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『帝都奇談――螺旋堂書店茶話――』



  1




 鞠突きの音がきこえる。軽やかな音。リズミカルに、途切れることなく続く。
 鞠が跳ねる。唄に合わせて。
 蒼の色彩にふちどられ、光が辺りに散らばる。薄氷が砕ける様に似ている。
 明るい月に照らされ、一瞬だけ浮かび上がる。
 ほのかに光る残像。
 かそけき声の持ち主は広袖姿の童女。鞠突き唄を口ずさみながら鞠を突いている。表情は俯いていて見えない。
 かむろ髪が、寛やかに揺れる。




    ☆  ☆  ☆




 月が、そろそろ中天にかかろうとしていた。満月を過ぎて3、4日経つ。
 ランプがひとつ灯るだけの狭い部屋。障子の破れた窓から、平波栄二郎は何とはなしに空を見上げた。月明かりに誘われたのかもしれない。
 帝大生で、末は官吏かと言われているくせに歌劇に傾倒し、劇作家を目指している。小さな劇団の脚本なら何本か手掛けた。今は帝都でも指折りの大きな劇団の公募に取り組んでいる。日が高くなってからようやく起き出し、後は深夜まで黙々と原稿用紙のマス目を埋める日々が続いている。創作に熱中するあまり学校へはほとんど行っていない。
 外出するとしたら原稿用紙を買いに文房具屋か、馴染みの古本屋へ行くくらいだ。
 そうして今夜もまた、書き物机に向かっていた。しかし鉛筆を握ったものの、格子窓の桟にかかる月をぼんやり眺めているだけで、どうにも進まなかった。
 かと言って寝つかれもしない。
 思案した後、栄二郎は行李に無造作に被せてあった羽織を取った。




 寝静まった下宿の廊下を、なるべく音を立てないように抜ける。老朽化した木造の建屋の床板が軋んで、夜である所為かよけいに周囲に響くような気がした。いつも開けっ放しの便所の窓から裏庭に降り、塀を乗り越えて首尾よく脱出した。
 廉価な店賃の木造長屋が軒を並べる通り。落ちる自分の影を追うようにのんびりと過ぎる。何も思い浮かばない頭に、何も考えない散歩は心地良かった。
 半刻も歩いただろうか。いつのまにか周辺の様子はがらりと変わっていた。通りの両側に、白壁が半町先まで続いている。壁の内側は商家の土蔵が建ち並ぶ。開けっぴろげな下宿通りとは異なり、人の匂いを感じさせない冷たい空気が漂う。
 月明かりに白壁が白く霞む。
 朧な光の間を縫って、栄二郎の耳朶を密かに打つものがあった。
 何処からともなく童女の唄声。鞠突き唄。
 夜の静寂の中からきこえてくる。
 栄二郎は訝しげに首を巡らせる。
 夜更けに散歩中の栄二郎が奇妙なのであって、大概の人間なら眠りに就いている。そんな時刻に子供が起きていて、しかも遊ぶ事を許す親がいるとは思えない。
 子供の声を頼りに歩き出す。
 もし迷子なら保護してやらなければ。
 幼いまろい唄声は幽かだが、それほど遠くはない。どうやらもうひとつ向こうの通りにいるようだ。
 何故こんな場所で遊んでいるのだろう。この辺は土蔵が並んでいるばかりで民家はない。ガス灯はもっと繁華街に行かなければなかった。灯りと言えば月と星だけの、心寂しい通りだ。
 栄二郎はやや急ぎ足に土蔵の角を曲がる。




 突然、明瞭になった唄声と、赤い金魚のような帯が目に入った。
 声をかけようと口を開きかけたが、そのまま固まる。一歩足を踏み出した恰好で、栄二郎は目前の光景を凝視した。
 角を曲がった先にいたのは、広袖姿の年端もいかない童女。襟足あたりで切り揃えた黒髪。鞠を追って俯いているので顔は見えない。高く澄んだ唄声はまぎれもなくその童女の口から紡がれている。無心に鞠を突いている。
 それだけなら近所で見かける子供たちと大差ない。
 栄二郎が驚愕したのは、童女の容姿ゆえではなかった。
『それ』からは確かに鞠のような軽やかな音が響く。しかし『それ』は鞠ではなかった。少なくとも栄二郎には鞠に見えなかった。
 童女が突いている球体状のモノは――蒼い炎に包まれ、音無く燃えていた。
 地に付くたびに炎は揺れ、散り、地に落ちた童女の影も揺れた。栄二郎がまず考えたのは、熱くないのだろうか、だった。
 その異様さに微動だにできなかった。目が離せない。
 童女は幼く、だからよけいに尋常ならざる光景だった。
 これが狂相もあらわな鬼女の類ででもあれば、いっそ現実味は増したかもしれない。
 現世(うつしよ)の狭間に漂う幻――
 他に何に例えれば良いのだろう。
 童女は、蒼炎の鞠を突くのに熱心なのか、そもそも周囲には無関心なのか、栄二郎に気づく様子はない。
 あの物体は何であるのか。何故そんなものをついているのか――童女は何者なのか。
 迷子の保護という目的は、すっかり念頭に無かった。
 ただ、蒼い炎に、魅せられていた。




 きしり、と足元が軋んだ音をたてた。下駄に踏まれた小石。
 鞠の軽やかな音と唄声の響く中で、それはいやに耳障りだった。
 慌てて足の力を抜いた。
 音に気を取られたのだろう、童女は地面から戻ってきた鞠を突き損ねた。鞠は転々と転がり、地面にわだかまった闇にぶつかって止まった。跳ね上がった鞠を、童女は屈んでかろうじて受け止める。
 童女の小さな両手に挟まれた鞠が、音無く蒼い炎を吹く。
 無頓着に打ち捨てられたような黒い塊が、ぼんやりと照らされる。
 蒼い明かりの下に見えた塊。栄二郎は目を疑う。
 闇からはみ出ている棒切れのような、先端の分かれたあれは――指ではなかろうか。
 すぐ足元に転がるそれに、童女が気づいていないわけはない。なのに目もくれない。
 童女は蒼炎の鞠を持ってゆっくりと身を起こした。白い貌がこちらを向く。
 蒼い明かりが遠ざかる瞬間、ほんの僅かだが人の頭部らしき丸いものが掠め見えた。揺れる炎に嬲られて、髪がかすかにそよいだ。
 倒れ伏している人らしき塊は暗色の地面と同化して解らなくなった。
 蒼炎の鞠を持った童女もまた。
 塊に気を取られた隙に、闇に溶けるようにいなくなっていた。




    ☆  ☆  ☆




 翌日の朝刊に、死んでいた男の記事が載っていた。
 管理人の婆さんが下宿人達に新聞を回していたのを見せてもらったのだ。近所で起こったことだったから、界隈は大騒ぎだった。
 あの後、栄二郎は警察に連絡はしなかった。
 死体があった、とは解っている。解っていても――まるでない現実感に夢を見ているようで、あちこちを歩いているうちに下宿に戻ってきてしまったのだ。
 絣の着物に紺の袴を穿いた何処にでもいそうな書生風で、月明かりで透かし見た年格好は、栄二郎とそう変わらないように思えた。記事にも、とある私大の学生とあった。
 死体などおいそれと見つけるものでも見つかるものでもないうえに死因がおおごとだった。袈裟懸けに、一刀の元ばっさり見事に斬られ、他にこれと言った外傷はなかったそうだから、それが致命傷らしい。大きな血溜りと、てんてんと飛び散った血が土に染みた跡もあった。
 凶行に使用された刃物は日本刀らしかった。鉛筆を削る小刀ならともかく一介の学生でしかない栄二郎が所持していよう筈もない。握ったことも、見たことすらもない。持っていない物を使うなど不可能である。下手に通報しなくて良かったと安堵してしまった。疑われて、今頃は下宿を家宅捜査されている。
 周辺を捜索しても刀は出てこないらしい。通りの両側は高い白壁が延々続いている。その場で捨てようとしても、重い日本刀をそれほど遠くへ投げられなさそうだが、白壁の内側のどちらにも落ちてはいなかった。
 通りの途中で出会った被害者はその場で、反対側から来た加害者に斬られた。凶行後、加害者は刀を持って逃走した。警察はそういう見解らしい。身元の割れた学生は民権論者だったそうだから、斬られる動機はあろう。
 栄二郎を驚愕させたのは、そんなことではなかった。足跡だ。
 現場に二種類しかなかったそうなのだ。被害者と加害者と思われるものが、二つ。新聞が嘘を書いていないならば。




 現場に二つしか残されていなかった足跡。
 あの場所には、三人、いた。
 栄二郎と、死んでいた男と、鞠突きをしていた童女が。
 二つの足跡はそれぞれ別の方向から来て、一方だけが引き返していた。足跡は大通りに出たところで途切れていたらしい。それは栄二郎だ。一度大通りへ出て――人のいる場所へ行って落ち着きたかったのだ。
 数が合わなさ過ぎる。栄二郎は殺してなどいないから、大人の足跡は被害者も含めて三つなければ変だ。
 そして。
 炎の鞠では突いた跡など残らないかもしれない。しかしあの童女は何処からどうやってあの場所へ来たのだろう。童女の影はちゃんと地面に落ちていた。新聞は子供のことには全く触れていない。公表されていないだけかもしれないが。
 彼女が何処へ行ったのか知らない――見ていない。
 警察に伝えたところで、蒼炎の鞠を突いていた童女がいたなどと、誰が信じるだろう。頭がおかしいか、寝惚けていたのかと嘲笑われて、追い返されるのが関の山だ。
 童女の顔さえ憶えていない。




    ☆  ☆  ☆




 下宿にいても眠れそうになかった。今日は平日だが学校に行く気にも、かと言って原稿を書く気にもなれない。
 馴染みの古本屋へでも行こうかと思い立つ。欲しい書籍があったので、入ったら取り置いてくれるように頼んでいたのだ。散歩がてらに行ってみてもいい。
 古本屋通りは、その名の通り古本屋や古書店が立ち並ぶ。もちろん新本を扱う書店や、雑貨屋、定食屋など様々な店舗もあるが、圧倒的に古本屋の数が多い。舗道にまで売り物を広げて我が物顔だ。
 ひしめき合う古本屋の大半は開業して、長くても半世紀程度。中には創業百年を越える老舗もある。そういった店に置かれているのは希少価値の高い本ばかりだ。高額で、とても貧乏学生の手の出る代物ではない。近在に学校が多い所為でほとんどの店が学生相手だが、老舗は通りすがりにちらっと店内を覗き込むのが精いっぱいで、迂闊に足も踏み入れられない。
 手持ちはなくてもふらりと入れる店もある。冷やかしで入っただけでも親父さんは愛想良く、追い出したりしない。顔馴染の客と他愛もない世間話をし、時には接客そっちのけになったりもする。
 そういう和やかな雰囲気が人気で、常連客には金の無い学生達が多かった。そんな客ばかり相手で潰れないのが不思議だ。卒業生のお古の教科書を売るだけで儲けがあるとは思えない。それなりに買っていく客も多いのだろう。
 舗道を行く栄二郎の視界に、見慣れない建物が入ってきた。
 古本屋通りに足を運ぶ学生達なら、新旧様々な店舗を把握したがる。栄二郎もそのうちのひとりだ。新しく出来た建物が書店なら、興味の湧かない筈がない。
 看板には粋な飾り文字で『螺旋堂書店』とあった。
 店の造りは洋式の平屋で、赤煉瓦に蔦が這っている。窓枠の白さが際立つ。窓は下枠を持ち上げて開けるタイプのようだ。扉は明るいベージュ。窓にも扉の小さな格子窓にも白いレースのカーテンが引かれている。屋根は紺色の瓦で葺いてあって、屋根裏部屋らしい小さな窓も見えた。
 この界隈ではまだ木造建築が多く、洒落た造りのこの洋館はちょっと近寄り難い雰囲気がある。
 そのせいだろうか、まだ平日の昼日中で人通りはほとんどなかったが、店の周囲は閑散としていた。






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