進化学はなぜ誤解されるんだろうと考えるメモ:その1:確率・本質・科学ってなに?
ダーウィンの進化理論、および進化学は具体的かつシンプルで理路整然としたものであり、さらに観察など多くの事例で検証/あるいはサポートされているものなのですが、それにも関わらずこれほど誤解されている理論はあまりありません。そしてまた自然科学と呼ばれる学問のなかでこれほどまでに現場の研究者と一般の人の理解と認識が懸け離れている理論は珍しいでしょう。そしてこのことは科学に興味を持っている人に限ったとしてもさほど改善されないように見えます。
このこと自体は他のコンテンツでもくり返し述べているのですが、ここではそうした断絶とはなんなのか?、なぜそれが起きるのか、このことをメモ的に書いていきます。
:百家争鳴あふれる進化論、という認識だか誤解だかがある
さて、世の中には科学や知識に興味を持って、事実、非常に多くの本を読んでいる人がたくさんいます。しかしそういう人たちでさえ彼らの進化論に関する理解を聞いてみると、その幾らか、あるいは多くが次ぎような意見を持っているようです。
曰く、進化論には様々なものがあって意見が分かれている
曰く、ダーウィンの進化論はもはやあまり支持されていない。
たしかに書店の生物科学のコーナーを見て、書籍のタイトルを眺めると確かにそうなっているのに違いない、そう思わせるような状況になっています。本棚にはさまざまな進化論の本が並んでいますが、それらは現在広く認められているネオダーウィニズムに関するものだけではありません。ウイルスで生物が進化したという説、あるいは今西進化論、懐かしのラマルク流の獲得形質による進化論、あるいは断続平衡説、さらには宇宙人がなにかしたとかいうものもありますし、聖書に基づいて進化を否定したいわゆる創造科学を紹介した本や、あるいはそこから派生したインテリジェントデザイン説に基づいたものもあります。ようするに知性のある存在が生物を設計したという説ですね。あるいは生物にはもともと進化して新しい構造を作り上げる能力なり機構なりを持っているという書籍を見つけることもできるでしょう。
なるほど本屋の書棚を見る限り、ダーウィンの進化論とネオダーウィニズムは終わりをつげて、いまや進化論は百家争鳴な状態にあることは確実なようです。
ところが今度は視点を本屋から転じて、学会や論文や進化学者が書いた本へと向けてみましょう。そうするとあら不思議、今度はさっきまでのような進化論百家争鳴乱立状態がまるで見られなくなります。そこにあるのはいわゆるネオダーウィニズム(ここでは「岩波 生物学辞典 第4版」でいうような現代的な意味=自然淘汰説で使っています)であって、ウイルス進化論でも今西進化論でも断続平衡説でも、創造科学でもありません。まあ確かに学会というのは何千もの人からなる集合ですし、研究者や参加者にもいろいろな人がいます。ですから中にはネオダーウィニズムとはっきり異なる理論を主張する人もいるでしょう。けれども結局のところ彼らが少数派どころか極少数派にとどまっていることに変わりはありません(以下で述べるようにこうした仮説や理論が支持されないのにはそれなりに理由がある)。
とまあ、はたから見る限り、どうやら進化学者と一般の人の間にはびっくりするような深い認識の溝が横たわっているのがありありと見えるわけですね。かたやダーウィンの理論は破たんして百家争鳴状態であると考え、かたやネオダーウィニズムが確からしい仮説として受け入れられている。
どうしてこんな異常ともいえるギャップが生じたのでしょう?。
そもそもネオダーウィニズムは150年前にダーウィンが提案した理論から基本的には変わっていません。ダーウィンが知らなかったメンデル遺伝を導入して、さらに数学に基づく記述を可能にした。そして分子遺伝学や野外観察なども含めて理論を補強する多数の事例を蓄積するにいたった。確かに中立的な形質の重要性がクローズアップされたにしても、中立的な形質があることはそもそもダーウィンが示した考え方であるし、彼の考えと現代の理論の間に極端に開きがあるかといったらどうでしょうか?。端的にいってしまえばダーウィンの理論をより明確/精緻化してみせたのがネオダーウィニズムであって、つまるところダーウィンの理論は今でも確固たるものとして生きているといえます。
そうであるのになぜダーウィンの理論は一般の人の間では死んだと認識されているのか?。
ダーウィンの理論が複雑で難解だからではありません。ダーウィンの理論は非常に具体的でシンプルきわまりないものでした。彼はまず以下のような事柄を指摘するところから理論を展開します。
1:生物は同じ親から産まれた子どもであってもそれぞれ特徴や性質が違う
2:生物のすべての子どもは大人になるまで生き残れない。その多くは死んでしまう
以上の2つの事柄は仮説でもなんでもなくて単なる事実です。ダーウィンはこうした事実から、
3:だから何かしら生き残る上で有利な特徴を持った子どもの方がもっと生き残りやすい
4:すると、生き残ることにすぐれた特徴を持つ子どもがより多くの子孫を残すことになる
5:生物の特徴は遺伝する
6:4と5から考えると生き残って子孫を残すのに有利な特徴をもつものが数を増やしていくことになる
7:こうしたことが何世代も続くことで生物の姿は変化する。
という推論、あるいは仮説を導き出しました。これは事実に基づいた非常に直接的で単純な帰結ですね。ダーウィンよりも以前、ニュートンは天体の挙動などから天体の運行を説明する万有引力という仮説を導き出しましたが、ダーウィンの進化理論もそれと基本的に同じ手続きを踏んだと言っていいでしょう。
また、彼のやったことはそれに留まりませんでした。科学の世界では仮説を導き出しただけではだめで、再現実験なり、観察なり、データーの収集なりで仮説の確からしさを検討/検証しなければいけません(あるいはそうしないと完結しない/あるいは支持されない)。例えばニュートンの万有引力は新しく発見される天体の運行を調べることで検証されました。既存の天体の運行から導き出された仮説が果たして正しいのかどうか?、それはその仮説が新天体でも同じようにあてはまるのかどうかで調べたわけです。
一方、ダーウィンは地域によって環境が違うのだから、同じ祖先からうまれた集団であっても地域によって異なる集団へと変化していくことが予想されること、そして実際に生物の分布はそういうパターンをあらわすことを自分の著書「種の起原」(例えば第1章)で示して見せました。ようするに観察例から検証してみせたわけです。彼の著作にはそうした具体例が数多く引用されているのですが、後の時代の進化学者もまたこうした事例をさらに多く集めています。
このようにダーウィンの進化理論とニュートンの万有引力は仮説が確立された後の展開にもさほど違いがなかったわけです(ただ万有引力は水星の近日点の移動などの観測からもっと良い仮説に席をゆずってしまいましたが)。
ではなぜ、ダーウィンの進化理論には疑問を持つ人が多いのか?。
1:もしかしたら確率を導入したせいかもしれない
ニュートンの万有引力(少なくともこれが近似値を示すこと)には疑義をはさむ人などいないのに、ダーウィンの進化理論に口を挟む人は当時も今も山のようにいます。果たしてなぜなのか?。
実はダーウィンの進化理論とニュートンの万有引力には大きな違いがって、そのひとつが、ダーウィンの理論に確率という考えが組み込まれていることです。彼は種の起原のなかで、平均的に1個体の子孫を残す1年生の植物、という言い方をしていますし、また、生き残る率がほんの少しでも増すと生物の数がものすごい勢いで増加することも示しました(考えてみれば当たり前で、生き残る率が1/1000であった生物が3/1000になっただけでも、なおかつそのままであれば、3年目にはもとの個体数の27倍へと急増することになる)。
このようにダーウィンの進化理論には明らかに確率という考えが持ち込まれています。そもそも子孫を残しやすい変異、という考え方自体が確率を取り込んだものなのですよね。
ところがどうもこれが理解のつまづきになるらしい。
例えば世の中には、ダーウィンのいうことは間違いだ。だって不利だからといって生き残るものもいるではないか、という人がいます。これは生き残る確率が1/1000でも3/1000でも、結局は生き残るのだから関係ない、と言っているわけです。ようするに分子がいくつでも分子が0でなければ同じだっていっているのですが、これは明らかに確率の大きさを無視した考え方でしょう。
あるいは人によると確率=でたらめという受け取りかたをする人もいます。また、なかにはラプラスの悪魔的な言い様ではありませんが、確率というのはすべてを把握していないだけであり、実質的には無知であることを表明した後ろ向きの態度であると考える人もいるようです。
このようにダーウィンとニュートンの理論には、確率という考えが組み込まれているのか、あるいはいないのか、という違いがあります。そしてダーウィンの進化理論に反対する人には明らかに確率の大きさを無視する人、あるいは確率に対して古典的な受け取り方をする人がいる。これらのことからすると、
ダーウィンの進化理論が理解されにくいのは確率という考えを導入しているからだ
といっていいのでしょう(あるいはダーウィンの進化理論を理解できない人のなかには確率が理解できない人が明らかにいる)。
2:心理的な問題?/生物とか種に人間的な思い入れがある
ダーウィンの進化理論とニュートンの万有引力にはおそらくもうひとつ違いがあります。それはダーウィンの進化理論は生物を対象にしているという点です。
もっとも、実際にはダーウィンが考えていたことはもう少し広いものではなかったかという意見があります。なぜならダーウィンは生物の進化を言語の変貌に例えているからなのですね。このことからダーウィンは、現代の系統学のように、子孫を残して変異し、分岐して多様になっていく進化するものすべて、生物に限らず文化とか言語、道具、チェーンメールとか、進化理論はそういうものまでも包括できるものであることを自覚していたのではないかという意見があります(例えば「進化論という考え方」佐倉統 講談社現代新書 pp55を参考のこと)。
とはいえ、まあ一般的にはダーウィンの進化理論は生物に限ったことだという受け取り方をされているので、ここでは生物の話をしましょう。さて、どうも人間は生物とか種というものに不可思議な思い入れを持っているらしい。
例えば、ブリキの板を桶に加工すると人間はそれをブリキの板ではなくて桶と認識するが、馬に縞模様を塗ってもそれは馬であってシマウマではないと認識する。このように人間は種とか生物というものには、いかなることをしても変化しない本質的なものがあると考えているのではないのか?、そういう見解があります(「現代によみがえるダーウィン」文一総合出版 pp52 )。
言われてみれば確かにそうで、ひるがえって考えるに、こうした考えや認識があるとダーウィンの進化理論が理解できなくなるのではないでしょうか?。
実際、生物の種というものに強固にこだわる人こそダーウィンの進化理論が理解できなくなってしまうように見えます。あるいはこれが言い過ぎだというのなら彼の進化理論が理解できない人には、しばしば、種は不変であって特別なものであるという考えを持っている人がいるように見える、そう言っていいと思います。
確かに、もし種が特別であって、種と種の間に大きな壁があるのならダーウィンの理論は(多分)成り立ちません。
しかしダーウィンは、種と種の間の違いは存在しない、それがあるように見えるのは絶滅などが起きてしまったためだと考えたのでこれが絶対的な障壁であるとは考えませんでした。また、彼は種の違いは越えがたい困難ではないと考えるだけの十分な根拠を持っていました。それゆえにおそらく彼は個体の変異の延長で種から別種がうまれる過程を考えることができたわけです(例えば種の起原の第2章を見よ)。
ようするに種が特別なものであるという前提を多数の根拠で突き崩すことで、個体の変異という事実の積み重ねで生物の多様性を説明してみせた、それがダーウィンの主張の画期的な側面のひとつでしょう。
ところが反対に種と種の違いは巨大で越えがたい、そのように見なすとダーウィンの理論では種が進化する過程を説明できないか、あるいは非常に難しくなると感じるようです。そして先にいったようにどうも人間は種というものに何かしら特別な想いを抱く生き物であるらしい。
だとすれば多くの人がダーウィンの進化理論を理解できなくなるのはさして不思議ではないのかもしれません。
例えば種は確固たるものとしてあって、それゆえに種は一斉に変わらなければいけない、という主張があります。この主張が奇妙なのは種を一斉に変える未知の力を前提にしていることなのですが、そういう得体の知れない前提をわざわざ持ち込むのも、種と種の違いが越えがたい壁であると認識しているからではないか。ようするに、そういう人たちは”種の違い”という特別な障壁を”認識してしまった”ので、それを突破するためにわざわざ特別な力を仮定しなければならなかったのではないでしょうか?。
考えてみればそもそもダーウィンの進化理論以外の進化論の多くがこうした未知の特別な、なおかつ実証されていない力に依存しているように見えます。今西進化論がそうでしょうし、創造論もそうでしょう。さらにこの言葉を種が持つなんらかの機構と解釈した場合、グールドなどが主張した断続平衡説(分断平衡説)も同じ扱いを受けてしまうと見なしてよいように思われます(断続/分断平衡的な現象は確かにあるらしいが、問題はその解釈で、グルードたちは集団遺伝学的な説明ではなくて、種分化と形態進化が関連しているという主張を行った)。
ようするにこうしたいわゆるスタンダードでない進化論は(断続平衡説は以下のようなところにまで踏み込んでいない(らしい)にしても)およそ、
種は特別であってそれらの間には大きな違いがある、だから個体の変異では種が形成される過程は説明できない。ここは何か特別な機構を考えるべきである、それは種社会/神/種が持つ未知の機構/などである
というものなのです。反対にダーウィンの進化理論は
種の違いは越えがたいものではなく、多くの証拠から考えると品種、変種、種の間に本質的な違いはない。個体の変異の積み重ねで種は、あるいは我々が種と呼ぶものが形成されうるであろう。また種の間にしばしば大きな埋めがたい溝があるように見えるのは絶滅と地質記録の不完全性などによって途中過程の記録が失われているからであろう
というものでした。このようにやはりダーウィンと彼以外の進化理論の間には、種の違いを越えがたい壁と見るか、あるいはそうは考えないか、そういう見解の相違が横たわっているように見えます。
先にいったように種に対するこうした見解の相違は、ひとつには”種や生物が特別のものである”という、どうやら人間がもともと持っている考え方、いわば生気論というのか本質論というのか、そういった考え方に由来するのでしょう。おかしな話で生物系のみならず、物理/化学系の人間であっても、生物相手になると途端にこういう考えをはじめる人が出てくるように思えます。彼らも陽子とか電子、ベンゼン環を相手にする時には無味乾燥に機械論で接しているであろうことから考えると、それはずいぶんおかしな話だと思うのですが、やはりこれもまた人間は生物が特別であると考える性癖があるということを示しているのかもしれません。
言い方を変えれば、人間は生物に関しては生まれついての生気論者/あるいは本質主義者だと言えるのかもしれません。ダーウィンの進化理論はドライな機械論であるのに、それを否定して、反対にもっと怪しげな生気論とか本質論にしばしば人間は飛びつく。こういう理屈に合わない現象を説明するのには、こういう解釈が適当であるように思えます。
あるいは生物の種という集合を陽子や電子のような集合と見てしまうのかもしれません。もしそう考えたら種が変化するというのは陽子が電子に変貌するようなものなので(実際のところこうしたアナロジーは明らかにおかしいと思いますが)、もしそんな一大事が起こると考えたら、そりゃあなにか凄い未知の機構を挿入したくなる。そういうことなのかもしれません。
そしてもうひとつ。種が特別であるという見解がうまれるのは、おそらく観察力不足が原因としてあるのではないでしょうか?。
3:観察とデータの不足
生物界には例えばザトウムシのように地域によってことなる形態や性質を持った集団に分化したものもいます。移動能力の低い生物にはしばしばこういう例があります。飛べないオサムシたちも地域によってさまざまな集団に分化しています。イヌ属だって世界全体を踏まえて考えれば交配は可能であるが生育地域ごとに外見や習性がずいぶん異なる種類がいます。タンポポのように種のなかにたくさんの亜種なり品種なりがあったり、あるいはスミレやタデのように同属の中に類似した種がうじゃうじゃいることがあります。それらのなかには別属にするべきような種類がいたり、あるいは実際に別属にされることもあります。ダーウィンの言葉を待つまでもなく、このことは種どころか属の境界さえあいまいになりうるってことを示しています。
こういう例は枚挙にいとまがありませんから、昔から博物学者や生物学者はこうしたことをよく理解していました。生物のすべての種は神が創造したと考えたリンネが、晩年、種から変種が産まれることがありうると考えていたらしいのも、たくさんの観察や知識を貯えたからなのでしょう。こういう知識や観察に立って考えると種の境界はあいまいなものであり、種から種が産まれるということは特別な現象であると考える必要はないわけです。
反対にいうと種を特別なものと考えるひとつの理由には、観察力や知識やデーターが不足しているということがあるのでしょう。そういえば種から種はうまれないと考える創造論者と話した時に彼が持ち出して来た例はイヌとキツネでした。ようするに一見して明らかに違っているように見える別属の動物が、彼にとっては種と種であり、自然のモデルなわけです。
実際に自然界を見ると同属の別種であいまいなものがいたり、もともとは同属の集団とみなしていたが種数が増えたので別属に分けたり、あるいは反対に統合したりという、種の区別があいまいであるということを物語る事例が幾つもあるのですが、それが彼の念頭にはないわけですね。
4:科学をどのように理解しているのかという問題が根底にあるのかもしれない
もうひとつ受け取り側の問題もあるように思われます。そもそも私たちは科学をどのように理解しているのか?。例えばダーウィンは数多くの証拠から種の違いとは越えがたい壁ではなく、そうした断絶が一見して見えるのは絶滅によると考え、そして個体の変異の積み重ねで進化を説明しました。彼の進化理論にあるのは事実と観察に基づく推論と、その検証であって、特別な仮定や前提を一切用いていません(そういう点では万有引力よりも無味乾燥かもしれない)。
しかし書店の本棚をにぎわす他の進化論はそうではありません。それらは多くの場合、特別な仮定や前提を持ち込んでいます。それは種社会であったり、神様であったり、あるいは生物の進化を内部からもたらす未知の機構であったり、あるいは種という集合の持つ未知の作用であったりします。
科学の世界では最節約の原理とか、あるいはオッカムの剃刀という考えがあります。ものすごく簡単にいうと余計な仮定はあまり持ち込まない方がいい説明、というものなのですが、この基準に基づくとダーウィンの進化理論は事実だけから構築されているが、他の進化理論は未知の仮定や力や機構を持ち込んでいるので選ばれないということになるでしょう。
もちろん最節約原理とか、あるいはオッカムの剃刀が絶対だってわけではないのでしょう。事実、世界がいつも最もシンプルにだけふるまっているというわけではないことはおそらく明らかでしょうから(ちなみに、では最節約原理やオッカムの剃刀という基準は世界がシンプルにふるまうという仮定を実際に置いているのかどうかはまた別の問題です。これは非常に興味深く、難しい問題ですが、例えば「過去を復元する」エリオット・ソーバー 蒼樹書房 を参考にしてください)。
むしろダーウィン以外の進化理論の問題は、どうやらこれらの理論の提唱者/あるいは支持者がそうした余計な仮定や未知の力を実証しようとはしなかった、あるいは検証なり実証に失敗したことにあるように思われます。事実、種社会とか種が持つ未知の機構とかを実証してみせた例はどうもないようです(あるいは根拠不十分で賛同はあまり得られなかった>例えば断続平衡説)。またウイルスが遺伝子を水平移動させる現象(こういうこと自体は実際にある)や獲得形質的な現象(実際にその現象が獲得形質であるかどうかは別問題として)が進化において大きな役割を果たしており、生物の適応的な形態を生み出す主要な動力源であるということを示した例、これもまたないようです。
未知の仮定を置いたことがいけないわけではないでしょう。そりゃあ他人から、最節約でないとか、仮説としてそれはどうよ、とか、オッカムの剃刀でめった切りにしてやると言われるかもしれませんが、それらはあくまでも仮説を選択する基準でしかありません。選んだ動機がなんであれ、仮説を検証して実際に確からしいことを皆に示してみせれば勝利なわけです。例えば地動説の発展と宗教改革、太陽を中心にすべてが回るという発想=社会の中心としての国王と絶対王制という社会変化には関連があるという見解がありますが(どっちが原因で結果であるのか、あるいは否かというのは別にして「科学の歴史」上 メイスン 岩波書店 pp191~ )、たとえそういう動機で仮説を選んでもいいわけですよ。ニュートンが重力というなんだかよくわからない力を持ち出したのも、彼が錬金術に御熱心だったからという説明もあるみたいですし、いずれにせよ仮説が確からしいことを実験なり検証なり、観察なりなんなりで皆を納得させることができればそれでいい。
ところがどうも書店をにぎわす進化本はそんなことをしているわけではないらしくて、彼らの理論が大前提としている現象が検証された例は控えめにいってもどうやらほとんど皆無であるらしい(そもそも検証すらしていないのかもしれない)。
まさしくここが問題になるわけですね。
科学では検証とか実験とか、そういう過程や手続きが非常に重視されます。科学と呼ばれるものにはさまざまな分野があります。再現実験ができる物理学(できないジャンルもあるように見える)や化学や分子遺伝学、それが難しい生物学。再現実験ができないので観察やデータの収集を行って検証を行う歴史科学、歴史科学には系統学などが含まれるのでしょうが、いずれにしても方法に違いはあれど検証とか実験はどの分野でもそれぞれ行われていることです。
実際、もし理論が理論だけであったとしたら、それは検証されていない仮説であって、場合によっては神学と同じ扱いを受けてしまうでしょう。現実問題として矛盾のない仮説はいくらでもあるし、見た目が立派でも検証によって葬り去られた仮説はこれまたいくらでもありますからね。理論だけだというのなら見た目は立派だがさてはて実際はどうだか・・・・、と言われるのは当然ではないでしょうか。
そしてダーウィンの進化理論以外の進化論はいまだに検証されたり実証されたりしていないらしい(あるいはそれが不十分だ)。だとしたらそれらが認められないのは当然です。ですから最初にいったように進化学者たちのほとんどが、今西進化論とかラマルク主義とかウイルス進化論とか創造論やらを却下しているのは当然なわけですね。同じような理由で断続平衡説も支持者はあまり(ほとんど?)いないらしい。
反対にいうともしそういう科学と呼ばれるものの手続きなり哲学なり思想なりが理解できない、あるいはそれを共有していないとすると、ダーウィンの進化理論とそれ以外の確からしさや有利性の区別がつかなくなるのではないでしょうか?。そうなれば先に上げた原因と合わせて今西進化論とかウイルス進化論、創造説、ID論などに飛びつくのも当然であると思えます。
種の起原のなかでダーウィンは自分の進化理論では現実の生物の分布パターンが必然的に説明できることから、当時強い力を持っていた創造論に対抗してみせました。ダーウィンのやったことは仮説の説明能力の違いを比較することで、いずれが妥当な仮説であるのかを判定しようということなのですが、これはダーウィンという人が科学理論をどう展開すればいいかよく把握していたことを示しているように見えます。
ですがそうした考えや視点が欠落していればどうか?。おそらくダーウィンの進化理論がなぜ創造論よりもすぐれていると見なされるのか理解できなくなるでしょう。多分、世界のすべての人間が科学の世界の哲学や方法論を共有しているわけではないこと(まあたしかにすべての人類がこれを共有する必要はないんですが)、それがダーウィンの進化理論への無理解につながっているのではないかと思われます。
反対にいえば検証もされていない理論がしばしば大手を振って本屋に並ぶのにはそういうことがあるからなのではないでしょうか?。
さて、ダーウィンの進化理論や進化学、系統学には他にも様々な誤解がまとわりつきます。そのなかには科学は演繹であるという考えや、日本の生物学のなかで起きた事件や経緯、マスメディアの問題もあるようなのですが、それは次ぎのコンテンツでメモすることにいたしましょう。
* なお、科学という営みの背景にある哲学などに関しては、例えば「疑似科学と科学の哲学」 伊勢田哲治 名古屋大学出版会 などを参考のこと。