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『帝都奇談――螺旋堂書店茶話――』



  2




 ちらりとカーテンの隙間から覗いた感じでは、どうやら古書か古本を扱っているようだ。
 扉の真鍮のノブに手を伸ばそうとして、横の壁の張り紙に気づく。




『古今東西、すべての界の、すべての本を取り揃えております』




 達筆な毛筆で書かれたそれに、首を傾げる。
 古今東西は解るが、すべての界とはどういう意味なのだろう。世界中の、ということだろうか。それは洋書も扱っているということなのか、単に客寄せか、店の者の洒落っ気か。
 ちょっと面白がって考えていると、背後から声を掛けられた。
「いらっしゃいませ」
 子供のまろい声だった。
 一瞬、脳裏に昨晩の情景が過ぎる。
 勢いよく振り返ったが視界の下の方にあったのは明るい茶色の頭だった。しばらく彼女を見つめ、想像した童女とは違うとようやく思い至った。
 白磁にほんの少しだけ針の先端で朱を注したかのような整った肌。深い海のような藍色の瞳。スタンドカラーの緋色のワンピース、フリルのついた真っ白いエプロンをかけた様子はカフェのウェイトレスのようだ。陽に透けて金色に輝く髪を、ワンピースと共布のリボンで結んでいる。白い靴下に紅い革靴。
 かけられた言葉は流暢な日本語だった。恰好のせいもあって、ハーフかクォーターか――少なくとも片親には西欧の血が入っていそうに見える。年頃は十二くらいだろうか。
 フランス人形のような少女は、栄二郎の反応ぶりに呆気に取られた様子。
 買い物に出掛けていたのか、少女が持つには大きすぎる荷物を、精一杯両手を回して抱えている。
「お待たせして申し訳ございません。お客様がいらっしゃらないうちにと買い物に出掛けてしまいましたの。店主も留守にしておりますものですから。只今、お開け致しますわ」
 美少女は丁寧な口調で言って荷物を壁際に置くと、エプロンのポケットから鈍色に光る鍵を取り出した。鍵穴に差し込んでくるりと回す。かちゃん、と小さな金属音。
「……君は、ここに住んでいるの? この――書店の店員さん?」
「はい。そうですけれど……」
 怪訝そうに小首を傾げた。
「あ、ごめん。おかしなこと訊いちゃったかな。ただ――この店、いつからあったっけって、思ったから……」
 本当は幼い彼女が店員なのかと尋ねたかったのだが、それは失礼だろうと思い当たった。だが、口をついて出た質問もかなり失礼だと気づく。
 再度謝ろうとすると、彼女は藍色の瞳をやや見開いていた。怒っているのではなさそうだ。驚いているのだろうか。でも、何に?
「――では、貴方が――」
 少女の唇が幽かに動かされ、それはよく聞き取れなかった。尋ねようとすると、少女は緩く首を振った。
「いえ、何でもありませんわ。失礼致しました。中を御覧になりますでしょう? きっと良い本が見つかりますわ」
 扉が外側へ大きく開け放たれる。チリン、と小さな鈴の音が響き、古書特有の埃が染みついたような匂いが扉の向こうから漂ってくる。
 促されたが、どうしてか、入る気が起こらなかった。
 と言うより。
 拒絶されている、入口は開け放たれているのに入ってはならない、そんな気がする。
「……あ、申し訳ない、実はこれから用事があって、ゆっくり見ていられる時間がないんだ。わざわざ開けてくれたのに悪いんだけど……」
 とっさに嘘を吐く。
 新しく見つけた古書店や古本屋の品揃えは解らないから、おそらく長居してしまう。ちらっと見るだけではすまないだろうからと、なるべく失礼にならないように辞退した。
 もともと急ぎどころか、用事すらない。遠慮なく入って一時間でも二時間でも居座っていようと全く困らない。
 それなのに何故か、この古書店への興味は急速に薄らいでいた。最初に建物を見たとき、窓硝子越しに中を覗いていたとき、あんなに惹かれたのが嘘のようだ。
 どう説明して良いのか解らない。店員に言って良いものとも思われない。
 詫びる栄二郎を、少女は本当に不思議そうに見上げていた。入店を断られたのが、ただ純粋に意外そうなのだ。――栄二郎が『必ず』入ると、思っていたかのような。
 店内を覗き込んでいたのだから、それを店の者が見れば、入りたいのだと思うのは当然だろう。だが彼女の面持ちは少し違っているようだった。
 少女の物言いたげな双眸に、栄二郎は途惑った。
「……えっと、あの、じゃ……少しだけ、見て……」
 言いかけると、少女は扉の前に立ちふさがった。
「いいえ、旦那様。旦那様が入りたくないとお思いになるのでしたら、そうなさった方が宜しいと存じます。おそらく我が書店はもう旦那様の必要とされるところではなくなったのでしょう。不要のものにいつまでも関わり合いになられませんよう。もし、どうしても、と、おっしゃいますなら、それは大切なお客様、お止めする理由はござません。どうぞ、ごゆるりとご覧くださいませ。――何も、お手に取ることは叶いますまいが……」
 謎めいた、年格好に似合わぬ物言いは、とてもその年頃の少女のものとは思えなかった。無理をしているようでもない自然なそれはしかし、『彼女』にしっくり合った。
「それは、どういう意味……?」
「言葉通りの意味ですわ。――お入りになりますか?」
 すうっと、背後を寒々しい風が吹き抜いたような気がした。
 急に得体の知れない何かに包まれたような、言いようのない違和感。唾を飲み込もうとしたが喉が乾いていて、引き攣れてひくっと震えた。
 彼女自身は何も変わっていない――と思うのに。
 変わったのは、栄二郎か、あるいは、この『書店』か。
「……いや。また今度にするよ」
 喉の奥から、どうにか声を絞り出す。酷く息苦しい。
 早く立ち去りたいと言う衝動に駆られてどうしようもない。自分がこの古書店にとって歓迎せざる者であることを痛烈に感じる。――感じさせられている。
「それでは、またのお越しを心よりお待ち申し上げております」
 少女は両手を前に揃えて、優雅に首を垂れた。絹糸のような栗色の髪がさらりと滑り落ちる。
 焦る足を叱咤してとどまらせ、栄二郎は不自然でない程度の速さで踵を返す。
「旦那様」
 声をかけられて、異様なくらい過敏に反応してしまった。今にも駆け出したいのを堪えて振り返る。
 哀しげな少女の微笑があった。
「店主に代わりまして、深くお詫び申し上げます」
「……えっ?」  その意味を問う前に、書店の扉は何事もなかったかのように閉じられていた。




    ☆  ☆  ☆




 久しぶりに訪れた馴染みの古本屋で、栄二郎は店主の親父と、ちょうど店に居合わせた常連客とですっかり話し込み、気づいたときには表はすっかり夕暮れを迎えていた。好い加減に話を終わらせて、暇を告げる常連客とともに栄二郎は古本屋を後にする。
 日中の陽気は暖かいが初夏にはまだ早く、日暮れ後の風は涼しくて肌寒い。ついさっきまで話に興じていた所為か、かえって冷たい空気が心地良かった。
 古本屋通りを抜け、川の方を回って帰ろうと土手へ向かった。
 川面が朱から藍へと色を変えていく。ちょっとした舞台のようだ。この辺りまで表通りの明るいネオンは届かない。ぽつぽつと窓から漏れる薄黄色は照明にするは乏しい。下町の家々の蒼い影がひっそりと浮かび上がる様子は、暗転する寸前のときにも似ている。
 土手をのんびり歩きながら、そう言えば古本屋の親父に、あの洋館の古書店のことを尋ね忘れたと唐突に思い出す。古本屋や古書店同士の組合か何かがあるだろうから、知らなくはないだろう。すっかり失念していた。
 新しく古本屋なり古書店なりが開店すれば、たいてい話題になるものだが、誰も口にしなかった。
 久しぶりに街に来たのだったし、すでに話題にもならなくなっているのかもしれない。栄二郎があえて尋ねなかったので、彼も知っているものと思われたか。
 でも、と、足を止める。
 最近、あの通りで開店した古書店の噂は、下宿でも誰からも訊いていなかった。部屋からほとんど出ないが多少の噂くらいは耳に入る。
 あの洋館はかなり頑強な造りだった、と思う。建物自体の規模は小さいとは言え、完成までに数ヶ月はかかるのではないだろうか。
 それとも、新築ではなく、移築や、もともとあった建物を改装したのか。以前にあの場所にどんな建物があったか憶えていない。古本屋通りに行かないでいた間に改装作業が終わっていたのかもしれないが、行かなかったといっても一ヶ月程度だ。そのくらいで終わるものだろうか。
 夕刻の視界の悪さに足元を気にしながら土手を下りる。下宿通りへ続く小路に入っていく。
 まるで一夜のうちに降って出たようだが、栄二郎の思い違いだろう。建築関係は畑違いだ。建築の方法などさっぱり解らない。壁は赤煉瓦のように見えたが実際に触ったわけでもなく、見かけだけだったのかもしれない。
 下宿に帰ってから憶えていたら、誰かに尋ねてみよう。
 そんなふうに軽く決めたとき、栄二郎は幽かに唄うような声を聴いた。




 ぎくりとして小路の途中で歩みを止める。
 耳を澄ませてみると、聞こえる声音には一定の調子。やはり唄のようだ。
 幽かな消え入りそうなその声に聞き覚えは、当然、ある。
 昨日の今日だ、そうそう忘れるものか。
 引き返そうか。そう思った瞬間、前方に小さな人影が現れた。




 青黒い宵闇の中で、童女の姿が何故かはっきりと見えた。
 お手繰りの着物。真っ白い足袋に朱塗りの下駄。
 鞠突き唄を口ずさんでいた童女は、ふっと唄うのを止めた。こちらを見た。あどけない口の端が釣り上がる。
 嗤ったのかもしれないそれは、童女が可愛らしい故に空恐ろしかった。昨晩と寸分違わぬ恰好なのに、まるきり別人に見えた。
 禍々しい気配。
 只の人の栄二郎にまで感じられる。凄絶なまでの妖気は周囲の大気を震えさせた。
 夜風とは明らかに異なる冷たい風に浚われて、木々が一斉に騒めく。揺れ動くことで何かを追い払っているかのようだ。
 しかしどれだけ風に晒されようとも、栄二郎に枝葉はなく、追い払う術はなかった。
 すべるような足取りで――地を踏んではいないのかもしれない。土を踏む音が聞こえない――歩み寄る童女から、目を離せない。




 栄二郎との距離が二間ばかりになって、童女は止まった。
 婉然と笑む。
 狩る者の心が伝わる、饒舌な微笑み。
 獲物を見つけた歓喜。
 童女の両腕が正面へ掲げられる。差し出された十本の小さな指が異様に伸びる。
 あれは指ではない。爪、だ。
 恐ろしく尖った鋭さが日本刀のよう。触れただけですっぱり斬れそうな刃物の、冴えた光。見せびらかすが如く、甘い芳香を放つ人魂の容れ物へと向ける。
 構える。




 跳躍する寸前で、童女は凍りついた。前方を――栄二郎の背後を、窺う。
 土を固められただけの道を革靴が踏む。
 不意に現れた第三者に、栄二郎が振り返って確かめようとした時には、すでに声の主は彼の視界へ入ってきた。
 裾が柔らかく翻る緋色のワンピース。エプロンは着けていない。栗色の髪が薄い星明かりに輝く。リボンの端がふわりとたなびく。
 毅然とした表情の古書店の少女。
 立ち尽くす童女に、わずかに目を眇めた。
「おまえ。何をしている。汝(うぬ)が身の程をわきまえよ」
 紅い唇が、可愛らしさとは正反対に辛辣な台詞を吐く。そして物言い以上に、古書店の少女は気迫に満ちていた。昼間に話していたときとがらりと印象が違う。童女から感じたものとは違う理由で栄二郎は退いた。
 童女が、見た目通りの年齢だとは思わない。物の怪の類ならば実年齢など問うのも無意味だろう。その童女の外見年齢より5、6歳は年上に思える古書店の少女の口調と雰囲気は、童女よりもはるかに年経ていると思わされる何かがあった。
 それは童女にも伝わっている。明らかに狼狽している。
「解ったのなら疾く去ね。もしや解らぬと言うのではあるまいな。我が力、汝の脆弱な体を使って証明して見せようか」
 深い海の色の瞳が、氷のような冷たさと鋭さをはらんで童女を睨める。
 格が違う。
 具体的には解らないが、たったこれだけの僅かな対峙で、差が見て取れた。たとえ童女が千人、束になってかかったとしても、古書店の少女には太刀打ちできない。力の強弱は歴然としていて、童女は踏み潰される蟻の如く簡単に斃される。
 名残惜しげに童女は――栄二郎に一瞥をくれ。
 広袖を翻して溶けるように闇へ消えた。






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