぶし輪 = 足のくるぶしにつける飾り   髪ひも = 髪につけるひも飾り、ネット   月形の飾り物 = 三日月の形をした飾り物、ネックレス   18-23節に挙げられている女性の装身具が具体的に何を指すかは、   学者の間で意見が分かれる。 19)耳輪、腕輪、顔おおい、   【解説】   この節はニーファイ第2書13章では次のようになっている。     鎖、腕輪、顔覆い、   耳輪(みみわ) = 耳につけるかざり、イヤリング類   腕輪 = うでにつける飾り   顔おおい = イスラエルの女性が使用していた顔を覆うための布 20)頭飾り、すね飾り、飾り帯、香箱、守り袋、   【解説】   この節はニーファイ第2書13章では次のようになっている。     頭飾り、すね飾り、結わえひも、香の入れ物、耳飾り、   頭飾り = 頭につける飾り   すね飾り = 足のすね部につける飾り   飾り帯 = きれいな装飾を施した帯   香箱(こうばこ) = 良い香りのするものを入れた箱、香料箱   守り袋 = 守り札を入れて身につけておく袋。おまもり 21)指輪、鼻輪、   【解説】   この節はニーファイ第2書13章では次のようになっている。     指輪、鼻飾り、   鼻輪 = 昔のイスラエル女性が鼻の脇につけていた飾り 22)礼服、外套、肩掛、手さげ袋、   【解説】   この節はニーファイ第2書13章では次のようになっている。     礼服、外套、頭巾、髪を縮らすもの、   礼服 = きらびやかな衣服   外套(がいとう) = 防寒などのため、衣服の上に着るゆったりした服。            オーバー・マント   肩掛(かたかけ) = 肩にかける布   手さげ袋 = ハンドバッグ 23)薄織の上着、亜麻布の着物、帽子、被衣などを取り除かれる。   【解説】   この節はニーファイ第2書13章では次のようになっている。     鏡、こまやかに織った亜麻布の衣服、ターバン風の帽子、     かぶり物などの装いを取り除かれる。   薄織(うすおり)の上着 = 薄い生地で織られたファッション性の高い布   鏡 = 薄織の衣   亜麻布 = 亜麻で作られた布、亜麻はアマ科の一年草。高さ約1メート        ル。茎から繊維をとる   被衣(かずき) = 頭からかぶる衣服 24)芳香はかわって、悪臭となり、   帯はかわって、なわとなり、   よく編んだ髪はかわって、かぶろとなり、   はなやかな衣はかわって、荒布の衣となり、   美しい顔はかわって、焼き印された顔となる。   【解説】   この節はニーファイ第2書13章では次のようになっている。     そして、芳香は変わって悪臭となり、     帯は変わって裂けた布となり、     美しく整えた髪は変わってかぶろとなり、     胸衣は変わって粗布の帯となり、     美しさは変わって焼け傷となる。   カイルとデリッチは次のように翻訳している。     芳香は、かわって、腐臭となり、     帯は、かわって、縄となり、     晴着は、かわって、荒布となり、     美しさは、かわって、焼印となる。   「帯」上着を押さえる   「縄」奴隷をつなぐ   「荒布」黒やぎの毛で編んだ喪に服する時に身にまとう大きな布   「焼印」奴隷に押される   裂けた布 = ぼろ   かぶろ = 髪の毛が無いこと   胸衣 = 衣   焼き印(やきいん) = 火で熱して物に押し当てて焼き跡をつけるための金属性の印。             また、それで押したしるし   焼け傷 = 焼き印(奴隷のしるし)   16-24節 「シオンの娘ら」は末の日には野に倒れる     イザヤの文章の特徴の一つは、その両義性にある。この部分はその良い例である。     イザヤによれば、イスラエルやユダにはびこる悪に染まっていたという点では、     女たちも同じである。女たちは高ぶり、傲慢で、しかも義にかなった生活をする     ことよりも衣服や宝石や自分の外見にばかり気を遣っていると指摘している。こ     の部分は末日にも当てはめることができる。末の日には女たちはまたもや正しい     優先順位を見失ってしまうのである。ジョセフ・フィールディング・スミス大管     長はこの部分について次のように言っている。     「昔の偉大な預言者の一人であるイザヤは、わたしたちの時代を先見していた。     それゆえ、この末の日に『シオンの娘ら』がどのような状態になるかを書いてい     るのである。さてこの時代にあって、イザヤの預言のあるものはすでに成就し、     またあるものは今も成就の過程にある。     中央幹部の望む標準というのは、女性も男性も慎み深い服装をすることである。     また、いつでも適切な慎みをもって行動するよう教えられている。わたしの考え     では、これは慎みのない服装をする『シオンの娘』に対する、悲しみに満ちた非     難である。さらにまた、この言葉は、女性だけにとどまらず、男性にも関係する     ことである。主は古代のイスラエルに向かい、男も女もその体を覆い、常に貞節     の律法を守らなければならないと戒められたのである。」   16-24節 解釈の難しい成句と、古い語法     次の説明を読むと、イザヤがどれほどの強い調子で女性の背教を責めたか、よく     分かるかもしれない。   16節 「首をのばして」     自分を誇り、他人を卑しめるという傲慢さを表す古代の成句である。   16節 「気どって歩き、その足でりんりんと鳴り響かす。」     女たちは、高価な装飾用の鎖を身に着け、くるぶしの辺りに輪を付けていた。こ     の輪には、装飾として鈴が付いていることがよくあった。   17節 「彼らの隠れた所をあらわされる」     恥ずかしい思いをさせられるという意味の成句である。   18節 「髪ひも、月形の飾り」     当時の流行で、太陽や月の形をした装飾用の宝石類のことである。   19-23節     当時、世俗的な女たちの間に流行していたものの意味を伝えるために、翻訳の際     古い語法が用いられた。 25)あなたの男たちはつるぎに倒れ、   あなたの勇士たちは戦いに倒れる。   【解説】   この節はニーファイ第2書13章では次のようになっている。     あなたの男たちは剣に倒れ、     あなたの勇士たちは戦いで倒れる。 26)シオンの門は嘆き悲しみ、   シオンは荒れすたれて、地に座する。   【解説】   この節はニーファイ第2書13章では次のようになっている。     シオンの門は嘆き悲しみ、     シオンは荒れ廃れて、地に座する。」   24-26節 シオンの娘らに下される罪の実     預言者イザヤは、以前の美しさと裁きの結果とを対照的に描いている。その邪悪     な行いのために、彼女たちの美しさや誇り、はやりの服装は悲劇となり、災難と     なり、屈従となる。24節の帯というのは、上着を押さえるために使われる帯のこ     とである。カイルとデリッチは、帯に置き換えられる縄というのは、奴隷をつな     ぐために使われるものであると説明している。荒布というのは黒やぎの毛で編ん     だ、喪に服するときに身にまとう大きな布である。「焼き印」というのは、奴隷     になったときによく押される登録の焼き印を指す。以上のことから、カイルとデ     リッチはこの節を次のように翻訳している。「芳香は変わって腐臭となり、帯は     変わって縄となり、晴れ着は変わって荒布となり、美しさは変わって焼き印とな     る。」
第4章   【解説】   福千年。   シオンとその娘たち、福千年に贖われ、清められる。   引用:2ニーファイ14。   参照 「イザヤ書 英語版比較」   【セミナリー解説】   謙虚な人への祝福   4章は3章と対照を成すもので、イスラエルが謙虚に主に立ち返るときに起きることが   語られている。   3章の最後に出てくる女性たちと違い、4章で述べられている女性たちは謙虚である。 01)その日、七人の女がひとりの男にすがって、「わたしたちは自分のパンをたべ、自分   の着物を着ます。ただ、あなたの名によって呼ばれることを許して、わたしたちの恥   を取り除いてください」と言う。   【解説】   この節はニーファイ第2書14章では次のようになっている。     「その日、7人の女が一人の男に取りすがって言う。     『わたしたちは自分のパンを食べ、自分の着物を着ます。     ただわたしたちをあなたの名で呼ばれるようにし、     わたしたちの恥を取り除いてください。』   恥 = 未婚で子供じみているという汚名、子供を持つことができないこと   「わたしたちの恥を取り除いてください」     第4章の1節は、章が改まって新しい概念の展開が始まったというよりも、むしろ     第3章の続きではないかと思われる。ここで言われていることは、1節に書かれて     いる状態が3:25-26に書かれているような男性の数の不足や戦禍が原因で起こる     ということである。この女たちが受け入れようとしている結婚の条件(自分のパ     ンをたべ、自分の着物を着ます)は、主の定めた結婚の方法とは相反するもので     ある。古代のイスラエルでは結婚せずにいることや子供もいないことは、不名誉     なことであった。名目的にだけでも結婚していると言えるなら、複数の女が一人     の夫を共有し、しかも物質的な扶養の義務は求めない、というのはいかにも悲惨     な状態であった。   (私的)回復された教会初期に実施されていた多妻結婚のことも表しているかもしれ   ない。当時の教会員は女性の数が男性よりも多かった。結婚相手がいない女性たちは、   ジョセフ・スミスなどの指導者と夫婦の結び固めを受けることを望んだ。彼女たちは、   指導者たちとは、生活を共にしなかった。単に救いに必要な儀式を受けただけである。 02)その日、主の枝は麗しく栄え、地の産物はイスラエルの生き残った者の誇、また光栄   となる。   【解説】   この節はニーファイ第2書14章では次のようになっている。     その日、主の枝は麗しく栄光に満ち、     地の産物は、イスラエルの逃れた者にとって並外れて麗しくなる。   主の枝 = キリスト 03)そして主が審判の霊と滅亡の霊とをもって、シオンの娘らの汚れを洗い、エルサレム   の血をその中から除き去られるとき、シオンに残る者、エルサレムにとどまる者、す   べてエルサレムにあって、生命の書にしるされた者は聖なる者ととなえられる。   【解説】   除き去る = 清める   生命の書 = 天で書きとめられるという善人の記録   この節はニーファイ第2書14章では次のようになっている。     そして、シオンに残る者、エルサレムにとどまる者、     すなわちエルサレムで暮らす者として書き記されているすべての者は、     聖なる者と呼ばれる。 04)(3節に合節)   【解説】   この節はニーファイ第2書14章では次のようになっている。     主がその裁きの霊と焼き尽くす霊によって、     シオンの娘たちの汚れを洗い清め、     エルサレムの血をその中からすすぎ清められるとき、     そのことは起こる。   主が地球を清められる     この聖句は、終わりの日における神の王国の設立に備えてシオンを清めることを     指したものである。懲らしめと様々な裁きの後、イスラエルは最終的にはその罪     が除き去られ、神のもとへ帰る。 05)その時、主はシオンの山のすべての場所と、そのもろもろの集会との上に、昼は雲を   つくり、夜は煙と燃える火の輝きとをつくられる。これはすべての栄光の上にある天   蓋であり、あずまやであって、   【解説】   シオンの山のすべての場所 = 家庭   集会 = 集まっている人々   もろもろの集会 = ステーク   天蓋(てんがい) = 神の御座の上の覆い、神殿   あずまや = 庭園などに設けた四方の柱と屋根だけの休息所   この節はニーファイ第2書14章では次のようになっている。     主はシオンの山のすべての住まいと、その集会のうえに、     昼は雲と煙、夜は燃える火の輝きを設けられる。     シオンのすべての栄光のうえに守りがあるためである。 06)昼は暑さをふせぐ陰となり、また暴風と雨を避けて隠れる所となる。   【解説】   避けて隠れる所 = 危険または望ましくない状況から離れた平安で安全な場所   この節はニーファイ第2書14章では次のようになっている。     また一つの幕屋があって、昼は暑さを避ける陰となり、     また避け所となり、嵐と雨をしのぐ隠れ場所となる。」   5-6節 悪から逃れるための聖なる場所(シオン)について。   5-6節 避け所となるシオン     教義と聖約45:66-72には、末日に集合したイスラエルのために、シオンが神聖な     守りの場となることが書かれている。教義と聖約105:31-32では、シオンの栄光     がいかに、その守りとなるかということについて触れられている。イザヤは、神     の守りの及ぼす影響を、モーセの経験したそれと比較している。オーソン・プラ     ット長老は、イザヤの預言は文字どおり成就することになると言った。     「神とすべての聖徒が一堂に会する時が近づいている。聖徒たちを深く愛してお     られることをはっきりと示すために、神は聖徒たちを栄光の雲で覆うという奇跡     を行われる。何か目に見えないもので覆われると言っているのではない。かつて     この地上にモーセの幕屋が存在していたときに起きたのと同じことが起きると言     っているのである。この幕屋はイスラエルの民が荒れ野を旅していたときに、そ     の中央で運ばれたものである。しかし、未の日には、人々がシオンの山にあって     きわめて清らかな生活をするために、山々の頂に一つの宮が建てられ、神がその     御姿を現される。昼は目に見える雲とともに、神殿や聖徒の集まりにおいでにな     る。夜が来てなお聖徒たちが礼拝のために集っていれば、神は火の柱によって聖     徒に会われ、さらに聖徒たちが家に帰れば、その家は、主の栄光によって、つま     り夜は燃える火の柱によって明かりがともされるということである。     イザヤがこの預言を宣言して以来、今までこれほどまでの恵みと祝福を受けた町     があっただろうか。ない。これは末日の業だからである。神が御自身を現され、     国々にその力をお示しになる末の時に神が完成される業なのである。」
第5章   【解説】   イスラエルの散乱と背教。   イスラエルの悲惨な状態。   回復と集合。   主のぶどう園(イスラエル)は荒れ廃れ、主の民は散らされる。   背教し、散らされた状態にある彼らに、数々の災いが及ぶ。   主は一つの旗を掲げ、イスラエルを集められる。   引用:2ニーファイ15。   参照 「イザヤ書 英語版比較」   【セミナリー解説】   イスラエルの罪   5章で、イザヤは引き続きイスラエルの罪と、罪の結果について述べている。イザヤ   の時代の民が犯していた罪は現代の罪と似ている。悔い改めを拒む人の受ける報いに   ついて主が言っておられる。 01)わたしはわが愛する者のために、   そのぶどう畑についてのわが愛の歌をうたおう。   わが愛する者は土肥えた小山の上に、   一つのぶどう畑をもっていた。   【解説】   この節はニーファイ第2書15章では次のようになっている。     「そのときに、わたしは深く愛する者に、     その人のぶどう園についてわたしの愛する者の歌を歌おう。     わたしの愛する者は、よく肥えた丘にぶどう園を持っていた。   歌を歌う = 預言者がぶどう園についての歌もしくは童話詩を作る。     それには、神の憐みとイスラエルの民のかたくなな様子が表現されている。   ぶどう畑の主人 = 救い主 02)彼はそれを掘りおこし、石を除き、   それに良いぶどうを植え、   その中に物見やぐらを建て、   またその中に酒ぶねを掘り、   良いぶどうの結ぶのを待ち望んだ。   ところが結んだものは野ぶどうであった。   【解説】   この節はニーファイ第2書15章では次のようになっている。     彼はそこに垣を巡らし、その中の石を取り除き、     そこに最も良いぶどうを植え、     その中にやぐらを建て、     またそこにぶどうの搾り場を設けた。     そして、ぶどうがなるのを待ち望んだ。     ところが、なったのは良くないぶどうであった。   酒ぶね = 酒を蓄えておく大きな木製の器あるいはぶどうから汁を足で踏        んで搾り出すための大きな入れ物 03)それで、エルサレムに住む者とユダの人々よ、   どうか、わたしとぶどう畑との間をさばけ。   【解説】   この節はニーファイ第2書15章では次のようになっている。     さて、おお、エルサレムに住む者たちと、ユダの人々よ、     さあ、わたしとぶどう園との間を裁きなさい。 04)わたしが、ぶどう畑になした事のほかに、   何かなすべきことがあるか。   わたしは良いぶどうの結ぶのを待ち望んだのに、   どうして野ぶどうを結んだのか。   【解説】   この節はニーファイ第2書15章では次のようになっている。     『わたしがぶどう園にしたことのほかに、     何かもっとそこでできたことがあっただろうか。     わたしはぶどうがなるのを待ち望んでいたのに、     なったのは良くないぶどうであった。 05)それで、わたしが、ぶどう畑になそうとすることを、   あなたがたに告げる。   わたしはそのまがきを取り去って、   食い荒されるにまかせ、そのかきをとりこわして、   踏み荒されるにまかせる。   【解説】   まがき = 柵、塀   この節はニーファイ第2書15章では次のようになっている。     さあ、わたしは自分がぶどう園に行おうとしていることを、     あなたがたに告げよう。     わたしはその垣を取り去って、     食い尽くされるに任せる。     また、その塀を取り壊して、踏みにじられるに任せる。 06)わたしはこれを荒して、   刈り込むことも、耕すこともせず、   おどろと、いばらとを生えさせ、   また雲に命じて、その上に雨を降らさない。   【解説】   刈り込むことも、耕すこともせず = 世話をしない   おどろ = いばらやとげのある低木   この節はニーファイ第2書15章では次のようになっている。     わたしはそれを荒れるままにしておき、     刈り込むことも、耕すこともせず、     いばらとおどろを生えさせる。     またわたしは、雲に命じ、その上に雨を降らせない。』 07)万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家であり、   主が喜んでそこに植えられた物は、   ユダの人々である。   主はこれに公平を望まれたのに、見よ、流血。   正義を望まれたのに、見よ、叫び。   【解説】   この節はニーファイ第2書15章では次のようになっている。     万軍の主のぶどう園はイスラエルの家であり、     ユダの人々は主が楽しみにして植えられた苗木である。     主は公平を望まれたのに、見よ、圧制。     義を望まれたのに、見よ、叫び。   1-7節 ぶどう畑についてのイザヤのたとえ話     預言者イザヤはここでイスラエル(ユダ)の滅亡と散乱が迫っていることを示す     ために、ぶどう畑のたとえ話を使っている。ぶどう畑が守り手を失い、荒らされ、     飢饉が起きるのは、イスラエルが犯した罪の結果である。 08)わざわいなるかな、彼らは家に家を建て連ね、   田畑に田畑をまし加えて、余地をあまさず、   自分ひとり、国のうちに住まおうとする。   【解説】   わざわい = 悲しみ、災難、不幸   この節はニーファイ第2書15章では次のようになっている。     空地がなくなるまで家に家を建て連ね、     自分たちだけが国の真ん中にいようとする者は災いである。   国の真ん中にいようとする = 自分だけが住む     裕福な地主が貧しい者の狭い農地を買い占める   8-25節 背教と罪の結末についての警告     この章の導入にたとえ話を用いた後で、預言者イザヤは、当時の民がどのような     罪悪を犯していたか、様々な例を挙げている。   8節     民は邪悪な行いによって家を建てた。カイルとデリッチは次のように説明してい     る。「『貧欲な人々は、あらゆる土地という土地を手に入れて、すべてを自分の     所有とするまで、まったく休むことをしなかった。そのため、彼らを除いては、     この土地に定住する者はなかったのである。』〔ヨブ22:8〕こうした貧欲さは     当然のことながら、責めを招くことになる。なぜなら、イスラエルの律法は、き     わめて厳しくかつ入念に、できるかぎり公平に土地を分配すること、および世襲     の家族資産は売り渡してはならないことを定めていたからである。」 09)万軍の主はわたしの耳に誓って言われた、   「必ずや多くの家は荒れすたれ、   大きな麗しい家も住む者がないようになる。   【解説】   荒れすたれる = 中にだれもいない   この節はニーファイ第2書15章では次のようになっている。     万軍の主がわたしの耳に言われた。     『多くの家が必ず荒れ廃れ、     大きな麗しいもろもろの町は住む者のない所となる。 10)十反のぶどう畑もわずかに一バテの実を結び、   一ホメルの種もわずかに一エパの実を結ぶ」。   【解説】   この節はニーファイ第2書15章では次のようになっている。     まことに、10エーカーのぶどう園は1バテの実しか結ばず、     1ホメルの種はわずかに1エパの実しか結ばない。』   ツェメド(反、エーカー) = 2500平方メートル   反(たん) = 土地の面積の単位。1町の10分の1(約10アール=1000平方メートル)。   エーカー = 約40アール=4000平方メートル   バテ(バト) = 22リットル   ホメル = 220リットル   エバ(エファ) = 22リットル   10エーカーの土地が1パテしか産み出さず、1ホメルの種がわずか1エパの実しか結ば   ないということは、この土地が邪悪な行いのためにいかに生産性が低下するかを示し   ている。 11)わざわいなるかな、彼らは朝早く起きて、   濃き酒をおい求め、   夜のふけるまで飲みつづけて、   酒にその身を焼かれている。   【解説】   わざわい = 悲しみ、災難、不幸   この節はニーファイ第2書15章では次のようになっている。     朝早く起きて強い酒を追い求め、     夜まで飲み続けて、ぶどう酒に身を焼かれる者は災いである。   深酒と酒宴の流行で、神に心を向ける者がいない。 12)彼らの酒宴には琴あり、立琴あり、   鼓あり笛あり、ぶどう酒がある。   しかし彼らは主のみわざを顧みず、   み手のなされる事に目をとめない。   【解説】   この節はニーファイ第2書15章では次のようになっている。     彼らの酒宴には、琴と竪琴、     鼓と笛とぶどう酒がある。     しかし、彼らは主の業に見向きもせず、     主の手の働きに目を留めない。   真理や正しい原則についての知識が何もない。無知であるということは、いかなる分   野で努力をしようとも障害になるが、霊的なことに関しては特に顕著である。預言者   ジョセフ・スミスはこの重要な原則について次のように教えている。「教会は清めを   受けなければならない。わたしはあらゆる罪悪を捨て去るよう勧告する。人は知識を   得て初めて救われる。もし知識を得なければ、ほかの世界で悪魔の何らかの力で捕ら   えられるからである。悪魔に従う霊たちは、地上の多くの人々よりも多くの知識を持   っており、したがって多くの力を有している。このため、我々を助け、神にかかわる   知識をもたらす啓示が必要なのである。」 13)それゆえ、わが民は無知のために、とりこにせられ、   その尊き者は飢えて死に、   そのもろもろの民は、かわきによって衰えはてる。   【解説】   この節はニーファイ第2書15章では次のようになっている。     それゆえ、わたしの民は無知のために囚われの身となる。     彼らの高官たちは飢え、民衆は渇きで干上がる。   12-13節     飲み食いに満足していても、神に従わないものは、飢え渇き死ぬ。霊の死。 14)また陰府はその欲望を大きくし、   その口を限りなく開き、   エルサレムの貴族、そのもろもろの民、   その群集およびそのうちの喜びたのしめる者はみな   その中に落ちこむ。   【解説】   この節はニーファイ第2書15章では次のようになっている。     それゆえ、地獄は広がり、     その口を限りなく開く。     そして彼らの栄華と、彼らのどよめきと、     彼らの華やかさ、および喜び楽しむ者は、     その中に落ち込む。 15)人はかがめられ、人々は低くせられ、   高ぶる者の目は低くされる。   【解説】   この節はニーファイ第2書15章では次のようになっている。     地位の低い者はさらに下げられ、     力ある者は低くされ、高ぶる者の目は低くされる。 16)しかし万軍の主は公平によってあがめられ、   聖なる神は正義によって、   おのれを聖なる者として示される。   【解説】   あがめる = 高くする   この節はニーファイ第2書15章では次のようになっている。     しかし、万軍の主は公平によってあがめられ、     聖なる神は義をもって神聖であるとたたえられる。 17)こうして小羊は自分の牧場におるように草をはみ、   肥えた家畜および子やぎは荒れ跡の中で食を得る。   【解説】   肥えた家畜および子やぎは荒れ跡の中で食を得る    = 動物に草を食べさせていた土地が滅ぼされる   この節はニーファイ第2書15章では次のようになっている。     そのとき、子羊たちは自分の牧場にいるように草をはみ、     見知らぬ者たちは肥えた者たちの食べ残しを食べる。 18)わざわいなるかな、   彼らは偽りのなわをもって悪を引きよせ、   車の綱をもってするように罪を引きよせる。   【解説】   この節はニーファイ第2書15章では次のようになっている。     虚栄の縄で悪を引き寄せ、     車の綱でするように罪を引き寄せる者は災いである。   わざわい = 悲しみ、災難、不幸   車の綱 = 家畜が荷車に縛られるように、罪につながれている。   彼らは偽りの縄をもって罪や悪を引き寄せる。     聖書欽定訳の脚注を読むと、イザヤの表現を理解する助けになる。「彼らは、動     物がその荷につながれているように、罪につながれている。」 19)彼らは言う、「彼を急がせ、   そのわざをすみやかにさせよ、   それを見せてもらおう。   イスラエルの聖者の定める事を近づききたらせよ、   それを見せてもらおう」と。   【解説】   この節はニーファイ第2書15章では次のようになっている。     彼は言う。     『我々に見えるように、彼を急がせ、     彼の業を早くさせよ。     我々が知ることができるように、     イスラエルの聖者の勧告をそば近くに寄せよ。』   見えるように = 見るまでメシヤを信じないこと 20)わざわいなるかな、彼らは悪を呼んで善といい、   善を呼んで悪といい、   暗きを光とし、光を暗しとし、   苦きを甘しとし、甘きを苦しとする。   【解説】   わざわい = 悲しみ、災難、不幸   この節はニーファイ第2書15章では次のようになっている。     悪を善と呼び、善を悪と呼び、     闇を光とし、光を闇とし、     苦いものを甘い、甘いものを苦いとする者は災いである。   彼らは正しい行いや善を逆手に取ってそれを悪と呼び、悪事を働きながらそれを善と   しようとする。自分の犯した罪の結果を是認しようとしないのは、罪人の習いである。   それゆえ、何とかして言い逃れようとする。 21)わざわいなるかな、彼らはおのれを見て、賢しとし、   みずから顧みて、さとしとする。   【解説】   わざわい = 悲しみ、災難、不幸   さとい = 注意深くて判断力に優れている   この節はニーファイ第2書15章では次のようになっている。     自分を見て賢いと思う者、     自分を見て分別があると思う者は災いである。   彼らはおのれを見て、賢しとする     N・エルドン・タナー副管長は、この警告に耳を傾けなければならないとして次     のように指摘した。「人が科学や哲学といったこの世のことで学問を身に付ける     と、うぬぼれも強くなり、自分の理解力にだんだんと信頼を置くようになって、     ついには神から自分が独立しているかのように思い込む。また、そうした世俗の     学問のため、神の存在を物理学的に、数学的に、科学的に証明できなければ、神     とキリストを疑ったり、否定したりするのが当然と考えるのである。現代には、     間違ったことを教え、人々を自分に従わせようとしている学者が数多くいる。学     問を身に付けさせようとして送り出した若人たちが、そうした学者たちを権威者     として受け入れ、それが神に対する信仰を失う原因になっている例が多くある。     福音の単純な真理を受け入れ、神すなわち創造主、御子イエス・キリストを権威     ある者として受け入れ、自分で反証したり完全に説明できないことを信仰によっ     て受け入れることは、何と賢明ですばらしいことであろうか。わたしたちには、     自分に理解できない数多くの事柄があるという事実を受け入れる心構えが必要で     ある。」 22)わざわいなるかな、   彼らはぶどう酒を飲むことの英雄であり、   濃き酒をまぜ合わせることの勇士である。   【解説】   わざわい = 悲しみ、災難、不幸   この節はニーファイ第2書15章では次のようになっている。     ぶどう酒を飲むのに強い者、     強い酒を混ぜ合わせる剛の者は災いである。 23)彼らはまいないによって悪しき者を義とし、   義人からその義を奪う。   【解説】   この節はニーファイ第2書15章では次のようになっている。     彼らはわいろのために悪人を義とし、     義人からその義を奪う。   義を奪う = 法的な権限を奪う   彼らはまいないによって悪しき者を義とする     罪のある者たちは、裁判官や役人にわいろを贈って無罪とされ、一方、罪のない     者たちが有罪とされて口を閉ざされたり、財産を没収されたりした。古代ユダヤ     王国のイスラエルの民の間にはびこっていた悪事の数々を見れば、なぜ神の裁き     が彼らのうえに下ったのかを理解することは、現代の読者にとっていとも容易で     あろう。しかし、現代の世界もここから偉大な教訓を学び取ることができる。今、     様々な面で同じような悪がはびこっているのに目を向けさえすればそれが分かる。     罪の結果は、昔も今も同じく悲惨なものである。これがイザヤが現代のわたした     ちに伝える言葉なのである。 24)それゆえ、火の舌が刈り株を食い尽すように、   枯れ草が炎の中に消えうせるように、   彼らの根は朽ちたものとなり、   彼らの花はちりのように飛び去る。   彼らは万軍の主の律法を捨て、   イスラエルの聖者の言葉を侮ったからである。   【解説】   火の舌 = 火がまるで食べ物を取り込むようにとりこみ燃えつくしていく様子   侮る = 背を向ける、ひどく嫌う   この節はニーファイ第2書15章では次のようになっている。     それゆえ、火がわらを焼き尽くし、     炎がもみ殻をなめ尽くすように、     彼らの根は腐り、     彼らの花はちりのように飛び散る。     彼らが万軍の主の律法を捨て、     イスラエルの聖者の言葉を侮ったからである。   20-24節     この予言は、神を捨て、その力と知恵を拒む者、すなわち自分のことは自分が知     っていると思っている人々がどうなるかを迫真の病者で伝えている。     現代の預言者が何が善で何が悪かを明らかにしたときには、それにどこまでも従     うことが大切である。そうしないと、イザヤの時代の人々のように、預言者が悪     としたことを善という、善としたことを悪と言うことになるであろう。 25)それゆえ、主はその民にむかって怒りを発し、   み手を伸べて彼らを撃たれた。   山は震い動き、   彼らのしかばねは、ちまたの中で、   あくたのようになった。   それにもかかわらず、み怒りはやまず、   なお、み手を伸ばされる。   【解説】   この節はニーファイ第2書15章では次のようになっている。     それゆえ、主の怒りは主の民に向かって燃え、     主は彼らに対して御手を伸ばし、彼らを打たれた。     もろもろの丘は揺れ動き、     彼らのしかばねは通りで引き裂かれた。     それでも主の怒りは解かれず、     なおも御手は伸ばされている。   あくた = ごみ、くず、かす 26)主は旗をあげて遠くから一つの国民を招き、   地の果から彼らを呼ばれる。   見よ、彼らは走って、すみやかに来る。   【解説】   旗 = 軍隊が集合・行進するときに掲げる旗   呼ぶ = 口笛で呼ぶ。集合のための合図をする。   この節はニーファイ第2書15章では次のようになっている。     主は遠く離れた国民に一つの旗を掲げ、地の果てから彼らを呼ばれる。     すると、彼らは急いで速やかに来る。     見よ、彼らの中には疲れる者も、つまずく者もない。   電話などの通信機器と飛行機などの交通機関を描写している。   26-29節は、イスラエルの集合の際、文明の利器が使われている様子が描かれている。 27)その中には疲れる者も、つまずく者もなく、   まどろむ者も、眠る者もない。   その腰の帯はとけず、   そのくつのひもは切れていない。   【解説】   この節はニーファイ第2書15章では次のようになっている。     また、まどろむ者も、眠る者もない。     彼らの腰の帯は解けず、靴のひもも切れない。   鉄道や飛行機に乗るからである。 28)その矢は鋭く、その弓はことごとく張り、   その馬のひずめは火打石のように、   その車の輪はつむじ風のように思われる。   【解説】   この節はニーファイ第2書15章では次のようになっている。     その矢は鋭く、その弓はことごとく張っている。     そして、その馬のひづめは火打ち石のように、     その車輪は旋風のように、     そのとどろきはライオンのように思われる。   火打石(ひうちいし) = 玉髄に似た石英の一種。緻密(ちみつ)で硬く、灰色や黒色の              ものが多い。火打ち金と打ち合わせて発火させ、火打ち道具              として用いた。   鉄道を描写している。 29)そのほえることは、ししのように、   若いししのようにほえ、   うなって獲物を捕え、   かすめ去っても救う者がない。   【解説】   この節はニーファイ第2書15章では次のようになっている。     彼らは若いライオンのようにほえる。     ほえて、獲物を捕らえると、     確実に運び去るので、だれも救い出す者はいない。   飛行機のジェットエンジンの音を描写している。   26-29節 主の御業の進展は勢いを増し、誰も止められない。 30)その日、その鳴りどよめくことは、   海の鳴りどよめくようだ。   もし地をのぞむならば、   見よ、暗きと悩みとがあり、   光は雲によって暗くなる。   【解説】   この節はニーファイ第2書15章では次のようになっている。     その日、彼らは海鳴りのように彼らにほえる。     もし彼らが地を見るならば、     見よ、暗闇と悲しみがあり、     光は天で暗くなる。」   26-30節 末の日に主は旗をあげて一つの国民を招く     速やかに、しかもイザヤの時代にはまだ知られていない手段でイスラエルが集合     するということが、この章の結びとして書かれている。リグランド・リチャーズ     長老は、預言者の言葉を現代に当てはめて、次のように言っている。     「その当時、機関車も飛行機もない時代であったから、イザヤは具体的にそれを     名指しすることはできなかった。しかしイザヤはそれを誤解しようもないほどは     っきりとした言葉で描写しているのではないだろうか。『その馬のひずめは火打     石のように、その車の輪はつむじ風のように思われる」ものは、現代の機関車以     外に考えられるだろうか。『そのほえることは、ししのように』というのは、飛     行機の爆音ではないのだろうか。機関車や飛行機は夜も止まることがない。だか     ら、『眠る者もない。その腰の帯はとけず、そのくつのひもは切れていない』と     書いたイザヤは正しかったと言えないだろうか。こうした交通手段があればこそ、     主は『地の果から彼らを呼』び、『彼らは走って、すみやかに来る』こともほん     とうに可能なのである。」
第6章   【解説】   イザヤ、示現を見、召しを受ける。   イザヤ、主を目にする。   イザヤの罪は赦される。   イザヤ、預言するように召され、ユダヤ人がキリストの教えを拒むことを預言する。   残りの者が帰って来る。   イザヤが預言者をして召されたときの話。   イザヤは4人の王に仕えている。   ヒゼキヤは良い王だったが、その子のマナセの時に殺された。   イザヤは政治の中心にいた。ヒゼキヤの義理の父だった。   引用:2ニーファイ16。   参照 「イザヤ書 英語版比較」   【セミナリー解説】   6章では、イザヤが預言者として召された様子と、主がイザヤに預言者の使命につい   て言われたことが書いてある。1節および5節は、主にまみえたというイザヤの証。 01)ウジヤ王の死んだ年、わたしは主が高くあげられたみくらに座し、その衣のすそが神   殿に満ちているのを見た。   【解説】   この節はニーファイ第2書16章では次のようになっている。     「ウジヤ王が死んだ年に、     わたしは高く上げられた御座に主が座しておられるのを見た。     主の衣のすそは神殿に満ちていた。   ウジヤ王が死んだ年 = 紀元前750年   主 = 降臨される前のイエス・キリスト 02)その上にセラピムが立ち、おのおの六つの翼をもっていた。その二つをもって顔をお   おい、二つをもって足をおおい、二つをもって飛びかけり、   【解説】   この節はニーファイ第2書16章では次のようになっている。     その上方にセラピムがいて、それぞれ6つの翼を持っており、     二つの翼で顔を覆い、二つの翼で両足を覆い、二つの翼で飛んでいた。   セラピム = セラフ(特別な天使)の複数形     火のような生き物と思われる。翼を持ち、一部は人間の形をしている。     エホバの法廷に集い。天の聖所で使え、王座のみ前で礼拝に加わる。   天使の羽は神権の力の象徴。しかし、セラピムの羽は実際にあったかもしれない。   人間でない生き物の可能性がある。(黙示録にも奇妙な生き物が出てくる)   セラピムとは何か     セラピムとは神の前に住まい、絶えず神に栄光と誉れと礼拝とをささげている天     使のことである。セラピムと呼ばれる中には、前世におけるまだ肉体を受けてい     ない霊も含まれていることは明らかである。わたしたちの主は、永遠の大いなる     広がりと天のすべてのこうごうしい衆群を見た神だからである。セラピムという     呼称が、復活した完全な天使をも指すのかどうかについては定かではない。預言     者ジョセフは、聖徒たちのために祈るに当たって、わたしたちがあなたの御座の     周りの光輝くセラフたちと声を合わせ、「神と小羊に、ホサナ」と歌いながら賛     美の叫び声を上げられるようにしてくださいと祈った。     へプライ語では、セラフの複数形がセラピムである。イザヤは示現でセラピムを     見、また互いに「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は     全地に満つ」と呼び交わしているのを聞いた。イザヤに示されたこの聖なる者た     ちはそれぞれ翼を持っていたが、これは単に、力の表れであり、動く力や、行動     する力などを表す象徴として用いられたにすぎない。 03)互に呼びかわして言った。   「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、   その栄光は全地に満つ」。   【解説】   この節はニーファイ第2書16章では次のようになっている。     そして、一人が別の一人に叫んで言った。     『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主。     全地は万軍の主の栄光に満ちる。』 04)その呼ばわっている者の声によって敷居の基が震い動き、神殿の中に煙が満ちた。   【解説】   この節はニーファイ第2書16章では次のようになっている。     そのように叫んだ者の声で入り口の柱が揺れ動き、宮には煙が満ちた。   ヘブライ語聖書では、「入り口の柱」は「入り口の土台」。   敷居の基が震い動き、神殿の中に煙が満ちた     この最初の部分を、へプライ語のほかの版ではもう少し分かりやすく、「入り口     の基礎が震えた」と書いている。煙というのは、神の存在と栄光の象徴であった。     火と煙というのは、日の栄えにあるものの栄光を描き出すために度々使用されて     いる。ジョセフ・スミスはそれを次のように言っている。     「全能の神は永遠の火の中に住んでおられる。したがって、肉と血はそこに行く     ことはできない。なぜならすべて汚れた者は火によって滅ぼされるからである。     『あなたの神、主は焼きつくす火である。(申命4:24;へブル12:29)』わたした     ちの肉体が御霊によって生かされるとき、この肉体の中には、まったく血が存在     しなくなるであろう。そして人々の肉体には栄光の差が生じるであろう。不死不     滅の者は永遠の炎の中で住むのである。」 05)その時わたしは言った、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚   れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万   軍の主なる王を見たのだから」。   【解説】   この節はニーファイ第2書16章では次のようになっている。     それでわたしは言った。     『わたしは災いだ。わたしは滅ぼされる。     わたしは唇の清くない者で、唇の清くない人々の中に住んでいる。     ところが、わたしの目は万軍の主なる王を見たからである。』   ヘブライ語聖書では、「滅びる」は「断ち切られる」。   自分と民の罪に気付き、それに圧倒されている。   イザヤは自分の召しが神から来たものであることを、また神が自分に心をかけておら   れることを理解した。しかし、イザヤは自分は汚れた者であり、ふさわしく無い者で   あり、滅ぼされるおではないかと恐れていた。 06)この時セラピムのひとりが火ばしをもって、祭壇の上から取った燃えている炭を手に   携え、わたしのところに飛んできて、   【解説】   この節はニーファイ第2書16章では次のようになっている。     そのとき、セラピムの一人が、     火ばしで祭壇の上から取った燃え盛る炭を手に携えて、     わたしのところに飛んで来た。 07)わたしの口に触れて言った、「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなた   の悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」。   【解説】   この節はニーファイ第2書16章では次のようになっている。     そして、彼はそれをわたしの口に当てて言った。     『これがあなたの唇に触れたので、     あなたの悪は取り去られ、あなたの罪は清められた。』   セラピムがエスコートしている。示現にはエスコートが付く。   燃えている炭は清めを表している。   イザヤが主によって清められた。イザヤは神の戒めを守って生活していたので、神か   ら啓示を受け、神に仕える召しを受ける準備ができていた。 08)わたしはまた主の言われる声を聞いた、「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれ   われのために行くだろうか」。その時わたしは言った、「ここにわたしがおります。   わたしをおつかわしください」。   【解説】   この節はニーファイ第2書16章では次のようになっている。     また主の声があって、こう言われた。     『だれを遣わそうか。我々のためにだれが行くだろうか。』     それでわたしは言った。     『わたしがここにいます。わたしをお遣わしください。』   イザヤはすすんで手をあげている。他の預言者はしり込みしていた。   イザヤは、以前から覚悟ができていた。   5-8節 赦しを受ける預言者     「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ」という表現は、イザヤが、自分     は神の前にあってふさわしくない者であると感じていたことを示す言葉である。     同様に、燃えている炭で清めるというのは清めと赦しの象徴である。ジョセフ・     スミスも、自分の召しとその使命を果たすことに関連して、イザヤと同じような     経験をした。(ジョセフ・スミス-歴史1:29;教義と聖約29:3;36:1;50:36;60:7) 09)主は言われた、「あなたは行って、この民にこう言いなさい、   『あなたがたはくりかえし聞くがよい、   しかし悟ってはならない。   あなたがたはくりかえし見るがよい、   しかしわかってはならない』と。   【解説】   この節はニーファイ第2書16章では次のようになっている。     すると主は言われた。     『行ってこの民に必ず聞けと告げなさい。』     しかし彼らは理解しなかった。     『必ず見よと告げなさい。』     しかし彼らは悟らなかった。 10)あなたはこの民の心を鈍くし、   その耳を聞えにくくし、その目を閉ざしなさい。   これは彼らがその目で見、その耳で聞き、   その心で悟り、   悔い改めていやされることのないためである」。   【解説】   この節はニーファイ第2書16章では次のようになっている。     また主は言われた。     『この民の心を鈍くし、     彼らの耳を重くし、彼らの目を閉ざしなさい。     彼らが自分の目で見、自分の耳で聞き、     自分の心で理解し、     心を改めて、癒されることがないためである。』   9,10節はメシヤに関連したもの。 11)そこで、わたしは言った、「主よ、いつまでですか」。   主は言われた、   「町々は荒れすたれて、住む者もなく、   家には人かげもなく、国は全く荒れ地となり、   【解説】   この節はニーファイ第2書16章では次のようになっている。     それでわたしは、『主よ、いつまでですか』と言った。     すると主は言われた。     『もろもろの町が荒廃して住む者がいなくなり、     家々に人がいなくなり、地もすっかり荒れ果てるときまでである。   イザヤは自分がいつまで仕えなければならないか主に尋ねた。主は町々が破壊され、   国が荒廃するまでと答えられた。 12)人々は主によって遠くへ移され、   荒れはてた所が国の中に多くなる時まで、   こうなっている。   【解説】   この節はニーファイ第2書16章では次のようになっている。     そして、そのただ中には荒れ廃れた所が増えるので、     主は人々を遠くに移した。 13)その中に十分の一の残る者があっても、   これもまた焼き滅ぼされる。   テレビンの木またはかしの木が切り倒されるとき、   その切り株が残るように」。   聖なる種族はその切り株である。   【解説】   この節はニーファイ第2書16章では次のようになっている。     しかし、それでもなお10分の1の者がいる。     彼らは帰って来るが、食い尽くされる。     しかし、テレビンの木とかしの木がその葉を落としても     幹が木の中にあるように、     聖なる子孫はその幹となる。』」   テレビンの木 = 樫の木の一種、とても硬い   木のように、葉は落ちても命と種を生じさせる力はその中にある。   ユダの残りの者の散乱と集合     この節には、ちょうど木が冬の間その葉を完全に落としてもなお枯れずにいるよ     うに、イスラエルの家も来るべき惨禍から生き延びるであろうという預言が書か     れている。   9-13節 霊的なことを拒むという預言     預言者イザヤが民に伝えるよう命じられたことの中には、人は自分の選択の結果     には完全に責任を取らなければならない、というメッセージがあった。人は自分     の行いに対して言い逃れができないのである。『モルモン書』で9節に相当する     箇所では、主がイザヤに向かって、民は大方にわたって御言葉を拒むと語ってお     られることが記録されている。民は、自分たちは聞いているし、見ていると主張     していた。しかし、伝えられていることの精神を理解していなかったのである。     「この民の心を鈍くし、その耳を聞えにくくし、その目を閉ざしなさい」との命     は、民に責任を持たせる過程を描くために使われている。この命は、当然のこと     ながら、霊的な物の見方、聞き方、感じ方について言ったものである。悪事のた     めに自ら心をかたくなにすることがある。罪はその性格上、必ずそれ特有の罰を     伴う。悪い行い自体、人が選択の自由によって自ら決定を下したことの結果なの     である。真理に反抗したりそれを拒んだりすれば、必ず霊的にかたくなな状態に     なる。ユダ王国に対するイザヤの告発は、『新約聖書』でも再び引用され、その     当時の人々も大差のなかったことが分かる。たとえ話を理解できない人が数多く     いるが、これもイザヤの預言の成就である。多くの奇跡の重要な意味もやはり誤     解されている。メシヤと御子についての証は、少なくとも部分的には、弟子たち     は理解したが、ほかの人々はそれを拒んだ。預言者イザヤはある人々について、     彼らはいつまで真理に対して心をかたくなにするのかと主に尋ねた(11節)。それ     に対して主は、人がこの地上にだれもいなくなるまでと答えられた。
第7章   【解説】   10-16節はメシヤに関連したもの。   それ以外の節はユダ王国とその近辺の歴史。   エフライムとスリヤ、ユダと戦う。   キリストはおとめからお生まれになる。   引用:2ニーファイ17。   関連:2ニーファイ11。   参照 「イザヤ書 英語版比較」   【セミナリー解説】 7-8章では、ユダ王国の歴史上のある出来事が語られているが、この預言は当時のこ とだけでなく、700年以上後に起こるイエス・キリストの降誕についても示している。 7章では、イスラエル(北王国。エフライムとも呼ばれる)の王とスリヤの王が軍事 力を強化するために連合したことが説明されている。両国は力を合わせてユダ王国を 打ち破りたいと望んでいた(1-2,5-6節)。この行動を見たユダの王アハズはおびえる (2節)。イザヤは主から命じられ、スリヤもエフライムもアッスリヤ人によって滅ぼ されるので、怖がる必要はないとアハズに伝える。イザヤは、この預言が成就すれば、 主が引き続きユダを一つの民として残すおつもりであることの証となるであろうと言 う。次にイザヤはアハズに、自分の言葉が真実である証拠として、一つのしるしを与 える。一人のおとめがみごもり、男の子を産み、その子を「神われらとともにいます」 という意味のインマヌエルと名付けるという預言である。インマヌエルという名前は、 神が御自分の民であるユダとともにおられるという事実を象徴するものだった。イザ ヤはまた、その子が善悪の違いを知るほど大きくなる前に、アッスリヤ人がスリヤの 王とエフライムの王を捕らえるであろうと預言した(14-16節)。このイザヤ7章10-16 節に書いてある預言には、さらに深い意味がある。神がユダを一つの民として残され る理由は、ユダの部族であるダビデ王の子孫を通じて御子を地上に送ると神が約束し ておられることだった。神の御子はインマヌエルとなられる。イザヤがアハズに言っ ていたことは、神はユダをスリヤとエフライムの攻撃から守ってくださるだけでなく、 メシヤが降誕されるまでずっと守ってくださる、ということである。 01)ユダの王、ウジヤの子ヨタム、その子アハズの時、スリヤの王レヂンとレマリヤの子   であるイスラエルの王ペカとが上ってきて、エルサレムを攻めたが勝つことができな   かった。   【解説】   この節はニーファイ第2書17章では次のようになっている。     「さて、ウジヤの子のヨタムの子、アハズの時代に、     スリヤの王レヂンとレマリヤの子であるイスラエルの王ペカが、     エルサレムに上って来て攻めたが、勝つことができなかった。   1-9節 イスラエル(エフライム)とスリヤの間の同盟に反対する預言的警告     北のイスラエル(エフライム)王国は、圧倒的な力を誇るアッスリヤ帝国に対抗     するために、相互派兵と防衛とを求めてスリヤと同盟を結んだ。ユダが同盟への     参加を拒んだとき、両国はユダに侵攻すると脅し、そこに攻め入った。     アハズ王がユダの民を守るために政治的同盟を結ぼうとしたことに対し、イザヤ     はアハズ王に警告を発するよう命じられた。この王は、イザヤが助言を与えるた     めに遣わされた3人目のユダ王であるが、最終的には主の警告を拒んだ。 02)時に「スリヤがエフライムと同盟している」とダビデの家に告げる者があったので、   王の心と民の心とは風に動かされる林の木のように動揺した。   【解説】   この節はニーファイ第2書17章では次のようになっている。     ときに、スリヤがエフライムと同盟をしているとダビデの家に知らせがあった。     それで、王の心も、民の心も、森の木々が風に揺らぐように動揺した。   エフライム = イスラエル王国   イスラエルの北王国は、指導的な部族であるエフライムの名で呼ばれた。   同盟(どうめい) = 個人・団体または国家などが、互いに共通の目的を達成するた            に同一の行動をとることを約束すること。また、それによって            成立した関係 03)その時、主はイザヤに言われた、「今、あなたとあなたの子シャル・ヤシュブと共に   出て行って、布さらしの野へ行く大路に沿う上の池の水道の端でアハズに会い、   【解説】   この節はニーファイ第2書17章では次のようになっている。     そのとき、主はイザヤに言われた。     『あなたとあなたの子シャル・ヤシュブとは出て行って、     布さらしの野の大路にある上の池の水道の端でアハズに会い、   布さらし = 布を水や日光にあてて漂白したり、染色後の洗いとする行為     多くの水を必要とした。   シャル・ヤシュブ = ヘブライ語で「残りの者は帰る」の意     預言者イザヤが王を訪ねる際に同行した息子の一人である。   「上の池の水道」と「布さらし場に行く大路」     布さらし人とは、日用の衣類を洗濯、プレス、漂白、染色する人である。大量の     水を使う仕事なので、仕事場である「布さらし場」は常に池か泉のそばにあった。     ギホンの泉はケデロンの谷の自然の水源であった。イスラエルが占拠する以前の     昔、エルサレムでは女たちが泉へ水くみに通っていた。台に立ち、皮袋を下の泉     に通じる約12メートルのシャフトつまり水導管に下ろして水をくみ上げたのであ     る。それが「上の池の水道」だと考える人々がいる。近くには「布さらし場」が     あった。しかし、町の西方に大きな人口池の跡が見つかったため、そこがその場     所だったかもしれないと考える学者たちもいる。 04)彼に言いなさい、『気をつけて、静かにし、恐れてはならない。レヂンとスリヤおよ   びレマリヤの子が激しく怒っても、これら二つの燃え残りのくすぶっている切り株の   ゆえに心を弱くしてはならない。   【解説】   この節はニーファイ第2書17章では次のようになっている。     彼に言いなさい。気を落ち着けて静かにしていなさい。恐れてはならない。     スリヤを率いるレヂンとレマリヤの子が激しく怒っても、     それは二つのくすぶっているたいまつの燃えさしにすぎないので、     気弱になってはならない。   たいまつ = 松の樹脂の多い部分を細かく割り、束ねたもの。火をつけて照明に         用いた   攻撃を恐れるな。その二人の王には戦意がない。   スリヤのレヂンとイスラエルのペカが「燃え残りのくすぶっている切り株」と呼ばれ   たのはなぜか。     これは燃え尽きてしまったたいまつのイメージである。すでに炭化してしまった     木には火力はなく、何の脅威も及ぼさない。 05)スリヤはエフライムおよびレマリヤの子と共にあなたにむかって悪い事を企てて言う、   【解説】   この節はニーファイ第2書17章では次のようになっている。     スリヤとエフライム、およびレマリヤの子は、     あなたに対して悪事を企てて言っている。 06)「われわれはユダに攻め上って、これを脅かし、われわれのためにこれを破り取り、   タビエルの子をそこの王にしよう」と。   【解説】   この節はニーファイ第2書17章では次のようになっている。     「我々はユダに攻め上って、これを悩まそう。     そして我々のためにこれを分けて、タビエルの子をそこで王にしよう。」   分ける = 分割する   スリヤとエフライム(イスラエル)はユダを攻撃して脅かし、自分たちの政策に好意   的な王を立てようとした。 07)主なる神はこう言われる、   この事は決して行われない、また起ることはない。   【解説】   この節はニーファイ第2書17章では次のようになっている。     主なる神はこう言われる。     そのことは行われない。また起こることはない。 08)スリヤのかしらはダマスコ、   ダマスコのかしらはレヂンである。   (六十五年のうちにエフライムは敗れて、国をなさないようになる。)   【解説】   この節はニーファイ第2書17章では次のようになっている。     スリヤの頭はダマスコ、     ダマスコの頭はレヂンである。     エフライムは65年のうちに破られて、一つの民を成さなくなる。   「六十五年のうちに」     『聖書』の年代記述や当時の資料はともに完全でなく、しかも一致していないた     め、年ごとに子細にわたって歴史を眺めていくことは困難である。しかしながら、     この預言が成就したのは、一般的には、テグラテピレセル3世とシャルマネセル     5世の最初の侵攻から、アッスリヤ王エサルハドンの下で人口の大部分の捕囚と     追放が最後に行われるまでの間と考えられている。崩壊と民族の追放が行われて     いる間も、北王国のエフライムは、最後の追放に遭うまで多少の独自性を維持す     ることができた。 09)エフライムのかしらはサマリヤ、   サマリヤのかしらはレマリヤの子である。   もしあなたがたが信じないならば、   立つことはできない』」。   【解説】   この節はニーファイ第2書17章では次のようになっている。     またエフライムの頭はサマリヤ、     サマリヤの頭はレマリヤの子である。     もしあなたがたが信じなければ、     しっかりと立つことはできない。』   主はスリヤとイスラエルの同盟が破局を迎え、近い将来イスラエル王国が滅亡するこ   とを知っておられた。そして主はアハズに、それを信じなければ救われないと警告し   た。主はアハズにしるし、すなわち預言者の言葉に対する霊的な確信を得るように励   ましを与えられた。 10)主は再びアハズに告げて言われた、   【解説】   この節はニーファイ第2書17章では次のようになっている。     さらに主は、再びアハズに言われた。 11)「あなたの神、主に一つのしるしを求めよ、陰府のように深い所に、あるいは天のよ   うに高い所に求めよ」。   【解説】   この節はニーファイ第2書17章では次のようになっている。     『主なるあなたの神にしるしを求めなさい。     深い所にも、また頭上の高い所にも求めなさい。』   高い所 = 「高き所」。祭壇のある場所、神に犠牲を捧げる場所 12)しかしアハズは言った、「わたしはそれを求めて、主を試みることをいたしません」。   【解説】   この節はニーファイ第2書17章では次のようになっている。     しかしアハズは言った。     『わたしは求めません。主を試みることはいたしません。』   10-16節 メシヤ降臨の約束     助言を受け入れることはアハズ王の本意ではなかった。そのため預言者は、王に     主からの確固たる証明を求めるように促し、「一つのしるしを求めよ」(11節)     と言った。それでも王は拒んだ。王の言うように神を試したくなかった(12節)     からではなく、ほかの国々と同盟を結ぼうという自分の計画を主に阻止されたく     なかったからである。しかし、いずれにせよ、主はしるしを示され、ユダの残り     の者からメシヤが誕生し、ユダが完全に滅びることはないという預言の約束を確     認された。ユダに与えられた約束とは対照的に、預言者イザヤは、アハズ王と敵     対関係にあり、「あなたが恐れている」(16節)北王国が崩壊することを預言し     た。当時北王国を治めていた二人の王は、アッスリヤにより殺された。 13)そこでイザヤは言った、「ダビデの家よ、聞け。あなたがたは人を煩わすことを小さ   い事とし、またわが神をも煩わそうとするのか。   【解説】   この節はニーファイ第2書17章では次のようになっている。     そこでイザヤは言った。     『おお、ダビデの家よ、聞きなさい。     人を煩わすことはあなたがたにとってささいなことだろうか。     そのようにして、わたしの神までも煩わそうとするのか。 14)それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみ   ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。   【解説】   この節はニーファイ第2書17章では次のようになっている。     それゆえ、主は自らしるしをあなたがたに与えられる。     見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その子の名をインマヌエルと呼ぶ。   インマヌエル = ヘブライ語で「神はわたしたちとともにおられる」の意   来るべきキリストは赤ん坊として生まれる。   男性と関係を持たない女性がイエス・キリストを生んだ。   贖いを行うには、それに耐えられる死なない体を必要としたと同時に死ぬ体も必要と   された。天父から死なない性質、マリアから死ぬ性質を受け継いだ。   「おとめが男の子を産む」     この聖句は、イエス・キリストの誕生によって成就したとして『新約聖書』の中     で引用されている。(マタイ1:25)注釈者の中には、「おとめ」と翻訳されてい     る語が「若い女」という意味しかなく、性関係を持たなかった者という意味はな     い、と指摘する者もいる。そう主張するのは、イエス・キリストが処女から生ま     れたことを証明するこの聖句に対して反論を試みているからである。しかし、こ     の語が正しく翻訳されており、確かに未婚の女という意味だったことははっきり     と分かっている。     同様に『モルモン書』でも、キリストを身ごもったときのマリヤは処女であった     ことを証している。(1ニーファイ11:13,15,18,20-21)また、ニーファイの示現     も、身ごもるのは処女であるという古代のイザヤの預言を裏づけている。     マリオン・G・ロムニー副管長は、預言者イザヤの言葉を理解するには霊的な導     きが重要であるとして、次のように語っている。     「では御霊の導きを受けずに聖文を改訂しようとする人々の行き着く所が何かを     示す例をここに挙げてみましょう。イザヤは、キリストの誕生を預言するに当た     ってこう言いました。『見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はイン     マヌエルととなえられる。』イザヤが『おとめ』という言葉を使ったのは、まだ     男を知らないおとめが男の子を産むという意味でした。     ところが現代の英語の『聖書』には、『見よ、若い女がみごもって男の子を産む。     その名はインマヌエルととなえられる』とあります。これから分かるように、彼     らはキリストの神性を認めないため、『おとめ』でも『若い女』でも大差はない     と思っているのです。」     (英語欽定訳聖書では、「おとめ」は「virgin」になっている。)   「インマヌエル」という名称の意味は何か     この名称は、この地上におけるエホバの使命を表す称号でもある。『新約聖書』     には、この言葉のへプライ語の意味の正確な解釈が書かれている。マタイによる     福音書には次のように記録されている。「すべてこれらのことが起ったのは、主     が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、『見よ、おと     めがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろ     う。』これは、『神われらと共にいます』という意味である。」 15)その子が悪を捨て、善を選ぶことを知るころになって、凝乳と、蜂蜜とを食べる。   【解説】   この節はニーファイ第2書17章では次のようになっている。     その子はバターと蜂蜜を食べて、     悪を退け、善を選ぶことを知るようになる。   凝乳(ぎょうにゅう) = チーズ、バター 16)それはこの子が悪を捨て、善を選ぶことを知る前に、あなたが恐れているふたりの王   の地は捨てられるからである。   【解説】   この節はニーファイ第2書17章では次のようになっている。     その子が悪を退け、善を選ぶことを知るようになる前に、     あなたが忌み嫌った地は二人の王から捨てられる。 17)主はエフライムがユダから分れた時からこのかた、臨んだことのないような日をあな   たと、あなたの民と、あなたの父の家とに臨ませられる。それはアッスリヤの王であ   る」。   【解説】   この節はニーファイ第2書17章では次のようになっている。     主は、あなたと、あなたの民と、あなたの父の家に、     エフライムがユダから離れた日以来まだ臨んだことのない日をもたらされる。     それはアッスリヤの王である。』   エフライムがユダから分れた時とは、王国が分裂した紀元前950年頃。   差し迫った危険はアッスリヤの脅威であるということがアハズに告げられた。 18)その日、主はエジプトの川々の源にいる、はえを招き、アッスリヤの地にいる蜂を呼   ばれる。   【解説】   この節はニーファイ第2書17章では次のようになっている。     さて、その日、主はエジプトの果ての地にいるあぶと、     アッスリヤの地にいる蜂を呼ばれる。   呼ぶ = 口笛で呼ばれる、合図する、呼び出す 19)彼らはみな来て、険しい谷、岩の裂け目、すべてのいばら、すべての牧場の上にとど   まる。   【解説】   この節はニーファイ第2書17章では次のようになっている。     すると、彼らはやって来て、荒れた谷や岩の裂け目に、     またすべてのいばらと、すべての潅木の上にとどまる。 20)その日、主は大川の向こうから雇ったかみそり、すなわちアッスリヤの王をもって、   頭と足の毛とをそり、また、ひげをも除き去られる。   【解説】   この節はニーファイ第2書17章では次のようになっている。     その同じ日に、主は雇い入れたかみそり、すなわち川の向こうの者、     アッスリヤの王によって、頭と足の毛をそり、またひげもそり落とす。   外国からの侵入者によって住民が少なくなるということ。 21)その日、人は若い雌牛一頭と羊二頭を飼い、   【解説】   この節はニーファイ第2書17章では次のようになっている。     そしてその日、一人の男が若い雌牛1頭と羊2頭を飼う。   わずかな者だけが自力で生き残るということ。 22)それから出る乳が多いので、凝乳を食べることができ、すべて国のうちに残された者   は凝乳と、蜂蜜とを食べることができる。   【解説】   この節はニーファイ第2書17章では次のようになっている。     そして、これらは乳をたくさん出すので、彼はバターを食べる。     その地に残された者は皆、バターと蜂蜜を食べる。   凝乳(ぎょうにゅう) = チーズ、バター 23)その日、銀一千シケルの価ある千株のぶどうの木のあった所も、ことごとくいばらと、   おどろの生える所となり、   【解説】   この節はニーファイ第2書17章では次のようになっている。     そしてその日に、     かつて銀1000枚に値した1000株のぶどうの木のあった所は、     すべていばらとおどろの生える所となる。   シケル = 約11グラムの重さ、あるいはお金の単位金銀硬貨一枚   おどろ = みだれて生えているとげのある植物 24)いばらと、おどろとが地にはびこるために、人々は弓と矢をもってそこへ行く。   【解説】   この節はニーファイ第2書17章では次のようになっている。     全地がいばらとおどろになるので、人々は弓と矢を持ってそこへ行く。 25)くわをもって掘り耕したすべての山々にも、あなたは、いばらと、おどろとを恐れて、   そこへ行くことができない。その地はただ牛を放ち、羊の踏むところとなる。   【解説】   この節はニーファイ第2書17章では次のようになっている。     しかし、鍬で掘り耕されたすべての丘は、     いばらとおどろの生える恐れがない。     そこは牛を放す所、小さな家畜の踏む所となる。」   小さな家畜 = 羊、あるいは、やぎ   18-25節     エジプトとアッスリヤの争いは最終的にはユダをめぐって決着がつけられる定め     にあった。主は侵略勢力を起こして、アッスリヤ(はえ、蜂、雇ったかみそり)     はイスラエル王国を切り倒し、ユダを手も足も出ない孤立した状態に追いやる。
第8章   【解説】   ユダ王国近辺の戦争と歴史。   真実の宗教を見定めるための勧告。   キリストはつまずきの石、妨げの岩のようである。   さえずる口寄せにではなく、主に求めよ。   律法と証に頼って導きを得よ。   引用:2ニーファイ18。   参照 「イザヤ書 英語版比較」   【セミナリー解説】   8章は、7章の続きである。イザヤはユダの民に、スリヤとイスラエル(北王国)は   アッスリヤによって滅ぼされるので、心配しないようにと言う。しかし、民はアッ   スリヤがユダをも攻撃するのではないかという新たな不安に駆られる。ユダの民はア   ッスリヤと戦うためにほかの国民と連合する「陰謀」を企てようとする(9-10節)。   しかしイザヤは、もし主を信頼するなら、主が民の守りとなり「聖所」となられると   語った(13-14節)。また、実際には神の啓示を受けていない人々の言葉に耳を傾け   ないように警告した。   【インスティテュート解説】   アッスリヤの侵攻が迫っていることに対する警告   この章には、第7章から始まった歴史的な出来事が続けて書かれている。預言者イザ   ヤは再び、同盟を結んではならないとユダに警告している。それは、イザヤが預言し   ているように、効果のないものだからである。インマヌエル(「神われらと共にいま   す」)と呼ばれるメシヤが降臨されるという約束が彼らのためにやがて現実のものと   なる。アッスリヤの侵攻もやがて始まるが、ユダはなお生き残る。イザヤは結びとし   て、ユダは偽りの教えや慣行のために自分たちに啓示された律法や証から離れると警   告している。 01)主はわたしに言われた、「一枚の大きな札を取って、その上に普通の文字で、『マヘ   ル・シャラル・ハシ・バズ』と書きなさい」。   【解説】   この節はニーファイ第2書18章では次のようになっている。     「さらに、主の言葉がわたしに言われた。     『大きな巻き物を1巻取り、     それに普通の文字でマヘル・シャラル・ハシ・バズと書きなさい。』   マヘル・シャラル・ハシ・バズ = ヘブライ語で「破滅が迫っている」の意   「マヘル・シャラル・八シ・バズ」とはだれか     これは『聖書』中に登場する最も長い固有名詞である。ヘブライ語では、この名     前はユダに対する警告のメッセージの意味がある。それは「速やかな分捕品、急     速な戦利品」という意味である。主はこの預言者に、新しく生まれた男の子にこ     の名前を付けよと命じられた。この息子とシャル・ヤシュブには、イザヤの言葉     を劇的に伝えるために、このような預言的な名前が付けられたのである。 02)そこで、わたしは確かな証人として、祭司ウリヤおよびエベレキヤの子ゼカリヤを立   てた。   【解説】   この節はニーファイ第2書18章では次のようになっている。     わたしは、証言する確かな証人として、     祭司ウリヤとエベレキヤの子のゼカリヤをわたしのために立てた。 03)わたしが預言者の妻に近づくと、彼女はみごもって男の子を産んだ。その時、主はわ   たしに言われた、「その名をマヘル・シャラル・ハシ・バズと呼びなさい。   【解説】   この節はニーファイ第2書18章では次のようになっている。     わたしが女預言者のもとに行くと、彼女は身ごもって男の子を産んだ。     すると、主はわたしに言われた。     『この子の名をマヘル・シャラル・ハシ・バズと呼びなさい。   女預言者 = イザヤの妻 04)それはこの子がまだ『おとうさん、おかあさん』と呼ぶことを知らないうちに、ダマ   スコの富と、サマリヤのぶんどり品とが、アッスリヤ王の前に奪い去られるからであ   る」。   【解説】   この節はニーファイ第2書18章では次のようになっている。     それは、見よ、     この子がまだ「お父さん、お母さん」と呼ぶことを知らないうちに、     ダマスコの富とサマリヤの分捕り品が、     アッスリヤの王のもとに運び去られるからである。』   その子が口をきくようになる前に、アッスリヤはイスラエルから人々を追放する。 05)主はまた重ねてわたしに言われた、   【解説】   この節はニーファイ第2書18章では次のようになっている。     主はまた重ねてわたしに言われた。 06)「この民はゆるやかに流れるシロアの水を捨てて、レヂンとレマリヤの子の前に恐れ   くじける。   【解説】   この節はニーファイ第2書18章では次のようになっている。     『この民は緩やかに流れるシロアの水を捨てて、     レヂンとレマリヤの子とを喜んでいる。   シロアの水 = きれいな水 = 福音     エルサレムの水の供給源   シロアの水を捨てる     エルサレムを捨てる、主を拒む 07)それゆえ見よ、主は勢いたけく、みなぎりわたる大川の水を彼らにむかってせき入れ   られる。これはアッスリヤの王と、そのもろもろの威勢とであって、そのすべての支   流にはびこり、すべての岸を越え、   【解説】   この節はニーファイ第2書18章では次のようになっている。     それゆえ見よ、主は勢いと水量のある川の水、     すなわちアッスリヤの王と彼のすべての栄光を彼らのうえにもたらす。     それはすべての水路にあふれ、すべての堤を越え、   大川の水 = アッシリアが攻めてくる。   まず北のイスラエル王国に。 08)ユダに流れ入り、あふれみなぎって、首にまで及ぶ。インマヌエルよ、その広げた翼   はあまねく、あなたの国に満ちわたる」。   【解説】   この節はニーファイ第2書18章では次のようになっている。     ユダに流れ込み、あふれみなぎって、首にまで達する。     おお、インマヌエルよ、彼の翼は伸びて、あなたの国の広がりのすべてを覆う。』   あなたの国 = キリストが生まれる国   アッスリヤはユダにも進攻する。   ユダは「インマヌエル = 神様はともにいます = キリスト」の生まれる土地なので   守られる。 09)もろもろの民よ、打ち破られて、驚きあわてよ。   遠き国々のものよ、耳を傾けよ。   腰に帯して、驚きあわてよ。   腰に帯して、驚きあわてよ。   【解説】   この節はニーファイ第2書18章では次のようになっている。     おお、民よ、連合せよ。それでもあなたがたは打ち砕かれる。     遠くの国々のすべての者よ、耳を傾けよ。     腰に帯をせよ。それでもあなたがたは打ち砕かれる。     腰に帯をせよ。それでもあなたがたは打ち砕かれる。   連合 = 同盟を結ぶこと 10)ともに計れ、しかし、成らない。   言葉を出せ、しかし、行われない。   神がわれわれと共におられるからである。   【解説】   この節はニーファイ第2書18章では次のようになっている。     ともに諮れ。しかし、それは無に帰する。     言葉を出せ。しかしそれは行われない。     神がわたしたちとともにおられるからである。   ユダ(インマヌエルの地)は守られる 11)主は強いみ手をもって、わたしを捕え、わたしに語り、この民の道に歩まないように、   さとして言われた、   【解説】   この節はニーファイ第2書18章では次のようになっている。     主は強い御手をもって次のようにわたしに語り、     この民の道を歩まないようにわたしを諭された。 12)「この民がすべて陰謀ととなえるものを陰謀ととなえてはならない。彼らの恐れるも   のを恐れてはならない。またおののいてはならない。   【解説】   この節はニーファイ第2書18章では次のようになっている。     『この民が「同盟を」と言うすべての相手に、     あなたがたは「同盟を」と言ってはならない。     彼らの恐れるものを恐れてはならない。     おののいてはならない。   ユダは自らの安全を得るために他国との密約に頼ってはならないということ 13)あなたがたは、ただ万軍の主を聖として、彼をかしこみ、彼を恐れなければならない。   【解説】   この節はニーファイ第2書18章では次のようになっている。     万軍の主を聖なる方としてたたえ、     その方をあなたがたの恐れとし、     また、あなたがたのおののきとしなさい。   神の前に敬虔であり謙遜であること   9-13節     アハズはアッスリヤといかなる同盟を結んではならないし、また自国の安全を確     保するために他と陰謀を巡らせてはならないと警告されていた。主こそが人々の     避け所となり、人々が恐れ(尊敬)を抱くべき御方であった。 14)主はイスラエルの二つの家には聖所となり、またさまたげの石、つまずきの岩となり、   エルサレムの住民には網となり、わなとなる。   【解説】   この節はニーファイ第2書18章では次のようになっている。     そうすれば、その方は聖所となる。     しかし、イスラエルの両家にはつまずきの石となり、妨げの岩となる。     また、エルサレムに住む者には、わなとなり、落とし穴となる。   イエスはわたしたちが堅固な基を建てるときの土台となる岩でありながら、   従わない人々には、「さまたげの石」および「つまずきの岩」でもあられる。   「さまたげの石、つまずきの岩」     メシヤは聖典の中で「石」、あるいはまた「岩」と呼ばれることがある。預言者     がここでそういう表現を用いたのは、救い主がイスラエルやユダの不信仰の者に     とって妨げとなりつまずきとなって拒まれることを表すためである。『新約聖書』     の記録者たちもこの聖句を引用して、大部分のユダヤ人が救い主を拒んだことに     ついて書いている。(ローマ9:33;ペテロ2:8)。 15)多くの者はこれにつまずき、かつ倒れ、破られ、わなにかけられ、捕えられる」。   【解説】   この節はニーファイ第2書18章では次のようになっている。     そして彼らの多くがつまずき、倒れ、砕かれ、わなにかかり、捕らえられる。』 16)わたしは、あかしを一つにまとめ、教をわが弟子たちのうちに封じておこう。   【解説】   この節はニーファイ第2書18章では次のようになっている。     証を束ね、律法をわたしの弟子たちの中に封じておきなさい。   律法 = 教え、教義 17)主はいま、ヤコブの家に、み顔をかくしておられるとはいえ、わたしはその主を待ち、   主を望みまつる。   【解説】   この節はニーファイ第2書18章では次のようになっている。     わたしは、ヤコブの家から御顔を隠しておられる主を待ち望む。     わたしは主を待ち受ける。   13-17節はメシヤに関連したもの。 18)見よ、わたしと、主のわたしに賜わった子たちとは、シオンの山にいます万軍の主か   ら与えられたイスラエルのしるしであり、前ぶれである。   【解説】   この節はニーファイ第2書18章では次のようになっている。     見よ、わたしと、主がわたしに賜わった子供たちは、     シオンの山に住んでおられる万軍の主からイスラエルに与えられた     しるしであり、不思議である。   イザヤと息子たちの名前にはそれぞれ、「エホバは救われる」 「残りの者は帰る」   「速やかに奪い取る」という意味がある。ユダの民に対するメッセージが含まれてい   る。イザヤとその息子たちに会ったり、その名前を聞いたりする者は、だれにもその   名前を通じて特別なメッセージが与えられるのである。それは民を警告するしるしで   あり、証であった。 19)人々があなたがたにむかって「さえずるように、ささやくように語る巫子および魔術   者に求めよ」という時、民は自分たちの神に求むべきではないか。生ける者のために   死んだ者に求めるであろうか。   【解説】   この節はニーファイ第2書18章では次のようになっている。     人々があなたに、『霊媒に求めよ、さえずりささやく口寄せに求めよ』と言うとき、     民は死者から知らせを受けようとする生者のために、     自分たちの神に求めるべきではないだろうか。   霊媒、口寄せ = 魔術師、占い師   死者から知らせを受けようとする生者のために = 死者に代わって   巫子や魔術者に対する警告     「巫子」という言葉は、古い時代に使われた原語(へプライ語)の意味を正確に     伝えていない。へプライ語の「ob」という語は「皮の瓶または袋」という意味で     ある。この道具は魔術に携わる者が使うもので、その魔術とは死者と語り合える     ふりをして人を欺く技術である。それは腹話術のようなものであって、「先立っ     た霊たち」の言葉やメッセージがその袋や穴から伝えられるというのである。何     か小鳥のようにさえずったり、ささやいたりするというのは、先立った霊たちを     呼び出したり、いかにもそれらしく言葉を伝えたりする目的で行われるものであ     る。主はイスラエルやユダに対してその歴史の初めから、そうしたものに惑わさ     れてはならないと警告を与えてこられた。ジョセフ・フィールディング・スミス     大管長は、こうした古代の慣行に注解を加えて、今日でも通用する次のような警     告を与えた。     「どのようなものであれ、主が与えられた指示に反する方法で情報を求めること     は、罪である。主は、イスラエルが受け継ぎの地にいるとき、明確な指示を与え     られた。それは、啓示を求める対象は主であって、当時まだその地を占領してい     た異邦人の国々にはびこっている方法を使ってはならないというものであった。     『聖書』全体を通じ、『新約聖書』でも『旧約聖書』でも、主とその預言者たち     は、民の心が主から『巫女』に向いたときにはいつでも遺憾の意を表している。」 20)ただ教とあかしとに求めよ。まことに彼らはこの言葉によって語るが、そこには夜明   けがない。   【解説】   この節はニーファイ第2書18章では次のようになっている。     律法と証に求めなさい。     もし彼らがこの言葉に従って語らないとすれば、     それは彼らの中に光がまったくないためである。   彼ら = 霊媒や口寄せのこと(第21-22節も同じ) 21)彼らはしえたげられ、飢えて国の中を経あるく。その飢えるとき怒りを放ち、自分た   ちの王、自分たちの神をのろい、かつその顔を天に向ける。   【解説】   この節はニーファイ第2書18章では次のようになっている。     彼らはそこでつらい目に遭い、飢えに苦しむ。     そして、彼らは飢えるといらだって、自分たちの王と神をのろって上を見る。   イスラエルは聞き従わないので囚われの身となる 22)また地を見ると、見よ、悩みと暗きと、苦しみのやみとがあり、彼らは暗黒に追いや   られる。   【解説】   この節はニーファイ第2書18章では次のようになっている。     また彼らが地を見ると、災難と暗闇と苦しみの闇があり、     彼らは暗闇に追いやられる。」
第9章   【解説】   パレスチナおよび近辺の歴史。   不義のイスラエルがアッシリヤによって滅ぼされる記述は、   再臨のときにすべての邪悪な国民が滅ぼされることを象徴している。   イザヤ、メシヤについて語る。   暗闇の中にいる人々は大きな光を見る。   わたしたちのために、一人のみどりごが生まれる。   そのみどりごは平和の君となり、ダビデの王座に着いて治める。   引用:2ニーファイ19。   参照 「イザヤ書 英語版比較」   【セミナリー解説】   メシヤ降誕の預言   9章には、イエス・キリストの降誕についての、もう一つの有名な預言がある。1節は、   アッスリヤのような国が北から攻撃して来た場合、最初に攻撃を受ける地域(イスラ   エル〔北王国〕の北部にある「ガリラヤ」と呼ばれる地域)について述べている。イ   ザヤはこの地域は絶えず苦難を受けるわけではないと預言した。「彼らの負っている   くびき」を折り(4節)、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」   (6節)と呼ばれる一人の子供が誕生し、神がその地の人々に光と喜びをお送りにな   ると約束した。これらの称号はすべて王の王であるメシヤを指しており、この預言は、   イエスが地上での務めの間ほとんどの時期を過ごされたガリラヤで、最もよく成就し   た(マタイ4:12-16)。また人が主を王として受け入れ、永遠の命の祝福を受ける資格   を得ていくことにより、イエス・キリストの統治は永遠に広がり続け、この預言も成   就し続ける(7節)。 01)しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリ   の地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦   人のガリラヤに光栄を与えられる。   【解説】   この節はニーファイ第2書19章では次のようになっている。     「しかし、その闇は、初め主がゼブルンの地とナフタリの地を少しばかり苦しめ、     後にそれよりも激しく、ヨルダンの向こうの紅海の道沿いにもろもろの国民の住む     ガリラヤを苦しめられたときの、その苦しみのようではない。   北の部族は捕虜として暗い日々を送っていたが、暗闇(背教の状態)を歩く人々も、   やがて大いなる光(キリスト)を見るようになる。ナザレはゼブルンの地にある。   1-7節 メシヤ降臨の約束が再確認される     イスラエル(エフライム)とスリヤの同盟に対抗して侵攻を始めたアッスリヤは、     まずダマスコを攻め、後にガリラヤと呼ばれるイスラエルの北部地域を陥落させ     た。イスラエルのほかの部分や南のユダに対してもこうした侵攻と威嚇が仕掛け     られたが、それでもイザヤはメシヤの降臨について預言し、それは光の降臨だと     した。ゼブルンとナフタリの2部族が受け継いだ地は、北部イスラエルつまりガ     リラヤにあった。ここでイエスは育てられ、生涯の御業の大部分を行われたので     ある、カイルとデリッチの翻訳を読むと、この一節で約束されていることがもっ     とはっきりと見えてくる。「今苦しみのある地はいつまでも暗いままではない。     まず、ゼブルンの地とナフタリの地に辱めをもたらしたが、ついには海沿いの道、     ヨルダンの向こうの地、異邦人の地には誉れをもたらす。」さらに次のような説     明も加えている。「ユダの不信仰な民が夜の闇に落ち夜明けがないとあるが、そ     の理由は、朝は確かに来るものの、その光は最初はユダの地ではなく、ほかの国     の地を照らすということである。つまり、現在苦しみの状態にある地が暗闇のま     まいつまでもとどまることはない、ということである。神は一度深い辱めを与え     られたこの地にも、徐々に誉れをもたらされる。栄光の高さは辱めの深さに比例     することであろう。」マタイは、イザヤの預言の成就として、メシヤがガリラヤ     の地方に住まわれることを予見していた。 02)暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。   暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。   【解説】   この節はニーファイ第2書19章では次のようになっている。     暗闇の中を歩いていた人々は大きな光を見た。     死の陰の地に住む者たちのうえに光がさした。   暗闇 = 背教と捕囚   光 = 救い主 03)あなたが国民を増し、その喜びを大きくされたので、   彼らは刈入れ時に喜ぶように、   獲物を分かつ時に楽しむように、   あなたの前に喜んだ。   【解説】   この節はニーファイ第2書19章では次のようになっている。     あなたは民を増やし、喜びを増し加えられた。     彼らは刈り入れのときに喜ぶように、     また男たちが分捕り品を分けるときに喜ぶように、     あなたの前で喜ぶ。 04)これはあなたが彼らの負っているくびきと、   その肩のつえと、しえたげる者のむちとを、   ミデアンの日になされたように折られたからだ。   【解説】   この節はニーファイ第2書19章では次のようになっている。     あなたが彼の重荷のくびきと、     彼の肩の棒と、     彼を虐げる者の鞭を折られたからだ。   くびき = 牛馬の頸の後ろにかける横木、自由を束縛するもの   ミデアンの日 = 士師7:19-23参照 05)すべて戦場で、歩兵のはいたくつと、   血にまみれた衣とは、   火の燃えくさとなって焼かれる。   【解説】   この節はニーファイ第2書19章では次のようになっている。     戦士の戦いには、ことごとく騒がしい音と血にまみれた衣が伴うが、     しかしこれは、焼き払いと火の薪によって行われる。   すべて戦場で焼かれる     預言者は、キリストの降臨について書かれたこの章で、キリストの最初の降臨に     ついては「大いなる光」(2節)という言葉を用い、キリストの再臨に伴う火に     よる清めと滅びに関しては「焼かれる」(5節)という表現を用いている。 06)ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、   ひとりの男の子がわれわれに与えられた。   まつりごとはその肩にあり、   その名は、「霊妙なる議士、大能の神、   とこしえの父、平和の君」ととなえられる。   【解説】   この節はニーファイ第2書19章では次のようになっている。     わたしたちのために一人のみどりごが生まれる。     わたしたちのために一人の男の子が与えられる。     主権は彼の肩にあり、     その名は霊妙、助言者、力ある神、     永遠の父、平和の君ととなえられる。   みどりご = 生まれたばかりの子供、あるいは3歳ぐらいまでの幼児   霊妙(れいみょう) = 人知でははかり知れないほどに、奥深くすぐれていること             英語では wonderful。             モルモン書では、修飾語でなく、単独で用いられる。   議士(ぎし) = 英語では counselor。          モルモン書では「助言者」となっている。          原語のヘブライ語は「ヨーエツ」で「忠告する者、諭す者」   助言者 = 助言を与えることのできる人物   ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、その名は、霊妙なる議士、大能の神、   とこしえの父ととなえられる     ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は、救い主の様々な称号について次     のように書いている。     「イザヤはキリストについて『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の     君」と書いている。     こうした称号や、イエスが創造主であって、あらゆるものがイエスによって造ら     れたと言われていることは、あまり知識のない人にはつまずきの石となっている。     つまりこういう疑問である。「もしイエスがマリヤから生まれる前には骨肉を持     たない体だったとしたら、いかなる方法で霊としてこれらの業を完成させること     ができたのだろうか。」イエスは、ベツレヘムで生まれる前には、骨肉の体を持     っておられなかった。この点について主はヤレドの兄弟に完壁な説明をされた。     その疑問に対する答えとしては、イエスがこうしたすばらしい業を行うことがで     きたのは、イエスが生まれる前に父がお授けになった栄光のゆえであり、またそ     のときイエスは神であったからである、と言うしかあるまい。1916年に大管長会     と十二使徒評議会から出された書簡の中で、この件に関する明確な説明が与えら     れている。この書簡から少し抜き書きしてみよう。     『いかなる意味であれ、神が天地の父であるという聖文の言葉は、神が造り主で     あり、組織者であり、天地の創造主であられるという意味であると理解すべきで     ある。この意味においては、どの場合の前後関係から見ても分かるように、イエ     ス・キリストでありエロヒムの子でもあられるエホバは「御父」とも、さらには     「天地のまことの永遠の父」とも呼ばれている。     また似たような意味で、イエス・キリストは「とこしえの父」と呼ばれている。     既述の「とこしえ」や「永遠」といった叙述的な称号も、まったく同じ意味を持     っている。     エホバという名でも知られているイエス・キリストが、天地創造の業において、     エロヒムと呼ばれる御父の第一の助手であった。創造主であるイエス・キリスト     は既述の意味において、幾度となく天地の父と呼ばれている。イエスの創造には     永遠に及ぶ特質がある。その意味でイエスが天地の永遠の父と呼ばれるのはきわ     めて正しいことである。』」   平和の君     メシヤの降誕のときに現れた御使いたちは、主の降臨とともに「地の上では平和     がある」と宣言した。J・ルーベン・クラーク・ジュニア副管長は、この重要な     称号とその意味を解説して次のように言っている。     「主が『平和の君』として降誕される数世紀前に預言されていたとおり、天使た     ちは主の降臨を宣言した。     現代の人間の中には、時として、イエスの使命は戦争を全廃することにあったと、     的を外れた考えを持つ人がいる。また、地上はまだ戦争でのろわれているのだか     ら、キリストは使命を果たさず、キリスト教も地に落ちたと叫ぶ冷笑家もいる。     しかし、キリストは御自分の十二使徒たちを送り出すときにこう言われた。『地     上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投     げ込むためにきたのである。」キリストは確かに平和を宣言されたが、これは永     遠の義に基づく平和であって、罪に対してはこの世においても永遠の世において     も敵となるものである。義と罪の間には、いかなる形を取るにせよ、絶えざる戦     いしか存在し得ない。それは、一人の人間の内部のことであれ、人間同士のこと     であれ、国家間のことであれ、すべて同じである。この戦いはキリストの剣であ     る。それがいかなる形のものであれ、この戦いは、罪が取り除かれ、キリストが     あらゆる人間をその統治の下に置くまで、終わることはあり得ない。義はそれが     存在するかぎりどこでも平和である。しかし、罪はそれ自体、それがどこに存在     するにしろ、戦いである。」 07)そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、   ダビデの位に座して、その国を治め、   今より後、とこしえに公平と正義とをもって   これを立て、これを保たれる。   万軍の主の熱心がこれをなされるのである。   【解説】   この節はニーファイ第2書19章では次のようになっている。     ダビデの王座にも、また彼の王国においても、     彼の主権と平和とは増し加わって限りなく、     これから後とこしえに公平と公正によって王国は整えられて、確立される。     万軍の主の熱意がこれを行うのである。   1-7節はメシヤに関連したもの。 08)主はひと言をヤコブにおくり、   これをイスラエルの上にくだされる。   【解説】   この節はニーファイ第2書19章では次のようになっている。     主はヤコブに言葉を送られ、     それはイスラエルに及んだ。 09)すべてこの民、   エフライムとサマリヤに住む者とは知るであろう。   彼らは高ぶり、心おごって言う、   【解説】   この節はニーファイ第2書19章では次のようになっている。     すべての人は知るであろう。     エフライムやサマリヤに住む者でさえ高ぶりおごった心でこう言うのを。 10)「かわらがくずれても、   われわれは切り石をもって建てよう。   くわの木が切り倒されても、   われわれは香柏をもってこれにかえよう」と。   【解説】   この節はニーファイ第2書19章では次のようになっている。     『れんがが崩れても切り石で建てよう。     いちじくの木が切り倒されても杉の木でそれに代えよう。』   いちじく = クワ科の落葉高木。高さ約 4 メートル。実は熟すと暗紫色にな         り、甘く、生食のほかジャムなどにする 11)それゆえ、主は敵を起して彼らを攻めさせ、   そのあだを奮い立たせられる。   【解説】   この節はニーファイ第2書19章では次のようになっている。     それゆえ、主はレヂンの敵を彼に対して立て、     彼の敵を連合される。 12)東にスリヤびとあり、西にペリシテびとあり、   彼らは大口をあけてイスラエルを食い尽す。   それでも主の怒りはやまず、   なおも、そのみ手を伸ばされる。   【解説】   この節はニーファイ第2書19章では次のようになっている。     前方にスリヤ人がおり、後方にはペリシテ人がいて、     彼らは大口を開けてイスラエルを食い尽くす。     それでも主の怒りは解かれず、     主の手は伸ばされたままである。 13)しかもなお、この民は自分たちを撃った者に帰らず、   万軍の主を求めない。   【解説】   この節はニーファイ第2書19章では次のようになっている。     人々が自分たちを打つ御方に立ち返らず、     また万軍の主を求めないからである。 14)それゆえ、主はイスラエルから頭と尾と、   しゅろの枝と葦とを一日のうちに断ち切られる。   【解説】   この節はニーファイ第2書19章では次のようになっている。     それゆえ、主は1日のうちに、     イスラエルから頭と尾、また枝と葦を断ち切られる。   しゅろ = ヤシ科の常緑高木。高さは5メートル以上になり、幹は直立        し、枝がなく、麻のような毛で覆われる。頂上に群生する葉は        長い柄をもち、手のひら状で大きい。   葦 = イネ科の多年草。根茎は地中をはい、沼や川の岸に大群落を      つくる。高さは2〜3メートルになり、茎は堅く、円柱形で、細長      い葉が互生する。 15)その頭とは、長老と尊き人、   その尾とは、偽りを教える預言者である。   【解説】   この節はニーファイ第2書19章では次のようになっている。     その頭とは長老であり、     その尾とは偽りを教える預言者である。 16)この民を導く者は、これを迷わせ、   彼らに導かれる者は、のみ尽される。   【解説】   この節はニーファイ第2書19章では次のようになっている。     この人々を導く者たちは民を誤らせ、     彼らから導きを受ける者は滅びる。 17)それゆえ、主はその若き人々を喜ばれず、   そのみなしごと寡婦とをあわれまれない。   彼らはみな、不信仰であって、悪を行う者、   すべての口は愚かな事を語るからである。   それでも主の怒りはやまず、   なおも、そのみ手を伸ばされる。   【解説】   この節はニーファイ第2書19章では次のようになっている。     それゆえ、主は彼らの若い男たちを喜ばず、     父のいない子供ややもめに憐れみをかけられない。     彼らはことごとく偽善者であり、悪を行う者であって、     すべての口が愚かなことを語るからである。     それでも主の怒りは解かれず、     主の手は伸ばされたままである。   寡婦(かふ) = 夫に死に別れて再婚しないでいる女性。やもめ。未亡人 18)悪は火のように燃え、   いばらと、おどろとを食い尽し、   茂りあう林を焼き、煙の柱となって巻きあがる。   【解説】   この節はニーファイ第2書19章では次のようになっている。     悪は火のように燃え盛る。     火はいばらとおどろを焼き尽くし、     森の茂みを燃え立たせ、茂みは煙の柱のように巻き上がる。   おどろ = みだれて生えているとげのある植物 19)万軍の主の怒りによって地は焼け、   その民は火の燃えくさのようになり、   だれもその兄弟をあわれむ者がない。   【解説】   この節はニーファイ第2書19章では次のようになっている。     万軍の主の激しい怒りによって地は暗くなり、     民は火の薪のようになるが、     だれ一人その兄弟を救う者はいない。 20)彼らは右手につかんでも、なお飢え、   左手で食べても飽くことがない。   おのおのその隣り人の肉を食う。   【解説】   この節はニーファイ第2書19章では次のようになっている。     彼は右手で引ったくってもなお飢え、     左手で食らっても満たされることはない。     彼らは皆、各々自分の腕の肉を食らうようになる。 21)マナセはエフライムを、   エフライムはマナセを食い、   彼らは共にユダを攻める。   それでも主の怒りはやまず、   なおも、そのみ手を伸ばされる。   【解説】   この節はニーファイ第2書19章では次のようになっている。     マナセはエフライムを、     エフライムはマナセを攻め、     両者はともにユダを攻める。     それでも主の怒りは解かれず、     主の手はなお伸ばされたままである。」   8-21節は、イスラエルと呼ばれた北の十部族への警告であった。
第10章   【解説】   パレスチナおよび近辺の歴史。   アッスリヤの滅亡は、主の再臨の時の悪人の滅亡の予型である。   主が再び来られた後に残る人々はわずかである。   その日には、ヤコブの残りの者が帰って来る。   アッスリヤは不信仰なイスラエルを罰する。しかし、アッスリヤも滅びる。   引用:2ニーファイ20。   参照 「イザヤ書 英語版比較」   【セミナリー解説】   破壊者は滅ぼされる   9章の中で、主は北王国にいるイスラエルの子らがアッスリヤに征服されることを明   らかになさった。またイザヤの預言は、アッスリヤがユダ王国の一部も滅ぼすことを   ほのめかしているように思われる。なぜ主はアッスリヤのような邪悪で信仰のない民   が、御自分の聖約の民を征服するのを阻止されないのだろうか。10章で、主はこの質   問に答えておられる。主は、イスラエルがあまりに邪悪で偽善的であったために、も   う民を守らないと言われた。しかし10章には、アッスリヤ人もまた悪事のために罰を   受けるとはっきり述べられている。神はまだ「油注がれた者」であるメシヤの降誕に   ついて約束を成就しておられなかったので、ユダがアッスリヤによって完全に滅ぼさ   れるのをお許しにならなかった(27-34節)。   【インスティテュート解説】   アッスリヤすなわち邪悪な者の没落   イスラエルの滅亡を預言した直後に、イザヤはアッスリヤの行く末についても預言を   した。イスラエルとユダに対抗して勝利を収めたとしても、それはこの異邦人国家が   義にかないかつ高貴な国であったからであるなどという結論を下す者が一人としてい   ないようにするためである。この預言が詳細に至るまで成就したことは、歴史的に証   明されている。イザヤは、アッスリヤの派兵が勝利を収めることについて多少述べ   (9節)、最終的にはユダに対する侵攻が成功のうちに終わると預言し、アッスリヤの   手に落ちるユダの多くの町の名前すら挙げている(28-32節)。イスラエルとアッスリ   ヤがともに滅びることについては、正確に書かれている(15-19節)。イスラエルとア   ッスリヤが滅びることは、いつの時代であっても邪悪な者は滅びるということの象徴   であって、その預言は末の日にも当てはまるのである。 01)わざわいなるかな、   不義の判決を下す者、暴虐の宣告を書きしるす者。   【解説】   この節はニーファイ第2書20章では次のようになっている。     「不義な法令を制定する者と、自分の定めた圧制の法を書き記す者は災いである。 02)彼らは乏しい者の訴えを引き受けず、   わが民のうちの貧しい者の権利をはぎ、   寡婦の資産を奪い、みなしごのものをかすめる。   【解説】   この節はニーファイ第2書20章では次のようになっている。     彼らは乏しい者を公平から遠ざけ、     わたしの民の中の貧しい者から権利を奪い、     やもめを食い物にし、父のいない子供から略奪する。   寡婦(かふ) = 夫に死に別れて再婚しないでいる女性。やもめ。未亡人 03)あなたがたは刑罰の日がきたなら、   何をしようとするのか。   大風が遠くから来るとき、   何をしようとするのか。   あなたがたはのがれていって、   だれに助けを求めようとするのか。   また、どこにあなたがたの富を残そうとするのか。   【解説】   この節はニーファイ第2書20章では次のようになっている。     あなたがたは、刑罰の日に遠くから荒廃が来るとき、どうするつもりか。     あなたがたは、だれのもとに逃れて助けを求めるつもりか。     自分の栄光をどこに残そうとするのか。   刑罰 = 罰   1-4節   大風が来るとわかっているとき、何をするか。   災いがくるが、旗となり輝かせ、シオンのステークに逃れる。 04)ただ捕われた者の中にかがみ、   殺された者の中に伏し倒れるのみだ。   それでも主の怒りはやまず、   なおも、そのみ手を伸ばされる。   【解説】   この節はニーファイ第2書20章では次のようになっている。     わたしがいなかったら、彼らは囚われた者の中にかがみ、     殺された者の中に伏し倒れる。     それでも主の怒りはやまず、     主の手は伸ばされたままである。 05)ああ、アッスリヤはわが怒りのつえ、   わが憤りのむちだ。   【解説】   この節はニーファイ第2書20章では次のようになっている。     『おお、アッスリヤ人よ、わたしの怒りの鞭よ。     彼らの手にある杖は彼らの憤りである。 06)わたしは彼をつかわして不信の国を攻め、   彼に命じてわが怒りの民を攻め、かすめ奪わせ、   彼らをちまたの泥のように踏みにじらせる。   【解説】   この節はニーファイ第2書20章では次のようになっている。     わたしは彼を遣わして偽善の国を攻めさせる。     彼に命じてわたしの激しい怒りの民を攻めて物を奪わせ、     獲物を奪わせて、彼らをちまたの泥のように踏みにじらせる。   偽善の国 = イスラエル 07)しかし彼はそのようには思わず、   その心もそのようには考えず、   かえってその心は滅ぼすことを思い、   あまたの国々を倒そうとする。   【解説】   この節はニーファイ第2書20章では次のようになっている。     しかし、彼はそのようには思わず、     その心もそのようには考えない。     彼の心にあるのは、多くの国民を滅ぼし、     絶つことである。 08)彼は言う、「わが諸侯はみな王ではないか。   【解説】   この節はニーファイ第2書20章では次のようになっている。     彼は言う。「わたしの諸侯は皆、王ではないか。   諸侯(しょこう) = 支配階級の人々 09)カルノはカルケミシのようではないか。   ハマテはアルパデのようではないか。   サマリヤはダマスコのようではないか。   【解説】   この節はニーファイ第2書20章では次のようになっている。     カルノはカルケミシのようではないか。     ハマテはアルパデのようではないか。     サマリヤはダマスコのようではないか。 10)わが手は偶像に仕える国々に伸びた。   その彫った像はエルサレムおよび   サマリヤのものにまさっていた。   【解説】   この節はニーファイ第2書20章では次のようになっている。     わたしの手は偶像の王国を幾つも築き、     その彫像はエルサレムやサマリヤのものに勝っていた。   わたし = アッスリヤの王(第10-11節) 11)わたしはサマリヤとその偶像に行ったように、   エルサレムとその偶像に行わぬであろうか」。   【解説】   この節はニーファイ第2書20章では次のようになっている。     わたしは、サマリヤとその偶像に行ったように、     エルサレムとその偶像にも同じように行わないだろうか。」 12)主がシオンの山とエルサレムとになそうとすることを、ことごとくなし遂げられた時、   主はアッスリヤ王の無礼な言葉と、その高ぶりとを罰せられる。   【解説】   この節はニーファイ第2書20章では次のようになっている。     そして、主がシオンの山とエルサレムで御自分のすべての業を成し遂げられると、     わたしはアッスリヤの王の頑強な心の実と、彼らの誇らしげな高ぶりを罰しよう。   頑強な心の実 = 誇り高ぶること 13)彼は言う、   「わが手の力により、またわが知恵によって、   わたしはこれをなした。わたしは賢いからである。   わたしはもろもろの民の境を除き、   その財宝を奪った。   またわたしは雄牛のように、   位に座する者を引きおろした。   【解説】   この節はニーファイ第2書20章では次のようになっている。     それは、彼がこう言うからである。     「わたしは自分の手の力で、また自分の知恵でこれらのことを行った。     わたしは賢いからだ。     わたしは人々の境を移し、     彼らの宝を略奪した。     わたしは勇士のように住む者を征服した。 14)わが手は巣を取るように、   もろもろの民の富を得た。   またわたしは人々が捨てられた卵を集めるように、   全地を取り集めた。   あるいは翼を動かし、あるいは口を開き、   あるいはぺちゃくちゃ言う者もなかった」。   【解説】   この節はニーファイ第2書20章では次のようになっている。     わたしの手は、人々の富を鳥の巣のように見つけた。     また、残された卵を人が集めるように、わたしは全地を集めた。     しかし、翼を動かす者も、口を開く者も、さえずる者もなかった。」』 15)おのは、それを用いて切る者にむかって、   自分を誇ることができようか。   のこぎりは、それを動かす者にむかって、   みずから高ぶることができようか。   これはあたかも、むちが自分をあげる者を動かし、   つえが木でない者をあげようとするのに等しい。   【解説】   この節はニーファイ第2書20章では次のようになっている。     斧は、それを使って切る者に向かって、自分を誇るだろうか。     のこぎりは、それをひく者に向かって高ぶるだろうか。     それはちょうど、鞭がそれを振り上げる者に向かって、     自分を打ち振るようなものであり、     また、杖が木ではないかのように、自らを持ち上げるようなものである。   預言者は王を道具にたとえている。   この節の隠喩はすべて同じことを問いかけている。すなわち「人(例えば、   アッスリヤの王)は神に背いて栄えるだろうか」というのがその問いである。 16)それゆえ、主、万軍の主は、   その肥えた勇士の中に病気を送って衰えさせ、   その栄光の下に火の燃えるような炎を燃やされる。   【解説】   この節はニーファイ第2書20章では次のようになっている。     それゆえ、万軍の主なる主は、     彼の肥えた者たちの中に衰弱を送り、     彼の栄光の下で、火が燃えるように炎を燃え上がらせる。   彼 = アッスリヤの王(第17-19節も同じ) 17)イスラエルの光は火となり、   その聖者は炎となり、   そのいばらと、おどろとを一日のうちに焼き滅ぼす。   【解説】   この節はニーファイ第2書20章では次のようになっている。     イスラエルの光は火となり、     その聖者は炎となり、燃え上がって、     1日のうちに彼のいばらとおどろとを焼き尽くす。   おどろ = みだれて生えているとげのある植物 18)また、その林と土肥えた田畑の栄えを、   魂も、からだも二つながら滅ぼし、   病める者のやせ衰える時のようにされる。   【解説】   この節はニーファイ第2書20章では次のようになっている。     また、彼の森とよく肥えた畑の栄えを、     霊も体も二つながらに焼き尽くす。     そこで、旗手が弱り果てるように彼らもそのようになる。   アッスリヤは完全に消滅する 19)その林の木の残りのものはわずかであって、   わらべもそれを書きとめることができる。   【解説】   この節はニーファイ第2書20章では次のようになっている。     その森に残る木はわずかであって、     子供でさえも、それを書き留めることができるであろう。   森に残る木 = アッスリヤの軍隊の残りの者 20)その日にはイスラエルの残りの者と、ヤコブの家の生き残った者とは、もはや自分た   ちを撃った者にたよらず、真心をもってイスラエルの聖者、主にたより、   【解説】   この節はニーファイ第2書20章では次のようになっている。     そしてその日には、イスラエルの残りの者とヤコブの家の逃れた者は、     自分たちを打った者にもはや頼らず、イスラエルの聖者なる主に真心から頼る。   その日 = 末の日 21)残りの者、すなわちヤコブの残りの者は大能の神に帰る。   【解説】   この節はニーファイ第2書20章では次のようになっている。     残りの者、すなわちヤコブの残りの者は、力ある神に立ち返る。 22)あなたの民イスラエルは海の砂のようであっても、そのうちの残りの者だけが帰って   来る。滅びはすでに定まり、義であふれている。   【解説】   この節はニーファイ第2書20章では次のようになっている。     あなたの民イスラエルは海の砂のようであっても、     その中の残りの者だけが帰って来る。     滅びはすでに定まり、義があふれようとしている。   滅びはすでに定まり、義があふれようと = 罰が来ようとも、憐れみもある 23)主、万軍の主は定められた滅びを全地に行われる。   【解説】   この節はニーファイ第2書20章では次のようになっている。     万軍の主なる神が、すでに定められている滅びを全地に及ぼされるからである。   宣言された滅びをもたらす 24)それゆえ、主、万軍の主はこう言われる、「シオンに住むわが民よ、アッスリヤびと   が、エジプトびとがしたように、むちをもってあなたを打ち、つえをあげてあなたを   せめても、彼らを恐れてはならない。   【解説】   この節はニーファイ第2書20章では次のようになっている。     それゆえ、万軍の主なる神はこう言われる。     『おお、シオンに住むわたしの民よ、アッスリヤ人を恐れてはならない。     彼はエジプトに倣って鞭であなたを打ち、杖をあなたに向かって振り上げる。   エジプトに倣って = エジプト人がかつて行ったように 25)ただしばらくして、わが憤りはやみ、わが怒りは彼らを滅ぼすからである。   【解説】   この節はニーファイ第2書20章では次のようになっている。     しかし、もうしばらくすれば憤りはやみ、わたしの怒りが彼らを滅ぼすであろう。』 26)万軍の主は、むかしミデアンびとをオレブの岩で撃たれた時のように、彼らにむかっ   て、むちをふるわれる。またそのつえを海の上にのばし、エジプトでなされたように、   それをあげられる。   【解説】   この節はニーファイ第2書20章では次のようになっている。     万軍の主は、かつてミデアン人がオレブの岩で殺されたときのように、     彼に向かって鞭を振るわれる。     また、海の上に杖がかざされたように、     主はエジプトでの例に倣って、それを振り上げられる。   オレブの岩で撃たれた時 = 士師7:19-23参照 27)その日には、彼の重荷はあなたの肩からおり、彼のくびきはあなたの首から離れる」。   彼はリンモンから上り、   【解説】   この節はニーファイ第2書20章では次のようになっている。     そしてその日には、彼の重荷はあなたの肩から取り去られ、     彼のくびきはあなたの首から取り除かれ、     また油を注がれたために、そのくびきは砕かれる。   くびき = 牛馬の頸の後ろにかける横木、自由を束縛するもの 28)アイアテにきたり、ミグロンを過ぎ、   ミクマシでその行李をとどめ、   【解説】   この節はニーファイ第2書20章では次のようになっている。     彼はアイアテに着き、ミグロンを過ぎ、     ミクマシに荷を置いた。   行李(こうり) = 旅行に持っていく荷物。旅のしたく。また、旅。   28-32節     アッスリヤの軍隊のエルサレムへの行程が述べられ、次いで(第33-34節)彼らに     対する主の業が比喩的に述べられている。 29)渡しを過ぎて、ゲバに宿る。   ラマはおののき、サウルのギベアは逃げ去った。   【解説】   この節はニーファイ第2書20章では次のようになっている。     彼らは渡し場を過ぎてゲバに宿った。     ラマはおののき、サウルのギベアは逃げ去った。   渡し(わたし) = 人や貨物を舟で向こう岸に渡すこと。また、その舟や、舟の着く           場所。 30)ガリムの娘よ、声をあげて叫べ。   ライシよ、耳を傾けよ。   アナトテよ、彼に答えよ。   【解説】   この節はニーファイ第2書20章では次のようになっている。     おお、ガリムの娘よ、声を上げよ。     おお、哀れなアナトテよ、その声をライシに聞かせよ。 31)マデメナは逃げ去り、ゲビムの民は隠れ場を求めた。   【解説】   この節はニーファイ第2書20章では次のようになっている。     マデメナはすでに逃げ去り、ゲビムに住む者は集まって逃げ出そうとしている。 32)この日彼はノブに立ちとどまり、   シオンの娘の山、エルサレムの丘にむかって、その手を振る。   【解説】   この節はニーファイ第2書20章では次のようになっている。     しかしその日、彼はノブにとどまり、     シオンの娘の山、エルサレムの丘に向かって手を振る。 33)見よ、主、万軍の主は、   恐ろしい力をもって枝を切りおろされる。   たけの高いものも切り落され、   そびえ立つものは低くされる。   【解説】   この節はニーファイ第2書20章では次のようになっている。     見よ、万軍の主なる主は、     恐ろしい勢いで大枝を切り払われる。     丈の高いものは切り落とされ、     そびえ立つものは低くされる。 34)主はおのをもって茂りあう林を切られる。   みごとな木の茂るレバノンも倒される。   【解説】   この節はニーファイ第2書20章では次のようになっている。     主は鉄で森の茂みを切り倒され、     レバノンは力ある御方によって倒される。」
第11章   【解説】   回復。イスラエルの集合。福千年。   エッサイの株(キリスト)は、義をもって裁きを行われる。   福千年には神を知る知識が地を覆う。   主は旗を掲げて、イスラエルを集められる。   引用:2ニーファイ21。   関連:2ニーファイ30:9-15。      ジョセフ・スミス-歴史:40。教義と聖約101:26、113:1-6。   参照 「イザヤ書 英語版比較」   【セミナリー解説】   将来の出来事   イザヤ書が現代にとって重要な書である理由の一つは、イザヤの時代に起きたことの   非常に多くが、この時代にも起きるということである。わたしたちも邪悪な時代に生   きており、主は、悪人はイザヤの時代と同じように自分の行いの報いを受けると約束   しておられる。現代とイザヤの時代は細かい点で異なっているが、同じ原則が存在し   ている。11章の重要性について、預言者ジョセフ・スミスは次のように語っている。   「これらに加えて、モロナイはイザヤ書の第11章を引用し、それはまさに成就しよう   としていると言われた。」(ジョセフ・スミス-歴史1:40)主を愛し義にかなった生   活をしようと努力する人でも、これほど多くの悪事に囲まれて生活することに気落ち   するかもしれない。そのようなときには、天の御父の計画という「さらに広い視野」   を持ち、最終的には義が勝利することや、努力しているすべての子供たちを贖うため   に主が道を用意しておられることを理解することが重要である。11章は人生を「さら   に広い視野」から見たものであり、主を知り、主の御心を行おうと努力する人に主が   してくださることに関する、希望のメッセージでもある。 01)エッサイの株から一つの芽が出、   その根から一つの若枝が生えて実を結び、   【解説】   株 = 幹   芽 = 枝、小枝   この節はニーファイ第2書21章では次のようになっている。     「エッサイの株から一つの芽が出、     その根から一つの枝が生じる。   エッサイはダビデの父である。やがてイエスの誕生を迎えることになるダビデの血統   のことが紹介されている。   エッサイの株 = キリスト   芽 = キリストの一人の僕、エフライムの子孫、ヨセフの家の子孫、エッサイの子孫、      大きな力を授けられる者(ジョセフ・スミス)      ジョセフ・スミスはユダとヨセフの子孫   根 = エッサイの子孫、ヨセフの子孫、終わりの時に、旗となるために、主の民を      集めるために、神権と王国の鍵とを正当に所有する者(ジョセフ・スミス)   若枝 = キリスト   「若枝」とはだれか     ブルース・R・マッコンキー長老は、「若枝」の意味について分析し、次のよう     に書いている。     「メシヤに関する預言の多くは、最初の降臨のときにもまた再臨のときにも成就     するものである。よって、ここでその預言を検討してみる必要もあり、また、ダ     ビデに連なるメシヤについての言葉も、それが主の再臨にどう当てはまるのかと     いうことを見ていかなければならない。キリストはダビデの子であり、ダビデの     子孫である。また母マリヤを通じて偉大な王の血統を受け継ぐ者でもある。さら     に、エッサイの株とも若枝とも呼ばれる。これはダビデの若い枝という意味であ     る。こうした表現で表されるメシヤに関する預言は、やがて主がダビデの王座に     就かれたときに行使される権勢や統治とかかわりがある。また地上への再臨とき     わめて密接な関係があるのである。     エッサイはダビデの父であった。イザヤはエッサイの株について語っている。同     時にこの株は、古代のその賢人の根から生えてくる若枝であるとも言っている。     イザヤはさらに続けて、主の霊がそのうえにとどまること、力強い裁きを行い、     国を撃ち悪しき者を殺すこと、その日には小羊とししがともに伏すことなどを預     言した。これは皆、再臨とそれによって始まる福千年とにかかわりを持っている。     エッサイの株とはだれかという点について、啓示された御言葉では次のように言     われている。『主はこのように言われる。「それはキリストである。」』(教義     と聖約113:1-2)これはまた、若枝というのがキリストを指しているという意味     でもある。その点についてほかの関連聖句を見てみよう。     エレミヤの口を通じ、主は、御自分の選ばれたイスラエルが、古代には散乱し、     末日には集合することを預言しておられる。イスラエルが『追いやったすべての     地から』集められた後、また使徒1:6で古代の使徒たちが望んだようにイスラエ     ルに王国が回復された後で、この出来事は成就することになる。当然それはまだ     将来のことであり、福千年中のことである。『主は仰せられる、見よ、わたしが     ダビデのために一つの正しい枝を起す日がくる。彼は王となって世を治め、栄え     て、公平と正義を世に行う。その日ユダは救を得、イスラエルは安らかにおる。     その名は「主はわれわれの正義」ととなえられる。』(エレミヤ23:3-6)つまり、     福千年の間に自ら地上で統治される王は、ダビデの枝から生まれ出る枝であると     いうことになる。彼は全地にわたって公平と正義とを行うが、それはこの王が主     エホバすなわちわたしたちがキリストと呼ぶその御方だからである。     ゼカリヤを通じて主は同じように語っておられる。『万軍の主は、こう仰せられ     る、わたしはわたしのしもべなる枝を生じさせよう。そしてわたしはこの地の罪     を、一日の内に取り除く。〔これは、邪悪な者は滅ぼされ、平和と義の福千年が     始まるということである。〕万軍の主は言われる、その日には、あなたがたはめ     いめいその隣り人を招いて、ぶどうの木の下、いちじくの木の下に座すのである。』     (ゼカリヤ3:7-10)この栄光に満ちた福千年について、主はまた次のように言っ     ておられる。『見よ、その名を枝という人がある。彼は自分の場所で成長して、     主の宮を建てる。すなわち彼は主の宮を建て、王としての光栄を帯び、その位に     座して治める。』(ゼカリヤ6:12-13)     ダビデの枝がキリストを指していることは、これで完全に明らかである。それで     はこれから、キリストがダビデ、あるいは新しいダビデ、永遠のダビデと呼ばれ     ていることを見ていこう。主は、昔の先祖の王座に座して永遠に治められるよう     になるからである。『万軍の主は仰せられる、その日』、つまり集合の行われる     偉大な福千年の時代のことであるが、『彼らはその神、主と、わたしが彼らのた     めに立てるその王ダビデに仕える。』(エレミヤ30:8-9)     『その日、その時になるならば、わたしはダビデのために一つの正しい枝を生じ     させよう。彼は公平と正義を地に行う。その日、ユダは救を得、エルサレムは安     らかにおる。その名は「主はわれわれの正義」ととなえられる。』これはつまり、     その町もその王にちなんで呼ばれるということである。『主はこう仰せられる、     イスラエルの家の位に座する人がダビデの子孫のうちに欠けることはない。もし     あなたがたが、昼と結んだわたしの契約を破り、また夜と結んだわたしの契約を     破り、昼と夜が定められた時に来ないようにすることができるならば、しもベダ     ビデとわたしが結んだ契約もまた破れ、彼はその位に座して王となる子を与えら     れない。』(エレミヤ33:15-21)ダビデは、わたしたちの主が生まれる数世紀も     前に、この世の王座から落ちた。また、地の隅々にまだ散らされていなかったイ     スラエルも、ローマの鉄のくびきに捕らわれた。しかし、約束は依然として残っ     ている。永遠の王座はそれにふさわしい時が来たとき回復され、新しいダビデが     そこに座する。そしてとこしえに統治されるのである。     エゼキエルを通じ、主はこの牧者について次のように言っておられる。『わたし     はわが群れを助けてわたしは彼らの上にひとりの牧者を立てる。すなわちわがし     もベダビデである。彼は彼らを養う。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。主な     るわたしは彼らの神となり、わがしもベダビデは彼らのうちにあって君となる。』     そしてその日が来ると、『わたしは彼らと平和の契約を結び』と主が言われるの     は、彼らが再び完全なる永遠の福音にあずかるという意味である。そのときには     『これは祝福の雨となる。』イスラエルは皆安らかに住み、主がその神であられ     ることを知るのである(エゼキエル34:22-31)。     エゼキエルを通じ、主はまた『モルモン書』の出現についても語っておられる。     『モルモン書』は、主の手のうちにあってイスラエルの集合のための道具となる     のである。集合のその日について、主は次のように言われた。『その地で彼らを     一つの民となしてイスラエルの山々におらせ、ひとりの王が彼ら全体の王となる。』     その日には、主は民をバプテスマによって『清め』、それによって『彼らはわが     民となり、わたしは彼らの神となる。わがしもベダビデは彼らの王となる。彼ら     すべての者のために、ひとりの牧者が立つ。彼らはわがおきてに歩み、わが定め     を守って行う。彼らはわがしもベヤコブに、わたしが与えた地に住む。これはあ     なたがたの先祖の住んだ所である。そこに彼らと、その子らと、その子孫とが永     遠に住み、わがしもベダビデが、永遠に彼らの君となる。』     さらに主は、ここで重ねて、集められた民は永遠の福音のあらゆる祝福にあずか     り、(ザカリヤ書にあるように)彼らの中に永遠に聖所、つまり神殿を置かれる     と言われている。そしてイスラエルは皆、主が彼らの神であられることを知るの     である(エゼキエル37:15-28)。     キリストなる第二のダビデが降臨し、第一のダビデの王座に着いて統治される日     は、いかに栄光に満ちた日になることであろうか。そのときには、あらゆる人が     安らかに住み、全地にわたって神殿が点在し、福音の聖約が力強くしかも確実に     全地に及ぶのである。」 02)その上に主の霊がとどまる。   これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、   主を知る知識と主を恐れる霊である。   【解説】   この節はニーファイ第2書21章では次のようになっている。     そして、そのうえに主の御霊がとどまる。     それは知恵と理解の霊、深慮と能力の霊、     主を知る知識と主への畏れの霊である。 03)彼は主を恐れることを楽しみとし、   その目の見るところによって、さばきをなさず、   その耳の聞くところによって、定めをなさず、   【解説】   定めをなす = 人を穏やかに正す   この節はニーファイ第2書21章では次のようになっている。     主の御霊は、主を畏れることを彼に早く悟らせる。     彼は自分の目で見たことによって裁かず、     自分の耳で聞いたことによって責めることをしない。 04)正義をもって貧しい者をさばき、   公平をもって国のうちの   柔和な者のために定めをなし、   その口のむちをもって国を撃ち、   そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。   【解説】   公平 = 公正   柔和な = 謙虚な   定めをなす = 人を穏やかに正す   むち = 支配者が持つ、自らの権力を示す杖   この節はニーファイ第2書21章では次のようになっている。     しかし、彼は義をもって貧しい者を裁き、     公平をもって地の柔和な者を責められる。     また、彼の口の鞭で世を打ち、彼の唇の息で悪人を殺す。   責める = 判決を下す 05)正義はその腰の帯となり、   忠信はその身の帯となる。   【解説】   この節はニーファイ第2書21章では次のようになっている。     義は彼の腰の帯となり、     忠信は彼の腹の帯となる。   1-5節はメシヤに関連したもので、再臨にも適用される。 06)おおかみは小羊と共にやどり、   ひょうは子やぎと共に伏し、   子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、   小さいわらべに導かれ、   【解説】   この節はニーファイ第2書21章では次のようになっている。     おおかみは子羊とともに宿り、     ひょうは子やぎとともに伏し、     子牛と若いライオンと肥えた若い家畜はともにいて、     幼い子供がこれらを導く。 07)雌牛と熊とは食い物を共にし、   牛の子と熊の子と共に伏し、   ししは牛のようにわらを食い、   【解説】   この節はニーファイ第2書21章では次のようになっている。     雌牛とくまはともに食べ、     その子らはともに伏し、     ライオンは牛のようにわらを食べる。 08)乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、   乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。   【解説】   この節はニーファイ第2書21章では次のようになっている。     乳飲み子は毒蛇の穴の上で戯れ、     乳離れした子はまむしの穴に手を置く。   毒蛇 = エジプトにいる小さな毒蛇   まむし = 別の種類の毒蛇 09)彼らはわが聖なる山のどこにおいても、   そこなうことなく、やぶることがない。   水が海をおおっているように、   主を知る知識が地に満ちるからである。   【解説】   この節はニーファイ第2書21章では次のようになっている。     彼らはわたしの聖なる山のどこにおいても、     害を与えることも損なうこともない。     水が海を覆っているように、     主を知る知識が地に満ちるからである。   主を知る知識が地に満ちる     神についての神聖な知識が人々の中に伝えられる。だれ一人として真理から隠れ     ることはできない。オーソン・プラット長老は次のように書いている。「そのと     きには、神を知る知識が、あたかも水が大海を覆っているように、地球を覆う。     無知の場所も、暗闇の場所も、神に仕えない者たちのための場所もない。なぜか。     それは、大いなる創造主であり、さらにまた大いなる贖い主であるイエスが自ら     地上におられ、また聖なる天使たちも地上にいるからである。また以前の神権時     代に亡くなった聖徒も皆復活していで来り、地上に来る。この地球は何と幸福な     状態になることであろうか。そのときには、この清めの作業が行われ、地球はあ     たかも水が大海を覆うがごとくに、神を知る知識に満たされる。何という大きな     変化であろうか。その時が来たら、地球の隅から隅まで旅してみるとよい。邪悪     な者も酒に酔う者も大いなる創造主の御名をみだりに唱える者も、隣人のものを     奪ったり盗んだりする者も、姦淫を行う者もいなくなる。姦淫を行う者は地獄へ     落とされると、主なる全能の神が言われたからである。また罪を犯す者には皆、     全能者の裁きにより速やかに罰が下される。」この偉大な時代のために啓示され     た約束の概略は、『教義と聖約』に書かれている。(教義と聖約101:32-34) 10)その日、エッサイの根が立って、もろもろの民の旗となり、もろもろの国びとはこれ   に尋ね求め、その置かれる所に栄光がある。   【解説】   この節はニーファイ第2書21章では次のようになっている。     その日、エッサイの根が民の旗として立ち、     異邦人はこれに求め、彼の安息は栄光に満ちる。   旗 = 軍隊が集合・行進するときに掲げる旗   その日 = 末日   これに = 彼に(預言者)   1-5,10節     植物の死の判断は難しい。切り株から新芽が出た。     根っこからも出てきた。木は死んでなかった。     芽が出てきたら、新しいことが始まる印。     イスラエルは国を失っても、教会は真理を失っても、回復する。   10-16節 世界中からイスラエルが集められる     ウィルフォード・ウッドラフ長老は、イザヤの言葉に照らして、この集合につい     て要約し、次のように言っている。     「イザヤの魂は燃えていたのではなかろうか。またその心は全能者の示現に包ま     れていたのではなかろうか。イザヤは主の名により、終わりの日に起こることを     預言した。その日、神は再び手を伸べて、その民の残りの者を集め、イスラエル     の散らされた者を集め、ユダの追われた者を集合させ、エジプトの海の舌をから     して靴をぬらさないで渡らせられる。また、馬やろば、足の速い動物、あるいは     馬車に乗せてエルサレムに集め、廃虚のうえに町を再建される。一方、異邦人を     滅ぼす者がその働きを始める。神はイスラエルの繁栄を回復する一方で、あらゆ     るのろいと災いを異邦人や敵の頭上に置かれる。彼らが償おうとせずに、むしろ     滅ぼそうとし、代々にわたってその足の下に踏みつけたからである。     それと同時に、旗が掲げられる。異邦人の国々にあって心の正直な者、柔和な者     がその旗の下に来ることができるようにするためである。またシオンは贖われ、     聖なる町が建てられ、神の栄光と力はそのうえにとどまり、エフライムの山を見     守る者は、『立ち上がれ、そして我々の主なる神の町、シオンに上り行こうでは     ないか』と叫ぶ。また異邦人たちはシオンの光に来、もろもろの王たちは『のぼ     る輝き』に来る。神の聖徒たちは避け所を授かり、聖なる場所に立つ。そのとき、     地上で裁きが行われる。怒りにあふれた神の剣はイドマヤ、すなわちこの世界の     うえに振り降ろされ、主は剣と火とによってあらゆる人を裁かれる。主の手にか     かる者の数は多いが、聖徒たちは、ロトやノアのように、避け所へと逃れ、この     災禍を免れることができる。」   10,12節 もろもろの民の旗     ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は、旗とその重要な意味について、     次のように書いている。     「125年以上前に、主はニューヨーク州セネカ郡のフェイエットという小さな町     で、国々に対して旗を掲げられた。これはわたしが今読んだ預言者イザヤの預言     を成就するものであった。この旗とは、終わりの時に立てられ、二度と破壊され     たり、ほかの民に渡されたりすることのない、末日聖徒イエス・キリスト教会の     ことである。これは贖い主が十字架につけられ、無限かつ永遠の贖いを達成され     て以来、この世が目撃した最大の出来事である。主が贖いの十字架にかかられて     以来、これはほかの何ものよりも人類にとって重要な出来事であった。     この旗が掲げられてから、主は神権と権威権能を持った長老たちを地上の諸国民     の間に送られた。長老たちはすべての民に主の教会が回復されたことを証し、人     の子らに悔い改めて福音を受け入れるよう呼びかけている。福音は現在終わりが     来る前にその予告として全世界で説かれている。この終わりとは悪人による統治     の終焉であり、平和な福千年の統治の開始の時である。長老たちは命じられるま     まに出かけて行き、現在も福音を説き、約束を受けたイスラエルの子孫を諸国民     の間から集めている。」 11)その日、主は再び手を伸べて、その民の残れる者をアッスリヤ、エジプト、パテロス、   エチオピヤ、エラム、シナル、ハマテおよび海沿いの国々からあがなわれる。   【解説】   この節はニーファイ第2書21章では次のようになっている。     そしてその日、主は再び、残されている御自分の民の残りの者を、     アッスリヤ、エジプト、パテロス、クシ、エラム、シナル、ハマテ、     および海の島々から元に戻す業を始められる。   主は再び手を伸べて、その民の残れる者をあがなわれる     リグランド・リチャーズ長老は、この聖句について次のように注釈している。     「この上に述べられた聖句から、ここに書かれてある出来事は未来のことである     ことが分かる。『その日、主は再び手を伸べて、その民の残れる者をあがなわれ     る。』前に何もなければ、再びということはあり得ない。最初は主が、イスラエ     ルの民をエジプトにおける囚われの状態から導き出してくださった。では、『再     び』主が手を伸べて残れる民を導かれることがあるのだろうか。わたしたちは今     このことをよく考えてみよう。上記の聖句から、わたしたちは3つの重要な事件     の起こることが分かる。(1)主はもろもろの民のために旗を上げられる。(2)散ら     されたイスラエル人は集められる。(3)ユダの散らされた者を地の四方から集め     られる。     すなわち、集合の地が2か所あって、一つはイスラエルの民のための場所、一つ     はユダの民のための場所であることが明らかである。     モーセは神の預言者であったので、主はモーセをお立てになり、イスラエルをエ     ジプトの地から導き出し、パロの前で、偉大な奇跡を行う力を授け、イスラエル     の子孫を紅海の乾いた地を通して導き出すことさえなさった。主が『再び手を伸     べて、その民の残れる者をあがなわれる』とき、モーセがイスラエルの集合の鍵     を持つことは当然のように思われる。モーセがジョセフ・スミスとオリバー・カ     ウドリに与えたのはこの鍵である。     イスラエルについて口に出して話すときは、ほとんどの人はユダヤ人を頭に浮か     べるし、イスラエルの集合について話すときは、人々はユダヤ人がエルサレムの     地に帰ることを考える。しかし、ここで忘れてならないことは、ユダヤ人、すな     わちユダの子孫は、ただヤコブの家、イスラエルの家の12部族の一つを代表する     にすぎないことである。」 12)主は国々のために旗をあげて、   イスラエルの追いやられた者を集め、   ユダの散らされた者を地の四方から集められる。   【解説】   旗 = 軍隊が集合・行進するときに掲げる旗   この節はニーファイ第2書21章では次のようになっている。     主はもろもろの国民のために旗を掲げ、     イスラエルの追放された者を集め、     ユダの散らされた者を地の四方から集められる。 13)エフライムのねたみはうせ、   ユダを悩ます者は断たれ、   エフライムはユダをねたまず、   ユダはエフライムを悩ますことはない。   【解説】   ねたみ = 嫉妬   悩ます者 = 敵   この節はニーファイ第2書21章では次のようになっている。     また、エフライムのねたみは消え去り、     ユダの敵は絶たれる。     エフライムはユダをねたまず、     ユダもまたエフライムを悩まさない。   ユダとエフライムによって導かれたそれぞれの部族は、歴史上敵対する者となった。   末日に、この敵意は解消する。   13-14節 エフライムはユダをねたまず、ユダはエフライムを悩ますことはない     昔、王国が分裂していた時代には、ユダ(南王国の主要部族)とエフライム(北     王国の主要部族)は、よくいがみ合っており、時には戦争をすることさえあった。     イザヤは、終わりの日にはその争いに終止符が打たれると預言した。エゼキエル     も、同じような預言の中で、イスラエルの家が分裂することはもはやなく、まこ     との王、すなわち新しいダビデの下に国は再び一つになると約束した(エゼキエ     ル37:15-25)。エレミヤとゼカリヤも同様に、イスラエルの家が将来再び一つに     なると預言した(エレミヤ3:18;ゼカリヤ10:6-7)。     リグランド・リチャーズ長老は、この預言がどのように成就していくかを、次の     ように説明している。     「わたしたちはエフライムの出身である。わたしの理解しているところによれば、     わたしたちはこの末日に回復された福音の守護者なのであるから、友情の手をユ     ダに伸くるよう主から期待されているのである。結局のところ、わたしたちは皆、     アブラハム、イサク、ヤコブといった預言者たちの子孫だからであり、その子孫     を通じて地のあらゆる国々は祝福を受けるという約束の下にいるからである。     エフライムとユダの間に存在する敵意やねたみがどのように解消されるのか、わ     たしは知らない。ただ、エフライムの家に属するわたしたちは、福音を守護して     いるのであるから、まず先頭に立って、イスラエルの家のこの部族にも回復され     た福音の祝福をもたらすように努めなければならないと思う。     ユダの部族が主の前にとこしえに住まうために聖められる時があるとすれば、そ     れはただわたしたちが救い主の末日の約束にあるとおり、主イエス・キリストの     福音を彼らのもとにもたらしたときしか考えられないのではないかと思う。」 14)しかし彼らは西の方ペリシテびとの肩に襲いかかり、   相共に東の民をかすめ、   その手をエドムおよびモアブに伸べ、   アンモンの人々をおのれに従わせる。   【解説】   かすめる = ある場所を滅ぼしてそこにある富を取ること   この節はニーファイ第2書21章では次のようになっている。     彼らは西の方のペリシテ人の肩に飛びかかり、     またともに東の民から強奪する。     彼らはエドムとモアブにも手を伸ばし、     またアンモンの子孫を従わせる。   ペリシテ人の肩に飛びかかり = ペリシテ人の領土であった西側の傾斜地を攻撃する 15)主はエジプトの海の舌をからし、   川の上に手を振って熱い風を吹かせ、   その川を打って七つの川となし、   くつをぬらさないで渡らせられる。   【解説】   この節はニーファイ第2書21章では次のようになっている。     主はエジプトの海の入江をことごとく涸らされる。     また、強風を伴って川の上で手を振り動かし、     それを打って7つの流れとし、     乾いた靴で人々を渡らせられる。   15-16節 主はエジプトの海の舌をからし、大路があり     パーリー・P・プラット長老は、この聖句もイスラエルの集合の一部を表してい     るものであるとして、次のように説明している。     「さて、15節に神のくすしき力について書かれているのは、今読んだとおりであ     る。神はこの力を現して、エジプトの海の舌と呼ばれる紅海の支流をからし、川     恐らくはナイル川を打って7つの川となし、靴をぬらさないで渡らせられる。文     字どおりに受け取れないという人がいないように、16節にはこう書かれている。     『その民の残れる者のためにアッスリヤからの大路があり、昔イスラエルがエジ     プトの国から上ってきた時にあったようになる。』さてわたしたちがここで尋ね     たいことはただ一つ、モーセの時代に紅海は文字どおりに分けられたのか、それ     とも単なるたとえ話だったのか、ということである。というのも、昔あったとお     り、同じことがもう一度あるからである。」 16)その民の残れる者のために   アッスリヤからの大路があり、   昔イスラエルがエジプトの国から   上ってきた時にあったようになる。   【解説】   この節はニーファイ第2書21章では次のようになっている。     残された主の民の残りの者のために、     アッスリヤからの大路がある。     イスラエルがエジプトの地から上って来た日に、     イスラエルのために備えられたように。」
第12章   【解説】   福千年。   福千年には、すべての人が主をほめたたえる。   主は民の中にとどまられる。   贖われて、再び神の恵みに浴し、みたまを豊かに注がれたことに対するイスラエルの   喜びを表している。   引用:2ニーファイ22。   参照 「イザヤ書 英語版比較」   【セミナリー解説】   主に感謝せよ   12章は、主が御自分の民を救うためになさることに対して主をたたえた短い詩ある。   12章はザヤ11章の中で語られているメシヤ、終わりの時におけるイスラエルの集合、   および福千年に関する偉大な真理に対する思いが込められているようである。また   12章に書いてある教えは、主を知るようになり、主の教会に集まり、イエス・キリス   トだけがお与えになれる平安を受けるすべての人に当てはまる。   【インスティテュート解説】   この短い章は、主がその民の「うちで」統治される大いなる福千年をたたえる賛美歌   である。 01)その日あなたは言う、   「主よ、わたしはあなたに感謝します。   あなたは、さきにわたしにむかって怒られたが、   その怒りはやんで、わたしを慰められたからです。   【解説】   この節はニーファイ第2書22章では次のようになっている。     「その日、あなたは言う。     『おお、主よ、わたしはあなたをほめたたえます。     あなたはかつて、わたしのことをお怒りになりましたが、     今はあなたの怒りも解かれ、あなたはわたしを慰めてくださいました。』 02)見よ、神はわが救である。   わたしは信頼して恐れることはない。   主なる神はわが力、わが歌であり、   わが救となられたからである」。   【解説】   この節はニーファイ第2書22章では次のようになっている。     『見よ、神はわたしの救いである。     わたしは信頼して恐れない。     主なるエホバはわたしの力であり、わたしの歌である。     また、主はわたしの救いとなってくださった。』   神はわが救である。主なる神はわが力     この節を文字どおりに翻訳すると、神の名称とその称号が聖典でどのように使わ     れているかを示す例となる。     「見よ、エルはわが救である。     わたしは信頼して恐れることはない。     わが力、わが歌はヤーなるエホバであり、     わが救となられたからである。」     『エル』というのは『エロヒム』の単数形である。『聖書』中に単数形で使われ     ている例はほとんどない。この語は単数形複数形とも、『聖書』中では『神』と     いう語で表されている。『ヤー』というのはエホバ、言い換えればヤーウェの短     縮形であり、『聖書』中では通常『主』と書かれている。『ヤー』という短縮形     については、へプライ語では出エジプト15:2;詩篇118:14で使われている。 03)あなたがたは喜びをもって、救の井戸から水をくむ。   【解説】   この節はニーファイ第2書22章では次のようになっている。     それゆえ、あなたがたは喜んで、救いの井戸から水をくむ。 04)その日、あなたがたは言う、   「主に感謝せよ。   そのみ名を呼べ。   そのみわざをもろもろの民の中につたえよ。   そのみ名のあがむべきことを語りつげよ。   【解説】   この節はニーファイ第2書22章では次のようになっている。     その日、あなたがたは言う。     『主をほめたたえ、     主の御名を呼び、     主の行われたことを人々の中に告げ知らせ、     主の御名があがめられていることを話しなさい。 05)主をほめうたえ。   主はそのみわざを、みごとになし遂げられたから。   これを全地に宣べ伝えよ。   【解説】   この節はニーファイ第2書22章では次のようになっている。     主をたたえて歌いなさい。     主はすばらしいことをされたからである。     このことは全地に知られている。 06)シオンに住む者よ、声をあげて、喜びうたえ。   イスラエルの聖者はあなたがたのうちで大いなる者だから」。   【解説】   この節はニーファイ第2書22章では次のようになっている。     シオンに住む者よ、大声を上げて叫びなさい。     イスラエルの聖者は、あなたの中にあって大いなる御方なのだから。』」
第13章   【解説】   再臨を象徴するバビロンの滅亡。   バビロンの滅亡は、主の再臨の時に悪人が滅びることの予型である。   やがて怒りと報復の日が来る。   バビロン(世)はとこしえに倒れる。   13,14章に預言された邪悪なバビロンの歴史的な滅亡は、邪悪な世が最後には滅びる   ことを示すものである。   引用:2ニーファイ23。   関連:教義と聖約29,45。   参照 「イザヤ書 英語版比較」   【セミナリー解説】   バビロンとルシフェル   13-14章には、10章と同じように、主の聖約の民を打ち負かしたある国の滅亡につい   て預言されている。10章では、預言は紀元前725-721年ごろに北王国を征服した国、   アッスリヤについてだった。13-14章では、紀元前600-588年ごろにユダを征服した   国、バビロンについて語られている。昔のバビロンは、歴史上最も裕福で、最もこの   世的な欲望の強い帝国の一つだった。そのために主はバビロンを、この世の事柄を重   要視する人々の象徴として、またシオンや天国と対照を成すものの比喩として用いて   おられる。13章で預言されているバビロンの滅亡は、神の民と戦う者や、神よりもこ   の世に執着する者に起きることを象徴している。   【インスティテュート解説】   「バビロン」という言葉は、末日の世界の罪悪を表すために主が使われたものである     イザヤは、現代のバビロンが滅び、繁栄した状態から凋落し、その民があまねく     罪悪に染まる様子を目の当たりにするかのように先見した。そしてイザヤ独特の     筆致で、「バビロン」という言葉を使って、末日の様子と裁きを表現したのであ     る。地上にはいつもその時代特有のバビロンがあった。しかし、預言者たちの先     見した末日のバビロンは、その中でも最悪のものであり、また主が降臨されると     きに滅ぼされねばならぬものであった。     当時バビロンは強大なアッスリヤ帝国の一地方でしかなかったが、イザヤは、ア     ッスリヤではなくこのバビロンがユダ王国に裁きをもたらすことになると正確に     見抜いていた。また最終的にはバビロンも自ら裁きを招くようになることも預言     した。同時に、バビロンという言葉を、世界とその悪を表す象徴として使った。     それゆえ、イザヤがバビロンと言うときには、その名前の帝国と霊のバビロンの     両方を指しているのである。     神はバビロンを征服するために軍隊を召集された。このときの軍勢はメデア人で     ある(17節)。この召集に対する答えは約130年後に出た。このとき、メデアとペ     ルシャの同盟軍はクロス大王の指揮の下にユフラテ川をせき止め、その川床を渡     ってバビロンの城壁まで進軍し、町を包囲して、帝国を征服したのである。この     出来事の意味を考えるとき、霊的な意味での「バビロン」という言葉の内包する     ものを頭に描くと、その意味がいっそう明確になる。この召集は「聖別した者ど     も」(3節)に対する呼びかけである。すなわち末日の聖徒たちに対して、とも     に参集し、神と一緒にこの世界から罪悪(バビロン)を一掃せよと呼びかけてい     るのである。     イザヤ書や『旧約聖書』のほかの書では、ユダヤ特有の両義的な表現がよく見ら     れるが、この13章もその顕著な例である。   イザヤ書本文の注目すべき相違     ニーファイは、イザヤ13章全体を引用している。『聖書』とは幾らか異なる部分     がある。いちばん大きな相違として目につくのは、3節、8節、22節である。 01)アモツの子イザヤに示されたバビロンについての託宣。   【解説】   この節はニーファイ第2書23章では次のようになっている。     「アモツの子イザヤが見た、バビロンについての託宣。   託宣(たくせん) = 神からの言葉、おつげ   バビロンについての託宣 = 滅亡を告げる言葉   バビロンの苦悩はどこにあったか     バビロンというのは、神の王国に反抗する民や政府を表す、聖文上の象徴である。     それゆえ、バビロンの「苦悩」というのは、必然的にバビロンに下される厳しい     裁きのことを指す。実に、バビロンの脱穀場には風が吹きつけ、そのもみがらは     焼かれるのである。 02)あなたがたは木のない山に旗を立て、   声をあげて彼らを招き、   手を振って彼らを貴族の門に、はいらせよ。   【解説】   この節はニーファイ第2書23章では次のようになっている。     高い山の上に旗を掲げ、     彼らに向かって声を上げ、     手を振って、彼らを貴族の門に入らせなさい。   手を振って = 合図を送ること   2,4-5節 旗、山、多くの民とはそれぞれ何か     美しい隠喩によって、13章では福音の標準が、終わりの日には「旗」として立て     られると書かれている。この旗の下に、世界の民が集まることになる。「山」に     ついては、2章の1-5節の解説の中で触れられている。「多くの民」とは、偉大な     民のことであって、万軍の主の召集にこたえて集合し、喜んで戦いに向かう民の     ことで(2ニーファイ23:3-5と比較)。この多くの民とは、終わりの日にあらゆる     国々から集まり、邪悪な者との戦いに赴くために生ける神の軍勢に参加する聖徒     たちのことである。 03)わたしはわが怒りのさばきを行うために   聖別した者どもに命じ、   わが勇士、わが勝ち誇る者どもを招いた。   【解説】   この節はニーファイ第2書23章では次のようになっている。     『わたしは聖別した者たちに命じた。     また、わたしの勇士たちを召した。     わたしの怒りは、わたしが高い位にあることを喜ぶ者には及ばないからである。』   聖別した者 = 聖徒 04)聞け、多くの民のような騒ぎ声が山々に聞える。   聞け、もろもろの国々、寄りつどえる   もろもろの国民のざわめく声が聞える。   これは万軍の主が戦いのために軍勢を集められるのだ。   【解説】   この節はニーファイ第2書23章では次のようになっている。     群衆のような山々のとどろき。     寄り集まったもろもろの民の王国のどよめき。     万軍の主が軍隊を召集しておられる。 05)彼らは遠い国から、天の果から来る。   これは、主とその憤りの器で、   全地を滅ぼすために来るのだ。   【解説】   この節はニーファイ第2書23章では次のようになっている。     彼らは遠い地方から、天の果てからやって来る。     まことに、主と主の憤りの武器が全地を滅ぼすために来る。 06)あなたがたは泣き叫べ。主の日が近づき、   滅びが全能者から来るからだ。   【解説】   この節はニーファイ第2書23章では次のようになっている。     泣きわめけ。主の日は近づいているからである。     それは全能者から滅亡として来る。 07)それゆえ、すべての手は弱り、   すべての人の心は溶け去る。   【解説】   この節はニーファイ第2書23章では次のようになっている。     それゆえ、すべての手は弱り、     すべての人の心はくじける。 08)彼らは恐れおののき、苦しみと悩みに捕えられ、   子を産まんとする女のようにもだえ苦しみ、   互に驚き、顔を見あわせ、   その顔は炎のようになる。   【解説】   この節はニーファイ第2書23章では次のようになっている。     彼らはおののき、ひどい苦しみと悲しみが彼らを捕らえる。     彼らは互いに見合って驚き、彼らの顔は炎のようになる。 09)見よ、主の日が来る。   残忍で、憤りと激しい怒りとをもってこの地を荒し、   その中から罪びとを断ち滅ぼすために来る。   【解説】   この節はニーファイ第2書23章では次のようになっている。     見よ、主の日が来る。     憤りと激しい怒りを伴う容赦のない日が来て、地を荒れ廃れさせる。     そして主は、そこにいた罪人を滅ぼされる。   9-10節 多くの預言者か天のしるしについて語っている     主の降臨に伴う非常に劇的なしるしが天に現れ、それは人々の大きな驚きとなる。     (教義と聖約29:14;34:9;45:42;88:87;133:49;ヨエル2:31;マタイ24:29;     黙示6:12-17)。 10)天の星とその星座とはその光を放たず、   太陽は出ても暗く、   月はその光を輝かさない。   【解説】   この節はニーファイ第2書23章では次のようになっている。     天の星と星座は光を放たず、     太陽は日の出から暗く、     月もその光を輝かさない。 11)わたしはその悪のために世を罰し、   その不義のために悪い者を罰し、   高ぶる者の誇をとどめ、   あらぶる者の高慢を低くする。   【解説】   この節はニーファイ第2書23章では次のようになっている。     『わたしは悪のために世を罰し、     罪悪のために悪人を罰する。     また、誇る者の傲慢をとどめ、     荒々しい者の高慢を抑える。 12)わたしは人を精金よりも、   オフルのこがねよりも少なくする。   【解説】   この節はニーファイ第2書23章では次のようになっている。     わたしは人を純金よりも、     オフルの金塊よりも少なくする。   11-12節 人をこがねよりも少なくするとはどういうことか     13章の11節と12節で、イザヤは以前に使った表現を繰り返して使っている(4:1-4)。     つまり、義人を見つけるのは、こがねを見つけることと同じように困難になり、     宝のように貴重な存在になるということである。邪悪な者は地上から一掃され、     ふさわしい義人たちが生き残って、貴重な宝石となり、主の冠をかぶる(教義と     聖約60:4;イザヤ62:1-3)。事実、インドの金の大量産出地である「オフルのこが     ね」をもってしても、一人の義人の価値と比較したら取るに足りないものである     (教義と聖約18:10)。 13)それゆえ、万軍の主の憤りにより、   その激しい怒りの日に、   天は震い、地は揺り動いて、その所をはなれる。   【解説】   この節はニーファイ第2書23章では次のようになっている。     それゆえ、わたしは天を震わせる。     また、万軍の主の激しい怒りにより、     主のすさまじい怒りの日に、地はその場所から移る。』   天か震え、地か揺り動くとはどういう意味か     この預言も両義的である。天が震え、地が揺り動くというのは、ユダヤの表現法     の一つであって、大きな苦難と災害の時を表している。バビロンの崩壊もその一     つである。世界の政治環境も揺れ動くことになろう。この預言もまた、末日に文     字どおりに成就する。あらゆるものが回復されるはずである。地球が元の状態に     戻されると、諸天は退き去る。それから地球は楽園の栄光を受ける。この楽園の     栄光を、天体が最終的に到達する日の栄えの状態と一緒にしてはならない。むし     ろ、この栄光というのは、あらゆる生物がやむことのない平和を享受する福千年     の状態を指しているのである。 14)彼らは追われた、かもしかのように、   あるいは集める者のない羊のようになって、   おのおの自分の民に帰り、   自分の国に逃げて行く。   【解説】   この節はニーファイ第2書23章では次のようになっている。     それは、狩り出されるかもしかのようであり、     集める者のいない羊のようである。     彼らは各々自分の民に帰り、     各々自分の国に逃げ戻る。   14-22節     古代バビロニア帝国の滅亡の予言。バビロンは決して贖われることがない。 15)すべて見いだされる者は刺され、   すべて捕えられる者はつるぎによって倒され、   【解説】   この節はニーファイ第2書23章では次のようになっている。     誇る者は皆、刺し貫かれ、     また悪人の仲間に加わる者は皆、剣によって倒れる。 16)彼らのみどりごはその目の前で投げ砕かれ、   その家はかすめ奪われ、その妻は汚される。   【解説】   この節はニーファイ第2書23章では次のようになっている。     彼らの子供たちは目の前で投げ砕かれ、     彼らの家は強奪され、彼らの妻は犯される。   みどりご = 生まれたばかりの子供、あるいは3歳ぐらいまでの幼児 17)見よ、わたしは、しろがねをも顧みず、   こがねをも喜ばないメデアびとを起して、   彼らにむかわせる。   【解説】   この節はニーファイ第2書23章では次のようになっている。     『見よ、わたしはメデア人を起こして彼らに向かわせる。     メデア人は金銀に見向きもせず、それを喜びもしない。   14-18節 メデアびとかバビロンを滅ぼすとはどういうことか     イザヤの言葉は、バビロンより高い山岳地方の国の住民であるメデアびとがユフ     ラテ川の物欲の巣窟たるバビロンに攻め下り、多くの人々を殺すという意味であ     る。また、霊的な観点から見ると、ひときわ高い権能を持つ者が、この世の富に     引かれることなく、末日のバビロンに攻め下り、そのおごりと罪悪を滅ぼし、そ     れを行う者を滅ぼす、という意味である。 18)彼らの弓は若い者を射殺し、   腹の実をあわれむことなく、   幼な子を見て、惜しむことがない。   【解説】   この節はニーファイ第2書23章では次のようになっている。     彼らの弓は若い男たちを射砕く。     彼らは胎の実を哀れまず、     彼らの目は子供たちを容赦しない。 19)国々の誉であり、   カルデヤびとの誇である麗しいバビロンは、   神に滅ぼされたソドム、ゴモラのようになる。   【解説】   この節はニーファイ第2書23章では次のようになっている。     もろもろの王国の誉れであり、     カルデヤ人の卓越した麗しさであるバビロンは、     かつて神がソドムとゴモラを滅ぼされたときのようになる。   麗しさ = 虚栄 20)ここにはながく住む者が絶え、   世々にいたるまで住みつく者がなく、   アラビヤびともそこに天幕を張らず、   羊飼もそこに群れを伏させることがない。   【解説】   この節はニーファイ第2書23章では次のようになっている。     そこに住む者は一人もなく、     代々住みつく者もいない。     アラビア人もそこには天幕を張らず、     羊飼いたちもそこには羊の囲いを設けない。   天幕(てんまく) = テント 21)ただ、野の獣がそこに伏し、   ほえる獣がその家に満ち、   だちょうがそこに住み、   鬼神がそこに踊る。   【解説】   この節はニーファイ第2書23章では次のようになっている。     砂漠の野獣がそこに伏し、     彼らの家々には陰気な生き物が満ち、     ふくろうがそこに住み、     鬼神がそこで踊る。   鬼神 = 雄やぎ、魔神 22)ハイエナはその城の中で鳴き、   山犬は楽しい宮殿でほえる。   その時の来るのは近い、   その日は延びることがない。   【解説】   この節はニーファイ第2書23章では次のようになっている。     島々の野獣が彼らの家でほえ、     彼らの華麗な宮殿には龍が鳴く。     バビロンの時は間近であり、その日は延ばされない。     わたしは速やかにバビロンを滅ぼす。     まことに、わたしは自分の民を憐れむが、悪人は滅びる。』」   家 = 館   龍 = ジャッカル、野犬   19-22節 バビロンののろいに終わりはあったか     この部分でバビロンについて述べたイザヤの言葉は、文字どおり成就した。(イ     ザヤが書いた当時、バビロニヤがまだ世界帝国になっていなかったことを忘れて     はならない。)ネブカデネザルの指揮の下、バビロニヤはアッスリヤを征服し、     世界の権力を掌握した。ネブカデネザルは建築計画に着手、これによってバビロ     ニヤは古代世界でも最大の都市の一つになった。このような都市が完全に荒廃す     ると預言することは、驚くべきことであった。例えば、エルサレム、ダマスコ、     エリコといった古代の都市は、幾世紀にもわたって存続し、今なお存在している。     しかし、クロス王に滅ぼされた後のバビロンは年を追って衰退していった。数百     年たつとバビロンは見捨てられ、キリストの時代には、住む人もない廃虚と化し     ていた。今なおそのままの状態である。物言わぬ遺跡は、イザヤが神の導きを受     けて正確に預言したことを雄弁に物語る証人として残っている。     霊のバビロンも同じように、神がこの世に裁きを下し、キリストの福千年の統治     を始められるときには、見捨てられ、荒廃することになろう。(黙示18)
第14章   【解説】   福千年におけるイスラエルの集合。   天上の戦いに敗れ落ちたルシフェル。   再臨に先立つ滅び。   イスラエルは集められ、福千年の安息を享受する。   ルシフェルは背いたために天から追い出された。   イスラエルはバビロン(世)に打ち勝つ。   すべての悪人と地上の国々は滅ぼされる。   引用:2ニーファイ24。   参照 「イザヤ書 英語版比較」   【セミナリー解説】   14章では、特にバビロンの王について語られており、イザヤは王をルシフェルすなわ   ちサタンになぞらえている。この章に書いてあることから、ルシフェルがどのように   してサタンになったか、またサタンと彼に従う者たちが今後どうなるかについて、さ   らに知ることができる。   【インスティテュート解説】   イザヤ書本文の注目すべき相違     ニーファイはイザヤ14章全体を引用しているが、2か所だけ重要な相違がある。     2節と4節を比較する。 01)主はヤコブをあわれみ、イスラエルを再び選んで、これをおのれの地に置かれる。   異邦人はこれに加わって、ヤコブの家に結びつらなり、   【解説】   結びつらなる = 加わる   この節はニーファイ第2書24章では次のようになっている。     「主はヤコブを憐れみ、やがてイスラエルを選んで、     彼らを彼ら自身の地に置かれる。     また、見知らぬ者たちが彼らに連なり、ヤコブの家に結びつく。   1-3節 主はイスラエルを贖われる。 02)もろもろの民は彼らを連れてその所に導いて来る。   そしてイスラエルの家は、主の地で彼らを男女の奴隷とし、   さきに自分たちを捕虜にした者を捕虜にし、自分たちをしえたげた者を治める。   【解説】   しえたげる = 支配し、傷つける   この節はニーファイ第2書24章では次のようになっている。     人々は彼らを連れて、彼らの地に導く。     まことに、遠くから地の果てまで彼らを導く。     そして、彼らは自分たちの約束の地に帰る。     イスラエルの家はそれらを所有し、主の地は僕のものとなり、     はしためのものとなる。     そして彼らは、かつて自分たちをとりこにした者をとりこにし、     自分たちを虐げた者を治める。   他の国々がイスラエルを助ける   イスラエルとこの節に登場する民との関係     イスラエルがその約束の地に集合する回復の時には、ほかの国々(民)の助けが     あり、実際に地の隅々から帰還するに当たって支援を受けるはずである。そして、     こうした国々はイスラエルの復興を助け、囚われていた国(イスラエル)が捕ら     えていた国を支配することになる。この恵まれた状態は、栄光に満ちた福千年の     平和な時代には完全に実現し、真にバビロン(世界)に打ち勝った忠実な人々が     その喜びにあずかる。言い換えれば、C・F・カイルとF・デリッチが言っている     ように、「バビロンが滅びるのはイスラエルが興るためである。」 03)主があなたの苦労と不安とを除き、またあなたが服した苦役を除いて、   安息をお与えになるとき、   【解説】   この節はニーファイ第2書24章では次のようになっている。     そしてその日、主はあなたの悲しみと恐れを取り除き、     またあなたが服したつらい苦役を解いて、     あなたに安息を与えられる。 04)あなたはこのあざけりの歌をとなえ、バビロンの王をののしって言う、   「あの、しえたげる者は全く絶えてしまった。   あの、おごる者は全く絶えてしまった。   【解説】   しえたげる = 支配し、傷つける   この節はニーファイ第2書24章では次のようになっている。     そしてその日、あなたはバビロンの王に対して次の言葉を告げて言う。     『虐げる者がどうして果てたのか。黄金の都がどうして滅びたのか。   4-21節 バビロンのために歌を歌うイザヤ     イザヤ自身の美しい詩で語られたこの風刺と皮肉に満ちた歌は、邪悪なバビロン     に下される裁きを歌ったものである。イザヤはこの力強いヘブライ語の韻律によ     って、将来、バビロンが踏みつけられ、征服され、イスラエルの勝利となる、と     高々と歌い上げている。 05)主は悪い者のつえと、   つかさびとの笏を折られた。   【解説】   笏 = 支配者の権限を示す棒   この節はニーファイ第2書24章では次のようになっている。     主は悪人の杖、     支配者たちの笏を折られた。 06)彼らは憤りをもってもろもろの民を   絶えず撃っては打ち、   怒りをもってもろもろの国を治めても、   そのしえたげをとどめる者がなかった。   【解説】   とどめる = やめさせる   この節はニーファイ第2書24章では次のようになっている。     激しい怒りをもって民を打ち続けて苦しめた者、     怒りのうちに国民を治めた者は今責められる。     そして、それをとどめる者はだれもいない。 07)全地はやすみを得、穏やかになり、   ことごとく声をあげて歌う。   【解説】   この節はニーファイ第2書24章では次のようになっている。     全地は安息を得、穏やかになり、     人々は声を放って歌う。 08)いとすぎおよびレバノンの香柏でさえも   あなたのゆえに喜んで言う、   『あなたはすでに倒れたので、   もはや、きこりが上ってきて、   われわれを攻めることはない』。   【解説】   この節はニーファイ第2書24章では次のようになっている。     まことに、もみの木も、     レバノンの杉の木もあなたのことを喜んで言う。     「あなたが倒れてから、     わたしたちを切りに来るきこりは一人もいない。」   いとすぎ = ヒノキ科の常緑高木。高さ約45メートルにも達する。   レバノンの香柏(こうはく) = レバノン国で産出された当時有名な良い香りのする                 高級木材   もみの木 = 糸杉   倒れる = 死ぬ   きこりは一人もいない = (木を)切る者はわたしたちを攻めて来なかった。 09)下の陰府はあなたのために動いて、   あなたの来るのを迎え、   地のもろもろの指導者たちの亡霊を   あなたのために起し、   国々のもろもろの王を   その王座から立ちあがらせる。   【解説】   この節はニーファイ第2書24章では次のようになっている。     下の地獄は、あなたが来るのを迎えて揺れ動く。     あなたのために死者を、     すなわち地のすべての指導者たちを揺り起こす。     また、国々のすべての王たちをその王座から立ち上がらせる。   死者 = 肉体から分離した霊たち   9-11節     惨めな境遇に置かれるバビロンの王。死はすべての人を平等にする。 10)彼らは皆あなたに告げて言う、   『あなたもまたわれわれのように弱くなった、   あなたもわれわれと同じようになった』。   【解説】   この節はニーファイ第2書24章では次のようになっている。     彼らは皆、あなたに告げて言う。     「あなたもまた、わたしたちのように弱くなったのか。     あなたも、わたしたちと同じようになったのか。」 11)あなたの栄華とあなたの琴の音は   陰府に落ちてしまった。   うじはあなたの下に敷かれ、   みみずはあなたをおおっている。   【解説】   栄華 = 高慢、誇り   この節はニーファイ第2書24章では次のようになっている。     あなたの華やかさは墓に葬られ、     あなたの琴の音は聞こえない。     うじがあなたの下に敷かれ、     またあなたを覆う。 12)黎明の子、明けの明星よ、   あなたは天から落ちてしまった。   もろもろの国を倒した者よ、   あなたは切られて地に倒れてしまった。   【解説】   この節はニーファイ第2書24章では次のようになっている。     おお、暁の子ルシフェルよ、     あなたはどうして天から落ちたのか。     もろもろの国々を打ちのめしたあなたが、     地に切り倒されるとは。   黎明(れいめい) = 夜明け明け方   明けの明星(あけのみょうじょう) = 明け方に東の空に輝く金星   ルシフェル = ヘブライ語で「明けの明星」 「暁の子」の意。   邪悪な世(バビロン)の支配者がすべての悪の支配者であるルシフェルとして   述べられている。   12-20節     自分を神の上に置くというルシフェルの邪悪な欲望を描いている。そのほかルシ     フェルの最後についても啓示されている。   12-15節 黎明の子、明けの明星とはだれか     イザヤはここでも両義的表現を使っている。13章と14章は、バビロンの没落を描     いたものであるが、一帝国としてのバビロンとこの世の象徴としてのバビロンの     両方を指している。それゆえ、大部分の学者は「黎明の子、明けの明星」という     のは、バビロンの王、恐らくはネブカデネザルのことだと考えている。バビロン     (邪悪なサタンの王国バビロン)という言葉を象徴的に使ったとすれば、黎明の     子とはルシフェル、すなわちサタンのことである。この解釈は末日の啓示で確認     されている(教義と聖約76:26-28)。サタンもバビロンの王子も(ここでは両方と     も黎明の子として表されている)、自ら王の栄光に就くことを求めている。しか     し、実際は地獄に突き落とされ、そこで泣き叫び、歯がみをすることであろう。     13:13-14をモーセ4:1-4と比較してみよう。そこにはルシフェルが全人類を救う     ために出した条件が書かれている。カイルとデリッチは「集会」(13節)という     語を「神々の集い」と翻訳しており、この表現の持つ意味をさらに明確にしてい     る。     ほかにもイザヤの美しい両義的表現の例がある。それは、世の王たちでさえ、尊     いさまでそれぞれの墓に眠るというのに(18-19節)、バビロンの王は見捨てられ、     足の下に踏みつけにされる、と書かれている部分である。この報いは文字どおり     にカルデヤの町に下された。ネブカデネザルは確かに壮麗に埋葬されたはずでは     あるけれども、今日バビロンの遺跡にはどこにもその王の墓は見当たらない。サ     タンの「墓」についても考えてみるとよい。肉体を受けることがないため、墓や     記念碑のたぐいは存在しない。それでもサタンは大古の昔から全世界に広がって     いた霊のバビロン帝国の王であり、支配者だったのである。この地上の王たちは、     その生涯のうちに邪悪な生活を送ってもなお星の栄えの王国を受け継ぐことがで     きる。彼らがサタンの最期を見て不思議に思うのも無理からぬことである。 13)あなたはさきに心のうちに言った、   『わたしは天にのぼり、   わたしの王座を高く神の星の上におき、   北の果なる集会の山に座し、   【解説】   この節はニーファイ第2書24章では次のようになっている。     あなたはかつて心の中で言った。     「わたしは天に昇り、     わたしの王座を神のもろもろの星よりも高くしよう。     また、北の果てにある集会の山に座そう。   北の果てにある集会の山 = バビロニアの信仰による神々の住む所 14)雲のいただきにのぼり、   いと高き者のようになろう』。   【解説】   この節はニーファイ第2書24章では次のようになっている。     わたしは雲の頂に昇り、     いと高き者のようになろう。」   12-14節では、ルシフェルがどのようにしてサタンになったかが語られている。   聖文にサタンがどのようにして悪魔となったかが簡単に述べられているのは、サタン   に従わないようにするにはどうすればよいかを見つけるためである。 15)しかしあなたは陰府に落され、   穴の奥底に入れられる。   【解説】   この節はニーファイ第2書24章では次のようになっている。     しかし、あなたは地獄に落とされ、     穴の底に入れられる。   4-15節     福千年が始まるときに、サタン(ルシフェル)が縛られる。 16)あなたを見る者はつくづくあなたを見、   あなたに目をとめて言う、   『この人は地を震わせ、国々を動かし、   【解説】   この節はニーファイ第2書24章では次のようになっている。     あなたを見る者はつくづくとあなたを見、     あなたに目を留めて言う。     「これが地を震わせ、もろもろの王国を揺り動かした者か。   つくづくとあなたを見 = 横目で見て非難する   16-21節     バビロニアの崩壊があまりにも大きく、人々は死者を埋めることもできないであ     ろうという予言。古代の人々は適切な埋葬を受けられないということは大きなの     ろいであると信じていた。 17)世界を荒野のようにし、その都市をこわし、   捕えた者をその家に   解き帰さなかった者であるのか』。   【解説】   この節はニーファイ第2書24章では次のようになっている。     世界を荒れ野のようにし、そのもろもろの町を滅ぼし、     捕らえた者たちを釈放しなかった者か。」 18)もろもろの国の王たちは皆、   尊いさまで、自分の墓に眠る。   【解説】   この節はニーファイ第2書24章では次のようになっている。     もろもろの国の王たちは皆、     まことにすべての王たちはそれぞれ、     尊い有様で自分の家に横たわっている。   自分の家 = 自分の家族の墓 19)しかしあなたは忌みきらわれる月足らぬ子のように、   墓のそとに捨てられ、   つるぎで刺し殺された者でおおわれ、   踏みつけられる死体のように穴の石に下る。   【解説】   この節はニーファイ第2書24章では次のようになっている。     しかし、あなたは忌み嫌われる枝のように墓の外に投げ出される。     また、剣で刺し殺された者の残りは、穴の底に投げ落とされる。     まるで、足で踏みつけられるしかばねのようである。   忌み嫌われる枝 = 切られ、捨てられる枝 20)あなたは自分の国を滅ぼし、   自分の民を殺したために、   彼らと共に葬られることはない。   どうか、悪を行う者の子孫は   とこしえに名を呼ばれることのないように。   【解説】   名を呼ぶ = 話題になる   この節はニーファイ第2書24章では次のようになっている。     あなたは自分の国を滅ぼし、     自分の民を殺したので、     彼らとともには葬られない。     悪を行う者の子孫は、     決して名を知られることがない。 21)先祖のよこしまのゆえに、   その子孫のためにほふり場を備えよ。   これは彼らが起って地を取り、   世界のおもてに町々を   満たすことのないためである」。   【解説】   この節はニーファイ第2書24章では次のようになっている。     先祖が罪悪を犯したので、     彼の子孫が立って地を占領して、     世界の面をもろもろの町で満たすことのないように、     子孫を殺す備えをしなさい。』 22)万軍の主は言われる、「わたしは立って彼らを攻め、バビロンからその名と、   残れる者、その子と孫とを断ち滅ぼす、と主は言う。   【解説】   この節はニーファイ第2書24章では次のようになっている。     万軍の主は言われる。     『わたしは彼らに逆らって立ち、バビロンからその名と、     残りの者と、息子と、孫とを絶とう。』そう主は言われる。 23)わたしはこれをはりねずみのすみかとし、水の池とし、滅びのほうきをもって、   これを払い除く、と万軍の主は言う」。   【解説】   はりねずみ = ヤマアラシ(背に鋭い針を持った動物)   この節はニーファイ第2書24章では次のようになっている。     『わたしはバビロンをさぎの住みかとし、水の池とする。     また、滅びのほうきでそれを掃こう。』万軍の主はそう言われる。 24)万軍の主は誓って言われる、   「わたしが思ったように必ず成り、   わたしが定めたように必ず立つ。   【解説】   この節はニーファイ第2書24章では次のようになっている。     万軍の主は誓って言われた。     『わたしが思ったように必ず事は成り、     わたしが定めたように必ず立つ。 25)わたしはアッスリヤびとをわが地で打ち破り、   わが山々で彼を踏みにじる。   こうして彼が置いたくびきは   イスラエルびとから離れ、   彼が負わせた重荷は   イスラエルびとの肩から離れる」。   【解説】   この節はニーファイ第2書24章では次のようになっている。     わたしはアッスリヤ人をわたしの地に入らせ、     わたしの山々の上で踏みにじろう。     そのとき、アッスリヤ人のくびきはイスラエルから取り去られ、     その重荷は彼らの肩から取り除かれる。』   くびき = 牛馬の頸の後ろにかける横木、自由を束縛するもの   主題が紀元前七百一年のユダにおけるアッスリヤの攻撃と衰退に移っている。   わたしの山々 = ユダとイスラエルの山々   24-27節 アッスリヤもバビロンと同様であった     バビロニヤ帝国を霊的な意味でのバビロンの象徴として使う一方、イザヤは強大     なアッスリヤ帝国の崩壊についても書いていた。アッスリヤはヒゼキヤの時代に、     エルサレムの丘で殺裁の天使の手により手ひどい敗北を喫するのである(イザヤ     37:33-38)。アッスリヤもまたこの世の象徴であった。同様に、邪悪な国々には、     神の裁きの手が伸ばされるのである(26節)。 26)これは全地について定められた計画である。   これは国々の上に伸ばされた手である。   【解説】   この節はニーファイ第2書24章では次のようになっている。     これは全地に対して定められたことであり、     またこれは、すべての国の上に伸ばされた御手である。   やがてこのように、この世の国々は覆される   神の計画は崩れることはない。 27)万軍の主が定められるとき、   だれがそれを取り消すことができるのか。   その手を伸ばされるとき、   だれがそれを引きもどすことができるのか。   【解説】   取り消す = 止める   この節はニーファイ第2書24章では次のようになっている。     万軍の主が定められたものを、     だれが取り消せようか。     主の手が伸ばされているのを、     だれが押し戻せようか。 28)アハズ王の死んだ年にこの託宣があった、   【解説】   この節はニーファイ第2書24章では次のようになっている。     アハズ王の死んだ年に、この託宣があった。   託宣(たくせん) = 神からの言葉、おつげ   紀元前約七百二十年に出されたこの託宣は、ペリシテ人についての預言であり、   ユダが守られるというものである。 29)「ペリシテの全地よ、あなたを打ったむちが   折られたことを喜んではならない。   へびの根からまむしが出、   その実は飛びかけるへびとなるからだ。   【解説】   むち = 兵器   この節はニーファイ第2書24章では次のようになっている。     『ペリシテの全地よ、あなたを打った者の鞭が     折れたからといって喜んではならない。     蛇の根からまむしが出、     その実は火の飛ぶ蛇となるからである。   28-32節 ペリシテの苦悩     この部分には、ペリシテに下された滅びの判決について書かれている。イザヤは     存命中にこの出来事を目撃している。ペリシテ人とは、イスラエルがヨシュアの     指揮の下に征服した国に住んでいたカナン人である。このペリシテ人は長い間イ     スラエルの敵であり、両国間の戦いは何世紀も続いていた。その領土はやがて聖     地となり、ユダあるいはユダヤと呼ばれ、ローマがエルサレムを攻め落とすまで     続いた。ローマは、ユダヤ人にエルサレムが統治権をすでになくしていることを     教え込むために、その名前をパレスチナと変更した。ペリシテのラテン語形であ     る。現代のユダヤ人は、その起源と意味から、自分たちの国土がパレスチナと呼     ばれることを好まない。     『聖書』の中ではラテン語形を用い、「パレスチナ」と呼んでいるが、その意味     はペリシテ人のことであって、現在の用法で言うパレスチナという意味ではない。     アッスリヤ王テグラテピレセルはユダの王アハズと同盟を結んでいたにもかかわ     らず、アハズ王が死んだころペリシテを攻め落とした。イスラエルはペリシテ人     から常に憎まれ、虐げられていたが、主の民はその地に定着した。同様にシオン     が築かれるときには、その敵は皆(バビロン、アッスリヤ、ペリシテなど)シオ     ンを覆す力もなく、攻め落とされてしまうことであろう。 30)いと貧しい者は食を得、   乏しい者は安らかに伏す。   しかし、わたしはききんをもって、   あなたの子孫を殺し、   あなたの残れる者を滅ぼす。   【解説】   この節はニーファイ第2書24章では次のようになっている。     貧しい者の初子は食物を得て、     乏しい者は安らかに伏す。     わたしはあなたの根を飢饉で枯らし、     彼はあなたの残りの者を殺す。 31)門よ、泣きわめけ。町よ、叫べ。   ペリシテの全地よ、恐れのあまり消えうせよ、   北から煙が来るからだ。   その隊列からは、ひとりも脱落する者はない」。   【解説】   消えうせる = 滅びる   この節はニーファイ第2書24章では次のようになっている。     おお、門よ、泣きわめけ。おお、町よ、叫べ。     ペリシテの全地よ、崩れよ。     北から煙が来るからである。     定められたときに独りでいる者はだれもいない。』 32)その国の使者たちになんと答えようか。   「主はシオンの基をおかれた、   その民の苦しむ者は   この中に避け所を得る」と答えよ。   【解説】   この節はニーファイ第2書24章では次のようになっている。     そのとき、国々の使者たちは何と答えるだろうか。     『主はシオンを築かれた。     主の民の貧しい者はそれに頼る』と答える。」   それに頼る = その中に避け所を得ようとする
第15章   【解説】   パレスチナ地方の預言と歴史。   回復の時代にイスラエルに敵対する者の最期。   モアブの滅亡についての予言。   15-17章は他の国の滅亡の予言。いろんな土地の名前をあげることによって、   いたるところで滅亡が起こることを示した。   【セミナリー解説】   主に仕えない国々への預言   15-23章には、イスラエルの周辺にある国々の滅亡について、幾つかの預言が書いて   ある。周囲の国がすべて滅ぼされることをイスラエルとユダに明らかにすることで、   主は国々との条約や同盟に頼るよりも主を信頼する方がよいということをお示しに   なった。   15-16章には、モアブについての預言がある。この国の名はロトの長女の息子であり   (創世19:37参照)、家族とともにその地に住んだモアブに由来している。モアブ人   はしばしばイスラエルの民と戦ったが、この当時イスラエルの民はモアブと同盟する   ことが敵に打ち勝つのに役立つと考えていたのかもしれない。      【インスティテュート解説】   15-16章 モアブに下される主の裁き     モアブというのは、ロトの長女の長男である。この民は死海の東側のゼレド川の     北部に定住していた。モアブ人はイスラエルの民といとこ同士であった。しかし、     両者の間には常時戦いがあり、主はモアブ人をイスラエルの民を懲らしめる道具     として使われた。しかし、モアブ人の罪悪が主に受け入れられているなどという     考えをイスラエルの民が持つことのないように、イザヤはこの2章においてモア     ブ人の行く末を明らかにした。またイザヤは、いつの日か主はイスラエルと交わ     した聖約を思い起こして世界中からその民を集め、永遠にその聖約を確立するが、     その一方、モアブは滅びの宣告を下されることになると預言した。この意味で、     モアブもまた邪悪な世界を象徴している。その日には、その力ある町々も、豊か     な交易路も、隣国間でひときわ高かった地位も、皆立ち行かなくなり、あらゆる     ものが滅ぼされてしまうのである。 01)モアブについての託宣。   アルは一夜のうちに荒されて、モアブは滅びうせ、   キルは一夜のうちに荒されて、モアブは滅びうせた。   【解説】   託宣(たくせん) = 神からの言葉、おつげ 02)デボンの娘は高き所にのぼって泣き、   モアブはネボとメデバの上で嘆き叫ぶ。   おのおのその頭をかぶろにし、   そのひげをことごとくそった。   【解説】   かぶろ = 頭に髪がないこと。はげ頭   2-3節 頭をかぶろにすることとモアブに下される主の裁きとはどのようなかかわりが      あるか     髪の毛やひげをそることは、古代のイスラエルでは、大きな恥を表す行為であっ     た。それゆえ、この部分は、モアブの見せかけの誇りや繁栄も恥と屈辱に変わっ     てしまうという意味である。邪悪な者たちの悲しみは、イザヤの言う「荒布」と     いう言葉で表されている。また泣き叫んだり涙を流したりすることを職業とする     者についても書かれているが、これは中東地方の悲しみのときの習慣であった。 03)彼らはそのちまたで荒布をまとい、   その屋根または広場で、みな泣き叫び、涙に浸る。 04)ヘシボンとエレアレとは叫び、   その声はヤハズまで聞える。   それゆえ、モアブの兵士は声をあげ、   その魂はおののく。 05)わが心はモアブのために叫び呼ばわる。   その落人はゾアルおよび   エグラテ・シリシヤにのがれ、   泣きながらルヒテの坂をのぼり、   ホロナイムの道で滅びの叫びをあげる。   【解説】   落人(おちうど) = 戦に負け、人目を避けて逃げていく人   イザヤは、モアブがまだ若く、力ある国であることは認識していた。しかし、そうし   た勢力や兵力があったにもかかわらず、イザヤは、北の国々から力ある兵がやって来   てたった3年のうちにモアブを滅ぼすと預言した(16:14)。この預言は、セナケリブ   の下にアッスリヤが侵略したときに成就している。 06)ニムリムの水はかわき、   草は枯れ、苗は消えて、青い物はない。 07)それゆえ、彼らはその得た富と、   そのたくわえた物とを携えて、柳の川をわたる。 08)その叫びの声はモアブの境をめぐり、   その嘆きの声はエグライムにいたり、   またその嘆きの声はベエル・エリムにいたる。 09)デボンの水は血で満ちる。   わたしはデボンの上にさらに災を加え、   モアブののがれた者と   この地の残った者とに、ししを送る。   【解説】   8-9節 モアブの滅亡は広範囲に及んだ     モアブの滅亡の叫びはかなり広範囲に及び、国境を越えて塩の海北西部のエグラ     イムに至った。モアブの味わう悲劇の範囲を示すために、イザヤは、デボンの周     囲にある豊かな牧草地の中心地の水(デモンと呼ばれる)が人々の血で汚される     ことになる、と預言した。言い換えれば、広範囲に及ぶ民の殺害と破壊が起こり、     その敵はモアブの心臓部をも縦走、撃破してしまうということである。イザヤは、     ユダとモアブの関係が変わると言っている。つまり、「しし」すなわちユダが、     生き残ったモアブの逃れた者のところへやって来て、その配下に置くのである。   
第16章   【解説】   パレスチナ地方の預言と歴史。   回復の時代にイスラエルに敵対する者の最期。 01)彼らはセラから荒野の道によって、   小羊をシオンの娘の山に送り、   国のつかさに納めた。 02)モアブの娘らはアルノンの渡しで、   さまよう鳥のように、   巣を追われたひなのようである。   【解説】   渡し(わたし) = 人や貨物を舟で向こう岸に渡すこと。また、その舟や、舟の着く           場所。 03)「相はかって、事を定めよ。   真昼の中でも、あなたの陰を夜のようにし、   さすらい人を隠し、   のがれて来た者をわたさず、 04)モアブのさすらい人を、あなたのうちにやどらせ、   彼らの避け所となって、滅ぼす者からのがれさせよ。   しえたげる者がなくなり、滅ぼす者が絶え、   踏みにじる者が地から断たれたとき、 05)一つの玉座がいつくしみによって堅く立てられ、   ダビデの幕屋にあって、   さばきをなし、公平を求め、   正義を行うに、すみやかなる者が   真実をもってその上に座する」。   【解説】   4,5節はメシヤに関連したもの。 06)われわれはモアブの高ぶりのことを聞いた、   その高ぶることは、はなはだしい。   われわれはその誇と、高ぶりと、   そのおごりとのことを聞いた、   その自慢は偽りである。 07)それゆえ、モアブは泣き叫べ、   民はみなモアブのために泣き叫べ。   全く撃ちのめされて、   キルハレセテの干ぶどうのために嘆け。 08)ヘシボンの畑と、   シブマのぶどうの木とは、しぼみ衰えた。   国々のもろもろの主が、   その枝を打ち落したからである。   その枝はさきにはヤゼルまでいたり、   荒野にまではびこり、   そのつるは広がって海を越えた。 09)それゆえ、わたしはヤゼルと共に、   シブマのぶどうの木のために泣く。   ヘシボンよ、エレアレよ、   わたしは涙をもってあなたを浸す。   ときの声が、あなたの果実と、   あなたの収穫の上にふりかかってきたからである。 10)喜びと楽しみとは土肥えた畑から取り去られ、   ぶどう畑には歌うことなく、   喜び呼ばわることなく、   酒ぶねを踏んで酒を絞る者なく、   ぶどうの収穫を喜ぶ声はやんだ。   【解説】   酒ぶね = 酒を蓄えておく大きな木製の器あるいはぶどうから汁を足で踏        んで搾り出すための大きな入れ物 11)それゆえ、わが魂はモアブのために、   わが心はキルハレスのために、   琴のように鳴りひびく。   【解説】   6-11節 悲惨な悲しみの叫びがモアブ中を襲う     モアブにたとえられる地上の国々は、皆強大な勢力を誇ってはいるが、やがて泣     き叫び、嘆き悲しむことになる。その防衛戦力は無に帰し、豊かな富も食糧も尽     きる。また望む喜びとは裏腹に悲しみがその心の奥深くまで貫くことであろう。     その日、世のあらゆる人々は、邪悪が幸福を生み出すことは決してないとようや     く理解するようになるのである。     モアブはイスラエルの難敵ではあった。それでもなおイスラエルは、自分の犯し     た罪のために大きな悲劇を味わい、また罪に伴う滅びも経験しなければならなか     ったのである。 12)モアブが高き所に出て、おのれを疲れさせ、またその聖所にきて祈っても、効果はない。 13)これは主がさきにモアブについて語られたみ言葉である。 14)しかし今、主は語って言われる、「モアブの栄えはその大いなる群衆にもかかわらず、   雇人の年期とひとしく三年のうちに、はずかしめを受け、残れる者はまことに少なく、   力がない」。   【解説】   12-14節 モアブの日は数えられる     イザヤはここでは、自分が以前に言ったことを再確認しているにすぎない(15:5)。     つまり、ヨルダン川対岸のモアブは3年以内に滅びるということである。
第17章   【解説】   パレスチナ地方の預言と歴史。   【セミナリー解説】   17章では、ダマスコ(スリヤ)とエフライム(北王国)に対する預言が記されている。   ダマスコとエフライムはユダを征服するために同盟を組んだが、攻撃を始める前に北   からアッスリヤが攻めて来て、征服者になるどころか、逆に滅ぼされてしまった。17   章には、この二つの国の滅亡とその影響についての預言が記録されている。   【インスティテュート解説】   力と勢力とは、世の知るとおり、やがて必ず滅びる   ユダの隣接諸国家(スリヤは「ダマスコ」という言葉で表され、イスラエルの北王国   は、エフライムの山の守りとして表されている)を含む世界のあらゆる国々は、主の   民から略奪したほかの国々と同様に、いずれ神の力強い裁きによって滅ぼされること   になる。イスラエルも世の国々も神の手によりその高慢を打ち砕かれる。しかし、   6-8節にあるように、主は、こうした異教徒の残りの者もイスラエルの残りの者と同   様に、失われずにおかれると約束しておられる。「とり残されるもの」(6節)とい   うのは、収穫する者が見逃した実のことである。オリーブの収穫は枝を揺する方法に   よって行われたため、実り多き木の枝にはいつも実が幾つか残された(6節)。イスラ   エルと同様に、この異教徒の中の残された者たちもやがて神に心を向け、偽りの宗教   を捨てることであろう(7-8節)。 01)ダマスコについての託宣。   見よ、ダマスコは町の姿を失って、荒塚となる。   【解説】   託宣(たくせん) = 神からの言葉、おつげ   ダマスコ(スリヤ)は滅びる。 02)その町々はとこしえに捨てられ、   家畜の群れの住む所となって、伏しやすむが、   これを脅かす者はない。 03)エフライムのとりではすたり、   ダマスコの主権はやみ、   スリヤの残れる者は、イスラエルの子らの   栄光のように消えうせると、   万軍の主は言われる。 04)その日、ヤコブの栄えは衰え、   その肥えたる肉はやせ、 05)あたかも刈入れ人がまだ刈らない麦を集め、   かいなをもって穂を刈り取ったあとのように、   レパイムの谷で穂を拾い集めたあとのようになる。   【解説】   かいな = 「うで」の古い言い方。肩からひじまでの部分。 06)オリブの木を打つとき、   二つ三つの実をこずえに残し、   あるいは四つ五つを   みのり多き木の枝に残すように、   とり残されるものがあると、   イスラエルの神、主は言われる。   【解説】   オリブ = モクセイ科の常緑高木。高さ7〜18メートル。葉は細長く、表面        が暗緑色、裏面が銀色で、対生する。5〜7月ごろ、黄白色の        香りのよい花を総状につける。黄緑色の実は熟すると黒紫色        になり、油がとれる。 07)その日、人々はその造り主を仰ぎのぞみ、イスラエルの聖者に目をとめ、 08)おのれの手のわざである祭壇を仰ぎのぞまず、おのれの指が造ったアシラ像と香の祭   壇とに目をとめない。   【解説】   アシラ = 偶像の神 09)その日、彼らの堅固な町々は昔イスラエルの子らのゆえに捨て去られたヒビびとおよ   びアモリびとの荒れ跡のように荒れ地になる。 10)これはあなたがたが自分の救の神を忘れ、   自分の避け所なる岩を心にとめなかったからだ。   それゆえ、あなたがたは美しい植物を植え、   異なる神の切り枝をさし、 11)その植えた日にこれを成長させ、   そのまいた朝にこれを花咲かせても、   その収穫は悲しみと、いやしがたい苦しみの日に   とび去る。 12)ああ、多くの民はなりどよめく、   海のなりどよめくように、彼らはなりどよめく。   ああ、もろもろの国はなりとどろく、   大水のなりとどろくように、彼らはなりとどろく。 13)もろもろの国は多くの水の   なりとどろくように、なりとどろく。   しかし、神は彼らを懲らしめられる。   彼らは遠くのがれて、   風に吹き去られる山の上のもみがらのように、   また暴風にうず巻くちりのように追いやられる。 14)夕暮には、見よ、恐れがある。   まだ夜の明けないうちに彼らはうせた。   これはわれわれをかすめる者の受くべき分、   われわれを奪う者の引くべきくじである。
第18章   【解説】   回復。イスラエルの集合。   アメリカから宣教師が派遣されること。   【セミナリー解説】   18章では、「エチオピヤの川々のかなたなる」国に向かって語られている(1節)。   ほとんどの翻訳者はこの地をクシ――エジプトの南にあったと考えられている国――   と名付けている。18章はここで学ぶほかの章に比べて希望を含んでいるが、18章が何   について述べたものであるか、あるいは何を意味しているかについては、意見が大き   く分かれている。18章には、その国の民は散らされて、はぎとられ、足で踏みつけら   れるが、いずれシオン山に招かれるというイザヤの預言が記録されている。〔日本聖   書協会口語訳では、その国の民は、たけ高く、膚のなめらかな者であり、戦いに勝つ   者となっている。〕この預言によれば、彼らはシオン山で温かく迎えられるようだ。   散らされた民の贈り物が主に贈られることについて述べている章末の1節は、特に興   味深い。地の民を集めて主に会う備えをさせることは、終わりの時における教会の大   いなる目的の一つである。 01)ああ、エチオピヤの川々のかなたなる   ぶんぶんと羽音のする国、   【解説】   エチオピヤの川々のかなたなる国     未知の世界、はるかかなたの国   イザヤは福音がアメリカ大陸の国々にも伝えられることを予見していた。   ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は1節について次のように注釈を加えて   いる。「ここには誤訳がある。正しい訳は『おお、翼の形をした国よ』となるだろう。   さて翼の形をした国をどこか知らないだろうか。地図を思い浮かべていただきたい。   25年ほど前のことであるが、当時のある雑誌がその表紙に、翼の形をしたアメリカ大   陸を採り上げたことがある。二つの翼の間には鳥の体があった。わたしはその雑誌を   保存しておかなかったことをいつも後悔している。この西半球(南北両アメリカ大陸)   は翼の形をしていないだろうか。翼を広げた鳥の形をしていないだろうか。」   「ああ」は英語だと woe 。これは、悲しみ、災いをあらわすが、   これは誤訳で、ヘブライ語では「ホイ」で、英語ではhelloにあたる。   翼の形の国はアメリカ大陸への陽気な呼びかけである。   アメリカ大陸の異邦人から回復が始まる。    02)この国は葦の船を水にうかべ、   ナイル川によって使者をつかわす。   とく走る使者よ、行け。   川々の分れる国の、たけ高く、膚のなめらかな民、   遠近に恐れられる民、   力強く、戦いに勝つ民へ行け。   【解説】   葦 = イネ科の多年草。根茎は地中をはい、沼や川の岸に大群落を      つくる。高さは2〜3メートルになり、茎は堅く、円柱形で、細長      い葉が互生する。   主は御使いを世界中に遣わし、その王国を建てられる。   スミス大管長はさらに次のように説明している。「この船というのは速度の速い船の   ことである。また、散らされ、はぎ取られた民というのは、イスラエルを指している。   〔「たけ高く、膚のなめらかな民」が、『欽定訳聖書』では「散らされ、はぎ取られ   た民」となっている。〕森林が皆伐されたことがあるからである。 03)すべて世におるもの、地に住むものよ、   山の上に旗の立つときは見よ、   ラッパの鳴りひびくときは聞け。   【解説】   旗というのは福音の回復のことである。回復は国々の前に旗として宣言されるからで   ある。だからこそ、現在宣教師は、その散らされたイスラエルを集合させるために出   かけている。また末日聖徒しかこの章を完全に理解できないのは、この章が集合の偉   大な業と深いかかわりを持ち、現在末日聖徒がその業に携わっているからである。 04)主はわたしにこう言われた、   「晴れわたった日光の熱のように、   刈入れの熱むして露の多い雲のように、   わたしは静かにわたしのすまいから、ながめよう」。 05)刈入れの前、花は過ぎて、   その花がぶどうとなって熟すとき、   彼はかまをもって、つるを刈り、枝を切り去る。 06)彼らはみな山の猛禽と、   地の獣とに捨て置かれる。   猛禽はその上で夏を過ごし、   地の獣はみなその上で冬を過ごす。   【解説】   猛禽(もうきん) = 肉食性の大型の鳥類、例:ワシ、タカ 07)その時、川々の分れる国の   たけ高く、膚のなめらかな民、   遠くの者にも近くの者にも恐れられる民、   力強く、戦いに勝つ民から   万軍の主にささげる贈り物を携えて、   万軍の主のみ名のある所、シオンの山に来る。   【解説】   贈り物 = 聖徒たちの正しい行い   聖徒たちが主にささげる贈り物とは何か     聖徒たちは、イスラエルの集合にふさわしい贈り物を主にささげようと決心して     いる。そのために、預言者ジョセフ・スミスが言うように、聖徒たちは、代価な     しで働いている。合衆国全土〔現在では世界中〕に向け、集合の業がミズーリの     西の辺境で開始されたことを宣言し、聖なる町を建てるためである。そこでは、     18章にあるように、贈り物が万軍の主にささげられる。シオンの山とは、現代の     啓示で、新エルサレムと同一のものであることが分かっている。このため、一度     教会が回復され、エフライムが、散らされ、はぎ取られたイスラエルの集合の業     を始めれば、贈り物として回復されたヤコブの家を主にささげることができ、主     もそれを喜ばれるのである。     『エルサレム版聖書(The Jerusalem Bible)』では、18章の聖句に対して、「遠く     の者にも近くの者にも恐れられる民」を「常に恐れられている国」に、また「川     々の分れる国」を「川々が縦横に交わる国」と変更を加えている。この二つの聖     句は恐らくアメリカのことを指している。そこで回復の業が開始されたのである。
第19章   【解説】   近隣諸国に起こること。   回復の時代におけるエジプトの救い。   エジプトはひとたび滅ぼされるが、後に贖われる。   【セミナリー解説】   19-20章には、イザヤの時代に世界の強国の一つであった、エジプトについての預言   が記録されている。イザヤはエジプトの苦難について、またその苦難から逃れるため   に人間や偽りの神々に頼って失敗する様子について預言している。さらに19章には、   いつの日かエジプトとイスラエルが同じ神を礼拝し、エジプトは主によって癒される   という、注目すべき預言が含まれている。その預言によると、アッスリヤもイスラエ   ルやエジプトと一つとなって神を礼拝することが示されている。 01)エジプトについての託宣。   見よ、主は速い雲に乗って、エジプトに来られる。   エジプトのもろもろの偶像は、み前に震えおののき、   エジプトびとの心は彼らのうちに溶け去る。   【解説】   託宣(たくせん) = 神からの言葉、おつげ 02)わたしはエジプトびとを奮いたたせて、   エジプトびとに逆らわせる。   彼らはおのおのその兄弟に敵して戦い、   おのおのその隣に敵し、   町は町を攻め、国は国を攻める。 03)エジプトびとの魂は、   彼らのうちにうせて、むなしくなる。   わたしはその計りごとを破る。   彼らは偶像および魔術師、   巫子および魔法使に尋ね求める。   【解説】   「巫子および魔法使」とは何か     サタンの配下にあって、最も悪質かつ邪悪な行為を行うグループの一つに魔法使     いがいる。この魔法の中には、実際に悪霊と交わりを持つものさえ存在する。魔     法使いとは、こうした魔術に携わったり、黒魔術を行ったり、サタンと盟約を結     んだり、実際に魔法を使ったりする者のことを指している。     もちろん、10月の空を醜い老婆がほうきに乗って飛んで行くといった意味での魔     女は存在しない。そのような神話は、昔背教した諸王国にはびこり、今なお多く     の民の中に見受けられる風習を近代人が少しばかり理解し、戯画化したものなの     である。 04)わたしはエジプトびとをきびしい主人の手に渡す、   荒々しい王が彼らを治めると、   主、万軍の主は言われる。 05)ナイルの水はつき、川はかれてかわく。 06)またその運河は臭いにおいを放ち、   エジプトのナイルの支流はややに減ってかわき、   葦とよしとは枯れはてる。   【解説】   葦 = イネ科の多年草。根茎は地中をはい、沼や川の岸に大群落を      つくる。高さは2〜3メートルになり、茎は堅く、円柱形で、細長      い葉が互生する。   よし = 植物アシの別名 07)ナイルのほとり、ナイルの岸には裸の所があり、   ナイルのほとりにまいた物はことごとく枯れ、   散らされて、うせ去る。 08)漁夫は嘆き、   すべてナイルにつりをたれる者は悲しみ、   網を水のおもてにうつ者は衰える。 09)練った麻で物を造る者と、   白布を織る者は恥じる。   【解説】   8-9節 漁、練った麻、白布といった言葉には、どのような深い意味があるか     この3つは、エジプトの主要産業の代表格であって、そのために高い評価を受け     ていた。漁はこの国家では絶対的に重要であった。練った麻というのは、繊維か     ら織り上げた麻布のことで、これは世界的に有名であった。モーセが、幕屋を造     るに際して聖なる覆いとして使用したのがこの白い布である。白布を織るという     のは、エジプトで広く行われていた綿の服を作る行程のことである。この3つが     皆だめになれば、国にとって大きな痛手となろう。 10)国の柱たる者は砕かれ、   すべて雇われて働く者は嘆き悲しむ。 11)ゾアンの君たちは全く愚かであり、   パロの賢い議官らは愚かな計りごとをなす。   あなたがたはどうしてパロにむかって   「わたしは賢い者の子、いにしえの王の子です」と、   言うことができようか。   【解説】   パロ = エジプトの王の総称、ファラオともいう   議官(ぎかん) = 政府の高官 12)あなたの賢い者はどこにおるか。   彼らをして、   万軍の主がエジプトについて定められたことを   あなたに告げ知らしめよ。 13)ゾアンの君たちは愚かとなり、   メンピスの君たちは欺かれ、   エジプトのもろもろの部族の隅の石たる彼らは、   かえってエジプトを迷わせた。   【解説】   隅の石 = 石造り・煉瓦(れんが)造りの壁の出隅部分に積まれる石。本来        は補強のために行われる 14)主は曲った心を彼らのうちに混ぜられた。   彼らはエジプトをして、   すべてその行うことに迷わせ、   あたかも酔った人の物吐くときに   よろめくようにさせた。 15)エジプトに対しては、頭あるいは尾、   しゅろの枝あるいは葦が   共になしうるわざはない。   【解説】   しゅろ = ヤシ科の常緑高木。高さは5メートル以上になり、幹は直立        し、枝がなく、麻のような毛で覆われる。頂上に群生する葉は        長い柄をもち、手のひら状で大きい。   葦 = イネ科の多年草。根茎は地中をはい、沼や川の岸に大群落を      つくる。高さは2〜3メートルになり、茎は堅く、円柱形で、細長      い葉が互生する。 16)その日、エジプトびとは女のようになり、万軍の主の彼らの上に振り動かされるみ手   の前に恐れおののく。 17)ユダの地は、エジプトびとに恐れられ、ユダについて語り告げることを聞くエジプト   びとはみな、万軍の主がエジプトびとにむかって定められた計りごとのゆえに恐れる。 18)その日、エジプトの地にカナンの国ことばを語り、また万軍の主に誓いを立てる五つ   の町があり、その中の一つは太陽の町ととなえられる。 19)その日、エジプトの国の中に主をまつる一つの祭壇があり、その境に主をまつる一つ   の柱がある。 20)これはエジプトの国で万軍の主に、しるしとなり、あかしとなる。彼らがしえたげる   者のゆえに、主に叫び求めるとき、主は救う者をつかわして、彼らを守り助けられる。 21)主はご自分をエジプトびとに知らせられる。その日、エジプトびとは主を知り、犠牲   と供え物とをもって主に仕え、主に誓願をたててこれを果す。 22)主はエジプトを撃たれる。主はこれを撃たれるが、またいやされる。それゆえ彼らは   主に帰る。主は彼らの願いをいれて、彼らをいやされる。 23)その日、エジプトからアッスリヤに通う大路があって、アッスリヤびとはエジプトに、   エジプトびとはアッスリヤに行き、エジプトびとはアッスリヤびとと共に主に仕える。 24)その日、イスラエルはエジプトとアッスリヤと共に三つ相並び、全地のうちで祝福を   うけるものとなる。 25)万軍の主は、これを祝福して言われる、「さいわいなるかな、わが民なるエジプト、   わが手のわざなるアッスリヤ、わが嗣業なるイスラエル」と。   【解説】   嗣業(しぎょう) = 引き継ぐ財産、次世代に渡す所有地等   11-25節 この苦悩には、エジプトに下される裁き以外の意味もあるのか     再びイザヤは両義的な表現を用いて預言をしている。エジプトについてのイザヤ     の「苦悩」というのは、(1)イザヤの時代と将来の2度にわたって実際に成就し、     エジプトとその民が味わうことになる苦悩、(2)末の日の世界に関することで霊     的な意味で成就する苦悩、の二つである。     イザヤはある句を用いて、自分の示現の一部が終わりの日にかかわりがあると読     者に警告している。16,18,19,23,24の各節にある「その日」という表現は、将来     成就するということである。     ブルース・R・マッコンキー長老は、なぜイザヤがエジプト、モアブ、バビロン     といった隣国を使って末日の邪悪な行いについて書き留めたのか、その理由を推     測した文献を引用して、次のように言っている。「世界についていえば、バビロ     ンは偶像礼拝の、エジプトは暴政の、ソドムは極端な腐敗の、エルサレムは霊的     な特権を口実に高潔を装う偽善性の、それぞれ代表格であった。エルサレムは終     始、キリストの仲間であるかのどとく振る舞いながらキリストを殺すのである。」   11-25節 この預言はどのようにして成就するか     11-14節では、エジプトの主要都市の指導者たちは愚かになり、その国を救えな     くなるとはっきり断言している。ゾアンはタニス、メンピスはノフのことである。     16節と17節にある預言、すなわち、末の日にユダはエジプト人を恐れおののかせ     るとの預言は、1967年の六日戦争で部分的には成就したといえよう。このときイ     スラエルは開戦直後の2日間でエジプト軍の大半を撃破した。24節と25節は、末     日聖徒にとって特に興味深い。エジプトやその地域の国々が回復された福音を喜     んで受け入れる日がやがて訪れると約束されているからである。   23-25節 この預言について霊的な意味で成就するものがあるとすればそれは何か     23-25節の意味についてははっきりしていない。この部分は、将来イスラエルと     エジプトやアッスリヤ(あるいはこうした昔の国々の領土のうえに現在存在して     いる国々)との間で同盟が結ばれる可能性があることを示唆している。カイルと     デリッチはこの同盟について、次のように説明している。「イスラエルは、いま     や『全地の中にあって』祝福となるという召しの偉大な終焉の時を迎えようとし     ている。ここではあらゆる国々という意味で、エジプトとアッスリヤが代表して     使われている。それまでのところ、エジプトとアッスリヤに挟まれた地理的状況     は、イスラエルにとって不利にしか働いてこなかった。エフライム王国の歴史も、     ユダ王国の歴史もその事実をはっきりと証明している。もしイスラエルがエジプ     トを頼れば、それらは自らを欺くことになり、また欺かれることになる。反対に     アッスリヤを頼れば、それはただアッスリヤの奴隷になることであり、エジプト     を敵に回すことになる。こうしてイスラエルは、東西の二大強国に挟まれて非常     に苦しい立場にあったのである。この状態がどのように変わるのであろうか。エ     ジプトとアッスリヤはエホバの下に一つとなり、イスラエルは3番目にその聖約     に加わる。もはやイスラエルだけが神の国、神の創られたもの、神の受け継ぎな     のではなく、いまやエジプトにもアッスリヤにもイスラエルと同様に、この言葉     がことごとく当てはまるのである。」
第20章   【解説】   近隣諸国に起こること。   神はエチオピアとアッスリヤに裁きが差し迫っていることを警告した。   「裸」とは腰布のみを着けている状態であり、当時の奴隷の服装であった。   【セミナリー解説】   20章では、アッスリヤがエジプト人を連れ去るという預言が語られている。――ここ   でもまた、アッスリヤに対抗して他国と手を結ぶことが得策ではないことがユダの民   に示されている。 01)アッスリヤの王サルゴンからつかわされた最高司令官がアシドドに来て、これを攻め、   これを取った年、――   【解説】   この最高司令官とはだれか     この最高司令官は名をタルタンといい、王の給仕役であった。タルタンはサルゴ     ンの最も信任篤い僕であった。恐らくセナケリブのエルサレム攻略の際に司令官     となったのであろう。(列王下18:17) 02)その時に主はアモツの子イザヤによって語って言われた、「さあ、あなたの腰から荒   布を解き、足からくつを脱ぎなさい」。そこでイザヤはそのようにし、裸、はだしで   歩いた。――   【解説】   イザヤが「裸、はだしで」歩いたというのはどういうことか     東洋では衣服はきわめて重視されており、その点で特に敏感で慎み深い感情を持     っている地域では、上着を脱いだだけでも、裸になったと考えられていた。それ     ゆえ、イザヤが指示されて行ったことは、一般的な習慣に反していただけであり、     決して道徳的に退廃した行為ではない。イザヤは、嘆く者、悔い改めを説く者と     しての衣服を脱ぎ捨て、上衣だけしか身に着けていない状態となった。このよう     な姿で、しかもはだしで公衆の面前に姿を現したのである。 03)主は言われた、「わがしもべイザヤは三年の間、裸、はだしで歩き、エジプトとエチ   オピヤに対するしるしとなり、前ぶれとなったが、 04)このようにエジプトびとのとりことエチオピヤびとの捕われ人とは、アッスリヤの王   に引き行かれて、その若い者も老いた者もみな裸、はだしで、しりをあらわし、エジ   プトの恥を示す。 05)彼らはその頼みとしたエチオピヤのゆえに、その誇としたエジプトのゆえに恐れ、か   つ恥じる。 06)その日には、この海べに住む民は言う、『見よ、われわれが頼みとした国、すなわち   われわれがのがれて行って助けを求め、アッスリヤ王から救い出されようとした国は   すでにこのとおりである。われわれはどうしてのがれることができようか』と。」
第21章   【解説】   近隣諸国に起こること。   しかし再臨を象徴している。   13章-21章は全体としてカイアズマスの構造になっている。   A 13,14章 バビロン(サタン)   B 15,16章 モアブ   C 17章 ダマスコ   C 18章 アメリカ大陸、イスラエルの集合 ← 一番言いたいこと   B 19,20章 エジプト   A 21章  海の荒れ野 = バビロン(サタン)   【セミナリー解説】   21章では、3つの国――バビロン(1-10節)、エドム(11-12節)、アラビヤ(13-17   節)――の最終的な滅亡が語られている。10節で、主はイスラエルの家に属する者の   うち、特にイザヤの時代から200年近く後に囚われの身となってバビロンに住み、バ   ビロンが滅亡するというこの預言から励ましを得る必要のある人々に向けて語ってお   られる。 01)海の荒野についての託宣。   つむじ風がネゲブを吹き過ぎるように、   荒野から、恐るべき地から、来るものがある。   【解説】   海の荒れ野 = バビロン、同時にサタンの王国を指す   託宣(たくせん) = 神からの言葉、おつげ   1-2節 「海の荒野」とは何か     この語句の使用については、多くの注解者も頭を悩ませている。この託宣は特定     の国々に向けられたものである。しかし、実際にどの国なのかは明らかにされて     いない。カイルとデリッチは、イザヤはここで象徴的な名前を用いて暗にバビロ     ンのことを指して言いたのではなかろうか、と考えている。バビロンは、ユフラ     テ峡谷の灼熱の不毛の平野にあった。しかし、それよりも昔、洪水調整用のせき     ができる以前は、毎春ユフラテ川の増水期に、平野全体が洪水に見舞われていた。     それゆえ、バビロンは、荒れ野の中にもあり、海の上にもあった。この解釈はエ     レミヤがバビロンについて「多くの水のほとりに住む」(エレミヤ51:13)バビロ     ン、と書き、その水もやがて「かわく」(エレミヤ50:38)と約束していること     から、妥当なものではないかと思われる。霊的、また象徴的な意味で、ヨハネは     バビロンが多くの水の上に座っていると書いている。さらに続けて、この水は地     上のあらゆる国民、民族を表すと説明している(黙示17:1,15)。もしイザヤが同     じ意味で使ったとすれば、海はバビロンの支配を表し、荒れ野はその支配がやが     て崩れることを表すことになろう。 02)わたしは一つのきびしい幻を示された。   かすめ奪う者はかすめ奪い、   滅ぼす者は滅ぼす。   エラムよ、のぼれ、メデアよ、囲め。   わたしはすべての嘆きをやめさせる。   【解説】   エラムとメデアは滅びる。 03)それゆえ、わが腰は激しい痛みに満たされ、   出産に臨む女の苦しみのような苦しみが   わたしを捕えた。   わたしは、かがんで聞くことができず、   恐れおののいて見ることができない。 04)わが心はみだれ惑い、   わななき恐れること、はなはだしく、   わたしのあこがれたたそがれは   変っておののきとなった。   【解説】   3-10節 なぜイザヤは自分の受けた示現のためにそれほどまで悲しんだのか     イザヤに下された示現によって引き起こされた苦痛はきわめて強烈であったため、     へプライ語の表現では、イザヤの心境が単なる悲しみ以上のものであったことが     詳細に書き記されている。カルカラというのは、けいれんによって起こる引きつ     けのことである。ナホム2:10にその例がある。ツィリムというのは、分娩のとき     の痛みを適切に表現する語である。ナ・アバという語は腰をかがめる、あるいは     曲げるという意味であり、また苦痛が発作的に起こるという意味を表すときにも     用いる。タ・アという語は、詩篇95:10とは異なった意味で用いられているが     (しかしながら、詩篇38:11は参照)、心拍が急に不規則になるという意味であ     る。このイザヤは夕方と夜の闇をひたすら愛し(ここで使われているチェシェク     という語は、好むものに対する望みという意味で、列王上9:1,19にもその例があ     る)、かつ待ち望んだ預言者である。沈思黙考する時が欲しかったのかもしれな     いし、身も心もその働きから休ませたいと考えたのかもしれないが、その闇も、     恐ろしい示現によって、おののきへと変えられてしまったのである。 05)彼らは食卓を設け、   じゅうたんを敷いて食い飲みする。   もろもろの君よ、立って、盾に油をぬれ。 06)主はわたしにこう言われた、   「行って、見張りびとをおき、   その見るところを告げさせよ。 07)馬に乗って二列に並んだ者と、ろばに乗った者と、   らくだに乗った者とを彼が見るならば、   耳を傾けてつまびらかに聞かせよ」。 08)その時、見張びとは呼ばわって言った、   「主よ、わたしがひねもすやぐらに立ち、   夜もすがらわが見張所に立っていると、   【解説】   ひねもす = 一日中   夜もすがら = 一晩中 09)見よ、馬に乗って二列に並んだ者がここに来ます」。   彼は答えて言った、   「倒れた、バビロンは倒れた、   その神々の像はことごとく打ち砕かれて   地に伏した」。 10)ああ、踏みにじられたわが民、わが打ち場の子よ、   イスラエルの神、万軍の主から   わたしが聞いたところのものを   あなたがたに告げる。   【解説】   打ち場 = 打つ場所、脱穀の場所   踏みにじられるという語にはどのような意味があるか     イスラエルは踏みにじられた。畑の作物をなぎ倒され、打たれ、バビロンへと囚     われて行ったのである。この節は、22章に多少詳しく書かれている出来事の預言     とも考えられる。(特に「踏みにじられる」という言葉の意味内容については     2-4節を参照。 11)ドマについての託宣。   セイルからわたしに呼ばわる者がある、   「夜回りよ、今は夜のなんどきですか、   夜回りよ、今は夜のなんどきですか」。 12)夜回りは言う、   「朝がきます、夜もまたきます。   もしあなたがたが聞こうと思うならば聞きなさい、   また来なさい」。 13)アラビヤについての託宣。   デダンびとの隊商よ、   あなたがたはアラビヤの林にやどる。 14)テマの地に住む民よ、   水を携えて、かわいた者を迎え、   パンをもって、逃げのがれた者を迎えよ。   【解説】   アラビヤとテマは滅びる。 15)彼らはつるぎを避け、抜いたつるぎを避け、   張った弓を避け、また激しい戦いを避けて、   逃げてきたからである。 16)主はわたしにこう言われた、「雇人の年期のように一年以内にケダルのすべての栄華   はつきはてる。   【解説】   ケダルは滅びる。 17)ケダルの子らの勇士で、射手の残る者は少ない」。これはイスラエルの神、主が語ら   れたのである。   【解説】   11-17節 アラブ人やエドム人が登場するが、それにはどんな意味があるのか     イザヤは、イスラエルに隣接するおもな姉妹国家がことごとく滅びることを、終     わりの日に邪悪な者とその組織に下されるはずの裁きの象徴として用いたが、こ     こでも、ほぼ挿入句的に、東方の小国家も滅びると預言している。ドマというの     は、アラビア砂漠北部の中心にある。デダンびとというのは、紅海沿岸のアカバ     湾南東にあるデダンの地の住民といわれている。ケダルはヘルモン山の東にある     地域で、その中にはバシャンと呼ばれる地域も含まれる。   バビロン、ドマ、アラビア。これらは当時、行くことのできる世界で、全世界の象徴。   全世界が、終わりの日には滅びる。
第22章   【解説】   近隣諸国に起こること。   しかし再臨を象徴している。   【セミナリー解説】   22章ではエルサレムの崩壊について述べられている。この「悩み」すなわち憂うつな   メッセージが取り除かれ、エルサレムがいつまでも平和になるときのことが語られて   いる。〔この「悩み」という言葉は、日本聖書協会口語訳では「託宣」と訳されてい   る。〕この預言の中で、イザヤはエルサレムが滅亡する際に起きることと、エルサレ   ムが滅びる理由も説明している。民は水の問題を解決するために築いたトンネルや運   河を誇っていたが、水を創造された主を礼拝することなく、すべての祝福が神から来   ることを認めなかった(11節参照)。また、周囲の国々が滅ぼされるという預言を聞   いても謙遜になって悔い改めることなく、反対にそのことを喜び祝う民を、イザヤは   非難した(12-14節参照)。また22章には、重要な象徴的意味を持つ短い史実が書い   てある。これはエルサレムの金庫番であったセブナについてであり、当時のエルサレ   ムの民の態度をも象徴している。イザヤはセブナがエルサレムの富を誇っていること   を非難した。イザヤは、エルサレムの宝物の多くがアッスリヤに奪い去られるだけで   なく、エルサレムの最も高価な富でさえアッスリヤの王の家では「最も価値のない」   ものになると言った(18節参照)。さらにイザヤは、ヘブライ語で「神があなたを起   こされるであろう」という意味のエリアキムという名の人物がセブナに取って代わる   と預言した。この名前の意味と出来事には重要な象徴があった。宝物の代わりに神を   愛することによってのみ、エルサレムは滅亡から贖われる。エルサレムが神に立ち返   るとき、再び聖なる町として立ち上がる。エリアキムという名は贖罪を指し示すとい   う点で、さらに偉大な象徴的意味を持っている。イエス・キリストの贖罪のおかげで、   神は人をよみがえらせ、この世のあらゆる滅亡、失望、死に打ち勝つ機会を持てるよ   うにしてくださる。22章の最後の節で、イザヤは釘を「堅い所」にしっかり固定する   ことにたとえて、この贖いが持つ大いなる力を証している。この比喩表現は、イエス   ・キリストが与えてくださった永久的な贖いと、主がどのようにして亡くなられ、全   人類のために救いを確かなものとされるかを象徴していた。 01)幻の谷についての託宣。   あなたがたはなぜ、みな屋根にのぼったのか。   【解説】   託宣(たくせん) = 神からの言葉、おつげ   幻の谷とはエルサレム   エルサレムが攻撃される。   現在、エルサレム(平和の町)では、3宗教の聖地なので戦争は起きないとされる。   1-7節 「幻の谷」とはどういう意味か     イザヤがここでエルサレムを指して言ったことは間違いない(9節)。エルサレム     はイザヤにとって故郷の町であり、また数々の示現や啓示を受けた場所でもある     ため、イザヤがエルサレムを指して、幻(示現)の地と呼んだとしても何ら驚く     には当たらない。     主は、まず、イスラエルの敵が罰を受けずに済むことはないということを、種々     の「苦悩」が下されるという託宣によって明確にされ(13-21章)、その後イザヤ     に指示を出されて、再び以前の主題に戻している。すなわち、イスラエルもユダ     も神の裁きを招くという主題である。こうして、世に対する宣言に引き続いて、     エルサレムに対する宣言も付け加えられた。エルサレムもすでに世の一部となっ     ていたからである。 02)叫び声で満ちている者、   騒がしい都、喜びに酔っている町よ。   あなたのうちの殺された者は   つるぎで殺されたのではなく、   また戦いに倒れたのでもない。 03)あなたのつかさたちは皆共にのがれて行ったが、   弓を捨てて捕えられた。   彼らは遠く逃げて行ったが、   あなたのうちの見つかった者はみな捕えられた。 04)それゆえ、わたしは言った、   「わたしを顧みてくれるな、   わたしはいたく泣き悲しむ。   わが民の娘の滅びのために、   わたしを慰めようと努めてはならない」。 05)万軍の神、主は幻の谷に   騒ぎと、踏みにじりと、混乱の日をこさせられる。   城壁はくずれ落ち、叫び声は山に聞える。 06)エラムは箙を負い、   戦車と騎兵とをもってきたり、   キルは盾をあらわした。   【解説】   箙(えびら) = 矢を入れる武具 07)あなたの最も美しい谷は戦車で満ち、   騎兵はもろもろの門にむかって立った。 08)ユダを守るおおいは取り除かれた。   その日あなたは林の家の武具を仰ぎ望んだ。   【解説】   林の家とは何か     林の家は、武具などを保管、陳列するためにソロモンがシオンに建てたものであ     り、外周を支える4列の杉の柱にちなんでこう呼ばれていた。(これは宮殿前庭     の中心部にあった。)   8-13,17節     ユダが滅びる。 09)またあなたがたはダビデの町の破れの多いのを見、下の池の水を集め、 10)エルサレムの家を数え、またその家をこわして城壁を築き、 11)一つの貯水池を二つの城壁の間に造って古池の水をひいた。しかしあなたがたはこの   事をなされた者を仰ぎ望まず、この事を昔から計画された者を顧みなかった。 12)その日、万軍の神、主は   泣き悲しみ、頭をかぶろにし、   荒布をまとうことを命じられたが、   【解説】   かぶろ = 頭に髪がないこと。はげ頭 13)見よ、あなたがたは喜び楽しみ、   牛をほふり、羊を殺し、   肉を食い、酒を飲んで言う、   「われわれは食い、かつ飲もう、   明日は死ぬのだから」。   【解説】   12-13節 泣き悲しめという呼びかけ     イザヤがここで使っている表現は、明らかに、大いなる悲しみと苦しみのしるし     である。かぶろにする(自然にはげることではなく、頭髪をそり落とす)ことは     大きな恥であったし、大きな災難という意味もあった(3:24と比較)。主はここ     で、ユダは裁きが迫っていることに気づいたら、それは心から悔い改めよとの呼     びかけとして受け止め、荒布をまとって頭をかぶるにすべきではなかったかと言     われているのである。ところが反対に、まるで楽しい祝宴に招待されてでもいる     かのような気になって世の中に合わせ、「われわれは食い、かつ飲もう、明日は     死ぬのだから」と繰り返し歌っていたのである。危機的な状況に陥ったときの邪     悪な人々の常として、彼らは悔い改めよりも、欲望の充足の方を選ぶのである     (17-19節)。 14)万軍の主はみずからわたしの耳に示された、   「まことに、この不義はあなたがたが死ぬまで、   ゆるされることはない」と、   万軍の神、主は言われる。 15)万軍の神、主はこう言われる、「さあ、王の家をつかさどるこの執事セブナに行って   言いなさい、   【解説】   15-19節 セブナは悪い役人 16)『あなたはここになんの係わりがありますか。あなたはだれの縁故でここに自分のた   めに墓を掘ったのですか。あなたは高い所に墓を掘り、岩をうがって自分のためにす   みかを造った。   【解説】   高い所 = 「高き所」。祭壇のある場所、神に犠牲を捧げる場所 17)強い人よ、見よ、主はあなたを激しくなげ倒される。主はあなたを堅くつかまえ、 18)ぐるぐるまわして、まりのように広々した地に投げられる。主人の家の恥となる者よ、   あなたはそこで死に、あなたの華麗な車はそこに残る。 19)わたしは、あなたをその職から追い、その地位から引きおろす。 20)その日、わたしは、わがしもべヒルキヤの子エリアキムを呼んで、   【解説】   20-25節 エリアキムは正しい人、権威を譲られる。   20-25節     主はユダを贖われる。キリストが十字架にかけられることも記されている。 21)あなたの衣を着せ、あなたの帯をしめさせ、あなたの権力を彼の手にゆだねる。彼は   エルサレムの民とユダの家との父となる。 22)わたしはまたダビデの家のかぎを彼の肩に置く。彼が開けば閉じる者なく、彼が閉じ   れば開く者はない。   【解説】   かぎ = 神権   彼 = キリスト   救い主は天父の元に通じる扉を開かれる。 23)わたしは彼を堅い所に打ったくぎのようにする。そして彼はその父の家の誉の座となり、   【解説】   釘はイエス・キリスト。キリストへの権威の移譲を表している。 24)その父の家のすべての重さは彼の上にかかる。すなわちその子、その孫およびすべて   の小さい器、鉢からすべてのびんにいたるまでみな、彼の上にかかる』」。 25)万軍の主は言われる、「その日、堅い所に打ったくぎは抜け、切られて落ちる。その   上にかかっている荷もまた取り去られる」と主は語られた。   【解説】   21-25節はメシヤに関連したもの。   15-25節 キリストの表象     ユダの宮廷の役人の長であったセブナは、高慢、邪悪になり(15-16参照)、その     ため主に拒まれていた(17-19節)。エリアキムは祭司ヒルキヤの息子で義人であ     った。主はエリアキムの権勢や権威や地位は後になって授けられるとは言われて     いるものの(イザヤ36:3;37:2)、この章の最後の数節での使われ方を見ると、     エリアキムは明らかに救い主の予型である。ここの表現は、実際にはエリアキム     の権威について書いたものであることは確かであるが、同時にイエス・キリスト     を表す表現でもある。イエスは最終的には、セブナのような高慢の極みに達した     イスラエルの支配者たちに代わって立つことになるからである。     エリアキムという語は「主の復活」あるいは「わが神、立ち上がりたもう」とい     う意味である。これから見ても、その名前もキリストの予型だったのである。救     いと永遠の命の望みは、エリヤキムすなわちイエス・キリストの死からの復活を     通してのみもたらされる。     族長イスラエルがその息子ユダに祝福を授けたとき、ほかのことに加えて次のよ     うに言っている。「つえはユダを離れず、立法者のつえはその足の問を離れるこ     となく、シロの来る時までに及ぶであろう。もろもろの民は彼に従う。」(創世     49:10)それゆえ、イスラエルを治める権能はユダが受け継いでおり、ダビデ王     国の統治の時代にはそれがきわめてはっきりしていた。ダビデの家の鍵は、国家     を支配する権能であり、真正の統治権を象徴していた。これは聖なる神権の権能     によってのみ受け継がれるものである。この権能の中心はイエス・キリストにあ     った。イエスは「開き」「閉じる」権能が授けられていて、この権能をしのぐこ     とができる者はだれもいなかった。ヨハネもイザヤもともに、ダビデの鍵すなわ     ち統治権はいずれ世の救い主の両肩に置かれることをはっきりと示している(イ     ザヤ9:6;黙示3:7)。     「堅い所に打ったくぎ」(23節)という表現は明らかに救い主のことを表してい     るし、また実際の十字架上の苦しみの象徴であるが、「苦痛のためにおののき、     あらゆる毛穴から血を流し、体と霊の両方に苦しみを受けた」(教義と聖約19:18)     と言われる主の苦悩全体のごく一部を表しているだけである。堅い所に打ち込ま     れた十字架上の釘がちょうど受刑者の体をしっかりと支えたと同様に、救い主御     自身も、救いを確かにしたいと望む者にとっては、堅い所に打った釘なのである。     主は一人として失うことがないように権能を授けられたからである。キリストが     贖われた者を御父のもとに連れて行くと、栄光は主御自身のものとなり、贖われ     た者たちとその子たちは、キリストの王座のもとで天の家族の一員となるのであ     る。
第23章   【解説】   近隣の町、民に対する宣告。   ツロについての託宣。外国について。   ツロは最大の港町で、バビロンと比較される。   ツロが7年のうちに滅びる。   【セミナリー解説】   フェニキアの町ツロについての預言が書いてある23章は、イスラエルとユダの周辺諸   国の崩壊を預言している章の最後に当たる。ツロは世界の宝物の売買に没頭していた   町だった。ツロの住民にとっては、いつでもこの世の物事が、神やほかの何よりも大   切だった。イザヤはツロを遊女と呼んでいる。これは、ある意味で民が自分自身と、   自分と神との神聖な関係を、金のために売っていたことを象徴している。遊女が自分   の神聖な徳を金のために売るのとほとんど同じように。   【インスティテュート解説】   ツロに対する主の厳しい言葉     周辺異教国への預言と彼らの様々な罪悪を糾弾する言葉は、この章で一応の区切     りを見る。近い将来バビロンが世界の覇権を握ることになってはいたが、ツロは     当時の世界を動かしていたし、また商業の中心地でもあった。それゆえ、世界の     富の流通の鍵を握っていたことを考えれば、ここで主が別々に警告を与えられる     のは的を射たことであった。 01)ツロについての託宣。   タルシシのもろもろの船よ、泣き叫べ、   ツロは荒れすたれて、家なく、   船泊まりする港もないからだ。   この事はクプロの地から彼らに告げ知らせられる。   【解説】   託宣(たくせん) = 神からの言葉、おつげ   タルシシ、クプロはそれぞれどこにあったか     恐らくタルシシというのは、現在スペインと呼ばれている地域の古名であろう。     ここは、航海貿易においてツロのいわば姉妹商業都市であった。クプロは、現在     のキプロスのことである。この当時、フェニキヤが世界貿易の中心地であったと     見てもよい。    02)海べに住む民よ、   シドンの商人よ、もだせ、   あなたがたの使者は海を渡り、   大いなる水の上にあった。   【解説】   もだせ = もだす(黙す)口をつぐみ、黙ること   2-3節 都市国家シドン     シドンはフェニキヤでは古い方の都市である。一方ツロはまだ新しい都市だが、     アッスリヤの時代にはその規模がはるかに勝っていた。シドンはその収益をシホ     ル(エジプトのナイル川流域)の穀物から上げており、その商人たちの名は、同     国人たちからは大商人との誉れを受けて、広く知れ渡っていた。 03)ツロの収入はシホルの穀物、   ナイル川の収穫であった。   ツロはもろもろの国びとの商人であった。 04)シドンよ、恥じよ、   海は言った、海の城は言う、   「わたしは苦しまず、また産まなかった。   わたしは若い男子を養わず、   また処女を育てなかった」。 05)この報道がエジプトに達するとき、   彼らはツロについての報道によって、いたく苦しむ。 06)タルシシに渡れ、   海べに住む民よ、泣き叫べ。 07)これがその起源も古い町、   自分の足で移り、遠くにまで移住した町、   あなたがたの喜び誇る町なのか。 08)ツロにむかってこれを定めたのはだれか。   ツロは冠を授けた町、   その商人は君たち、   その貿易業者は地の尊い人々であった。 09)万軍の主はすべての栄光の誇を汚し、   地のすべての尊い者をはずかしめるために   これを定められたのだ。 10)タルシシの娘よ、   ナイル川のようにおのが地にあふれよ。   もはや束縛するものはない。 11)主はその手を海の上に伸べて   国々を震い動かされた。   主はカナンについて詔を出し、   そのとりでをこわされた。 12)主は言われた、   「しえたげられた処女シドンの娘よ、   あなたはもはや喜ぶことはない。   立って、クプロに渡れ、   そこでもあなたは安息を得ることはない」。 13)カルデヤびとの国を見よ、アッスリヤではなく、この民がツロを野の獣のすみかに定   めた。彼らはやぐらを建て、もろもろの宮殿をこわして荒塚とした。 14)タルシシのもろもろの船よ、   泣き叫べ、あなたがたのとりでは荒れすたれたから。 15)その日、ツロはひとりの王のながらえる日と同じく七十年の間忘れられ、七十年終っ   て後、ツロは遊女の歌のようになる、 16)「忘れられた遊女よ、   琴を執って町を経めぐり、   巧みに弾じ、多くの歌をうたって、   人に思い出されよ」。 17)七十年終って後、主はツロを顧みられる。ツロは再び淫行の価を得て、地のおもてに   ある世のすべての国々と姦淫を行い、 18)その商品とその価とは主にささげられる。これはたくわえられることなく、積まれる   ことなく、その商品は主の前に住む者のために豊かな食物となり、みごとな衣服となる。   【解説】   14-18節 なぜツロは遊女と呼ばれたか     バビロンと同様、ツロも邪悪な国々の代表格的な存在であり、やがて神の裁きが     下されることになっていた。バビロンも、ツロも、世界の国々と姦淫を行う(悪     事に加担する)遊女のようなものと考えられていたのである(15,17-18節)。70年     というのは、裁きまでの年月を指しているのかもしれない。18節には、ツロ(世     界)の商品は最終的にはエホバの王国を築くために適切に使われる、と書かれて     いる。
第24章   【解説】   末日の背教と再臨。   関連:教義と聖約1。   【セミナリー解説】   邪悪な世界は滅ぼされる   様々な国の滅亡について語った章に続けて(13-23章参照)、24章では全地における   滅亡について語られている。24章は、特にイスラエルの民とその悪事のために起こる   ことを表しているが、再臨に先立つ終わりの時にも当てはまる。滅亡について多くの   ことが語られているために、24章は読む人を非常に落胆させるように思えるが、この   章には命を助けられる義人についての、希望のメッセージも少し含まれている。この   希望に満ちたメッセージは、この後の数章でさらに力強いものになる。 01)見よ、主はこの地をむなしくし、   これを荒れすたれさせ、これをくつがえして、   その民を散らされる。   【解説】   荒れすたれさせる = 滅ぼす   散らす = 国外に散らす   1-6節 主はどの時代に向けて、またどの人々に向けて語っておられたのか     ある意味では、1-6節で語られている背教に関する内容はどの時代にも当てはま     るものである。この部分では、主がこの地を「むなしく」(1節)される時代のこ     とについて書かれている。そのときには、民が地を汚すがゆえに、主はその住民     を吹き散らされるのである。「これは彼らが〔神の〕律法にそむき、儀式を変え、     とこしえの契約を破ったからだ。」(欽定訳5節)その結果、地球は「焼かれて、     わずかの者が残される。」(6節) 02)そして、その民も祭司もひとしく、   しもべも主人もひとしく、   はしためも主婦もひとしく、   買う者も売る者もひとしく、   貸す者も借りる者もひとしく、   債権者も債務者もひとしく、この事にあう。   【解説】   債権者(さいけんしゃ) = お金や法律的によって他人を拘束する人   債務者(さいむしゃ) = お金や法律的によって他人を拘束される人   嵐は悪人にも義人にもくる。悪人は砂の上に、義人は岩の上に家を建てる。   岩の上に家を建てても嵐はくるが、義人は嵐に耐えられる。   その民も祭司もひとしく     スペンサー・W・キンポール大管長は次のように言っている。     「『祭司』はあらゆる宗派の指導者全体を指している。イザヤは言う。『地はそ     の住む民の下に汚された。これは彼らが律法にそむき、儀式を変え、とこしえの     契約を破ったからだ。』(欽定訳5節)耳障りな声の中に、人々の汚れを促し、     人々が堕落していくのを黙認し、神の全知を否定する多くの聖職者の声があるこ     とに、わたしたちは衝撃を受けている。自らの宗教を固く擁護するはずの彼らが     俗世の叫びに屈してしまったのである。ここで、新聞、雑誌から記事を幾つか引     用してみたい。『多くの聖職者はマリファナについて是か非かの解答を出すこと     を渋っている。』『マリファナの是非は環境によって異なる。』このようにして、     彼らはすべての罪を闇に葬ってしまう『情況倫理』を作り出したのである。     ある宗教の指導者たちはこう述べている。『キリスト教徒に与えられている厳格     な行動規範は、必ずしも性的な問題に当てはめる必要はない。』     次にこれと対照的な、預言者の力強い声を聞いてみよう。ペテロは次のように預     言している。     『しかし、民の間に、にせ預言者が起ったことがあるが、それと同じく、あなた     がたの間にも、にせ教師が現れるであろう。彼らは、滅びに至らせる異端をひそ     かに持ち込み、自分たちをあがなって下さった主を否定して、また、大ぜいの人     が彼らの放縦を見習うのである。』 03)地は全くむなしくされ、全くかすめられる。   主がこの言葉を告げられたからである。   【解説】   全く = 完全に 04)地は悲しみ、衰え、   世はしおれ、衰え、   天も地と共にしおれはてる。   【解説】   しおれる = 強さを失う 05)地はその住む民の下に汚された。   これは彼らが律法にそむき、定めを犯し、   とこしえの契約を破ったからだ。   【解説】   定め = 神聖な儀式   とこしえの契約(5節) = 福音の律法と約束   この節は英語の欽定訳では次のようになっている。     地はその住む民の下に汚された。     これは彼らが律法にそむき、儀式を変え、     とこしえの契約を破ったからだ。   儀式を変えることは、なぜそれほど重大なことだったか     福音の儀式は、神が人のために定められた一つの手段である。人は儀式を通して、     肉欲を克服して霊的に再生し、神に似た者となることができるのである。どの儀     式も、霊的な真理を教え、人を神に似た者とするために、神が定められた。その     儀式が変えられれば、人を救うための力も失われてしまうのである。預言者ジョ     セフ・スミスは、儀式について次のように言っている。「もしも儀式に変化がな     ければ神権にも変化がない。福音の儀式が執り行われるところには必ず神権が存     在する。」 06)それゆえ、のろいは地をのみつくし、   そこに住む者はその罪に苦しみ、   また地の民は焼かれて、わずかの者が残される。   【解説】   のみつくす = 滅ぼす   罪に苦しむ = 罰を受けている状態にある   6-12節 背教の結果     神の永遠の聖約を破ったことに対し定められた罰は、火で焼かれることである。     この箇所は、滅びに伴う大いなる悲しみについて書いている。 07)新しいぶどう酒は悲しみ、ぶどうはしおれ、   心の楽しい者もみな嘆く。   【解説】   しおれる = 強さを失う 08)鼓の音は静まり、   喜ぶ者の騒ぎはやみ、   琴の音もまた静まった。 09)彼らはもはや歌をうたって酒を飲まず、   濃き酒はこれを飲む者に苦くなる。 10)混乱せる町は破られ、   すべての家は閉ざされて、はいることができない。 11)ちまたには酒の不足のために叫ぶ声があり、   すべての喜びは暗くなり、   地の楽しみは追いやられた。 12)町には荒れすたれた所のみ残り、   その門もこわされて破れた。 13)地のうちで、もろもろの民のなかで残るものは、   オリブの木の打たれた後の実のように、   ぶどうの収穫の終った後にその採り残りを   集めるときのようになる。   【解説】   オリブ = モクセイ科の常緑高木。高さ7〜18メートル。葉は細長く、表面        が暗緑色、裏面が銀色で、対生する。5〜7月ごろ、黄白色の        香りのよい花を総状につける。黄緑色の実は熟すると黒紫色        になり、油がとれる。 14)彼らは声をあげて喜び歌う。   主の威光のゆえに、西から喜び呼ばわる。   【解説】   威光 = 偉大さ 15)それゆえ、東で主をあがめ、   海沿いの国々でイスラエルの神、主の名をあがめよ。 16)われわれは地の果から、さんびの歌を聞いた、   「栄光は正しい者にある」と。   しかし、わたしは言う、「わたしはやせ衰える、   わたしはやせ衰える、わたしはわざわいだ。   欺く者はあざむき、   欺く者は、はなはだしくあざむく」。   【解説】   果て = 最も遠く   12-16節 人々は神を礼拝しなければならない。 17)地に住む者よ、   恐れと、落し穴と、わなとはあなたの上にある。 18)恐れの声をのがれる者は落し穴に陥り、   落し穴から出る者はわなに捕えられる。   天の窓は開け、地の基が震い動くからである。   【解説】   17-18節 落し穴とわなはサタンの計略である。 19)地は全く砕け、   地は裂け、   地は激しく震い、   【解説】   全く = 完全に   裂ける = 粉々に砕ける   19-23節 主の再臨に伴って自然界に起きる大きな変化     19-23節には、主の再臨の直前、あるいは再臨に伴って起きる出来事やその状態     について書かれている。これと同じ出来事についてきわめて衝撃的な描写が、教     義と聖約88:86-94にある。「囚人が土ろうの中に集められるように獄屋の中に閉     ざされる」(22節)人々とは、霊界に閉じ込められて福音が説かれるのを待って     いる人々のことである。オーソン・プラット長老によると、月はあわて、太陽は     恥じるという。それは、キリストが地球に再臨されるときの輝きが何よりも優れ     た光であって、これと比較すればどんなものも暗闇に見えてしまうからである。 20)地は酔いどれのようによろめき、   仮小屋のようにゆり動く。   そのとがはその上に重く、   ついに倒れて再び起きあがることはない。   【解説】   よろめく = ゆらゆらと動く 21)その日、主は天において、天の軍勢を罰し、   地の上で、地のもろもろの王を罰せられる。   【解説】   天の軍勢 = サタンの軍勢 22)彼らは囚人が土ろうの中に   集められるように集められて、   獄屋の中に閉ざされ、   多くの日を経て後、罰せられる。   【解説】   21-22節     英語の欽定訳聖書では「罰せられる」は「訪れられる」になっている。     救い主は霊の獄にいる人々を訪れ、憐みを示す。 23)こうして万軍の主がシオンの山、   およびエルサレムで統べ治め、   かつその長老たちの前に   その栄光をあらわされるので、   月はあわて、日は恥じる。   【解説】   月はあわて、日は恥じる     イエス・キリストの栄光の輝きが太陽や月の輝きを上回る
第25章   【解説】   再臨。   勝利と賞賛の賛歌   【セミナリー解説】   イザヤ、主をたたえる   25章には、 主がしてこられたことやこれからされることに対するイザヤの感謝が記   されている。その中には、高慢な者や悪人が最終的には滅ぼされ、謙遜、忠実、従順   な者が報いを受けることが含まれている。イザヤは、忠実に主を「待ち望む」者(つ   まり、たとえその価値がはっきり見えなくても、御言葉が成就する時を待ちながら、   主に忠実であり続ける者)はやがて報いを受け、その報いは栄えあるものであると語   っている。 01)主よ、あなたはわが神、   わたしはあなたをあがめ、み名をほめたたえる。   あなたはさきに驚くべきみわざを行い、   いにしえから定めた計画を   真実をもって行われたから。   【解説】   1-11節 再臨は義人にとっては大いなる喜びの時である     イザヤはここで大いなる滅びと裁きについて語ってはいるが、イザヤ自身の心は     絶望に打ちのめされているわけではない。むしろ喜びに満ちているのである。こ     の部分でイザヤは、主が終わりには降臨し、シオンとエルサレムを統べ治められ     るというので、歓喜の賛歌を歌っている(24:23)。     主の再臨は多くの難難の後に続いて起こる大いなる喜びの時である。主の帰還に     伴い、肥えたものをもって、大いなる祝宴(6節)が設けられるが、これは人が     満ち足りるようになるまで福音の実によってもてなしを受けるという意味である。     また主の再臨をきっかけに、すべての国のおおっているおおい物(7節)が取り     去られる。このおおい物というのは、恐らくは末日に福音を拒む人の特徴である     不信仰という暗黒の覆いのことであろう。あるいはまた、モーセ7:61に書かれて     いるような、まさに文字どおりの暗黒の幕である可能性もある。このときには天     は暗くなり、天が震え、地も震えると記録されている。しかしながら、大いなる     喜びもまたもたらされる。その時が来れば、主なる神はすべての顔から涙をぬぐ     われる(8節)からである。これと類似した表現は、黙示録の中でも2度使われて     いるが(黙示7:17;21:4)、明らかに福千年の状態について書かれたものである。 02)あなたは町を石塚とし、堅固な町を荒塚とされた。   外国人のやかたは、もはや町ではなく、   とこしえに建てられることはない。 03)それゆえ、強い民はあなたを尊び、   あらぶる国々の町はあなたを恐れる。 04)あなたは貧しい者のとりでとなり、   乏しい者の悩みのときのとりでとなり、   あらしをさける避け所となり、   熱さをさける陰となられた。   あらぶる者の及ぼす害は、   石がきを打つあらしのごとく、   【解説】   救い主は砦であり避け所である。 05)かわいた地の熱さのようだからである。   あなたは外国人の騒ぎをおさえ、   雲が陰をもって熱をとどめるように、   あらぶる者の歌をとどめられる。 06)万軍の主はこの山で、すべての民のために肥えたものをもって祝宴を設け、久しくた   くわえたぶどう酒をもって祝宴を設けられる。すなわち髄の多い肥えたものと、よく   澄んだ長くたくわえたぶどう酒をもって祝宴を設けられる。 07)また主はこの山で、すべての民のかぶっている顔おおいと、すべての国のおおってい   るおおい物とを破られる。   【解説】   6-7節     救い主は祝宴を設けて、覆い物を破られる。   1-7節     強い民は神に栄光を帰し、神は貧しい人、困っている人々を助けてくださる。     主は忠実な人々に祝福を与えられる。 08)主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、その民のはずか   しめを全地の上から除かれる。これは主の語られたことである。   【解説】   メシヤに関連したもの。   救い主は私達の涙をぬぐわれる。   贖いの目的が要約されている。   8-9節     「涙をぬぐい」は、イザヤ書と黙示録にだけある表現。末日の予言。     その日、キリストが来られて、不安だった気持ちが晴らされる。 09)その日、人は言う、「見よ、これはわれわれの神である。わたしたちは彼を待ち望ん   だ。彼はわたしたちを救われる。これは主である。わたしたちは彼を待ち望んだ。わ   たしたちはその救を喜び楽しもう」と。 10)主の手はこの山にとどまり、モアブは肥だめの中に踏まれるわらのように、おのれの   所で踏みにじられる。   【解説】   肥(こえ)だめ = 肥料にする糞尿(ふんにょう)を腐らすためにためておく所。           こやしだめ 11)彼はその中で泳ぐ物が泳ごうとして手を伸ばすように、その手を伸ばす。しかし主は   その高ぶりを、その手の巧みなわざと共に低くされる。 12)その石がきの高い城郭を主は傾け倒し、地に投げうって、ちりにかえされる。   【解説】   9-12節     神を待ち望む人々は栄え、そうでない人は滅びる。
第26章   【解説】   再臨。復活。福千年。   贖いの歌。   【セミナリー解説】   イザヤの賛美の歌   26章は、主がその民のためにしてくださることに対する感謝の歌である。19節で述べ   られているイエス・キリストの復活は、わたしたちが感謝するおもな理由の一つである。   【インスティテュート解説】   「主よ、あなたがさばきをなさる道で、われわれはあなたを待ち望む」     26章は、主にささげる賛美の歌、言い換えれば詩篇である。これは、全地に散ら     されていたイスラエルを神が解放してくださったことに対する応答歌ではないか     と思われる(15節)。イザヤは義人たちが神から大いに祝福を受けることを喜び、     また、邪悪な者たちというのは主が差し出してくださる機会に適切に応じない人     々のことであると、はっきり認識している(10-11節)。いつものことながらイス     ラエルは非常な苦痛に見舞われているときだけ、主に心を向けて助けを求めた。     出産を控えて苦しんでいる女は子供を産んで初めてその痛みから解放されるが、     それと同様にイスラエルは、主が再びシオンを復興されたときにその苦しみから     解放される(16-18節)。19節は主とわたしたち自身の復活についてはっきりと述     べている。C・F・カイルとF・デリッチは、イザヤの賛歌について次のように述     べている。「イザヤ12章を読んですでに分かったように、賛美歌作者でもあった     この預言者は、この場面では将来の教会の聖歌隊指導者として働いており、また     エホバをほめたたえている。エホバが強大な帝国を滅ぼし、自らが圧政に苦しん     だ教会員の守りであり盾であることを立証されたからである。」 01)その日ユダの国で、この歌をうたう、   「われわれは堅固な町をもつ。   主は救をその石がきとし、   またとりでとされる。 02)門を開いて、信仰を守る正しい国民を入れよ。 03)あなたは全き平安をもって、   こころざしの堅固なものを守られる。   彼はあなたに信頼しているからである。 04)とこしえに主に信頼せよ、   主なる神はとこしえの岩だからである。 05)主は高き所、そびえたつ町に住む者をひきおろし、   これを伏させ、これを地に伏させて、   ちりにかえされる。 06)こうして足で踏まれ、   貧しい者の足で踏まれ、   乏しい者はその上を歩む」。 07)正しい者の道は平らである。   あなたは正しい者の道をなめらかにされる。 08)主よ、あなたがさばきをなさる道で、   われわれはあなたを待ち望む。   われわれの魂の慕うものは、   あなたの記念の名である。 09)わが魂は夜あなたを慕い、   わがうちなる霊は、せつにあなたを求める。   あなたのさばきが地に行われるとき、   世に住む者は正義を学ぶからである。 10)悪しき者は恵まれても、   なお正義を学ばず、   正しい地にあっても不義を行い、   主の威光を仰ぐことをしない。   【解説】   7-10節 贖われた人々は正義を学ぶ。 11)主よ、あなたのみ手が高くあがるけれども、   彼らはそれを顧みない。   どうか、あなたの、おのが民を救われる熱心を   彼らに見させて、大いに恥じさせ、   火をもってあなたの敵を焼き滅ぼしてください。 12)主よ、あなたはわれわれのために、   平和を設けられる。   あなたはわれわれのために、   われわれのすべてのわざをなし遂げられた。 13)われわれの神、主よ、   あなた以外のもろもろの主がわれわれを治めた。   しかし、われわれはただ、   あなたの名のみをあがめる。 14)死んだ者はまた生きない。   亡霊は生き返らない。   それで、あなたは彼らを罰して滅ぼし、   彼らの思い出をことごとく消し去られた。 15)主よ、あなたはこの国民を増し加えられた。   あなたはこの国民を増し加えられた。   あなたは栄光をあらわされた。   あなたは地の境を四方に広げられた。 16)主よ、彼らは悩みのとき、あなたに求めた。   彼らがあなたの懲らしめにあったとき、   祈をささげた。 17)主よ、はらめる女の産むときが近づいて苦しみ、   その痛みによって叫ぶように、   われわれはあなたのゆえに、そのようであった。 18)われわれは、はらみ、苦しんだ。   しかしわれわれの産んだものは風にすぎなかった。   われわれは救を地に施すこともせず、   また世に住む者を滅ぼすこともしなかった。 19)あなたの死者は生き、彼らのなきがらは起きる。   ちりに伏す者よ、さめて喜びうたえ。   あなたの露は光の露であって、   それを亡霊の国の上に降らされるからである。   【解説】   救い主は復活をもたらす。   14,18節は人々が言っていること。   それに対してこの節では、主が人々言っている。 20)さあ、わが民よ、あなたのへやにはいり、   あなたのうしろの戸を閉じて、   憤りの過ぎ去るまで、しばらく隠れよ。   【解説】   (私的)核兵器シェルターに避難して助かる。 21)見よ、主はそのおられる所を出て、   地に住む者の不義を罰せられる。   地はその上に流された血をあらわして、   殺された者を、もはやおおうことがない。
第27章   【解説】   福千年におけるイスラエルの勝利。   【セミナリー解説】   主と主のぶどう畑   27章には、主がその民に対してどのように働かれるかを、ぶどう園の世話にたとえた   イザヤの言葉である(イザヤ5:1-7;モルモン書ヤコブ5章)。主はこのたとえの中で、   悪人は主が切り倒して焼き尽くされる、枯れた枝のようであり、義人はさらに深く根   を下ろし、花を咲かせ、その実を全世界に満たす強力なつたのようであると説明して   おられる(6節)。 01)その日、主は堅く大いなる強いつるぎで逃げるへびレビヤタン、曲りくねるへびレビ   ヤタンを罰し、また海におる龍を殺される。   【解説】   レビヤタン = へび、サタンの意   主が再臨されるとき、サタンが縛られる。   1-6節 レビヤタン、龍、へびにはそれぞれ、どのような意味があるか     イスラエルが復興するときには、芽を出して花咲き、その実を全世界に満たす。     (6節)この実とは平和の福音である(5-6節)。同時に主は逃げるへびレピヤタン、     また龍を殺される。(1節)龍もへびもともに聖文中では、神と全人類の共通の敵     であるサタンを表す言葉である(黙示12:9)。つまり、レピヤタンというのは恐ら     くサタン自身を指すだけでなく、サタンに仕える者も指す言葉であろう。言い換     えれば、イザヤが見たものは、シオンが完全に設立される前にどうしても起こら     なければならなかったバビロンの崩壊、つまり世の滅びであった。ここでも、     26章と同様に、イザヤはやがて来るその日の喜びに打ち震え、自分の言葉で賛美     の歌を高らかに歌い上げているのである。 02)その日、   「麗しきぶどう畑よ、このことを歌え。 03)主なるわたしはこれを守り、   常に水をそそぎ、   夜も昼も守って、そこなう者のないようにする。 04)わたしは憤らない。   いばら、おどろがわたしと戦うなら、   わたしは進んでこれを攻め、   皆もろともに焼きつくす。   【解説】   おどろ = みだれて生えているとげのある植物 05)それを望まないなら、わたしの保護にたよって、   わたしと和らぎをなせ、   わたしと和らぎをなせ」。 06)後になれば、ヤコブは根をはり、   イスラエルは芽を出して花咲き、   その実を全世界に満たす。 07)主は彼らを撃った者を撃たれたように、   彼らを撃たれたか。   あるいは彼らを殺した者が殺されたように、   彼らは殺されたか。   【解説】   7-13節 将来のエルサレムについてイザヤが先見したものは何か     ヤコブが回復されるに先立ち、堅固な町〔エルサレム〕は荒れてさびしく、捨て     去られたすまいは荒野のようになる。(10節)それはその枝が枯れると、イスラエ     ルの部族が邪悪になるときには、折り取られ、火の中に投げ入れられる、つまり     罰を受けるからである(11節)。その後、民はひとりびとり集められ、その聖なる     町エルサレムへ連れ戻されるのである(12,13節)。『モルモン書』ヤコブ5章にあ     るゼノスのたとえ話でも同じような表現法が用いられている。 08)あなたは彼らと争って、彼らを追放された。   主は東風の日に、その激しい風をもって、   彼らを移しやられた。 09)それゆえ、ヤコブの不義は   これによって、あがなわれる。   これによって結ぶ実は彼の罪を除く。   すなわち彼が祭壇のすべての石を   砕けた白堊のようにし、   アシラ像と香の祭壇とを再び建てないことである。   【解説】   白堊(はくあ) = 石灰岩の一種。主成分は炭酸カルシウム。白墨の原料とする。           チョーク。   アシラ = 偶像の神 10)堅固な町は荒れてさびしく、   捨て去られたすまいは荒野のようだ。   子牛はそこに草を食い、   そこに伏して、その木の枝を裸にする。 11)その枝が枯れると、折り取られ、   女が来てそれを燃やす。   これは無知の民だからである。   それゆえ、彼らを造られた主は   彼らをあわれまれない。   彼らを形造られた主は、彼らを恵まれない。 12)イスラエルの人々よ、その日、主はユフラテ川からエジプトの川にいたるまで穀物の   穂を打ち落される。そしてあなたがたは、ひとりびとり集められる。 13)その日大いなるラッパが鳴りひびき、アッスリヤの地にある失われた者と、エジプト   の地に追いやられた者とがきて、エルサレムの聖山で主を拝む。   【解説】   12-13節     ユフラテ川からエジプトの川は、当時の全世界。これは現代の全世界に当てはまる。     落ちた穂は実りの穂。義人は集められて再臨された主を拝む。
第28章   【解説】   再臨に先立つ滅び。   28-33章     ユダがアッスリヤよエジプトと同盟を結ぶという政治的問題に関連して述べられ     た一連の予言。   【セミナリー解説】   高慢な人々への忠告   28章では、イスラエルの民の重大な罪は高慢であることが確認されている。高慢のた   めに、民は主が与えたいと望んでおられた祝福から遠ざかっていた。23-29節で、イ   ザヤは作物を植えて収穫する農夫の知識を、御自分の子供たちの世話を適切になさる、   主のさらに大いなる知識と比べている。 01)エフライムの酔いどれの誇る冠と、   酒におぼれた者の肥えた谷のかしらにある、   しぼみゆく花の美しい飾りは、わざわいだ。   【解説】   1-8節 「エフライムの酔いどれの誇る冠は、わざわいだ」     ここでもイザヤは、イスラエル(南北両王国)はヤコブが最後に回復される前に     裁きを受けなければならないという主題について、引き続き語っている。28章は、     北イスラエルに住む10部族の反乱についての記録である。この北イスラエルの中     では、エフライムが指導者として認められていた。主はひとりの力ある強い国、     すなわちアッスリヤを持っておられる。この国は大水のあふれみなぎる暴風のよ     うに、イスラエルの高慢を砕いて地に投げうつ(2節)機会をねらっていた。こう     して、強い日差しにしぼむ花のように(4節)、また酒を飲んでよろめく酔いどれ     のように(7節)、イスラエルはその約束の地から取り除かれてしまうのである。     紀元前722年から721年にかけて、アッスリヤ王シャルマネセルはサマリヤを攻略     し、10部族を捕らえて連れ去った。 02)見よ、主はひとりの力ある強い者を持っておられる。   これはひょうをまじえた暴風のように、   破り、そこなう暴風雨のように、   大水のあふれみなぎる暴風のように、   それを激しく地に投げうつ。 03)エフライムの酔いどれの誇る冠は   足で踏みにじられる。 04)肥えた谷のかしらにある、   しぼみゆく花の美しい飾りは、   夏前に熟した初なりのいちじくのようだ。   人がこれを見ると、取るやいなや、食べてしまう。   【解説】   いちじく = クワ科の落葉高木。高さ約 4 メートル。実は熟すと暗紫色にな         り、甘く、生食のほかジャムなどにする 05)その日、万軍の主はその民の残った者のために、   栄えの冠となり、麗しい冠となられる。 06)また、さばきの席に座する者にはさばきの霊となり、   戦いを門まで追い返す者には力となられる。 07)しかし、これらもまた酒のゆえによろめき、   濃き酒のゆえによろける。   祭司と預言者とは濃き酒のゆえによろめき、   酒のゆえに心みだれ、   濃き酒のゆえによろける。   彼らは幻を見るときに誤り、   さばきを行うときにつまづく。 08)すべての食卓は吐いた物で満ち、清い所はない。 09)「彼はだれに知識を教えようとするのか。   だれにおとずれを説きあかそうとするのか。   乳をやめ、乳ぶさを離れた者にするのだろうか。   【解説】   「にするのだろうか」を「がそれである」に置き換えると分かりやすい。 10)それは教訓に教訓、教訓に教訓、   規則に規則、規則に規則。   ここにも少し、そこにも少し教えるのだ」。   【解説】   神が教えられる方法     教訓(precept)、規則(line)、少し(little)の3段階     「少し」から「教訓」へレベルアップしていく。     少し = 戒めを守る。       自分のための戒め。       戒めの一つ一つには目的と意味がある。       永遠の命につながっている。       モーセの律法も形に意味がある。         イスラエルの民は400年も奴隷だったから、         言われたことしかできない。         意味を考えるようにしないといけない。     規則 = 教義を学ぶ。       意味を知ると一つ上の段階に行ける。     教訓 = 愛によって行動がとれる。     アロン神権のレベルは、この世的なもの     メルキゼデク神権のレベルは、救いに至る。     人のために働く力を身に着けた人だけが、日の栄えに行ける。 11)否、むしろ主は異国のくちびると、   異国の舌とをもってこの民に語られる。   【解説】   「否、むしろ」を「そして」に、   「異国のくちびると、異国の舌」を「聖霊の言葉」に置き換えると分かりやすい。 12)主はさきに彼らに言われた、   「これが安息だ、   疲れた者に安息を与えよ。   これが休息だ」と。   しかし彼らは聞こうとはしなかった。 13)それゆえ、主の言葉は彼らに、   教訓に教訓、教訓に教訓、   規則に規則、規則に規則、   ここにも少し、そこにも少しとなる。   これは彼らが行って、うしろに倒れ、   破られ、わなにかけられ、捕えられるためである。   【解説】   「これは彼らが」を「これにより聞く耳を持たない人が」に置き換えると分かりやすい。   10-13節     人は教訓を加えられていくことによって正義を学ぶ 14)それゆえ、エルサレムにあるこの民を治める、   あざける人々よ、主の言葉を聞け。 15)あなたがたは言った、   「われわれは死と契約をなし、   陰府と協定を結んだ。   みなぎりあふれる災の過ぎる時にも、   それはわれわれに来ない。   われわれはうそを避け所となし、   偽りをもって身をかくしたからである」。   【解説】   14-15節     裁きがイスラエルの上に下される。聖約を破ったからである。   14-15節 ユダはどのようにして、死と契約をなし、陰府と協定を結んだのか     預言者イザヤはエルサレムの支配者たちに立ち向かうに当たって、彼らの政策や     振る舞いは必ず崩壊を引き起こすことになると主張していた。このときの過ちは、     支配者たちが保護と引き換えに、自分たちの神ではない神や神々に仕えるという     聖約を故意に結んだことである。ここで言われている死、すなわちマウェスとは、     地獄、言い換えればシェオルあるいは陰府の神のことである。恐らく、カナン人     の地獄の神であるモトを指しているのではないだろうか。あるいはエジプトのオ     シリスのことかもしれない。預言者たちは異国の神々のことを指して、よくうそ     とか偽りなどという表現を用いている。支配者たちが引き起こしたこの混乱とは     対照的に、イザヤは、自分たちの神を信じる信仰こそがシオンの安全のための唯     一の確固たる基であり、またその神の公平と正義に頼らなければ苦難に耐える建     物を建てることはできない、と断言している。恐ろしさのあまり、さらにほかの     神々を礼拝することによって自らの安全を求めてきた人々は、ヤーウェの定めら     れた滅びの律法に従って恐ろしい経験をすることになる。     もちろん、この表現は霊的な意味を含んでいるとも考えられる。イスラエルは死     と契約を交わした。それは死こそ罪の支払う報酬にほかならないからである。     近代のみなぎりあふれる災いに関する聖句については、教義と聖約29:17-19;     45:31;84:96-97;97:22-26;105:15を参照する。 16)それゆえ、主なる神はこう言われる、   「見よ、わたしはシオンに   一つの石をすえて基とした。   これは試みを経た石、   堅くすえた尊い隅の石である。   『信ずる者はあわてることはない』。   【解説】   メシヤに関連したもの。   救い主は私達の堅固な基である。   隅の石 = 石造り・煉瓦(れんが)造りの壁の出隅部分に積まれる石。本来        は補強のために行われる   試みを経た尊い隅の石とは何か     試みを経た尊い隅の石とはイエス・キリスト御自身を指す。ブルース・R・マッ     コンキー長老は次のように書いている。「イザヤがメシヤについて語った偉大な     預言の一つに、約束されたメシヤは『イスラエルの二つの家にはさまたげの石、     つまずきの岩となり、エルサレムの住民には網となり、わなとなる。多くの者は     これにつまずき、かつ倒れ、破られ、わなにかけられ、捕えられる』(イザヤ8:     14-15)とある。パウロもペテロもともに、この預言が成就したことを記録してい     る。」     ヤコブもこの表現を引用して、次のように言っている。「ユダヤ人が、自分たち     がつまずいた石を拒むその石は、その上に建物を建てることのできる安全な土台     であった。」     パウロもまた同じ表現を用いて、イエス・キリスト教会の基は使徒と預言者であ     って、キリスト御自身が隅のかしら石である、と言っている。   試しを受けた石であるイエス・キリストに従う。   キリストは救い主、聖霊が教える。 17)わたしは公平を、測りなわとし、   正義を、下げ振りとする。   ひょうは偽りの避け所を滅ぼし、   水は隠れ場を押し倒す」。   【解説】   測りなわ = 長さをはかるための縄   下げ振り(さげふり) = 柱などが垂直かどうかを調べるための道具で、糸の端に真鍮              (しんちゅう)の逆円錐形のおもりをつるしたもの   16-17節 主はシオンを築き、シオンを裁かれる。   17-22節 「正義を、下げ振りとする」とはどういう意味か、また「床が短くて身を伸        くることができず」とはどういう意味か     キリストを霊的な「家」の隅のかしら石としている人は、公平と信仰とをもって     主の正義の裁きに応じる備えができている。イエス・キリストはその人の弁護者     となり、御父に執り成しをしてくださる。     「わたしは公平を、測りなわとし、正義を、下げ振りとする」という表現は、建     築に関する用語を用いた言い方であり、前節の表現法を引き継いでいる。キリス     トは隅のかしら石であって、すべての石はここを基準にして据えられる。ある程     度の重さを持つ物を糸に縛って下げれば、それは鉛直線を示す。家を建てる者は、     下げ振りを使ってこの鉛直線を探す。この測定器を下げ振りという。正義と公平     とをその測定器として用い、救い主はまず隅のかしら石(御自分)から始めて、完     全で強固な家を建てられるよう、地取りをされる。この家はいかなる嵐にも耐え     得るものである。これ以外の方法、とりわけ「死とたてた契約」(18節)などによ     って建てた家などは、嵐で簡単に押し流されてしまう。     床と短い夜具を使った表現は、下げ振りを使った表現よりもずっと簡単に理解で     きよう。一読して明らかなようにもし人がイエス・キリストの贖いの血で覆われ     ていなかったら、まるで短すぎる床の上で、自分の体も覆えない小さい夜具をか     けて眠っているようなものだ、ということである。罪は外見的にはどんなに魅力     的に見えても、決して人間の内面的な欲求を満足させることはできない。罪深い     人というのは、短い床に寸足らずの夜具をかけて眠っている人間のようなもので     ある。寝返りを打ち、向きを変え、絶えず安らぎを求めるけれど、決してそれを     得ることができない。キリストの罪の贖いによって覆われる、すなわち贖いの効     果を受けることができるのは、真心から神を信頼しその聖なる戒めを守る人だけ     である。 18)その時あなたがたが死とたてた契約は取り消され、   陰府と結んだ協定は行われない。   みなぎりあふれる災の過ぎるとき、   あなたがたはこれによって打ち倒される。 19)それが過ぎるごとに、あなたがたを捕える。   それは朝な朝な過ぎ、   昼も夜も過ぎるからだ。   このおとずれを聞きわきまえることは、   全くの恐れである。 20)床が短くて身を伸べることができず、   かける夜具が狭くて、   身をおおうことができないからだ。 21)主はペラジム山で立たれたように立ちあがり、   ギベオンの谷で憤られたように憤られて、   その行いをなされる。   その行いは類のないものである。   またそのわざをなされる。   そのわざは異なったものである。 22)それゆえ、あなたがたはあざけってはならない。   さもないと、あなたがたのなわめは、きびしくなる。   わたしは主なる万軍の神から、   全地の上に臨む滅びの宣言を聞いたからである。   【解説】   18-22節 キリストの贖罪 23)あなたがたは耳を傾けて、わが声を聞くがよい。   心してわが言葉を聞くがよい。   【解説】   23-29節 種まきと脱穀のたとえ話にはどのような意味かあるか     カイルとデリッチはイザヤのたとえ話の美しさと力強さについて説明し、この     「いのんど」(25節)というのは恐らく黒けしのことであり、クミン(25節)という     のは現代のクミンと同じものであろうと言っている。どちらの実も、薬あるいは     調味料として用いられた。     耕すことは地を開くと書かれているが、これは土を起こしてあぜを作ることであ     る。まぐわをもって土をならすのは、種をまく準備である。それゆえ、絶えず行     う作業ではないが、種をまくに先立って土壌を整えるためにはどうしても必要な     ことである。平らに整地された土地にあぜが作られると、次に種まきと植え付け     が始まる。この作業はまた、種の種類に応じて様々な方法で行われる。小麦の種     の場合はうねに従って、慎重にまく。つまり、ほかの二つの作物のように、適当     にまき散らすというようなことはせずに、うねに従ってきちんとまいていくとい     うことである。そうしなければ、伸びてきたときに密生しすぎて、互いに枯れて     しまうからである。大麦の種は、それ専用に特別に区画された畑か、あるいは立     て札などで特に指定された場所にまかれる。さらにスペルト麦〔ライ麦〕がその     端に沿ってまかれる。つまり、スペルト麦が大麦畑の外周を作るのである。農夫     はこのように天性の直観によって種まきを行う。なぜなら、天地創造のときに農     耕の基を定められた神が人間にも知恵を授けられたからである。     27節は、農夫たちが今なお行っていることを見ても、彼らが神から教えを受けて     いることがよく分かる。農夫は麦こき用の機械は使わない。そんなことをすれば、     もっと傷みやすい種類の穀物を完全にだめにしてしまうからである。代わりに棒     で打つ。パン用の麦は砕くのだろうか。砕くようなことは決してない。馬に車を     つないで、全力で作物の上を引かせたら、そのようなことにもなりかねない。だ     が、農夫が畑や果物を扱う際に踏む賢明な天与の順序は、教師たる神御自身がそ     の国民を扱う際に踏む賢明な手順を象徴している。イスラエルはエホバの畑であ     る。エホバの懲罰は、その畑を強制的に起こし、返し、耕す『すき』や「つるは     し』である。だがそれはいつまでも続くわけではない。畑がそうして緩んで軟ら     かくなり、再び肥沃になると、苦しみの多いすき返しは終わり、今度は様々な方     法で、しかもあふれるばかりの恩籠により、恵みの種まきや植え付けが行われる。     さらに言えば、イスラエルは、エホバの打ち場の子である(イザヤ21:10)。主は     打たれる。打つばかりか、たたくことさえされる。しかし確かに打ちはするが、     主はいつまでも打ち続けられるわけではない。それはカスパリが説明していると     おりである。『主は国民すべてを同じ厳しさで罰せられない。人によっては、ほ     かの人よりもはるかに厳しく罰せられる人もいるが、そのような人に対しても、     いつまでも罰し続けるわけではなく、神の御心が果たされて、罪のもみ殻が除か     れれば、罰はすぐにやむのである。そして、もみ殻以外の何物でもない極悪人と、     国そのものの殼とが罰によって吹き散らされるのである。」(イザヤ1:25;29:20-     21)これが、このたとえの裏に隠された厳粛な教え、愛に満ちた慰めである。エ     ホバは罰を与えられるが、それはその人が祝福にあずかれるようにするためであ     る。エホバはふるいにはかけるが、滅ぼすことはされない。エホバは御自身の民     を打つことはされず、代わりにたたかれる。また、たとえ裁きを前にしてエホバ     に打たれることがあっても、自ら慰めを受けることができる。決して砕かれたり     損なわれたりすることがないからである。 24)種をまくために耕す者は絶えず耕すだろうか。   彼は絶えずその地をひらき、   まぐわをもって土をならすだろうか。   【解説】   まぐわ = 牛や馬にひかせて水田の土をかきならす農具。長さ1メートル        ほどの横の柄に、刃を櫛(くし)状に取り付けたもの 25)地のおもてを平らにしたならば、   いのんどをまき、クミンをまき、   小麦をうねに植え、大麦を定めた所に植え、   スペルト麦をその境に植えないだろうか。   【解説】   いのんど = セリ科の多年草。葉は羽状に切れ込む。ピクルスなどの香辛         料や薬用にする。姫茴香(ひめういきょう)。ディル。   クミン = セリ科の一年草。種子に強い芳香とほろ苦み、辛みがあり、香        辛料としてチーズ・ソーセージ・スープ・シチューなどに用いる。   うね = 作物を植えつけたり種をまいたりするため、畑の土を幾筋も平       行に盛り上げた所   スペルト麦 = ライ麦のこと 26)これは彼の神が正しく、   彼を導き教えられるからである。 27)いのんどは麦こき板でこかない、   クミンはその上に車輪をころがさない。   いのんどを打つには棒を用い、   クミンを打つにはさおを用いる。 28)人はパン用の麦を打つとき砕くだろうか、   否、それが砕けるまでいつまでも打つことをしない。   馬をもってその上に車輪を引かせるとき、   それを砕くことをしない。 29)これもまた万軍の主から出ることである。   その計りごとは驚くべく、その知恵はすぐれている。   【解説】   主の言葉をつまらないことと思ってはならない。驚くべき知恵がある。   23-29節 種まきと脱穀のたとえ話、主はその民を試される。
第29章   【解説】   ニーファイ人。最後の日。背教。モルモン書。回復。   イスラエルの行く末。   このモルモン書について述べた部分は   難解な章が霊感によって解釈された典型的な例である。   終わりの時に暗黒と背教が地を覆う。   『モルモン書』が出て来る。   その書物について3人の証人が証する。   学者はその封じられた書物を読むことはできないと言う。   主は驚くべき業と不思議を行われる。   イザヤ書29章と2ニーファイ27章には同じことが書かれている。   2ニーファイ27章の方はニーファイのコメントが挟まれている。   ニーファイ人は土の中の声のように話す。   イスラエルの行く末、福音の回復。   関連:2ニーファイ26:14-20; 27章。   参照 「イザヤ書 英語版比較」   【セミナリー解説】   不思議な驚くべき業   29章は、名前こそ出てこないが、聖書の中でモルモン書について述べられている箇所   である。モルモン書の出現とモルモン書が世に与える影響についての預言がある。   節ごとの引用先      1 ジョセフ・スミス訳29:1      2 ジョセフ・スミス訳29:2      3 ジョセフ・スミス訳29:3 2ニーファイ26:15      4 ジョセフ・スミス訳29:4 2ニーファイ26:16      5 ジョセフ・スミス訳29:5 2ニーファイ26:17,18      6 ジョセフ・スミス訳29:6 2ニーファイ27:1,2      7 ジョセフ・スミス訳29:7 2ニーファイ27:3      8 ジョセフ・スミス訳29:8 2ニーファイ27:3      9             2ニーファイ27:4     10             2ニーファイ27:5     11             2ニーファイ27:15-18     12             2ニーファイ27:19     13             2ニーファイ27:25     14             2ニーファイ27:26     15             2ニーファイ27:27     16             2ニーファイ27:27     17             2ニーファイ27:28     18             2ニーファイ27:29     19             2ニーファイ27:30     20             2ニーファイ27:31     21             2ニーファイ27:32     22             2ニーファイ27:33     23             2ニーファイ27:34     24             2ニーファイ27:35 01)ああ、アリエルよ、アリエルよ、   ダビデが営をかまえた町よ、   年に年を加え、祭をめぐりこさせよ。   【解説】   アリエル = エルサレム   「祭をめぐりこさせよ」は英語欽定訳では、「let them kill sacrifices」   (生贄を殺させよ)になっている。   1-4節 「アリエルのようなものとなる」とはどういう意味か     ダビデはエルサレムに住んでいたが、アリエルというのはそのエルサレムの別名     である。預言の典型的な様式に従い、この聖句もやはり複数の意味を含んでいる。     エルサレムがその背教のゆえに大きな災難に直面しているときには、どの時代で     あってもこの預言を当てはめることができよう。また、エルサレムという名称は     時に総称としても用いられる。つまり、単にエルサレムという都市にとどまらず、     国家全体を指すのである。これはワシントンと言ってアメリカ合衆国を指したり、     モスクワと言ってソビエト連邦を指したりすることと同じである。リグランド・     リチャーズ長老はこの預言の両義性について次のように注釈を加えている。     「深く考えながら1-2節を読むならば、イザヤがエルサレムの滅びることを予見     しただけでなく、エルサレムに似たほかの大きな都市が滅びることをも予見して     いたことが理解できるであろう。イザヤはさらに次のように続けている。『その     時あなたは深い地の中から物言い、低いちりの中から言葉を出す。あなたの声は     亡霊の声のように地から出、あなたの言葉はちりの中から、さえずるようであ     る。』(4節)     『モルモン書』がなければ、この世で上記の聖句を整然と説明できる人はいない     し、またイザヤの予見した、エルサレムの民に似ているというのがどの民を指し     ているのか理解できる人もいない。『モルモン書』では次のように説明している。     『わたしの子孫とわたしの兄弟の子孫は、不信仰に陥って異邦人に打たれる。ま     ことに、主なる神は彼らの周りに陣を構え、彼らを山で囲み、彼らに対してとり     でを築かれる。そして彼らは地に倒されて、もはや存在しなくなる。しかしなが     らその後、義人の言葉が書き記され、忠実な者の祈りが聞き届けられるので、不     信仰に陥った者のすべてが忘れ去られるわけではない。     滅ぼされる者が、地から人々に語りかけるからである。その言葉は低く地の中か     ら出て来て、その声は霊媒の声のように聞こえる。主なる神はその者に力を授け、     まるで地の中から出て来るかのように、その者が彼らのことをささやけるように     される。こうして彼らの言葉は、地の中からささやくのである。     主なる神はこう言われる。「彼らは彼らの中で行われることを書き記す。そして、     それらのことは、一つの書物に書き記されて封じられる。不信仰に陥った者は、     神にかかわるものを絶やそうとするので、それらのものを得られない。」(2ニー     ファイ26:15-17)     ジョセフ・スミスは『モルモン書』が出版されたとき、どうやってこのようなこ     とを知ったのであろうか。しかも、この教会が組織される以前のことである。     『モルモン書』は、神によって世に出されユダの記録と一つにされるとの約束を     受けた記録である。もしそうでなければ、ジョセフ・スミスがこれらのことを知     り得たはずがない。『モルモン書』にある解き明かしを知らずに、このイザヤの     預言を理解できる人がいるだろうか。」     『モルモン書』は実際地に倒されて土の中から物言う民の声である。事実、この     書物はイザヤの預言どおりに、土の中から取り出されたのである。 02)その時わたしはアリエルを悩ます。   そこには悲しみと嘆きとがあって、   アリエルのようなものとなる。   【解説】   アリエル = エルサレム     新共同訳では「祭壇の炉」   悩ます = 苦しめる   ジョセフ・スミス訳では、「アリエルのようなものとなる」は、   「主は私に、それはアリエルになるとおっしゃった。」   多義性で見ると     ・ダビデの時代だけでなく、エルサレムがその背教のゆえに大きな災難に直面し      ているときには、どの時代であっても、この予言を当てはめることができる。     ・また、単にエルサレムという都市にとどまらず、国家全体を指す。     ・エルサレムに似た他の大きな都市が滅びることも予言している。     ・エルサレムが滅びたように、ニーファイ人も滅びることも語っている。 03)わたしはあなたのまわりに営を構え、   やぐらをもってあなたを囲み、   塁を築いてあなたを攻める。   【解説】   営を構える = 軍隊を配置する   第2ニーファイ26:14,15     しかし見よ、わたしはあなたがたに、終わりの時について、すなわち、     主なる神がこれらのことを人の子らに明らかにされる時代について、預言する。     わたしの子孫とわたしの兄弟の子孫は、不信仰に陥って異邦人に打たれる。     まことに、主なる神は彼らの周りに陣を構え、     彼らを山で囲み、彼らに対してとりでを築かれる。     そして彼らは地に倒されて、もはや存在しなくなる。     しかしながらその後、義人の言葉が書き記され、     忠実な者の祈りが聞き届けられるので、     不信仰に陥った者のすべてが忘れ去られるわけではない。   「わたしの子孫とわたしの兄弟の子孫」     ニーファイ人とレーマン人、すなわち、アメリカ原住民。   「異邦人に打たれる」     アメリカ原住民に対する迫害。     モルモン書が出版された時には、迫害はまだなかった。   「義人の言葉が書き記され」はモルモン書のこと。 04)その時あなたは深い地の中から物言い、   低いちりの中から言葉を出す。   あなたの声は亡霊の声のように地から出、   あなたの言葉はちりの中から、さえずるようである。   【解説】   亡霊の声 = 死者を呼び出して語らせること   ジョセフ・スミス訳     彼女は引き倒される。     彼女は地の中から話しかけて、     その言葉が低い声で土の中から聞こえる。     その声は親しい霊を持つ者の声のように聞こえる。     この言葉は土の中からささやく。   親しい霊を持つ     モルモン書が聖書を持っている人々に「親しい声」で語り掛けるという意味。     言い換えれば、聖書を読んで受け入れている人々には、モルモン書の教義上の     教えが聞きなれたものに思えるということである。   第2ニーファイ26:16     滅ぼされる者が、地から人々に語りかけるからである。     その言葉は低く地の中から出て来て、     その声は霊媒の声のように聞こえる。     主なる神はその者に力を授け、     まるで地の中から出て来るかのように、     その者が彼らのことをささやけるようにされる。     こうして彼らの言葉は、地の中からささやくのである。   「滅ぼされる者が、地から人々に」     滅んだニーファイ人が、生き残ったレーマン人に   その者 = ジョセフ・スミス   モルモン書の出現。モルモン書は地中に埋められていた。   モルモン書は土の中から取り出された。   モルモン書は落ちぶれて、土の中からものを言う民の声である。   モロナイ10:27にも書かれている。 05)しかしあなたのあだの群れは   細かなちりのようになり、   あらぶる者の群れは   吹き去られるもみがらのようになる。   また、にわかに、またたくまに、この事がある。   【解説】   あらぶる者 = 力強く邪悪な人々   第2ニーファイ26:17-20     主なる神はこう言われる。     「彼らは彼らの中で行われることを書き記す。     そして、それらのことは、一つの書物に書き記されて封じられる。     不信仰に陥った者は、神にかかわるものを絶やそうとするので、     それらのものを得られない。     それゆえ、すでに滅ぼされた者たちは速やかに滅ぼされた。     また、荒々しい者の群れは、吹き飛ぶもみ殻のようになる。」     まことに主なる神は言われる。     「このことは突然に、瞬く間に起こる。」     そして不信仰に陥った者は、異邦人によって打たれる。     また異邦人は高慢な目をもって高ぶり、     つまずきとなるものが大きいためにつまずいた。     そして多くの教会を設けた。     しかしながら彼らは、神の力と奇跡を侮り、     自分の知恵と学識を自賛して、利益を求め、     貧しい者の顔をすりつぶす。   ニーファイ人の滅亡について 06)すなわち万軍の主は雷、地震、大いなる叫び、   つむじ風、暴風および焼きつくす火の炎をもって   臨まれる。   【解説】   第2ニーファイ27:1,2     しかし見よ、終わりの時、すなわち異邦人の時代になると、     見よ、異邦人とユダヤ人のすべての国民は、     この地に来る者もほかの地にいる者も、     すなわち全地の者が皆、     見よ、罪悪とあらゆる忌まわしい行いで酔う。     その日が来ると、万軍の主は、雷、地震、大音響、     嵐、暴風雨、焼き尽くす火の炎を彼らに下される。   罪悪をおこなう世界の民の滅亡について 07)そしてアリエルを攻めて戦う国々の群れ、   すなわちアリエルとその城を攻めて戦い、   これを悩ます者はみな   夢のように、夜の幻のようになる。   【解説】   アリエル = エルサレム   城 = とりで、要塞   悩ます = 苦しめる 08)飢えた者が食べることを夢みても、   さめると、その飢えがいえないように、   あるいは、かわいた者が飲むことを夢みても、   さめると、疲れてそのかわきがとまらないように、   シオンの山を攻めて戦う国々の群れもそのようになる。   【解説】   7,8節   第2ニーファイ27:3     そして、シオンと戦い、シオンを悩ますすべての国民は、夜の幻のようになる。     すなわち、飢えた者が夢を見るようである。     飢えた者が夢の中で食べても、目を覚ませば空腹である。     あるいは、のどの渇いた者が夢を見るようである。     見よ、のどの渇いた者が夢の中で飲んでも、     目を覚ませば体は弱っており、渇きは続いている。     まことに、シオンの山と戦うすべての国民の群れも、そのようになる。 09)あなたがたは知覚を失って気が遠くなれ、   目がくらんで見えなくなれ。   あなたがたは酔っていよ、しかし酒のゆえではない、   よろめけ、しかし濃き酒のゆえではない。   【解説】   よろめく = 歩きながらつまずく   「気が遠くなれ」     新共同訳では「ためらえ、立ちすくめ」   第2ニーファイ27:4     また見よ、罪悪を行う者たちよ、     あなたがたは皆、立ち尽くして驚嘆せよ。     あなたがたは大声で叫び、わめくであろう。     まことに、あなたがたは酔うが、ぶどう酒によるのではない。     震えるが、強い酒によるのではない。 10)主が深い眠りの霊をあなたがたの上にそそぎ、   あなたがたの目である預言者を閉じこめ、   あなたがたの頭である先見者を   おおわれたからである。   【解説】   先見者 = 神の力によって将来起こるべき事柄を見ることのでいる人   おおう = 視野を遮る   第2ニーファイ27:5     また見よ、主があなたがたのうえに、深い眠りの霊を注がれたからである。     あなたがたが目を閉じ、預言者たちを拒んだためである。     それで、主はあなたがたの罪悪のために、     統治者と聖見者を隠してしまわれた。   ジョセフ・スミスの時代の前の世界の霊的な状態を述べている。ニーファイの言葉は   背教と無知の時代の霊的な暗黒の状態を的確に描写している。それは、預言者を拒絶   するなどの罪悪が非常に大きくなり、それによって霊的な祝福が失われた時代であっ   た。   9-10節     神様の言葉を拒んだ人は、神様の御業に気づかない。   7-10節     末日の人々は邪悪な行いや罪にふける。夢の中で、飲み食いをしても、目を覚ま     せば、それが夢に過ぎないように、彼らは霊的な飢えを決して満たすことができ     ない。まるで葡萄酒を飲んでいないのに酔っている人のようであり、いくら眠っ     ても休息が得られない人のようである。     イザヤが記した時代になると、深い眠りが地の民を覆い、人が葡萄酒を飲んでい     ないのに酔い、濃い酒を飲んでいないのによろめき。預言者と聖見者が隠される。     すなわち、彼らの中に預言者も聖見者もいなくなる。     だれもが、この予言は、これらの版が世に出された時代のことであったと証する     だろう。啓示を受けた人がどこにいただろうか。彼らの預言者や聖見者はどこに     いただろうか。どこにもいない。隠されたのである。     これは背教した人々を指している。背教者は霊的に眠っていて、ひどくつまづく     が、それは酔っているからではなく、彼らを導く預言者がいないからである。 11)それゆえ、このすべての幻は、あなたがたには封じた書物の言葉のようになり、人々   はこれを読むことのできる者にわたして、「これを読んでください」と言えば、「こ   れは封じてあるから読むことができない」と彼は言う。 12)またその書物を読むことのできない者にわたして、「これを読んでください」と言え   ば、「読むことはできない」と彼は言う。   【解説】   11-12節   第2ニーファイ27:15-20     しかし見よ、そこで主なる神はその書物を受け取る男にこう言われる。     「封じられていないこれらの言葉を取って別の男に渡し、彼が学者にそれ     を見せて、『どうぞ、これを読んでください』と言うようにしなさい。す     るとその学者は、『その書物をここに持って来てください。そうすれば読     みましょう』と言う。ところで、彼らがそう言うのは、世の誉れのため、     また利益を得るためであって、神の栄光のためではない。それで先の男は、     『その書物は封じられているので、持って来ることはできません』と言う。     すると、学者は、『それでは、わたしには読めない』と言う。」そこで、     主なる神はその書物とその中の御言葉をもう一度学識のない者に授けられ     る。すると学識のない者は、「わたしは無学です」と言う。そのとき、主     なる神は言われる。「学者は、これらの言葉を受け入れなかったので、読     めない。しかし、わたしにはわたし自身の業を行う能力があるので、あな     たはわたしが授ける言葉を読むであろう。」   書物(モルモン書の金属版)そのものではなく、書物の言葉(金属版から写し   た文字)が学識のある者に渡される。   第2ニーファイ27章は、ニーファイがイザヤ書29章をもとに予言をしたものだが、   この予言は次のように成就した。   ジョセフ・スミス―歴史1:63-65     この2月のあるとき、前に述べたマーティン・ハリス氏がわたしたちのと     ころへやって来て、わたしが版から書き取っておいた文字を取り、それを     持ってニューヨーク市へ向かった。彼とその文字に関して起こった出来事     については、彼が帰って来てわたしに語った彼自身の言葉をお伝えする。     それは次のとおりであった。「わたしはニューヨーク市に行き、翻訳され     た文字をその翻訳とともに、文学上の学識があることで広く知られている     一紳士、チャールズ・アンソン教授に披露した。するとアンソン教授は、     この翻訳は正確であり、エジプト語から翻訳されたものでこれほど正確な     のを見たことがないと述べた。その後、わたしがまだ翻訳されていないも     のを彼に見せたところ、彼は、それらはエジプト語、カルデア語、アッシ     リア語、およびアラビア語であるといった。また、それらは本当の文字で     あると言った。そして、それらがほんとうの文字であることと、それから     翻訳されたものの翻訳も正確であることをパルマイラの人々に証明する証     明書をわたしにくれた。そこで、わたしはその証明書を取ってポケットに     入れ、まさにその家を去ろうとしたとき、アンソン氏はわたしを呼び返し     て、どうしてその青年は金版を見つけた場所にその金版のあることが分か     ったのかと尋ねた。そこでわたしは、神の天使が彼にそれを明らかにした     と答えた。すると彼は、『その証明書を見せてください』とわたしに言っ     た。それでわたしがポケットからそれを取り出して彼に渡すと、彼はそれ     を取って細かく破って、いまどき天使の働きのようなものなどないと言い、     また、その版を持ってくれば翻訳してあげようと言った。そこでわたしは、     版の一部は封じられており、持って来ることを禁じられていると告げた。     すると彼は、『わたしは封じられた書を読むことはできない』と答えた。     わたしは彼のもとを去り、ミッチェル博士のところへ行ったが、彼も文字     と翻訳の両方に関してアンソン教授が言ったことを認めた。」   ニーファイの言う「書物を受け取る男(学識のない者)」はジョセフ・ス   ミス、「別の男」はマーティン・ハリス、「学者」はチャールズ・アンソ   ンを指している。イザヤの言う「読むことのできる者」は学者のことで、   チャールズ・アンソンを指し、「読むことのできない者」は学識のない者   のことで、ジョセフ・スミスを指している。イザヤ書では、彼は「読むこ   とはできない」と言うとなっているが、ニーファイ書では「わたしは無学   です」と言うとなっていいる。彼は、彼の力では読むことはできないが、   神の力によってこの書を読むことができるのである。   ジョセフ・スミスは確かに学識のない者であった。学歴は小学校程度で、   ようやく読み書きができる程度だった。ジョセフの妻エマは次のように言   っている。「夫はモルモン書のような本を口述しているのに、手紙では理   路整然とした文章も洗練された言葉も書けないのです。ほかのだれもがそ   うだと思いますが、わたしにとってはそれは驚きでした。驚くべき不思議   なことでした。」   オルソン・プラットは次のように言っている。   書物そのものは、学識のない人に渡される。さて、ジョセフ・スミスの資格、すなわ   ち学識に関して言えば、ごく普通のものであった。ジョセフは家の近くの公立の学校   でわずかながらの教育を受け、少し読むことができた。また書くことができた。しか   し、思い切って自分で書記を務めることさえできないような、当時としては普通の能   力しかなかった。したがって、ジョセフはその時に応じて人を雇い、翻訳したものを   書き取ってもらう必要があった。この学識のない人は、学者がしたような答え方はし   なかった。書物が渡されて読むように求められた時、学識のない少年は「私は無学で   ある」と答えた。主からこの書物を読むように言われたジョセフは、自分の弱さを痛   感したのであろう。それが偉大な業であることを知っていたからである。   ニーファイによる補足   第2ニーファイ27:6-14     そして主なる神は、ある書物の言葉をあなたがたにもたらされる。     それは眠りに就いた者たちの言葉である。     見よ、その書物は封じられており、     その中には、世の初めから世の終わりまでの神からの啓示が載っている。     また、封じられているものがあるので、封じられているものは、     民が悪事と忌まわしい行いにふけっている時代には授けられない。     したがって、その書物は人々から隠される。     しかしその書物は、やがて一人の男に授けられる。     そして彼は、その書物の中の言葉、     すなわち地の中で眠りに就いている者たちの言葉を、別の男に授ける。     しかし彼は、封じられている言葉は授けないし、その書物も渡さない。     その書物は神の力によって封じられており、     また、封じられている啓示は、主がふさわしいと思われる時が来て世に出るまで、     その書物の中に保たれるからである。     見よ、それらの啓示は世の初めから世の終わりまで、すべてのことを示すものである。     こうして、封じられた書物の言葉が屋根の上で読み上げられ、     またキリストの力によって読まれる日が来る。     そして、かつて人の子らの中にあったことと、     またこれから世の終わりまでに起こることがすべて、人の子らに示される。     それゆえ、わたしが前に述べた男にその書物が授けられる日に、     その書物は世の人々の目につかないように隠される。     そして、その書物を授けられる男のほかに、     3人の証人が神の力によってそれを見るが、そのほかにはだれも見ない。     そしてこの3人は、その書物とその中に書いてあることが真実であることを証する。     このほかにそれを見る者は、ただ神の御心に従って人の子らに神の言葉について     証を述べる少数の者だけで、だれもほかにいない。     主なる神は、忠実な者の言葉はあたかも死者から出るかのように語る、     と言われた。     それゆえ、主なる神はその書物の言葉をもたらし、     また適切であると見なされる人数の証人の口を通して、     御自分の言葉を確かなものとされる。     したがって、神の言葉を拒む者は災いである。   第2ニーファイ27:21-23     封じられている部分に触れてはならない。     わたしは、自分がふさわしいと思うときにそれらをもたらすからである。     そして、わたしにはわたし自身の業を行う能力があることを、人の子らに示そう。     それゆえ、あなたはわたしの命じた言葉を読み、     またわたしがあなたに約束した証人たちを得たら、     その後、あなたは再びその書物を封じて、     わたしに託して隠すようにしなさい。     そうすればわたしは、人の子らにすべてのことを明らかにするのが     わたしの知恵にかなうと思うときまで、     あなたのまだ読んでいない言葉を保っておくことができる。     さて見よ、わたしは神である。奇跡の神である。     わたしは、昨日も、今日も、またとこしえに変わらないこと、     また、わたしは人の子らの信仰に応じてでなければ彼らの中で     業を行わないことを、世の人々に示そう。   回復された福音をよく知っている人々は、これらの節がモルモン書と、モルモン書が   末日に福音を回復するために果たす役割について述べていることが分かるであろう。   ブルース・R・マッコンキー長老は次のように語っている。「教会の内外を問わず、   モルモン書の真の意義を理解している人はわずかしかいない。モルモン書はキリスト   についての新しい証であるが、キリスト再臨への道を備える業の中でモルモン書がこ   れまでに果たしてきた役割、またこれから果たすべき役割を理解している人はほとん   どいない。モルモン書は人々に非常に大きな影響を及ぼし、全地とすべての民を感化   し、その行動規範となるであろう。モルモン書はすべての人に神の思い、御心、御声   を示すものなのか、現代人が考えるべき事柄として、これほど重要なものはほかにな   い。」   11-12節 「封じた書物」とは何か、またその「言葉」はだれに渡されたのか     『モルモン書』の翻訳が進められている最初のころ、マーティン・ハリスはジョ     セフ・スミスの行っている翻訳が真正なものであるという証拠を得たいと考えた。     マーティンはジョセフの許可を得て、金版から書き取った「言葉」の写しとその     翻訳を何人かの学者のもとへ持って行った。マーテイン・ハリスが預言者ジョセ     フ・スミスに渡した記録によれば、マーティンはまずその写しをニューヨーク市     のチャールズ・アンソン教授のところへ持って行った。アンソン教授はその文字     は真正なものであって翻訳もまた正確であることを証明してくれたが、その文字     の原典である記録が超自然的な方法でもたらされたことを知ると、前言を翻し、     自分の書いた証明書を小さく引き裂いてしまった。マーティン・ハリスの報告で     はアンソン教授は「その版を持って来れば翻訳してあげよう」と言った。そこで     わたしは、「版の一部は封じられており、持って来ることを禁じられている」と     告げた。すると彼は、「わたしは封じられた書を読むことはできない」と答えた。     わたしは彼のもとを去り、ミッチェル博士のところへ行ったが、彼も文字と翻訳     の両方に関してアンソン教授が言ったことを認めた。(ジョセフ・スミスー歴史1     :65)     この書物が託された学識のない人とは、もちろんジョセフ・スミスのことである。     オーソン・プラット長老はかつてこのように言っている。「さて、ジョセフ・ス     ミスの資格と学歴に関して申し上げれば、それはきわめて人並みであったといえ     よう。ジョセフは自分の住んでいた地域にあるごく普通の田舎の学校でささやか     な教育を受けていた。多少読むこともでき書くこともできたが、ごく人並みであ     ったため、自分で書記役を務めるほどの冒険はあえて冒さず、そのため翻訳して     いるときには、必要に応じて筆記者を雇わなければならなかった。無学のジョセ     フ・スミスの答えは、学識を備えたあの教授の答えとは異なるものであった。こ     の書物がこの無学な若者に渡され、それを読むように言われたときも、この青年     は『わたしは無学です』と答えたのである。ジョセフは主にこの書物を読むよう     命じられたとき、自分の弱さを感じたのではなかろうか。その業がいかに大いな     る業か、考えたからである。」 13)主は言われた、   「この民は口をもってわたしに近づき、   くちびるをもってわたしを敬うけれども、   その心はわたしから遠く離れ、   彼らのわたしをかしこみ恐れるのは、   そらで覚えた人の戒めによるのである。   【解説】   戒め = 命令、規定   第2ニーファイ27:24,25     そしてまた、主は御言葉を授けられて、それを読む先の男に言われる。     「この民は口ではわたしに近づき、     唇ではわたしをあがめるが、     彼らの心はわたしから遠く離れている。     彼らがわたしを畏れ敬うのは、     人の訓戒によって教えられているからである。   最初の示現で、キリストは同じことを述べられた。   ジョセフ・スミス―歴史1:17-19     わたしは筆紙に尽くし難い輝きと栄光を持つ二人の御方が     わたしの上の空中に立っておられるのを見た。     すると、そのうちの御一方がわたしに語りかけ、     わたしの名を呼び、別の御方を指して、     「これはわたしの愛する子である。彼に聞きなさい」と言われた。     わたしが主にお伺いしようとした目的は、自分が加わるべき教派を知るために、     すべての教派のうちのどれが正しいかを知ることであった。     そこで、わたしは我に返って物を言えるようになるやいなや、     わたしの真上で光の中に立っておられた方々に、     すべての教派のうちのどれが正しいか     (当時は、すべての教派が間違っているということなど、     わたしの心に思い浮かびもしなかったからである)、     また自分はどれに加わるべきかを伺った。     すると、どれにも加わってはならない、すべて間違っているからである、     とのお答えであった。     また、わたしに話しかけられた御方は、     彼らの信条はことごとくその目に忌まわしいものであり、     信仰を告白するそれらの者たちはすべて腐敗しており、     「彼らは脣をもってわたしに近づくが、     その心はわたしから遠く離れている。     彼らは人の戒めを教義として教え、     神を敬うさまをするけれども神の力を否定している」と言われた。 14)それゆえ、見よ、わたしはこの民に、   再び驚くべきわざを行う、   それは不思議な驚くべきわざである。   彼らのうちの賢い人の知恵は滅び、   さとい人の知識は隠される」。   【解説】   さとい = 賢くて知能の高い   第2ニーファイ27:26     それゆえ、わたしはこの民の中で驚くべき業を、     まことに驚くべき業と不思議を行う。     知者と学者の知恵は失われ、     賢者の知識は隠される。」   教義と聖約4:1     さて見よ、驚くべき業が、まさに人の子らの中に現れようとしている。   9-14節   救い主は地上に福音を回復される。   13節は「背教」、14節は「回復」について述べている。   「背教」とは「教えから離れる」という意味で、わたしたちが「背教」という場合、   完全な福音と福音の儀式を執り行う神権の権能が地上から取り去られていた時期を   指す。「回復」とは、完全な福音と神権の権能が地上に戻されることである。   不思議な驚くべきわざ     福音の回復、神権の回復、モルモン書の出現、生ける預言者、万物の更新   イザヤの預言した「不思議な驚くべきわざ」とは何か     『モルモン書』の出現自体が正に不思議な驚くべき業ということができるが、イ     ザヤの預言はこの書物以上のものも含んでいる。リグランド・リチャーズ長老は     次のように説明した。     「不思議な驚くべきわざ、言い換えれば『奇しきみわざ』を実際に構成している     のは何だろうか。なぜ誠実で、真実を愛する人がこのような業の宣言を歓迎しな     いのだろうか。ちょうどキリストが人々の間におられたとき、人々がキリストを     拒んだように、いつの時代も、天から送られた真理を拒否するのだろうか。生き     ている預言者よりも死んだ預言者を受け入れ信じやすいのは、なぜだろうか。     この約束された『奇しきみわざ』の成就に当たって、主は万物の更新を心に留め     たもうた。そしてペテロをして、彼らをはりつけにした人々に対して、このよう     に預言させた。〔使徒3:19-21〕」     つまり、神権がことごとく回復されたこと、言い換えれば、教会と儀式、福音の     真理が回復されたことが、イザヤの預言した「不思議な驚くべきわざ」なのであ     る。 15)わざわいなるかな、   おのが計りごとを主に深く隠す者。   彼らは暗い中でわざを行い、   「だれがわれわれを見るか、   だれがわれわれのことを知るか」と言う。   【解説】   計りごと = 計画、決意   第2ニーファイ27:27     自分たちのはかりごとを奥深く隠して、     主に知られないようにしようとする者は、災いである。     彼らの行いは闇の中にあり、彼らは、     「だれがわたしたちを見ていようか。     だれがわたしたちを知っていようか」と言う。 16)あなたがたは転倒して考えている。   陶器師は粘土と同じものに思われるだろうか。   造られた物はそれを造った者について、   「彼はわたしを造らなかった」と言い、   形造られた物は形造った者について、   「彼は知恵がない」と言うことができようか。   【解説】   陶器師 = 粘土で物を造る人   15,16節   第2ニーファイ27:27     彼らはまた、「確かに、あなたがたが物事を転倒して考えていることは、     陶器師の粘土のようなものだ」と言う。     しかし見よ、万軍の主は言われる。     「わたしは彼らのあらゆる行いを知っていることを彼らに示そう。     造られたものがそれを造った者について、     『彼はわたしを造らなかった』と言えるだろうか。     形造られたものが形造った者について、     『彼には分別がない』と言えるだろうか。」 17)しばらくしてレバノンは変って肥えた畑となり、   肥えた畑は林のように思われる時が来るではないか。   【解説】   第2ニーファイ27:28     しかし見よ、万軍の主は言われる。     「わたしは人の子らに、もうしばらくするとレバノンがよく肥えた畑に変わり、     そのよく肥えた畑が森のように思われる時が来ることを示そう。」   ユダヤ人がパレスチナの地へ集合する。砂漠に囲まれた長い間荒廃していたパレスチ   ナ地方も、ユダヤ人の故国帰還に時を合わせて、やがて必ず肥えた実り豊かな畑に変   わる。その時が来る前にモルモン書が世に出ることになっていた。   この聖句は「モルモン書」の出現とどのような関係があるか     マーク・E・ピーターセン長老は次のように言っている。「ユダヤ人たちがパレ     スチナの地へ集合していることは、あらゆる時のしるしの中でも最も顕著でかつ     重要なものの一つである。主はエレミヤを通じて次のように言われた。「わたし     は彼らを、その先祖に与えた地に帰らせ、彼らにこれを保たせる。』(エレミヤ     30:3)イザヤは、砂漠に囲まれて長い間荒廃していたパレスチナ地方も、ユダヤ     人の故国帰還に時を合わせてやがて必ず肥えた実り豊かな畑に変わる、と預言し     ていた。     その時が来る前に、1冊の神聖な書物が世に出ることになっていた。この書物は     世にとって新しい書物であり、堕落した国が突然滅ぼされたことを記録した書物     であり、末の日に学識のある者に渡され拒まれる書物である。しかしまた、神の     定めた方法によって一人の学識のない人物に渡され、この人を通じて世にもたら     されることになる書物である。     この書物はどこにあるのか。この書物は時のしるしの一つである。     預言者たちがこの書物の出現を預言しただけではない。イザヤにあっては、それ     がいつ世に出されるかについて、おおよその時まで示しているのである。その時     については、パレスチナが再び実り豊かな地となる時と関連づけて述べられてい     る。イザヤの預言に従えば、まずその書物が最初に現れ、それに続いて『しばら     くしてレバノンは変って肥えた畑となり、肥えた畑は林のように思われる時が来     る。」     その期限はすでに過ぎた。この新しい聖典はすでに出現していなければならない。     そうでなければ、イザヤはまことの預言者ではないということになる。パレスチ     ナでは再び実り豊かな地となっているからである。」 18)その日、耳しいは書物の言葉を聞き、   目しいの目はその暗やみから、見ることができる。   【解説】   第2ニーファイ27:29     そしてその日、耳の聞こえない者もその書物の御言葉を聞き、     目の見えない者も暗闇から、また暗黒から出て見えるようになる。   耳(みみ)しい = 耳の聞こえない人   目(め)しい = 目の見えない人   書物 = モルモン書   救い主は地上に福音を回復される。   モルモン書のメッセージを喜んで受け入れる人々の感覚や霊的意識を目覚めさせる。   霊の目や耳が開かれる。   18-19節 聞くことのできない人、また見ることのできない人、柔和な人について言わ        れていることには、どのような意味があるか     人は、霊的な意味であるいはまた肉体的な意味において、耳が聞こえなくなった     り、目が見えなくなったりすることがある。ブルース・R・マッコンキー長老は     霊的に耳が聞こえない状態について次のように定義している。「霊性に欠ける人     々の状態を表しており、御霊の静かで細い声のささやきを聞く霊の耳を持たない     状態である。同様に、『霊的な目しい』というのも、人の行いの中に現れる神の     手を見ることができないという特徴を持つ症状である。そのような人たちは「不     信仰と心の暗さ」に陥っており、『心はかたくなになり、思いはくら』んでいる     のである。」   これは、いつ成就するだろうか。その日には、耳の聞こえぬ者がその書物の言葉を聞   く。何のために?その中にある教えや勧告、完全な教義、予言などを得るためである。   また人の子の再臨の前に達成すべき偉大な業について、人々に与えられる知識を得る   ためである。この知識により、地の柔和なる人の喜びが増すのである。「世の中の貧   しい人たちはイスラエルの聖者を喜ぶ」これは非常に大切な言葉である。   イザヤが先見したように、本人に過失がないのに霊的に耳の聞こえない者や目の見え   ない者が神の御言葉を聞き、不明な暗黒の有様でなくなる日が来る。これはすなわち、   柔和なる人たちが増えて、主に仕えて喜ぶことを意味している。 19)柔和な者は主によって新たなる喜びを得、   人のなかの貧しい者は   イスラエルの聖者によって楽しみを得る。   【解説】   柔和 = 謙虚で従順なこと   第2ニーファイ27:30     また、柔和な者たちも増えて主にあって喜びを得、     人々の中の貧しい者たちは、     イスラエルの聖者によって喜びを味わうようになる。 20)あらぶる者は絶え、   あざける者はうせ、   悪を行おうと、おりをうかがう者は、   ことごとく断ち滅ぼされるからである。   【解説】   あらぶる者 = 力強く邪悪な人々   絶える = なくなる   あざける = ばかにする   うせる = 滅ぼされる   第2ニーファイ27:31     荒々しい者はいなくなり、     あざける者は焼き尽くされ、     罪悪の機をうかがう者は絶たれることを、     主が生きておられるように確かに、彼らは知るからである。 21)彼らは言葉によって人を罪に定め、   町の門でいさめる者をわなにおとしいれ、   むなしい言葉をかまえて正しい者をしりぞける。   【解説】   いさめる = 間違いを正す   むなしい = 価値のない   第2ニーファイ27:32     たった一言のために人を悪く見る者、     門でとがめる者に対してわなを仕掛ける者、     また価値のないもののために正しい者を退ける者、     これらの者は絶たれる。   20,21節     この書物の出現に関連ある出来事がさらに記されている。     「あらぶる者は絶え」この予言は成就しただろうか。まだである。定められたと     きになれば成就するであろうが、その前に、彼らが書物の言葉を聞いて、地の中     から現れた真理によって、十分な警告を受けなければならない。この警告が耳に     鳴り響いたとき、もし彼らが心をかたくなにするならば、全能者の定めにより、     罪悪を求める人は、みな切り捨てられるのである。また、生ける神の聖徒を迫害     する者や、たった一言のために人を悪く見る者、門でとがめる者に対してわなを     仕掛ける者、価値のないもののために正しい者を退ける者は、すべて滅ぼされる。   (私的)原罪を信じ込ませ、人に罪の意識を植え付けた者たちの終末。   真実を広めようとする人を、罠に陥れようとする者たちの終末。   正しい人たちや、真実を書き留めたり語ったりする人たちのすべてを、   退けようとする者たちの終末。   彼らは、自分たちが滅ぼされ破壊されるのではないかと恐れ、   訳も分からずに、ただ正しいことを守るためだと信じ込んで、   キリストを十字架に掛けた人々と同じ。 22)それゆえ、昔アブラハムをあがなわれた主は、ヤコブの家についてこう言われる、   「ヤコブは、もはやはずかしめを受けず、その顔は、もはや色を失うことはない。   【解説】   第2ニーファイ27:33     さて、アブラハムを贖われた主は、ヤコブの家についてこう言われる。     「それゆえ、ヤコブはもはや恥を受けることなく、     また、もはや顔色を失うこともない。 23)彼の子孫が、その中にわが手のわざを見るとき、   彼らはわが名を聖とし、   ヤコブの聖者を聖として、   イスラエルの神を恐れる。   【解説】   第2ニーファイ27:34     彼が自分の中にわたしの手の業である自分の子孫を見るとき、     彼らはわたしの名を神聖であるとたたえ、     ヤコブの賢者を神聖な方としてたたえ、     イスラエルの神を畏れ敬う。 24)心のあやまれる者も、悟りを得、   つぶやく者も教をうける」。   【解説】   あやまれる = 間違いを犯した   第2ニーファイ27:35     心に誤解を生じていた者も理解するようになり、     つぶやいていた者も教義を知るようになる。」   救い主は地上に福音を回復される。    「心のあやまれる者も、悟りを得」という聖句はだれのことを指しているのか     キリスト教世界の中には誠実な人も多い。そういう人が偽りの教義と結びついて     いたとしても、それはその人自身の過ちではない。オーソン・プラット長老は、     イザヤ29章について詳細にわたって注解を加え、次のように説明している。     「わたしはこれまでキリスト教世界がひどい盲目の状態に置かれているのを見て、     ひどく心を痛めてきた。わたしはクリスチャンと呼ばれる人の多くが誠実である     ことを知っていた。真理を知りたいという望みを抱いていることも知っていた。     しかし、右へ曲がったらよいのか、左へ曲がったらよいのかということすら、ほ     とんど分かっていなかったのである。どれほど大きな誤りがそうした人々の中で     教えられてきたことか。また、どれほど強い因習にとらわれてきたことか。霊感     や聖霊の力ではなく、人の考えによって、主がいかに恐ろしい存在か教え込まれ     てきたのである。だが、この書物が出現するとき、『心のあやまれる者も、悟り     を得、つぶやく者も教をうける。』     しかし、この書物を読んだ者は、教義については神の王国の儀式に関するかぎり、     心に永遠の平安を得たと証している。これまで誤りを犯してきた人々も、まこと     のバプテスマの方法が水を注ぐだけでいいのか、水に入ればいいのか、それとも     全身を沈めなければならないのか知らずにいた人々も、今ははっきりと分かって     いる。なぜか。『モルモン書』にはこのアメリカ大陸で古代のニーファイの民に     伝えられたままの方法が記録されているからである。それゆえ、キリストの教え     の原則については、すべてきわめて分かりやすく記録されているため、二人の人     が『モルモン書』を読んでもこれに関して異なった考え方を持つことはあり得な     い。」
第30章   【解説】   反抗的で世俗の欲にふけっているイスラエルが回復の日に救われること。   背教。回復。それに伴う祝福。再臨。   エジプトとの同盟の問題。   【セミナリー解説】   主を信頼する   30-32章が書かれたのは、アッスリヤが周囲の国々を征服した後、イスラエルを攻撃   しようとしていたときだった。恐れたイスラエルの人々の多くは、自分たちを守るた   めにエジプトに助けを求めました。しかし、モーセの時代に、イスラエルの子らが邪   悪なエジプトから逃れたときに助けてくださったのは主だった。主が民の戦いを戦い、   約束の地を得るのをお助けになった。過去に自分たちを救い出してくださった主に頼   らずに、エジプトと条約を結ぶという行為を見れば、イスラエルの民が神に対して抱   いていた信仰がいかに小さいものであったかが分かる。30-32章に書いてあるイザヤ   の勧告は、救出を求めるならエジプトではなく主を信頼しなさいというものである。   またイザヤはイスラエルの子らに、主を信頼することによって受けられる祝福につい   て語り、主に頼らないとどのような結果を招くことになるか警告している。多くの人   が戒めは「難しすぎる」、あるいは戒めを守ってもすぐに報いを得ることはないと考   え、自分の力や判断、または人の力や判断を信頼して、戒めを無視している。   【インスティテュート解説】   「そむける子らはわざわいだ」     イスラエルとユダは、ほかの国々に信頼を置いてはならないと主から警告されて     いた。しかし、この民はこれに聞き従わず、アッスリヤからの保護を求めてむし     ろエジプトに頼っていった。主はこれを激しく責められた。「エジプトへ下って     いって、パロの保護にたより、エジプトの陰に隠れようと」(2節)したからであ     る。イザヤの言葉によれば、これは皆「無益であって、むなしい。」(7節)その     結果、イスラエルは粘土の器のように簡単に打ち砕かれてしまうのである(14節)。     しかし神はイスラエルに恵みを施される。主はたとえしばらくの間は「悩みのパ     ンと苦しみの水」(20節)を与えられるとしても、やがて終わりの日にはその師た     ちがまことの福音を教え、その歩む道を示すのである(21節)。預言者たちが戻っ     て来るだけでなく、この世の大いなる祝福も回復される。「地はおびただしく、     かつ豊かである。その日あなたの家畜は広い牧場で草を食べる」(23節)。最終的     には主はイスラエルを贖われる。10部族を連れ去ったあの「アッスリヤ」でさえ     も最後には「恐れおののく」(31節)のである。     30章の中心主題は、人は神の助言や(1-2節)、預言者の指示を求めずに(9-11節)、     人の知恵に頼るということである。主は、このようにして神の言葉を拒むことが     滅びの直接の原因になると言われた(12-14節)。     モンテ・S・ナイマンは次のように書いている。「1節から7節までに書かれてい     る警告は現代にも当てはまる。主がイザヤに命じて後の世に伝えて証とせよ(8節)     と言っておられるからである。この後の世とは、『欽定訳聖書』の注釈によれば     『末日』のことである。」 01)主は言われる、   「そむける子らはわざわいだ、   彼らは計りごとを行うけれども、   わたしによってではない。   彼らは同盟を結ぶけれども、   わが霊によってではない、   罪に罪を加えるためだ。   【解説】   同盟(どうめい) = 個人・団体または国家などが、互いに共通の目的を達成するた            に同一の行動をとることを約束すること。また、それによって            成立した関係 02)彼らはわが言葉を求めず、   エジプトへ下っていって、パロの保護にたより、   エジプトの陰に隠れようとする。   【解説】   パロ = エジプトの王の総称、ファラオともいう 03)それゆえ、パロの保護は   かえってあなたがたの恥となり、   エジプトの陰に隠れることは   あなたがたのはずかしめとなる。 04)たとい、彼の君たちがゾアンにあり、   彼の使者たちがハネスに来ても、 05)彼らは皆おのれを益することのできない民により、   すなわち助けとならず、益とならず、   かえって恥となり、はずかしめとなる民によって、   恥をかくからである」。 06)ネゲブの獣についての託宣。   彼らはその富を若いろばの背に負わせ、   その宝をらくだの背に負わせて、   雌じし、雄じし、まむしおよび飛びかけるへびの出る   悩みと苦しみの国を通って、   おのれを益することのできない民に行く。   【解説】   託宣(たくせん) = 神からの言葉、おつげ 07)そのエジプトの助けは無益であって、むなしい。   それゆえ、わたしはこれを   「休んでいるラハブ」と呼んだ。   【解説】   ラハブ = 恐ろしい怪物。イスラエルを助けた遊女ラハブとは別。 08)いま行って、これを彼らの前で札にしるし、   書物に載せ、   後の世に伝えて、とこしえにあかしとせよ。 09)彼らはそむける民、偽りを言う子ら、   主の教を聞こうとしない子らだ。 10)彼らは先見者にむかって「見るな」と言い、   預言者にむかっては   「正しい事をわれわれに預言するな、   耳に聞きよいことを語れ、迷わしごとを預言せよ。   【解説】   先見者 = 神の力によって将来起こるべき事柄を見ることのでいる人   1-10節 イザヤはイスラエルの政治家たちの愚行を非難した。   8-11節     預言者の教えにも聖霊のささやきにも耳を傾けず、悪の道を改めないようとしな     い者は、善悪を見分ける能力を失ってしまう。 11)大路を去り、小路をはなれ、   イスラエルの聖者について語り聞かすな」と言う。 12)それゆえ、イスラエルの聖者はこう言われる、   「あなたがたはこの言葉を侮り、   しえたげと、よこしまとを頼み、   これにたよるがゆえに、 13)この不義はあなたがたには   突き出て、くずれ落ちようとする高い石がきの   破れのようであって、   その倒壊はにわかに、またたくまに来る。 14)その破れることは陶器師の器を破るように   惜しむことなく打ち砕き、   その砕けのなかには、炉から火を取り、   池から水をくめるほどの、ひとかけらさえ   見いだされない」。   【解説】   12-14節 ユダはやがて滅びる。 15)主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、   「あなたがたは立ち返って、   落ち着いているならば救われ、   穏やかにして信頼しているならば力を得る」。   しかし、あなたがたはこの事を好まなかった。 16)かえって、あなたがたは言った、   「否、われわれは馬に乗って、とんで行こう」と。   それゆえ、あなたがたはとんで帰る。   また言った、「われらは速い馬に乗ろう」と。   それゆえ、あなたがたを追う者は速い。 17)ひとりの威嚇によって千人は逃げ、   五人の威嚇によってあなたがたは逃げて、   その残る者はわずかに   山の頂にある旗ざおのように、   丘の上にある旗のようになる。   【解説】   旗ざお、旗 = 合図または信号   逃げた軍が残した旗を指すが、残された旗から救いが始まる。   山 = 神殿、偶像崇拝で祈りをささげる場   旗 = モルモン書、ジョセフ・スミス 18)それゆえ、主は待っていて、   あなたがたに恵を施される。   それゆえ、主は立ちあがって、   あなたがたをあわれまれる。   主は公平の神でいらせられる。   すべて主を待ち望む者はさいわいである。 19)シオンにおり、エルサレムに住む民よ、あなたはもはや泣くことはない。主はあなた   の呼ばわる声に応じて、必ずあなたに恵みを施される。主がそれを聞かれるとき、直   ちに答えられる。 20)たとい主はあなたがたに悩みのパンと苦しみの水を与えられても、あなたの師は再び   隠れることはなく、あなたの目はあなたの師を見る。   【解説】   悩み、苦しみ = 試練や苦難   悩みのパン = 飢饉   苦しみの水 = 水害   師 = キリスト   救い主は私達の試しを知っていて道を示す。 21)また、あなたが右に行き、あるいは左に行く時、そのうしろで「これは道だ、これに   歩め」と言う言葉を耳に聞く。   【解説】   15-21節で、主はイスラエルの民に、自分自身の力、他人の力、戦争の道具の代わり   に、主を信頼すべきである理由を説明しておられる。 22)その時、あなたがたはしろがねをおおった刻んだ像と、こがねを張った鋳た像とを汚   し、これをきたない物のようにまき散らして、これに「去れ」と言う。   【解説】   鋳る(いる) = 溶かした金属を鋳型(いがた)に流し込んで器物をつくること 23)主はあなたが地にまく種に雨を与え、地の産物なる穀物をくださる。それはおびただ   しく、かつ豊かである。その日あなたの家畜は広い牧場で草を食べ、 24)地を耕す牛と、ろばは、シャベルと、くまででより分けて塩を加えた飼料を食べる。 25)大いなる虐殺の日、やぐらの倒れる時、すべてのそびえたつ山と、すべての高い丘に   水の流れる川がある。 26)さらに主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日には、月の光は日の光   のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようにになる。 27)見よ、主の名は遠い所から   燃える怒りと、立ちあがる濃い煙をもって来る。   そのくちびるは憤りで満ち、   その舌は焼きつくす火のごとく、 28)その息はあふれて首にまで達する   流れのようであって、   滅びのふるいをもってもろもろの国をふるい、   また惑わす手綱を   もろもろの民のあごにつけるために来る。   【解説】   ふるい = 円形・方形の枠の下に、網を張った道具。粒状のものを入れて        振って、網目を通る細かいものをより分ける   手綱(たづな) = 馬具の一。轡(くつわ)の左右に結びつけ、人が手に取って馬を           操る綱 29)あなたがたは、聖なる祭を守る夜のように歌をうたう。また笛をならして主の山にき   たり、イスラエルの岩なる主にまみえる時のように心に喜ぶ。 30)主はその威厳ある声を聞かせ、激しい怒りと、焼きつくす火の炎と、豪雨と、暴風と、   ひょうとをもってその腕の下ることを示される。   【解説】   23-30節 シオンは神の御手の下に繁栄する。 31)主がそのむちをもって打たれる時、アッスリヤの人々は主の声によって恐れおののく。 32)主が懲らしめのつえを彼らの上に加えられるごとに鼓を鳴らし、琴をひく。主は腕を   振りかざして、彼らと戦われる。 33)焼き場はすでに設けられた。しかも王のために深く広く備えられ、火と多くのたきぎ   が積まれてある。主の息はこれを硫黄の流れのように燃やす。   【解説】   硫黄(いおう) = 酸素族元素の一。単体は無臭の黄色結晶。温泉や火山帯に           産する。空気中で熱すると青い炎をあげて燃え、悪臭のある二           酸化硫黄(亜硫酸ガス)を生じる。火薬・マッチ・医薬品の原料、           ゴム製造などに使用   31-33節     ここに述べられているのは古代アッスリヤのことであるが、同時に今日の世の中     の邪悪についても述べている。
第31章   【解説】   この世と再臨。   30章と31章は同じことを言っている。エジプトとの同盟について。   外国については滅びだけを告げている。   イスラエルに対しては、聖約を守るなら祝福を約束をしている。   【インスティテュート解説】   「肉の腕」に頼らず、主を信頼する     この章の主題は前章の主題とよく似ている。しかしながら、「最初の警告は人の     知恵を信頼することに対する警告であり、次のものは人の力を信頼することに対     する警告である。」「助けを得るためにエジプトに下る者はわざわいだ。」(1節)     エジプトからはそのような助けは得られないからである。「かのエジプトびとは     人であって、神ではない。」エジプト人自身も、その助けを受ける者も「皆とも     に滅びる。」(3節)一人主のみがイスラエルを救うことがおできになるのである。     イザヤは言った。「イスラエルの人々よ、主に帰れ。あなたがたは、はなはだし     く主にそむいた。」さらに「アッスリヤびとはつるぎによって倒れる、人のつる     ぎではない。」主の剣である(6,8節)。末日の「エジプトびと」と「アッスリヤ     びと」というのは、現代の人々が、主に代えて信頼を寄せる者たちのことを指し     ているとも考えられる。 01)助けを得るためにエジプトに下り、   馬にたよる者はわざわいだ。   彼らは戦車が多いので、これに信頼し、   騎兵がはなはだ強いので、これに信頼する。   しかしイスラエルの聖者を仰がず、   また主にはかることをしない。 02)それにもかかわらず、主もまた賢くいらせられ、   必ず災をくだし、その言葉を取り消すことなく、   立って悪をなす者の家を攻め、   また不義を行う者を助ける者を攻められる。 03)かのエジプトびとは人であって、神ではない。   その馬は肉であって、霊ではない。   主がみ手を伸ばされるとき、   助ける者はつまずき、   助けられる者も倒れて、皆ともに滅びる。   【解説】   エジプトとユダは共に滅びる。   エジプトは無力であり、滅亡する。イザヤがイスラエルの滅亡を予言して100年後   に、エジプトとの同盟が何の役にも立たないものであったことが証明された。つまり、   バビロンのネブカデネザル王はユダを攻撃し、エルサレムを侵略し、多くのユダヤ人   を奴隷としてバビロンへ連れていった。しかし、エジプトは手をこまねいて見ている   だけだった。 04)主はわたしにこう言われた、   「ししまたは若いししが獲物をつかんで、   ほえたけるとき、   あまたの羊飼が呼び出されて、これにむかっても、   その声によって驚かず、   その叫びによって恐れないように、   万軍の主は下ってきて、   シオンの山およびその丘で戦われる。 05)鳥がひなを守るように、   万軍の主はエルサレムを守り、   これを守って救い、これを惜しんで助けられる」。 06)イスラエルの人々よ、主に帰れ。あなたがたは、はなはだしく主にそむいた。 07)その日、あなたがたは自分の手で造って罪を犯したしろがねの偶像と、こがねの偶像   をめいめい投げすてる。   【解説】   5-7節 やがて行われるシオンの回復。 08)「アッスリヤびとはつるぎによって倒れる、   人のつるぎではない。   つるぎが彼らを滅ぼす、   人のつるぎではない。   彼らはつるぎの前から逃げ去り、   その若い者は奴隷の働きをしいられる。 09)彼らの岩は恐れによって過ぎ去り、   その君たちはあわて、旗をすてて逃げ去る」。   これは主の言葉である。   主の火はシオンにあり、その炉はエルサレムにある。
第32章   【解説】   回復のときまで続くイスラエルの背教。   【インスティテュート解説】   イスラエルはメシヤが帰還の準備を始められるまで荒れ廃れる     オーソン・プラット長老は、この聖句が古代のイスラエルだけでなく末日聖徒に     も当てはまると考えていた。末日聖徒も合衆国東部の家々を追い出され、ロッキー     山脈の辺境にたどり着いたからである。     「イザヤよ、あなたは現在生きている民と同じように見ていたのだろうか。ある     民が砂漠に行き、感謝と歌の声をささげる光景を見ていたのだろうか。その砂漠     と荒れ野が不毛の状態を贖われ、エデンの園のようになる様子を見ていたのだろ     うか。イザヤはこう答える。『そのとおりである。わたしはそれをすべて見てい     た。そしてわたしの時代の2、3千年後に生まれてくる世代のために、記録として     書き残したのである。』しかし、イザヤよ、わたしたちは、民がその砂漠に集合     し、神の手の器となってそこを贖うことになる、と考えていてよいのだろうか。     そのとおりである。イザヤはすでにこれをすべて伝えている。もう一度32章を読     んでみようではないか。『しかし、ついには霊が上からわれわれの上にそそがれ     て、荒野は良き畑となり、良き畑は林のごとく見られるようになる。』良き畑と     は何か。良き畑に変えられるはずの荒れ野のことである。『正義は平和を生じ、     正義の結ぶ実はとこしえの平安と信頼である。わが民は平和の家におり、安らか     なすみかにおり、静かな休み所におる。』     わたしたちはミズーリやイリノイでそのような暮らしをしただろうか。それらの     州で絶えず平安と信頼のうちに生活しただろうか。そうではない。イザヤが『も     てあそばれ、慰めを得ない者よ』と書いているように、わたしたちはもてあそば     れてきたのである。どの州であっても、シオンではどこも同じであった。それは     シオンについて語る現代の啓示とも一致している。主はこう言っておられる。     『町から町へ、会堂から会堂へと追われる。そして、残って受け継ぎを得る者は     わずかであろう。』(教義と聖約63:31)しかし、シオンが荒れ野の中へ出かけて     行く時が来れば、事態は変わることだろう。「わが民は平和の家におり、安らか     なすみかにおり、静かな休み所におる」はずである。     民が山地の荒れ野に上って行ったら、中心となる都市ができるのだろうか。確か     にできる。イザヤはここで次のように言っている。『しかし林はことごとく切り     倒され、町もことごとく倒される。』28年前、この偉大な町の基を据えて以来、     わたしは幾度そのことを考えたことであろうか。この民はこの預言の成就につい     てどれほど思いを巡らしてきたことであろうか。彼らはこの峡谷を挟む東西の山     岳地帯では吹雪や嵐が荒れ狂う様を目にしている。まさしく冬将軍の猛威である。     しかし、それと同時にこの山々のふもとに一つの町が建てられた。この町は、春     は穏やかな気候の恵みを余すところなく受け、作物が損なわれてしまうようなこ     ともない。何という違いであろうか。『しかし林はことごとく切り倒され、町も     ことごとく倒される。』これがエルサレムであるはずがない。パレスチナのエル     サレム周辺の地域には、気候的にこれほどの較差はない。これは末日のシオン、     つまり山々の上に建つシオンのことを指していたのである。」 01)見よ、ひとりの王が   正義をもって統べ治め、   君たちは公平をもってつかさどり、 02)おのおの風をさける所、   暴風雨をのがれる所のようになり、   かわいた所にある水の流れのように、   疲れた地にある大きな岩の陰のようになる。   【解説】   救い主は砦であり避け所である。   1-2節     ユダは将来、正義に基づく統治の下に置かれるようになる。 03)こうして、見る者の目は開かれ、   聞く者の耳はよく聞き、 04)気短な者の心は悟る知識を得、   どもりの舌はたやすく、   あざやかに語ることができる。   【解説】   1-4節ほメシヤに関連したもの。   どもり = 発声器官に痙攣(けいれん)が起こり、第1音が円滑に出なか        ったり、ある音を繰り返したり伸ばしたりする言語障害 05)愚かな者は、もはや尊い人と呼ばれることなく、   悪人はもはや、りっぱな人と言われることはない。 06)それは愚かな者は愚かなことを語り、   その心は不義をたくらみ、よこしまを行い、   主について誤ったことを語り、   飢えた者の望みを満たさず、   かわいた者の飲み物を奪い取るからである。 07)悪人の行いは悪い。   彼は悪い計りごとをめぐらし、   偽りの言葉をもって貧しい者をおとしいれ、   乏しい者が正しいことを語っても、   なお、これをおとしいれる。 08)しかし尊い人は尊いことを語り、   つねに尊いことを行う。   【解説】   3-8節     シオンの状態。人々は神に関することを理解し、人々はその助言を受け入れる。     不義なる者はだれもそこに住むことができない。 09)安んじている女たちよ、起きて、わが声を聞け。   思い煩いなき娘たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。 10)思い煩いなき女たちよ、   一年あまりの日をすぎて、   あなたがたは震えおののく。   ぶどうの収穫がむなしく、   実を取り入れる時が来ないからだ。 11)安んじている女たちよ、震え恐れよ。   思い煩いなき女たちよ、震えおののけ。   衣を脱ぎ、裸になって腰に荒布をまとえ。   【解説】   9-11節 女性に対する警告。 12)良き畑のため、   実り豊かなぶどうの木のために胸を打て。 13)いばら、おどろの生えているわが民の地のため、   喜びに満ちている町にある   すべての喜びの家のために胸を打て。   【解説】   おどろ = みだれて生えているとげのある植物 14)宮殿は捨てられ、にぎわった町は荒れすたれ、   丘と、やぐらとは、とこしえにほら穴となり、   野のろばの楽しむ所、   羊の群れの牧場となるからである。 15)しかし、ついには霊が上から   われわれの上にそそがれて、   荒野は良き畑となり、   良き畑は林のごとく見られるようになる。   【解説】   12-15節     シオンが確立する前に、ユダは大いなる苦しみを受ける。地は荒れ廃れ、回復さ     れるまで、その状態が続く。 16)その時、公平は荒野に住み、   正義は良き畑にやどる。 17)正義は平和を生じ、   正義の結ぶ実はとこしえの平安と信頼である。 18)わが民は平和の家におり、   安らかなすみかにおり、   静かな休み所におる。 19)しかし林はことごとく切り倒され、   町もことごとく倒される。 20)すべての水のほとりに種をまき、   牛およびろばを自由に放ちおくあなたがたは、   さいわいである。   【解説】   15-20節     シオンの状態について述べられている。主のみたまは注がれ、荒れ地は作物を生     じ、正義は平和の実を結ぶ。
第33章   【解説】   背教に続く回復。   【セミナリー解説】   イエス・キリストの再臨   33章には、一部の人が自分の悪事のために、また主を迎える準備ができていないため   に、再臨を恐れるというイザヤの言葉が記録されている。また、イザヤは神とともに   住む人々についても語り、そのような人々の特質を述べています。主とともに住むこ   とを望む人は、これらの特質についていつも考えて、それらを伸ばすように努力すべ   きだろう。 01)わざわいなるかな、   おのれ自ら滅ぼされないのに、人を滅ぼし、   だれも欺かないのに人を欺く者よ。   あなたが滅ぼすことをやめたとき、   あなたは滅ぼされ、   あなたが欺くことを終えたとき、   あなたは欺かれる。 02)主よ、われわれをお恵みください、   われわれはあなたを待ち望む。   朝ごとに、われわれの腕となり、   悩みの時に、救となってください。 03)鳴りとどろく声によって、もろもろの民は逃げ去り、   あなたが立ちあがられると、   もろもろの国は散らされる。 04)青虫が物を集めるようにぶんどり品は集められ、   いなごのとびつどうように、   人々はその上にとびつどう。 05)主は高くいらせられ、高い所に住まわれる。   主はシオンに公平と正義とを満たされる。 06)また主は救と知恵と知識を豊かにして、   あなたの代を堅く立てられる。   主を恐れることはその宝である。 07)見よ、勇士たちは外にあって叫び、   平和の使者はいたく嘆く。 08)大路は荒れすたれて、旅びとは絶え、   契約は破られ、証人は軽んぜられ、   人を顧みることがない。   【解説】   1-8節 末日における散らされたイスラエルの民への約束 09)地は嘆き衰え、   レバノンは恥じて枯れ、   シャロンは荒野のようになり、   バシャンとカルメルはその葉を落す。 10)主は言われる、   「今わたしは起きよう、いま立ちあがろう、   いま自らを高くしよう。 11)あなたがたは、もみがらをはらみ、わらを産む。   あなたがたの息は火となって、   あなたがたを食いつくす。 12)もろもろの民は焼かれて石灰のようになり、   いばらが切られて火に燃やされたようになる」。   【解説】   石灰(いしばい) = 生石灰(酸化カルシウム)や消石灰(水酸化カルシウム)などの            こと。せっかい。 13)あなたがた遠くにいる者よ、   わたしがおこなったことを聞け。   あなたがた近くにいる者よ、   わが大能を知れ。   【解説】   10-13節     主は捕囚の身のイスラエルに対して、主は高められ、イスラエルの神を認めるよ     うになるに違いないと言われた。 14)シオンの罪びとは恐れに満たされ、   おののきは神を恐れない者を捕えた。   「われわれのうち、だれが   焼きつくす火の中におることができよう。   われわれのうち、だれが   とこしえの燃える火の中におることができよう」。   【解説】   14-16節     義の道を歩む者はシオンで平安に暮らす。   14-16節     シオンの輝きは焼き尽くす火のようで、人が住めないと思わせる。     教義と聖約88:22にあるように、日の栄えに耐えられる人でないとシオン入れない。   14-15節 「だれがとこしえの燃える火の中におることができよう」     ジョセフ・スミスの教えによれば、ある人々は「とこしえに燃える神の火の高み     にまで昇る。神がとこしえに燃える火の中に住んでおられるからである。また、     地獄の汚れの中に行く者もある。これは火と硫黄の湖と同様、激しい責め苦とな     る。」『旧約聖書』の中でも最も美しい聖句の一つに、主が、この燃える火に堪     えることのできるのはだれかと尋ね、それに堪えることのできる人の資質につい     て描いている場面がある(14-15節)。     ブルース・R・マッコンキー長老は、イザヤの「だれがとこしえの燃える火の中     におることができよう」(14節)という問いかけについて次のように論じている。     「これは、教会員のうちだれが日の栄えの王国を受け継ぐことができようか、と     いう意味である。だれが神とキリストと聖なる者たちのいる所へ行くことができ     ようか。そしてだれが世に打ち勝って義の業をなし、信仰と献身とによって最後     までまで堪え忍び、『来て、父のみ国を受け継ぎなさい』という恵みに満ちた言     葉を聞くことができようか、という意味である。     イザヤはこう答えている。〔イザヤ33:15-16〕」     マッコンキー長老はさらに次のように続けている。「さてもしよろしければ、ま     ず、わたしはイザヤのこの言葉が聖霊の力によって語られたものであると考え、     この聖句がわたしたち自身に、そしてわたしたちの時代にどう当てはまるのか解     説してみたいと思う。     第1に、『正しく歩む者、正直に語る者』についてである。これは、主イエス・     キリストの贖罪の犠牲のうえに基を置くわたしたちは、戒めを守らなければなら     ないということである。また、真理を語り、義にかなった業を行わなければなら     ない。わたしたちは自分の思いと行いと言葉とによって裁かれるのである。     第2に、『しえたげて得た利をいやしめる者』についてである。これは、わたし     たちは隣人に対して公正に行動しなければならないということである。再臨の日     に、雇い人を不正に虐げる人々に対して証人になると言われたのは、ほかならぬ     主御自身である。     第3に、『手を振って、まいないをとらない者』についてである。これは、わた     したちはあらゆるたぐいの買収を拒否し、隣人とは公明正大に付き合わなければ     ならないということである。神は人を偏り見ない御方である。神はすべての人間     を同じ目で見られ、人はその戒めを守りさえすれば、その神の特別な愛を受ける     ことができるのである。救いは無償である。それは金で買えるものではなく、条     件として定められた律法に従う人だけが受けることのできるものである。贈収賄     はこの世のものでしかない。     第4は、『耳をふさいで血を流す謀略を聞かない者、目を閉じて悪を見ない者』     についてである。これは、わたしたちは悪いことやよこしまなことに心を向けて     はならないということである。政治や世の中のあら探しをやめ、良いものに目を     向けなければならない。万事に肯定的で健全な見方をしなければならないのであ     る。」 15)正しく歩む者、正直に語る者、   しえたげて得た利をいやしめる者、   手を振って、まいないを取らない者、   耳をふさいで血を流す謀略を聞かない者、   目を閉じて悪を見ない者、 16)このような人は高い所に住み、   堅い岩はそのとりでとなり、   そのパンは与えられ、その水は絶えることがない。   【解説】   パンと水は奴隷に与えられる最低限のもの。   しかし、聖餐のパンと水も表す。バプテスマの聖約を思い出すもの。   神殿の大管長会と十二使徒の部屋では、会議の前に聖餐を取る。   イエス・キリストの弟子であり、従う者であることを証明するためである。   イザヤは末日の教会についてメッセージを送っている。   パンと水がイエス・キリストを象徴しているとわかるのは、   この教会の会員だけ。他の教会ではパンとワイン。 17)あなたの目は麗しく飾った王を見、   遠く広い国を見る。 18)あなたの心はかの恐ろしかった事を思い出す。   「数を調べた者はどこにいるか。   みつぎを量った者はどこにいるか。   やぐらを数えた者はどこにいるか」。 19)あなたはもはや高慢な民を見ない。   かの民の言葉はあいまいで、聞きとりがたく、   その舌はどもって、悟りがたい。   【解説】   17-19節 メシヤについて言及したもの 20)定めの祭の町シオンを見よ。   あなたの目は平和なすまい、   移されることのない幕屋エルサレムを見る。   その杭はとこしえに抜かれず、   その綱は、ひとすじも断たれることはない。   【解説】   20-24節     シオンとそのステーク(杭)に関する描写   20-24節 シオンの将来についてどの程度のことが分かっているか     一度贖われたシオンは、きわめて美しくまた義に満ちた町となる。それゆえ、     「定めの祭りの町シオンを見よ」(20節)とは、シオンに住むとはどのようなこと     か考えてみよということである。「主はわれわれのために広い川と流れのある所     となり、われわれを救われる。」(21-22節)さらにまた、「シオンに住む者のう     ちには、『わたしは病気だ』と言う者はなく、そこに住む民はその罪がゆるされ     る。』(24節)この人々がキリストの贖いの血をその身に受けた人々であることは     明白である。     ブルース・R・マッコンキー長老は「杭」という言葉について次のように言ってい     る。     「預言の言葉の中で、シオンは綱で『杭』にしっかりと結びつけられた大いなる     幕屋として描かれている。イザヤは、回復されたシオンに集められるイスラエル     が末日の栄光に包まれる様子を示現で見て、次のように宣言した。『あなたの天     幕の場所を広くし、あなたのすまいの幕を張りひろげ、惜しむことなく、あなた     の綱を長くし、あなたの杭を強固にせよ。あなたは右に左にひろがる。わたしは     しばしあなたを捨てたけれども、大いなるあわれみをもってあなたを集める。』     (54:2-7)また福千年の時代のシオンについて、イザヤは次のように言っている。     『定めの祭の町シオンを見よ。あなたの目は平和なすまい、移されることのない     幕屋エルサレムを見る。その杭はとこしえに抜かれず、その綱は、ひとすじも断     たれることはない。』(20節)     この言い回しに呼応して、回復されたシオンを支え、保持する教会の会員と力の     広大な領域をステーク、すなわち杭と呼んでいる。そこは散乱したイスラエルの     残りの人々の結集地点であり、集合の中心地である。」 21)主は威厳をもってかしこにいまし、   われわれのために広い川と流れのある所となり、   その中には、こぐ舟も入らず、   大きな船も過ぎることはない。 22)主はわれわれのさばき主、   主はわれわれのつかさ、   主はわれわれの王であって、われわれを救われる。 23)あなたの船綱は解けて、   帆柱のもとを結びかためることができず、   帆を張ることもできない。   その時多くの獲物とぶんどり品は分けられ、   足なえまでも獲物を取る。 24)そこに住む者のうちには、   「わたしは病気だ」と言う者はなく、   そこに住む民はその罪がゆるされる。
第34章   【解説】   再臨とそれに伴う荒廃。   関連:教義と聖約1,133。   【セミナリー解説】   34章はこれまでに読んできた滅亡に関する章のうち、最も厳しく感じられる。34章で   は、イザヤの時代にも再臨の直前の時期にも必ず下される悪人への裁きが述べられて   いる。しかし、このひどい裁きが下るのは、警告を受けながらも悪事を選んだ人だけ   である。主はだれ一人として御自分の子供たちがこのような罰を受けることを望んで   おられない。しかし、公正な律法が破られた結果は成就しなければならない。 01)もろもろの国よ、近づいて聞け。   もろもろの民よ、耳を傾けよ。   地とそれに満ちるもの、   世界とそれから出るすべてのものよ、聞け。 02)主はすべての国にむかって怒り、   そのすべての軍勢にむかって憤り、   彼らをことごとく滅ぼし、   彼らをわたして、ほふらせられた。 03)彼らは殺されて投げすてられ、   その死体の悪臭は立ちのぼり、   山々はその血で溶けて流れる。 04)天の万象は衰え、   もろもろの天は巻物のように巻かれ、   その万象はぶどうの木から葉の落ちるように、   いちじくの木から葉の落ちるように落ちる。   【解説】   いちじく = クワ科の落葉高木。高さ約 4 メートル。実は熟すと暗紫色にな         り、甘く、生食のほかジャムなどにする   大破壊による煙で天体が暗くなる。 05)わたしのつるぎは天において憤りをもって酔った。   見よ、これはエドムの上にくだり、   わたしが滅びに定めた民の上にくだって、   これをさばく。   【解説】   1-10節 エドムという言葉にはどのような意味があるか、またなぜここで使われたのか     キリストの再臨は、復讐と報いの日となる。すでに読んだように、「主はすべて     の国にむかって怒る」が、これは「彼らをわたして、ほふらせられた」(2節)か     らである。さらに太陽、月、星といった光を発する天体が「衰え」る。これは     「ぶどうの木から葉の落ちるように落ちる」ということであり、一方「もろもろ     の天は巻物のように巻かれる」(4節)ことになる。イザヤの記録を読んでいると、     教義と聖約88:95にも似たような聖句があるのを思い出す。その聖句には、主が     再臨されるときには「巻き物が巻かれた後に開かれるように、天の幕が開かれて、     主の顔が現される」と書かれている。それから、主の力と裁きとを表す主の剣が     「エドム〔すなわちこの世〕の上にくだる。」(5節)     ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のように書いている。「ヨルダ     ン川東岸の小国であったエドムの名前があるために、『聖書』の注釈者の中には、     この聖句はその小国を指しているのだと考えている者もある。しかし、このエド     ムという言葉は、主がこの世という意味で使われた言葉の一つである。『教義と     聖約』の第1章では、エドムのギリシャ語形であるイドマヤという言葉が使われ     ている。主はここではこの世のことについて語っておられるのである。」     血は『聖書』では罪悪の象徴である。血で汚された全地の人々は再臨のときには     「大いに殺され」ることになる。「主はあだをかえす日をもち、シオンの訴えの     ために報いられる年をもたれるからである。」(6,8節)     再びジョセフ・フィールディング・スミス大管長の言葉を引用しよう。「これは     時満ちる神権時代に起こることである。この預言は、エドムと呼ばれたあの小国     ではなく、地上のもろもろの国に関するものだったのである。」     イザヤの言葉はエゼキエルやヨエル、エレミヤの言葉と酷似しているように思わ     れる。これらの各書にはハルマゲドンの大戦争のことが預言されている。このよ     うな類似点があることで、「軍勢」(2節)といった言葉が使用されている理由や、     やがて起こる大殺裁(3,5-7節)について書かれている理由の説明がつく。9-10節     の「樹脂」「硫黄」「煙」といった言葉は、核戦争の結末について言っているの     ではないだろうか。最後の大戦争のときには当然そのようなものが伴うと考えら     れるからである。 06)主のつるぎは血で満ち、脂肪で肥え、   小羊とやぎの血、   雄羊の腎臓の脂肪で肥えている。   主がボズラで犠牲の獣をほふり、   エドムの地で大いに殺されたからである。   【解説】   脂肪 = 捧げるいけにえの中でも最も価値がある部分 07)野牛は彼らと共にほふり場にくだり、   子牛は力ある雄牛と共にくだる。   その国は血で酔い、   その土は脂肪で肥やされる。 08)主はあだをかえす日をもち、   シオンの訴えのために報いられる年を   もたれるからである。 09)エドムのもろもろの川は変って樹脂となり、   その土は変って硫黄となり、   その地は変って燃える樹脂となって、   【解説】   硫黄(いおう) = 酸素族元素の一。単体は無臭の黄色結晶。温泉や火山帯に           産する。空気中で熱すると青い炎をあげて燃え、悪臭のある二           酸化硫黄(亜硫酸ガス)を生じる。火薬・マッチ・医薬品の原料、           ゴム製造などに使用   1-4,9-11節     ここにはエドムの崩壊について述べられているが、それは現代の世の中にも当て     はまる。 10)夜も昼も消えず、   その煙は、とこしえに立ちのぼる。   これは世々荒れすたれて、   とこしえまでもそこを通る者はない。   【解説】   7-10節 教義と聖約133:27-33参照 11)たかと、やまあらしとがそこをすみかとし、   ふくろうと、からすがそこに住む。   主はその上に荒廃をきたらせる測りなわを張り、   尊い人々の上に混乱を起す下げ振りをさげられる。   【解説】   やまあらし = 齧歯(げっし) 目ヤマアラシ科の哺乳類の総称。頭胴長35〜90          センチ、尾長17〜23センチ。体の上面に針状の中空の剛毛が          生えている。   測りなわ = 長さをはかるための縄   下げ振り(さげふり) = 柱などが垂直かどうかを調べるための道具で、糸の端に真鍮              (しんちゅう)の逆円錐形のおもりをつるしたもの 12)人々はこれを名づけて「国なき所」といい、   その君たちは皆うせてなくなる。 13)そのとりでの上には、いばらが生え、   その城には、いらくさと、あざみとが生え、   山犬のすみか、だちょうのおる所となる。   【解説】   いらくさ = イラクサ科の多年草。関東以西の山地に自生。高さ 0.5〜1 メ         ートル。茎から繊維をとり、若芽は食用。イラクサ科の植物は繊         維組織がよく発達し、ウワバミソウ・カラムシなども含まれる。い         たいたぐさ 14)野の獣はハイエナと出会い、   鬼神はその友を呼び、   夜の魔女もそこに降りてきて、休み所を得る。   【解説】   鬼神(きしん) = 化け物 15)ふくろうはそこに巣をつくって卵を産み、   それをかえして、そのひなを翼の陰に集める。   とびもまた、おのおのその連れ合いと共に、   そこに集まる。   【解説】   とび = タカ科の鳥。全長約60センチ。全身茶色で、翼の下面に白斑       がある。尾は凹形。ピーヒョロロと鳴きながら羽ばたかずに輪を       描いて飛ぶ 16)あなたがたは主の書をつまびらかに   たずねて、これを読め。   これらのものは一つも欠けることなく、   また一つもその連れ合いを欠くものはない。   これは主の口がこれを命じ、   その霊が彼らを集められたからである。   【解説】   16-17節 「主の書」とは何か     当然のことながら、あらゆる人が邪悪だというわけではない。邪悪ではない人は、     滅びの火から霊的な意味(地獄)でも肉体的な意味でも救われることができる。主     の民のうち聖約を守った者の名前は、「主の書」(16節)、「神の律法の書」、あ     るいは「いのちの書」と呼ばれる特別な書物の中に記録される。人の働きについ     ては、地上で主から書記として召された人々が記録するが、いのちの書というの     は天でつけられる記録である。この2種類の記録は完全に一致している。天の書     にその名が記録されている人々については、「これらのものは一つも欠けること     なく」(16節)とある。「また一つもその連れ合いを欠くものはない」(16節)とい     う約束は、特に末日聖徒にとっては興味深い聖句である。末日聖徒は日の栄えの     結婚の儀式を通じてのみ、人はその連れ合いを永遠のものとすることができると     信じているからである。 17)主は彼らのためにくじを引き、   手ずから測りなわをもって、この地を分け与え、   長く彼らに所有させ、   世々ここに住まわせられる。
第35章   【解説】   回復。集合。再降臨。   アメリカにおけるシオンの確立。   関連:教義と聖約133。   【セミナリー解説】   希望のメッセージ   これまでの幾つかの章には、陰鬱な滅亡のメッセージがあった。しかしイザヤはこれ   らの章を、主に忠実な人々にもたらされる祝福についての、希望に満ちたメッセージ   で終えている。主が義人にお与えになる大いなる祝福について考えるとき、悔い改め   の道を歩いて今後の誘惑に打ち勝つために必要な強さを得ることができる。 01)荒野と、かわいた地とは楽しみ、   さばくは喜びて花咲き、さふらんのように、   【解説】   さふらん = サフラン:アヤメ科の多年草。クロッカスの秋咲き種。11月ごろ         紫色の6弁花が咲く。赤い花柱は止血剤などに、また香辛料、         化粧品の着色剤として使われる   1-7節 「さばくは喜びて花咲き、さふらんのように」     多くの中央幹部が、末日聖徒のロッキー山中への定住を、イザヤ書のこの聖句の     成就であると考えている。1847年7月に聖徒たちがソルトレーク盆地に到着した     とき、そこにはだれ一人住んでいる者がいなかった。「荒野」あるいは「かわい     た地」(1節)と表現するに値する所である。聖徒たちは直ちに仕事に取りかかっ     た。そして程なく、ユタの荒れ果てた盆地は「喜びて花咲き、さふらんのように」     (1節)なり始めたのである。しかし、この預言は現代のユダヤ人たちが聖地に定     住することによって成就するとも言える。聖地でも同じようなことが実際に起こ     っているからである。     3-4節を引用した後で、オーソン・プラット長老はその理由を次のように説明し     ている。     「この聖句はいまだかって成就したことはない。しかし、地の面から邪悪な者た     ちをぬぐい去るために神が報復をもって再臨されるに先立ち、イスラエルの家は     再びその祖国に集合し、神の民は荒れ野に住むことを許され、そしてその荒れ野     は実り豊かな畑となるはずである。また、荒れ野はその集合した民のゆえに楽し     み、さふらんのように花咲くとまで書かれている。     さて、この聖句は今に至る四半世紀の間に、この荒れ野で、この不毛の荒れ果て     た辺境で少しずつ成就している。大いなる末日の業がすでに開始されたのである。     神の王国は地上に再び組織された。言い換えれば、キリストの教会が純粋な形の     ままで、しかもあらゆる儀式を伴って地上に再組織されたのである。ついに神の     御霊がいと高き天から注がれる時が到来した。この時が来るまでは、イスラエル     にもパレスチナの地にも何の望みもなかった。地の四隅に散らされた部族が贖わ     れる望みもなかったのである。しかし、荒れ野が実り豊かな畑となり、また神の     御子の永遠の福音を通じて再び霊がいと高き天から注がれるときに、民は主の命     によりともに集められるのである。そのときには、この集合が行われる地の面で     は何らかの変化が起こることであろう。荒れ野がエデンの園のようになり、豊か     な肥沃な園に咲くさふらんのように花を咲かせ、豊かに花をつけることであろう     し、また荒れ野は喜び楽しみ、かつ歌うことであろう。     かの預言者は、イエスが報復をもって臨み、邪悪な者を滅ぼし、砂漠を贖い、荒     れ野を実り豊かな畑に変えるときには、次のようなことが起きると預言している。     そのときには、足が利かなかった人々がしかのように飛び走り、言葉を話せなか     った人も喜び歌い、耳の不自由な人々も聞けるようになる。それは荒れ野に水が     わき出で、砂漠に川が流れるからである。また焼けた砂は池となり、乾いた地は     水の源となる。」 02)さかんに花咲き、   かつ喜び楽しみ、かつ歌う。   これにレバノンの栄えが与えられ、   カルメルおよびシャロンの麗しさが与えられる。   彼らは主の栄光を見、われわれの神の麗しさを見る。   【解説】   1-2節 教義と聖約45:71;101:10-18参照。     義人はすべての国の中から集められ、永遠の喜びの歌を歌いながらシオンに来る。 03)あなたがたは弱った手を強くし、   よろめくひざを健やかにせよ。 04)心おののく者に言え、   「強くあれ、恐れてはならない。   見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、   神の報いをもってこられる。   神は来て、あなたがたを救われる」と。 05)その時、見えない人の目は開かれ、   聞えない人の耳は聞えるようになる。 06)その時、足の不自由な人は、しかのように飛び走り、   口のきけない人の舌は喜び歌う。   それは荒野に水がわきいで、   さばくに川が流れるからである。 07)焼けた砂は池となり、   かわいた地は水の源となり、   山犬の伏したすみかは、   葦、よしの茂りあう所となる。   【解説】   葦 = イネ科の多年草。根茎は地中をはい、沼や川の岸に大群落を      つくる。高さは2〜3メートルになり、茎は堅く、円柱形で、細長      い葉が互生する。   よし = 植物アシの別名 08)そこに大路があり、   その道は聖なる道ととなえられる。   汚れた者はこれを通り過ぎることはできない、   愚かなる者はそこに迷い入ることはない。 09)そこには、ししはおらず、   飢えた獣も、その道にのぼることはなく、   その所でこれに会うことはない。   ただ、あがなわれた者のみ、そこを歩む。   【解説】   2-9節 シオンの状態について描かれている。 10)主にあがなわれた者は帰ってきて、   その頭に、とこしえの喜びをいただき、   歌うたいつつ、シオンに来る。   彼らは楽しみと喜びとを得、   悲しみと嘆きとは逃げ去る。   【解説】   シオンはアメリカに建てられる。   8-10節 「主にあがなわれた者」とはだれのことか、またそのような者たちは将来ど       うなるのか     8-10節の聖句は教義と聖約133:26-34の聖句と密接な関係があり、一般的には10     部族の帰還に関係した聖句と考えられている。しかし、ここの聖句を読むと全部     族を含むものと考えることもできる。主により「あがなわれた者」すなわち義に     かなった者たちだけが、「大路」言い換えれば「聖なる道」を歩む。「汚れた者     はこれを通りすぎることはできない。」エフライムは10部族の祝福の源であり、     エフライムが第一に集められるのは十分理由のあることである。それから10部族     が「その頭に、とこしえの喜びをいただき、歌うたいつつ、シオンに来る。」     (10節)ユダもまた同じような状況の下で集められることになる。預言者ジョセフ     ・スミスは次のように書いている。「西部のインディアン諸部族はエジプトに売     られたあのヨセフの子孫である。アメリカの地は彼らにとって約束の地であり、     この地にイスラエルの全部族がやって来るのである。それと同時に、新しい聖約     の条件を満たした異邦人たちも同じように集まる。しかし、ユダの部族は昔のエ     ルサレムへ帰ることになる。ダピデが詩篇第102篇で言っているシオンの町は、     アメリカの地に建てられるはずの町である。『主にあがなわれた者は帰ってきて、     その頭に、とこしえの喜びをいただき、歌うたいつつ、シオンに来る。』(10節)     さらに、その地を襲う数々の苦難から解き放される。しかし、ユダはエルサレム     でその苦労から解き放されることになろう。これはほかの数多くの証に加えて与     えられた証であり、良い羊飼いが御自分の羊たちに手を差し伸べ、暗黒の時代に     散らされていったすべての国々から羊たちをシオンへ、またエルサレムへと導き     出される日が来るという証である。」
第36章   【解説】   霊感によって美しく描かれたユダ、アッシリヤ、バビロンの歴史。   36-39章     イザヤ書の中で物語調で書かれているる。     時系列が前後している。36,37章は38,39章の後に起こったこと。     36,37章はアッスリアに攻められて、奇跡的に退けられた。     38章6節では、将来アッスリアから守られることが述べられてる。     36,37章では、敵が滅びると予言されたのに、そうなる気配がない。     しかし、神を信じ続けたことによって、敵が滅びた。     手ごたえがなくてもあきらめない、助けはそこまできているのだから。   【セミナリー解説】   ヒゼキヤ王の物語   36-39章の大部分は、列王下18-20章とほとんど同じである。唯一の注目すべき違いは、   38章に記録されているヒゼキヤの「歌」である。   アッスリヤがイスラエルを征服したとき、ヒゼキヤがユダの王になった。ヒゼキヤは   民を導いて民の義を増し加えることができた。恐らく民がイスラエルに起きているこ   とを見て、アッスリヤ人が自分たちの国に攻めてくるのを恐れたからであろう。しか   し、ヒゼキヤとイスラエルの民は自分の決意を試される。これは罪を離れて義に心を   向けた人がしばしば経験することである。例えば、什分の一を納めていなかった人が   納め始めた途端、什分の一を完全に納めることが不可能に思えるような月がやって来   るかもしれない。そのような場合、次のように問わなければならないだろう。「勇気   を出して什分の一を納めることができるだろうか。主を信頼し、何らかの方法でわた   しを祝福して、必要を満たしてくださると信じられるだろうか。」そのような困難な   ときに、主はわたしたちをどのような方向に導いておられるかに注目してほしい。ヒ   ゼキヤとその王国が信仰の試しに遭ったことが語られている。読みながら、もしあな   たがヒゼキヤだったなら、この信仰の試しを受けたときとその後にどう感じていたと   思うか考えてほしい。   【インスティテュート解説】   36-39章 イザヤとアッスリヤの侵略     預言者イザヤの書いたもののうち、この部分は列王下18:2から20:19までの記録     と対応する。ここには預言者イザヤの勧告とヒゼキヤ王に与えた預言が書かれて     いるので、このイザヤ書にも収録されたのである。   歴史の教訓     ナイアガラ瀑布に通じる川をカヌーで下った二人の青年の話である。流れは穏や     かだったが、滝に向かって速さが増し始める所にだんだん近づいている。岸にい     た男が危険を察して、「おーい、君たち、すぐ近くに急流があるぞ」と叫んだ。     しかし二人はその注意を聞いても、相変わらず冗談を言い、笑い続けて危険に気     づかなかった。岸で見ていた男は駆け出し、必死に「おーい、急流だぞ!」と怒     鳴った。     それでも青年たちは警告を心に留めなかった。どんどん流れが速くなり、カヌー     は急流に巻き込まれ、ようやく危険を感じた二人が力の限りを尽くしてカヌーの     向きを変えようとしたが、もう間に合わなかった。青年たちは滝に落下していっ     た。ひとえに警告の声を聞こうとしなかったためである。     古代イスラエルはこの二人の青年のようである。預言者たちが繰り返す警告は無     視された。祝福を取り上げられても、滅亡へと突き進むイスラエルを引き止める     ことはできなかった。紀元前721年、北王国は敵国アッスリヤの盛んな攻撃の前     に屈し、民は捕虜として外国へ連行された。後にその中の何人かが脱出して北の     国国へ行った。その人々は、行方の知れない十部族と呼ばれることが多い。     ここでは、その悲劇的な滅亡の歴史を採り上げる。イスラエルを正気に戻そうと     懸命に働いた預言者たちを通じて、主が幾度となく明確な警告を発せられた。イ     ザヤ、ミカ、ヨエル、アモス、ホセア、そのほかにも恐らく大勢の人々が、反抗     的なイスラエルに対して何度も警告の声を上げた。この強情な民を立ち返らせる     ため、神にこれ以上のことがおできになったであろうか。これらの章は、その問     いの答えである。     これらの章で学んできたことは、世界史にもまれに見るほどの際立って対照的な     出来事であった。20年の間に強力なアッスリヤの軍隊がイスラエルとユダの両首     都を包囲した。イスラエルの場合は、アッスリヤが戦利品を積み、かつての誇り     高き民の哀れな生存者たちを牛や羊の群れを追い立てるようにして、勝利の凱旋     をした。跡に残ったのは、焼けただれた廃虚であった。ユダの場合は、同じアッ     スリヤ軍が味方を大勢失い、意気阻喪して帰国した。略奪品も捕虜もなく、エル     サレムの丘に横たわるのは18万4,000人に上る同胞のなきがらであった。 01)ヒゼキヤ王の第十四年に、アッスリヤの王セナケリブが上ってきて、ユダのすべての   堅固な町々を攻め取った。 02)アッスリヤの王はラキシからラブシャケをエルサレムにつかわし、大軍を率いてヒゼ   キヤ王のもとへ行かせた。ラブシャケは布さらしの野へ行く大路に沿う、上の池の水   道のかたわらに立った。   【解説】   布さらし = 布を水や日光にあてて漂白したり、染色後の洗いとする行為   水道 = 水を流す小さな水路   タルタン、ラブサリス、ラブシャケは何者か     『聖書』はこれらを個人名として扱っているが、学者たちは現在、それはエルサ     レムの降伏に際してセナケリブが任命したアッスリヤの役人の職名だったと考え     ている。   2-20節     セナケリブの家来のひとりラブシャケはエルサレムの民の決心を弱めるために、     無礼な態度で彼らをあざけり、降服するように吹聴した。   「上の池の水道」と「布さらし場に行く大路」とは何か     布さらし人とは、日用の衣類を洗濯プレス、漂白、染色する人である。大量の水     を使う仕事なので、仕事場である「布さらし場」は常に池か泉のそばにあった。     ギホンの泉はケデロンの谷の自然の水源であった。イスラエルが占拠する以前の     昔、エルサレムでは女たちが泉へ水くみに通っていた。台に立ち、皮袋を下の泉     に通じる約12メートルのシャフトつまり水導管に下ろして水をくみ上げたのであ     る。それが「上の池の水道」だと考える人々がいる。近くには「布さらし場」が     あった。しかし、町の西方に大きな人工池の跡が見つかったため、そこがその場     所だったかもしれないと考える学者たちもいる。 03)この時ヒルキヤの子である宮内卿エリアキム、書記官セブナおよびアサフの子である   史官ヨアが彼の所に出てきた。 04)ラブシャケは彼らに言った、「ヒゼキヤに言いなさい、『大王アッスリヤの王はこう   仰せられる、あなたが頼みとする者は何か。 05)口先だけの言葉が戦争をする計略と力だと考えるのか。あなたは今だれを頼んで、わ   たしにそむいたのか。   【解説】   口先だけの言葉 = 価値がなく実現しない言葉 06)見よ、あなたはかの折れかけている葦のつえエジプトを頼みとしているが、それは人   が寄りかかるとき、その人の手を刺し通す。エジプトの王パロはすべて寄り頼む者に   そのようにするのだ。   【解説】   葦 = イネ科の多年草。根茎は地中をはい、沼や川の岸に大群落を      つくる。高さは2〜3メートルになり、茎は堅く、円柱形で、細長      い葉が互生する。   パロ = エジプトの王の総称、ファラオともいう 07)しかし、あなたがもし「われわれはわれわれの神、主を頼む」とわたしに言うならば、   ヒゼキヤがユダとエルサレムに告げて、「あなたがたはこの祭壇の前で礼拝しなけれ   ばならない」と言って除いたのは、その神の高き所と祭壇ではなかったのか。 08)さあ、今わたしの主君アッスリヤの王とかけをせよ。もしあなたの方に乗る人がある   ならば、わたしは馬二千頭を与えよう。 09)あなたはエジプトを頼み、戦車と騎兵を請い求めているが、わたしの主君の家来のう   ちの最も小さい一隊長でさえ、どうして撃退することができようか。 10)わたしがこの国を滅ぼすために上ってきたのは、主の許しなしでしたことであろうか。   主はわたしに、この国へ攻め上って、これを滅ぼせと言われたのだ』」。 11)その時、エリアキム、セブナおよびヨアはラブシャケに言った、「どうぞ、アラム語   でしもべたちに話してください。わたしたちはそれがわかるからです。城壁の上にい   る民の聞いているところで、わたしたちにユダヤの言葉で話さないでください」。   【解説】   「アラム語で」話す   アッスリヤ人は、エルサレムにいるすべての人が理解できるように、エルサレムの城   壁の外からヘブライ語で話した。しかし城壁の上にいたユダヤ人は、アッスリヤ人に   アラム語で話すよう求める。当時世界最強であったアッスリヤ軍の兵士が自信たっぷ   りに脅す言葉を、エルサレムの民に理解してほしくなかったからである。   ユダヤ人指導者がアラム語で話したがったのはなぜか     ユダヤ人は包囲され、エルサレムに大勢の人々が閉じ込められていた。民がパニ     ック状態に陥ってアッスリヤの言いなりになるのを恐れるユダヤ人指導者は、ア     ッスリヤの状況を民に聞かせたくなかった。ラブシャケはその要求を無視して大     声で叫んでいる(13節)。 12)しかしラブシャケは言った、「わたしの主君は、あなたの主君とあなたにだけでなく、   城壁の上に座している人々にも、この言葉を告げるために、わたしをつかわされたの   ではないか。彼らをも、あなたがたと共に自分の糞尿を食い飲みするに至らせるため   ではないか」。 13)そしてラブシャケは立ちあがり、ユダヤの言葉で大声に呼ばわって言った、「大王、   アッスリヤの王の言葉を聞け。 14)王はこう仰せられる、『あなたがたはヒゼキヤに欺かれてはならない。彼はあなたが   たを救い出すことはできない。 15)ヒゼキヤが、主は必ずわれわれを救い出される。この町はアッスリヤの王の手に陥る   ことはない、と言っても、あなたがたは主を頼みとしてはならない』。 16)あなたがたはヒゼキヤの言葉を聞いてはならない。アッスリヤの王はこう仰せられる、   『あなたがたは、わたしと和ぼくして、わたしに降服せよ。そうすれば、あなたがた   はめいめい自分のぶどうの実を食べ、めいめい自分のいちじくの実を食べ、めいめい   自分の井戸の水を飲むことができる。   【解説】   いちじく = クワ科の落葉高木。高さ約 4 メートル。実は熟すと暗紫色にな         り、甘く、生食のほかジャムなどにする 17)やがて、わたしが来て、あなたがたを一つの国へ連れて行く。それは、あなたがたの   国のように穀物とぶどう酒の多い地、パンとぶどう畑の多い地だ。 18)ヒゼキヤが、主はわれわれを救われる、と言って、あなたがたを惑わすことのないよ   うに気をつけよ。もろもろの国の神々のうち、どの神がその国をアッスリヤの王の手   から救ったか。 19)ハマテやアルパデの神々はどこにいるか。セパルワイムの神々はどこにいるか。彼ら   はサマリヤをわたしの手から救い出したか。   【解説】   八マテ、アルパデ、セパルワイム、ヘナ、イワは何を指しているか     これらは、セナケリブが数多くの戦役で征服したいろいろな町の名である。古代     都市の多くが、苦境のときに頼りとするそれぞれの偶像を持っていた。ラブシャ     ケはほかの神々が自分の町を守れなかったことをあげつらい、ユダヤ人のよりど     ころ(エホバの神が彼らを救うという思想)を一蹴した。 20)これらの国々のすべての神々のうちに、だれかその国をわたしの手から救い出した者   があるか。主がどうしてエルサレムをわたしの手から救い出すことができよう』」。 21)しかし民は黙ってひと言も答えなかった。王が命じて、「彼に答えてはならない」と   言っておいたからである。 22)その時ヒルキヤの子である宮内卿エリアキム、書記官セブナおよびアサフの子である   史官ヨアは衣を裂き、ヒゼキヤのもとに来て、ラブシャケの言葉を彼に告げた。
第37章   【解説】   霊感によって美しく描かれたユダ、アッシリヤ、バビロンの歴史。   【インスティテュート解説】   ヒゼキヤは救いを求めて祈り、イザヤは主の答えを与えた     37章には、『聖書』の歴史中最も印象的な話の一つが語られている。アッスリヤ     は強力な大軍でエルサレムを包囲した。北王国はすでに滅び、ユダもエルサレム     以外はアッスリヤの手に落ちており、撃退できる望みはまったくなかった。残さ     れた道はただ一つであった。     ヒゼキヤは義にかなった王であり、彼はここに至って再び神に頼った。心からの     切なる祈りをささげて解決を求めたのである。ヒゼキヤの信仰を試すものだった     に違いないが、主は僕イザヤを通じて答えを与えられた。アッスリヤのかがり火     が四方を取り巻く中でイザヤは、一矢もエルサレムを射ることはない、主御自身     が町を守られると約束したのである(33-35節)。     さっそくその夜にイザヤの約束は成就した。突然えたいの知れない疫病がアッス     リヤの陣営を襲い、朝には18万4,000人が死んでしまったのである。アッスリヤ     の生き残りの者たちは、犬がしっぽを巻くように退散した(36-37節)。ユダはエ     リシャが言うように、「われわれと共にいる者は彼らと共にいる者よりも多い」     と言うことができたのである。 01)ヒゼキヤ王はこれを聞いて、衣を裂き、荒布を身にまとって主の宮に入り、   【解説】   荒布 = やぎの毛でできた暗い色の衣服。喪のときにマントとして用いられた   1-7節     主は罪の道を歩む人々を罰するためにアッスリヤを用いられたのであった。しか     し、アッスリヤ王が自分の力を誇るようになった時、アッスリヤの滅亡も定めら     れた。ニネベは紀元前606年メデアとバビロニアによって滅ぼされた。バビロニ     アは以前アッスリヤの属国であった。 02)宮内卿エリアキムと書記官セブナおよび祭司のうちの年長者たちに荒布をまとわせて、   アモツの子預言者イザヤのもとへつかわした。 03)彼らはイザヤに言った、「ヒゼキヤはこう言います、『きょうは悩みと責めと、はず   かしめの日です。胎児がまさに生れようとして、これを産み出す力がないのです。   【解説】   はずかしめる = 神に対して非常に失礼な態度を表す   「胎児がまさに生れようとして、これ産み出す力がない」という表現はどういう意味か     これは非常に大きな危機、絶望的な状況を表す比喩である。もし産婦に胎から出     かかっている子を産み出す力がなければ、子の命も母の命も非常に大きな危険に     さらされる。この地の民の状態はまさしくこのようなものであった。 04)あなたの神、主は、あるいはラブシャケのもろもろの言葉を聞かれたかもしれません。   彼はその主君アッスリヤの王につかわされて、生ける神をそしりました。あなたの神、   主はその言葉を聞いて、あるいは責められるかもしれません。それゆえ、この残って   いる者のために祈をささげてください』」。   【解説】   そしる = あざける、失礼な話し方をする 05)ヒゼキヤ王の家来たちがイザヤのもとに来たとき、 06)イザヤは彼らに言った、「あなたがたの主君にこう言いなさい、『主はこう仰せられ   る、アッスリヤの王のしもべらが、わたしをそしった言葉を聞いて恐れるには及ばない。 07)見よ、わたしは一つの霊を彼のうちに送って、一つのうわさを聞かせ、彼を自分の国   へ帰らせて、その国でつるぎに倒れさせる』」。   【解説】   霊 = 思い 08)ラブシャケは引き返して、アッスリヤの王がリブナを攻めているところへ行った。彼   は王がラキシを去ったことを聞いたからである。 09)この時、アッスリヤの王はエチオピヤの王テルハカについて、「彼はあなたと戦うた   めに出てきた」と人々が言うのを聞いた。彼はこのことを聞いて、使者をヒゼキヤに   つかわそうとして言った、 10)「ユダの王ヒゼキヤにこう言いなさい、『あなたは、エルサレムはアッスリヤの王の   手に陥ることはない、と言うあなたの信頼する神に欺かれてはならない。 11)あなたはアッスリヤの王たちが、国々にしたこと、彼らを全く滅ぼしたことを聞いて   いる。どうしてあなたは救われることができようか。 12)わたしの先祖たちはゴザン、ハラン、レゼフおよびテラサルにいたエデンの人々を滅   ぼしたが、その国々の神々は彼らを救ったか。 13)ハマテの王、アルパデの王、セパルワイムの町の王、ヘナの王およびイワの王はどこ   にいるか』」。 14)ヒゼキヤは使者の手から手紙を受け取ってそれを読み、主の宮にのぼっていって、主   の前にそれをひろげ、 15)主に祈って言った、 16)「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の主よ、地のすべての国のう   ちで、ただあなただけが神でいらせられます。あなたは天と地を造られました。   【解説】   ケルビムの上に座しておられる = 神が住まわれる場所を象徴していた、   神殿の至聖所にあった契約の箱のことを言っている 17)主よ、耳を傾けて聞いてください。主よ、目を開いて見てください。セナケリブが生   ける神をそしるために書き送った言葉を聞いてください。   【解説】   そしる = あざける、失礼な話し方をする 18)主よ、まことにアッスリヤの王たちは、もろもろの民とその国々を滅ぼし、 19)またその神々を火に投げ入れました。それらは神ではなく、人の手の造ったもので、   木や石だから滅ぼされたのです。 20)今われわれの神、主よ、どうぞ、われわれを彼の手から救い出してください。そうす   れば地の国々は皆あなただけが主でいらせられることを知るようになるでしょう」。   【解説】   14-20節     ヒゼキヤの神を思う気持ちがこの祈りの中に表れている。ヒゼキヤは利己心もな     ければ、個人的な野心もなかった。ただ神の栄光のために献身したのである。 21)その時アモツの子イザヤは人をつかわしてヒゼキヤに言った、「イスラエルの神、主   はこう言われる、あなたはアッスリヤの王セナケリブについてわたしに祈ったゆえ、 22)主が彼について語られた言葉はこうである、   『処女であるシオンの娘は   あなたを侮り、あなたをあざける。   エルサレムの娘は、あなたのうしろで頭を振る。   【解説】   侮る = 軽く見る、嫌う 23)あなたはだれをそしり、だれをののしったのか。   あなたはだれにむかって声をあげ、   目を高くあげたのか。   イスラエルの聖者にむかってだ。   【解説】   そしる = あざける、失礼な話し方をする   ののしる = 神に対して非常に失礼な態度を表す   23-29節     主はイザヤを通じてアッスリヤに語られた。アッスリヤはすべてを自分の手柄と     していたが、主はそれを正しく説明された。アッスリヤは主の道具にすぎなかっ     たのである。道具でしかないので、主は今なおアッスリヤを手中に置き、思うが     ままにしておられる。 24)あなたは、そのしもべらによって、   主をそしって言った、   「わたしは多くの戦車を率いて山々の頂にのぼり、   レバノンの奥へ行き、   たけの高い香柏と、最も良いいとすぎを切り倒し、   またその果の高地へ行き、その密林にはいった。   【解説】   いとすぎ = ヒノキ科の常緑高木。高さ約45メートルにも達する。 25)わたしは井戸を掘って水を飲んだ。   わたしは足の裏で   エジプトのすべての川を踏みからした」。 26)あなたは聞かなかったか、   昔わたしがそれを定めたことを。   堅固な町々を、   あなたがこわして荒塚とすることも、   いにしえの日から、わたしが計画して   今それをきたらせたのだ。 27)そのうちに住む民は力弱く、   おののき恥をいだいて、   野の草のように、青菜のようになり、   育たずに枯れる屋根の草のようになった。   【解説】   おののく = 恐れる 28)わたしは、あなたの座すること、出入りすること、   また、わたしにむかって   怒り叫んだことをも知っている。 29)あなたが、わたしにむかって怒り叫んだことと、   あなたの高慢な言葉とがわたしの耳にはいったゆえ、   わたしは、あなたの鼻に輪をつけ、   あなたの口にくつわをはめて、   あなたを、もと来た道へ引きもどす』。   【解説】   くつわ = 手綱(たづな)をつけるため、馬の口にかませる金具 30)あなたに与えるしるしはこれである。すなわち、ことしは落ち穂から生えた物を食べ、   二年目には、またその落ち穂から生えた物を食べ、三年目には種をまき、刈り入れ、   ぶどう畑を作ってその実を食べる。 31)ユダの家の、のがれて残る者は再び下に根を張り、上に実を結ぶ。 32)すなわち残る者はエルサレムから出、のがれる物はシオンの山から出る。万軍の主の   熱心がこれをなし遂げられる。   【解説】   熱心 = 強い感情 33)それゆえ、主はアッスリヤの王について、こう仰せられる、『彼はこの町にこない。   またここに矢を放たない。また盾をもって、その前にこない。また塁を築いて、これ   を攻めることはない。   【解説】   塁 = 敵が城壁を越えられるように土を盛ったもの 34)彼は来た道から帰って、この町に、はいることはない、と主は言う。 35)わたしは自分のため、また、わたしのしもべダビデのために町を守って、これを救お   う』」。   【解説】   21-35節     主はイザヤを通してヒゼキヤの祈りに答えられた。 36)主の使が出て、アッスリヤびとの陣営で十八万五千人を撃ち殺した。人々が朝早く起   きて見ると、彼らは皆死体となっていた。 37)アッスリヤの王セナケリブは立ち去り、帰っていってニネベにいたが、   【解説】   36-37節     主の使いがセナケリブの軍隊を者を撃ち殺した。これによって、エルサレムの包     囲も終りを告げた。以後、セナケリブがエルサレムの町に脅威を及ぼすことは二     度となかった。 38)その神ニスロクの神殿で礼拝していた時、その子らのアデラン・メレクとシャレゼル   がつるぎをもって彼を殺し、ともにアララテの地へ逃げていった。それで、その子エ   サルハドンが代って王となった。   【解説】   ニスロク = 偶像崇拝の神   セナケリブは紀元前701年、ニネベで殺された。
第38章   【解説】   霊感によって美しく描かれたユダ、アッシリヤ、バビロンの歴史。   【セミナリー解説】   さらにヒゼキヤについて   ヒゼキヤの死期が近づいていたころのことが書いてある。ヒゼキヤはもう数年生きる   ことができるように信仰をもって祈り、主はその望みをかなえられた。ヒゼキヤが神   殿の宝物をバビロンの王に見せたことが語られている。イザヤはそのことを過ちであ   ると言う。イザヤは、後にバビロニア人が神殿の中の大いなる富を思い出し、エルサ   レムを征服して、神殿の貴重な品々が持ち去られるだろうと言った。 01)そのころヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。アモツの子預言者イザヤは彼の   ところに来て言った、「主はこう仰せられます、あなたの家を整えておきなさい。あ   なたは死にます、生きながらえることはできません」。 02)そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて主に祈って言った、 03)「ああ主よ、願わくは、わたしが真実と真心とをもって、み前に歩み、あなたの目に   かなう事を行ったのを覚えてください」。そしてヒゼキヤはひどく泣いた。 04)その時主の言葉がイザヤに臨んで言った、 05)「行って、ヒゼキヤに言いなさい、『あなたの父ダビデの神、主はこう仰せられます、   「わたしはあなたの祈を聞いた。あなたの涙を見た。見よ、わたしはあなたのよわい   を十五年増そう。   【解説】   死ぬ時は定められているのか     スペンサー。W・キンボール大管長はこう説明している。     「伝道の書3:2に書かれているように、わたしは死ぬべき時が定められていると     信じるが、大勢の人が、不注意だったり、自分の身体を大事にしなかったり、不     必要な冒険をしたり、あるいは自ら危険や事故や病に身をさらしたりして、『自     分の定められた時』が来る前に死ぬとも考えている。     ノアの洪水前の人々についてこのように書かれている。     『あなたは悪しき人々が踏んだいにしえの道を守ろうとするのか。彼らは時がこ     ないうちに取り去られ、その基は川のように押し流された。』(ヨブ22:15-16)     伝道の書7:17にはこうある。     『悪に過ぎてはならない。また愚かであってはならない。あなたはどうして、自     分の時のこないのに、死んでよかろうか。』     わたしたちは、尚早に死を迎えることはあっても、定められた時を大幅に越える     ことはないと思う。一つの例外は、歴代の王たちよりもはるかに信心深かった25     歳のユダ王、ヒゼキヤである。     『そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。預言者イザヤは彼のと     ころにきて言った、「主はこう仰せられます、『家の人に遺言をなさい。あなた     は死にます。生きながらえることはできません。』」』     わたしたちと同様できるだけ生きていたいと願うヒゼキヤは、壁に顔を向け、激     しく泣いて言った。『わたしが真実と真心をもってあなたの前に歩み、あなたの     目にかなうことをおこなったのをどうぞ思い起してください。』     主は彼の祈りを聞かれた。     『わたしはあなたの祈を聞き、あなたの涙を見た。見よ、わたしはあなたをいや     す。かつ、わたしはあなたのよわいを十五年増す。わたしはあなたと、この町と     をアッスリヤの王の手から救い』(1,3,5節)     このような例外的な延命は、近代にも1881年11月に起きている。     わたしのおじであるデピッド・パッテン・キンボールは、アリゾナの家を後にし     て、ソルト・リバー砂漠越えの旅に出た。彼は蔵書を整理し、勘定を精算し、妻     には二度と戻らないかもしれないという予感を語っていた。デビッド・キンボー     ルはのどの渇きと痛みに言い知れぬ苦しみをなめながら、2日と3晩、砂漠をさま     よったのである。彼は霊界に一歩足を踏み入れ、後に妹にあてた1882年1月8日付     けの手紙で、そこでの出来事を語っている。彼は霊界で自分の両親に会った。     『父はわたしがそう望むならここにとどまることができると言いましたが、わた     しは家族を楽にしてやり、自分の罪を悔い改め、ここへ来るためにもっと十分に     備えをしたいので、まだ家族と一緒にいられるように頼みました。そうしなかっ     たならば、死体となって家に帰るしかなかったでしょう。父は結局、2年間とど     まることができる、そしてその間にできるだけの良いことをするように、その後     は自分が連れに来る、と言いました。父は、わたしのほかにも迎えに来る4人の     ことを話しました。』砂漠でのこの経験から2年して、彼は苦しむことなく安ら     かに世を去った。彼は死の直前に上を見上げて『お父さん、お父さん』と呼んだ。     それからほぼ1年の間に、名前を聞いていた4人も死亡した。」 06)わたしはあなたと、この町とをアッスリヤの王の手から救い、この町を守ろう」。   【解説】   1-21節     ここに記されているのは、36,37章に記されている事柄が起きる前にあった出来     事に違いない。町が守られるの出来事が未来に起こることとして書かれている。     ヒゼキヤが患っていたのは明らかにはれものと思われる。しかも、命にかかわる     ものであった。いちじくを当てるというのは、一般的に広く行われていた単なる     象徴としての治療であった。しるしがヒゼキヤに与えられたことが記録されてい     るが、これは明らかに病気が治るということの保証と思われる。 07)主が約束されたことを行われることについては、あなたは主からこのしるしを得る。 08)見よ、わたしはアハズの日時計の上に進んだ日影を十度退かせよう』」。すると日時   計の上に進んだ日影が十度退いた。   【解説】   日時計 = 時刻の目盛りをつけた平板上に指針を固定し、太陽の光を受        けてできる指針の影の位置によって時刻を知るもの   「ア八ズの日時計」とは何か     アハズはヒゼキヤ王の父である。彼は在世中に特別な時計を発明した。それは、     目盛り線を幾つも引いた上に円柱を垂直に立てた装置のようである。地球の動き     につれ、太陽の影が作る角度でおおよその時間の経過が計られるというものであ     る。 09)次の言葉はユダの王ヒゼキヤが病気になって、その病気が直った後、書きしるしたも   のである。 10)わたしは言った、わたしはわが一生のまっ盛りに、   去らなければならない。   わたしは陰府の門に閉ざされて、   わが残りの年を失わなければならない。 11)わたしは言った、わたしは生ける者の地で、   主を見ることなく、   世におる人々のうちに、再び人を見ることがない。 12)わがすまいは抜き去られて   羊飼の天幕のようにわたしを離れる。   わたしは、わが命を機織りのように巻いた。   彼はわたしを機から切り離す。   あなたは朝から夕までの間に、わたしを滅ぼされる。   【解説】   天幕(てんまく) = テント 13)わたしは朝まで叫んだ。   主はししのようにわが骨をことごとく砕かれる。   あなたは朝から夕までの間に、わたしを滅ぼされる。 14)わたしは、つばめのように、つるのように鳴き、   はとのようにうめき、   わが目は上を見て衰える。   主よ、わたしは、しえたげられています。   どうか、わたしの保証人となってください。 15)しかし、わたしは何を言うことができましょう。   主はわたしに言われ、   かつ、自らそれをなされたからである。   わが魂の苦しみによって、   わが眠りはことごとく逃げ去った。 16)主よ、これらの事によって人は生きる。   わが霊の命もすべてこれらの事による。   どうか、わたしをいやし、   わたしを生かしてください。 17)見よ、わたしが大いなる苦しみにあったのは、   わが幸福のためであった。   あなたはわが命を引きとめて、   滅びの穴をまぬかれさせられた。   これは、あなたがわが罪をことごとく、   あなたの後に捨てられたからである。 18)陰府は、あなたに感謝することはできない。   死はあなたをさんびすることはできない。   墓にくだる者は、   あなたのまことを望むことはできない。 19)ただ生ける者、生ける者のみ、   きょう、わたしがするように、あなたに感謝する。   父はあなたのまことを、その子らに知らせる。 20)主はわたしを救われる。   われわれは世にあるかぎり、   主の家で琴にあわせて、歌をうたおう。 21)イザヤは言った、「干いちじくのひとかたまりを持ってこさせ、それを腫物につけな   さい。そうすれば直るでしょう」。   【解説】   いちじく = クワ科の落葉高木。高さ約 4 メートル。実は熟すと暗紫色にな         り、甘く、生食のほかジャムなどにする 22)ヒゼキヤはまた言った、「わたしが主の家に上ることについて、どんなしるしがあり   ましょうか」。
第39章   【解説】   霊感によって美しく描かれたユダ、アッシリヤ、バビロンの歴史。 01)そのころ、バラダンの子であるバビロンの王メロダク・バラダンは手紙と贈り物を持   たせて使節をヒゼキヤにつかわした。これはヒゼキヤが病気であったが、直ったこと   を聞いたからである。 02)ヒゼキヤは彼らを喜び迎えて、宝物の蔵、金銀、香料、貴重な油および武器倉、なら   びにその倉庫にあるすべての物を彼らに見せた。家にある物も、国にある物も、ヒゼ   キヤが彼らに見せない物は一つもなかった。 03)時に預言者イザヤはヒゼキヤ王のもとに来て言った、「あの人々は何を言いましたか。   どこから来たのですか」。ヒゼキヤは言った、「彼らは遠い国から、すなわちバビロ   ンから来たのです」。 04)イザヤは言った、「彼らは、あなたの家で何を見ましたか」。ヒゼキヤは答えて言っ   た、「彼らは、わたしの家にある物を皆見ました。倉庫のうちには、彼らに見せなか   った物は一つもありません」。 05)そこでイザヤはヒゼキヤに言った、「万軍の主の言葉を聞きなさい。 06)見よ、すべてあなたの家にある物およびあなたの先祖たちが今日までに積みたくわえ   た物がバビロンに運び去られる日が来る。何も残るものはない、と主が言われます。 07)また、あなたの身から出るあなたの子たちも連れ去られて、バビロンの王の宮殿にお   いて宦官となるでしょう」。   【解説】   宦官(かんがん) = 東洋諸国で宮廷や貴族の後宮に仕えた去勢された官吏 08)ヒゼキヤはイザヤに言った、「あなたが言われた主の言葉は結構です」。彼は「少な   くとも自分が世にある間は太平と安全があるだろう」と思ったからである。   1-8節     ヒゼキヤはユダと同盟を望んでいるバビロニア人に対して、軽率にも機密とすべ     き事柄を見せてしまった。イザヤはこの時、王国がどのようにして滅びるか王に     告げた。
第40章   【解説】   再臨。   【セミナリー解説】   主の力と偉大さ   36-39章で歴史上の出来事を記録した後、イザヤは40章で再び預言的で詩的な文体に   戻っている。この章では主の力と、御自分の民を贖われる方法が豊かに述べられてい   るため、40章の多くの言葉が様々な優れた音楽作品の歌詞になっている。イザヤやほ   かの預言者が滅亡を預言した後の40章は、主を信頼する者に対して喜ばしい希望に満   ちたメッセージになっている。40章の預言では、メシヤの降誕と再臨の両方が予告さ   れている。もしわたしたちが40章に書いてある教えを自分たちに当てはめるならば、   生活の中で、主と主の力についての美しく力強い証となるだろう。   【インスティテュート解説】   40-47章 イザヤは文体を変え、預言的な韻文体で書き始める     ここまでひたすら歴史的な事柄を書きつづってきた預言者イザヤは、本章で学ぶ     部分については、44章9節から20節までのわずかな部分を除き、文体を変えて美     しい韻文でつづっている。へプライ語の韻文は英語で書かれた韻文とは異なって     いる。それは主として、へプライ語の韻文が韻律よりも平行法的な思考を重視し     ているからである。その文体の美しさ、そしてそこに含まれている意味合いは、     実にすばらしく、心にも耳にも心地よいものである。 01)あなたがたの神は言われる、   「慰めよ、わが民を慰めよ、 02)ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、   その服役の期は終り、   そのとがはすでにゆるされ、   そのもろもろの罪のために二倍の刑罰を   主の手から受けた」。   【解説】   1-3節 イザヤはなぜエルサレムの服役の期は終わったと言ったのか     「エルサレムに対する慰めの言葉である『その服役の期は終り、そのとがはすで     にゆるされ』という聖句は、明らかに末日のことを指している。この部分は『そ     の懲役の期間を全うし、その罰金も支払われ』と翻訳することも可能である。ユ     ダは『苦しみの炉』(10節)を経験することになっていたため、この部分の言葉は     ユダがその炉をくぐり抜けた後で成就するはずである。過去の歴史を見ても、現     在の状況を見ても、ユダがまだその炉をくぐり抜ける過程にあることは明らかで     ある。この章の残りの部分も再臨のころのことについて述べている。」 03)呼ばわる者の声がする、   「荒野に主の道を備え、   さばくに、われわれの神のために、   大路をまっすぐにせよ。   【解説】   まっすぐにする = 文字どおりには平らな道を造ること。象徴的には前に道を備える     こと。(多くの場合、この「まっすぐにする」作業は王のような重要人物のため     に道を準備するために行われた。)   これは、バプテスマのヨハネによって成就した。   (マタイ3:1-3;マルコ1:3-4;ルカ3:1-4;ヨハネ1:19-23)   バプテスマのヨハネのことと言われているが、それだけでなく、ジョセフ・スミス、   末日聖徒たちも含まれる。   エライアスは、主の前に来て備えをなす者。   末日聖徒だけが回復に関わるわけではない。   世界中の人が動いて、仕上げをするのが末日聖徒。   例えば、コロンブスのアメリカ大陸発見により、宗教の自由の地を得られた。   他にも聖書を翻訳した人がいるので、私たちが聖書から知識を得られる。   荒れ野に呼ばわる者の声     この聖句はバプテスマのヨハネのことを指しているが、『旧約聖書』のほかの多     くの預言同様、さらに別の意味をも含んでいる。救い主は「荒野の声」とはバプ     テスマのヨハネのことであると明言された。しかしこの先駆けをなす者の役割が、     エルサレムに向かって試練の時は終わったと告げる者のために道を備えることで     あるなら(1節)、イザヤが、バプテスマのヨハネの現世における働きだけについ     て言ったのでないことは明白である。ジョージ・ティーズデイル長老は次のよう     に言っている。「キリストは、エルサレムに対して慰めの言葉をかけるどころか、     次のようにお嘆きになった。『ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺     し、おまえたちにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどり     が翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようと     したことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。見よ、お     まえたちの家は見捨てられてしまう。』この慰めの言葉はエルサレムに対して言     われたものであろうか。わたしにはそうは思えない。バプテスマのヨハネが主の     最初の降臨の先駆けであっただけでなく、再臨に際してもその先駆けとなること     は、きわめて明らかなことである。この点に関する聖典の言葉は明瞭である。」     主の2度目の降臨で初めて、エルサレムは赦しと平安とを得る。したがって、砂     漠に大路をまっすぐにせよと叫ぶ荒れ野の声についての記述は、バプテスマのヨ     ハネがイエスの時代にも、また末日においても先駆ける者として働くことについ     て語っているのである。ルカは3節だけでなく、4節と5節も引用しているが、こ     れは明らかに福千年のことを指している聖句である。ジョセフ・スミスはルカに     よる福音書を改訂した際に新しく5つの節を加えたが、これも主の再臨について     触れたものであり、先駆けをなす者が現れ、救い主のために道を備えると断言し     ている。     預言者ジョセフの新しく加えた5つの節は、ルカの引用したイザヤ言の中ほどに     ある。したがってこの節はもともとイザヤ書の原本の一部であったとも考えられ     る。     バプテスマのヨハネがこの預言を2度にわたって成就したことは明らかである。     しかし、この預言はまだほかにも成就する余地があったのである。     キリストの再臨のために道を備える先駆けの役を果たした人物がもう一人いる。     それはジョセフ・スミスである。ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は     次のように言っている。「マラキは、イザヤと同様に、主が御自分の前に道を備     える御使いを遣わされることについて話している。これは確かにバプテスマのヨ     ハネが来ることも指しているが、この聖句は聖典の中で二重の成就を含んだ預言     の一つである。この預言は預言者ジョセフ・スミスの出現をも指している。なぜ     なら主の前に来て道を備える御使いは、今日に来なければならなかったからであ     る。このことは重要なことであるので少し時間を割いて採り上げよう。この使者     がいつメッセージを伝えようとしたかを示そう。     主は御自分の再臨に先立って、道を備えまっすぐにするために一人の使者を遣わ     さなければならない、と一人の預言者を通して宣言された。これはヨハネのこと     であると言うかもしれない。それは正しい。かつての神権時代において、主の前     に来て道を備えたヨハネはこの神権時代にも使者としてジョセフ・スミスのもと     に来たからである。したがって、主の前に道を備えるために来たヨハネを指して     いると言ってもよい。     しかしわたしはさらに一歩進めて、主が御自分の前に道を備えさせるために遣わ     された使者は、ジョセフ・スミスであったと確信している。彼は遣わされ、聖な     る御使いの指示を受けて、神の王国とこの奇しき御業の基盤を置き、世が主の来     臨に備えられるようにした。」 04)もろもろの谷は高くせられ、   もろもろの山と丘とは低くせられ、   高底のある地は平らになり、   険しい所は平地となる。   【解説】   地震のために地の面が変わる     ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は、主イエス・キリストが栄光のう     ちに再臨される前には巨大な地震があると断言している。この地震による破壊の     規模は非常に大きく、そのためにもろもろの山は低くせられ、もろもろの谷は高     くせられ、高低のある地は平らになる。その激しさのために、太陽は暗くなり、     月は血に変わる。また海の水は北の国々へ上り、地は荒廃して、ペレグの時代の     前のようになる。 05)こうして主の栄光があらわれ、   人は皆ともにこれを見る。   これは主の口が語られたのである」。   【解説】   マーティン・ルーサー・キングは4-5節を読んで、差別がなくなること捉えた。   1963年、I Have a Dreamの演説でこの節が引用された。 06)声が聞える、「呼ばわれ」。   わたしは言った、「なんと呼ばわりましょうか」。   「人はみな草だ。   その麗しさは、すべて野の花のようだ。   【解説】   6-8節 「人はみな草だ」とはどういう意味か     預言者たちがカナンの地理的な背景を踏まえて引き出す隠喩には、心に強く訴え     かける霊的なメッセージが含まれている。「春の雨」は1月から4月初めまで降る。     この雨が降る間に、イスラエルでは草は勢いよく生育し、緑のカーペットを敷き     つめたようになる。それが枯れるなどとは想像もつかないほどの光景である。し     かし、この雨季はごく短い期間で終わり、その後に来る強烈な夏の日差しに照ら     された草は、一夜のうちにほとんど茶色に変わってしまう。荒れ果てた山肌に吸     い込まれでもしたように消え失せる。イザヤが枯れた生気のない草を隠喩として     選んだのは、邪悪な者たちの道がこの世の人には華やかに見えても、決して続き     はしないということを説明するためである。主により清められた人々だけが、そ     の再臨の栄光によく堪えることができる。邪悪な人々は燃え盛る火の前に置かれ     た乾いた草と同じだからである。 07)主の息がその上に吹けば、   草は枯れ、花はしぼむ。   たしかに人は草だ。   【解説】   枯れる、しぼむ = 死ぬ 08)草は枯れ、花はしぼむ。   しかし、われわれの神の言葉は   とこしえに変ることはない」。   【解説】   6-8節 教義と聖約124:7     それゆえ、あなたがたは彼らを恐れることなく、声高らかに宣言し、あなたがた     の証を述べて彼らに呼びかけなさい。彼らは草のようであり、彼らの栄華は皆、     すぐに散る花のようだからである。彼らにそうするのは、彼らに弁解の余地がな     いようにするためである。 09)よきおとずれをシオンに伝える者よ、   高い山にのぼれ。   よきおとずれをエルサレムに伝える者よ、   強く声をあげよ、   声をあげて恐れるな。   ユダのもろもろの町に言え、   「あなたがたの神を見よ」と。   【解説】   おとずれ = 知らせ   高い山で「シオン」と呼ばれたのはだれか     オーソン・プラット長老は、この聖句は主が栄光のうちに降臨される前に地上に     確立されるはずの主のシオンについて述べた預言であると語った。預言には「シ     オンと呼ばれる民」が高い山のある地方(ユタ峡谷とその近隣を指す)へ上って行     くとあった。オーソン・プラット長老は、さらに、ジョセフ・スミスも同じこと     を預言して次のように語ったと述べている。『預言はかくして発せられ、かくし     て成就しつつある。』」 10)見よ、主なる神は大能をもってこられ、   その腕は世を治める。   見よ、その報いは主と共にあり、   そのはたらきの報いは、そのみ前にある。 11)主は牧者のようにその群れを養い、   そのかいなに小羊をいだき、   そのふところに入れて携えゆき、   乳を飲ませているものをやさしく導かれる。   【解説】   1-11節はメシヤに関連したもの。   かいな = 「うで」の古い言い方。肩からひじまでの部分。   10-11節 主の降臨に備えるための業     この2節は明らかに、主の再臨の前にしておかなければならない準備について述     べたものである。リーバイ・エドガー・ヤング長老は次のように言っている。     「わたしは、現在、神にまみえる日がますます近づいていると心から信じている。     わたしたちが心の清い者となって、神にお会いすることができるように願ってい     る。これは『賢くて、真理を受け入れ、自分の導き手として聖なる御霊を受け』     る者にとっては喜ばしいことである。というのも、『欺かれなかった者その日に     堪える』者とはそのような人たちのことだからである。」 12)だれが、たなごころをもって海をはかり、   指を伸ばして天をはかり、   地のちりを枡に盛り、   てんびんをもって、もろもろの山をはかり、   はかりをもって、もろもろの丘をはかったか。   【解説】   指を伸ばして = 手の幅で   てんびん = 支点が中央にあるてこを用いて、物体の質量を分銅と比較測定する         はかり   12-31節 海を「はかり」、地のちりをます     「枡に盛り」という聖句には何か重要な意味があるか12節はイザヤの詩歌的な語     法であって、神は世界のことをそれほどまでに細かく知っておられ、大海の水や     地のちりでさえどれくらいあるか御存じであるということを言っているのである。     ほかの聖句では、印象的な対照法を用いて、神が大いなること、それに引き換え、     世の国々や彼らの礼拝する神々が取るに足りない存在であることが強調されてい     る。 13)だれが、主の霊を導き、   その相談役となって主を教えたか。 14)主はだれと相談して悟りを得たか。   だれが主に公義の道を教え、   知識を教え、悟りの道を示したか。   【解説】   公義(こうぎ) = おおやけに果たすべき義務 15)見よ、もろもろの国民は、おけの一しずくのように、   はかりの上のちりのように思われる。   見よ、主は島々を、ほこりのようにあげられる。 16)レバノンは、たきぎに足りない、   またその獣は、燔祭に足りない。   【解説】   燔祭(はんさい) = 神にささげる焼いて行ういけにえ 17)主のみ前には、もろもろの国民は無きにひとしい。   彼らは主によって、無きもののように、   むなしいもののように思われる。   【解説】   むなしい = 価値のない 18)それで、あなたがたは神をだれとくらべ、   どんな像と比較しようとするのか。 19)偶像は細工人が鋳て造り、   鍛冶が、金をもって、それをおおい、   また、これがために銀の鎖を造る。   【解説】   偶像、像 = 人の手と道具で造った偶像   鋳る(いる) = 溶かした金属を鋳型(いがた)に流し込んで器物をつくること   鍛冶(かじ) = 鉄などの金属を熱して打ち鍛え、種々の器物をつくること。          また、その職人 20)貧しい者は、ささげ物として   朽ちることのない木を選び、   巧みな細工人を求めて、   動くことのない像を立たせる。   【解説】   ささげ物 = ここでは偽りの神へのささげ物   巧みな = 腕の良い 21)あなたがたは知らなかったか。   あなたがたは聞かなかったか。   初めから、あなたがたに伝えられなかったか。   地の基をおいた時から、   あなたがたは悟らなかったか。   【解説】   基をおいた時 = 初め 22)主は地球のはるか上に座して、   地に住む者をいなごのように見られる。   主は天を幕のようにひろげ、   これを住むべき天幕のように張り、   【解説】   天幕(てんまく) = テント 23)また、もろもろの君を無きものとせられ、   地のつかさたちを、むなしくされる。   【解説】   むなしい = 価値のない 24)彼らは、かろうじて植えられ、かろうじてまかれ、   その幹がかろうじて地に根をおろしたとき、   神がその上を吹かれると、彼らは枯れて、   わらのように、つむじ風にまき去られる。 25)聖者は言われる、   「それで、あなたがたは、わたしをだれにくらべ、   わたしは、だれにひとしいというのか」。 26)目を高くあげて、   だれが、これらのものを創造したかを見よ。   主は数をしらべて万軍をひきいだし、   おのおのをその名で呼ばれる。   その勢いの大いなるにより、   またその力の強きがゆえに、   一つも欠けることはない。 27)ヤコブよ、何ゆえあなたは、   「わが道は主に隠れている」と言うか。   イスラエルよ、何ゆえあなたは、   「わが訴えはわが神に顧みられない」と言うか。 28)あなたは知らなかったか、   あなたは聞かなかったか。   主はとこしえの神、地の果の創造者であって、   弱ることなく、また疲れることなく、   その知恵ははかりがたい。   【解説】   イザヤ、神の名の一つを明らかにする     「主の名の一つに『永遠』という名称があるが、同じ意味で、『無窮』というの     も神を表す名称の一つである。神はまた『とこしえの神』とも呼ばれる。この意     味は、永遠に存在を続ける、ということである。なぜなら『主の年は尽きること     がない』からである。」 29)弱った者には力を与え、   勢いのない者には強さを増し加えられる。   【解説】   弱る = 肉体的に弱くなる、疲れる 30)年若い者も弱り、かつ疲れ、   壮年の者も疲れはてて倒れる。 31)しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、   わしのように翼をはって、のぼることができる。   走っても疲れることなく、   歩いても弱ることはない。   【解説】   イザヤの見た「主を待ち望む者」に与えられる報いとは何か     主を待ち望む者に授けられる究極の力とは、主が与えてくださる「新たなる力」     のことである。この力について預言者イザヤは「わしのように翼をはって、のぼ     ることができる」(31節)のであると言っている。オーソン・プラット長老は、こ     の死すべき世に存在しその法則に支配されている人々も、真理の光によって再新     され、きわめて高速度で、しかも時には光の速度で空間を移動することができる     ようになる可能性もある、と言った。     主を待ち望みつつ忠実に戒めを守り続ける人には、さらに大きな約束が与えられ     ているが、それは「走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」(31節)     という約束である。     長い時間走れば、通常、人はだれでも疲れを覚える。またまれではあるが、ただ     歩くだけで弱る人もいる。したがって、この約束がどちらかといえば、霊にかか     わることについて言っていることは明白である。主は「弱ることなく、また疲れ     ること」もない(40:28)からである。     遣わされずに「走る」人もいるが、主の僕たちはその用向きをもって走る使命を     託されている。奉仕するために主に召されている人は、ある競争に携わっている     のであるが、これは「必ずしも速い者が競走に勝つのではなく、強い者が戦いに     勝つのでもない」という競争である。しかし、報いは「最後まで耐え忍ぶ」者に     与えられる。人生というレースを疲れずに走り抜ける力が授けられ、また、安全     に旅を続け、弱ることも真理の道から離れることもないというのは、すばらしい     祝福である。力強く奉仕の業に励むことができ、しかも疲れないということ、ま     た確信をもって歩み、しかも道からそれることがないということ、これは主を待     ち望む者にとって、非常に大きな慰めであり、励ましである。   27-31節     頑張っていても疲れることがある。しかし、主に従うものには力が与えられる。
第41章   【解説】   神、古代のイスラエルと近代のイスラエルに議論し、   回復の時代について語られる。   【セミナリー解説】   イスラエルの贖い主   イザヤの時代、偶像礼拝は恐らくイスラエルの子らの最も不快で、目につく罪でだっ   た。41-47章では、主は御自分の民に、なぜ偶像ではなく主を信頼し礼拝しなければ   ならないかをお話しになっている。主は多くの重要な称号や名前をお持ちだが、その   中でも特に、贖い主(自身の贖いの犠牲によって霊的な束縛から贖う者、の意味。)、   救い主、創造主であることを証された。聖約の子らに対して、主は次のことを強調さ   れた。「わたしはあなたの神、主である、あなたの救主である。あなたがたをあがな   う者、あなたがたの聖者、あなたがたの王である。」   41-47章は、悔い改めて主に立ち返るようにという、イスラエルの子らに対する呼び   かけであると同時に、もし主に従うことを選ぶならば、主に受け入れられ、すべての   罪と苦しみから救われ贖われるという約束に希望を見いだすことのできる箇所でもあ   る。   これらの章のメッセージは、もちろん現代に当てはめることもできる、イザヤの死か   ら約150年後にバビロンに連れ去られたユダヤ人にとって、特別な意味を持っていた。   彼らが囚われの身となった原因は、全国民が偶像礼拝を悔い改めようとしなかったた   めだった。主の救いと贖いの力を必要としていた民は、とりわけペルシャのクロス王   が解放者となることについての約束(45章)と、バビロンの滅亡の預言(47章)に勇気づ   けられた。   【インスティテュート解説】   41-44章 理解のための鍵     イザヤ40章から66章までは預言的な内容の書である。書かれている内容はイザヤ     の生きた時代の直後を指してはいるが、しかしこれはおもに、末日に関する預言     であった。この点を理解できない大部分の聖書学者たちは、この部分は歴史的な     事実を述べた記録であって、イザヤよりも後代の人々によって書かれたものであ     ると考えている。しかしながら、そうした見方は啓示された聖文に照らし合わせ     て考えると、甚だ疑問である。イザヤは世の初めから終わりまでを示現で見た。     それゆえ、イスラエルの行く末に関するイザヤの預言の言葉は、過去の歴史家た     ちの限られた見方に比べれば、はるかに信頼性が高いのである。 01)海沿いの国々よ、   静かにして、わたしに聞け。   もろもろの民よ、力を新たにし、近づいて語れ。   われわれは共にさばきの座に近づこう。   【解説】   海沿いの国々 = 全世界   1,5節 イザヤの見た「海沿いの国々」     主は幾度かイスラエルの子孫たちを「海沿いの国々」へと導いてこられた。そし     て、最終的には御自身の再臨に先立って、そこから人々をお集めになるのである。     南北両アメリカ大陸もそうした「海沿いの国々」の一つである。この部分の聖句     を研究すると、この「海沿いの国々」、言い換えればイスラエルの散らされた子     孫の住む所は、人には教えられていなかったことが分かる。イザヤは「海沿いの     国々」という比喩を使って、散らされたイスラエルについて語り、やがてその海     沿いの国々で民が主に信頼を置き、主の言葉を待ち望み、ともに再新される日が     来ると言っているのである。これは皆、収穫の時が近づくと起きることになって     いる。そのときには、散らされたイスラエルは一つの新しい歌を歌う。これは贖     われた者の歌であって、王国に集合するときに歌われる歌である(42:4,10)。 02)だれが東から人を起したか。   彼はその行く所で勝利をもって迎えられ、   もろもろの国を征服し、   もろもろの王を足の下に踏みつけ、   そのつるぎをもって彼らをちりのようにし、   その弓をもって吹き去られる、わらのようにする。   【解説】   1-4節 イエス・キリストと彼に従う人々(義人)について述べられている。   東から来る義人とはだれか     ヨハネもイザヤと似た示現を見て、この東から来る義人について「御使が、生け     る神の印を持って、日の出る方から上って来るのを見た」(黙示7:2)と言ってい     る。主はジョセフ・スミスに啓示を与えられて、この東から来る天使とは、「イ     スラエルの部族を集め、万事を元どおりにするために来ることになっているエラ     イアスである」と言われた。     この「天使」について、ブルース・R・マッコンキー長老は次のように言ってい     る。     「すべてのものを回復したのはだれか。一人の人物だっただろうか。もちろんそ     うではない。多くの御使いが栄光の座から送り出され、鍵や権能を授けるために、     そして再び地上の人々に神権の時代と栄光とを託すために遣わされたのである。     少なくとも、これまで次の人たちが遣わされてきた。モロナイ、バプテスマのヨ     ハネ、ペテロ、ヤコブヨハネ、モーセ、エリヤ、エライアス、ガブリエル、ミカ     エル(教義と聖約13;110;128:19-21)。一人の御使いが回復の全責任をゆだねられ     ていたわけではなく、むしろ一人一人の御使いが天から特定のものを託されてそ     れを携えて訪れたことは明白である。以上のことから、エライアスという名前が     複数の人物を指していることが分かる。このエライアスという名前は、一つの名     称、あるいは称号と理解すべきであって、その役割はこの最後の神権時代に人々     に鍵と権能をもたらすことにあったのである。」     よって、「東から来た人」というのは回復の天使のことを指すものと思われる。     この天使たちは、エライアスという複数の人物に当てはまる称号で一括して呼ば     れているのである、 03)彼はこれらの者を追って   その足のまだ踏んだことのない道を、   安らかに過ぎて行く。 04)だれがこの事を行ったか、なしたか。   だれが初めから世々の人々を呼び出したか。   主なるわたしは初めであって、   また終りと共にあり、わたしがそれだ。 05)海沿いの国々は見て恐れ、   地の果は、おののき、近づいて来た。 06)彼らはおのおのその隣を助け、   その兄弟たちに言う、「勇気を出せよ」と。 07)細工人は鍛冶を励まし、   鎚をもって平らかにする者は金敷きを打つ者に、   はんだづけについて言う、「それは良い」と。   また、くぎをもってそれを堅くし、   動くことのないようにする。   【解説】   鍛冶(かじ) = 鉄などの金属を熱して打ち鍛え、種々の器物をつくること。          また、その職人   鎚(つち) = 物をたたく工具。頭部はふつう円柱形で、柄が付いている。木         づち・金づちなどがある   金敷き = 鍛造や板金作業をするとき、加熱した材料をのせる鋳鉄または鋳鋼製の台 08)しかし、わがしもべイスラエルよ、   わたしの選んだヤコブ、   わが友アブラハムの子孫よ、 09)わたしは地の果から、あなたを連れてき、   地のすみずみから、あなたを召して、   あなたに言った、「あなたは、わたしのしもべ、   わたしは、あなたを選んで捨てなかった」と。 10)恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。   驚いてはならない、わたしはあなたの神である。   わたしはあなたを強くし、あなたを助け、   わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。   【解説】   8-10節 主がともにいる。神に従う人は1つのチーム。   役割の小さい大きいは関係ない。役目を果たすときすばらしいことが起こる。 11)見よ、あなたにむかって怒る者はみな、   はじて、あわてふためき、   あなたと争う者は滅びて無に帰する。 12)あなたは、あなたと争う者を尋ねても見いださず、   あなたと戦う者は全く消えうせる。 13)あなたの神、主なるわたしは   あなたの右の手をとってあなたに言う、   「恐れてはならない、わたしはあなたを助ける」。 14)主は言われる、「虫にひとしいヤコブよ、   イスラエルの人々よ、恐れてはならない。   わたしはあなたを助ける。   あなたをあがなう者はイスラエルの聖者である。 15)見よ、わたしはあなたを鋭い歯のある   新しい打穀機とする。   あなたは山を打って、これを粉々にし、   丘をもみがらのようにする。 16)あなたがあおげば風はこれを巻き去り、   つむじ風がこれを吹き散らす。   あなたは主によって喜び   イスラエルの聖者によって誇る。 17)貧しい者と乏しい者とは水を求めても、水がなく、   その舌がかわいて焼けているとき、   主なるわたしは彼らに答える、   イスラエルの神なるわたしは   彼らを捨てることがない。 18)わたしは裸の山に川を開き、   谷の中に泉をいだし、   荒野を池となし、かわいた地を水の源とする。 19)わたしは荒野に香柏、アカシヤ、   ミルトスおよびオリブの木を植え、   さばくに、いとすぎ、すずかけ、   からまつをともに置く。   【解説】   アカシヤ = マメ科アカシア属の常緑樹の総称。葉は羽状複葉。花は黄色、         まれに白色で、多数集まって穂状に咲く   ミルトス = フトモモ科の植物、ギンバイカとも言う。ミルトスは生命力が強く         て、切られても長く生きることから不死の象徴となった。ユダヤ         教のな中では仮庵の祭り、結婚式などにも用いられる。   オリブ = モクセイ科の常緑高木。高さ7〜18メートル。葉は細長く、表面        が暗緑色、裏面が銀色で、対生する。5〜7月ごろ、黄白色の        香りのよい花を総状につける。黄緑色の実は熟すると黒紫色        になり、油がとれる。   いとすぎ = ヒノキ科の常緑高木。高さ約45メートルにも達する。   すずかけ = スズカケノキ科の落葉高木。街路樹に多く用いられ、樹皮は大         きくはげて白と淡緑色のまだらになる   からまつ = マツ科の落葉高木あるいはキンポウゲ科の多年草 20)人々はこれを見て、主のみ手がこれをなし、   イスラエルの聖者がこれを創造されたことを知り、   かつ、よく考えて共に悟る」。 21)主は言われる、   「あなたがたの訴えを出せ」と。   ヤコブの王は言われる、   「あなたがたの証拠を持ってこい。 22)それを持ってきて、起るべき事をわれわれに告げよ。   さきの事どもの何であるかを告げよ。   われわれはよく考えて、その結末を知ろう。   あるいはきたるべき事をわれわれに聞かせよ。 23)この後きたるべき事をわれわれに告げよ。   われわれはあなたがたが神であることを   知るであろう。   幸をくだし、あるいは災をくだせ。   われわれは驚いて肝をつぶすであろう。 24)見よ、あなたがたは無きものである。   あなたがたのわざはむなしい。   あなたがたを選ぶ者は憎むべき者である」。   【解説】   21-24節 偶像に力があるならば、それを示すように挑んだ。     イザヤはその民を偶像崇拝から立ち直らせようとして、彼らに、自分たちが信じ     ている神々に善いことであれ悪いことであれ何かを行わせよと言った。しかしそ     の条件として民は、彼らの神々が行なうことを前もって告げなければならなかっ     た。それによって、主が神であることを知るためである。イザヤは、かつて神は     ご自身が行おうとしていることを前もって語られたのちに、それを行われたとい     うことを告げしらしておられたのである。預言者は偶像崇拝者たちに挑んだので     あった。 25)わたしはひとりを起して北からこさせ、   わが名を呼ぶ者を東からこさせる。   彼はもろもろのつかさを踏みつけて   しっくいのようにし、   陶器師が粘土を踏むようにする。 26)だれか、初めからこの事を   われわれに告げ知らせたか。   だれか、あらかじめわれわれに告げて、   「彼は正しい」と言わせたか。   ひとりもこの事を告げた者はない。   ひとりも聞かせた者はない。   ひとりもあなたがたの言葉を聞いた者はない。 27)わたしははじめてこれをシオンに告げた。   わたしは、よきおとずれを伝える者を   エルサレムに与える。   【解説】   メシヤに関連したもの。 28)しかし、わたしが見ると、ひとりもない。   彼らのなかには、わたしが尋ねても   答えうる助言者はひとりもない。   【解説】   助言者 = 助言を与えることのできる人物 29)見よ、彼らはみな人を惑わす者であって、   そのわざは無きもの、   その鋳た像はむなしき風である。   【解説】   鋳る(いる) = 溶かした金属を鋳型(いがた)に流し込んで器物をつくること   21-29節 邪悪な者の知恵は無意味である     主は世の最も賢い者に向かい、この後起こるべきことをどんな小さなことでもよ     いから告げてみよ、と言っておられる(21-23節)。そして、そのような人がいか     に優れたことを成し遂げたとしても、主にとっては「無きもの」(24節)であり、     最終的にはそうしたものは「人を惑わす」もの、またただ「むなしき風」(29節)     をもたらすにすぎないと言われた。
第42章   【解説】   神への賛美と、イスラエルの災難についての嘆き。   参照 「イザヤ書 英語版比較」 01)わたしの支持するわがしもべ、   わたしの喜ぶわが選び人を見よ。   わたしはわが霊を彼に与えた。   彼はもろもろの国びとに道をしめす。   【解説】   道を示す = 間違いを正す、正義をもたらす   【解説】   1-4節 メシヤに関する予言     マタイはこの聖句を引用し、イエス・キリストがこの予言をどのように成就した     かをユダヤ人に示している。(マタイ12:14-21)   1-4節 僕とはだれか     ただ一人の僕だけが裁きの力を授けられた(1節)。そしてこの御方は、海沿いの     国々がその教えを待ち望んでいる御方(4節)、すなわちイスラエルの仲保者であ     り、異邦人の救い主である御方である。この御方は通りで叫んだり、大声を張り     上げたりはされなかった。つまり、騒ぎを起こしたり、自分のことを誇らしげに     語ったりすることはなさらなかったのである。マタイはイザヤ書のこの部分を、     救い主が病を癒されたことを人々に知らせてはならないと群衆に向かって戒めら     れた直後に引用している。というのも、救い主が言われた王国というのは、その     声や不思議な業が遠く外国にまで伝えられるような地上の王国ではなく、天の王     国のことだったからである。こうして救い主は群衆から身を隠し、人の誉れを避     けて、穏やかに優しく教えを説かれたのである。裁きの心は、大いなる裁きの日     までとどめておかれた。しかし、その裁きの日には、キリストは「もろもろの王     の王、もろもろの主の主」として高らかに勝利を宣言されるはずである。     傷ついた葦とほの暗い灯心(3節)という表現が用いられているが、これは主が裁     きのためにおいでになるが、それは人を滅ぼすためでなく救うためであるという     意味である。「ほのぐらい灯心」という言葉は,C・F・カイルとF・デリッチの翻     訳に従えば、「消えかかった揺らぐ灯心」ということである。ここで使われてい     る意味について二人は次のように説明している「ここでは、主は完全に折ったり     消したりすることはされないと書かれているが、このような言葉の使い方をした     場合は、実際に表現されている以上の意味を持っているのが普通である。つまり、     主は消えかかっている命を滅ぼされないだけでなく、実際にはその命を救ってく     ださるということである。それは、主の目的が滅ぼすことではなく、救うことに     あるからにほかならない。」     葦と灯心という言葉のすぐ後に「真実をもって道をしめす」という表現があるが、     カイルとデリッチはこれを次のように解釈している。「人間が経験する数多くの     複雑な事柄に関して真実を知らせ、認識させ、公平と善意を強めるという意味で     ある。」 02)彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、   その声をちまたに聞えさせず、   【解説】   声を上げる = 大声を出す 03)また傷ついた葦を折ることなく、   ほのぐらい灯心を消すことなく、   真実をもって道をしめす。   【解説】   葦 = イネ科の多年草。根茎は地中をはい、沼や川の岸に大群落を      つくる。高さは2〜3メートルになり、茎は堅く、円柱形で、細長      い葉が互生する。   道を示す = 間違いを正す、正義をもたらす 04)彼は衰えず、落胆せず、   ついに道を地に確立する。   海沿いの国々はその教を待ち望む。   【解説】   道を確立する = 正す、正義が行われるようにする 05)天を創造してこれをのべ、   地とそれに生ずるものをひらき、   その上の民に息を与え、   その中を歩む者に霊を与えられる   主なる神はこう言われる、 06)「主なるわたしは正義をもってあなたを召した。   わたしはあなたの手をとり、あなたを守った。   わたしはあなたを民の契約とし、   もろもろの国びとの光として与え、 07)盲人の目を開き、   囚人を地下の獄屋から出し、   暗きに座する者を獄屋から出させる。   【解説】   5-16節 盲人の目を開く光とはだれか     イザヤの視点はここで、御父と御子の関係から、救い主と聖約のイスラエルの民     との関係、とりわけ福音の招きにこたえ、救われた者の歌を歌う資格を備えた者     (生死にかかわりなく)と救い主との関係に移されている。福音の光を受けず盲目     の状態にあった人々は、イエス・キリストの福音を受け入れると、ちょうど囚人     が解き放されるように、自由をその身に受ける。それは霊界にいる人であろうと、     現世という荒れ果てた地をさまよっている人であろうと、同じである。     預言者ジョセフ・スミスは、十字架上で亡くなられたキリストについて次のよう     に言っている。「さて、わたしたちにはここに、救い主が獄にいる霊たちに宣べ     伝えられたという記録がある。主はノアの時代から獄に閉じ込められていた霊た     ちに宣べ伝えられたのである。では主は何を宣べ伝えられたのであろうか。獄に     とどまっていなさいと言われたのだろうか。もちろん、そうではない。ここで、     主御自身の言われた証を読んでみよう。(7節)この証から非常に明らかなことは、     主はただ宣べ伝えるためだけの目的で行かれたのではなく、解放する、言い換え     れば獄から連れ出すために行かれたのである。このことから、神が全人類を平等     に扱っておられることが分かる。また、大洪水以前に生きていた人々にも神の訪     れの日があったと同様に、イザヤの言っている人々にもかなりの日々を獄で過ご     した後に、その訪れと解き放ちの日がやって来ることが分かる。」     救い主イエス・キリストはすべてのものの中心である。救い主は世の光であり、     「もろもろの国びとの」(6節)光である。広げられた主の手は、聖約のイスラエ     ルの民を強め、支え、そして守る。しかし、それがすべてではない。聖約を交わ     した人は皆、忠実に戒めに従った生活を送ることにより、救い主という光を高く     掲げ持つことになり、それによって世の光となるのである。 08)わたしは主である、これがわたしの名である。   わたしはわが栄光をほかの者に与えない。   また、わが誉を刻んだ像に与えない。   【解説】   1-8節はメシヤに関連したもの。 09)見よ、さきに預言した事は起った。   わたしは新しい事を告げよう。   その事がまだ起らない前に、   わたしはまず、あなたがたに知らせよう」。   【解説】   8-9節 主は新しいことをすることを予め言っておく。末日に起こること。   9-16節 末日における福音の回復が預言される     預言者イザヤは、末日における福音の回復に関する示現を書き始めるに当たって、     真理とそれ以前の時代のもろもろの鍵が回復されると説明している。また、時満     ちる神権時代には新しい鍵が回復されるとも言っている(9節)。イザヤは子供の     誕生という比喩を用いて、地上の王国は、諸天が閉ざされていた長い背教の時代     の後に回復されるとも書いている(14節)。教会は末の日には回復されるが、その     後山々を平らにしたり、水を干上がらせるような破壊が起こり、また散らされた     イスラエルの部族が帰ってくる。そのときには、民はまだ知らない道を通って戻     り、福音の光は長い間彼らを苦しめてきた暗闇を追い散らす(15-16節)。イザヤ     はここで主の約束を再度採り上げて、回復された福音が再び地上から取り去られ     ることも、また主がその民を見捨てられることもないと言っている(16節)。 10)主にむかって新しき歌をうたえ。   地の果から主をほめたたえよ。   海とその中に満ちるもの、   海沿いの国々とそれに住む者とは鳴りどよめ。   【解説】   「新しき歌」とは何か     イザヤは福音の回復について記録した後、「新しき歌」を歌うことについて書い     ている。この歌は、清められた者にしか歌う資格がないという点でほかに例を見     ない歌である。これと同じ言い方は、教義と聖約84;98;102にもある。ほかの箇     所では、この歌は単に「小羊の歌」(教義と聖約133:56-57)と呼ばれている。 11)荒野とその中のもろもろの町と、   ケダルびとの住むもろもろの村里は声をあげよ。   セラの民は喜びうたえ。   山の頂から呼ばわり叫べ。 12)栄光を主に帰し、   その誉を海沿いの国々で語り告げよ。 13)主は勇士のように出て行き、   いくさ人のように熱心を起し、   ときの声をあげて呼ばわり、   その敵にむかって大能をあらわされる。 14)わたしは久しく声を出さず、   黙して、おのれをおさえていた。   今わたしは子を産もうとする女のように叫ぶ。   わたしの息は切れ、かつあえぐ。 15)わたしは山と丘とを荒し、   すべての草を枯らし、   もろもろの川を島とし、   もろもろの池をからす。 16)わたしは目しいを   彼らのまだ知らない大路に行かせ、   まだ知らない道に導き、   暗きをその前に光とし、   高低のある所を平らにする。   わたしはこれらの事をおこなって彼らを捨てない。   【解説】   メシヤに関連したもの。 17)刻んだ偶像に頼み、鋳た偶像にむかって   「あなたがたは、われわれの神である」と言う者は   退けられて、大いに恥をかく。   【解説】   鋳る(いる) = 溶かした金属を鋳型(いがた)に流し込んで器物をつくること 18)耳しいよ、聞け。   目しいよ、目を注いで見よ。   【解説】   耳(みみ)しい = 耳の聞こえない人   目(め)しい = 目の見えない人 19)だれか、わがしもべのほかに目しいがあるか。   だれか、わがつかわす使者のような耳しいがあるか。   だれか、わが献身者のような目しいがあるか。   だれか、主のしもべのような目しいがあるか。   【解説】   この節はジョセフ・スミス訳では次のようになっている。     わたしは目の見えないあなたがたのもとにわたしの僕を遣わす。     まことに、使者は目の見えない人の目を開き、耳の聞こえない人の耳を開く。     そして彼らは、主の僕であるその使者に聞き従うならば、     目が見えなかったにもかかわらず完全なものとされる。   主は目の見えない人々のもとに僕を遣わされる。   17-25節 目が見えないのは主の僕たちなのか     イザヤは末日に関する預言のすばらしさに魅了されている。しかしながら、イザ     ヤはここで主題から離れて、自分が預言してからその預言が成就するまでの間に     イスラエルがどんな状態に陥るか、説明を加えている。イザヤは、行方の定まら     ぬイスラエルはもとより、偶像の足下にひれ伏す者は皆、福音の教えと光の前に     耳が聞こえず目が見えない者である、とはっきり教えている(17-18節)。ジョセ     フ・スミス訳聖書は19-22節を次のように記して、意味を明らかにしている。     「わたしは目の見えないあなたがたのもとにわたしの僕を遣わす。まことに、使     者は目の見えない人の目を開き、耳の聞こえない人の耳を開く。そして彼らは、     主の僕であるその使者に聞き従うならば、目が見えなかったにもかかわらず完全     な者とされるであろう。あなたがたは多くのことを見ても認めず、耳を開いても     聞かない民である。主はそのような民を喜ばれない。しかし、主は御自分の義の     ために、律法を大いなるものとし、かつ栄光あるものとされる。」(ジョセフ・     スミス訳イザヤ42:19-23)     多くのことを見ても認めず、耳を開いても聞かないのは民の方だったのである。     確かに、イスラエルは隣国の偶像を受け入れていたのである。 20)彼は多くの事を見ても認めず、   耳を開いても聞かない。   【解説】   この節はジョセフ・スミス訳では次のようになっている。     あなたがたは多くのことを見ても認めず、     耳を開いても聞かない民である。 21)主はおのれの義のために、   その教を大いなるものとし、   かつ光栄あるものとすることを喜ばれた。   【解説】   この節はジョセフ・スミス訳では次のようになっている。     主はそのような民を喜ばれない。     しかし、主は御自分の義のために、     律法を大いなるものとし、     かつ光栄あるものとされる。 22)ところが、この民はかすめられ、奪われて、   みな穴の中に捕われ、獄屋の中に閉じこめられた。   彼らはかすめられても助ける者がなく、   物を奪われても「もどせ」と言う者もない。   【解説】   この節はジョセフ・スミス訳では次のようになっている。     あなたがたは、かすめられ、奪われた民である。     敵は皆、あなたがたを穴の中に捕らえ、獄屋の中に閉じ込めた。     敵があなたがたをかすめても助ける者がなく、     物を奪われても「戻せ」と言う者はない。 23)あなたがたのうち、   だれがこの事に耳を傾けるだろうか、   だれが心をもちいて   後のためにこれを聞くだろうか。 24)ヤコブを奪わせた者はだれか。   かすめる者にイスラエルをわたした者はだれか。   これは主ではないか。   われわれは主にむかって罪を犯し、   その道に歩むことを好まず、   またその教に従うことを好まなかった。 25)それゆえ、主は激しい怒りと、   猛烈な戦いを彼らに臨ませられた。   それが火のように周囲に燃えても、彼らは悟らず、   彼らを焼いても、心にとめなかった。
第43章   【解説】   回復と集合。   【インスティテュート解説】   43-47章 主はイスラエルを救い、バビロンを滅ぼされる     43章と44章では、イザヤはイスラエルに向かい、一人主のみが統治しておられ、     イスラエルを救う力を持っておられること、そして主こそイスラエルの贖い主で     あって罪を赦してくださる御方である、と断言している。さらに、預言の言葉で     ありながら、過去形を用いて(主の贖いの犠牲については、まだ起こっていない     ことではあっても、イザヤはすでに見ていたのである)すでに贖いの業は行われ、     イスラエルが贖われるかどうかは、ひとえに主のもとに立ち返るかどうかにかか     っている、と宣言した(44:21-22)。     45章に書かれていることは、主がイスラエルの残りの者であるユダをどのように     して、まただれによって贖われるのか、ということである。46章では偶像に嘆き     を送り、また偶像の神々自身が囚われの身になると書いている。47章には、この     世のバビロンと霊のバビロンが滅びる劇的な最後が書かれている。 01)ヤコブよ、あなたを創造された主はこう言われる。   イスラエルよ、あなたを造られた主はいまこう言われる、   「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。   わたしはあなたの名を呼んだ、   あなたはわたしのものだ。   【解説】   1-7節 主のものとなる前に、主に召される者たちを指して使う表現     この部分で、イザヤは、イスラエルは最終的には復興し、再び集合すると約束し     ているが、さらにその様子を、火や洪水の恐れのある危険な地帯を歩く旅人にた     とえている。この比喩は一個人だけでなく、イスラエルの家全体にも適用できる     ものである。主はイスラエルをその名で呼ばれた。それは、イスラエルという名     前が聖約によって与えられたものであり、イスラエルが最後には救われて主のも     のとなるということを象徴しているからである。主はさらに、イスラエルはその     帰還の途中に様々な試練に遭うが、常に彼らとともにいると約束しておられる。     いかなる大水や洪水に遭おうとも、そして試練や迫害という火に遭おうとも、イ     スラエルの民が守られずに見捨てられることはないと約束しておられるのである。     また、この約束には霊的な意味での象徴も含まれているかもしれない。エジプト     からの脱出に際して、イスラエルは水(紅海)の中を通り抜け、火と火の柱と煙と     によって守られた。パウロはこうした現象は、水と聖霊のバプテスマを表す象徴     であると考えた。ここでイザヤは、イスラエルはやがて集められると書いている。     人はバプテスマを受けることによって、その群れの中に集められる。以上のこと     から分かるように、この象徴は形而上的にも形而下的にも、重要な意味を持って     いるのである。 02)あなたが水の中を過ぎるとき、   わたしはあなたと共におる。   川の中を過ぎるとき、   水はあなたの上にあふれることがない。   あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、   炎もあなたに燃えつくことがない。 03)わたしはあなたの神、主である、   イスラエルの聖者、あなたの救主である。   わたしはエジプトを与えて   あなたのあがないしろとし、   エチオピヤとセバとをあなたの代りとする。   【解説】   あがないしろ = あがないのための代金 04)あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、   わたしはあなたを愛するがゆえに、   あなたの代りに人を与え、   あなたの命の代りに民を与える。   【解説】   4-1O節 イスラエルの集合は全世界的な出来事である     イザヤは、世界中の「国々」(9節)の象徴として、東、西、北、南(5-6節)という     言葉を使っている。イスラエルは世界中に散らされ、世界中から集められるので     ある。約束された集合は、終わりの日に末日聖徒イエス・キリスト教会によって     行われることになっている。     自らの目と耳をもって見聞きし、かつ集合する人々の目や耳を開ける業を行う僕     のことが書かれている。 05)恐れるな、わたしはあなたと共におる。   わたしは、あなたの子孫を東からこさせ、   西からあなたを集める。 06)わたしは北にむかって『ゆるせ』と言い、   南にむかって『留めるな』と言う。   わが子らを遠くからこさせ、   わが娘らを地の果からこさせよ。 07)すべてわが名をもってとなえられる者をこさせよ。   わたしは彼らをわが栄光のために創造し、   これを造り、これを仕立てた」。 08)目があっても目しいのような民、   耳があっても耳しいのような民を連れ出せ。   【解説】   耳(みみ)しい = 耳の聞こえない人   目(め)しい = 目の見えない人 09)国々はみな相つどい、   もろもろの民は集まれ。   彼らのうち、だれがこの事を告げ、   さきの事どもを、   われわれに聞かせることができるか。   その証人を出して、おのれの正しい事を証明させ、   それを聞いて「これは真実だ」と言わせよ。 10)主は言われる、「あなたがたはわが証人、   わたしが選んだわがしもべである。   それゆえ、あなたがたは知って、わたしを信じ、   わたしが主であることを悟ることができる。   わたしより前に造られた神はなく、   わたしより後にもない。 11)ただわたしのみ主である。   わたしのほかに救う者はいない。 12)わたしはさきに告げ、かつ救い、かつ聞かせた。   あなたがたのうちには、ほかの神はなかった。   あなたがたはわが証人である」と主は言われる。 13)「わたしは神である、今より後もわたしは主である。   わが手から救い出しうる者はない。   わたしがおこなえば、   だれが、これをとどめることができよう」。   【解説】   「とどめる」という言葉にはどのような意味があるか     ジョセフ・スミス訳では、主が行われることはだれも妨げることができない、と     いう内容になっている。 14)あなたがたをあがなう者、イスラエルの聖者、   主はこう言われる、   「あなたがたのために、   わたしは人をバビロンにつかわし、   すべての貫の木をこわし、   カルデヤびとの喜びの声を嘆きに変らせる。   【解説】   貫の木(かんのき) = 門の扉が開かないようにする横木。左右の扉の内側につけた             金具に差し通して使う。   14-17節 イスラエルは囚われの身とされたが、それは彼らのためであった     主がイスラエルをバビロンに送って囚われの身にされたのは、賢明な目的があっ     たからである。主がイスラエルを囚われの身とされた理由は、少なくとも二つ考     えられる。理由の第1は、高慢になり邪悪になったイスラエルを辱めて謙遜にす     ることにある。第2は、バビロンを滅ぼし、この魅力的な「カルデヤびとの娘」     はやがて滅びる定めにあり(47:1-6節)、それに倣う必要はないということを、反     論の余地を残すことなく世の人々に示すためである。モーセの時代にエジプト人     が滅びた話は当時すでに伝説化していたが、確かな事実であったように、イザヤ     のこの言葉もすべて確かに成就するのである。 15)わたしは主、あなたがたの聖者、   イスラエルの創造者、あなたがたの王である」。 16)海のなかに大路を設け、   大いなる水の中に道をつくり、 17)戦車および馬、軍勢および兵士を出てこさせ、   これを倒して起きることができないようにし、   絶え滅ぼして、灯心の消えうせるようにされる   主はこう言われる、 18)「あなたがたは、さきの事を思い出してはならない、   また、いにしえのことを考えてはならない。 19)見よ、わたしは新しい事をなす。   やがてそれは起る、   あなたがたはそれを知らないのか。   わたしは荒野に道を設け、   さばくに川を流れさせる。   【解説】   18-19節 昔のことを思い出して心配する必要はない。主は新しいことをする。   18-21節 荒れ野に起きる「新しい事」とは何を指しているのか     イザヤは、その昔エジプト人たちが滅ぼされた話を思い起こさせ(3節)、さらに     やがてバビロンが滅ぼされることを預言した(14-17節)。しかし、彼はここで読     者の注意をそれらの事柄からそらすように、「あなたがたは、さきの事を思い出     してはならない」(18節)と言い、さらに「新しい事」(19節)についても語るつも     りであることを読者に告げている。こうして、イザヤは別の預言的な示現に目を     向けて、滅びとはまったく反対のことが起こる奇跡のときについて語る。砂漠は     「喜びて花咲き、さふらんのように」(35:1)なる一方で、それと対照的にバビロ     ンの花は砂漠のようになるのである。リグランド・リチャーズ長老は管理監督だ     ったときに、ある大会の説教の中でイザヤの言葉は文字どおりに成就するとして     次のように言っている。     「イザヤはこう言っている。『見よ、わたしは新しい事をなす。』わたしがこの     聖句を理解している範囲で申し上げれば、この新しいことというのは大灌概計画     であった。聖徒たちが運河を切り開き、溝を掘り、ダムを建設しなければならな     かったことは事実である。しかも、もし主がまさにこの事業を始めるという霊感     を吹き込んでくださらなかったとしたら、この地は荒れ果てた状態のままだった     ことであろう。これこそ、イザヤの見た主の業だったのである。主はこう言われ     た。(19-20節)もし、『さばくに川を』という例が見たければ、アイダホ州まで     行くとよい。そこには、スネーク川から枝分かれした大きな運河がある。これら     の運河は、この地の多くの川に勝って大きなものである。(43:20-21;41:18,20)     それゆえ、兄弟たちよ。作物を取り入れる収穫のときには、この大荒野に新しい     事をなしてくださったのがイスラエルの主なる神であるということを忘れないよ     うにしていただきたい。主の導きがあったからこそ、この地がさふらんのように     豊かな土地となり、全世界の注目を浴びるような土地となったのである。」     こうした預言を真ん中に挟んだ後で、イザヤはイスラエルの歴史の流れに戻り     (22-28節)、25節ではやがて赦しを与えられることに目を向けさせている。いわ     ば、将来与えられる、さらにすばらしいものへの希望の光である。 20)野の獣はわたしをあがめ、   山犬および、だちょうもわたしをあがめる。   わたしが荒野に水をいだし、   さばくに川を流れさせて、   わたしの選んだ民に飲ませるからだ。 21)この民は、わが誉を述べさせるために、   わたしが自分のために造ったものである。 22)ところがヤコブよ、あなたはわたしを呼ばなかった。   イスラエルよ、あなたはわたしをうとんじた。 23)あなたは燔祭の羊をわたしに持ってこなかった。   また犠牲をもってわたしをあがめなかった。   わたしは供え物の重荷をあなたに負わせなかった。   また乳香をもってあなたを煩わさなかった。   【解説】   燔祭(はんさい) = 神にささげる焼いて行ういけにえ 24)あなたは金を出して、   わたしのために菖蒲を買わず、   犠牲の脂肪を供えて、わたしを飽かせず、   かえって、あなたの罪の重荷をわたしに負わせ、   あなたの不義をもって、わたしを煩わせた。   【解説】   菖蒲(しょうぶ) = アヤメ科アヤメ属の多年草。日当たりのよい乾燥した草地に生            える。高さ30〜60センチ。アヤメ属には、カキツバタ・シャガな            ども含まれる。古来、アヤメと呼んだショウブはサトイモ科   脂肪 = 捧げるいけにえの中でも最も価値がある部分 25)わたしこそ、わたし自身のために、   あなたのとがを消す者である。   わたしは、あなたの罪を心にとめない。 26)あなたは、自分の正しいことを証明するために、   自分のことを述べて、わたしに思い出させよ。   われわれは共に論じよう。 27)あなたの遠い先祖は罪を犯し、   あなたの仲保者らはわたしにそむいた。 28)それゆえ、わたしは聖所の君たちを汚し、   ヤコブを全き滅びにわたし、   イスラエルをののしらしめた。
第44章   【解説】   回復と集合。 01)しかし、わがしもべヤコブよ、   わたしが選んだイスラエルよ、いま聞け。 02)あなたを造り、あなたを胎内に形造り、   あなたを助ける主はこう言われる、   『わがしもべヤコブよ、   わたしが選んだエシュルンよ、恐れるな。   【解説】   エシュルン = ヘブライ語で「高潔な、義しい」の意          ヤコブとその子孫。バプテスマを受け聖約を交わした人も含まれる。   1-2節 「エシュルン」という言葉にはどのような意味があるか     イザヤは44章を始めるに当たり、43章を書き始めるときと同じ心境になっている。     イスラエルに自分たちが主の聖約の民であることを思い起こさせているのである。     ヤコブはイスラエルの父祖であった。主はアブラハムと結んだ聖約を、ヤコブと     新たに結び、その義のゆえにイスラエルと名前を変えるようにお命じになった。     それゆえ、主がこの忠実な僕を「エシュルン」と呼ぶこともふさわしいことであ     る。それが「高潔な」あるいは「義にかなった」という意味のへプライ語だった     からである。 03)わたしは、かわいた地に水を注ぎ、   干からびた地に流れをそそぎ、   わが霊をあなたの子らにそそぎ、   わが恵みをあなたの子孫に与えるからである。 04)こうして、彼らは水の中の草のように、   流れのほとりの柳のように、生え育つ。 05)ある人は「わたしは主のものである」と言い、   ある人はヤコブの名をもって自分を呼び、   またある人は「主のものである」と手にしるして、   イスラエルの名をもって自分を呼ぶ』」。   【解説】   私たちはキリストの名で呼ばれる。(クリスチャン)使徒行伝11:26 06)主、イスラエルの王、イスラエルをあがなう者、   万軍の主はこう言われる、   「わたしは初めであり、わたしは終りである。   わたしのほかに神はない。 07)だれかわたしに等しい者があるか。   その者はそれを示し、またそれを告げ、   わが前に言いつらねよ。   だれが、昔から、きたるべき事を聞かせたか。   その者はやがて成るべき事をわれわれに告げよ。 08)恐れてはならない、またおののいてはならない。   わたしはこの事を昔から、   あなたがたに聞かせなかったか、   また告げなかったか。   あなたがたはわが証人である。   わたしのほかに神があるか。   わたしのほかに岩はない。   わたしはそのあることを知らない」。 09)偶像を造る者は皆むなしく、彼らの喜ぶところのものは、なんの役にも立たない。   その信者は見ることもなく、また知ることもない。ゆえに彼らは恥を受ける。 10)だれが神を造り、またなんの役にも立たない偶像を鋳たか。   【解説】   鋳る(いる) = 溶かした金属を鋳型(いがた)に流し込んで器物をつくること 11)見よ、その仲間は皆恥を受ける。その細工人らは人間にすぎない。彼らが皆集まって   立つとき、恐れて共に恥じる。 12)鉄の細工人はこれを造るのに炭の火をもって細工し、鎚をもってこれを造り、強い腕   をもってこれを鍛える。彼が飢えれば力は衰え、水を飲まなければ疲れはてる。   【解説】   鎚(つち) = 物をたたく工具。頭部はふつう円柱形で、柄が付いている。木         づち・金づちなどがある 13)木の細工人は線を引き、鉛筆でえがき、かんなで削り、コンパスでえがき、それを人   の美しい姿にしたがって人の形に造り、家の中に安置する。   【解説】   コンパス = 製図用具の一。主に円を描くためのもので、適当な角度に開閉         できる 2 本の脚からなる 14)彼は香柏を切り倒し、あるいはかしの木、あるいはかしわの木を選んで、それを林の   木の中で強く育てる。あるいは香柏を植え、雨にそれを育てさせる。 15)こうして人はその一部をとって、たきぎとし、これをもって身を暖め、またこれを燃   やしてパンを焼き、また他の一部を神に造って拝み、刻んだ像に造ってその前にひれ   伏す。 16)その半ばは火に燃やし、その半ばで肉を煮て食べ、あるいは肉をあぶって食べ飽き、   また身を暖めて言う、「ああ、暖まった、熱くなった」と。 17)そしてその余りをもって神を造って偶像とし、その前にひれ伏して拝み、これに祈っ   て、「あなたはわが神だ、わたしを救え」と言う。 18)これらの人は知ることがなく、また悟ることがない。その目はふさがれて見ることが   できず、その心は鈍くなって悟ることができない。 19)その心のうちに思うことをせず、また知識がなく、悟りがないために、「わたしはそ   の半ばを火に燃やし、またその炭火の上でパンを焼き、肉をあぶって食べ、その残り   の木をもって憎むべきものを造るのか。木のはしくれの前にひれ伏すのか」と言う者   もない。   【解説】   (私的)過ちは、 イエス・ キリストの思い出のよすがとして、木で作った十字架を   民衆に崇めさせてきたこと。十字架はキリストではない。十字の形をした木片には何   の意味もない。   9-17節     イザヤは偶像を皮肉っている。     偶像は世界中の宗教にある。     なぜ作るのか。目に見えるものを信仰したいから。     なぜ神様は姿を見せないのか。信仰によって歩むようにするため。     現代にも偶像がある。しかし、人の形をしていない。     あらゆる物質的なもの。富や栄誉など、短絡的に欲望を満たすもの。 20)彼は灰を食い、迷った心に惑わされて、おのれを救うことができず、また「わが右の   手に偽りがあるではないか」と言わない。   【解説】   5-20節 「わが右の手に偽りがあるではないか」     イザヤは木や鉄の細工人たちの無節操な態度を指摘し、大いに皮肉っている。細     工人たちは木や鉄から、薪や様々なものを作るが、それと同時に、同じ材料から     偶像をも作り、しかもその偶像に大いなる力を示し、祈りにこたえてくれるよう     願う。こうした偶像礼拝により、人は「迷った心」を抱き、「惑わされ」(20節)     るようになる。言い換えれば、身と霊の救いの機会を失わせてしまうマイナスの     影響があるということである。この原則が真実であり、霊的な意味での警告であ     ることは明らかではあるが、偶像礼拝をする者たちは「右の手に偽りがある」     (20節)ことに気づかず、また認めようともしない。この悲痛な内容の聖句は、偽     りの生活を送る者たちは重大な結果を招くことになると言っているのである。右     の手は聖約の手である。したがって、この聖句は、浮世の富の追求に汲々とし、     偽りの神々を礼拝し続ける人は、真理に対して盲目の状態になってしまうこと、     また自分が聖約を破っていることにも、その聖約が終わりの日には自分を責める     材料になるということも理解できない、ということである。 21)ヤコブよ、イスラエルよ、これらの事を心にとめよ。   あなたはわがしもべだから。   わたしはあなたを造った、   あなたはわがしもべだ。   イスラエルよ、わたしはあなたを忘れない。 22)わたしはあなたのとがを雲のように吹き払い、   あなたの罪を霧のように消した。   わたしに立ち返れ、   わたしはあなたをあがなったから。 23)天よ、歌え、主がこの事をなされたから。   地の深き所よ、呼ばわれ。   もろもろの山よ、林およびその中のもろもろの木よ、   声を放って歌え。   主はヤコブをあがない、   イスラエルのうちに栄光をあらわされたから。 24)あなたをあがない、   あなたを胎内に造られた主はこう言われる、   「わたしは主である。わたしはよろずの物を造り、   ただわたしだけが天をのべ、地をひらき、   ――だれがわたしと共にいたか―― 25)偽る物のしるしをむなしくし、   占う者を狂わせ、   賢い者をうしろに退けて、その知識を愚かにする。 26)わたしは、わがしもべの言葉を遂げさせ、   わが使の計りごとを成らせ、   エルサレムについては、   『これは民の住む所となる』と言い、   ユダのもろもろの町については、   『ふたたび建てられる、   わたしはその荒れ跡を興そう』と言い、 27)また淵については、『かわけ、わたしは   あなたのもろもろの川を干す』と言い、 28)またクロスについては、『彼はわが牧者、   わが目的をことごとくなし遂げる』と言い、   エルサレムについては、   『ふたたび建てられる』と言い、   神殿については、   『あなたの基がすえられる』と言う」。
第45章   【解説】   イスラエルは集められ、救われる。   救いはキリストによること。 01)わたしはわが受膏者クロスの右の手をとって、   もろもろの国をその前に従わせ、   もろもろの王の腰を解き、   とびらをその前に開かせて、   門を閉じさせない、と言われる主は   その受膏者クロスにこう言われる、   【解説】   受膏者(じゅこうしゃ) = 油注がれた者。権威を与えられた者。   クロスとはだれか   紀元前600年から586年の間にバビロニア人がユダを征服した。そして紀元前540年ご   ろ、ペルシャ帝国がクロス王の指揮のもと、バビロニア人を征服した。クロスはその   後間もなく、ユダヤ人がエルサレムに戻って神殿を再建するのを許可するという宣言   を出した。   (私的)イザヤは紀元前740-680年頃、クロス王は紀元前540-530年頃の人である。2   人の間には、約200年の隔たりがある。44-46章はイザヤが書いていないと思っている   学者が多い。44-46章はクロス王の後の時代に書かれたという考えである。しかし、   歴史学者であるヨセフス(紀元37年-100年頃)の記録には、クロス王がイザヤ書に自   分のことが書いてあるのを見つけたとある。聖書以外の記録にも書かれているので、   クロス王の前に書かれていたことは確かなことであろう。   また48章以降はモルモン書にも引用されているので、少なくともリーハイの家族が   エルサレムを去った、紀元前600年以前には、この部分は存在していたことになる。   44:21-28;45:1-14 ベルシャの王クロスについて言われた主の預言     イザヤが預言をしていた時点では、バビロンはまだ大きな勢力を持つに至ってい     なかった。バビロンがユダを捕らえて連れて行ったのは、これからさらに100年     後のことであった。しかし、当然のことながら、人間的な考えだけで預言者の示     現をうんぬんすることはできない。イザヤは、やがてユダが滅ぼされバビロンの     手に落ちることを、数々の預言として記録した後で、ユダの帰還に関する主の計     画を明らかにしてそれを記録した。ユダはクロスという名の王の下に故国に帰     還するというのである。イザヤがクロスという名を挙げた時点では、クロスはま     だこの世に生まれていなかった。     「数多くの注解者たちは、イザヤが実名を挙げるほどはっきりとクロスのことを     予見できたものかどうか、疑問を差し挟んででいる。そのため一般的には、イザ     ヤ書のこの箇所はバビロンの捕囚の間か、クロスがイスラエルを援助した後で、     つまり、この事件の後で、だれかが書き加えたものと考えられている。ところが、     非常に興味深いことに、ユダヤの歴史家であるヨセフスはこれをイザヤの言葉と     して受け入れ、しかもこの預言者の預言を確認するクロスの書簡まで引用してい     るのである。ヨセフスの記録の一部を次に引用しておこう。     『神はキュロス(クロス)の心を動かし、全アジアの諸民族宛に次の文書をしたた     めさせた。     「キュロス(クロス)王は宣言する。大いなる神は予を人の住む世界の王に任命さ     れたが、予はこの方こそイスラエール(イスラエル)人の民族の拝する神であるこ     とを確信している。この方は預言者たちを介してあらかじめ予の名をあげ、予が     ユーダイア(ユダヤ)の地方にあるエルサレムに神の神殿を建てると告げられたか     らである。」     キュロス(クロス)は、ヘーサイアス(イザヤ)が210年前に残した預言の書を読ん     でこれらのことを知ったが、この預言者は神が彼に秘かに告げたこと、すなわち、     「わたしが多くの偉大な民族の主に任命するキュロス(クロス)は、わが民を彼ら     の土地に帰らせ、わたしの神殿を建てさせる。これはわたしの意志である」と告     げたことをその書物で語っていたのである。     ヘーサイアス(イザヤ)は、これらのことを神殿が破壊される140年前に預言した。     ヘーサイアス(イザヤ)の預言を読んだキュロス(クロス)は、神の力に驚嘆し、そ     こに書かれたことをぜひ自分の力で実現させたいという思いにかられた。そこで     王は、バビュローン(バビロン)に在住するもっとも著名なユダヤ人たちを召集し、     彼らに、祖国への帰還と、エルサレムの都や神の神殿の再建を許可すると伝えた。     「それは」と王は言った。「神がおまえたちの同盟者だからである。予はおまえ     たちの土地の近隣にいる予の知事や総督たちに書簡をおくり、神殿の再建に必要     な金銀や犠牲のための家畜をおまえたちに供出させよう。」』   1-4節 ベルシャの王であったクロスがどのような理由で主の「受膏者」と呼ばれたのか     アルフレッド・マーティンは、イザヤ書に関する著作の中で、この疑問に対して     優れた解答を用意している。「クロスは異邦人の王の中では、神の『受膏者』と     呼ばれた唯一の人物である。この語はヘブライ語のメシヤを翻訳したものである。     したがって、クロスはある意味において、油注がれた者、すなわち主イエス・キ     リストの予型である。予型は誤解されたり、誤って用いられることがよくある。     予型とは神から示された預言的な象徴であって、キリストのことを示す場合に用     いられることが多い。特定の人物や事物が予型とされることがあるにしても、そ     れはその実体が変わるわけではなく、歴史的な存在を否定するものでもない。ク     ロスはペルシャの王であった。そして、ペルシャの宗教がバビロンのひどい偶像     礼拝とは関係が比較的薄かったとはいえ、クロスがまことの神をほんとうに知っ     ていたと断言できる証拠は何もない。それゆえ、クロスがキリストの予型であっ     たとはいっても、彼がすべてにおいて主イエス・キリストのような人物であった     ということではない。考え得る唯一の類似点といえば、クロスが受膏者(油注が     れた者)であって、イスラエルの民をその囚われの状態から解放したという点で     あろう。その意味において、クロスは、民をその罪から救うさらに大いなる油注     がれた者の予型だったのである。」 02)「わたしはあなたの前に行って、   もろもろの山を平らにし、   青銅のとびらをこわし、鉄の貫の木を断ち切り、   【解説】   貫の木(かんのき) = 門の扉が開かないようにする横木。左右の扉の内側につけた             金具に差し通して使う。 03)あなたに、暗い所にある財宝と、   ひそかな所に隠した宝物とを与えて、   わたしは主、あなたの名を呼んだ   イスラエルの神であることをあなたに知らせよう。   【解説】   クロスはバビロンを征服してそこから富を得たか     クロスがアジアを征服したとき、持ち去った「金銀の量は、この記録にあるとお     り、英貨にして1億2,622万4,000ポンドに相当する。」この金額を1981年の為替     相場に基づいて換算すると、クロスがバビロニヤ人から持ち去って行った宝物は、     おおよそ568億円と推定される。 04)わがしもべヤコブのために、   わたしの選んだイスラエルのために、   わたしはあなたの名を呼んだ。   あなたがわたしを知らなくても、   わたしはあなたに名を与えた。 05)わたしは主である。   わたしのほかに神はない、ひとりもない。   あなたがわたしを知らなくても、   わたしはあなたを強くする。 06)これは日の出る方から、また西の方から、   人々がわたしのほかに神のないことを   知るようになるためである。   わたしは主である、わたしのほかに神はない。 07)わたしは光をつくり、また暗きを創造し、   繁栄をつくり、またわざわいを創造する。   わたしは主である、   すべてこれらの事をなす者である。   【解説】   主はわざわいを創造されるか     この節の最初の部分で、イザヤは次のような対照的な聖句を並べている。     「わたしは光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、またわざわいを創造     する。」ここで言われている「繁栄」の反対は、悲しみあるいは苦しみである。     そのためもっと明確に翻訳すれば次のようになろう。「わたしは光をつくり、ま     た暗きを創造し、平安をつくり、またわざわいを創造する。」つまり、主は平安     を作り出す御方ではあるが、罪悪の熟している者たちには裁きを下されるという     ことである。したがって、悪人が悪人によって罰せられることがあっても、それ     は主の指示の下に行われているということになる。 08)天よ、上より水を注げ、   雲は義を降らせよ。   地は開けて救を生じ、また義をも、生えさせよ。   主なるわたしはこれを創造した。   【解説】   天はどのようにして「水を注」ぎ、雲はどのようにして「義を降らせ」ることがで   きるか     ここでイザヤが詩篇85:11に記録されている内容と同じことを言おうとしている     ことは、ほとんど疑いの余地がない。「まことは地からはえ、義は天から見おろ     すでしょう。」イザヤは大地が開けて、救いの言葉が現れる様子を示現で見たが、     これは埋めておかれたニーファイ人の記録が『モルモン書』として世に出てくる     ことを指している。     末日に起こるこの出来事について考えると、人がその造り主に向かって「あなた     は何を造るか」などと言うことが決してできないことがよく分かる。ジョセフ・     スミスに対して陰謀を企てた多くの人々は、単にジョセフ・スミスをののしって     いただけでなく、自分たちの造り主までののしっていたことになる。ジョセフ・     スミスこそ、その造り主の僕だったからである。 09)陶器が陶器師と争うように、   おのれを造った者と争う者はわざわいだ。   粘土は陶器師にむかって   『あなたは何を造るか』と言い、   あるいは『あなたの造った物には手がない』と   言うだろうか。 10)父にむかって   『あなたは、なぜ子をもうけるのか』と言い、   あるいは女にむかって   『あなたは、なぜ産みの苦しみをするのか』と   言う者はわざわいだ」。 11)イスラエルの聖者、   イスラエルを造られた主はこう言われる、   「あなたがたは、わが子らについてわたしに問い、   またわが手のわざについてわたしに命ずるのか。 12)わたしは地を造って、その上に人を創造した。   わたしは手をもって天をのべ、   その万軍を指揮した。   【解説】   主のものとは何か、また人のものとは何か     人はこの世のものについて、「所有」という観点から考えることが多い。「わた     しは大きな家を持っている」と言う人もいれば,「わたしは自分の働きでこの事     業をここまでにしたんだ。だから、これはわたしのものだ」と言う人もいる。も     しこの言葉がほんとうだとしたら、他人に分け与えたり、主の求められる什分の     一を納めたりすることに消極的なのは理解できる。しかし、人はどのようなもの     についても自分のものだと言うことはできないのである。イザヤを通じて主はイ     スラエルに向かい、御自分は地球の造り主であるがゆえに、自分のものであると     言う資格のある者は御自分をおいてほかにはない、と言われた。イザヤ書と似た     表現で、主は末日聖徒に向かい、主が地球を創造したのであって、人は主の財産     の管理人にすぎない、と言われた。それから主は次のような言葉を改めて与えら     れた。「そして、あなたがたの中のだれも、それは自分のものであると言っては     ならない。それは、あるいはその一部といえども、自分のものと言ってはならな     いからである。」     スペンサー・W・キンボール長老はこの点に関して幾つかの鋭い質問を浴びせて     いる。     「あなたは什分の一を納めるとき、自分が気前がいいと感じますか。こんなにた     くさん納めているんだと得意になりますか。子供が家の掃除をしたり、親の手伝     いをしたりするとき、その子は人が良すぎるのでしょうか。借金を払ったり、銀     行のローンを払ったりするとき、その人のことを気前がいいと言うでしょうか。     什分の一を納める人は気前のいい人ではありません。ただ正直な人なのです。     (12節)     多分あなたがそうした態度をとるのは、ほんとうのところが分かっていないから     だと思います。     友達からお金を盗んでいただけませんか。近所の人の車からタイヤを取ってくだ     さい。まったく返す気もないままに、未亡人の保険金を借りてくださいませんか。     銀行強盗をしてください。びっくりしましたか。では、あなたにすばらしい恵み     を授けてくださったあなたの神、あなたの主のものを盗んでいただけませんか。     あなたは会社のお金を着服して、借金の返済や車のお金、それに家族の衣服や食     べ物、家を買うお金に充てますか。     子供を大学にやったり伝道に出したりするのに、他人のお金を盗みますか。他人     のお金を使って親戚や友達を助けますか。中には標準を間違えている人がいます。     あなたは建築資金やワード予算を払うために、什分の一のお金をそれらに回しま     すか。あなたは人のお金でだれか貧しい人を助けますか。主のお金で。」     以上の質問に正直に答えられれば、現代の聖徒とて古代のイスラエルが選んだ愚     かな道とそれほど違わない危険な道を歩んでいることに気がつくこともあろう。 13)わたしは義をもってクロスを起した。   わたしは彼のすべての道をまっすぐにしよう。   彼はわが町を建て、   わが捕囚を価のためでなく、   また報いのためでもなく解き放つ」と   万軍の主は言われる。 14)主はこう言われる、   「エジプトの富と、エチオピヤの商品と、   たけの高いセバびととは   あなたに来て、あなたのものとなり、あなたに従い、   彼らは鎖につながれて来て、あなたの前にひれ伏し、   あなたに願って言う、   『神はただあなたと共にいまし、   このほかに神はなく、ひとりもない』」。 15)イスラエルの神、救主よ、   まことに、あなたは   ご自分を隠しておられる神である。 16)偶像を造る者は皆恥を負い、はずかしめを受け、   ともに、あわてふためいて退く。 17)しかし、イスラエルは主に救われて、   とこしえの救を得る。   あなたがたは世々かぎりなく、   恥を負わず、はずかしめを受けない。 18)天を創造された主、すなわち神であって   また地をも造り成し、これを堅くし、   いたずらにこれを創造されず、   これを人のすみかに造られた主はこう言われる、   「わたしは主である、わたしのほかに神はない。 19)わたしは隠れたところ、地の暗い所で語らず、   ヤコブの子孫に   『わたしを尋ねるのはむだだ』と言わなかった。   主なるわたしは正しい事を語り、   まっすぐな事を告げる。 20)もろもろの国からのがれてきた者よ、   集まってきて、共に近寄れ。   木像をにない、   救うことのできない神に祈る者は無知である。 21)あなたがたの言い分を持ってきて述べよ。   また共に相談せよ。   この事をだれがいにしえから示したか。   だれが昔から告げたか。   わたし、すなわち主ではなかったか。   わたしのほかに神はない。   わたしは義なる神、救主であって、   わたしのほかに神はない。 22)地の果なるもろもろの人よ、   わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。   わたしは神であって、ほかに神はないからだ。 23)わたしは自分をさして誓った、   わたしの口から出た正しい言葉は帰ることがない、   『すべてのひざはわが前にかがみ、   すべての舌は誓いをたてる』。   【解説】   「すべてのひざはかがみ、すべての舌は誓いをたてる」という聖句にはどのような意   味があるか     ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のように言っている。     「聖典の中で何度も言われていることで、しばしば誤解されていると思われるこ     とに注意を喚起したい。それは『すべてのひざはわが前にかがみ、すべての舌は     誓いをたてる』という言葉である(23節)。ひざまずいて舌が告白すればそれは罪     が赦され罪から解放されたことを示すしるしであって、その人は昇栄を受ける用     意ができていると考える人がわたしたちの中に何と多いことだろうか。あなたが     もしそう思っているとすれば、それは大間違いである。そのような意味はこの聖     句にまったく含まれていない。     『すべてのひざがかがみ、すべての舌が告白する』時が来るが、人類の大部分は     永遠に星の栄えの王国に行く。次の聖句を読んでみよう。『将来、すべての人が     主の救いを見る時が来る。あらゆる国民、部族、国語の民、民族が目と目を合わ     せて見て、神の裁きが公正であることを神の御前で認める時が来る。』     人が進んで、自分たちに対する裁きが正しいと告白し、ひざをかがめ心を一つに     して理解する時期が来るということはすばらしいことである。」イザヤがこのよ     うに書いた目的は、義人と悪人の別を問わず、世界のすべての人々に、イエス・     キリストがイスラエルの神であられること、また、いずれすべての人がその事実     を認めざるを得なくなる日が来るということを確信させるためであった。その日     にキリストに従うか、あるいはそれ以前にすでにキリストの弟子になっているか     にかかわらず、すべての人がイエス・キリストを神の御子と認める日が来るので     ある。 24)人はわたしについて言う、   『正義と力とは主にのみある』と。   人々は主にきたり、   主にむかって怒る者は皆恥を受ける。 25)しかしイスラエルの子孫は皆   主によって勝ち誇ることができる」。   【解説】   20-25節はメシヤに関連したもの。   15-25節 イスラエルの神は主であり、救い主イエス・キリストである     これはイザヤの最も基本的な証の一つである。大部分のキリスト教会では、『旧     約聖書』の神とはこの世にお生まれになる前のイエスのことであるという事実を     忘れてしまっている。世のキリスト教会がよく口にすることは、『旧約聖書』の     神学と『新約聖書』の神学は著しく異なっているということである。あるいはま     た、人々が文明化し知識を深めるにつれて、神の概念は少しずつ進化してきたと     言う人もいる。盲目な者たちは見ようともしない。というのも、エホバこそキリ     ストであると教えているのは、現代の啓示だけではないからである。『旧約聖書』     を書いた人たちも、『新約聖書』を書いた人たちも、ともに繰り返してそのこと     を証している。そして、イザヤほど度々、力強く預言している人はほかにいない     のである。     この第45章には、『旧約聖書』の神がどのような御方であるかがはっきりと書か     れている。次に記す様々な証について深く考えてみよう。     1.神はメシヤであって、世の救い主である(15節)。     2.神はとこしえの救いによってイスラエルを救われる(17節)。     3.神は創造主である(18節)。     4.神は公正であって、人を救う力をお持ちである(21節)。     5.神をおいてほかに人を救い得る名は存在しない(21-22節)。     6.神の言葉は真理であり、義である(23節)。     7.すべてのひざはかがみ、すべての舌はイエスがキリストであると告白する       (23節)。     8.神はイスラエルのすべての子孫の仲保者である(24節)。
第46章   【解説】   偶像対真の神。この対決は古代にも近代にも見られる。   【インスティテュート解説】   偶像は偶像でしかないが、キリストは神である     この章の詩的な繰り返しは、親しみやすいものであると同時に新鮮なものでもあ     ろう。これは東洋では大切なことがどのように教えられるかを示す好例である。     同じ主題が何度も何度も、ほんの少しずつ言葉遣いを変えて繰り返される。この     ようにして、聞く者はだんだんと教える者の求める結論へと間違いなく導かれて     いくのである。イザヤはこうした修辞法の達人であった。イザヤは、主がいかに     イスラエルに深い関心を寄せておられるかを様々な言葉で示し、最後に「わたし     は神である、わたしのほかに神はない」(9節)という結論のみを記している。 01)ベルは伏し、ネボはかがみ、   彼らの像は獣と家畜との上にある。   あなたがたが持ち歩いたものは荷となり、   疲れた獣の重荷となった。   【解説】   ベルとネボはバビロニア人の偶像神である。 02)彼らはかがみ、彼らは共に伏し、   重荷となった者を救うことができず、   かえって、自分は捕われて行く。 03)「ヤコブの家よ、   イスラエルの家の残ったすべての者よ、   生れ出た時から、わたしに負われ、   胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、   わたしに聞け。 04)わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、   白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。   わたしは造ったゆえ、必ず負い、   持ち運び、かつ救う。   【解説】   3-4節 苦しみの最中にあるとき神様の愛がわからなくなるときがある。       でも、神様はいつもそばにいる。 05)あなたがたは、わたしをだれにたぐい、   だれと等しくし、だれにくらべ、   かつなぞらえようとするのか。 06)彼らは袋からこがねを注ぎ出し、   はかりをもって、しろがねをはかり、   金細工人を雇って、それを神に造らせ、   これにひれ伏して拝む。 07)彼らはこれをもたげて肩に載せ、   持って行って、その所に置き、そこに立たせる。   これはその所から動くことができない。   人がこれに呼ばわっても答えることができない。   また彼をその悩みから救うことができない。 08)あなたがたはこの事をおぼえ、よく考えよ。   そむける者よ、この事を心にとめよ、 09)いにしえよりこのかたの事をおぼえよ。   わたしは神である、わたしのほかに神はない。   わたしは神である、わたしと等しい者はない。 10)わたしは終りの事を初めから告げ、   まだなされない事を昔から告げて言う、   『わたしの計りごとは必ず成り、   わが目的をことごとくなし遂げる』と。   【解説】   8-10節 神様の計画は崩れることはない。 11)わたしは東から猛禽を招き、   遠い国からわが計りごとを行う人を招く。   わたしはこの事を語ったゆえ、必ずこさせる。   わたしはこの事をはかったゆえ、必ず行う。   【解説】   猛禽(もうきん) = 肉食性の大型の鳥類、例:ワシ、タカ   「東から(招く)猛禽」とは何か     この比喩はクロスのことを指している。クロスは預言にあるとおり、バビロンに     対し、速やかに、しかも決定的な打撃を与えるという役割を担っていた。この聖     句は、この部分に置く聖句としてはふさわしいものであり、また第47章の序文の     役割も果たしている。第47章ではバビロンの崩壊が再び示される。 12)心をかたくなにして、救に遠い者よ、   わたしに聞け。 13)わたしはわが救を近づかせるゆえ、   その来ることは遠くない。   わが救はおそくない。   わたしは救をシオンに与え、   わが栄光をイスラエルに与える」。
第47章   【解説】   今日の世界の象徴であるバビロン。   【インスティテュート解説】   霊のバビロンはエホバを装う邪悪なものである     この章には、『旧約聖書』のほかの聖句と同様に、サタンが絶え間なく続けた偽     りによって、どれほどその目的を達成してきたかということが書かれている。初     めの時からルシフェルは次のように心のうちに言っていたのである。「わたしは     天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、     雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう。」(14:13-14)シオンが主イ     エス・キリストから霊的に生まれてきたものであるのと同様に、バビロンもルシ     フェルから生まれた悪の子である。このルシフェルは、後に堕落してサタンとな     り、また「あらゆる偽りの父」となった。下の表では、この世のバビロンがいか     にして人の子らを支配しようとしてきたかが説明されている。 01)処女なるバビロンの娘よ、   下って、ちりの中にすわれ。   カルデヤびとの娘よ、   王座のない地にすわれ。   あなたはもはや、やさしく、たおやかな女と   となえられることはない。   【解説】   この予言はクロスが紀元前539年にバビロンを征服したことによって成就された。 02)石うすをとって粉をひけ、   顔おおいを取り去り、うちぎを脱ぎ、   すねをあらわして川を渡れ。   【解説】   うちぎ = 日常の着物。ふだん着、下着 1-2節 奴隷のようになる。 03)あなたの裸はあらわれ、   あなたの恥は見られる。   わたしはあだを報いて、何人をも助けない。 04)われわれをあがなう者は   その名を万軍の主といい、   イスラエルの聖者である。 05)カルデヤびとの娘よ、   黙してすわれ、また暗い所にはいれ。   あなたはもはや、もろもろの国の女王と   となえられることはない。   【解説】   カルデヤびとの娘 = バビロンの民   もろもろの国の女王 = 諸国のうちの最も偉大な者   カルデヤのバビロン     「もろもろの国の女王」と呼ばれた。   霊的な罪悪     この世が美しい女性に引かれるように、人の子も見せかけの輝かしさや霊のバビ     ロンの力に引かれる。 06)わたしはわが民を憤り、   わが嗣業を汚して、これをあなたの手に渡した。   あなたはこれに、あわれみを施さず、   年老いた者の上に、はなはだ重いくびきを負わせた。   【解説】   憤る = 怒る   嗣業(しぎょう) = 引き継ぐ財産、次世代に渡す所有地等   くびき = 重荷   カルデヤのバビロン     聖約の民であるイスラエルにまったく憐れみを施さず、むしろ大きな苦悩をもた     らした。   霊的なバビロン     バビロンの悪事は、安楽で一見魅力的に思えるが、それを行う者を奴隷とするの     である。 07)あなたは言った、   「わたしは、とこしえに女王となる」と。   そして、あなたはこれらの事を心にとめず、   またその終りを思わなかった。   【解説】   心にとめる = 考える   終わりを思う = 将来について考える   カルデヤのバビロン     不滅であると大言壮語しているが、最後に自分を滅ぼす裁きについてはまったく     考えていない。   霊的なバビロン     霊のバビロンは盲目のまま、世界に大荒廃を起こそうとしているが、自分の行動     が自己破壊的な性質を持っていることに気づいていない。 08)楽しみにふけり、安らかにおり、   心のうちに「ただわたしだけで、   わたしのほかにだれもなく、   わたしは寡婦となることはない、   また子を失うことはない」と言う者よ、   今この事を聞け。   【解説】   ふける = 引かれる、誘惑される   寡婦(かふ) = 夫に死に別れて再婚しないでいる女性。やもめ。未亡人   カルデヤのバビロン     快楽は、人生の夢を実現するときに得られる単なる副産物ではなく、人生の目的     そのものであると宣言した。   霊的なバビロン     世のバビロンが勝利を収めるのは、人が肉欲をその崇拝の対照とするときである。     バビロンは偽りの神となる。この忌まわしい教えは「イスラエルの聖者である神     の力を否定し、神は存在しないと人々に言う。また、地獄はないと言う。」     こうして悪魔は「決して逃げられない恐ろしい鎖で縛ってしまう」のである。 09)これらの二つの事は一日のうちに、   またたくまにあなたに臨む。   すなわち子を失い、寡婦となる事は   たといあなたが多くの魔術を行い、   魔法の大いなる力をもってしても   ことごとくあなたに臨む。   【解説】   魔術、魔法 = 不思議な術を使うこと、偽りの霊と交わること、しるしや星の動きな     どを基に予告することなど   カルデヤのバビロン     バビロンはその邪悪な力によって、人を意のままに従わせてしまう。   霊的なバビロン     世のバビロンは、邪悪な聖約と行いとを通じて、ひそかに利得を約束し、暗黒の     君への服従を誓わせようとしている。 10)あなたは自分の悪に寄り頼んで言う、   「わたしを見る者はない」と。   あなたの知恵と、あなたの知識とは   あなたを惑わした。   あなたは心のうちに言った、   「ただわたしだけで、わたしのほかにだれもない」と。   【解説】   カルデヤのバビロン     この「もろもろの国の女王」が強大になったため、その国の支配者たちは傲慢に     も、自分が知識と知恵の中心にいると考えるようになり、神ではなく王に対して     ひざまずくよう人民に強制した。   霊的なバビロン     世のバビロンはすべての知識を掌握しているふりをし、人々にその力を認めるよ     う命じる。人が一度このおぞましい教えを受け入れると、ほかの人たちが知らな     いことまで知っていると思い始めるようになり、自ら神になろうとし、自分には     生命与奪の権限さえあると考える。「おお、悪しき者のあの狡滑な策謀よ、おお、     人の虚栄と意志の弱さと愚かしさよ。人は学識があると自分は賢いと思い、神の     勧告に聞き従わない。そして自分独りで分かると思って神の勧告を無視するので、     彼らの知恵は愚かであって役に立たない。そして彼らは滅びるのである。」 11)しかし、わざわいが、あなたに臨む、   あなたは、それをあがなうことができない。   なやみが、あなたを襲う、   あなたは、それをつぐなうことができない。   滅びが、にわかにあなたに臨む、   あなたは、それについて何も知らない。   【解説】   10-11節 外国に対して、滅びが来ることを言っている。ユダにも言っている。 12)あなたが若い時から勤め行ったあなたの魔法と、   多くの魔術とをもって立ちむかってみよ、   あるいは成功するかもしれない、   あるいは敵を恐れさせるかもしれない。   【解説】   魔術、魔法 = 不思議な術を使うこと、偽りの霊と交わること、しるしや星の動きな     どを基に予告することなど 13)あなたは多くの計りごとによってうみ疲れた。か   の天を分かつ者、星を見る者、   新月によって、あなたに臨む事を告げる者を   立ちあがらせて、あなたを救わせてみよ。 14)見よ、彼らはわらのようになって、   火に焼き滅ぼされ、   自分の身を炎の勢いから、救い出すことができない。   その火は身を暖める炭火ではない、   またその前にすわるべき火でもない。 15)あなたが勤めて行ったものと、   あなたの若い時からあなたと売り買いした者とは、   ついにこのようになる。   彼らはめいめい自分の方向にさすらいゆき、   ひとりもあなたを救う者はない。
第48章   【解説】   イスラエルの散乱と集合。   主はイスラエルに御自分の目的を示される。   苦難の炉の中で選ばれたイスラエルは、バビロンから出る。   1ニーファイ19:22-24は、ニーファイがイザヤ書を引用する前に語った言葉。   48章はニーファイの家族に当てはまると言っている。   7節の「今造られた」と3節の「世の初めから告げ知らせてきた」は   矛盾するようであるが、啓示はいつも与え続けられることを言っている。   8節では、民は背いても、9節では、すぐには絶たれないと言っている。   それは、アブラハムの約束があるから。   14-21節では、救いのために救い主を送られると語られている。   引用:1ニーファイ20。   関連:1ニーファイ22,2ニーファイ6。   参照 「イザヤ書 英語版比較」   【セミナリー解説】   戻って来るようにとの招き   48章は、主と聖約を交わしていながら聖約や教会員としての資格を軽く扱う人々につ   いて、主がどのように扱われるかを理解する助けになる。読みながら、離れ去ってい   る人々を気遣う主のお気持ちについて、この章が教えていることを考えてほしい。ま   た、あなた自身が信仰に忠実であり続けるために、そして主への忠実さを保とうと必   死で努力している人々を助けるために、これらの教えをどのように用いることができ   るかについても考えてほしい。 01)ヤコブの家よ、これを聞け。   あなたがたはイスラエルの名をもってとなえられ、   ユダの腰から出、   主の名によって誓い、   イスラエルの神をとなえるけれども、   真実をもってせず、正義をもってしない。   【解説】   腰から出る = その人の子供、子孫として生まれる   誓う = 約束する   この節はニーファイ第1書20章では次のようになっている。     イスラエルという名で呼ばれ、     ユダの水から、すなわちバプテスマの水から出て、     主の名によって誓い、     イスラエルの神のことを口にしながら真実をもって誓わず、     義をもっても誓わないヤコブの家よ、     耳を傾けてこれを聞け。   1-11節 「ヤコブの家よ、これを聞け」     イザヤ48章は、『モルモン言』に引用されるイザヤ書の最初の章であって、『モ     ルモン書』では1ニーファイ20章に当たる。「モルモン書」のどの節を取ってみ     ても、欽定訳のイザヤ書の言葉遣いとは異なっており、その中の多くは重要なも     のである。『モルモン書』の内容は、欽定訳よりさらに正確であると言うことが     できる。なぜならニーファイがイザヤの時代から数えて100年余りしか経過して     いないころの人物であり、欽定訳の翻訳者たちが使った写本に比べてもっと完全     な原典を所有していたことが十分考えられるからである。『聖書』と『モルモン     書』の、1-2,6-7,11,16-17および22の各節を注意深く比較検討し、重要な違いを     確認すること。   1-8節 ユダの背教     1節と2節には、イスラエルが神の示された道から背教したことが書かれている。     主に選ばれたこの民は、「バプテスマの水から出て」きながら(1ニーファイ20:1)     「主にとどまることをしない。」(1ニーファイ20:2)言い換えれば、背教したの     である。このため、主は御自分の全知全能を示そうと決意された。主は「成った     事を、いにしえから告げた」と言われた。事が起こる前にそれについて話してお     いたということである。そして「にわかにこの事を行い」、実際に行われた(3節)。     主の言葉によれば、主がこのようなことをされたのは、背教者たちに「わが偶像     がこれをしたのだ」(5節)とか、「見よ、わたしはこれを知っていた」、つまり     「そんなことは起きる前から分かっていた」などと言わせないようにするためで     あった。また、主は怒りをおそくすると約束されたが、その栄光を偽りの神々に     与えることや、その御名が汚されるままになっていることは、決然として拒まれ     た(11節,1ニーファイ20:11)。以上のことから、主が将来のことを人に知らせる     理由が一部明らかになろう。これこそ、主がまことに神であられることを示す確     固たる証拠である(物言えぬ偶像にはこうした超人的なことは不可能だからであ     る。   (私的)ニーファイ第1書20章では、「ユダの腰から出」が「ユダの水から、すな   わちバプテスマの水から出て」になっている。   旧約聖書には「バプテスマ」という言葉が出ないので、「バプテスマ」は新約聖書の   時代から始まったと思われている。しかし、モルモン書のイザヤ書の引用部分には、   このように、バプテスマの記載がある。末日聖徒は、モルモン書によって、旧約聖書   の時代から、さらに、モーセ書によって、アダムの時代からバプテスマがあったこと   を知っている。末日聖徒の聖典以外では、紀元前200年頃に作られた死海写本にも、   バプテスマの記載があり、旧約聖書の時代のバプテスマは、ジョセフ・スミスの捏造   ではなく、史実であった事が証明されている。   (死海写本については第49章の説明を参照のこと。) 02)彼らはみずから聖なる都のものととなえ、   イスラエルの神に寄り頼む。   その名は万軍の主という。   【解説】   この節はニーファイ第1書20章では次のようになっている。     しかし彼らは、自ら聖なる都の者であると言いながら、     万軍の主であるイスラエルの神にとどまることをしない。     まことに、万軍の主とは主の名である。     とどまる = 頼る 03)「わたしはさきに成った事を、いにしえから告げた。   わたしは口から出して彼らに知らせた。   わたしは、にわかにこの事を行い、そして成った。   【解説】   さきに成った事 = 過去に起きた事柄   この節はニーファイ第1書20章では次のようになっている。     『見よ、わたしは、先にあったことを世の初めから告げ知らせてきた。     それらはわたしの口から出、わたしはそれらを示した。     わたしはにわかにそれらを示したのである。 04)わたしはあなたが、かたくなで、その首は鉄の筋、   その額は青銅であることを知るゆえに、   【解説】   筋 = 筋肉と骨をつなぎ合わせてうまく動くようにするもの、腱   この節はニーファイ第1書20章では次のようになっている。     わたしがそれを行ったのは、     あなたが強情で、あなたの首が鉄の筋であり、     あなたの額が真鍮であることを知っていたからである。 05)いにしえから、かの事をあなたに告げ、   その成らないさきに、これをあなたに聞かせた。   そうでなければ、あなたは言うだろう、   『わが偶像がこれをしたのだ、   わが刻んだ像と、鋳た像がこれを命じたのだ』と。   【解説】   この節はニーファイ第1書20章では次のようになっている。     そこでわたしは、まさに世の初めからあなたに告げ知らせてきた。     それが起こるに先立って、それらをあなたに示した。     それらのことを示したのは、     「わたしの偶像がそれらのことをした。     わたしの彫像とわたしの鋳像がそれらのことを命じた」と     あなたが言うことのないようにするためである。   鋳る(いる) = 溶かした金属を鋳型(いがた)に流し込んで器物をつくること   主が将来の出来事を知らせるのは、偶像ではなく、主が人々の行く末を導いておられ   るのを知らせるためである。 06)あなたはすでに聞いた、   すべてこれが成ったことを見よ。   あなたがたはこれを宣べ伝えないのか。   わたしは今から新しい事、   あなたがまだ知らない隠れた事を   あなたに聞かせよう。   【解説】   この節はニーファイ第1書20章では次のようになっている。     あなたはこのことをすべて見聞きしてきた。     それでもあなたは、それらのことを告げ知らせずにおくだろうか。     これからわたしが示す新しいこと、     隠されていたことさえも、     告げ知らせずにおくだろうか。     それらはあなたの知らなかったことである。 07)これらの事はいま創造されたので、   いにしえからあったのではない。   この日以前には、あなたはこれを聞かなかった。   そうでなければ、あなたは言うだろう、   『見よ、わたしはこれを知っていた』と。   【解説】   いにしえ = ずっと昔   この節はニーファイ第1書20章では次のようになっている。     それらのことは、今造られたのであって、     初めからあったのではない。     あなたがそれらのことを聞く前から、     それらのことは告げ知らされていた。     それは、「見よ、わたしはそれらを知っている」と     あなたが言うことのないようにするためである。 08)あなたはこれを聞くこともなく、知ることもなく、   あなたの耳は、いにしえから開かれなかった。   わたしはあなたが全く不信実で、   生れながら反逆者ととなえられたことを知っていたからである。   【解説】   不信実である = 裏切る、約束を破る、あざむく   この節はニーファイ第1書20章では次のようになっている。     まことに、あなたは聞かなかった。まことに、あなたは知らなかった。     まことに、あのときからあなたの耳は開かれなかった。     それはあなたがひどく不真実で、     また生まれながらにして背く者と呼ばれたことを知っていたからである。 09)わが名のために、わたしは怒りをおそくする。   わが誉のために、わたしはこれをおさえて、   あなたを断ち滅ぼすことをしない。   【解説】   おそくする = 延期する、遅らせる   この節はニーファイ第1書20章では次のようになっている。     にもかかわらず、わたしはわたしの名のために怒りを延ばし、     わたしの誉れのために自らを制して、     あなたを絶つことをしない。 10)見よ、わたしはあなたを練った。   しかし銀のようにではなくて、   苦しみの炉をもってあなたを試みた。   【解説】   練る = 高温で熱して金属から不純物を取り除く   この節はニーファイ第1書20章では次のようになっている。     見よ、わたしはあなたを精錬し、     苦難の炉の中であなたを選んだからである。 11)わたしは自分のために、自分のためにこれを行う。   どうしてわが名を汚させることができよう。   わたしはわが栄光をほかの者に与えることをしない。   【解説】   この節はニーファイ第1書20章では次のようになっている。     わたし自身のために、まことにわたし自身のためにわたしはこのことを行う。     それは、わたしはわたしの名が汚されるのを許さず、     またわたしの栄光をほかの者に与えようとは思わないからである。 12)ヤコブよ、わたしの召したイスラエルよ、   わたしに聞け。   わたしはそれだ、わたしは初めであり、   わたしはまた終りである。   【解説】   この節はニーファイ第1書20章では次のようになっている。     おお、ヤコブよ、わたしが召したイスラエルよ、     わたしに聞き従え。     わたしは神である。わたしは初めであり、     また終わりである。 13)わが手は地の基をすえ、   わが右の手は天をのべた。   わたしが呼ぶと、彼らはもろともに立つ。   【解説】   のべる = 手で測る(創造する、の意)   この節はニーファイ第1書20章では次のようになっている。     わたしの手は地の基を据え、     わたしの右の手は天を測った。     わたしが天地を呼ぶと、天地はともに立つ。』 14)あなたがたは皆集まって聞け。   彼らのうち、だれがこれらの事を告げたか。   主の愛せられる彼は   主のみこころをバビロンに行い、   その腕はカルデヤびとの上に臨む。   【解説】   彼ら = 偶像、偽りの神々   この節はニーファイ第1書20章では次のようになっている。     あなたがたすべての者よ、皆集まって聞け。     彼らの中でこれらのことを彼らに宣べたのはだれか。     その人を主は愛された。     まことに、その人は、彼らを通して告げ知らせてきた自らの言葉を成就し、     その望むままをバビロンに行い、     その腕をカルデヤ人のうえに下す。 15)語ったのは、ただわたしであって、   わたしは彼を召した。   わたしは彼をこさせた。   彼はその道に栄える。   【解説】   この節はニーファイ第1書20章では次のようになっている。     主はまた、『主であるわたし、まことにわたしが語った。     まことに、わたしは告げ知らせるためにその人を召し、     その人を連れて来た。     彼は自らの道を栄えさせるであろう』と言われる。 16)あなたがたはわたしに近寄って、これを聞け。   わたしは初めから、ひそかに語らなかった。   それが成った時から、わたしはそこにいたのだ」。   いま主なる神は、わたしとその霊とをつかわされた。   【解説】   この節はニーファイ第1書20章では次のようになっている。     わたしに近づけ。     わたしはひそかに語ったことはない。     初めから、それが告げ知らされたときからわたしは語ってきた。     そして、主なる神と主の御霊がわたしを遣わされた。 17)あなたのあがない主、イスラエルの聖者、主はこう言われる、   「わたしはあなたの神、主である。   わたしは、あなたの利益のために、あなたを教え、   あなたを導いて、その行くべき道に行かせる。   【解説】   この節はニーファイ第1書20章では次のようになっている。     あなたの贖い主、イスラエルの聖者なる主はこのように言われる。     『わたしがその人を遣わした。     あなたの益となるように教え、     あなたをその行くべき道に導く、     主なるあなたの神がこれを行った。 18)どうか、あなたはわたしの戒めに聞き従うように。   そうすれば、あなたの平安は川のように、   あなたの義は海の波のようになり、   【解説】   この節はニーファイ第1書20章では次のようになっている。     おお、あなたはわたしの戒めに聞き従ったらよかったものを。     そうすればあなたの平安は川のようで、     またあなたの義は海の波のようであったであろう。 19)あなたのすえは砂のように、   あなたの子孫は砂粒のようになって、   その名はわが前から断たれることなく、   滅ぼされることはない」。   【解説】   この節はニーファイ第1書20章では次のようになっている。     またあなたの子孫は砂のようであったであろう。     あなたの腹から生まれる子は砂の粒のように多くなり、     その子の名はわたしの前から絶たれることも、     滅ぼされることもなかったであろう。』 20)あなたがたはバビロンから出、   カルデヤからのがれよ。   喜びの声をもってこれをのべ聞かせ、   地の果にまで語り伝え、   「主はそのしもべヤコブをあがなわれた」と言え。   【解説】   この節はニーファイ第1書20章では次のようになっている。     バビロンから出よ。     カルデヤから逃れよ。     あなたがたは歌声をもって宣べ、これを伝え、     地の果てに至るまで告げ知らせよ。     すなわち、『主はその僕ヤコブを贖われた』と言え。 21)主が彼らを導いて、さばくを通らせられたとき、   彼らは、かわいたことがなかった。   主は彼らのために岩から水を流れさせ、   また岩を裂かれると、水がほとばしり出た。   【解説】   裂く = 分ける   この節はニーファイ第1書20章では次のようになっている。     彼らは渇くことがなかった。     主が彼らを導いて砂漠を行かせ、     彼らのために岩から水をわき出させられた。     岩を割られると水がほとばしり出たのである。 22)主は言われた、   「悪い者には平安がない」と。   【解説】   この節はニーファイ第1書20章では次のようになっている。     すべてこのことや、これよりもさらに偉大なことを行ってきたにもかかわらず、     『悪人には平安がない』と主は言われる。」
第49章   【解説】   イスラエルの散乱と集合。   この章に記された預言の多くは、救い主の業と、救い主の僕たちが果たす業の双方に   当てはまる。   メシヤは異邦人の光となり、捕らえられている者を解放される。   終わりの時に、イスラエルは力をもって集められる。王たちが彼らの養父となる。   49章と1ニーファイ21章には2か所大きな違いがある。1節と8節。   聖書の方は全世界のイスラエルの散らされた民についての記述が失われている。   末日聖徒の使命が述べられている。   引用:1ニーファイ21。   参照 「イザヤ書 英語版比較」   【セミナリー解説】   散らされたイスラエルへのメッセージ   1ニーファイ19:23でニーファイは、自分がイザヤの言葉を兄たちに読んで聞かせたの   は、「主なる贖い主を信じるようさらに十分に勧めるため」であったと言っている。   それからニーファイは、真鍮の版に書いてあったイザヤ48-49章を自分の記録である   「小さい版」に記した。(1ニーファイ20-21)。1ニーファイ22章でニーファイは、イ   ザヤ48-49章の意味を説明している。イザヤ49章および50-53章を読みながら、イエス   ・キリストの救いの力に対する信仰を強めてくれる教えを見つけてほしい。   イザヤ49章の基本的なテーマはイスラエルの集合、すなわち贖いである。わたしたち   はしばしばイスラエルの民が集合することについて話すが、集合とは一人一人が個人   的に主と主の教会に集められることを指す。昔のイスラエルが敵から逃れて集合した   ことと、わたしたちが罪と不義という束縛から逃れて主のもとへ集合することを、類   似していると考えることができる。   【インスティテュート解説】   海沿いの国々に散らされるイスラエル     モンテ・S・ナイマンは次のように言っている。「第49章は、イザヤ書全体を通     じて最も重要な章の一つである。というのは、この章はイスラエルの家に関する     末日聖徒の役割とアメリカの地の運命とについてはっきりと預言しているからで     ある。ニーファイはこの章を、散らされたイスラエルの一部がアメリカ大陸へ渡     ることの預言として解釈した。また、弟のヤコブは、この章の言葉はエルサレム     にいるユダヤ人にも、また異邦人にも当てはまると考えた。このように49章はき     わめて重要な箇所である。したがって教会員は皆熱心に研究する必要がある。」 01)海沿いの国々よ、わたしに聞け。   遠いところのもろもろの民よ、耳を傾けよ。   主はわたしを生れ出た時から召し、   母の胎を出た時からわが名を語り告げられた。   【解説】   この節はニーファイ第1書21章では次のようになっている。     再び言う。聴け、おお、あなたがたイスラエルの家よ、     わたしの民の牧者たちの悪事のために折り取られ、     追い出されたあなたがたすべての者よ、     まことに、わたしの民であって、折り取られ、     広く散らされたあなたがたすべての者よ、     おお、イスラエルの家よ。     おお、もろもろの島よ、わたしに耳を傾けよ。     あなたがた遠くの民よ、聴け。     わたしが胎内にいたときから主はわたしを召し、     わたしが母の腹の中にいるときから主はわたしの名を口にされた。   1-4節 イスラエルは主の僕であり、イスラエルにおいて主は栄光を現わされる。   イスラエルの民は海の島々に散らされている。   彼らは彼らの働きに予任されていた。   1-3節 「あなたはわかしもべ、わが栄光をあらわすべきイスラエルである」     49章は、全部が1ニーファイ21章に引用されているが、欽定訳では1節の半分が失     われている。『聖書』にないのは、イスラエルの散乱の直接の原因が宗教指導者     たちの罪悪にあると述べている部分である。耳を傾けよと勧めを受けている海沿     いの国々の人々とは、イスラエルの家から散らされていった部族を指す。ニーフ     ァイは、その時代までにすでにイスラエルの「全部族の大半が海の島々にここか     しこに散らされて」いる(1ニーファイ22:4)と書いている。さらにまた、この部     分で語っている人物、つまりイ1-2節で「わたし」と言っている人物が、イスラ     エル自身を指していたことは明らかである。その口が「鋭利なつるぎ」(2節)の     ようであったのは、イスラエルがほかの国々に伝える神の言葉を持っていたから     である。多くの箇所で、神の言葉は鋭い刃を持つ剣にたとえられている。どの方     向に動かしても、それに当たったものが切れてしまうという意味では、両刃の剣     である。     しかし、古代のイスラエルは期待されているほどに、神の言葉を広めはしなかっ     た。主の命令を受けて、あらゆる国々の人々に福音とその神権の権能とによって     祝福をもたらすべしという聖約の下にいるにもかかわらず、イスラエルの大半は     主の教えに従った生活をすることさえ拒んだのである。それゆえ、2節と3節は末     日のイスラエルについて言っているのかもしれない。なぜそのような可能性が考     えられるのかという点について、ナイマンが説明しているが、これは重要な解説     である。     「主はイスラエルを『み手の陰に』隠されたが、その理由は『教義と聖約』の中     で明らかにされている。その中で主は、この最後の神権時代の神権者たちは『肉     による正当な相続人であり、神のうちにキリストとともに世から隠されてきたか     らである』(教義と聖約86:8-9)と宣言しておられる。神権者は『肉による正当な     相続人』であると書かれているが、これは主がアブラハムと交わされた聖約のこ     とを指している。すなわち、地上のあらゆる国々は、教え導く職と神権とを携え     た文字どおりのアブラハムの子孫を通じて祝福を受けるという聖約である(アブ     ラハム2:9-11)。『教義と聖約』でも末日のイスラエルとは『アブラハムの子孫』     (教義と聖約103:17)のことを指すと規定している。世は散らされたイスラエルが     どこにいるのか知らなかったが、主は御存じであり、その守りの手の中に隠して     おられるのである。     主の箙(えびら)の中に隠された『とぎすました矢』という語句は、直接ジョセフ     ・スミスのことを指していると考えられる。末日の『えり抜きの聖見者』として、     ジョセフ・スミスは特別な意味で主の僕となることになっていた。預言者ジヨセ     フが自分自身について語った次の言葉は、この点に関して興味深いものである。     『わたしは高い山から転がり出た大きな粗い石のような存在ではないかと思う。     わたしが唯一とぎ澄まされるときといえば、それは石の角が何かほかのものと接     触することによって削り取られていくときである。また、一途な信仰に反対する     急進的な勢力、偽善売教に走る祭司、偽善的な法律家、偽善的な医師、偽りを書     く編集者、贈賄に応じる裁判官や陪審員、暴徒たちに支援され偽証する行政部局     の幹部たち、冒涜する者、そしてみだらで堕落し切った男女。こうした忌まわし     いもので、この角が、またあの角が、打たれ削られていくときである。このよう     にして、わたしは全能者の箙の中で角が取れ、とぎ澄まされた矢となる。この御     方がわたしにあらゆるものを一つ残らず統治する力を授けてくださるのであり、     そのときには偽りを言う者たちの避け所は倒され、隠れ家は滅ぼされる。さらに     また、わたしの接しているこうした磨かれた石は十分痛めつけられることになる。』     矢は、より正しくより早く飛ぶようにとぎ澄まされる。そしてとぎ澄まされた矢     は普通、いちばん大切なものを射るために取っておかれる。あらゆるものが一つ     に集められる最後の神権時代は、主にとって最も大切な矢を『射る』ときである。     そこで、この末日の業のために『とぎすました矢』を取っておかれた。ジョセフ     ・スミスはこの世代の人々に神の言葉を伝えるために召されたのである。その事     実からもまた、2節に書かれている鋭利な剣のたとえが思い浮かぶ。」 02)主はわが口を鋭利なつるぎとなし、   わたしをみ手の陰にかくし、   とぎすました矢となして、   箙にわたしを隠された。   【解説】   箙(えびら) = 矢を入れておく容器。帯や肩に付けて運ぶ。   この節はニーファイ第1書21章では次のようになっている。     主は、わたしの口を鋭い剣のようにして、     御手の陰にわたしを隠し、     わたしを研ぎ澄ました矢として、     その矢筒の中にわたしを隠された。   主の民のメッセージは神の言葉なので、鋭い剣のように切れる。     罪のある者は真理が胸の底まで刺し貫くため、真理を残酷だと思う。   主は彼らを隠された。     世の人々は散乱したイスラエルがどこにいるのかを知らないが、主はその場所を     ご存じで、彼らを隠しておられる。   主は彼らを訓練し、主の僕を守られる。     とぎすました矢は、ジョセフ・スミスを指す。彼は特別な主の僕である。     彼は様々な試練を通して、とぎすました矢になった。 03)また、わたしに言われた、   「あなたはわがしもべ、   わが栄光をあらわすべきイスラエルである」と。   【解説】   この節はニーファイ第1書21章では次のようになっている。     そしてわたしに言われた。     『おお、イスラエルよ、あなたはわたしの僕である。     わたしはあなたによって栄光を得よう。』 04)しかし、わたしは言った、   「わたしはいたずらに働き、   益なく、むなしく力を費した。   しかもなお、まことにわが正しきは主と共にあり、   わが報いはわが神と共にある」と。   【解説】   いたずらに = 意味もなく   むなしい = むだな   この節はニーファイ第1書21章では次のようになっている。     そのとき、わたしは言った。     『わたしはいたずらに働き、     益なくむなしく力を費やした。     まことに、わたしへの裁きは主とともにあり、     わたしの働きは神とともにある。』   イスラエルの以前の働きは無駄に終わったが、彼らは今や神権の回復を受けて、主の   業を行う。   4-12節 主は選ばれた民イスラエルのことを忘れておられたのか     完全な回復の到来までには長い時間が経過していた。それまでの長い年月の間に、     約束の地を追われたイスラエルは、自分たちは孤立し、主から見捨てられたと感     じていたに違いない。4節から12節までは、そうした孤独感の描写である。4節に     は、絶望するまでには至っていないが、やや落胆した人の心の状態が書かれてい     る。「わたしはむなしく力を費した。しかもなお、まことにわが正しきは主とと     もにある。」(4節)     ニーファイは、拒まれたユダヤ人の状態について、「すべての国民の中であざけ     られ、笑いぐさとなり、憎まれる」(1ニーファイ19:14)と書いている。7節には     その状態が書かれている。すなわち、人々は主の聖約の民を侮り、忌み嫌うので     ある。しかし、イスラエルにはまだ望みがある。「わたしイスラエルは主の前に     尊ばれ、わが神はわが力となられた。」(5節)ヤコブはやがて起こされ、回復さ     れ、立ち上がって「もろもろの国びとの光」となり、「救を地の果にまでいたら     せる」(6節)光となる。「恵みの時に」神はイスラエルの叫びを聞き、「あなた     (1ニーファイ21:8に書かれている「わたしの僕」)を与えて契約の民と」する     (8節)。これは、ジョセフ・スミスの呼びかけを機に始まった。それ以来、この     呼びかけはほかの人々にも及び、「霊的に捕えられた人に『出よ』と言い、霊的     な暗きにおる者に『あらわれよ』と言う。」(9節)この人々は福音の実を供され、     「飢えることがなく、かわくこともない。」そして、「遠くから北から西から」     (10,12節)福音の網の中へ集められるのである。     ニーファイは以上の聖句について1ニーファイ22章で解き明かしをしている。ニ     ーファイの兄弟たちがイザヤの言葉は霊的なこととして解釈すべきなのか、それ     とも現世にかかわることとして解釈すべきなのかと尋ねたとき、ニーファイはど     ちらにも関係することとして解釈すべきであると答えた(1ニーファイ22:1-3)。     そして、イスラエルは異邦人によって散らされ、また集められると説明した。     1ニーファイ22:8-12は、イザヤ49章に関するきわめて明快な解き明かしである。 05)ヤコブをおのれに帰らせ、   イスラエルをおのれのもとに集めるために、   わたしを腹の中からつくって、   そのしもべとされた主は言われる。   (わたしは主の前に尊ばれ、   わが神はわが力となられた)   【解説】   この節はニーファイ第1書21章では次のようになっている。     わたしが胎内にいたときから、     ヤコブを再び主に連れ戻すためにわたしを僕とされた主は言われる。     『イスラエルがたとえ集められなくても、     わたしは主の目にかなって栄光を得、     わたしの神はわたしの力となる。』   5-12節 イスラエルの使命は主の力によって主の民を集めることである。 06)主は言われる、   「あなたがわがしもべとなって、   ヤコブのもろもろの部族をおこし、   イスラエルのうちの残った者を帰らせることは、   いとも軽い事である。   わたしはあなたを、もろもろの国びとの光となして、   わが救を地の果にまでいたらせよう」と。   【解説】   残った者 = 命を助けられた者   もろもろの国びと = イスラエルの家に属していない人々   この節はニーファイ第1書21章では次のようになっている。     主は言われた。     『あなたをわたしの僕として     ヤコブのもろもろの部族を起こさせ、     イスラエルの守られてきた者たちを回復させるのは、     小さなことである。     わたしはまたあなたを異邦人の光とし、     地の果てまでわたしの救いとしよう。』   イスラエルと末日聖徒の使命を定義している。   エフライムは3つの事柄を成し遂げる。   ・ヤコブのもろもろの部族を興す。     この十二部族は失われた部族、ユダヤ人、レーマン人よりなる。     彼らは回復の時に主に対して実を結んでいなかった者である。     (モルモン書ヤコブ5:38-39)   ・イスラエルの残りの者を回復する。     この人々はイスラエルの血統を引いているが、万国の民の中に散らされ、自分が     誰であるか分からなくなっている。(モルモン書ヤコブ5:52-549)   ・異邦人の光となる。     エフライムは万国の民の中からイスラエルの血統に属する者を集めると同時に、     異邦人に対して、イスラエルとの養子縁組の機会を与える。このようにして、     アブラハムの祝福はすべての国民に行き渡り、救いは地の果てまで至る。   1-6節は、末日に私達が果たすべき責任について書かれている。     神権者に異邦人の光となり、イスラエルを救う者となるよう命じられている。 07)イスラエルのあがない主、   イスラエルの聖者なる主は、   人に侮られる者、民に忌みきらわれる者、   つかさたちのしもべにむかってこう言われる、   「もろもろの王は見て、立ちあがり、   もろもろの君は立って、拝する。   これは真実なる主、イスラエルの聖者が、   あなたを選ばれたゆえである」。   【解説】   侮る = 軽蔑する   忌み嫌う = ひどく嫌う   この節はニーファイ第1書21章では次のようになっている。     イスラエルの贖い主、     イスラエルの聖者なる主は、     人に侮られる者、もろもろの国民に忌み嫌われる者、     治める者の僕に向かって、     『主が真実であるためにもろもろの王は見て立ち上がり、     もろもろの王子も拝する』と言われる。   諸々の王は主を見、諸々の君は主を礼拝する。 08)主はこう言われる、   「わたしは恵みの時に、あなたに答え、   救の日にあなたを助けた。   わたしはあなたを守り、   あなたを与えて民の契約とし、   国を興し、荒れすたれた地を嗣業として継がせる。   【解説】   荒れすたれる = だれもいなくなる   嗣業(しぎょう) = 引き継ぐ財産、次世代に渡す所有地等   この節はニーファイ第1書21章では次のようになっている。     主はこう言われる。     『おお、海の島々よ、     わたしは心にかなったときにあなたの言葉を聞き、     救いの日にあなたを助けた。     わたしはあなたを守り、     民への聖約として、     わたしの僕をあなたに与えて地を築かせ、     荒れ果てた受け継ぎの地をあなたに継がせよう。   主はイスラエルに預言者を与えて彼らを契約の民にする。   彼らは荒れすたれた地を受け継ぐ。 09)わたしは捕えられた人に『出よ』と言い、   暗きにおる者に『あらわれよ』と言う。   彼らは道すがら食べることができ、   すべての裸の山にも牧草を得る。   【解説】   この節はニーファイ第1書21章では次のようになっている。     あなたは捕らえられている者たちに「出よ」と言い、     暗闇に座している者たちに「現れよ」と言うことができる。     彼らは道すがら食物を食べ、     その牧場はすべての高い所にある。   9-11節 捕らえられた人は主によって導かれ、道が彼らに開ける。   9-12節 1ニーファイ22:1-12に解き明かしがある。     主が万国の民の目の前で、その能力を現わし、イスラエルの家の者たちに聖約を     果たして、その福音を伝えられる。イスラエルの民は異邦人の束縛から連れ出さ     れ、約束の地に集められ、そこで彼らは自分たちがイスラエル人であることを悟     る。彼らは人知れぬ暗黒の状態から連れ出され、真理を教えられ、救い主を知る     ようになる。この解放する力は人間には理解のできない、神の不思議な力である。 10)彼らは飢えることがなく、かわくこともない。   また熱い風も、太陽も彼らを撃つことはない。   彼らをあわれむ者が彼らを導き、   泉のほとりに彼らを導かれるからだ。   【解説】   この節はニーファイ第1書21章では次のようになっている。     彼らは飢え渇くことがなく、     熱も太陽も彼らを悩ますことはない。     彼らに憐れみの心を持つ者が彼らを導き、     泉のほとりに彼らを連れて行くからである。 11)わたしは、わがもろもろの山を道とし、   わが大路を高くする。   【解説】   この節はニーファイ第1書21章では次のようになっている。     わたしはあらゆる山を道とし、     わたしの大路を高くする。 12)見よ、人々は遠くから来る。   見よ、人々は北から西から、   またスエネの地から来る」。   【解説】   この節はニーファイ第1書21章では次のようになっている。     そして、おお、イスラエルの家よ、     見よ、これらの者は遠くから来る。     見よ、これらの者は北から、西から、     またシニムの地から来る。』   イスラエルの家の者は全地から集まる。 13)天よ、歌え、地よ、喜べ。   もろもろの山よ、声を放って歌え。   主はその民を慰め、   その苦しむ者をあわれまれるからだ。   【解説】   この節はニーファイ第1書21章では次のようになっている。     おお、天よ、歌え。おお、地よ、喜べ。     東にいる者たちの歩みが定まるからである。     おお、もろもろの山よ、声を放って歌え。     彼らはもはや打たれることがないからである。     主は御自分の民を慰め、     また苦しむ者に憐れみをかけられるからである。   【解説】   13-17節 神がその聖約や約束をお忘れになることはない     末日の回復の業を通して、神は父祖アブラハムと交わした聖約をお忘れになって     いないことを示してくださるであろう。     ニーファイが引用したイザヤ書と『旧約聖書』のイザヤ書の1節には、重大な相     違がある(1ニーファイ21:1)。ここでは、シオンは回復され、再び打たれること     はないということがはっきりと約束されている。しかし、たとえそうであったと     しても、見捨てられた状態のシオンは、自分のことを主から「捨て」られた者だ     と考えることであろう(14節)。しかし、主はシオンを見捨ててはいないことを示     してくださるはずである。母親は、自分の子が食べ物を欲しがって泣き叫んでい     るとき、その子を忘れることができるだろうか。主はその問いかけに力強く答え     ておられる。「たとえ女たちが忘れようとも、おお、イスラエルの家よ、わたし     はあなたを忘れない。」(1ニーファイ21:15)主の約束はことごとく成就する。主     は聖約の民のことを常に心にかけておられる。それはちょうど絶えず目に留まる     ように手のひらに、あるいは壁にイスラエルという名前が彫り刻まれてあるよう     なものなのである(16節)。このため、イスラエルの民(つまり子孫)は「あなたを     滅ぼす者たちに速やかに立ち向かい、あなたを荒らした者たちは出て行く。」(1     ニーファイ21:17)ニーファイの記録からは、古代の神の民は敵によって「荒らさ     れる」が、末日には形勢が一変することが読み取れる。この真理についてウイル     フォード・ウッドラフ大管長は次のように言っている。     「この主のシオンの名前は、全能の神の手のうえに、美しくそして壮麗に彫り刻     まれている。しかも、それは絶えず御顔の前にある。神の徒はすでに定められて     おり、いかなる人もそれを妨げることはできない。     今の時代ほど、預言者、使徒、霊感、啓示、神の力、そして聖なる神権、王国の     鍵といったものが必要とされている神権時代は、この地上に存在しなかった。人     の子の中にいる神の友や義人たちに、約束や預言を信じる信仰が今日ほど必要と     されている時代はいまだかつてなかった。地上に生を受けたどの世代の人々を取     ってみても、末日にこの地上に生を受けている人々ほどの偉大な業を行っている     世代はどこにもない。だからこそ、この教会と王国は創設のときから今日に至る     まで発展を続けているのである。もちろん、悪人に手引きされた人々が教会に対     して絶えず行ってきた様々な反対や圧迫、争いもある。しかし、もしこの時代が     時満ちる神権時代、すなわち神がこの地上に二度と倒されることのない神の王国     を設立すると宣言された時代でないとしたら、人々は、これまでの神権時代とま     ったく同様に、この時代の神の王国もシオンも打ち崩すことができたであろう。     しかし、いまやシオンが勝利を得る時がやって来た。しかも全能の主は、シオン     に歯向かう武器はことごとく打ち壊されると天において定められたのである。」 14)しかしシオンは言った、   「主はわたしを捨て、主はわたしを忘れられた」と。   【解説】   この節はニーファイ第1書21章では次のようになっている。     しかし見よ、シオンは言った。     『主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れられた。』     しかし、主はそうされなかったことを示される。 15)「女がその乳のみ子を忘れて、   その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。   たとい彼らが忘れるようなことがあっても、   わたしは、あなたを忘れることはない。   【解説】   乳のみ子 = 乳を飲む時期の幼子   この節はニーファイ第1書21章では次のようになっている。     『女が乳飲み子を忘れ、     自分の産んだ子を哀れまないことがあろうか。     まことに、たとえ女たちが忘れようとも、     おお、イスラエルの家よ、わたしはあなたを忘れない。 16)見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。   あなたの石がきは常にわが前にある。   【解説】   この節はニーファイ第1書21章では次のようになっている。     見よ、わたしはあなたを、わたしの手のひらに彫り刻んだ。     あなたの石垣はいつもわたしの前にある。   たなごころ = 手のひら   (私的)キリストが十字架に付けられたときの手のひらの釘跡を表している。 17)あなたを建てる者は、あなたをこわす者を追い越し、   あなたを荒した者は、あなたから出て行く。   【解説】   荒らす = 滅ぼす   この節はニーファイ第1書21章では次のようになっている。     あなたの子孫は、あなたを滅ぼす者たちに速やかに立ち向かい、     あなたを荒らした者たちは、あなたから出て行く。 18)あなたの目をあげて見まわせ。   彼らは皆集まって、あなたのもとに来る。   主は言われる、わたしは生きている、   あなたは彼らを皆、飾りとして身につけ、   花嫁の帯のようにこれを結ぶ。   【解説】   この節はニーファイ第1書21章では次のようになっている。     あなたの目を上げて辺りを見回せ。     これらの者は、皆集まってあなたのもとに来る。』     主はまた言われる。『わたしが生きているように確かに、     あなたは彼らを皆飾り物のように身にまとい、     花嫁のように彼らを帯に結ぶ。   18-21節 イスラエルの末日の集合は速やかにかつ確実に行われる     18-21節には、イスラエルの末日の集合について書かれている。花嫁が婚礼の日     のために自分の身を飾るのとまったく同様に、末日のシオンも、祝福を求めてシ     オンへやって来る人々を霊的な意味で飾り立てる。キリストを花婿にたとえ、そ     の聖約の民を花嫁にたとえる表現法は、聖典の随所に見られる。また、花嫁は結     婚の準備のために最も華やかな衣装を着るが、同様に、イスラエルも将来の「婚     宴」の準備に義の衣で自分の身を飾るのである。     シオンにも古いエルサレムにも非常に多くの人々が来ることになるため、集まっ     てきた人々は、その場所が「わたしには狭すぎる、わたしのために住むべき所を     得させよ」(20節)と不平を言う。この混み合った状況は、現代の世界で霊的な意     味でも地理的な意味でも集合が行われている所では必ず見受けられる現象である。     改宗者が増えているため、教会では礼拝堂や指導者の需要にこたえるために躍起     になっている。現代のイスラエルでも数多くの移住者を受け入れたため、国士は     文字どおり「住む人の多いために狭く」(19節)なっている。以上のような理由で、     21節に書かれている解答も、実に現実味を帯びてくる。「だれがわたしのために     これらの者を産んだのか。これらの者はどこから来たのか。」言い換えれば、一     体全体この人々(イスラエル人)はどこからやって来たのか、ということである。 19)あなたの荒れ、かつすたれた所、こわされた地は、   住む人の多いために狭くなり、   あなたを、のみつくした者は、はるかに離れ去る。   【解説】   荒れすたれる = だれもいなくなる   狭い = 小さい   のみつくす = 打ち破る   この節はニーファイ第1書21章では次のようになっている。     あなたの荒れ衰えた所、あなたの荒廃した所、そしてあなたの滅びの地は、     今に人が住むには狭すぎるようになり、     あなたをのみ尽くした者たちは遠く離れ去る。 20)あなたが子を失った後に生れた子らは、   なおあなたの耳に言う、   『この所はわたしには狭すぎる、   わたしのために住むべき所を得させよ』と。   【解説】   この節はニーファイ第1書21章では次のようになっている。     あなたが最初の子供たちを失った後に授かる子供たちは、     再びあなたの耳もとで言う。     「この場所はわたしには狭すぎます。     わたしが住めるように場所を与えてください。」 21)その時あなたは心のうちに言う、   『だれがわたしのためにこれらの者を産んだのか。   わたしは子を失って、子をもたない。   わたしは捕われ、かつ追いやられた。   だれがこれらの者を育てたのか。   見よ、わたしはひとり残された。   これらの者はどこから来たのか』と」。   【解説】   この節はニーファイ第1書21章では次のようになっている。     そのとき、あなたは心の中で言う。     「だれがこれらの者を産んだのか。     わたしは自分の子供たちを失い、子供を授からず、     囚われの身となってあちらこちらをさまよい歩いたのに。     だれがこれらの者たちを育てたのか。     見よ、わたしは独り残されていたのに、     これらの者たちはどこにいたのか。」』   シオンのこと 22)主なる神はこう言われる、   「見よ、わたしは手をもろもろの国にむかってあげ、   旗をもろもろの民にむかって立てる。   彼らはそのふところにあなたの子らを携え、   その肩にあなたの娘たちを載せて来る。   【解説】   この節はニーファイ第1書21章では次のようになっている。     主なる神はこう言われる。     『見よ、わたしは異邦人に向かって手を挙げ、     もろもろの民に向かってわたしの旗を掲げよう。     すると彼らはあなたの息子たちを腕に抱き、     あなたの娘たちを肩に乗せて来る。   22-26節 異邦人はどのようにしてイスラエルの養父や養母になるのか     22-26節には、神の約束が成就する日と、それがどのように成就するかというこ     とについて書かれている。「どのように」という点については、22節と23節で明     らかである。神は福音の「旗」つまり新しくかつ永遠の聖約を高く掲げ、「彼ら     異邦人たちはそのふところにあなたイスラエルの家の子らを携え、その肩にあな     たの娘たちを載せて来る。もろもろの王は、あなたの養父となり、その王妃たち     は、あなたの乳母となる。」(22-23節)この預言は、ニーファイが言っているよ     うに、霊的な意味でもまた現実的な意味でも成就している(1ニーファイ22:3)。     預言の成就する「日」は今である。世界中の改宗者たちが教会に加入し、また世     界中に出て行って、イスラエルの家に教えを伝え、主のもとに連れ戻そうと奮闘     している。スペンサー・W・キンボール大管長は、教会の現代の伝道の成果を見     て、特にレーマン人に関してこの聖句は部分的に成就した、と考えている。     「今ここに到来したレーマン人の時代はあらゆる機会をもたらしている。多くの     人々はアンデス山脈の険しい丘陵地を耕し、ラマや馬、ろばでその産物を市場に     出す。彼らには人に自由をもたらす福音が必要である。多くの人が恵まれない仕     事に従事し、土と汗にまみれながら細々と生きている。彼らこそ、人を引きつけ     ずにおかない福音の真理を聞く必要がある。何百万という人々が搾取され、訓練     の機会を与えられることもなく、居留地に縛りつけられ、持てる力を発揮できな     い状態にある。彼らには、人を啓発する福音が必要である。福音は彼らの足かせ     を外し、希望をわき立たせ、自分たちの可能性についてさらによく理解させ、向     上の機会をもたらす新しい世界へ門戸を開いてくれる。この囚われの状態に終止     符が打たれ、誤った考え、文盲、迷信、恐れから解放される時がやがて来る。     さらに輝きに満ちた時代の夜明けである。散乱は終わり、集合が行われている。     願わくはわたしたちのうえに主の祝福があって、わたしたちがレーマン人の兄弟     たちに対して養父、養母となり(23節;1ニーファイ21:23)、彼らに与えられた偉     大な約束の成就を早めることができるよう、祈るものである。」     しかし、この預言はほかの面もある。第一次世界大戦の終了とともに、英国がパ     レスチナの統治を委任され、直ちに世界中に散っているユダヤ人の集合の援助に     着手した。ほかにも、合衆国などの異邦人の国々も一致してこの事業を後押しし     た。     ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は、イスラエルの国の設立に当たっ     て英国の果たした役割について、次のように言っている。     「テイトゥスによって破壊されて以来1917年に至るまで、エルサレムは異邦人に     よって踏みにじられてきた。英国軍を指揮していたアレンビー将軍がパレスチナ     を攻め落として以来、この国はトルコ帝国の専制と圧政から解放された。そして     平和が宣言された後、英国はハーバード・サミュエル博士というユダヤ人を派遣     し、この地の統治者とした。これは長い空白期間の後にユダヤ人がパレスチナを     治めた最初であった。     わたしたちは今日、目前に奇跡が起こっているのを見ている。わたしたちが第一     次大戦と呼んでいる戦争が終わると、英国の首相はユダヤ人に対してパレスチナ     に集合し、そこにユダヤ人の郷里を、言い換えれば国家を持つことができること     を宣言した。ユダヤ人は大挙して集合し始めた。今世紀初頭のパレスチナの状況     は、悲惨なものであった。住民は木製のすきを使い、水車による灌概を利用し、     もっぱら井戸や小川に依存していた。そして昔と同じように皮袋に水を入れて運     んだ。衛生状態は哀れなものであった。     英国政府は委任統治権を取得すると、この姿を一変させた。御存じのように、パ     レスチナの委任統治権は英国に与えられた。英国やほかの諸国は何百万ポンドも     の費用をかけて、この地を旧態に復させようと努めた。ガリラヤの海は今日一大     貯水池となっている。そして数多くの河川からあふれ出る水をこの湖に流れ込ま     せている。     灌概のために運河が幾つも築かれ、ヨルダン川も自然の河床から、何本もの川筋     に姿を変え、また元の川の両側にも運河が掘られることになった。これらの施設     は700万エーカーの土地を灌概している。この灌概は上記の改善がなければ不可     能であった。川の所々に水力発電所が設けられた。」     国際連合では、現在イスラエルを敵視しているソビエトやほかの国々も含めて、     パレスチナを分割して、約2,000年ぶりにその地にユダヤ人の国家を創ることを     議決した。こうして、異邦人たちもこの預言の成就に参加したのである。さらに、     これから将来にわたって成就していくものもあろう。     24節に書かれている「獲物」というのは、散乱した状態のイスラエルの家のこと     である。イスラエルは、幾世紀にもわたって約束された故国へ帰ることもできず、     当然受けられるはずの福音の祝福を受けることもできずにいた。その意味におい     て、確かに「獲物」であり、「捕虜」なのである。現在でも異邦人の国の中には、     在留ユダヤ人の故国への帰還も国内での福音の伝道も許さない国さえある。しか     し、こうした事態には必ず変化が起こる。「勇士がかすめた捕虜も取り返され、     暴君が奪った獲物も救い出される」(25節)からである。ヤコブはこの節を『モル     モン書』に引用する中で、次の重要な言葉を付け加えた。「力の神が御自分の聖     約の民を救い出されるからである。」(2ニーファイ6:17)そして「すべての者は、     主なるわたしがあなたの救い主、あなたの贖い主、ヤコブの力ある者であること     を知るようになる。」(18節)まず、主は預言され、次にそれを実行に移される。     「力ある者」だからこそ、そのようなことができるのである。ニーファイは、こ     の偉大な業を遂行される主の妨げをしようとする者は皆滅ぼされると、はっきり     指摘している。「主の民を陥れようとして掘った穴に自分が落ちてしまう。」     (1ニーファイ22:14) 23)もろもろの王は、あなたの養父となり、   その王妃たちは、あなたの乳母となり、   彼らはその顔を地につけて、あなたにひれ伏し、   あなたの足のちりをなめる。   こうして、あなたはわたしが主であることを知る。   わたしを待ち望む者は恥をこうむることがない」。   【解説】   この節はニーファイ第1書21章では次のようになっている。     王たちはあなたの養父となり、     王妃たちはあなたの養母となる。     彼らは顔を地に向けてあなたに身をかがめ、     あなたの足のちりをなめる。     こうしてあなたは、わたしが主であることを知る。     わたしを待ち望む者は恥を受けないからである。   22-23節   1ニーファイ15:20     イザヤはユダヤ人、すなわちイスラエルの家の回復について語り、また、彼ら     が回復されてからはもう乱されることもなければ、再び散らされることもない、     と語っている。   ユダヤ人は英国や米国の助けを得て、パレスチナの地にイスラエル共和国を建てた。     1946年 英国はパレスチナの委任統治権を国連に渡した。     1947年11月 国連は聖地をアラブとユダヤの両国に分割することを可決。     1948年5月15日 イスラエル共和国建国   死海写本     1947年春、死海北西岸のクムラン丘陵地帯の洞窟で、羊飼いの少年たちが     土器の壷に入った羊皮紙の巻物を発見した。それは紀元前200年頃のイザヤ     書の写本であった。それまでの最古の写本は、紀元930年のアレッポ写本で     あったので、世界最古の写本ということになる。秋になって、ヘブライ大学が     これを手に入れた。その日は偶然にも、ユダヤ国家再建の決議が国際連合総会     でなされた日であった。イスラエルの家の回復について語ったイザヤ書の最古     の写本が、ユダヤ国家再建が決まった日にユダヤ人の手に入ったのである。   この予言は部分的にしか成就されていない。ユダヤ人がキリストを信じるようにな   ると記されているが、その数はまだ少ない。   この予言にはレーマン人を初めとする散らされた他のイスラエルの人々も含まれる。   (私的)もろもろの王たち王妃たちは国連、英国、米国を表す。 24)勇士が奪った獲物をどうして取り返すことができようか。   暴君がかすめた捕虜をどうして救い出すことができようか。   【解説】   この節はニーファイ第1書21章では次のようになっている。     勇士から獲物をどうして取り返せようか。     また正当な捕虜をどうして救い出せようか。』 25)しかし主はこう言われる、   「勇士がかすめた捕虜も取り返され、   暴君が奪った獲物も救い出される。   わたしはあなたと争う者と争い、   あなたの子らを救うからである。   【解説】   この節はニーファイ第1書21章では次のようになっている。     しかし、主はこのように言われる。     『勇士の捕らえた捕虜さえ取り返され、     荒々しい者に奪われたものさえ奪い返される。     わたしはあなたと争う者と争い、     またあなたの子供たちを救うからである。 26)わたしはあなたをしえたげる者にその肉を食わせ、   その血を新しい酒のように飲ませて酔わせる。   こうして、すべての人はわたしが主であって、   あなたの救主、またあなたのあがない主、   ヤコブの全能者であることを知るようになる」。   【解説】   この節はニーファイ第1書21章では次のようになっている。     わたしは、あなたを虐げる者に彼ら自身の肉を食わせる。     彼らは、甘いぶどう酒に酔うように自分の血に酔う。     こうしてすべての者は、主なるわたしがあなたの救い主、あなたの贖い主、     ヤコブの力ある者であることを知るようになる。』」   【解説】   『モルモン書」からイザヤ書に付け加えられる聖句     ナイマンはイザヤ書に関する研究書の中で、イザヤ書には重要な聖句を付け加え     る必要があると指摘した。「ニーファイはニーファイ第一書22章でイザヤ49章へ     の注釈を加えるに当たり、明らかにイザヤと分かる『預言者』の言葉から3節に     わたって引用、あるいは書き変えを行っている。現在の『聖書』にはこの部分は     見当たらないが、イザヤ49章と50章の中にぴったりと当てはめることのできる内     容のものである。実際に1ニーファイ22:15-17を49章の最後の節と50章の1節の間     に置いてみるとよく分かる。」
第50章   【解説】   散乱、集合、回復、再臨。   イザヤ、メシヤについて述べる。メシヤは博学な者の舌を持っておられる。   また、打つ者に御自分の背を向けられる。メシヤは辱められることはない。   引用:2ニーファイ7。   関連:2ニーファイ9:1-3;10章。   参照 「イザヤ書 英語版比較」   【セミナリー解説】   50章では、49章で採り上げた概念が続いている。   【インスティテュート解説】   「あなたがたの母の離縁状は、どこにあるのか」     主が離縁と奴隷の売買という表現法を用いられたのは、確かに主は過去の背教の     ためにイスラエルを世界の国々に散らされたが、それでもなお、かつて交わした     聖約を取り消されたわけではないということを教えるためであった。50章では、     48章と49章で始められた、終わりの日にはイスラエルは再び集められて立ち上が     るという主題が依然として続けられている。     モーセの律法の下では、妻を離縁した男はその妻に離縁状を書いて渡さなければ     ならないことになっていた。そのようにして初めて、その女は再婚が可能だった     のである。同様に、古代の律法の下では、人はその債主に対する義務を果たすた     めに、自分自身や子供たちを奴隷として売り渡すことも可能であった。しかし、     主には債主はおらず、その「妻」であるイスラエルと離縁することもなさらなか     った。むしろ、イスラエルが自分からその罪によって主を離れ、悪い債主に負債     を作ってしまったのである。「あなたがたは、その不義のために売られ、あなた     がたの母は、あなたがたのとがのために出されたのだ。」(1節)     しかし、主はイスラエルをその債主から贖う力も、主に対する様々な罪を赦す力     も持っておられる。主は必ずそうすると確約しておられるのである。主は、過去     の出来事について語りかける調子で、御自分がイエス・キリストとして地上に来     る前に、もう一度イスラエルの贖いに努める、と告げておられる。この表現は救     い主としての使命を予見させる言葉である。イエスは罪を贖う御方であると同時     に、悪の道から解き放ってくださる御方でもある。にもかかわらず、主が地上に     おいでになったときに、喜んで迎える人はいなかったし、悔い改めの呼びかけに     こたえる人もいなかった(2節)。主は「打つ者に、背をまかせ」(主は鞭打たれ)、     「恥とつばきとを避けるために」(6節)その顔を隠すことをされなかった。その     ように拒まれ、ひどい扱いをされてもなお主はイスラエルを離縁することも、奴     隷として売ることもなさらなかった。聖約は廃棄されておらず、イスラエルはや     がてエホバの妻としての地位を回復し、自由で貞淑な妻となるはずである。     前述の表現法は、散らされたイスラエルのことを指している可能性もある。とい     うのは、イスラエルもやはり、幾世紀にもわたって打たれ、つばきをかけられ、     鞭打たれてきたからである。それでも、イスラエルはまだ「主なる神はわたしを     助けられる。わたしは決してはずかしめられないことを知る」(7節)と言うと書     かれている。イスラエルは主に無限の信頼と信仰とを寄せているように思われる。     「わたしを義とする者が近くおられる。だれがわたしと争うだろうか。」(8節)     この節の「者」は、対応聖句である2ニーファイ7:8と同様に明らかに「主」のこ     とを指している。「見よ、主なる神はわたしを助けられる。だれがわたしを罪に     定めるだろうか。」(9節)それからイスラエルは、自分たちの過去の経験から何     かを学び取っているかのように、こう尋ねる。「あなたがたのうち暗い中を歩い     て光を得ない者はだれか。」(10節)人は自分にのみ信頼を置き、神のもとにとど     まったり神を信頼したりしない。むしろ、「自分の火の炎の中を歩み、また自分     の燃やした、たいまつの中を歩む。」(11節)神の啓示を拒み、己の理性にのみ信     頼を置く者は「苦しみのうちに伏し倒れる」(11節)ことになろう。 01)主はこう言われる、   「わたしがあなたがたの母を去らせたその離縁状は、どこにあるか。   わたしはどの債主にあなたがたを売りわたしたか。   見よ、あなたがたは、その不義のために売られ、   あなたがたの母は、あなたがたのとがのために出されたのだ。   【解説】   離縁状 = 離婚の正式な書類   債主 = お金を貸す人   この節はニーファイ第2書7章では次のようになっている。     「まことに、主はこう言われる。     『わたしはあなたを去らせたか。とこしえにあなたを捨てたか。』     主は言われる。     『あなたの母の離縁状はどこにあるか。     わたしはあなたをだれのもとに去らせたか。     どの債主にあなたを売り渡したか。     わたしはだれにあなたを売り渡したか。     見よ、あなたは自分の罪悪のために自分自身を売り渡し、     あなたの母は、あなたの背きのために捨てられた。 02)わたしが来たとき、なぜひとりもいなかったか。   わたしが呼んだとき、なぜひとりも答える者がなかったか。   わたしの手が短くて、あがなうことができないのか。   わたしは救う力を持たないのか。   見よ、わたしが、しかると海はかれ、川は荒野となり、   その中の魚は水がないために、かわき死んで悪臭を放つ。   【解説】   この節はニーファイ第2書7章では次のようになっている。     それゆえ、わたしが来たときにはだれもいなかった。     わたしが呼んだときに、まことに、答える者はだれ一人いなかった。     おお、イスラエルの家よ、わたしの手が短くて贖うことができないのか。     わたしには救う力がないのか。     見よ、わたしは海をしかって干上がらせ、川を荒れ野とする。     水が乾いてその中の魚は悪臭を放ち、渇きのために死ぬ。 03)わたしは黒い衣を天に着せ、   荒布をもってそのおおいとする」。   【解説】   荒布 = 悲しみのときに着用する黒いヤギ皮の覆い   この節はニーファイ第2書7章では次のようになっている。     わたしは天を暗黒で覆い、     粗布をその覆いとする。』 04)主なる神は教をうけた者の舌をわたしに与えて、   疲れた者を言葉をもって助けることを知らせ、   また朝ごとにさまし、わたしの耳をさまして、   教をうけた者のように聞かせられる。   【解説】   この節はニーファイ第2書7章では次のようになっている。     おお、イスラエルの家よ、     主なる神は博学な者の舌をわたしに与えて、     わたしがあなたに、時宜を得た言葉をどのように語ればよいか分かるようにされた。     あなたが疲れているとき、     主なる神は朝ごとに目覚めさせてくださる。     主なる神はわたしの耳を開いて、博学な者として聞けるようにしてくださる。   4-7節は、イエス・キリストや従う人について。 05)主なる神はわたしの耳を開かれた。   わたしは、そむくことをせず、退くことをしなかった。   【解説】   この節はニーファイ第2書7章では次のようになっている。     主なる神は、わたしの耳を開かれた。     わたしは逆らわず、退くこともしなかった。 06)わたしを打つ者に、わたしの背をまかせ、   わたしのひげを抜く者に、わたしのほおをまかせ、   恥とつばきとを避けるために、   顔をかくさなかった。   【解説】   この節はニーファイ第2書7章では次のようになっている。     わたしは打つ者にわたしの背を任せ、     ひげを抜く者にわたしの頬を任せた。     わたしは侮辱されても、つばきをかけられても、     顔を隠さなかった。   5-6節はメシヤに関連したもの。   わたしのひげを抜く者に、わたしのほおをまかせ     人に屈辱を与えたいとき、軽蔑のしるしとして相手のひげを抜くことがあった。 07)しかし主なる神はわたしを助けられる。   それゆえ、わたしは恥じることがなかった。   それゆえ、わたしは顔を火打石のようにした。   わたしは決してはずかしめられないことを知る。   【解説】   火打石 = 鋼でたたくと火花を出す、非常に硬い石   この節はニーファイ第2書7章では次のようになっている。     主なる神がわたしを助けてくださるので、     わたしは恥を受けない。     それで、わたしは顔を火打ち石のようにした。     わたしは自分が辱められないことを知っている。 08)わたしを義とする者が近くおられる。   だれがわたしと争うだろうか、   われわれは共に立とう。   わたしのあだはだれか、   わたしの所へ近くこさせよ。   【解説】   義とする = 正しいと宣言する   争う = 反論する   あだ = 敵   この節はニーファイ第2書7章では次のようになっている。     主は近くにいて、わたしを義とされる。     わたしと争う者はだれか。     さあ、ともに立とう。     わたしの敵はだれか。     近くに来させよ。     そうすれば、わたしは口の力をもってその敵を打とう。   ともに戦おう。 09)見よ、主なる神はわたしを助けられる。   だれがわたしを罪に定めるだろうか。   見よ、彼らは皆衣のようにふるび、   しみのために食いつくされる。   【解説】   この節はニーファイ第2書7章では次のようになっている。     主なる神がわたしを助けてくださる。     わたしを罪に定める者は皆、     まさに衣のように古び、     しみが彼らを食い尽くす。 10)あなたがたのうち主を恐れ、   そのしもべの声に聞き従い、   暗い中を歩いて光を得なくても、なお主の名を頼み、   おのれの神にたよる者はだれか。   【解説】   この節はニーファイ第2書7章では次のようになっている。     あなたがたの中で、主を畏れ、     主の僕の声に従い、     暗闇の中を歩いて光を持たない者はだれか。 11)見よ、火を燃やし、たいまつをともす者よ、   皆その火の炎の中を歩め、   またその燃やした、たいまつの中を歩め。   あなたがたは、これをわたしの手から受けて、   苦しみのうちに伏し倒れる。   【解説】   この節はニーファイ第2書7章では次のようになっている。     見よ、火をともし、火の粉で自分の身を囲む者よ。     あなたがたは皆、自分たちの火の光の中を歩み、     自分たちのともした火の粉の中を歩め。     あなたがたがわたしの手から受けるのは、     苦しみのうちに横たわることである。」   たいまつ = 松の樹脂の多い部分を細かく割り、束ねたもの。火をつけて照明に         用いた   10-11節、正しい行いとしようとしても、暗闇の中にいる人がいる。   しかし、自分の火で歩む人(聖霊に頼らない人)は救われない。
第51章   【解説】   散乱、集合、回復、再臨。   終わりの時に、主はシオンを慰め、イスラエルを集められる。   贖われた者は大きな喜びのうちにシオンに来る。   引用:2ニーファイ8。   参照 「イザヤ書 英語版比較」   【セミナリー解説】   目を覚まして、主のもとに来なさい   これまでの数章の希望に満ちたテーマに続いて、51-52章は主を信頼する者への励ま   しの言葉であふれている。51-52章には、主がすべてのもの、特にイスラエルの敵、   に対して持っておられる大いなる力について書いてある。罪に束縛されている人は、   これらの聖句を自分自身に当てはめて、「かつては道に迷っていたが、主を信頼して   主の戒めを守るようになった主の子らは、主から強力な助けを授かる」というメッセ   ージを受け入れることができる。 01)「義を追い求め、   主を尋ね求める者よ、わたしに聞け。   あなたがたの切り出された岩と、   あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ。   【解説】   この節はニーファイ第2書8章では次のようになっている。     「『義を追い求める者よ、わたしに聞き従え。     あなたがたが切り出された岩と、     あなたがたが掘り出された穴とを思いみよ。   1-3節 「あなたがたの掘り出された穴」とはどういう意味か     神がイスラエルに与えられた約束は、アブラハムの聖約の中に直接述べられてい     る。ほとんどの末日聖徒は祝福師の祝福を受けており、その中で、アブラハムの     子孫の12部族のいずれかに属する者として、アブラハムの血統であると宣言され     ている。アブラハムは、イスラエルが切り出された「岩」であり、イスラエルが     掘り出された「穴」なのである。それゆえ、古代のイスラエルも現代のイスラエ     ルもともに「父アブラハムと、サラとを思いみよ」(1-2節)と勧告されている。     この二人は、聖徒たちが約束された祝福を権利として受け継ぐためのよりどころ     となる人物だからである。アブラハムおよびサラと交わした聖約により、「主は     シオンを慰め」、さらに「そのさばくを主の園のようにされる。」(3節)この聖     句は、神はその聖約の中で約束してくださったことをアブラハムとその子孫のた     めにことごとく果たしてくださるという、はっきりとした保証となっている。 02)あなたがたの父アブラハムと、   あなたがたを産んだサラとを思いみよ。   わたしは彼をただひとりであったときに召し、   彼を祝福して、その子孫を増し加えた。   【解説】   この節はニーファイ第2書8章では次のようになっている。     あなたがたの父アブラハムと、     あなたがたを産んだサラとを思いみよ。     わたしは彼ただ一人を召し、     彼を祝福した。』 03)主はシオンを慰め、   またそのすべて荒れた所を慰めて、   その荒野をエデンのように、   そのさばくを主の園のようにされる。   こうして、その中に喜びと楽しみとがあり、   感謝と歌の声とがある。   【解説】   この節はニーファイ第2書8章では次のようになっている。     主はシオンを慰め、     すべてその荒れた所を慰められる。     主はその荒れ野をエデンのようにし、     その砂漠を主の園のようにされる。     そこには喜びと楽しみがあり、     感謝と歌声がある。 04)わが民よ、わたしに聞け、   わが国びとよ、わたしに耳を傾けよ。   律法はわたしから出、   わが道はもろもろの民の光となる。   【解説】   この節はニーファイ第2書8章では次のようになっている。     『わたしの民よ、わたしに聴け。     おお、わたしの国民よ、わたしに耳を傾けよ。     律法はわたしから出、     わたしは、わたしの裁きを民を照らす光とする。   律法 = 教え、教義   神から出る律法とは何か     4節には、終わりの日における福音の律法と聖約の回復が預言されている。この     律法と聖約の中には、神の御心を新たに明らかにするための近代の聖典と生ける     預言者とが含まれている。   4-16節 この部分はだれに向かって語りかけているのか     4-16節では、「わが」という言葉にきわめて重点が置かれている。「わが民」     「わが国びと」「わが義」「わが救」「わが腕」「わが律法」(4-8節)といった     具合である。主はこうした言葉を御自分と人との関係を強調するために度々使わ     れたのである。主は人の創造主であり、裁き主であり、救い主であり、そして完     璧な模範であられる。そして、地球自体は「煙のように消え、衣のようにふるび」     た(6節)としても、主御自身が持っておられる特質はとこしえに変わることがな     い。それゆえ、神は永遠であり不変であって、また正しくかつ信頼できる御方な     のである。神に信頼を置く者は「人のそしり」(7節)を恐れる必要はなく、むし     ろ「さめ」て「力を着」て「いにしえの日、あったように」(9節)しているべき     なのである。この呼びかけは、神のもとに戻れ、「歌うたいつつ、シオンに帰」     れという、末日の子らに対する神の呼びかけである。そのシオンでは「悲しみと     嘆きとは逃げ去る」はずである(11節)。『旧約聖書』のほかの数多くの聖句と同     様、この聖句も『旧約聖書』の神であるエホバが『新約聖書』のイエス・キリス     トと同一の御方であることを強く証している。 05)わが義はすみやかに近づき、   わが救は出て行った。   わが腕はもろもろの民を治める。   海沿いの国々はわたしを待ち望み、   わが腕に寄り頼む。   【解説】   この節はニーファイ第2書8章では次のようになっている。     わたしの義は近い。     わたしの救いはすでに出ており、     わたしの腕は民を裁く。     もろもろの島はわたしを待ち望み、     わたしの腕に頼る。   もろもろの島 = 全世界 06)目をあげて天を見、また下なる地を見よ。   天は煙のように消え、地は衣のようにふるび、   その中に住む者は、ぶよのように死ぬ。   しかし、わが救はとこしえにながらえ、   わが義はくじけることがない。   【解説】   この節はニーファイ第2書8章では次のようになっている。     天に向かって目を上げよ。また、下の地を見よ。     天は煙のように消えうせ、地は衣のように古び、     そこに住む者も同じように死ぬ。     しかし、わたしの救いはとこしえに続き、     わたしの義は廃れない。   消えうせ = 散らされる   古び = 朽ちる   ぶよ = 双翅(そうし) 目ブユ科の昆虫の総称。体は小形で短く、頭部に       大きい複眼をもつ。刺されると、痛みが激しく、はれる。幼虫は       水中にすむ。ぶと。ぶよ   4-6節 主に耳を傾け、人のあざけりを気にしない。 07)義を知る者よ、   心のうちにわが律法をたもつ者よ、わたしに聞け。   人のそしりを恐れてはならない、   彼らのののしりに驚いてはならない。   【解説】   この節はニーファイ第2書8章では次のようになっている。     義を知る者よ、     わたしが心の中にわたしの律法を書き記した民よ、わたしに聴け。     人のそしりを恐れるな。     ののしりを怖がるな。 08)彼らは衣のように、しみに食われ、   羊の毛のように虫に食われるからだ。   しかし、わが義はとこしえにながらえ、   わが救はよろず代に及ぶ」。     しみが彼らを衣のように食い尽くし、   【解説】   この節はニーファイ第2書8章では次のようになっている。     虫が彼らを羊の毛のように食う。     しかし、わたしの義はとこしえに続き、     わたしの救いは代々に及ぶ。』 09)主のかいなよ、   さめよ、さめよ、力を着よ。   さめて、いにしえの日、昔の代にあったようになれ。   ラハブを切り殺し、   龍を刺し貫いたのは、あなたではなかったか。   【解説】   この節はニーファイ第2書8章では次のようになっている。     目覚めてください、目覚めてください。     おお、主の御腕よ、力をまとってください。     昔のように目を覚ましてください。     かつてラハブを切り裂き、     龍を貫いた御方は、あなたではありませんか。   かいな = 「うで」の古い言い方。肩からひじまでの部分。   ラハブ = 恐ろしい怪物。イスラエルを助けた遊女ラハブとは別。   ここでは、民が主に対して、目覚めて力を示すように求めている。   しかし、17節では、目覚めるは、民の方であると主は述べている。 10)海をかわかし、大いなる淵の水をかわかし、   また海の深き所を、   あがなわれた者の過ぎる道とされたのは、   あなたではなかったか。   【解説】   この節はニーファイ第2書8章では次のようになっている。     かつて海を、すなわち大いなる深みの水を干上がらせ、     海の深みを贖われた者の通る道とされた御方は、     あなたではありませんか。 11)主にあがなわれた者は、   歌うたいつつ、シオンに帰ってきて、   そのこうべに、とこしえの喜びをいただき、   彼らは喜びと楽しみとを得、   悲しみと嘆きとは逃げ去る。   【解説】   この節はニーファイ第2書8章では次のようになっている。     それゆえ、主に贖われた者は帰って来ます。     歌いながらシオンに帰って来ます。     そして、永遠の喜びと聖さは彼らの頭上にあり、     彼らは楽しみと喜びを得、     悲しみと嘆きは逃げ去ります。 12)「わたしこそあなたを慰める者だ。   あなたは何者なれば、死ぬべき人を恐れ、   草のようになるべき人の子を恐れるのか。   【解説】   この節はニーファイ第2書8章では次のようになっている。     『そうしたのはわたしである。     まことに、わたしがあなたがたを慰める者である。     見よ、あなたは何者なので、いつかは死ぬ人を、     また草のようになる人の子を恐れるのか。 13)天をのべ、地の基をすえられた、   あなたの造り主、主を忘れて、   なぜ、しえたげる者が滅ぼそうと備えをするとき、   その憤りのゆえに常にひねもす恐れるのか。   しえたげる者の憤りはどこにあるか。   【解説】   この節はニーファイ第2書8章では次のようになっている。     天を広げ地の基を据えた、     あなたの造り主である主を忘れるあなたは、何者であるか。     虐げる者がまるで滅ぼす用意が整ったかのように憤っているのを、     日々絶えず恐れてきたあなたは、何者であるか。     虐げる者の憤りはどこにあるのか。   ひねもす = 一日中 14)身をかがめている捕われ人は、すみやかに解かれて、   死ぬことなく、穴にくだることなく、   その食物はつきることがない。   【解説】   この節はニーファイ第2書8章では次のようになっている。     流浪の囚われ人は速やかに解き放されて、     穴の中で死ぬことなく、     パンが尽きることもない。 15)わたしは海をふるわせ、   その波をなりどよめかすあなたの神、主である。   その名を万軍の主という。   【解説】   この節はニーファイ第2書8章では次のようになっている。     わたしは波をとどろかせる、     主なるあなたの神である。     万軍の主とは、わたしの名である。 16)わたしはわが言葉をあなたの口におき、   わが手の陰にあなたを隠した。   こうして、わたしは天をのべ、地の基をすえ、   シオンにむかって、あなたはわが民であると言う」。   【解説】   この節はニーファイ第2書8章では次のようになっている。     わたしは天を設け、地の基を据え、     シオンに向かって、見よ、あなたはわたしの民である、と言うために、     あなたの口にわたしの言葉を置き、     わたしの手の陰であなたを覆った。』 17)エルサレムよ、起きよ、起きよ、立て。   あなたはさきに主の手から憤りの杯をうけて飲み、   よろめかす大杯を、滓までも飲みほした。   【解説】   この節はニーファイ第2書8章では次のようになっている。     おお、エルサレムよ、目覚めよ、目覚めよ、立ち上がれ。     あなたは先に主の手から主の憤りの杯を飲んだ。     すなわち、あなたは震える杯の搾り取ったかすを飲み干した。 18)その産んだもろもろの子のなかに、   自分を導く者なく、   その育てたもろもろの子のなかに、   自分の手をとる者がない。   【解説】   この節はニーファイ第2書8章では次のようになっている。     彼女が産んだすべての息子の中に、     彼女を導く者は一人もなく、     彼女が育て上げたすべての息子の中に、     彼女の手を取る者は一人もいない。 19)これら二つの事があなたに臨んだ――   だれがあなたと共に嘆くだろうか――   荒廃と滅亡、ききんとつるぎ。   だれがあなたを慰めるだろうか。   【解説】   この節はニーファイ第2書8章では次のようになっている。     これら二人の息子があなたのもとに来ている。     この二人はあなたの荒廃と滅亡、     飢饉と剣のゆえにあなたを哀れに思う。     わたしはだれによって、あなたを慰めようか。 20)あなたの子らは息絶えだえになり、   網にかかった、かもしかのように、   すべてのちまたのすみに横たわり、   主の憤りと、あなたの神の責めとは、彼らに満ちている。   【解説】   この節はニーファイ第2書8章では次のようになっている。     あなたの息子たちは、この二人のほかは皆、気を失った。     この二人はすべての通りの起点に当たる場所で横たわっている。     網にかかったかもしかのように、     この二人には主の憤り、あなたの神の責めが満ちている。   17-23節 気が遠くなった「二人の息子」とはだれのことか     幾世紀もの間、主の聖約の民は「主の手から憤りの杯をうけて飲」んできた。言     い換えれば、主の言葉を聞くことを拒んだ結果として苦しみを受け、そのために     悩んだということである(17節)。しかも、イスラエルの裁きの日はまだ終わって     はいない。ハルマゲドンの戦いでは、ユダヤ人の国家はもう一度大きな苦難と裁     きとを経験するであろう。     真鍮の版から取られた2ニーファイ8:19-20の本文にある二人の息子とは、恐らく     は黙示11:1-6にある二人の証人のことであろう。この証人のために、軍勢はユダ     ヤ人を攻めることができないのである。     この二人の僕の働きと奇跡により、神はイスラエルの手から「よろめかす杯をわ     が憤りの大杯を」取り除いてくださる。これには「あなたは再びこれを飲むこと     はない」(22節)という約束が伴っている。それゆえ、憤りの杯は、主の聖約の民     を踏みつけにした者、踏みにじった者に与えられる。そのときこそ、彼らが苦し     みを経験するときなのである(23節)。 21)それゆえ、苦しめる者、   酒にではなく酔っている者よ、これを聞け。   【解説】   この節はニーファイ第2書8章では次のようになっている。     それゆえ、苦しむ者よ、     ぶどう酒によらず酔っている者よ、今これを聞け。 22)あなたの主、おのが民の訴えを弁護される、   あなたの神、主はこう言われる、   「見よ、わたしはよろめかす杯を   あなたの手から取り除き、   わが憤りの大杯を取り除いた。   あなたは再びこれを飲むことはない。   【解説】   この節はニーファイ第2書8章では次のようになっている。     あなたの主、御自分の民のことを弁護なさる     あなたの神、主はこう言われる。     『見よ、わたしはあなたの手から震える杯を、     すなわちわたしの憤りの杯のかすを取り除いた。     あなたは二度とそれを飲むことはない。 23)わたしはこれをあなたを悩ます者の手におく。   彼らはさきにあなたにむかって言った、   『身をかがめよ、われわれは越えていこう』と。   そしてあなたはその背を地のようにし、   ちまたのようにして、   彼らの越えていくにまかせた」。   【解説】   この節はニーファイ第2書8章では次のようになっている。     わたしは、あなたを苦しめる者の手にそれを渡そう。     彼らは先にあなたに、     「身をかがめて、我々が踏み越えて行けるようにせよ」と言った。     そしてあなたは、自分の体を地面のように、     また通りのように横たえて、     彼らが踏み越えて行くに任せた。』
第52章   【解説】   回復と集合。   末日においてシオンは回復され、イスラエルは贖われる。   メシヤは慎重にふるまい高められる。   3ニーファイ20章で、イザヤ書52章の聖句を引用された時、4節と5節を省略された。   それは、この部分が特にイザヤの時代のイスラエルを指して言われたのであって、   ニーファイ人には合わないと判断されたためであろう。   関連:モーサヤ12:20-25; 15:13-18; 3ニーファイ16; 20; 21;      モロナイ10:30,31; 教義と聖約113:7-10。   参照 「イザヤ書 英語版比較」   節ごとの引用先      1 3ニーファイ20:36   2ニーファイ8:24      2 3ニーファイ20:37   2ニーファイ8:25      3 3ニーファイ20:38      4      5      6 3ニーファイ20:39      7 3ニーファイ20:40            モーサヤ15:14 モーサヤ12:21      8 3ニーファイ20:32,33  3ニーファイ16:18 モーサヤ15:29 モーサヤ12:22      9 3ニーファイ20:34   3ニーファイ16:19 モーサヤ15:30 モーサヤ12:23     10 3ニーファイ20:35   3ニーファイ16:20 モーサヤ15:31 モーサヤ12:24     11 3ニーファイ20:41     12 3ニーファイ20:42     13 3ニーファイ20:43     14 3ニーファイ20:44     15 3ニーファイ20:45 01)シオンよ、さめよ、さめよ、力を着よ。   聖なる都エルサレムよ、美しい衣を着よ。   割礼を受けない者および汚れた者は、   もはやあなたのところに、はいることがないからだ。   【解説】   この節はニーファイ第2書8章24節では次のようになっている。     おお、シオンよ、目覚めよ、目覚めよ、力を着よ。     おお、聖なる都エルサレムよ、美しい衣を着よ。     これからはもう、割礼を受けない者と清くない者は、     あなたの中に入って来ることはないからである。   力 = 神権の力   美しい衣 = 神殿の衣服   割礼(かつれい) = 陰茎包皮を切開、その一部を切り取る風習・儀礼。アブラハム            が神と契約を交わした印としてイスラエル人に伝えられた。   イザヤは、神が終わりの時に召される者たち、すなわちシオンを元に戻し、   イスラエルを贖う神権の力を持つ者たちを指して述べた。   力を着るとは、神権の権能をまとうことであり、シオンはそれを血統によって受ける   権利を持っている。また、シオンが失ったその力に復することでもある。   1-6節 「シオンよ、力を着よ」     福千年の間には主とその民のために二つの本部が用意される。一つは、アメリカ     大陸に確立されるシオン、すなわち新エルサレムであり、もう一つは聖地に確立     されるシオン、すなわち古きエルサレムである。     1節と2節については、『モルモン書』に3か所(2ニーフアイ8:24-25;3ニーファイ     20:36-37;モロナイ10:31),『教義と聖約』に1か所引用されている。『教義と聖     約』の113章7節と8節で、ジョセフ・スミスは1-2節の意味について質問に答えて     いる。ジョセフの説明によれば、美しい衣とは終わりの日にイスラエルの家に回     復される神権の権能の象徴であり、首の縄を解き捨てるとは神ののろいを取り除     くという意味である。もしイスラエルが神のもとに戻るならば、新しい啓示が種     々与えられることであろう。     救い主が52章の聖句を引用されたとき、4節と5節を省略されたが、それはこの部     分が特にイザヤの時代のイスラエル人を指して言われたのであって、ニーファイ     人には合わないと判断されたためであろう(3ニーファイ20:36-40)。   モロナイ10:31     おお、エルサレムよ、目を覚まして地から立ち上がりなさい。おお、シオンの娘     よ、美しい衣を着なさい。おお、イスラエルの家よ、あなたの杭を強くし、あな     たの境をとこしえに広げて、決して二度と乱されることのないようにし、また永     遠の御父があなたに立てられた聖約が果たされるようにしなさい。 02)捕われたエルサレムよ、   あなたの身からちりを振り落せ、起きよ。   捕われたシオンの娘よ、   あなたの首のなわを解きすてよ。   【解説】   この節はニーファイ第2書8章25節では次のようになっている。     あなたの身からちりを振り落とせ。     おお、エルサレムよ、立ち上がって座せ。     おお、囚われたシオンの娘よ、     あなたの首の縄を解き捨てよ。」   「立ち上がって座せ」は「ちりから立ち上がって威厳をもって座せ。そうすれば、   終わりには贖われる」という意味。   散らされた残りの者は、かつて主のもとから落ちたが、その主に立ち返るように勧め   られている。彼らがそうするならば、主は彼らに語る、すなわち彼らに啓示を与える   と約束しておられる。6,7,8節を参照。   シオンの首の縄とは、シオンに下された神ののろい、すなわち、イスラエルの残りの   者が異邦人の間に散らされた状態にあるということである。   1-2節 悔い改めるよう求められる。贖いがあるから、悔い改めがある。 03)主はこう言われる、「あなたがたは、ただで売られた。金を出さずにあがなわれる」。   【解説】   この節は第3ニーファイ20章38節では次のようになっている。     主はこう言われる。「あなたがたは自分自身をただで売り渡した。     あなたがたは金を払わずに贖われるであろう。」 04)主なる神はこう言われる、「わが民はさきにエジプトへ下って行って、かしこに寄留   した。またアッスリヤびとはゆえなく彼らをしえたげた。 05)それゆえ、今わたしはここに何をしようか。わが民はゆえなく捕われた」と主は言わ   れる。主は言われる、「彼らをつかさどる者はわめき、わが名は常にひねもす侮られる。   【解説】   ひねもす = 一日中 06)それゆえ、わが民はわが名を知るにいたる。その日には彼らはこの言葉を語る者がわ   たしであることを知る。わたしはここにおる」。 07)よきおとずれを伝え、平和を告げ、   よきおとずれを伝え、救を告げ、   シオンにむかって「あなたの神は王となられた」と   言う者の足は山の上にあって、   なんと麗しいことだろう。   【解説】   この節は3ニーファイ20章40節では次のようになっている。     よきおとずれを伝え、平和を告げて広め、     善のよきおとずれを伝え、救いを告げて広め、     シオンに向かって「あなたの神が統治しておられる」と言う者の足は、     山の上にあって何と麗しいことであろう。   王 = イエス・キリスト   足 = 宣教する者の足(主、預言者、宣教師)   山 = 神殿、贖い   麗しい = キリストの釘の跡   「よきおとずれを伝える者の足は山の上にあって、なんと麗しいことだろう」     7節は伝道活動にとって重要な意味を持つ聖句である。この聖句の解き明かしは、     『モルモン書』中の、アピナダイがノア王の祭司たちにその意味を尋ねられた場     面で与えられている(モーサヤ12:20-24)。「よきおとずれ」を伝える者とは「平     和の基」であるイエス・キリストのことである。平和を告げる者とは、イエスの     言葉を広める主の僕たちのことである。 08)聞けよ、あなたの見張びとは声をあげて、   共に喜び歌っている。   彼らは目と目と相合わせて、   主がシオンに帰られるのを見るからだ。   【解説】   この節は3ニーファイ16章18節では次のようになっている。     あなたの見張り人は声を上げ、     声を合わせて彼らは歌う。     主がシオンを元に戻されるとき、     彼らはそれを目の当たりに見るからである。 09)エルサレムの荒れすたれた所よ、   声を放って共に歌え。   主はその民を慰め、   エルサレムをあがなわれたからだ。   【解説】   この節はモーサヤ15章30節では次のようになっている。     エルサレムの荒れた所よ、     喜びの声を上げ、ともに歌え。     主が御自分の民を慰め、     エルサレムを贖われたからである。 10)主はその聖なるかいなを、   もろもろの国びとの前にあらわされた。   地のすべての果は、われわれの神の救を見る。   【解説】   この節はモーサヤ15章31節では次のようになっている。     主はその聖なる御腕を、     すべての国民の目の前に現された。     地の果てに至るすべての人は、わたしたちの神の救いを見るであろう。   かいな = 「うで」の古い言い方。肩からひじまでの部分。   8-10節 度々引用される聖句     ナイマンは次のように指摘している。「この部分は『モルモン書』の中で4回引     用されているが、どの場合にもまとめて引用されている。(モーサヤ12:22-24;     同15:29-31; 3ニーファイ16:18-20; 同20:32-35。)1度だけ、救い主が引用     されたときに8節と9節の間に注釈を挿入しておられる(3ニーファイ20:33)。     8節はシオンに関する聖句であり、9節はエルサレムに関する聖句である。しかし、     救い主はこの3つの節全体を2度にわたってニーファイ人に向かって引用し、この     聖句はニーファイ人とユダヤ人とを通して成就すると言われた。これもまた、イ     ザヤの預言の両義性を示すものである。救い主は初めてこの聖句を引用するに先     立ち、一つの宣言をされた。それは、アメリカの地は異邦人たちが完全な福音を     拒みイスラエルの家によって『踏みにじら』れた後で、リーハイの子孫たちに与     えられるというものである。また、この出来事は預言者イザヤの預言の成就であ     るとも言われた(3ニーファイ16:10-20)。その後、救い主は、ユダヤ人の復興に     関してニーファイ人たちに教えを授けられたときにこの聖句を引用された。この     とき救い主は、『あなたの見張びと』となっているところを『彼らの見張り人』     と変えて言われた。それは、この場合、シオンの見張り人よりむしろエルサレム     の見張り人のことを指して言っておられたからである(3ニーファイ20:29-35)。     アビナダイもこの聖句には普遍的な意味があることをよく理解していた。だから     こそ、『主の救いがあらゆる国民、部族、国語の民、民族に告げ知らされる時が     来る」と教え、この3つの節を証拠として引用したのである(モーサヤ15:28-31)。     ジョセフ・スミスは、ミズーリ州ジャクソン郡を8節で言われているシオンであ     ると規定した。『見張びと』というのは、7節で言われているように福音を宣べ     伝える者たちを指す。シオンで歌われる歌というのは、新しい歌であって、あら     ゆる人がキリストを知るとき(すなわち福千年の間)に歌われるものである。この     歌の歌詞については、8節の一部も含めて、教義と聖約84:99-102に記録されてい     る。」   教義と聖約84:99-102     主はシオンを回復された。     恵みの選びによって、     主はその民イスラエルを贖われた。     先祖の信仰と聖約によって、     それは成し遂げられた。     主はその民を贖われた。     サタンは縛られ、もはや時はない。     主は万物を一つに集められた。     主は上からシオンを下された。     主は下からシオンを上げられた。     地は産みの苦しみをなし、その力を産み出した。     真理は地の中に打ち立てられている。     天は地にほほえみかけた。     地はその神の栄光をまとっている、     神がその民の中に立っておられるので。     栄光と、誉れと、力と、威勢が、     わたしたちの神に帰せられるように。     神は憐れみ、公正、恵みと真理、     平安に満ちておられるので。     とこしえにいつまでも、アーメン。 11)去れよ、去れよ、そこを出て、   汚れた物にさわるな。   その中を出よ、主の器をになう者よ、   おのれを清く保て。   【解説】   この節は3ニーファイ20章41節では次のようになっている。     去れ、去れ、そこを出よ。     清くないものに触れるな。     その中を出よ。     主の器を担う者たちよ、清くあれ。   モロナイ10:30     さらに、わたしはあなたがたに、キリストのもとに来て、あらゆる善い賜物を得     るように、また悪い賜物や清くないものに触れないように勧めたい。 12)あなたがたは急いで出るに及ばない、   また、とんで行くにも及ばない。   主はあなたがたの前に行き、   イスラエルの神はあなたがたの   しんがりとなられるからだ。   【解説】   この節は3ニーファイ20章42節では次のようになっている。     あなたがたはあわてて出る必要もなければ、     逃げるようにして去る必要もない。     主があなたがたの前を行き、     イスラエルの神があなたがたの     しんがりとなられるからである。   【解説】   11-12節 主がなぜバビロンから「急いで出るには及ばない」と勧告しておられるのだ        ろうか     イザヤ書ときわめて酷似した言葉遣いをしている『教義と聖約」では、「主の器     を担う」(教義と聖約133:5)者である主の僕たちはバビロンから逃れなければな     らないと説明している。このバビロンは「霊のバビロンである悪」(教義と聖約     133:14)という意味である。この直後にイザヤ52:12のほぼ完全な引用が続き、     「万事をあなたがたの前に備え」、「突如として滅びが襲うことのないように、     去る者は振り返ってはならない」(教義と聖約133:15)という警告が付け加えられ     ている。この部分が付け加えられたことで、イザヤの言葉の意味がはっきりする。     イザヤはイスラエルに集合する(悪から離れる)よう勧告を与えたが、主の指示に     従って整然と行うようにと言ったのである。この神権時代の初期の聖徒が、もし     この指示に厳密に従って行動していたならば、ミズーリ州のシオンへの脱出とそ     の後の出来事は、また違ったものになっていたかもしれない。ミズーリ州にいた     管理長老たちは,1833年7月に次のような勧告を書き送っている。     「主の弟子たちが、食べる物も飲む物も着る物も持たず、さらにこれらの必需品     を購入するだけの備えもなくこの地へ来ることができると考えているとしたら、     それは愚かな考えです。旅の最後まで豊かな土地が広がり、飢えることのないよ     う主御自身が命の糧となる祝福を用意していてくださるなどと考えるのも愚かな     ことです。また、行く手には数え切れないほどの羊がいて、衣服を作るのに必要     な羊毛を豊富に手に入れることができるとか、行く先々の山には牛の群れがいて、     靴を作るのに必要な皮を手に入れることができるなどと考え、旅の途中で衣服や     靴に不自由することはないと思っているとしたら、それも同様に愚かな考えです。     兄弟たち、こう言ったからといって、この終わりの日に主が聖徒のために必要な     ものを用意していてくださるということをわたしたちが信じておらず、しかも箱     を押さえるために自分たちの手を伸ばそうと考えている、などとゆめゆめ思い込     まないでいただきたい。そうではないのです。わたしたちは、聖徒に必要なもの     はことごとく与えられるという神の揺るぎない約束を賜っていることは承知して     います。しかし同時に、適切な注意を払う必要があるものに対して、また主から     管理を命じられ、適切に用いなければならないものに対して、うかつであったり、     浪費したり、注意を向けずに怠惰にしていると、その人は思盧の浅い者と見なさ     れることでしょう。人は皆、自分がゆだねられた管理の職について正確な記録を     つけなければならないのです。しかも、この世だけでなく、永遠につけなければ     ならないのです。わたしたちは兄弟たちに、シオンへの集合の重要な点について     助言をしましたが、決して神の箱を押さえるために自分たちの手を伸ばそうとし     ているなどと思われたいと望んでいるわけではないのです。むしろ2年近くの集     合の経験から、『あなたがたはあわてて逃げることなく、むしろ、万事をあなた     がたの前に備えるようにしなさい」という天から与えられた神聖な言葉の意味を     もっと重視しなければならないことを学んできたからこそ、申し上げるのです。」 13)見よ、わがしもべは栄える。   彼は高められ、あげられ、ひじょうに高くなる。   【解説】   この節は3ニーファイ20章43節では次のようになっている。     見よ、わたしの僕は賢く振る舞う。     彼はあがめられ、たたえられ、非常に高くなる。   【解説】   13-15節 僕とはだれか     13-15節は両義性を持つ預言である。一つにはイエス・キリストのことを指して     いる。この箇所は、53章とともに、『旧約聖書』中のメシヤに関する記述の中で     も最もすばらしい章への導入部的な役割を果たしているのである。救い主の「顔     だちは、そこなわれて人と異な」っていた(14節)。全人類の罪をその身に受け、     力ルバリの丘で十字架にかけられたからである。単なる釘ではなく、特別に太い     釘が救い主の手と足を貫き通した。そして死を確実なものにするために、そのわ     きにやりが突き刺されたのである。     もう一つは、救い主御自身が明確にされたように、13節は、末の日に行われる御     父の「大いなる驚くべき業」(3ニーファイ21:9)に携わる一人の僕についても触     れている。『モルモン書』の聖句は明らかにジョセフ・スミスと回復のことを指     している。人々はジョセフを「損な」い、生涯を通じて迫害を加え、ついには死     に至らしめたのである。しかし、御父はジョセフに、『モルモン書』やほかの末     日の啓示を「異邦人にもたらす」力を授けておられた。その結果、地上の王や統     治者は「彼らがまだ伝えられなかったことを見」(15節)、悟るのである。 14)多くの人が彼に驚いたように――   彼の顔だちは、そこなわれて人と異なり、   その姿は人の子と異なっていたからである――   【解説】   この節は3ニーファイ20章44節では次のようになっている。     多くの人があなたに驚いたように――     彼の顔つきはほかのだれよりも損なわれて、     また彼の姿も、人の子らのようではなかった―― 15)彼は多くの国民を驚かす。   王たちは彼のゆえに口をつむぐ。   それは彼らがまだ伝えられなかったことを見、   まだ聞かなかったことを悟るからだ。   【解説】   この節は3ニーファイ20章45節では次のようになっている。     彼は多くの国民を清める。     王たちは彼を見て口をつぐむ。     彼らはまだ告げられたことのないことを見、     まだ聞いたことのないことを悟るからである。   「驚かす」は欽定訳では「まき散らす」、ジョセフ・スミス訳では「集める」   13-15節はメシヤに関連したもの。
第53章   【解説】53章   主の贖い   これは旧約聖書中のメシヤの出現を預言した部分でも   恐らく最も重要なものであろう。   イザヤ、メシヤについて述べる。   メシヤが受けられる屈辱と苦難が宣言される。   メシヤは御自分を罪のためのささげ物とし、背く者のために執り成しをされる。   現在、私たちが使っている新約聖書に見られるように、マタイ(マタイ18:17)、ピリポ   (使徒8:27-35)、パウロ(ローマ4:25)、ペテロ(1ペテロ2:24-25)などは皆、イザヤ53   章にあるいろいろな聖句を引用し、言い換え、敷衍し(ふえん:意義、意味をおしひ   ろげて説明すること)、主イエスについて述べている。この古代イスラエルと時の絶   頂の時代にあって、このイザヤ書の言葉を取り上げて話された説教、教えられたレッ   スン、述べられた証がどれほどあったか想像もできないほどである。   キリストとその贖いについての予言が、すべての予言者の説教の中で、最も主要な位   置を占めていた。彼らは、主の贖いが御業に中で最大のものであると、聖霊の啓示を   通して知っていた。   イザヤはあえてイエス・キリストの名を伏せて語っている。   イエス・キリストに従う人はキリストの子孫。   アビナダイは「山の上にある麗しい足」を説明するとき、この章を引用している。   引用:モーサヤ14。   関連:モーサヤ15,16。   参照 「イザヤ書 英語版比較」   【セミナリー解説】   イエス・キリストの苦難が預言される   イエス・キリストの使命について心を打つ証が書いてあることから、53章は多くの人   に愛され、引用されている。この章でイザヤは、剣や戦いによってではなく、謙虚に   苦しみを受けることによって御自分の民をお救いになるメシヤについて預言している。 01)だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。   主の腕は、だれにあらわれたか。   【解説】   この節はモーサヤ書14章では次のようになっている。     だれがわたしたちの告げたことを信じたか。     主の腕はだれに現されたか。   主の腕 = 物事を達成させる主の権能     イザヤ52:10にも出てくる。神の救いを表す。   ヨハネ12:37-38     このように多くのしるしを彼らの前でなさったが、彼らはイエスを信じなかった。     それは、預言者イザヤの次の言葉が成就するためである、「主よ、わたしたちの     説くところを、だれが信じたでしょうか。また、主のみ腕はだれに示されたでし     ょうか」。   主がその御業をおこなっているとき、そのことを理解している人は少なかった。聖き   みたまを受け入れる用意のできている者のみが、主の声を聴き、主を見て、改宗する。 02)彼は主の前に若木のように、   かわいた土から出る根のように育った。   彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、   われわれの慕うべき美しさもない。   【解説】   見るべき姿 = 印象的な外見   威厳 = 栄光   この節はモーサヤ書14章では次のようになっている。     彼は主の前に、か弱い苗木のように、     また乾いた土から出る根のように育つ。     彼には見目の良さもなく、華麗さもない。     わたしたちが彼を見るときに、彼を慕うような美しさも彼にはない。   この章の「彼」はイエス・キリストを示している。「主」は御父。   「われわれ」は、キリストが地上の業をされていた当時、キリストを否定した人々を   指していると同時に、現代のキリストを受け入れていない人々も指している。   彼(イエス)は主(御父)の前に育つ     ルカ2:40-52       イエスは御父から育てられ、教えられた     教義と聖約93:11-17       神の導きの下に恩恵に恩恵を加えられて成長した。   かわいた土から出る根     土から出る根は柔らかく、水分を求め、大きく根を張っていく時に、傷つきやす     い。イエスは自分が生まれた「かわいた土」すなわち実りの無いユダヤ文化によ     ってではなく、御父に育てられた。   彼には見るべき姿がなく、美しさもない     肉体的に、イエスは並みの人間を何ら変わったところがなかった。大工の息子と     して知られ、特に人々の注目を浴びるようなところもなかった。したがって、世     の人々はイエスを神の御子として認めることができなかった。彼らが期待してい     た神の御子とはほど遠い存在だったからである。   1-2節 イザヤはどのようにして人々がキリストを受け入れる様子を予見したか     イザヤは救い主のことを、見るべき姿も威厳もない「若木」であると言っている。     これは、イエスも通常の人間と同じように、無力な幼子としてお生まれになると     いうことである。確かにイエスはほかの人と同様に成長されたのである。     ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のように書いている。     「キリストは若木のように成長されなかっただろうか。主には、格別人目を引く     ような所はなかった。外見上主はほかの人々と変わってはおられなかった。そこ     で預言者は見るべき姿も威厳もないと表現した。言い換えれば主は人人が主を見     て神の御子と認めるほど、特別際立っておられたわけではなかったし、異なって     もおられなかった。主は一人の肉体を持った人として登場されたのである。」 03)彼は侮られて人に捨てられ、   悲しみの人で、病を知っていた。   また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。   われわれも彼を尊ばなかった。   【解説】   尊ぶ = 大切に思う   この節はモーサヤ書14章では次のようになっている。     人々から侮られて捨てられている彼は悲しみの人で、悲哀を知っている。     そこでわたしたちは、彼から顔を背けるかのように振る舞った。     彼は侮られ、わたしたちは彼を尊ばなかった。   人々から侮られて捨てられている     人々の中には、イエスが悪魔であると言い、イエスを殺そうとする者もいた。     ヨハネ1:5,11       光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。       彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。   悲しみの人で、悲哀(病)を知っている     ユダヤ人はイエスを拒んだが、それはイエスを遣わされた御父を拒んだのと同じ     であった。イエスはこのことを深く嘆いておられた。   彼から顔を背けるかのように(忌みきらわれる者のように)振る舞った     イエスを信じている人も含めて、イエスに対する反応はまちまちであった。     諸々の宗教家たちはイエスから顔を背け、イエスを拒んだ。   彼は侮られ、わたしたちは彼を尊ばなかった     1ニーファイ19:7-10       イスラエルの神を取るに足りない者とし、その勧めの声に聞き従わない。       彼らはこの御方を鞭打ち、つばきを吐きかける。       この御方は悪人たちの手に身をゆだねて、十字架につけられ、墓に葬られる。   イエスはいなかる理由で「悲しみの人で、病を知っていた」のか     イエスは生涯を通じて悲劇と悲しみとを経験された。御自身の家族でさえも初め     のうちはイエスをメシヤとして受け入れなかった。イエスの郷里の人々はイエス     を殺そうともした。また、同胞であるユダヤ人もイエスがメシヤであるという事     実を受け入れようとはしなかった。一人の友はイエスを裏切り、もう一人の友は     イエスを知らないと言った。最後には「弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去っ     た。」イエスの敵たちはイエスを十字架につけるよう強く求めた。     ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のように問いかけている。「キ     リストは悲しみの人ではなかったか。人々に拒まれなかったか。悲しみを知って     おられなかったか。人々は(比喩的な意味で)主から顔を背けなかったか。人々は     主を尊ばなかったのではなかったか。確かに主はわたしたちの病を負い、悲しみ     を担われた。しかし人々は主が神から打たれ捨てられたのだと思った。人々はそ     う言わなかっただろうか。以上のことは事実そのとおりである。」 04)まことに彼はわれわれの病を負い、   われわれの悲しみをになった。   しかるに、われわれは思った、   彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。   【解説】   負う = 肩や背に担ぐ   打つ = 罰する   この節はモーサヤ書14章では次のようになっている。     まことに彼はわたしたちの悲哀を負い、     わたしたちの悲しみを担った。     ところがわたしたちは彼のことを、     打たれ、神に罰せられ、苦しめられているのだと受け止めた。   まことに彼はわたしたちの悲哀(病)を負い     2ニーファイ9:21       男、女、子供の区別なく、アダムの家族に属する、生けるものすべての苦痛       を受けられる。   わたしたちは神に罰せられ、苦しめられているのだと受け止めた     罪人は遅かれ早かれその罪の結果に苦しむ。したがって、苦しみはすべて罪のた     めに罰を受けているしるしであると考えている人が多くいる。     ヨブを慰めに来た人々はヨブが肉体的な苦しみを受けているのは、罪を犯したか     らに違いないと考えていた。     ヨブ4:7-8       だれが罪のないのに、滅ぼされた者があるか。どこに正しい者で、断ち滅ぼ       された者があるか。わたしの見た所によれば、不義を耕し、害悪をまく者は、       それを刈り取っている。     イエスは肉体的な意味では苦しみ憂い、死を味わった。そうした点ではイエスが     神の罰を受けたのであると間違った解釈をする人もいる。 05)しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、   われわれの不義のために砕かれたのだ。   彼はみずから懲らしめをうけて、   われわれに平安を与え、   その打たれた傷によって、   われわれはいやされたのだ。   【解説】   懲らしめ = 罰   この節はモーサヤ書14章では次のようになっている。     しかし彼は、わたしたちの背きのために刺し貫かれ、     わたしたちの罪悪のために傷つけられた。     わたしたちの平安のために、懲らしめが彼に及んだ。     彼の鞭の打ち傷によって、わたしたちは癒されている。   彼は、わたしたちの背きのために刺し貫かれ、わたしたちの罪悪のために傷つけられ   た。     イエスが私たちのために身代わりの御業を行なわれたことを明示する。イエスが     傷つけられ、打たれるのは当然であると考えるのは、まったく的外れなことであ     る。   わたしたちの平安のために、懲らしめが彼に及んだ     私たち一人一人が取り成しと平安の祝福を得られるように、キリストがその懲ら     しめを受けられた。   彼の鞭の打ち傷によって、わたしたちは癒されている     キリストは神の律法を犯したことによって私たちが受ける災いを引き受け、悔い     改めと赦しによって、罪に苦しむあらゆる人の肉体、精神、霊が癒されるように     して下さった。   4-9節 「彼はわれわれのとがのために傷つけられ」     イエスは人のとがのために苦しみ、十字架におかかりになった。「しかし、この     十字架処刑の詳細については、わずかしか記録されていない。ただ主イエスはロ     ーマの方法によって、その両手と両足に大釘を打ち込まれて十字架につけられ、     ほかの国々で行われる十字架、またははりつけの処刑に見られる習慣のように、     縄だけで縛りつけられたのではなかったことが分かっている。十字架は、死を最     も長引かせる刑であると同時に、あらゆる刑のうちで最も激しい苦痛を与えるも     のであった。その犠牲者は死ぬまで、刻々と増し加わる苦痛を受けた。中には何     時間も何時間も苦しんだ後に死ぬ者、また何日も苦しんだ後に死ぬ者さえあった。     両手両足に無残に打ち込まれた大釘は、敏感な神経と震える腱とを貫いて砕いた     が、それでも致命傷を与えたわけではなかった。受刑者は、無理な不自然な姿勢     によって起こりやすい、内臓器官の炎症と充血で、強烈な苦痛に絶え間なく痛め     つけられ、激しい疲労の末、ついには救いともいえる死を迎えるのであった。」     しかも、キリストが苦しまれたのは十字架の上だけのことではなかった。御自分     の身に世の罪を引き受ける、イザヤの言葉で言えば人の病を負いその悲しみを担     う(4節)苦しみは、すでにゲツセマネの園で始まっていたのである。この苦しみ     と苦悩についてタルメージ長老は次のように書いている。     「ゲツセマネの園におけるキリストの苦悶は、その大きさにしても原因にしても、     人間の心では計り知れないものである。イエスが死を恐れて苦しんでおられたと     いう考えは、受け入れられない。イエスにとって死は、復活に先立つ過程であり、     前に住んでおられた御父のもとへ、勝利を得て、以前受けておられた以上の高い     光栄の状態へ戻って行くことであった。そのうえ、イエスは自分から進んで自分     の生命を捨てる力を内に持っておられたのである。イエスは、これまでこの世に     生を受けた人が、考えつくこともないような重荷の下に苦悶し、うめきたもうた。     イエスに、あらゆる毛穴から血が吹き出るほどの苦痛を与えたのは、肉体の苦し     みでもなければ、心の苦しみでもなく、それは神だけが経験することのできる、     身と霊の両方にかかわる霊的な苦悩であった。肉体的、精神的にどんなに耐えら     れる人であっても、イエスのほかにはそのような苦しみに耐えられなかったであ     ろう。その肉体は苦しみに屈してしまい、仮死の状態で無意識と忘却に陥ったこ     とであろう。その苦痛のときに、イエスは、『この世の君』すなわちサタンが加     えることのできるあらゆる恐怖に立ち向かい、これに打ち勝たれたのである。悪     の力に相対するこの最高の争いに比べれば、主イエスのバプテスマ直後の誘惑に     付随した恐るべき苦悶も物の数ではなかった。     人間には理解できないが、実在する非常に現実的なある方法によって、救い主は     アダムからこの世の終わりに至るまでの人類の罪を自身に引き受けたもうた。現     代の啓示は、この恐ろしい経験を一部理解する助けとなっている。栄光を受けて     おられる主イエス・キリストは、1830年3月に、次のように仰せになった。『見     よ、神であるわたしは、すべての人に代わってこれらの苦しみを負い、人々が悔     い改めるならば苦しみを受けることのないようにした。しかし、もしも悔い改め     なければ、彼らはわたしが苦しんだように必ず苦しむであろう。その苦しみは、     神であって、しかもすべての中で最も大いなる者であるわたし自身が、苦痛のた     めにおののき、あらゆる毛穴から血を流し、体と霊の両方に苦しみを受けたほど     のものであった。そしてわたしは、その苦い杯を飲まずに身を引くことができれ     ばそうしたいと思った。しかしながら、父に栄光があるように。わたしは杯を飲     み、人の子らのためにわたしの備えを終えたのである。』」     救い主の苦しみは、まったく罪がないにもかかわらず、身代わりとして数多くの     罪ある者たちの責任を引き受けた結果としてもたらされたものである。だからこ     そイザヤが「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった」     と言い、また「われわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕     かれた」(4-5節)と言ったのである。     イエスはユダヤの総督であるピラトの前に立ったが、「祭司長、長老たちが数々     の罪状で訴えている問、イエスはひと言もお答えにならなかった。するとピラト     は言った、『あんなにまで次々に、あなたに不利な証言を立てているのが、あな     たには聞えないのか。』しかし、イエスは沈黙を守り、総督が非常に不思議に思     ったほどに、ひと言もお答えにならなかった。」そしてイザヤの預言の成就とし     て、「毛を切る者の前に黙っている羊のように」、イエスは「口を開かなかった」     (7節)のである。     時はまだ朝早いころであった。イエスを監督する兵士たちはイエスを「カヤパ大     祭司のところから官邸につれて行った。」ここはピラトの住居であった。その後、     十字架にかける時間になると、イエスの十字架は盗人であった二人の悪人の間に     立てられた。イエスが十字架上で亡くなられた後、金持ちであったアリマタヤの     ヨセフという人物がピラトのもとへ行き、イエスの埋葬を許可してくれるよう申     し出た。ヨセフはイエスの死体を「岩を掘って作った彼の新しい墓に」納めた。     マタイの記録を調べてみると、イザヤが救い主の逮捕や試練や死や埋葬について     驚くほど詳細にわたって正確に預言していたことが分かる。 06)われわれはみな羊のように迷って、   おのおの自分の道に向かって行った。   主はわれわれすべての者の不義を、   彼の上におかれた。   【解説】   この節はモーサヤ書14章では次のようになっている。     わたしたちは皆、羊のように迷って、     各々自分の道に向かって行った。     主はわたしたちすべての者の罪悪を彼に負わせられた。   わたしたちは皆、羊のように迷って、各々自分の道に向かって行った     心から神に従い、そのみこころを行なおうとする者がだれもいない。     ローマ3:10,23       義人はいない、ひとりもいない。       すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっている。   主はわたしたちすべての者の罪悪を彼に負わせられた     自分で責任のとれる人は皆、この世の中で神の目から見て、罪の無いままに暮ら     すことはできない。だれも自分自身の罪を完全に償うことはできないので、イエ     スが自ら贖いによって罪を償う責任を引き受けられたのである。   ヨハネ1:29「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」     イエスは御父のみこころを行なうに当たり、罪と罪人を理解するために死すべき     体を受けてこの地上に来るという使命を引き受けられた。それは、罪の意識に目     覚めた人が悔い改めの段階を通して導かれ、贖われるようにするためである。 07)彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、   口を開かなかった。   ほふり場にひかれて行く小羊のように、   また毛を切る者の前に黙っている羊のように、   口を開かなかった。   【解説】   しえたげる = ひどい扱いをする   この節はモーサヤ書14章では次のようになっている。     彼は虐げられ、苦しめられたが、     口を開かなかった。     彼は小羊のようにほふり場に引かれて行く。     毛を刈る者の前の物を言わない羊のように、     彼は口を開かなかった。   キリストは大祭司カヤパ、また総督ピラトやヘロデの前でもその偽りの訴えや肉体的   な虐待、不当な訴訟手続きなどに対して、厳しい非難を浴びせるようなことはなさら   なかった。それに関係したすべての人を驚かせたことであるが、イエスは自己弁護の   言葉を一切口にされなかった。     カヤパには、神の子であると証しただけ(マタイ26:62-63)     ピラトには、ユダヤ人の王と証しただけ(マタイ27:12-14; ヨハネ19:9-11)     ヘロデには、何も話さなかった(ルカ23:8-10)   キリストが御自分に向けられた訴えの言葉に対して、答えようとされなかったのは、   法廷手続きが全く不正に行われていたから。イエスはピラトに対して、「あなたは、   上から賜るのでなければ、わたしに対して、何の権威もない。だから、わたしをあな   たに引き渡した者の罪は、もっと大きい」と言われた。   イエスはこの短い言葉の中で、本当に重要なすべての事柄、すなわち、自分が神の子   であり、御父のみこころを行なおうとしていること、また、さもなければ、このよう   なことは起こりえないことを告げられた。 08)彼は暴虐なさばきによって取り去られた。   その代の人のうち、だれが思ったであろうか、   彼はわが民のとがのために打たれて、   生けるものの地から断たれたのだと。   【解説】   打つ = 罰する   この節はモーサヤ書14章では次のようになっている。     彼は獄から連れ去られ、裁きから取り去られたが、     だれが彼の子孫であると名乗るだろうか。     なぜなら、彼は生きている者の地から絶たれたからである。     また、わたしの民の背きのために、彼は打たれたからである。   彼は獄から連れ去られ、裁きから取り去られた     イエスは閉じ込められていた牢獄から引き出され、死刑を宣告された法廷から連     れ出され、十字架にかけられた。   だれが彼の子孫であると名乗るだろうか     彼 = キリスト     彼の子孫 = 預言者たちの言葉を聞いて信じた人々     モーサヤ15:10-11       だれが御子の子孫であると名乗るであろうか。主の来臨について預言してき       たすべての聖なる預言者の言葉を聞いた人々、主が御自分の民を贖われるこ       とを信じ、自分たちの罪の赦しのためにその日を待ち望んできたすべての人、       これらの人々が御子の子孫なのである。彼らは神の王国を受け継ぐ者である。   生きている者の地から絶たれた     イエスの死について述べている。     イエスはこの死について、事前に弟子たちに説明したが、弟子たちは理解できな     かった。(マタイ16:22-23) 09)彼は暴虐を行わず、   その口には偽りがなかったけれども、   その墓は悪しき者と共に設けられ、   その塚は悪をなす者と共にあった。   【解説】   偽り = うそ、不正直   この節はモーサヤ書14章では次のようになっている。     また彼は、悪人とともにその墓を設け、     死んでは富裕な者とともにあった。     なぜなら、彼は決して悪を行わず、     その口には少しの欺きもなかったからである。   悪人とともにその墓を設け     イエスはふたりの盗人とともに十字架に掛けられた。     マルコ15:27-28; ルカ22:37       彼は罪人のひとりに数えられた   彼は決して悪を行わず     イエスは誰も傷つけたことがなかった。   その口には少しの欺きもなかった     イエスの言葉によって傷つけられた者が誰もいなかった。イエスは言葉や行ない     によって人を傷つけることもなく、罪のないままに、不義を償う正義として不当     な死を遂げた。それはみな、私たちを神のみもとへ連れ戻すためであった。 10)しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、   主は彼を悩まされた。   彼が自分を、とがの供え物となすとき、   その子孫を見ることができ、   その命をながくすることができる。   かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。   【解説】   この節はモーサヤ書14章では次のようになっている。     それでも、彼を傷つけることは主の御心にかなっていた。     主は彼に苦痛を受けさせられた。     あなたが彼を罪のささげ物とするとき、     彼は自分の子孫を見てその命を延ばし、     主の御心は彼の手によって栄える。   彼(御子)を傷つけることは主(御父)の御心にかなっていた。   主(御父)は彼(御子)に苦痛を受けさせられた。     アダムの堕落によって、すべての人が死ななければならないことは前世から既に     分かっていた。したがって、正義は罪の無い義の神による犠牲を要求した。それ     は、憐みが人々の囲いとなり、正義の要求から人々を守り、ひとたび断ち切られ     た御父との間を取り成すためである。     イエスはゲツセマネの園で「わが父よ、もしできることでしたらどうかこの杯を     わたしから過ぎ去らせてください」と嘆願された。その時、イエスは既にこの正     義の要求について知っておられたのである。しかし、愛にあふれた御父は世の人     々を愛しておられたので、イエスをその責任から解くことをせずに、み旨のまま     に、御子を打ち砕き、贖いの計画が完全に効力を発揮できるようにしてくださっ     たのである。     こうしてゲツセマネの苦しみが終わり、イエスは大祭司の僕の耳を切り落とし、     身を構えているペテロに向かってこう言われた。「剣をさやに納めなさい。父が     わたしに下さった杯は飲むべきではないか。」   御子を「砕く」ことは天父の「み旨」であったか     神が人々のイエスに対する仕打ちを喜んでおられなかったことは明らかである。     しかし御子の「とがの供え物」(10節)については喜んでおられた。キリストの贖     いの業は、神の基本の律法である正義の律法にかかわる最も厳格な要求を満たす     ものであり、人はその条件を満たしさえすれば、憐れみと赦しを受けることがで     きるようになった。     メルビン・J・バラード長老は、御業を妨げないことでなぜ神が喜ばれるのかと     いうことについて、その理由を次のように説明している。「このとき天父が幕の     かなたでこの死との格闘の様子をもうこれ以上耐えられないというところまでじ     っと見守っておられたことが、わたしには分かる。そして死に行く息子に別れを     告げる母が、最後の苦悶の様子を見ないで済むようにと部屋から連れ出されるよ     うに、天父もその偉大な心を御子への愛で張り裂けんばかりにして頭を垂れ、宇     宙の一角に姿を隠された。その瞬間でさえ御父は御子をお救いになれたというの     に。わたしは、わたしたちをお見捨てにならなかったことを天父に感謝し、天父     を賛美したい。天父が心に抱いておられたのは御子への愛だけではない。わたし     たちをも天父は愛しておられたのである。わたしは天父がこの業を途中でやめら     れなかったことを感謝したい。天父はわたしたちを愛しておられるがゆえに、御     子が苦しみに遭われるのをじっと耐えておられたのである。そしてついに御子は     わたしたちの救い主、贖い主となられた。したがって、もしも御子がおられなか     ったならば、御子の犠牲がなかったならば、わたしたちは今と同じままの状態で     い続け、決して栄光を受けて主の前に戻ることはできなかったであろう。このた     めに天父は御子を人間のために贈り物として与えるという代価を支払われたので     ある。」   彼は自分の子孫を見て     モーサヤ15:10-11; 教義と聖約93:22       その子孫とは、キリストを通して霊的に生まれ変わる人々である。     モーサヤ5:7; ローマ8       その子孫とは、霊的な意味でキリストの息子、娘となる人である。   キリストが義にかなった供え物を通じて「その子孫を見る」とはどういうことか、ま   たキリストの子孫とはだれか     アビナダイは、だれがキリストの子孫となるのか説明している(モーサヤ15:10-     13)。     ブルース・R・マッコンキー長老は、アビナダイが教えたことを次のように要約     している。「以上のように、キリストの子孫とは養子としてキリストの家族の一     員となった者たちであり、信仰によってキリストの息子娘となった者たちである     (モーサヤ5:7)。この者たちは、キリストに従い、弟子となってその戒めを守る     かぎり、キリストの子なのである。   主の御心は彼の手によって栄える     主の御心とは主の子供たちに不死不滅と永遠の命をもたらすことである。     キリストの贖い無しには、そのどちらも受けることができない。 11)彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。   義なるわがしもべはその知識によって、   多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。   【解説】   義とする = 正しい者とする   この節はモーサヤ書14章では次のようになっている。     彼は自分自身の苦しみを知り、それに満足する。     彼の知識により、わたしの義にかなった僕は多くの者を義とするが、     それは、彼が彼らの罪悪を身に負うからである。   自分自身の苦しみ     イエスの魂の苦しみ   満足する     教義と聖約19:16-18; ルカ22:24; モーサヤ3:7       私たちの罪の代償に対しての苦しみは耐え難いものである。キリストは、悔       い改めた人が、この苦しみを受けないようにするため、代わって、この苦し       みを受けられた。その苦しみは、神であったキリストさえも、尻込みさせる       ほどであった。あらゆる毛の穴より血を湧かせた。     アルマ42:15       憐みの計画は贖いという手段を通してのみ実施される。つまり、神は自ら世       の罪を贖わなければならなかった。     アルマ34:15-16       この憐みは正義の要求する罰に勝ち、また、悔い改めを生ずる信仰を人に与       えるために、その道を設ける。人が信じて悔い改めるなら、道が既に出来て       いるから、憐みは正義の要求を満足して、悔い改めた者たちを安全に保護す       ることができる。   義にかなった僕は多くの者を義とする     「多くの人」であって「すべての人」ではない。キリストの贖いは無限無窮の贖     いであって、万人に等しく開かれているものである。しかし、イエスはその御名     を信じ、悔い改めた者の罪しか引き受けられない。   御父はキリストの犠牲を見てどのように「満足」されたのか、またどのように「多く   の人を義と」されたのか     正義の律法は、あらゆる罪に対して罰を求める。全人類の罪の購いをするに当た     って、イエスは正義の律法の要求をことごとく満たし、また罪の赦しを可能にし     た。ジョセフ・フイールデイング・スミス大管長は次のように説明している。     「そこでイエス・キリストが人と神の間に立つ仲保者として、また御父に対して     人を執り成す者として登場する。キリストはわたしたちを弁護される。また仲保     者として、御業を遂行することによってわたしたちを神と和解させようと、すな     わち父なる神とわたしたちとを一致させようと努力される。     弁護者とは他人を弁護したり、他人のために嘆願したりする人である。仲保者と     は二人以上の当事者間の仲を執り成したり、一致を取りつけたりする者である。     これは主の大きな使命の一部である。主は御父と人との間に立たれる。主は地上     におられたとき、弟子たちのために何度も天父に祈られた。そしてそれ以来わた     したちのために祈り、わたしたちと父なる神の間に立っておられる。」 12)それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。   彼は強い者と共に獲物を分かち取る。   これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、   とがある者と共に数えられたからである。   しかも彼は多くの人の罪を負い、   とがある者のためにとりなしをした。   【解説】   獲物 = 人から奪った物品や財産   とりなし = 代理としての行為   この節はモーサヤ書14章では次のようになっている。     それゆえ、わたしは彼に大いなる者とともに物を分かち取らせ、     得たものを強い者に分け与えよう。     彼が自分の魂を死に至るまで注いだからである。     彼は背く者たちとともに数えられ、     多くの者の罪を負い、     背く者たちのために執り成しをした。   わたし(御父)は彼(御子)に大いなる者とともに物を分かち取らせ     イエスがその苦しみの報いを刈り取ることを表している。万物の相続者に指名さ     れ、私たちの罪を贖われたイエスは大いなる者、すなわち、神々と共にひとつの     受け継ぎを受け、高い所にいます大能者の右に着かれたのである。そしてキリス     トはエマオに向かう道でふたりの弟子にこう言っておられる。「キリストは必ず     これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったか。」   得たものを強い者に分け与えよう     黙示録3:21       イエスはその受け継ぎを、悪を克服した強い人々を分かち合われる。   自分の魂を死に至るまで注いだ     義なる僕は死ななければならない   背く者たちのために執り成しをした     へブル7:25       彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって       神に来る人々を、いつも救うことができるのである。   イエスはどのようにして「大いなる者と共に物を分かち取」られるのか、またどのよ   うにして「強い者とともに獲物を分かち取」られるのか     イエスは文字どおり神の御子であり、その忠実さのゆえに御父の持っておられる     ものをすべて受け継ぐ。もしキリストの贖罪を受け入れ、ふさわしい生活をする     人はキリストと「共同の相続人」となる。マッコンキー長老は「共同相続人」と     いう言葉について次のように定義している。     「共同相続人とは、第一の相続人すなわち神の御子を含むすべての相続人ととも     に平等に受け継ぐ者のことである。共同相続人は皆、あらゆるものをことごとく     平等にまた分割せずに所有する。もし一人があらゆることを知っていれば、ほか     の人も皆同様である。もし一人があらゆる力を持っていれば、共同の相続人とな     った人は皆持っている。宇宙が一人の人の所有であれば、共同で相続した人々全     体が平等に所有していることになる。     共同相続人はすべてのものの所有者である。彼らは昇栄した人々であり、すべて     のものを所有している。また、主と『等しい者』とされる。天においても地にお     いてもあらゆる力を授けられ、御父の完全を受け、そしてあらゆる知識と真理が     自分のものとなる。共同相続人は神々である。」
第54章   【解説】   回復と集合。福千年。   終わりの時に、シオンとシオンのステークが確立され、   イスラエルは憐れみと慈しみをもって集められる。   イスラエルは勝利を得る。   引用:3ニーファイ22   関連:3ニーファイ23:1-6,14。   参照 「イザヤ書 英語版比較」   【セミナリー解説】   いつくしみ深い夫   散らされて囚われの身となったイスラエルの子らに向かい、主は54章の中で御自分と   民との関係を夫婦関係にたとえて語っておられる。民はしばらくの間は離れているが、   主は憐れみといつくしみをもって再び迎え、永遠に「夫」になると約束しておられる。   またこの約束は、罪の中にいて、たとえ悔い改めても主は自分を受け入れてくださら   ないだろうと思っている人への希望のメッセージととらえることもできる。 01)「子を産まなかったうまずめよ、歌え。   産みの苦しみをしなかった者よ、   声を放って歌いよばわれ。   夫のない者の子は、   とついだ者の子よりも多い」と主は言われる。   【解説】   この節は第3ニーファイ22章では次のようになっている。     「書き記されていることは、そのときに起こる。     『「おお、子を生まなかった不妊の女よ、歌いなさい。     産みの苦しみを味わわなかった者よ、     声を放って歌い、声高らかに叫びなさい。     見捨てられた者の子供は、     夫のある者の子供よりも多いからである」と、主は言われる。   1-8節 主の花嫁が備えられる     ここでもまた、結婚の話がたとえに使われている。イスラエルはうまずめと呼ば     れているが、これはイスラエルが、主のために霊の子孫をもうけることができず、     また喜んでもうけようとしなかったからである。最終的にはイスラエルはもう一     度集合する。しかしそのときには「夫のない者」の子供、つまり一時的に見捨て     られた者の数の方が、古代に結婚していた者の子の数よりも多くなる(1節)。こ     れは真実の預言である。したがって末日のシオンの「天幕」を広げてその人々を     皆収容できるよう、空間を確保する必要が出てくる。小さい天幕を大きくするた     めには、杭を抜き、中央の柱からもっと遠い地点へ打ち直す必要がある。これが、     綱を長くし杭を強固にせよという語句の意味である(2節)。イスラエルが末の日     に改宗と集合とを通じて成長することについては、「あなたは右に左にひろがり」     (3節)という言葉で表されている。     昔、中東の女性は子供を産めないことを大きなのろいと考えていた。イスラエル     は、集められた「妻」として昔の恥を忘れる。若いときの不遇な状態に別れを告     げ、新たに訪れた豊かな境遇を十分に楽しむのである。イスラエルは再び主に嫁     ぐ(4-5節)。長く感じられたうまずめの年月、つまり見捨てられていた年月も、     前途に広がる永遠の時に比べれば、ほんの瞬間でしかなかったのである(6-8節)。 02)「あなたの天幕の場所を広くし、   あなたのすまいの幕を張りひろげ、   惜しむことなく、あなたの綱を長くし、   あなたの杭を強固にせよ。   【解説】   この節は第3ニーファイ22章では次のようになっている。     「あなたの天幕の場所を広くし、     あなたの住まいの幕を張って広げなさい。     惜しむことなく、あなたの綱を長くし、     あなたの杭を強固にしなさい。   天幕(てんまく) = テント   杭 = ステーク   イザヤは教会のステークを、それぞれ天幕と杭にたとえた。   回復されたシオンを支え、保持する教会の会員と力の広大な領域をステークと呼んで   いる。そこは散乱したイスラエルの残りの人々の結集拠点であり、集合の中心地であ   る。 03)あなたは右に左にひろがり、   あなたの子孫はもろもろの国を獲、   荒れすたれた町々をも住民で満たすからだ。   【解説】   この節は第3ニーファイ22章では次のようになっている。     あなたは右にも左にも広がり、     あなたの子孫は異邦人から受け継いで、     荒れ果てたもろもろの町を人の住む所とするからである。   1-3節 大いなる発展が予言される。 04)恐れてはならない。   あなたは恥じることがない。   あわてふためいてはならない。   あなたは、はずかしめられることがない。   あなたは若い時の恥を忘れ、   寡婦であった時のはずかしめを、   再び思い出すことがない。   【解説】   この節は第3ニーファイ22章では次のようになっている。     あなたは恥じることはないので、     恐れてはならない。     あなたは辱められることはないので、     うろたえてはならない。     あなたは若いときの恥を忘れ、     若いときの恥辱を思い出さず、     寡婦であったときの恥辱を決して思い出すことはない。   寡婦(かふ) = 夫に死に別れて再婚しないでいる女性。やもめ。未亡人 05)あなたを造られた者はあなたの夫であって、   その名は万軍の主。   あなたをあがなわれる者は、   イスラエルの聖者であって、   全地の神ととなえられる。   【解説】   この節は第3ニーファイ22章では次のようになっている。     あなたを造った者があなたの夫であり、     その名は万軍の主である。     あなたの贖い主はイスラエルの聖者であり、     全地の神ととなえられる。   創造主、エホバ、贖い主を夫にたとえている結婚の象徴 06)捨てられて心悲しむ妻、   また若い時にとついで出された妻を招くように   主はあなたを招かれた」と   あなたの神は言われる。   【解説】   この節は第3ニーファイ22章では次のようになっている。     主はあなたを、見捨てられて心に痛手を負っている女のように、     また若いときに拒まれた妻のように招かれたからである」と、     あなたの神は言われる。 07)「わたしはしばしばあなたを捨てたけれども、   大いなるあわれみをもってあなたを集める。   【解説】   この節は第3ニーファイ22章では次のようになっている。     「わたしは少しの間あなたを捨てたが、     深い憐れみをもってあなたを集めよう。   実際イスラエルの民は、真実の保護に携わったあと自分たちの国を取り戻した。 08)あふれる憤りをもって、   しばしわが顔を隠したけれども、   とこしえのいつくしみをもって、   あなたをあわれむ」と、   あなたをあがなわれる主は言われる。   【解説】   この節は第3ニーファイ22章では次のようになっている。     わたしはいささか怒って、     少しの間あなたから顔を隠したが、     永遠の慈しみをもってあなたを憐れもう」と、     あなたの贖い主である主は言われる。 09)「このことはわたしにはノアの時のようだ。   わたしはノアの洪水を、   再び地にあふれさせないと誓ったが、   そのように、わたしは再びあなたを怒らない、   再びあなたを責めないと誓った。   【解説】   この節は第3ニーファイ22章では次のようになっている。     「このことは、わたしにはノアの洪水のようである。     わたしはかつてノアの洪水が二度と地を覆うことはないと誓ったが、     そのように、わたしはあなたを怒らないと誓った。   6-9節     集合の聖約は、二度とこの地上を覆う洪水を起こすことはないというノアとの間     に交わされた誓約と同じように確かなものである。   9-17節 「ノアの洪水」とはどういう意味か     神は自ら約束されたことは必ず守られる。神はノアの時代に地球を清めるために     洪水を送られたが、その後で同じように地球を滅ぼすことは二度となさらないと     ノアと聖約を交わされた。終わりの日にイスラエルを復興するという神の約束は、     「ノアの洪水」(9節)のようなものである。つまり、イスラエルを復興するとい     う約束はノアに与えた約束と同様に確かなものである、ということである。山は     移り、「丘は動いても」(10節)、神の約束はなお果たされるのである。     集合した状態のシオンは美しいものとなる。11節と12節に書かれている宝石は、     贖われたイスラエルに授けられる物質的な祝福また霊的な祝福を表している。そ     の祝福の中には、「主に教をうけ」る(13節)子供や大いなる平安を知ることも含     まれる。末日のイスラエルを制圧しようと集まる者たちは、「あなたのゆえに倒     れる。」(15節)「すべてあなたを攻めるために造られる武器は、その目的を達し     ない」からである。(17節) 10)山は移り、丘は動いても、   わがいつくしみはあなたから移ることなく、   平安を与えるわが契約は動くことがない」と、   あなたをあわれまれる主は言われる。   【解説】   この節は第3ニーファイ22章では次のようになっている。     山々が去り、丘が動いても、     わたしの慈しみはあなたから去ることなく、     わたしの平和の聖約は動くことがない」と、     あなたを憐れむ主は言われる。 11)「苦しみをうけ、あらしにもてあそばれ、   慰めを得ない者よ、   見よ、わたしはアンチモニーであなたの石をすえ、   サファイヤであなたの基をおき、   【解説】   この節は第3ニーファイ22章では次のようになっている。     「おお、苦しめられ、嵐にもてあそばれ、     慰めを得ない者よ。     見よ、わたしは麗しい色であなたの石を敷き、     サファイヤであなたの基を据えよう。   アンチモニー = 宝石の一種 窒素族元素の一。元素記号 Sb 原子番号51。           原子量121.8。銀白色の固体金属   サファイヤ = コランダムの一。青色透明、また緑・黄色のものもある。濃青色          透明なものは宝石にする 12)めのうであなたの尖塔を造り、   紅玉であなたの門を造り、   あなたの城壁をことごとく宝石で造る。   【解説】   この節は第3ニーファイ22章では次のようになっている。     また、めのうであなたの窓を造り、     紅玉であなたの門を造り、     あなたの境をすべて宝石で造ろう。   めのう = 石英の結晶の集合体(玉髄(ぎょくずい))で、色や透明度の違        いにより層状の縞模様をもつもの。色は乳白・灰・赤褐色など        変化に富む。宝石・装飾品とされ、また硬質なので乳鉢にも使        われる。   紅玉(こうぎょく) = ルビーのこと 13)あなたの子らはみな主に教をうけ、   あなたの子らは大いに栄える。   【解説】   この節は第3ニーファイ22章では次のようになっている。     あなたの子孫は皆、主によって教えを受け、     あなたの子孫の平安は深い。 14)あなたは義をもって堅く立ち、   しえたげから遠ざかって恐れることはない。   また恐怖から遠ざかる、   それはあなたに近づくことがないからである。   【解説】   この節は第3ニーファイ22章では次のようになっている。     あなたは義をもって堅く立てられる。     あなたは恐れないので、虐げられることはない。     また、恐怖から遠ざかる。     それはあなたに近づくことがないからである。 15)たとい争いを起す者があっても、   わたしによるのではない。   すべてあなたと争う者は、あなたのゆえに倒れる。   【解説】   この節は第3ニーファイ22章では次のようになっている。     見よ、彼らは必ずあなたに敵対して集まるが、     それはわたしによるのではない。     あなたに敵対して集まる者はだれであろうと、あなたのゆえに倒れる。 16)見よ、炭火を吹きおこして、   その目的にかなう武器を造り出す鍛冶は、   わたしが創造した者、   また荒し滅ぼす者も、わたしが創造した者である。   【解説】   この節は第3ニーファイ22章では次のようになっている。     見よ、わたしは炭火を吹きおこして、     自分の仕事のために道具を造る鍛冶を造った。     また、わたしは荒らし滅ぼす者も造った。   鍛冶(かじ) = 鉄などの金属を熱して打ち鍛え、種々の器物をつくること。          また、その職人   (私的)「鍛冶」は英語で「スミス」。ジョセフ・スミスを表している。 17)すべてあなたを攻めるために造られる武器は、   その目的を達しない。   すべてあなたに逆らい立って、争い訴える舌は、   あなたに説き破られる。   これが主のしもべらの受ける嗣業であり、   また彼らがわたしから受ける義である」と、   主は言われる。   【解説】   この節は第3ニーファイ22章では次のようになっている。     あなたを攻めるために造られる武器は、     まったく役に立たない。     また、裁きの時にあなたに向かってののしる舌はことごとく、     あなたがそれを罪に定める。     これが主の僕たちの受け継ぐものであって、     彼らの義はわたしから出る」と、     主は言われる。』」   嗣業(しぎょう) = 引き継ぐ財産、次世代に渡す所有地等   13-17節 末日の主の僕たちに与えられた大いなる約束
第55章   【解説】   背教。回復。集合。末日のシオンの栄光。   【セミナリー解説】   主からの招き   55章で主は、御自分のもとに来るようにと、再度呼びかけておられる。55章の中で、   主は散らされたイスラエルとわたしたち全員が主を信頼して主に従うことを望むべき   である理由をさらに挙げておられる。最初の「さあ」という言葉は、相手の注意をこ   ちらに向け、近くに来るように呼びかけるときに使われる。この言葉は普通、手招き   と一緒に用いられる。 01)「さあ、かわいている者はみな水にきたれ。   金のない者もきたれ。   来て買い求めて食べよ。   あなたがたは来て、金を出さずに、   ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。   【解説】   1-2節 「みな水にきたれ。買い求めて食べよ」     水に来て食べよというこの聖句は、『モルモン書』でヤコブが贖いに関する説教     の中で繰り返し使っており、あらゆる人は来て贖いの祝福を受けよというヤコブ     の訴えの土台となっている。『モルモン書』にはさらに重要な言葉が付け加えら     れている。イザヤ55:1と2ニーファイ9:50-51。     この聖句の意味は明らかである。イエスは「生ける水」であり「命のパン」であ     る)。その恵みに満ちた賜物は人に自由にかつ無料で与えられる。しかしながら、     キリストのもとに来て値なしでこれらの賜物を受けよという招きは、努力せずに     手に入るということではなく、ただそれらを手に入れるためにこの世のものは必     要ないということである。     マリオン・G・ロムニー長老は、どのような代価が求められているかについて次     のように説明している。     「地上での生活が終わり、ほんとうの意味で目が開けてありのままが見えるよう     になると、そのときには主や預言者たちが繰り返し教えてきたことがもっとはっ     きりと分かり、理解できるようになる。また福音の実こそ生涯をかけて追求する     価値のある唯一の目標であることが分かる。福音の実を所有する人は、まことの     富、すなわち主の目から見て価値のある富を持つ人である。     わたしは、確かに福音がもたらす祝福には測り知れないほどの価値があり、それ     を受けるための代価はかなり厳しいものに違いないと考えている。主がこれまで     にこの件について言われたことを誤って解釈していないかぎり、そう考えて間違     いないと思う。しかし、その代価を支払う能力がないというような人はだれもい     ない。それは、お金やこの世の品物によってではなく、義にかなった生活により     支払うものだからである。求められているのは、全身全霊を傾けて福音に献身す     ることであり、また末日聖徒イエス・キリスト教会に対して無条件に忠誠を尽く     すことである。     行動を起こしたとしても、中途半端な気持ちで行ったのでは十分とはいえない。     わたしたちはそのような祝福にあずかることができず、ちょうど幼いときから戒     めを守っていたにもかかわらず、悲しみながら立ち去って行ったあの金持ちの青     年のようになることであろう。『ほかに何が足りないのでしょう』という青年の     問いかけに対して、イエスはこう答えられた。     「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、     貧しい人々に施しなさい。そして、わたしに従ってきなさい。」明らかにこの青     年はあらゆる戒めに従って生活することはできたただ、福祉の道に従えなかった     のである。     守らないでもかまわないというような戒めはあるはずがない。わたしたちは喜ん     であらゆるものを犠牲にささげなければならない。自分を訓練し献身することに     よって、わたしたちはいかなる状況にあっても喜んで主に仕える気持ちのあるこ     とを主に示すのである。これをすべて行ったとき、わたしたちは来世で永遠の命     にあずかれるという確信を受けることができる。そうして初めてわたしたちはこ     の世で平安を感じることができるのである。」 02)なぜ、あなたがたは、かてにもならぬもののために金を費し、   飽きることもできぬもののために労するのか。   わたしによく聞き従え。   そうすれば、良い物を食べることができ、   最も豊かな食物で、自分を楽しませることができる。   【解説】   なぜ飢えを満たすこともできない物に金を費やすのだろうか。 03)耳を傾け、わたしにきて聞け。   そうすれば、あなたがたは生きることができる。   わたしは、あなたがたと、とこしえの契約を立てて、   ダビデに約束した変らない確かな恵みを与える。   【解説】   「ダビデに約束した変らない確かな恵み」     この「ダビデ」はだれか、ということに関する説明については、イザヤ11:1の     「解説」を参照する。   イザヤはなぜダビデについて語っているのか。   ここでの「ダビデ」は、実際にはダビデの王座の正当な相続者であるイエス・キリス   トを指している。興味深いことに、ヘブライ語の「ダビデ」という名前は「最愛の」   を意味する。旧約の後期の預言者たちがダビデについて述べている場合、ふつうダビ   デの王座、つまりメシヤについて語っている。 04)見よ、わたしは彼を立てて、   もろもろの民への証人とし、   また、もろもろの民の君とし、命令する者とした。 05)見よ、あなたは知らない国民を招く、   あなたを知らない国民は   あなたのもとに走ってくる。   これはあなたの神、主、   イスラエルの聖者のゆえであり、   主があなたに光栄を与えられたからである。   【解説】   集合を予言している。 06)あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、   主を尋ねよ。   近くおられるうちに呼び求めよ。 07)悪しき者はその道を捨て、   正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。   そうすれば、主は彼にあわれみを施される。   われわれの神に帰れ、   主は豊かにゆるしを与えられる。   【解説】   豊かに = 惜しみなく、大量に 08)わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、   わが道は、あなたがたの道とは異なっていると、   主は言われる。 09)天が地よりも高いように、   わが道は、あなたがたの道よりも高く、   わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。   【解説】   6-9節     神は豊かに赦しを与えられる。私たちが主と異なるひとつの点は、互いに赦し合     うことにおいて遅いということである。 10)天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、   地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、   種まく者に種を与え、   食べる者にかてを与える。   【解説】   帰る = 元の場所に戻る 11)このように、わが口から出る言葉も、   むなしくわたしに帰らない。   わたしの喜ぶところのことをなし、   わたしが命じ送った事を果す。   【解説】   むなしい = 口先だけで、何の役にも立たない   雨と雪が種を成長させるように、神の言葉は私達を成長させる。 12)あなたがたは喜びをもって出てきて、   安らかに導かれて行く。   山と丘とはあなたの前に声を放って喜び歌い、   野にある木はみな手を打つ。 13)いとすぎは、いばらに代って生え、   ミルトスの木は、おどろに代って生える。   これは主の記念となり、   また、とこしえのしるしとなって、   絶えることはない」。   【解説】   いとすぎ = ヒノキ科の常緑高木。高さ約45メートルにも達する。   おどろ = みだれて生えているとげのある植物   8-13節 神の偉大な特質にあずかるにはどうしたらよいか     神の道や言葉、思いは人のものとは異なっている。それははるかに高く、はるか     に深い。雪や雨は天から降り、地の産物に滋養をを与え人に繁栄をもたらすが、     同様に神の言葉は、それに耳を傾ける人の魂に栄養を与え繁栄をもたらす。しか     し、性々にして人は神を忘れ、己の知恵に頼る。言い換えれば、物事を行う際に、     自分の考えとは違うという理由で、神の言われる方法を拒むのである。     ジョン・テーラー長老は、イザヤ言の聖句について次のように述べている。「わ     たしたちが知っていること、見ていること、理解していることは、部分的なもの     でしかない。神に関する事柄の多くは、過去のことであれ、現在のことであれ、     未来のことであれ、わたしたちの目からは隠されているのである。そのために世     間一般の人は自分の身の回りの神の業について早計な判断を下し、神から賜った     ささやかな判断力だけに頼って、神の御心をいろいろと詮索し、過去の奇跡やま     だ隠されている事柄を解き明かそうとしている。しかし、そのような人は、神の     御霊によらなければだれも神に関する事柄について知ることはできないというこ     とを忘れている。また、この世の知恵は神にとっては愚かなものであり、神の御     心を詮索したり、過去現在未来に関するエホバの目的を知る能力を持つ人はだれ     もいないということも忘れている。こうして、このようなことをすべて忘れると、     人はあらゆる種類の過ちを犯し、聖文の教えに反することをしてしまうのである。     聖文に書かれた教えの中には人の愚かさと弱さを示すものもあり、神の知恵と英     知とを示すものもある。神の知恵と英知は、天が地からはるかに高い所にあるよ     うに、人の知恵や英知をはるかに超越した高い所にあるのである。」   ミルトス = フトモモ科の植物、ギンバイカとも言う。ミルトスは生命力が強く         て、切られても長く生きることから不死の象徴となった。ユダヤ         教のな中では仮庵の祭り、結婚式などにも用いられる。
第56章   【解説】   背教。回復。集合。末日のシオンの栄光。   【セミナリー解説】   主はすべての国を救われる   56章で主は、御自分はイスラエルの子らを救い、同じ祝福を望む者にはだれにでも与   えると言っておられる。6節の「異邦人」と8節の「さらに人を集めて」に注目しよう。 01)主はこう言われる、   「あなたがたは公平を守って正義を行え。   わが救の来るのは近く、   わが助けのあらわれるのが近いからだ。 02)安息日を守って、これを汚さず、   その手をおさえて、悪しき事をせず、   このように行う人、   これを堅く守る人の子はさいわいである」。 03)主に連なっている異邦人は言ってはならない、   「主は必ずわたしをその民から分かたれる」と。   宦官もまた言ってはならない、   「見よ、わたしは枯れ木だ」と。   【解説】   宦官(かんがん) = 東洋諸国で宮廷や貴族の後宮に仕えた去勢された官吏   宦官     去勢された男性。奴隷、罪人を連れてきて、王宮で使えさせる。     30%は去勢したときの感染症で死ぬ。     年を取ると捨てられる。そして、飢えて死ぬ。     街では、なよなよしているので、ばかにされる。     人生に夢を持てない状態。枯れ木。     使徒行伝に宦官が出てくる。ピリポがエチオピアの宦官に会う。     たぶん改宗したユダヤ人。 04)主はこう言われる、   「わが安息日を守り、わが喜ぶことを選んで、   わが契約を堅く守る宦官には、 05)わが家のうちで、わが垣のうちで、   むすこにも娘にもまさる記念のしるしと名を与え、   絶えることのない、とこしえの名を与える。   【解説】   これらは神殿で得られるしるしと名のこと 06)また主に連なり、主に仕え、   主の名を愛し、そのしもべとなり、   すべて安息日を守って、これを汚さず、   わが契約を堅く守る異邦人は―― 07)わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、   わが祈の家のうちで楽しませる、   彼らの燔祭と犠牲とは、   わが祭壇の上に受けいれられる。   わが家はすべての民の祈の家ととなえられるからである」。   【解説】   燔祭(はんさい) = 神にささげる焼いて行ういけにえ   キリストはマタイ21:13でこれを引用された。 08)イスラエルの追いやられた者を集められる、   主なる神はこう言われる、   「わたしはさらに人を集めて、   すでに集められた者に加えよう」と。   【解説】   1-8節 「異邦人」とはだれか、「宦官」とはだれか、またこの語句にはどのような意   味があるのか     1-8節の意味を理解するためには、3つの語句の意味とそれが古代イスラエルにと     ってどのような意味があったのかについて理解しておかなければならない。その     3つの語句とは「安息日」、「異邦人」、「宦官」である。     「安息日」現代の人々は安息日というと、日曜日あるいは主の日であるというこ     としか思い浮かばない。しかし、古代のイスラエルにとっては安息日という言葉     はもっと広い意味があったのである。毎週の安息日は、安息日と呼ばれた数多く     の日のうちの1日でしかなかった。過越、五旬節、仮庵、贖罪の日などあらゆる     祭の日は、すべて安息日と呼ばれていたのである。つまり、「わが安息日を守る」     (4節)ということには、モーセの律法のすべてを守るという意味があったのであ     る。それらの祭にはイスラエルが神と交わした聖約に含まれる様々な要素がある     からである。さらにまた、主はモーセに与えた啓示を通して、安息日を守ること     はイスラエルと神との間に交わされた聖約のしるしであると言われた。イザヤは、     安息日を汚すと述べているが、それには、ただ日曜日(ユダヤ人にとっては土曜     日)に働かないとか遊ばないとかいったこと以上の意味があったのである。     「異邦人」「モーセの律法および『旧約聖書』における異邦人とは、一般に、イ     スラエルの子孫でないにもかかわらずへプライ人と一緒に居留している者のこと     である。その点で一時的にイスラエルを訪れている外国人とは区別される。異邦     人は完全な市民ではなかったが、権利や義務は認められていた。異邦人も神の保     護の下にあり、イスラエルの人々には異邦人を厚遇する責任があったのである。     「宦官」モーセの律法の下では、去勢した人は一切イスラエルの家の中で完全な     交わりを享受することは認められなかった。恐らくこのような定めが書かれたの     は、肉体上の傷のないことが霊的に欠けた点がないことの象徴だったからであろ     う。宦官の祭司やレビ人は神権の職を行使することはできなかった。     以上の3つの言葉を理解すると、56章に書かれている約束のすばらしさも理解で     きる。異邦人や宦官(以前は聖約の民との完全な交わりを拒まれ、自分は「枯れ     木」(3節)であるがゆえに聖約の中では実を結ぶことができないと感じていた人     々)も、今や安息日(神の律法全体という意味で使われている表現)を守りさえす     れば自分たちも神の完全な祝福にあずかることができるのである。終わりの日に     集められるのは「イスラエルの追いやられた者」だけではない。このほかにも     「さらに人」を集められるのである(8節)。血統的にイスラエルに属するかどう     かは、神と聖約を交わし、それを守るかどうかということと比べれば、それほど     重要ではない。それゆえ回復の時には、神の家は「すべての民の祈り家」(7節)     となるのである。 09)野のすべての獣よ、   林におるすべての獣よ、来て食らえ。 10)見張人らはみな目しいで、知ることがなく、   みな、おしの犬で、ほえることができない。   みな夢みる者、伏している者、   まどろむことを好む者だ。 11)この犬どもは強欲で、飽くことを知らない。   彼らはまた悟ることのできない牧者で、   皆おのが道にむかいゆき、   おのおのみな、おのれの利を求める。 12)彼らは互に言う、   「さあ、われわれは酒を手に入れ、   濃い酒をあびるほど飲もう。   あすも、きょうのようであるだろう、   すばらしい日だ」と。   9-12節 この部分で使われている特別な比喩はそれぞれ何を指しているのか     9-12節で使われている「獣」「見張人」「犬」「牧者」という語句の意味につい     ては、学者の間でも一致した見解はない。獣は食らい、見張り人は目が見えず、     犬は口を閉ざして強欲で、牧者は悟りを得ないでいる。あくまでも推測の域を出     ないが、末日のこの四者は福音を紹介されたときにそれを拒み、ほかのものを探     し求める異邦人のことを指していると考えることもできる。また、この聖句はす     でに福音を受けていながら(羊の群れを見守る)、それをほかの人々に分かち与え     ようとしない人々のことを指しているとも考えられる。     「キムキは次のように考えている。この見張り人たちには『羊の群れを守護する     役目がゆだねられていた。しかし、野の獣は来るが、この犬はほえず、ついに野     の獣たちはこの群れを食べてしまう。つまり、見張り人たちはこの群れにとって     何の役にも立たず、むしろ、害になるだけである。羊の所有者たちはこの見張り     人たちを信頼して、羊の群れを忠実に守ってくれるものと期待しているのに、実     態はまったくそうではないのである。この見張り人たちは偽教師であって、愛情     のない羊飼いなのである。』」     この4つの言葉は終わりの日におけるキリスト教界の状態を適切に表現している。     現代の諸教会についてのニーファイの言葉を読み(2ニーファイ28:3-9)、モロナ     イの言葉(モルモン8:31-33;37-39)と比較する。
第57章   【解説】   背教。回復。集合。末日のシオンの栄光。   【セミナリー解説】   主は癒しの力を持っておられる   56章の最後の4節で、イザヤは民の罪について民に直接語り始めている。彼の警告は   59章まで続く。57章には偶像礼拝を非難する力強い言葉が記録されている。イザヤは   イスラエルと主との聖約関係を表すために、再び結婚の象徴を用いている。もし主と   聖約を交わした人が象徴的に主と結婚したのであれば、ほかの神々を礼拝したイスラ   エルの民は「姦淫をする者」だった。イザヤは罪人が被る結果について語り、人は罪   のゆえに罰を受けなければならないが、同時に、犯した罪そのものが罰となることも   あると教えている。またイザヤは、いつまでも忠実であり続ける人々のために主がな   さることについても語っている。当時は民のほとんどが主を捨てていたため、忠実で   あり続けるのは難しいことだった。そして、国民全体がその悪影響を受けていた。し   たがって、主は「いかす」(15節)、「いやす」(18-19節)、「慰め」(18節9といった   言葉を用いられた。   【インスティテュート解説】   「わが神は言われる、『よこしまな者には平安がない」と」     義人が死ぬと、その人は平安と安息の状態であるパラダイスへ行く。一方、よこ     しまな者たちは平安を知らない。3-12節は多方面にわたる罪悪を挙げ、ここだけ     でなくほかの箇所でも姦淫の罪として非難したイスラエルの不信仰を実例として     出している(7-8節)。「わたしはあなたの義と、あなたのわざを告げ示そう」と     主は言われた。「しかしこれらはあなたを益しない。」(12節)蔵言の言葉は恐ら     くこの語句の意味をいちばん適切に表現しているだろう。「不義の宝は益なく、     正義は人を救い出して、死を免れさせる。」(筬言10:2) 01)正しい者が滅びても、心にとめる人がなく、   神を敬う人々が取り去られても、悟る者はない。   正しい者は災の前に取り去られて、 02)平安に入るからである。   すべて正直に歩む者は、その床に休むことができる。 03)しかし、あなたがた女魔法使の子よ、   姦夫と遊女のすえよ、こちらへ近寄れ。 04)あなたがたは、だれにむかって戯れをなすのか。   だれにむかって口を開き、舌を出すのか。   あなたがたは背信の子ら、   偽りのすえではないか。 05)あなたがたは、かしの木の間、   すべての青木の下で心をこがし、   谷の中、岩のはざまで子どもを殺した。   【解説】   子供を犠牲に捧げていた当時の宗教について言及している。 06)あなたは谷のなめらかな石を自分の嗣業とし、   これを自分の分け前とし、   これに灌祭をそそぎ、供え物をささげた。   わたしはこれらの物によってなだめられようか。   【解説】   嗣業(しぎょう) = 引き継ぐ財産、次世代に渡す所有地等   灌祭(かんさい) = 犠牲を捧げるときに添えられる濃い酒、民数記28参照 07)あなたは高くそびえた山の上に自分の床を設け、   またそこに登って行って犠牲をささげた。 08)また戸および柱のうしろに、   あなたのしるしを置いた。   あなたはわたしを離れて自分の床をあらわし、   それにのぼって、その床をひろくした。   また彼らと契約をなし、彼らの床を愛し、   その裸を見た。 09)あなたは、におい油を携えてモレクに行き、   多くのかおり物をささげた。   またあなたの使者を遠くにつかわし、   陰府の深い所にまでつかわした。   【解説】   におい油 = 香料の入った油   モレク = 偶像崇拝の神 10)あなたは道の長いのに疲れても、   なお「望みがない」とは言わなかった。   あなたはおのが力の回復を得たので、   衰えることがなかった。 11)あなたはだれをおじ恐れて、偽りを言い、   わたしを覚えず、また心におかなかったのか。   わたしが久しく黙っていたために、   あなたはわたしを恐れなかったのではなかったか。 12)わたしはあなたの義と、あなたのわざを告げ示そう、   しかしこれらはあなたを益しない。 13)あなたが呼ばわる時、   あなたが集めておいた偶像にあなたを救わせよ。   風は彼らを運び去り、   息は彼らを取り去る。   しかしわたしに寄り頼む者は地を継ぎ、   わが聖なる山をまもる。 14)主は言われる、   「土を盛り、土を盛って道を備えよ、   わが民の道から、つまずく物を取り去れ」と。   【解説】   道を作る = 主を迎える備え 15)いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、   その名を聖ととなえられる者がこう言われる、   「わたしは高く、聖なる所に住み、   また心砕けて、へりくだる者と共に住み、   へりくだる者の霊をいかし、   砕ける者の心をいかす。 16)わたしはかぎりなく争わない、   また絶えず怒らない。   霊はわたしから出、   いのちの息はわたしがつくったからだ。 17)彼のむさぼりの罪のゆえに、   わたしは怒って彼を打ち、   わが顔をかくして怒った。   しかし彼はなおそむいて、おのが心の道へ行った。 18)わたしは彼の道を見た。   わたしは彼をいやし、   また彼を導き、慰めをもって彼に報い、   悲しめる者のために、くちびるの実を造ろう。 19)遠い者にも近い者にも平安あれ、平安あれ、   わたしは彼をいやそう」と主は言われる。 20)しかし悪しき者は波の荒い海のようだ。   静まることができないで、   その水はついに泥と汚物とを出す。 21)わが神は言われる、   「よこしまな者には平安がない」と。
第58章   【解説】   背教。回復。集合。末日のシオンの栄光。   断食はどうあるべきか。その律法の精神についての説明。   イザヤの言う安息日は、現在考えられるものと違う。   主を思い出す日であり、日曜日だけでなく、その他の祭(過ぎ越し、仮庵など)も   安息日に含まれる。安息年もある。(7年に1年、耕作地を休ませる年)   イザヤは形だけの断食を非難している。   自分のことを求めるのでなく、他人のために行うべきである。   【セミナリー解説】   断食と安息日   断食の目的、安息日を聖なる日として保つ目的。安息日を聖なる日として保つことに   よって受ける祝福。 01)「大いに呼ばわって声を惜しむな。   あなたの声をラッパのようにあげ、   わが民にそのとがを告げ、   ヤコブの家にその罪を告げ示せ。   【解説】   惜しむ = 抑える 02)彼らは日々わたしを尋ね求め、   義を行い、神のおきてを捨てない国民のように、   わが道を知ることを喜ぶ。   彼らは正しいさばきをわたしに求め、   神に近づくことを喜ぶ。 03)彼らは言う、『われわれが断食したのに、   なぜ、ごらんにならないのか。   われわれがおのれを苦しめたのに、   なぜ、ごぞんじないのか』と。   見よ、あなたがたの断食の日には、   おのが楽しみを求め、   その働き人をことごとくしえたげる。   【解説】   ごぞんじない = お気づきにならない 04)見よ、あなたがたの断食するのは、   ただ争いと、いさかいのため、   また悪のこぶしをもって人を打つためだ。   きょう、あなたがたのなす断食は、   その声を上に聞えさせるものではない。 05)このようなものは、わたしの選ぶ断食であろうか。   人がおのれを苦しめる日であろうか。   そのこうべを葦のように伏せ、   荒布と灰とをその下に敷くことであろうか。   あなたは、これを断食ととなえ、   主に受けいれられる日と、となえるであろうか。   【解説】   葦 = 背の高い草 06)わたしが選ぶところの断食は、   悪のなわをほどき、くびきのひもを解き、   しえたげられる者を放ち去らせ、   すべてのくびきを折るなどの事ではないか。   【解説】   くびき = 2頭の動物の首や肩に取り付けて、2頭が力を一つにして荷車やすきを引く     ようにする木製または金属製の道具。この節の「くびき」は貧しさや罪などの重     荷を象徴的に表している。 07)また飢えた者に、あなたのパンを分け与え、   さすらえる貧しい者を、あなたの家に入れ、   裸の者を見て、これを着せ、   自分の骨肉に身を隠さないなどの事ではないか。   【解説】   骨肉 = 家族   断食には飢えている人、貧しい人を助けるという現在の断食日と同じ目的がある。   1-7節 適切な断食の仕方というものはあるか     真に主を愛する人々は、自分の罪を克服し、また断食と祈りとによりさらに主に     近づきたいと願う。1-7節に書かれているのが、古代のイスラエルのことなのか、     それとも現代のイスラエルのことなのか、あるいはその両方のことなのかは定か     でない。断食や祈りには、それなりの方法がある。ここに描かれている罪深いイ     スラエル人たちは、自分たちは断食しているのに神はあまり耳を傾けてくださら     ない、自分たちが苦しんでいるのに心に留めてくださらないと思っていたようで     ある(3節)。しかし、主は、彼らの断食の目的が適切ではないと言われた。彼ら     は食べ物を断つことも、世俗的な活動を遠ざけることもせずに、相変わらず働き     続け、楽しみ続けていたのである(3節)。「見よ、あなたがたの断食するのは、     ただ争いと、いさかいのため、また悪のこぶしをもって人を打つ力を得るため     だ。」(4節)このような断食は主が命じられた断食とは異なる。主は彼らに、そ     のような断食が「わたしの選ぶ」(5節)断食かどうか答えてみよと強く言われた。     つまり、適切な断食なのか、主の喜ばれる断食なのかということであり、ほんと     うに打ち砕かれた心と神への信頼を表したものであるかということである。断食     は純粋に霊的な目的で行われる。まことの断食は、悪の縄をほどき、霊的にしえ     たげられた者を放ち去らせ、飢えた者にパンを与え、裸の者に着る物を与える     (6-7節)。ジョン・H・バンデンバーグ監督は次のように説明している     「主は『悪のなわをほどき、くびきのひもを解き』、『すべてのくびきを折る』     と言われているが、これは利己心と虚栄心と高慢な心をもって自分のことばかり     考えている人々の悪を指しているのではないかとわたしは考えている。そのよう     な人は心がこの世のもののうえにあるため、神を愛し隣り人を愛せよという二つ     の大切な戒めを完全に忘れてしまっている。隣り人を愛し神を愛するという原則     は、断食のまことの目的と固く結びついているのである。     次の言葉の意味は造作なく理解できよう。『さすらえる貧しい者を、あなたの家     に入れ、裸の者を見て、これに着せ、自分の骨肉に身を隠さないなどの事ではな     いか。』主の言われたのは、貧しい者たちの世話をするだけではなく、わたした     ちは自分の親族を守護しなければならないということであり、自分の父親や母親     兄弟姉妹に対しても、彼らが困っているときには助ける責任があるということで     ある。     ここで申し上げておきたいと思う。主が今、断食と祈りの日を定められた目的は、     教会全体が断食の目的を達成するために心を合わせることなのである。」 08)そうすれば、あなたの光が暁のようにあらわれ出て、   あなたは、すみやかにいやされ、   あなたの義はあなたの前に行き、   主の栄光はあなたのしんがりとなる。   【解説】   しんがりという語にはどういう意味があるか     ヘブライ語のアサフという語には、語源的に見て「集める」という意味がある。     それが8節で使われているように、「四散した軍隊の後衛部隊を集める、あるい     は派生的な意味で、その戦線離脱を防ぐ、敵の攻撃を防衛するという意味にも用     いられている。」もっと分かりやすくいえば、「エホバの栄光はあなたを集める、     あるいはあなたを集合させる、つまりあなたの後方の守護に当たる」ということ     になろう。     「イスラエルが勤勉に愛に満ちた業を行っているときには、行軍中の軍隊か移動     中の隊商のようなものである。その義のゆえに、道が切り開かれ、示されるので     ある。この道こそ、神の賜物として最もふさわしいものである。その後衛には神     の栄光の守りがあり、それにより一人も見失われることなく目標地点まで導かれ     て行くのである。」 09)また、あなたが呼ぶとき、主は答えられ、   あなたが叫ぶとき、   『わたしはここにおる』と言われる。   もし、あなたの中からくびきを除き、   指をさすこと、悪い事を語ることを除き、   【解説】   悪い事 = 人の悪口   くびき = 牛馬の頸の後ろにかける横木、自由を束縛するもの   私たちが正しい生活をして主を呼び求める時、主は「私はここにおる」と言われる。   主は私たちを重苦しい暗闇の中から大いなる幸福の光の中に導き出してくださる。 10)飢えた者にあなたのパンを施し、   苦しむ者の願いを満ち足らせるならば、   あなたの光は暗きに輝き、   あなたのやみは真昼のようになる。   【解説】   施す = 与える   願いを満ち足らせる = 助ける、苦しみを和らげる 11)主は常にあなたを導き、   良き物をもってあなたの願いを満ち足らせ、   あなたの骨を強くされる。   あなたは潤った園のように、   水の絶えない泉のようになる。 12)あなたの子らは久しく荒れすたれたる所を興し、   あなたは代々やぶれた基を立て、   人はあなたを『破れを繕う者』と呼び、   『市街を繕って住むべき所となす者』と、   呼ぶようになる。   【解説】   荒れすたれる = だれもいなくなる、滅ぼされる   やぶれ = 壊れる   8-12節 正しい断食をする人に与えられる約束     バンデンバーグ監督は、8-12節に約束されている祝福の重要性について次のよう     に説明している。     「イザヤの言葉とこの約束にもう一度耳を傾けてみよう『そうすれば、あなたの     光が暁のようにあらわれ出て、あなたは、すみやかにいやされる。』(8節)この     約束はあなたにとってどんな価値があるだろうか。それがどういう意味を持つか、     よく考えていただきたい。「あなたの義はあなたの前に行き、主の栄光はあなた     のしんがりとなる。』     さらに読み進めてみよう。『また、あなたが呼ぶとき、主は答えられ、あなたが     叫ぶとき、「わたしはここにおる」と言われる。」(9節)この約束以上に確かな     保証が何か必要だろうか。わたしたちが主を呼べば、主は答えてくださると約束     しておられるのである。     イザヤはさらに次のように繰り返している。「もし、あなたからくびき〔言い換     えれば、よこしまな行い〕を除き、指をさすこと〔言い換えれば、他人を責める     こと〕、悪い事を語ることを除き、飢えた者にあなたのパンを施し、苦しむ者の     願いを満ち足らせるならば、あなたの光は暗きに輝き、あなたのやみは真昼のよ     うになる。     主は常にあなたを導き〔すなわち聖霊が日々の生活の導き手となり〕、良き物を     もってあなたの願いを満ち足らせ〔貧困や困難に直面したときに一人一人を助け     てくださるという約束である〕、あなたの骨を強くされる。(この部分は健康に     関係するものと考えられる。骨の中に髄があり、その髄は肉体を活気づけ、維持     するのに必須な血液を作り出す。)あなたは潤った園のように、水の絶えない泉     のようになる。(あるいは、霊感や知恵が絶えずあなた自身から流れ出る。)     あなたの子らは久しく荒れすたれたる所を興し、あなたは代々やぶれた基を立て、     人はあなたを「破れを繕う者」と呼び、「市街を繕って住むべき所となす者」と     呼ぶようになる。』(9-12節)わたしにとってこの聖句は、肉体的にも霊的にも窮     している教会員のために働く人たちに与えられた約束である。そのような教会員     は『あなたの子ら』であって、あなたがたも手助けすることができるのである。     では、何を助けるのか。『久しく荒れすたれたる所を興』すのである。その助け     をする人は、『代々やぶれた基を立て、人から「破れを繕う者」』と呼ばれるよ     うになるのである。言い換えれば、あなたがたが、そのような人々が自分の弱さ     を克服できるように助けてきたのは、彼らの身と霊を活気づけ、再活発化の働き     かけ、励まし、道を『繕う』ことなどを通して隔たりを埋めるためなのである。」 13)もし安息日にあなたの足をとどめ、   わが聖日にあなたの楽しみをなさず、   安息日を喜びの日と呼び、   主の聖日を尊ぶべき日ととなえ、   これを尊んで、おのが道を行わず、   おのが楽しみを求めず、   むなしい言葉を語らないならば、   【解説】   足をとどめる = 踏みにじらない   13-14節 安息日の律法     イザヤは断食の律法を説明するに当たって詩的な美しい表現法を用いたが、安息     日の聖約を説明するに際しては、条件法を用いている。人間が「もしするなら」、     神は「してくださる」という構成の表現法である(13,14節)。     「もし」人が安息日に自分自身の楽しみをすることから足をとどめ(従うことの     象徴)、安息日を喜びの日と呼び(これはほんとうの意味で安息日がその人にとっ     て喜びになるということであろう)、「主の聖日」と呼び(『旧約聖書」における     「聖」という言葉には、神の業のために特に任じられた、あるいは聖別されたと     いう意味がある)、尊ぶべき日ととなえ(つまり、誉れを受けることができるとい     うことである)、自分の道を行わず、自分の楽しみを求めず、むなしい言葉も語     らず(13節)、それによって神に誉れを帰するならば、「その時」人は主によって     喜びを得(「神の前にあなたの自信は増し」という約束に類似した約束)、「地の     高い所」(14節)(山々、すなわち地の高い所は従来から啓示を受ける場所であり、     また神と交わる場所である。)に登り、ヤコブの嗣業で養われる(自分の一部とな     るようにその嗣業を食い尽くすということである)のである。へプライ語で「嗣     業」に当たる語は、「相続人」「受け継ぎ」といった語と同じ語源から生まれて     きたものである。末日の啓示では、ヤコブの受け継ぎは昇栄し、神になることで     あると教えている。 14)その時あなたは主によって喜びを得、   わたしは、あなたに地の高い所を乗り通らせ、   あなたの先祖ヤコブの嗣業をもって、   あなたを養う」。   これは主の口から語られたものである。   【解説】   高い所 = 「高き所」。祭壇のある場所、神に犠牲を捧げる場所   嗣業 = 祝福   13-14節     主はわたしたちが安息日を聖なる日として保つ方法を理解できるように原則を与     えてくださっている。     安息日は人がレクリエーションに興ずる日ではなく、主の方法で祝われるべき日     である。
第59章   【解説】   背教。回復。集合。末日のシオンの栄光。   残された義人が報われる。   福千年のことが書かれている。   イエス・キリストが千年間一緒に住む。   すべてのイスラエル民のために神殿の儀式を行う。   【セミナリー解説】   罪とその結果   罪を犯すと罰せられますが、罪そのものが罰となることがよくある。すべての罪には   結果が伴うからである。1-15節で、主はイスラエルが犯した罪について語られた。ま   た、罪にとどまるかぎり、主の助けを受けることができず、罪の結果を受け続けなけ   ればならないと説明しておられる。一方、16-21節では、義人が受ける助けについて   語られている。 01)見よ、主の手が短くて、   救い得ないのではない。   その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。 02)ただ、あなたがたの不義が   あなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。   またあなたがたの罪が主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。 03)あなたがたの手は血で汚れ、   あなたがたの指は不義で汚れ、   あなたがたのくちびるは偽りを語り、   あなたがたの舌は悪をささやき、 04)ひとりも正義をもって訴え、   真実をもって論争する者がない。   彼らはむなしきことを頼み、偽りを語り、   害悪をはらみ、不義を産む。 05)彼らはまむしの卵をかえし、くもの巣を織る。   その卵を食べる者は死ぬ。   卵が踏まれると破れて毒蛇を出す。 06)その織る物は着物とならない。   その造る物をもって身をおおうことができない。   彼のわざは不義のわざであり、   彼らの手には暴虐の行いがある。 07)彼らの足は悪に走り、   罪のない血を流すことに速い。   彼らの思いは不義の思いであり、   荒廃と滅亡とがその道にある。 08)彼らは平和の道を知らず、   その行く道には公平がない。   彼らはその道を曲げた。   すべてこれを歩む者は平和を知らない。   【解説】   1-8節 不義は人と主との間を隔てる     いつの時代も、神の命に背いて罪を犯す人は聖き御霊から遠く離れる。御霊が離     れた状態では、人は主の言葉に耳を傾けることも、理解することもしない。その     ような状態についてマーク・E・ピーターセン長老は次のように説明している。     「真実の教会は絶えず新しい聖典を生み出していなければならない。もしそうで     なければ、その教会は真理と正義の道からさまよい出ていると言わざるを得ない。     そのような状態は遠い昔の時代にも存在していた。それについてイザヤは次のよ     うに説明している。     『主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもな     い。ただ、あなたがたの不義があなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたの     だ。またあなたがたの罪が主の顔をおおったのだ。』(1-2節)     新しい聖典などあるはずがないと言うこと自体、聖典に合致しないし、『聖書』     の教えにも反している。もしわたしたちがほんとうに『聖書』を信じているなら     ば、折りに触れて聖典が新たに加えられるという望みを持っていて当然なのであ     る。そのためには、生ける預言者に新しい聖典となるべき啓示が授けられること     を待ち望むべきである。これを否定することはできない。これはすでにしっかり     と定められた方法であり、長い年月にわたって神が人とかかわる際にはいつもこ     のようにされたのである。」 09)それゆえ、公平は遠くわれわれを離れ、   正義はわれわれに追いつかない。   われわれは光を望んでも、暗きを見、   輝きを望んでも、やみを行く。 10)われわれは盲人のように、かきを手さぐりゆき、   目のない者のように手さぐりゆき、   真昼でも、たそがれのようにつまずき、   強壮な者の中にあっても死人のようだ。 11)われわれは皆くまのようにほえ、   はとのようにいたくうめき、   公平を望んでも、きたらず、   救を望んでも、遠くわれわれを離れ去る。 12)われわれのとがは、あなたの前に多く、   罪は、われわれを訴えて、あかしをなし、   とがは、われわれと共にあり、   不義は、われわれがこれを知る。 13)われわれは、そむいて主をいなみ、   退いて、われわれの神に従わず、   しえたげと、そむきとを語り、   偽りの言葉を心にはらんで、それを言いあらわす。 14)公平はうしろに退けられ、   正義ははるかに立つ。   それは、真実は広場に倒れ、   正直は、はいることができないからである。 15)真実は欠けてなく、   悪を離れる者はかすめ奪われる。   【解説】   9-15節 人が神の言葉に耳を傾けようとしないとき、どのようなことが起こるか     主の言葉を受け入れなかったり、関心を払わなかったりした場合、人は「光を望     んでも」、何も得られない(9節)。そのため、「やみを行く」し、また「盲人の     ように、かきを手さぐりゆく」(10節)。公平(正義)は消え去り、とがは増大し、     「真実は欠けてない」(15節)。人が主なる神に背を向けるときにはいつでも背教     が起こるのである。   主はこれを見て、   公平がなかったことを喜ばれなかった。 16)主は人のないのを見られ、   仲に立つ者のないのをあやしまれた。   それゆえ、ご自分のかいなをもって、勝利を得、   その義をもって、おのれをささえられた。   【解説】   かいな = 「うで」の古い言い方。肩からひじまでの部分。 17)主は義を胸当としてまとい、   救のかぶとをその頭にいただき、   報復の衣をまとって着物とし、   熱心を外套として身を包まれた。   【解説】   外套(がいとう) = 防寒などのため、衣服の上に着るゆったりした服。            オーバー・マント 18)主は彼らの行いにしたがって報いをなし、   あだにむかって怒り、   敵にむかって報いをなし、   海沿いの国々にむかって報いをされる。 19)こうして、人々は西の方から主の名を恐れ、   日の出る方からその栄光を恐れる。   主は、せき止めた川を、   そのいぶきで押し流すように、こられるからである。 20)主は言われる、   「主は、あがなう者としてシオンにきたり、   ヤコブのうちの、とがを離れる者に至る」と。 21)主は言われる、「わたしが彼らと立てる契約はこれである。あなたの上にあるわが霊、   あなたの口においたわが言葉は、今から後とこしえに、あなたの口から、あなたの子   らの口から、あなたの子らの子の口から離れることはない」と。   【解説】   16-21節 この聖句はどの時代について言っているのか     16-21節は、人と御父の仲保者であるイエス・キリストについて言っている聖句     である。イエスが地上に来られたのは、「人のないのを見られ」、また人々のた     めに「仲に立つ者のないのを」御覧になったからである(16節)。もし救い主が遣     わされなかったとしたら、人々はその罪悪のために、実に悲惨な状態に陥ってい     たはずである(1-15節)。だからこそイエスが遣わされた。イエスは「ご自分のか     いなをもって、勝利を得」られたが、それはちょうど戦闘で胸当てが人を守るよ     うに、「その義をもって、おのれをささえられた」からできたのである(16節)。     その頭には「救のかぶと」を頂き、身には「報復の衣」をまとわれた。イエスは     「彼らの行いにしたがって」人を見られるのである(17-18節)。     救い主が再び降臨されるときには、シオンに来られる。そしてもしヤコブ、すな     わちイスラエルの家が「とがを離れ」て(20節)主のもとに来るならば、主は御霊     を注いでくださるのである。この約束についてオーソン・プラット長老は次のよ     うに言っている。     「イエスが18世紀前に降臨されたとき、ヤコブの不従順な行いを一掃されなかっ     たことは確かである。当時、ヤコブの家は邪悪の杯に満ちていたからである。そ     のときから今日に至るまでヤコブの家は不信仰の状態にとどまっている。それゆ     え18世紀前には、シオンからは救う者が出現しなかったのである。しかし、終わ     りの日のシオン、すなわち古代の預言者たちとりわけイザヤが、幾度も余すこと     なく預言していたあのシオンとは、この教会のことであり、神の王国のことであ     る。そして、異邦人の時が満ちた後に、ヤコブの家から悪を取り除く『あがなう     者』は、この教会、王国、シオンからおいでになるのである。」
第60章   【解説】   背教。回復。集合。末日のシオンの栄光。   【セミナリー解説】   あなたの光を輝かせなさい   ボイド・K・パッカー長老は次のように預言している。「世界中で現在、数万人の人   々が家族の安全な場所を求めて教会にやって来ている。将来その数は、間違いなく、   洪水のように多くなるだろう。教会で人々はキリストの御名によって御父を礼拝し、   聖霊の賜物によって、福音は人に幸福と贖いを与える偉大な計画であることを理解す   る。」パッカー長老の預言は、60章に書いてあることとたいへんよく似ている。 60章   で、イザヤは暗闇が地を覆う日にシオンが再び立てられて明るく光り輝き、地上のす   べての国々がシオンを敬い、その導きに頼るようになると語っている。 01)起きよ、光を放て。   あなたの光が臨み、   主の栄光があなたの上にのぼったから。 02)見よ、暗きは地をおおい、   やみはもろもろの民をおおう。   しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、   主の栄光があなたの上にあらわれる。   【解説】   1-2節 「暗きは地をおおい」     シオンの光は主御自身である。この聖句は末日の状態について述べている。その     日、シオンは光を放つが、地は暗黒で覆われる。オーソン・プラット長老は次の     ように書いている。「ここに言かれているシオンとは、『起きよ、光を放て。主     の栄光があなたの上にのぼったから』と言われているシオンである。永遠の真理     が書かれている聖典の中で、末日における神のシオンの出現はほかに例を見ない     ほど完全に啓示されている。このシオンは天から神の栄光を身にまとって下って     来る。そして全地のあらゆる国々、国民の注目を浴びるはずである。シオンの出     現は、どこかの片隅や、遠く海の島々で起こることでもなければ、人目のつかな     い離れた場所で起こることでもない。それは地の面に住むすべての人ともろもろ     の国の注視の中で起こるのである。」 03)もろもろの国は、あなたの光に来、   もろもろの王は、のぼるあなたの輝きに来る。   【解説】   1-3,19-20節     光となるように。光の源である主から光を得て。 04)あなたの目をあげて見まわせ、   彼らはみな集まってあなたに来る。   あなたの子らは遠くから来、   あなたの娘らは、かいなにいだかれて来る。   【解説】   かいな = 「うで」の古い言い方。肩からひじまでの部分。 05)その時あなたは見て、喜びに輝き、   あなたの心はどよめき、かつ喜ぶ。   海の富が移ってあなたに来、   もろもろの国の宝が、あなたに来るからである。 06)多くのらくだ、ミデアンおよびエパの若きらくだはあなたをおおい、   シバの人々はみな黄金、乳香を携えてきて、   主の誉を宣べ伝える。   【解説】   乳香(にゅうこう) = カンラン科の常緑高木。また、その樹脂。樹脂は芳香があり、             古代エジプト時代からの薫香料。 07)ケダルの羊の群れはみなあなたに集まって来、   ネバヨテの雄羊はあなたに仕え、   わが祭壇の上にのぼって受けいれられる。   こうして、わたしはわが栄光の家を輝かす。 08)雲のように飛び、   はとがその小屋に飛び帰るようにして来る者はだれか。   【解説】   3-18節 「雲のように飛ぶ」者はだれか     学者の中には、3節は、ベツレヘムに生まれた幼子を訪ねるために東方からやっ     て来た博士たちに関連した預言であると考える人もいる。しかし、前後関係から     判断すると、これは末日のシオン、恐らくは新エルサレムに関する預言である。     シオンの「子らは遠くから来」(4節)、「もろもろの国の宝」(5節)も同じように     やって来る。金銀やらくだ、若きらくだ(この世の富の象徴)が持ち込まれ、「神     の栄光の家を輝かす。」(7節)こうした財宝が集められると、「異邦人」は壁を     築き、あるいはエルサレム再建の助けをする(10節)。     「あなたの門は常に開いて」という聖句について、オーソン・プラット長老は次     のように言っている。「『あなたの門は常に開いて、昼も夜も閉ざすことはない。     これは人々が国々の宝をあなたに携えて来、その王たちを率いて来るためである。     あなたに仕えない国と民とは滅び、その国々はまったく荒れすたれる。』一体ど     ういう意味だろうか。シオンに仕えない民と国は残ることがないという。一つと     して残らないという。では、今絶えず成長を続けているこの偉大な共和国〔合衆     国〕はどうなるのだろうか。もしこの国がシオンの儀式を受け入れ、その罪を悔     い改め、大いなる栄光の日のために備えができるならば、神はこの国を救ってく     ださるであろう。そうしなければ、この国は完全に荒れ廃れることになろう。預     言者たちはそう宣言したのである。」 09)海沿いの国々はわたしを待ち望み、   タルシシの船はいや先にあなたの子らを遠くから載せて来、   また彼らの金銀を共に載せて来て、   あなたの神、主の名にささげ、   イスラエルの聖者にささげる。   主があなたを輝かされたからである。 10)異邦人はあなたの城壁を築き、   彼らの王たちはあなたに仕える。   わたしは怒りをもってあなたを打ったけれども、   また恵みをもってあなたをあわれんだからである。 11)あなたの門は常に開いて、   昼も夜も閉ざすことはない。   これは人々が国々の宝をあなたに携えて来、   その王たちを率いて来るためである。 12)あなたに仕えない国と民とは滅び、   その国々は全く荒れすたれる。   【解説】   1-5,10-12節     シオンが起こされ、キリストの光が国々に輝きわたる。異邦人の国々はシオンに     加わり、シオンに仕えるようになる。 13)レバノンの栄えはあなたに来、   いとすぎ、すずかけ、まつは皆共に来て、   わが聖所をかざる。   またわたしはわが足をおく所を尊くする。   【解説】   いとすぎ = ヒノキ科の常緑高木。高さ約45メートルにも達する。   すずかけ = スズカケノキ科の落葉高木。街路樹に多く用いられ、樹皮は大         きくはげて白と淡緑色のまだらになる 14)あなたを苦しめた者の子らは、   かがんで、あなたのもとに来、   あなたをさげすんだ者は、   ことごとくあなたの足もとに伏し、   あなたを主の都、   イスラエルの聖者のシオンととなえる。 15)あなたは捨てられ、憎まれて、   その中を過ぎる者もなかったが、   わたしはあなたを、とこしえの誇、   世々の喜びとする。 16)あなたはまた、もろもろの国の乳を吸い、   王たちの乳ぶさを吸い、   そして主なるわたしが、あなたの救主、   また、あなたのあがない主、   ヤコブの全能者であることを知るにいたる。   【解説】   14-16節     シオンは市が確立され、異邦人の国々はそれを助ける。イスラエルの民は救い主     を知るようになる。 17)わたしは青銅の代りに黄金を携え、   くろがねの代りにしろがねを携え、   木の代りに青銅を、石の代りに鉄を携えてきて、   あなたのまつりごとを平和にし、   あなたのつかさびとを正しくする。 18)暴虐は、もはやあなたの地に聞かれず、   荒廃と滅亡は、もはやあなたの境のうちに聞かれず、   あなたはその城壁を「救」ととなえ、   その門を「誉」ととなえる。 19)昼は、もはや太陽があなたの光とならず、   夜も月が輝いてあなたを照さず、   主はとこしえにあなたの光となり、   あなたの神はあなたの栄えとなられる。   【解説】   18-20節     暴虐や戦争、悲しみはなくなる。     太陽や月よりも明るい光が、シオンの市を照らす。   19-22節 「昼は、もはや太陽があなたの光とならず」     最終的に新エルサレムが築かれ、主イエス・キリストが栄光のうちに地上に戻ら     れると、太陽や月が神の聖約の民に光を与える必要はなくなってしまう。主御自     身がとこしえの光となられるからである。     「主がおられるとき、シオンに太陽は要らない。町全体が主の栄光によって明々     と照らされるからである。頭上の天空が主の栄光によって明るく照らされるとき、     シオンの町に関するかぎり、光を放つ天体は不要になる。しかし、周囲のほかの     町には、なお太陽や月の光を必要とする偉大な民は存在する。だが、主が王座の     一つを置かれるこの大いなる首都には不要なのである。主の王座はエルサレムに     だけ存在するわけではない。『聖書』の様々な箇所に書かれているように、シオ     ンにも王座が置かれることになる。このように、主がシオンに王座を置かれ、主     の栄光が住民を輝き照らすときには、大空のかなたの天体が放つこの光は必要な     くなる。そこに住む民は神の栄光に包まれるのである。民がこのような大集会場     に集うときには、主もともにおられ、主の栄光が民のうえにある。昼は栄光の雲     が民を覆う。たとえ夜の集会が開かれても、人工的な光は必要ない。主がそこに     おられ、主の栄光が全会衆のうえにとどまるからである。預言者イザヤがそう言     ったのであり、わたしはそれを信じている。アーメン。」 20)あなたの太陽は再び没せず、   あなたの月はかけることがない。   主がとこしえにあなたの光となり、   あなたの悲しみの日が終るからである。 21)あなたの民はことごとく正しい者となって、   とこしえに地を所有する。   彼らはわたしの植えた若枝、わが手のわざ、   わが栄光をあらわすものとなる。   【解説】   教義と聖約45:58     地球は受け継ぎとして彼らに与えられる。彼らは増えて強くなり、その子孫は罪     のないまま成長して救いを得るであろう。 22)その最も小さい者は氏族となり、   その最も弱い者は強い国となる。   わたしは主である。   その時がくるならば、すみやかにこの事をなす。
第61章   【解説】   背教。回復。集合。末日のシオンの栄光。   【セミナリー解説】   主と主の僕たちの使命   61章では、神の民が主に忠実であるならば祝福を受けるということが再び語られてい   る。最初の3節で、イザヤは自分の使命はイスラエルの家を高めて祝福することであ   ると語っている。しかし、この部分は本来救い主の使命について述べたものであり、   イザヤは民の前で主を代表していたにすぎない。この部分は、救い主を代表するため   に召されたすべての人の使命について説明するうえでも役立つ。 01)主なる神の霊がわたしに臨んだ。   これは主がわたしに油を注いで、   貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、   わたしをつかわして心のいためる者をいやし、   捕われ人に放免を告げ、   縛られている者に解放を告げ、   【解説】   貧しい者 = 謙虚な者   1-2節 「主がわたしに油を注いで、福音を宣べ伝えることをゆだね」     イエスはナザレの会堂で人々に話をしたとき、1-2節を引用された。話が終わる     と、「会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。」するとイエスは言われ     た。「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した。」3節以降がイエ     スと末日におけるシオンの建設に触れているのと同様に、1節と2節にもイエスに     関する記述がある。人々に福音を宣べ伝え、傷ついた人々に癒しや赦しを与え、     霊の獄に囚われている人々を解き放つ業に召されたのは、イエスである。イエス     は、御自分が神より遣わされた者であるという証拠としてこの聖句を引用された     のである。 02)主の恵みの年とわれわれの神の報復の日とを告げさせ、   また、すべての悲しむ者を慰め、   【解説】   報復の日 = 神が悪人を罰して義人に報いをお与えになる日 03)シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、   灰にかえて冠を与え、   悲しみにかえて喜びの油を与え、   憂いの心にかえて、   さんびの衣を与えさせるためである。   こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、   主がその栄光をあらわすために植えられた者ととなえられる。   【解説】   灰にかえて冠を与える = 深い悲しみにあるときに灰を頭からかぶる習慣のことを言     っている。ここで主は美しいかぶり物を与えると言われた。つまり、民はもう嘆     かなくてもよいと約束されたのである。   義の樫の木 = 樫は堅い木、正しいことから動かなかった人達のこと   1-3節はメシヤに関連したもの。   1-3節 休まないで、善い事を続けるように。   ルカ4:16-21でイエスが1-3節について、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日   に成就した」と説かれた。 04)彼らはいにしえの荒れた所を建てなおし、   さきに荒れすたれた所を興し、   荒れた町々を新たにし、   世々すたれた所を再び建てる。 05)外国人は立ってあなたがたの群れを飼い、   異邦人はあなたがたの畑を耕す者となり、   ぶどうを作る者となる。 06)しかし、あなたがたは主の祭司ととなえられ、   われわれの神の役者と呼ばれ、   もろもろの国の富を食べ、   彼らの宝を得て喜ぶ。 07)あなたがたは、さきに受けた恥にかえて、   二倍の賜物を受け、   はずかしめにかえて、その嗣業を得て楽しむ。   それゆえ、あなたがたはその地にあって、   二倍の賜物を獲、   とこしえの喜びを得る。   【解説】   嗣業(しぎょう) = 引き継ぐ財産、次世代に渡す所有地等 08)主なるわたしは公平を愛し、   強奪と邪悪を憎み、   真実をもって彼らに報いを与え、   彼らと、とこしえの契約を結ぶからである。 09)彼らの子孫は、もろもろの国の中で知られ、   彼らの子らは、もろもろの民の中に知られる。   すべてこれを見る者は   これが主の祝福された民であることを認める。 10)わたしは主を大いに喜び、   わが魂はわが神を楽しむ。   主がわたしに救の衣を着せ、   義の上衣をまとわせて、   花婿が冠をいただき、   花嫁が宝玉をもって飾るようにされたからである。   【解説】   3-11節 「義の上衣」および「救の衣」とは何か     主は御一人で働かれれるわけではない。3-11節はシオンの文字どおりの回復と神     権のことを指している。シオンの子らはこの神権を行使して、この主の栄光を再     び回復するのである。ここでもまた、末日における主とその民との聖約について     説明するために、婚姻の比喩が使われている。「義の上衣」を身にまとい、「花     嫁が宝玉をもって飾るように」(10節)着飾って、シオンは「夫」となるイエス・     キリストの到着を待つ。黙示録を書いたヨハネも同じような比喩を用いて、小羊     (イエス)とその花嫁(シオン)の婚姻について語っている(黙示19:7)。花嫁は「麻     布の衣を着る」が、これは「聖徒たちの正しい行い」(黙示19:8)の象徴である。     このようにして、信仰箇条第10節で述べられていることの一部が成就する。「キ     リストが自ら地上を統治され地球は更新されて楽園の栄光を受ける。」明らかに、     11節は「園がまいたものを生やすように」、主のシオン、すなわち新エルサレム     が義を生み出し賛美する日のことを書いたものである。 11)地が芽をいだし、園がまいたものを生やすように、   主なる神は義と誉とを、   もろもろの国の前に、生やされる。
第62章   【解説】   背教。回復。集合。末日のシオンの栄光。   【セミナリー解説】   イスラエルの家の贖い   62章では、イスラエルの家が贖いの日に受ける祝福について再び述べられている。こ   れらの約束は、悔い改めてイエス・キリストと教会に引き寄せられた人々にも当ては   めることができる。両者は同じ祝福を受ける。また62章では、約束の祝福がすべて実   現するまで、イザヤや主のほかの僕たちは、主の民のために宣べ伝え、働くのをやめ   ることがないと教えている。   【インスティテュート解説】   末日における神とその民の一致はどのような象徴で表現されているか     ここで再びイザヤは古いエルサレムと新しいエルサレムに触れている。どちらの     町にも、「朝日の輝きのようにあらわれ」でる「義」があり、どちらも「燃える     たいまつの様に」(1節)救いを差し出す。シオンは「新しい名」(2節)すなわち新     エルサレムととなえられ、古いエルサレムは「捨てられた者」とも「荒れた者」     (4節)とも呼ばれることはない。ここで改めてシオンは主に嫁ぐ。この象徴はシ     オンが再び霊的に義にかなった状態に戻ることを表している。「花婿が花嫁を喜     ぶように、わたしたちの神はエルサレムの回復を喜ばれる。」(5節) 01)シオンの義が朝日の輝きのようにあらわれいで、   エルサレムの救が燃えるたいまつの様になるまで、   わたしはシオンのために黙せず、   エルサレムのために休まない。   【解説】   たいまつ = 松の樹脂の多い部分を細かく割り、束ねたもの。火をつけて照明に         用いた 02)もろもろの国はあなたの義を見、   もろもろの王は皆あなたの栄えを見る。   そして、あなたは主の口が定められる   新しい名をもってとなえられる。   【解説】   教義と聖約130:11     日の栄えの王国に来る各人に一つの白い石が与えられる。その石の上には新しい     名前が記されており、それを受ける者のほかにはだれもそれを知らない。その新     しい名前は鍵の言葉である。 03)また、あなたは主の手にある麗しい冠となり、   あなたの神の手にある王の冠となる。 04)あなたはもはや「捨てられた者」と言われず、   あなたの地はもはや「荒れた者」と言われず、   あなたは「わが喜びは彼女にある」ととなえられ、   あなたの地は「配偶ある者」ととなえられる。   主はあなたを喜ばれ、   あなたの地は配偶を得るからである。   【解説】   配偶あるもの = 一つとなる(ヘブライ語でベウラーハ)   一つとなる Be One   自分を押さえて、人のために行う。   4-5節 主が「わが喜びは彼女にある」あるいは「配偶ある者」と呼ばれるのはなぜか     イザヤが末日のシオンの状態を表現するために使った言葉には重要な意味がある。     原語であるヘブライ語の「へフツィーバーハ」には「喜ばしい」という意味があ     る。これはエルサレムとシオンの末日における義にかなった状態を指して言って     いるものと考えられる。「配偶ある者」の原語に当たる「ベウラーハ」には「一     つとなること」という意味がある(4節)。婚姻はここでも一つになることの象徴     として用いられているが、民と神との婚姻ではなく、地と神との婚姻として語ら     れている。     『教義と聖約』によれば、やがて「エルサレムの地とシオンの地は、それぞれの     所に戻り、陸地はそれが分けられる前の時代のようになる」(教義と聖約133:24)     という時が来る。ペレグの時代に地球は幾つかの大陸に分かれたが、その前には     一つの巨大な大陸が存在していた。数々の大陸が再び一緒になることは、一つと     なること、あるいは結婚にたとえることができる。人は結婚によって、「わが喜     びは彼女にある」という状態になり、「配偶ある者」となるからである。様々な     地は、男と女が聖なる結婚のきずなで結ばれるように、それをつかさどる者の権     能によって結び合わされる(ジョセフ・スミス訳イザヤ62:4-5)。 05)若い者が処女をめとるように、   あなたの子らはあなたをめとり、   花婿が花嫁を喜ぶように、   あなたの神はあなたを喜ばれる。 06)エルサレムよ、   わたしはあなたの城壁の上に見張人をおいて、   昼も夜もたえず、もだすことのないようにしよう。   主に思い出されることを求める者よ、   みずから休んではならない。   【解説】   1,6節     神様は休まない。7日目に休むというのは、人に聖日を与えるため。     私たちも良いことすることをやめてはならない。 07)主がエルサレムを堅く立てて、   全地に誉を得させられるまで、   お休みにならぬようにせよ。   【解説】   5-7節     見張人(見守る者)すなわち教会の指導者や長老たちは再臨の時に小羊の婚姻の     席に例えられている真の教会に人々を招き、福音を宣べ伝える。 08)主はその右の手をさし、   大能のかいなをさして誓われた、   「わたしは再びあなたの穀物を   あなたの敵に与えて食べさせない。   また、あなたが労して得たぶどう酒を   異邦人に与えて飲ませない。   【解説】   かいな = 「うで」の古い言い方。肩からひじまでの部分。 09)しかし、穀物を刈り入れた者は   これを食べて主をほめたたえ、   ぶどうを集めた者は   わが聖所の庭でこれを飲む」。 10)門を通って行け、通って行け。   民の道を備えよ。   土を盛り、土を盛って大路を設けよ。   石を取りのけ。   もろもろの民の上に旗をあげよ。   【解説】   北の十部族の帰還に備えて道(大路)が備えられる。贖われた者が永遠の喜びの歌を   歌いながら来る。 11)見よ、主は地の果にまで告げて言われた、   「シオンの娘に言え、   『見よ、あなたの救は来る。   見よ、その報いは主と共にあり、   その働きの報いは、その前にある』と。 12)彼らは『聖なる民、   主にあがなわれた者』ととなえられ、   あなたは『人に尋ね求められる者、   捨てられない町』ととなえられる」。
第63章   【解説】   再臨。   関連:教義と聖約133。   【セミナリー解説】   イエス・キリストの再臨   63章では、イエス・キリストの再臨のときに起きる出来事について語られている。 01)「このエドムから来る者、   深紅の衣を着て、ボズラから来る者はだれか。   その装いは、はなやかに、   大いなる力をもって進み来る者はだれか」。   「義をもって語り、   救を施す力あるわたしがそれだ」。   【解説】   装い = 衣服   主は再臨のとき、深紅の衣を着て現れる。 02)「何ゆえあなたの装いは赤く、   あなたの衣は酒ぶねを踏む者のように赤いのか」。   【解説】   酒ぶね = 酒を蓄えておく大きな木製の器あるいはぶどうから汁を足で踏        んで搾り出すための大きな入れ物   1-9節 「何ゆえあなたの装いは赤く」     教義と聖約133:46-48      「また、次のように言われるであろう。『染めた衣をまとって天の神のみもと     から、まことに、栄光ある装いで、大いなる力をもって、知らない所から降って     来られるこの御方はどなたか。』 すると、彼は言う。『わたしは義をもって語     った者であり、救う力を持つ者である。』主の装いは赤く、その衣は酒ぶねを踏     む者のようである。」 03)「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。   もろもろの民のなかに、   わたしと事を共にする者はなかった。   わたしは怒りによって彼らを踏み、   憤りによって彼らを踏みにじったので、   彼らの血がわが衣にふりかかり、   わが装いをことごとく汚した。 04)報復の日がわが心のうちにあり、   わがあがないの年が来たからである。   【解説】   報復 = 裁き   報復(滅亡)は日単位、あがないは年単位の期間で行われる。   悪い人の滅亡は短くしている。滅亡の影響を受ける義人が耐えられるように。 05)わたしは見たけれども、助ける者はなく、   怪しんだけれども、ささえる者はなかった。   それゆえ、わがかいながわたしを勝たせ、   わが憤りがわたしをささえた。   【解説】   かいな = 「うで」の古い言い方。肩からひじまでの部分。   憤り = 怒り 06)わたしは怒りによって、もろもろの民を踏みにじり、   憤りによって彼らを酔わせ、   彼らの血を、地に流れさせた」。 07)わたしは主がわれわれになされた、   すべてのことによって、   主のいつくしみと、主の誉とを語り告げ、   また、そのあわれみにより、   その多くのいつくしみによって、   イスラエルの家に施されたその大いなる恵みを語り告げよう。   【解説】   なす = 祝福する 08)主は言われた、「まことに彼らはわが民、   偽りのない子らである」と。   そして主は彼らの救主となられた。 09)彼らのすべての悩みのとき、主も悩まれて、   そのみ前の使をもって彼らを救い、   その愛とあわれみとによって彼らをあがない、   いにしえの日、つねに彼らをもたげ、   彼らを携えられた。   【解説】   悩み = 苦難と苦痛   あがなう = 束縛から解放するために代価を支払う 10)ところが彼らはそむいて、   その聖なる霊を憂えさせたので、   主はひるがえって彼らの敵となり、   みずから彼らと戦われた。 11)その時、民はいにしえのモーセの日を思い出して言った、   「その群れの牧者を、   海から携えあげた者はどこにいるか。   彼らの中に聖なる霊をおいた者はどこにいるか。 12)栄光のかいなをモーセの右に行かせ、   彼らの前に水を二つに分けて、   みずから、とこしえの名をつくり、 13)彼らを導いて、馬が野を走るように、   つまずくことなく淵を通らせた者はどこにいるか。 14)谷にくだる家畜のように、   主の霊は彼らをいこわせられた。   このように、あなたはおのれの民を導いて、   みずから栄光の名をつくられた」。 15)どうか、天から見おろし、   その聖なる栄光あるすみかからごらんください。   あなたの熱心と、大能とはどこにありますか。   あなたのせつなる同情とあわれみとは   おさえられて、わたしにあらわれません。 16)たといアブラハムがわれわれを知らず、   イスラエルがわれわれを認めなくても、   あなたはわれわれの父です。   主よ、あなたはわれわれの父、   いにしえからあなたの名はわれわれのあながい主です。   【解説】   イスラエルの父としてのエホバすなわちキリストを指す。 17)主よ、なぜ、われわれをあなたの道から離れ迷わせ、   われわれの心をかたくなにして、   あなたを恐れないようにされるのですか。   どうぞ、あなたのしもべらのために、   あなたの嗣業である部族らのために、   お帰りください。   【解説】   嗣業(しぎょう) = 引き継ぐ財産、次世代に渡す所有地等   10-19節 「主よ、なぜ、われわれをあなたの道から離れ迷わせるのですか」     10-19節には、道から迷い出た民と主との聖約を破った民のことが書かれている。     この部分は、1-9節に書かれている地に下る大いなる裁きの説明である。ジョセ     フ・スミス訳の17節には重要な改訂がある。「主よ、なぜ、われわれをあなたの     道から離れ迷わせ、われわれの心をかたくなにして、あなたを恐れないようにさ     れるのですか」ではなく、主はなぜ民を神の道から離れ迷うままにし、民の心を     かたくななままにしておかれるのかという内容になっている。神は、いかなる人     にも強制的に罪を犯させたり、心をかたくなにさせたりはなさらないからである。     17節の後半には、イスラエルの行方の知れない部族をその受け継ぎの地へ戻して     くださるようにという、主に対する嘆願と考えてよいだろう。 18)あなたの聖なる民が、   あなたの聖所を獲て間もないのに、   われわれのあだは、それを踏みにじりました。 19)われわれはあなたによって、   いにしえから治められない者のようになり、   あなたの名をもって、   となえられない者のようになりました。
第64章   【解説】   再臨。   【セミナリー解説】   義人の祈り   64章は祈りの形式で書いてある。この祈りには、悪人を滅ぼし、義人に報いを与える   ために、主が来てくださるようにという望みが込められている。教義と聖約133:38-45   から、終わりの時に主の僕たちがこの祈りをささげることを理解することができる。 01)どうか、あなたが天を裂いて下り、   あなたの前に山々が震い動くように。 02)火が柴木を燃やし、   火が水を沸かすときのごとく下られるように。   そして、み名をあなたのあだにあらわし、   もろもろの国をあなたの前に   震えおののかせられるように。   【解説】   柴木(しばき) = 山野に生える小さい雑木の総称。また、それを折って薪や垣とする           もの 03)あなたは、われわれが期待しなかった恐るべき事を   なされた時に下られたので、山々は震い動いた。   【解説】   1-3節 この大いなる天変地異は何のことについて言っているのか     64章の最初の7節は、ほとんど同じ形で教義と聖約133:40-45に引用されている。     ここには、これらの大いなる天変地異から逃れることができるように、出て行っ     て福音を宣べ伝え、神を礼拝するよう戒めよという、神の僕に与えられた義務が     書かれている。山々が神の前に震い動くという表現(1,3節)は、恐らく救い主が     栄光のうちに再臨されるときに伴って起きる様々な恐ろしい天変地異について言     っているのであろう。このときには、谷は「高くな」り、山は「低くな」り、神     の声は「山々を崩」すために「もろもろの谷は見えなくなる。」     イエスは日の栄えの御方である。太陽は日の栄えの王国の輝きの象徴であり、主     の再臨を表す「燃える」とか「火」などという表現は、実際にキリスト御自身の     栄光によるものなのかもしれない。チャールズ・W・ペンローズ長老は、この日     のことについて次のように書いている。「主はおいでになる。地は揺れ動き、高     き山々は震え、大海は恐るべきうねりとなって北方へ流れ、裂けた空は溶かし出     された真鍮のように光り輝く。主はおいでになる。死んだ聖徒たちは一斉に墓か     らよみがえり、『生き残っている』者たちは聖徒たちとともに『引き上げられ』     主にまみえる。そして不信仰な行いをしてきた者たちは、主の前から急いで姿を     隠し、揺れ動く岩に向かい、わが身を隠してくれと叫ぶ。主はおいでになる。栄     光に輝く義人の軍を率いておいでになる。主の□の息は邪悪な者たちを打ち、死     に至らしめる。主の光栄は焼き尽くす火である。高ぶる者や逆らう者はわらのよ     うになる。彼らは焼かれ、『根も枝も残さない。』主は『滅びのほうきをもって』     地を掃き清め、激しい怒りの洪水をもって全地を覆われる。こうして世の汚れと     忌まわしい行いとはすべて焼き尽くされるのである。サタンとその邪悪な軍勢は     捕らえられ縛られる。空中の権をもつ君はその支配権を失う。統治の権能を持た     れる御方が降臨され、『この世の国は、我らの主とそのキリストとの国とな』る     からである。」 04)いにしえからこのかた、   あなたのほか神を待ち望む者に、   このような事を行われた神を聞いたことはなく、   耳に入れたこともなく、目に見たこともない。 05)あなたは喜んで義を行い、   あなたの道にあって、   あなたを記念する者を迎えられる。   見よ、あなたは怒られた、われわれは罪を犯した。   われわれは久しく罪のうちにあった。   われわれは救われるであろうか。 06)われわれはみな汚れた人のようになり、   われわれの正しい行いは、   ことごとく汚れた衣のようである。   われわれはみな木の葉のように枯れ、   われわれの不義は風のようにわれわれを吹き去る。   【解説】   4-11節 人の正しい行いは主にあって「汚れた衣」のようなものか     主の目から見て、人が悪い行いをするとき、その様は「汚れた衣」にたとえられ     る。「われわれはみな汚れた人のようである。」(6節)神はそのような人から顔     を隠される(7節)。そこで、人は悔い改めて赦しを求めなければならない(8-9節)。     イザヤは「われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである」と言っ     ているが、カイルとデリッチはこの箇所を次のように翻訳している。「わたした     ちのあらゆる美徳は血に浸した衣のようなものだ。」これは神が人間の美徳を見     くびり、それを汚れたものと考えておられるということではない。むしろ、イス     ラエルの以前の正しい行いが今では邪悪なものになってしまったということであ     る。ジョセフ・スミス訳の64:5-6には、この点について明確に記されている。 07)あなたの名を呼ぶ者はなく、   みずから励んで、あなたによりすがる者はない。   あなたはみ顔を隠して、われわれを顧みられず、   われわれをおのれの不義の手に渡された。 08)されど主よ、あなたはわれわれの父です。   われわれは粘土であって、あなたは陶器師です。   われわれはみな、み手のわざです。 09)主よ、ひどくお怒りにならぬように、   いつまでも不義をみこころにとめられぬように。   どうぞ、われわれを顧みてください。   われわれはみな、あなたの民です。 10)あなたの聖なる町々は荒野となり、   シオンは荒野となり、   エルサレムは荒れすたれた。 11)われわれの先祖があなたをほめたたえた   聖なる麗しいわれわれの宮は火で焼かれ、   われわれが慕った所はことごとく荒れはてた。 12)主よ、これらの事があっても、   なお、あなたはみずからをおさえ、   黙して、われわれをいたく苦しめられるのですか。   【解説】   人々は、神様から声をかけてほしいときに、神の声が聞こえないと訴える。しかし、   次章1節で、神様からずっと声をかけていたのに、人は気づかなかったと答えがある。
第65章   【解説】   イスラエルと末日における誤った宗教家。福千年。   関連:教義と聖約101:22-38。   【セミナリー解説】   福千年   イザヤの言葉が非常に偉大である理由の一つは、神の偉大な計画と、イエス・キリス   トがその計画の中で救い主として中心的な役割を果たしておられることについて、非   常に多くの説明がなされていることである。イザヤ書には、前世の出来事や、福千年   の間に起きることについても書いてある。65-66章には、福千年について書いてある。   65章の1-16節で、主はイザヤの時代のイスラエルの民に対するメッセージを結んでお   られる。主は常に民を助けて贖おうとされたが、民は悪事を選んだと言われた。   主はイスラエルの民を愛しておられたので、民を完全には滅ぼさないことを約束なさ   れた。また、イスラエルの後の世代とその他の人々に、彼らが拒んだのと同じ祝福を   受ける機会を与えると約束なさった。イスラエルを罰しておられるときでさえ、主が   民とすべての人に対して大きな愛を持っておられるのを感じることができる。 01)わたしはわたしを求めなかった者に問われることを喜び、   わたしを尋ねなかった者に見いだされることを喜んだ。   わたしはわが名を呼ばなかった国民に言った、   「わたしはここにいる、わたしはここにいる」と。 02)よからぬ道に歩み、   自分の思いに従うそむける民に、   わたしはひねもす手を伸べて招いた。   【解説】   ひねもす = 一日中 03)この民はまのあたり常にわたしを怒らせ、   園の中で犠牲をささげ、   かわらの上で香をたき、 04)墓場にすわり、ひそかな所にやどり、   豚の肉を食らい、   憎むべき物の、あつものをその器に盛って、   【解説】   あつもの = 「熱物(あつもの)」の意。魚・鳥の肉や野菜を入れた熱い吸い物。         スープ 05)言う、「あなたはそこに立って、   わたしに近づいてはならない。   わたしはあなたと区別されたものだから」と。   これらはわが鼻の煙、ひねもす燃える火である。   【解説】   ひねもす = 一日中 06)見よ、この事はわが前にしるされた、   「わたしは黙っていないで報い返す。   そうだ、わたしは彼らのふところに、 07)彼らの不義と、彼らの先祖たちの不義とを共に報い返す。   彼らが山の上で香をたき、   丘の上でわたしをそしったゆえ、   わたしは彼らのさきのわざを量って、   そのふところに返す」と主は言われる。   【解説】   1-7節 人は主を探し求めなくとも主を見いだすことができるか     1-7節で、イザヤは神が求めない者によって見いだされると言っている。使徒パ     ウロはこの聖句は異邦人のことを指すものと解釈した。しかし、ジョセフ.スミ     ス訳聖書には、神を見いだすことができるのは神を尋ね求める者であり、求める     気持ちがない者は見いだすことができないと書かれている(ジョセフ・スミス訳     65:1-2)。     主を呼び求めなければならないのを知りながらそうしない人と、どうしたらよい     か知らないので主を呼び求めない人の間には大きな差がある。異邦人は後者の部     類である。パウロは、神は異邦人には御姿を現されるがユダヤ人には現されない、     それは、神が「服従せずに反抗する民に、終日、幾世紀もの間、その手をさし伸     べていた」のに民がそれにこたえなかったからであると書いている。今は異邦人     の時である。3-7節には、多くのものを与えられながら、与えてくださった御方     にほとんど返さない人々に対して主がどのような態度をとられるかが書かれてい     る。 08)主はこう言われる、   「人がぶどうのふさの中に、   ぶどうのしるのあるのを見るならば、   『それを破るな、その中に祝福があるから』と言う。   そのようにわたしは、わがしもべらのために行って、   ことごとくは滅ぼさない。 09)わたしはヤコブから子孫をいだし、   ユダからわが山々を受けつぐべき者をいだす。   わたしが選んだ者はこれを受けつぎ、   わがしもべらはそこに住む。 10)シャロンは羊の群れの牧場となり、   アコルの谷は牛の群れの伏す所となって、   わたしを尋ね求めたわが民のものとなる。 11)しかし主を捨て、   わが聖なる山を忘れ、   机を禍福の神に供え、   混ぜ合わせた酒を盛って   運命の神にささげるあなたがたよ、 12)わたしは、あなたがたをつるぎに渡すことに定めた。   あなたがたは皆かがんでほふられる。   あなたがたはわたしが呼んだときに答えず、   わたしが語ったときに聞かず、   わたしの目に悪い事をおこない、   わたしの好まなかった事を選んだからだ」。 13)それゆえ、主なる神はこう言われる、   「見よ、わがしもべたちは食べる、   しかし、あなたがたは飢える。   見よ、わがしもべたちは飲む、   しかし、あなたがたはかわく。   見よ、わがしもべたちは喜ぶ、   しかし、あなたがたは恥じる。 14)見よ、わがしもべたちは心の楽しみによって歌う、   しかし、あなたがたは心の苦しみによって叫び、   たましいの悩みによって泣き叫ぶ。 15)あなたがたの残す名は   わが選んだ者には、のろいの文句となり、   主なる神はあなたがたを殺される。   しかし、おのれのしもべたちを、   ほかの名をもって呼ばれる。 16)それゆえ、地にあって、   おのれのために祝福を求める者は、   真実の神によっておのれの祝福を求め、   地にあって誓う者は、真実の神をさして誓う。   さきの悩みは忘れられて、   わが目から隠れうせるからである。 17)見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。   さきの事はおぼえられることなく、   心に思い起すことはない。   【解説】   地球が星の栄えの状態から月の栄えの状態に変化する。地球が再び楽園になる。 18)しかし、あなたがたはわたしの創造するものにより、   とこしえに楽しみ、喜びを得よ。   見よ、わたしはエルサレムを造って喜びとし、   その民を楽しみとする。 19)わたしはエルサレムを喜び、わが民を楽しむ。   泣く声と叫ぶ声は再びその中に聞えることはない。 20)わずか数日で死ぬみどりごと、   おのが命の日を満たさない老人とは、   もはやその中にいない。   百歳で死ぬ者も、なお若い者とせられ、   百歳で死ぬ者は、のろわれた罪びととされる。   【解説】   みどりご = 生まれたばかりの子供、あるいは3歳ぐらいまでの幼児   もはや = もうそのときからは   (私的)人が科学によって病気を克服する時代の到来が予言されている。   医学によって人々は、病気、そして特に幼児の死亡率を抑えることができる。 21)彼らは家を建てて、それに住み、   ぶどう畑を作って、その実を食べる。 22)彼らが建てる所に、ほかの人は住まず、   彼らが植えるものは、ほかの人が食べない。   わが民の命は、木の命のようになり、   わが選んだ者は、   その手のわざをながく楽しむからである。 23)彼らの勤労はむだでなく、   その生むところの子らは災にかからない。   彼らは主に祝福された者のすえであって、   その子らも彼らと共におるからである。 24)彼らが呼ばないさきに、わたしは答え、   彼らがなお語っているときに、わたしは聞く。 25)おおかみと小羊とは共に食らい、   ししは牛のようにわらを食らい、   へびはちりを食物とする。   彼らはわが聖なる山のどこでもそこなうことなく、   やぶることはない」と主は言われる。   【解説】   19-25節     悲しみや死、サタンの誘惑はなくなる。大いなる繁栄がもたらされる。神は常に     私たちの近くにいて、すべての事柄を明らかにしてくださる。人間と獣との間の     憎しみがなくなる。   17-25節 この聖句はどの時代のことを指して言っているのか     17-25節は福千年のことを指して言っている。この時代に生きる人々は、以前に     あったようなものを欲しがらなくなる。事実、古き地球は「おぼえられることな     く、心に思い起すことはない。」(17節)あらゆるものが栄光のうちに新しくなり、     悲しみは消え(19節)、わずか数日で死ぬみどりごはいなくなり(20節)、家が建て     られ、果実の木が植えられ、人々はその実を食べる。この神権時代の初期に聖徒     たちは自分たちの住む所を追われたが、そのようにして人を追い出す者はだれも     いなくなる(21-22節)。     この栄光に満ちた時代の状態を要約して、ブルース・R・マッコンキー長老は次     のように書いている。「確かに、福千年の間に人間の生活には驚くべき大きな変     化が現れる。しかし、死すべき状態はそのまま継続する。子供も生まれ、成長し、     結婚し、老い、やがて死と同じものを経験していく。人々は穀物を植え、取り入     れ、食べる。産業も大きくなり、町が建設され、教育を受けた人々は引き続き自     立した生活を営み、自分のことは自分で処理し、選択の自由のあらゆる賜物を享     受する。清きくちびるによって話し、平和のうちに住み、病もなく生活し、聖な     る御霊の導くままに進歩する。福千年における社会の発展と完成は、人の想像や     期待をはるかに超えたものである。」     福千年に関する数多くの情報は、教義と聖約101:23-31に詳しく与えられている。
第66章   【解説】   回復と再臨。   【セミナリー解説】   シオンの望み   66章は、イザヤ書全体に述べられた主のメッセージを次のようにまとめている。   「もし忠実であるならば、たとえ今は迫害や試練を受けるとしても、報いを受ける日   が必ず来る。」   「主を待ち望むならば、あなたも世界中の人々も、すべてのものが正される日、つま   り悪人が罰せられて義人が報いを受ける日を迎えることができる。」 01)主はこう言われる、   「天はわが位、地はわが足台である。   あなたがたはわたしのためにどんな家を建てようとするのか。   またどんな所がわが休み所となるのか」。 02)主は言われる、   「わが手はすべてこれらの物を造った。   これらの物はことごとくわたしのものである。   しかし、わたしが顧みる人はこれである。   すなわち、へりくだって心悔い、   わが言葉に恐れおののく者である。 03)牛をほふる者は、また人を殺す者、   小羊を犠牲とする者は、また犬をくびり殺す者、   供え物をささげる者は、また豚の血をささげる者、   乳香を記念としてささげる者は、また偶像をほめる者である。   これはおのが道を選び、その心は憎むべきものを楽しむ。   【解説】   乳香(にゅうこう) = カンラン科の常緑高木。また、その樹脂。樹脂は芳香があり、             古代エジプト時代からの薫香料。   くびり殺す = 絞め殺す   1-4節 「牛をほふる者は、また人を殺す者」とはどういうことか     昔、神は、御子イエス・キリストが人の罪を贖うために降臨されるしるしとして、     動物を犠牲としてささげるよう求められた。しかし、民はキリストの降誕を信じ     る信仰を教えるはずのものを、単に礼拝の形式にしか目を向けず、その儀式をあ     ざ笑いの対象としてしまった。民は儀式の外形的な面は維持してきたが、霊的な     意義を見失ってしまっていた。それらの儀式にふさわしい心の正しさを示してこ     なかったからである。こうして、民を救うために定められた礼拝の形式が、逆に     忌まわしいものとなり、かえって民の滅びに力を貸すことになってしまった。     イザヤはきわめて強い調子で、民が行う偽善的な宗教儀式に対して神がどのよう     な気持ちを抱いておられるかを書いている。いけにえの犠牲として牛をほふる者     が、人をいけにえにするという、非常に邪悪な行為を行っているかのように見ら     れている。そのほかの犠牲のささげ物は、犬をくびり殺したり、豚の血をささげ     たりすることと同じ程度の意味しか持ち得なかった。こうしたことは禁じられ、     忌まわしいことと考えられていたのである(3節)。人は主の道ではなく、「おのが     道を選び」(3節)、預言者を通じて神が呼ばれたときに、耳を傾けようともしなか     った。その結果は「悩み」であり「恐れ」(4節)であって、悪事を行う者にはふさ     わしい報いである。 04)わたしもまた彼らのために悩みを選び、   彼らの恐れるところのものを彼らに臨ませる。   これは、わたしが呼んだときに答える者なく、   わたしが語ったときに聞くことをせず、   わたしの目に悪い事を行い、   わたしの好まなかった事を選んだからである」。 05)あなたがた、主の言葉に恐れおののく者よ、   主の言葉を聞け、   「あなたがたの兄弟たちはあなたがたを憎み、   あなたがたをわが名のために追い出して言った、   『願わくは主がその栄光をあらわして、   われわれにあなたがたの喜びを見させよ』と。   しかし彼らは恥を受ける。 06)聞けよ、町から起る騒ぎを。   宮から聞える声を。   主がその敵に報復される声を。 07)シオンは産みの苦しみをなす前に産み、   その苦しみの来ない前に男子を産んだ。 08)だれがこのような事を聞いたか、   だれがこのような事どもを見たか。   一つの国は一日の苦しみで生れるだろうか。   一つの国民はひと時に生れるだろうか。   しかし、シオンは産みの苦しみをするやいなや、   その子らを産んだ。   【解説】   5-14節 どのようにして「一つの国民はひと時に生れる」のか、またどのようにして   「一つの国は一日の苦しみで生れる」のか     ユダヤ人は長い間自分たちのメシヤであるイエス・キリストを拒み続けているが、     将来危急の時にはイエスは彼らに現れてくださるのである。チャールズ・W・ペ     ンローズ長老は、この偉大な出来事はハルマゲドンの戦いの間に起こるとして、     次のように説明している。     「主が次に現れるときには、衰退し敗北寸前のユダの子らの中においでになるで     あろう。彼らの未曽有の危機の中、数か国にまたがる敵の軍隊がエルサレムの町     を略奪し、戦いのあらゆる恐怖がエルサレムの民の心をとらえるとき、主はその     足をオリブ山の上に置かれる。この山は主が触れられただけで二つに分かれる。     主は天の軍勢を率い、異邦人の連合軍を圧倒し、撃破する。主はひれ伏すユダヤ     人の前に、彼らが長年待ち望んだ力ある解放者としてまた征服者として御姿を現     される。民の心が愛、感謝、畏敬の念、賛美の思いに満たされるとき、解放者は     御自分が十字架におかかりになったしるしを民に示し、御自分こそ彼らがののし     り彼らの父祖が死刑に処したナザレのイエスであることを明らかにされるのであ     る。不信仰は彼らの心から消え失せ、『一部のユダヤ人がかたくなになっ』てい     たがそれもなくなる。『罪と汚れとを清める一つの泉が、ダビデの家とエルサレ     ムの住民とのために開かれる。」神のもとに『一つの国は一日の苦しみで生れ     る。』(8節)彼らは罪の赦しのためにバプテスマを受け、聖霊の賜物を受ける。     そしてシオンに設立された神の統治組織は彼らの中にも設置され、もはや一人と     して永遠に投げ捨てられる者はいない。」     「男子を産んだ」女の話は、黙示12:1-7の話と共通するものがある。黙示録の中     には、陣痛に苦しみ「男子」を産む女の話が書かれている。この子は、ジョセフ     ・スミス訳によれば、福千年の神の王国のことである(ジョセフ・スミス訳黙示     12:7)。それゆえ、イザヤ書に書かれている男の子(シオン)と、黙示録にヨハネ     の書いた幼子とは、恐らく同一の人物を指しているのであろう。これはエルサレ     ムにとっては良い知らせであり、エルサレムはこの知らせを聞いて喜ぶのである。 09)わたしが出産に臨ませて、   産ませないことがあろうか」と、   主は言われる。   「わたしは産ませる者なのに、   胎をとざすであろうか」と、   あなたの神は言われる。 10)「すべてエルサレムを愛する者よ、   彼女と共に喜べ、彼女のゆえに楽しめ。   すべて彼女のために悲しむ者よ、   彼女と共に喜び楽しめ。 11)あなたがたは慰めを与えるエルサレムの乳ぶさから、   乳を吸って飽くことができ、   またその豊かな栄えから、   飲んで楽しむことができるからだ」。 12)主はこう言われる、   「見よ、わたしは川のように彼女に繁栄を与え、   みなぎる流れのように、もろもろの国の富を与える。   あなたがたは乳を飲み、腰に負われ、   ひざの上であやされる。 13)母のその子を慰めるように、   わたしもあなたがたを慰める。   あなたがたはエルサレムで慰めを得る。 14)あなたがたは見て、心喜び、   あなたがたの骨は若草のように栄える。   主の手はそのしもべらと共にあり、   その憤りはその敵にむかっていることを知る。 15)見よ、主は火の中にあらわれて来られる。   その車はつむじ風のようだ。   激しい怒りをもってその憤りをもらし、   火の炎をもって責められる。 16)主は火をもって、またつるぎをもって、   すべての人にさばきを行われる。   主に殺される者は多い」。   【解説】   15-16節     主は日の栄えの輝き(火)の中を来られる。 17)「みずからを聖別し、みずからを清めて園に行き、その中にあるものに従い、豚の肉、   憎むべき物およびねずみを食う者はみな共に絶えうせる」と主は言われる。 18)「わたしは彼らのわざと、彼らの思いとを知っている。わたしは来て、すべての国民と、   もろもろのやからとを集める。彼らは来て、わが栄光を見る。 19)わたしは彼らの中に一つのしるしを立てて、のがれた者をもろもろの国、すなわちタ   ルシシ、よく弓をひくプトおよびルデ、トバル、ヤワン、またわが名声を聞かず、わ   が栄光を見ない遠くの海沿いの国々につかわす。彼らはわが栄光をもろもろの国民の   中に伝える。 20)彼らはイスラエルの子らが清い器に供え物を盛って主の宮に携えて来るように、あな   たがたの兄弟をことごとくもろもろの国の中から馬、車、かご、騾馬、らくだに乗せ   て、わが聖なる山エルサレムにこさせ、主の供え物とする」と主は言われる。   【解説】   騾馬(らば) = 雄ロバと雌ウマとの交配による一代雑種 21)「わたしはまた彼らの中から人を選んで祭司とし、レビびととする」と主は言われる。 22)「わたしが造ろうとする新しい天と、新しい地が   わたしの前にながくとどまるように、   あなたの子孫と、あなたの名は   ながくとどまる」と主は言われる。 23)「新月ごとに、安息日ごとに、   すべての人はわが前に来て礼拝する」と、   主は言われる。 24)「彼らは出て、わたしにそむいた人々のしかばねを見る。そのうじは死なず、   その火は消えることがない。彼らはすべての人に忌みきらわれる」。   【解説】   15-24節 最後の場面     ここの聖句は、主の再臨とその直前に起こる出来事について書かれたものである。     15節と16節は、福千年の始まる直前にエルサレム攻撃のために集まる大軍が滅ぼ     されることについて述べている。     ゼカリヤは、一度戦いが終わると異邦人の国々の生き残った者たちは最終的には     エホバに心を向け、エルサレムの町は非常に聖い状態になり、神の民もまた聖め     られると教えている。この教えはイザヤがここではっきりと述べていることと密     接なかかわりがある。邪悪な者たちは集められて滅ぽされ(15-18節)、異邦人の     国々(タルシシ、プト、ルデなど)に散らされている者はエルサレムへささげ物を     持って来る。神の聖なる民(19-23節)は、神が邪悪な者たちに対してされたこと     を見て驚く(24節)。
「イザヤ書」解説2

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