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『帝都奇談――螺旋堂書店茶話――』
3
背後の川面のはじけた小波が星明かりを反射する。幽かに残っていた日没後の黒味を帯びた青は
、いつのまにか夜の濃藍色に飲まれていた。隣に居る者の輪郭がどうやら浮かび上がる程度。
長い沈黙は、実際は僅かだったに違いない。先に声を掛けたのは古書店の少女だった。
「お怪我はございませんか?」
静かな声音に、栄二郎は慌てて我に返った。
先ほどとは打って変わって穏やかな口調だ。戦くほどの冷ややかさは微塵も残っていない。真っ直ぐに栄二郎を見上げてくる、黒目がちの大きな藍色の瞳は優しい。
「あ、怪我は、別に……」
「それはよろしゅうございました。……春の宵の一人歩きは充分に御注意召されませ。あのような輩にも遭いますゆえ」
子供特有のまろい声。やんわりと諭されているようだが、母親が子を叱る様でもない。今夜は良く晴れていると言うのと大差ない。
「輩……って、あの童女はいったい?」
「あれは『ヒトダマ突き』と申すモノ」
「人魂……?」
「旦那様がお気にかけられるような存在ではございません。お忘れくださいませ」
素っ気無く返す。
眉をひそめた栄二郎に、さすがに言葉足らずだと思ったのか、少女は先程まで童女がいた辺りを眺め、微苦笑しながら教えてくれた。
「夜の闇の内に棲む、人為らざるモノですわ。ガス灯が灯り、夜が昼のように明るくなって闇が減りました。あのような存在にはつまらない世の中になったでしょうね」
かの童女の獲物は魂。
温かい容れ物の内に、がっちりと護られている。
以前は自ら手を下さなくとも簡単に手に入れられただろう。
「あの……君は――あの書店は……」
昨今流行の洋装に身を包み、髪に結ばれたリボンが涼風に揺れる。
それだけなら居留区で見掛ける外国人の子供たちのようだ。言葉使いは別にしても、おっとりとした雰囲気は華族の令嬢を思わせた。
ただし、たった一つの事柄が、印象をまったく違うものににひっくり返していた。
彼女の自身の瞳によって。
強い意志の力。
十歳近く年の離れた大人の栄二郎が、心ならずも怯んでしまうほどの。
晩春の寂れた裏路地に、どう見てもそぐわない者がいた。
少女との間に一本の線が明確に引かれている。
栄二郎はそれを越えられないが、彼女は越える。越えられる存在だからだ。
普通の子供には見えないが、彼女が何かの術師のようにも見えなかった。そんなものではない、そもそも栄二郎の持っている知識の何かに例えられるような存在ではない。そんな気さえする。
途惑う栄二郎に気づいたのか、少女は優しげな微笑みを湛えて振り仰いだ。
「詮索なさらない方が宜しいでしょう。考えたところで答えが得られるとも限りません。得られた答えが正しいと、どうして解りましょう。お忘れになった方が賢明ですわ」
あまりにも真っ直ぐに向けられた双眸。心のうちを見透かされて、栄二郎は焦ってしまった。
彼女の言葉は当たっている。
そして、正しい答えを教えてくれる気はない。
教えてくれたとしても、理解できないかもしれない。
同じ場所には相容れない者同士が、偶然集まってしまっただけなのだ。
夾雑物はどちらだろうか。
栄二郎が、栄二郎の属する世界に、今、いると、言えるだろうか。
先程の邂逅の『場所』が、現世だったと言う保証は、何処にもない。
線を越えてしまったのだ。
蒼い炎の人魂を突く者のような存在が跋扈する領域へ。
居てはならないのは栄二郎の方。
いろいろ探って良いわけない。関わり合いになるなと、少女は忠告してくれた。
「俺はもしかして、僥倖に巡り合ったのかな。礼を言うよ」
それは少女にとって思いがけない言葉だったらしい。忙しく瞬きを繰り返した。
「……さて。これを僥倖と呼べますかどうか」
だから礼には及ばない。小さな可愛らしい声で忍び笑う。苦笑に近い。
「いずれにせよ、旦那様には些か魔縁を呼び寄せる気がおありのご様子。申し上げましたとおり、春の宵や――そう、逢魔ヶ時の散ろ歩きには充分ご注意召されませ。あのような輩やわたくしのような者と、かち合う羽目に陥ります故」
「でも君は魔ではないだろう?」
「どうでございましょう。似而非なる者とでも申し上げましょうか」
彼女の答えは不明瞭なまま、判然としない。
はぐらかそうとしているのか。所詮、栄二郎はその程度の存在だという事だろうか。
今こんなふうに話していられるのは、彼女が話そうとしてくれているおかげなのだろう。彼女の気が変われば呆気なく放り出される。
僥倖と思うか兇事と取るかは栄二郎次第。
魔の者か、そうでないのかを決めるのは他の者だ。栄二郎ではない。
夜の静寂を縫うように、古書店の少女は呟いた。
「――わたくしどもの書店を必要としない御方のところへ現れたのですもの。――そう、もしかしたら僥倖に出会ったのはわたくしの方なのかもしれません」
栄二郎は怪訝そうに彼女を見た。
何を言っているのか皆目その意味は解らない。それについて尋ねることも許されないだろうか。かける言葉が見つからず、ただ突っ立っているしかできない。
ふと少女は空を振り仰いだ。
視線の先にはまもなく夜明けを迎えようとする暁天があった。いつのまにか、夜が明けようとしている。異変に遭ったのは日没間もない頃だった。そんなに長時間立ち話をしていた感覚はまったくない。
「そろそろ戻られても心配ございません。夜を徘徊する者どもが刻は終わりです。ずいぶんとお引き止めしてしまいましたわ」
「……君が?」
護っていてくれていた?
少女は含羞むように笑った。他愛ない悪戯を成功させて、誇らしげにする子供のよう。
「帰途の際に、おこぼれをと考える輩もおります」
「助けてくれてありがとう。君のおかげだ」
「いいえ。そんなこと。お礼などおっしゃらないでくださいませ。知らなければそのままですけれど、知ってしまったのですから素知らぬ振りはできません。ですが己が身は己自身で護らねばならぬもの。次はないとお思いくださいませ」
闇に潜める場所が無くならない限り、夜は安心してはいけない。
彼女が居合わせたのは偶然でしかなかったのだから。
魂を奪われても仕方がなかった。
運が良かっただけなのだから。
「心しておくよ」
栄二郎の返事に、少女は莞爾とした。
☆ ☆ ☆
馴染みの親父さんの店からどうやって下宿へ戻ったのか、記憶がなかった。
土手を下りたところまでは憶えているが、気がついたら朝方で、下宿の玄関先にいた。
建てつけが悪くて隙間の空く引き戸を目の前にして、一瞬、何処にいるのか解らなかった。呆けたまま橙色に染まる引き戸を見つめていると、いきなり戸が開いて、出てきた管理人と鉢合わせた。
腰の曲がった老婆は精いっぱい背を伸ばして栄二郎を見上げる。
その仕種に――見上げられることに、奇妙な既視感を憶えた。
「……どうしたね?」
「え、えっと、いえ……何でも……」
言葉に表せなくてすっきりしない。
「まったく、朝帰りとは良い御身分だね。親が知ったら悲しむよ」
老婆はブツブツお小言を垂れると、箒と塵取りを持って表へ出て行く。日課の掃除だろう。
親のことを出されると恐縮するしかない。半笑いで老婆の後ろ姿を見送っていた栄二郎は、ぎくりとした。引き戸を振り返る。磨り硝子に映る朱。背後を振り返って太陽の位置を確かめる。東。まぎれもなく、朝日だ。
眩しさに目を瞑る。よろめいて俯く。上げた片手で両目を押さえた。瞼の裏で緑の残像が散る。
どうして朝なのだろう。
親父さんの店から帰るときは夕方だった筈なのに。
思い出せない。
夕方ではなかったのかもしれない。つい夜通し話し込んでしまったのかも。夢中になり過ぎて……
ゆっくりと目を開ける。
視界に広げた掌。もちろん何も持っていやしない。持っていないのに――解っているのに、持っていないことが、やけに空虚だった。
知らないうちに何かを失くしたような気分。
この喪失感は何だろう。今が朝であることが問題なのではない。
忘れなければいけないことに出会ってしまった。
死体を見つけたことなど些末な出来事でしかなかった、そう思える何か。
曙光に眩んだ所為ではない涙が零れた。
☆ ☆ ☆
少女は口に運びかけていたカップを止めて、窓の外を見やった。
垣根の向こうを行く二人の若者。その片方には見覚えがあった。先日、助けたあの人だ。
友人らしい同年代の若者と談笑している。
「どうしましたか?」
彼女の様子に気がついた青年――この『螺旋堂書店』の店主――と、一緒にお茶を楽しんでいるもう一人の少年が、不思議そうに彼女の視線をたどる。
「――彼、ですか?」
化け物に襲われそうになっていたところを助けたのは。
微笑んで少女は頷く。
「人助けなんて珍しいね」
少し意地悪げな少年――少女とうりふたつの容貌だ――の言い様に、少女は憤慨して顎をつんと反らした。
「人聞きの悪いこと言わないで。助けたのはあたしが助けたいと思ったからよ」
誰かが襲われていると気づき、螺旋堂を訪れた者だと。
たったそれだけの――しかし大事なこと。
「配達の帰り道だったもの、何しようと良いじゃない」
「あ、行きじゃなかったんだ。僕はてっきり」
「煩いわね。毎日人ンち来てお茶ばっかり飲んでる茶道楽に言われたくないわよ!」
「心外だなぁ。まるで僕が遊んでいるみたいじゃないか」
「あら違うの?」
「もちろん。君が見ていないだけさ」
「どおだか!」
「……あの、喧嘩しないでくださいませんか……」
どちらも引かない応酬に店主は端正な面立ちを曇らせて、おろおろと二人を交互に見る。
「心配要らないよ。仲好しな双子のコミュニケーションさ。喧嘩などしてやいないよ。それどころか感謝している。君たちがしっかり管理してくれているから、螺旋堂は立ち行けているのだからね」
少年ははんなりと笑む。
同じように笑んだ店主の横で、一気に脱力したのは少女だ。
「もう! 誤魔化したって駄目なんだから!」
叫んで、少女はそっぽを向いた。
本当に純粋な気持ちからだった。餌食にされるのを見過ごす気にはなれなかった。気まぐれだったかもしれないけれど、その時は本心から助けたいと思った。
彼は、必要としていなかったにもかかわらず、螺旋堂に来た。あの若者にとって必要だったのは、書店ではなく少女だったのだろう。だから『螺旋堂』に入店を拒否された。彼は螺旋堂の本を必要としていなかったのだから。
これは、仕組まれた必然だった。
少女があの青年を助けるように決められていたのだろう。
この界に『螺旋堂書店』が来たことが何よりの証拠。
少年も店主も解っている。
「……何よ。さっさと帰んなさいよ! いつまでウチで茶ぁ飲んでる気?!」
「うん。もう帰るよ。君の入れるお茶はやっぱり格別だね。ごちそうさま」
「あ、そ」
気のなさそうに少女は受け流した。
席を立った少年を、店主は会釈して見送る。
硝子窓の向こうに、若者の後ろ姿。
どんどん小さくなっていく。
離れていっているのはどちらだろう。
若者か、螺旋堂か。あるいは両方か。
周囲の風景に薄く濃く霧が浸蝕していく。次第に淡い光の海に溶け込む。
「どうぞ、お健やかにお過ごしくださいませね」
見る間に視界は白く閉ざされた。
ふと栄二郎は足を止めて振り返った。
忍び笑いを含んだ、幽かな声が聞こえたような気がした。
「どうした?」
級友が尋ねてくる。馴染みの古本屋に一緒に向かうところだ。
何かを探すように辺りを見回している栄二郎の視線を追って、彼もきょろきょろしている。特にこれと言って目立ったものは見つからなかったらしく、怪訝そうにしている。
栄二郎自身、自分が何故立ち止まって振り返ったのか解らないでいた。振り返ってはみたものの、どうしたら良いのか、途方に暮れていた。
「……今……」
誰かが何か言った、ような気がした。その声が、何処か聞き覚えのあるような、つい最近耳にしたばかりのように思えた。
耳を澄ませても、もう何も聞こえない。何を聞いたかすら忘れてしまった。軽く視線を落とし、ごく短く息を吐いた。
所在なげに立ち尽くしていた級友に、すまないと謝る。
「何でもない。行こう」
「大丈夫か? 久しぶりに学校来たんで調子おかしくなっちまったんじゃないのか?」
級友は真剣な顔で言った。
思い切り失礼な言われようだが、悪気は全くない彼に、栄二郎は苦笑する。
「違うよ」
「そうか。それは上々吉」
―― 終幕 ――
POSTSCRIPT――あとがきにかこつけた蛇足☆
ホラーを書きたかったのです。実は。大正浪漫。
単に、鈍くさい青年と小生意気な少女が出会っただけになってしまいました。
ヒトダマ突きはおそらくあの後も人を殺して人魂を突き、
栄二郎は学校をサボりつつ劇作家を目指して原稿用紙を丸め、
大家の婆さんは表先を掃除し、
そして。
『螺旋堂書店』も、とある界に(気紛れか、又は必然に)出現しているのでしょう。
次は、誰に出逢うのでしょうか。
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