両断された頭部が今度こそ炭化し、自重でその形を崩す。最後に残った――たった小匙一杯もないくらいの――灰が風に浚われる。灰になっても魔法陣からは出られない。リュシイの周囲を巡り、固まって、目の前にぽとんと落ちた。縞模様の濃淡も鮮やかな朱色の石。
魔法陣の五つの頂角の灯火がひときわ輝き、徐々に光を失い消えていった。
自分の荒い息づかいしか聞こえない。リュシイは剣を両手で握り締め、地に転がる小石を睥睨していた。
剣から焔が消える。糸が切れたように切っ先が地に落ちた。剣の重みにつられてリュシイも前屈みに倒れ込む。
「リュシイ!」
慌てて駆け寄ったアルウィンにすんでのところで支えられた。
「……あ、ども……」
呟くのでさえ億劫だ。力という力がすっかり干上がったかのよう。
弱々しく、それでも礼を述べようとするリュシイに苦笑しながら、アルウィンは自力では柄から離せない彼の指を、一本ずつ剥がしていく。力を込め過ぎて強張り、血の気を失った指は酷く冷たかった。
「重かった……」
「すみません。詰めが甘かった。僕の失態です」
無理をさせた。何の訓練もしていないのに、たとえリンドヴルムであっても鞘から抜くのでさえ、困難な筈なのに。
しかも持ち主に近い――否、同等のレベルまで、剣力をリュシイは引き出していた。それが僅かな時間のことであったとしても。
そして龍気の具現化。信じられなかった。
龍気とは目に見えないもの。風と同じように感じとるだけだ。聖焔に触発されたのだろうか。――違う。おそらく自在に操れるのだ。
現れたのはプラチナ・ブルーの龍。夜天を覆わんばかりに広げられた翼。透けて、星々が輝く鱗のよう。地上を睥睨する紅焔の瞳。闇を引き裂いて蒼い幻は咆哮した。
「いーよー……別にぃ。倒せたんだしさ……」
「ありがとう。大丈夫ですか? 座って下さい」
「うん……」
支えているその肩は細い。鍛えられて適度に筋肉は付いているが、まだ稚い龍であることに変わりはない。アルウィンに手を貸してもらい地面に腰を落としたが、リュシイは脱力してそのまま大の字に転がってしまった。
「わっ、リュ――」
平らでない上に、乱暴に耕されてぐしゃぐしゃの地面は、決して寝心地が良くは、ない。
「んーこのままでいーやぁ……冷たくて、気持ちいー……」
泥だらけになって呟いている。苦笑しながらアルウィンも直に座り込み、リュシイの髪についた土塊を払ってやる。傍に転がっていた朱縞の石も拾う。クリームを流し込んだような、とろりとした色調。ひやりと冷たい。
「その剣使うの、アルウィンに任す。もぉ、やんねーぞ……」
「引き受けました」
剣を検分すると、血はまったく付着していない。一点の曇りもない。そういう代物だからなのだが、そのまま鞘へ戻すのは嫌だった。水と風を召喚して綺麗に拭い、上着の隠しからなめし革を取り出して磨きはじめる。
「……訊きたいことが、あるんだけどさ。訊いてもいいかな」
手入れをしていると、声をかけられた。
振り返ると、仰向けに寝転がったままでリュシイが見あげてくる。まだ力は入らないようだが口調は随分しっかりしてきている。
鞘の汚れを払い落としてアルウィンは頷いた。
「良いですよ。何ですか?」
「えっと、さっきの、何?」
「さっき?」
「いきなり水が出てきた」
「あぁ。召喚した、んですけ、ど……」
何でもないことのように言おうとして。
リュシイの、困ったような情けないような、寂しげな面持ちに気づいた。申し訳なくなって、歯切れ悪く、語尾が尻すぼみに小さくなる。
「召喚魔法を使えるんですよ。召喚士――異界から魔物を喚び出す――とは違います。今みたいに水や風を喚んだり。応用で雨を降らせたりもできます。自然が相手ですから、シャーマン・マジックに近いかもしれませんね」
「へえ……」
「僕でよろしければ、教えましょうか?」
「本当? そしたら水に困らなくって良いな……」
それからまた、落ちる沈黙。
本当は好奇心でいっぱいなんだけれどでもそんなこと尋ねるの失礼になるかもしれないし抑えなきゃという躊躇が見え隠れする、子供らしい顔。思わず笑みが零れる。
「――訊きたいことは、それだけですか? 他には?」
こちらから誘いをかけてみる。
「う、うん。えっと、えっとさ、アルウィンさ、この山に住んでんだよね? 何してんの?」
問われたそれに、アルウィンは少し目を見開いた。ドラゴンを相手に何をしているのかと尋ねられるとは思わなかったからだ。すぐに気がつく。リュシイはずっと人間としか関わってこなくて、龍族の習性も習慣も解らないのだ。
龍族は人間世界に干渉しない。流れていくがままを受け入れる。ぶっちゃけて言えば何もしない。
散歩気分で空を巡り、気まぐれのように人里へ降りる。旅などもせず、ねぐらを移すことはあっても目的は別にない。頻繁に仲間との交流もないし、縄張り争いもなかった。
おおらかにかまえている方が、永い年月をより過ごしやすいのかもしれない。人間の生きる速さにずっと関わっていては、多分、心がついていけないのだ。時折、興味が湧いて、ふらりと見物しに行く。それくらいがちょうど良いのだろう。
もっとも、リュシイを規格外と言うならアルウィンも同様だ。
この地にいる理由は。
やや間を置いて答える。
「……人を、待っています」
磨いたばかりの刃に視線を落とす。映るのは己の顔ばかり。
誰かに話すことなどないと思っていた。
「待ち人? 誰って訊いても良い?」
「人間の方です。この――剣の持ち主を」
「旅にでも出掛けてるの? 待ってるって、どれくらい?」
「……我々の仔が成人するくらい、でしょうか」
「てことは500年も?」
吃驚して跳ね起きる。
人間から見れば気が遠くなるほど永い時間。
「――俺、まだ生まれてもいねぇぞ」
「貴方は孵化して200年か300年くらいですか?」
「257年だよっ」
ガキだと言外に言われたような気がして、いささかむっとしてしまったリュシイだ。
慌ててアルウィンは弁解する。
「ごめんなさい。誰かと話すことなどめったにないものですから、すぐに喋り方を忘れてしまうみたいなんです。悪い性癖だから直せと、あの人によく叱られていたのですが……」
『あの人』
やわらかな声音の、愛情のこもった呼び方。よほど大事な人だったのだと、伝わる。
アルウィンに剣を教えた『あの人』とはどんな人物だったのだろう。その優しい物言いが、想いの深さを現して哀しみを帯びる。
「でも……その人、もう、死んじゃったんだろ……」
何故ここに居続けているのか。
「約束したんです。また生まれ変わってくるから、どれくらいかかるか解らないけれど、絶対会いに来るから、待っていて欲しいって」
人間は永く生きられない。
しかし龍族なら――果ての無い命を持つリンドヴルムなら。
待つことは可能だろう。
理屈では解る。だけれども。
「僕は500年待ちました。この先また待つことは、苦ではありません」
きっぱりと言い切るその姿に、リュシイは鼻の奥がつんと痛む。
違う。そうじゃない。
可能だからという話じゃ、ない。
「……その人が生まれ変わるの、ずっとここで待ってるのか? 一生?」
「はい」
「俺達の寿命の長さ、解って言ってんの? 確かにさ、龍族だったら時間は充分にある。人間が生まれ変わるを待っていてあげられる。でもさ、それでいいのかよ? 待ってるだけなのか? もし、その人、もう生まれ変わってて、あんたに会いたいって思ってて、でも会いに来られないでいるのかもしれないじゃないか。そしたらどうすんだよ。ここで待ってたって仕方ないじゃないか」
リュシイは龍族だ。どれくらい親しくなっても人間の方が先に死んでしまう。リュシイはいつも置いていかれる。
どう考えたって人間の方が龍族よりも不自由なのに、人間のエディは、龍族としては幼いとはいえリュシイを護ってくれた。リュシイはエディに最後までかなわなかった。どうしても勝てないまま、エディは上位魔族からリュシイを庇って死んだ。
人間は決して弱い生き物じゃない。
それでも龍族の方ができることが多いのは事実だ。永い寿命を持っているなら、その分だけできることは増える。それは当たり前のことだけれども、できると知っているだけなのと、実際にやってみるのとでは大違いだ。
「あんたには足があんだろ。自由に歩いて行ける足がさ。龍身になったら何処へでも翔んでいける翼だってある。だったらいつまでもこんな所にこもってんじゃねぇよ。出てけよ。そんで自分の足で捜してやれよ!」
ずっと捜していた。リュシイの仲間。エディは言ってくれた。絶対、見つかるからと。立ち止まっていては駄目だ、世界中を隈なく歩き回れば、きっと、見つかるからと――。
ちゃんと会えた。
あきらめなかった。
「見つけてあげる前に、その人がここに来ちゃうかもしれないって心配なら、時々様子見に帰ってくりゃいいだろ。置き手紙しとくとかさ。その人が来たらすぐに解るように、何かこう、仕掛け作っとくとかさ、何か魔法使ってできるだろ!」
連絡を取る方法など、いくらでもある。
生まれ変わって再び会う約束ができるくらいなら、そんな手間、何でもない筈だ。
アルウィンは、頬を上気させて叫ぶリュシイを静かに見つめていた。
「……モンスターは、もう出ないとは限りませんから、麓へ行かないよう見張っています。貴方は安心して街へ戻ってください」
「アルウィン!!」
彼の心を動かすことはできないのだろうか。
そんなにも縛られたままの心。
剣を磨いていた横顔が苦しそうだった。今にも泣きそうに見えた。
なおも言い募ろうとして、開きかけた口をつぐむ。
「俺、明日――ああ、もう今日か。じゃ無理だな。疲れちったし。うん、明後日の朝、ラケルを出る。一緒に行く気を起こしてくれたら、街道で待っててくれ」
アルウィンは答えない。その静かな双眸からは何の感情も読み取れなかった。
それはリュシイが未熟だからだろうか。人の気持ちも汲めないほどガキだからだろうか。
アルウィンが何を思っているのかは解らない。瞳の中の、隠された心は読めない。
けれど。
止まっていては、駄目だ。
立ち上がって、笑いかける。
こちらの言葉を伝えることはできる。
「行こうぜ。来てくれよな!」
片手を上げて、平地を後にする。泥だらけのままで。振り返らずに。
疲れた体に鞭打って歩き続け、町並みが見えたときは正直ほっとした。
「――お帰りなさい!」
「ただいまー」
町外れで――つまり、昨夜と同じ場所で――エディトが満面の笑みで出迎えてくれた。エディトだけではない、周囲には大勢の人がいた。
そろそろ東の空が白みはじめている。
モンスターを追いかけるのに夢中で、帰りのことまで考えていなかった。戻ってくるのに随分時間を食ってしまった。人々が起き出すにはまだ早く、街は寝静まっているかと思いきや、昨夜の喧騒がそのまま続いているかのような賑わいだ。
眠っているのはごくごく幼い子供か赤ん坊くらいだろうと思うような、人の多さ。
5、6歳くらいから14、5歳くらいの年格好の男の子が数人、遠巻きに眺めてくる。リュシイがそちらへ視線を向けると、わあっと歓声を上げて物陰へ散った。
「どうしたの、いったい」
「みんなキミの帰りを待ってたのよ。決まってるじゃない」
「いや、でも……」
これまでにモンスター退治を請け負ったことがないわけではない。だがこんな出迎えを受けるのは初めてだ。
「よう坊主! 首尾はどうだった?」
「レクターさん! 約束通り、倒してきたよ。もう出ないと思う。でも注意は怠らないで」
セリフは心配そうでも顔は笑っているレクター。それへ、リュシイは拳を握って親指を立ててみせる。同じようにレクターを親指を立てて返した。
「失敗すると思った?」
「ロクヨンで生還」
「それは高い評価だね。ありがと」
「依頼したんだ。信頼して当然だろ。ただ、どんな怪物がいるか解らなかったからな。もしかすっと殺られちまうかなとも思ったんだが。仕留めた上に早い帰りで安心したぜ」
にやりと笑って、レクターはリュシイの頭をいささか乱暴にぐりぐり回した。大きな手が心地良い。懐かしい感触に涙が出そうになる。
「ね、じゃれたい気持ちも解るけれど、レクターさん、少し休ませてあげないと。顔色悪いわ。まずお風呂に入って、しっかり睡眠とって。それから御飯にしましょうか」>
「えっと、うん、そうする。出発は明日の朝で良いかな」
「明日? 行っちゃうの? もっとゆっくりしていってよ。そんなに急ぐ旅?」
「うん。ごめんなさい。それでさ、お願いばっかで申し訳ないんだけど。弁当用意してもらえるかな。明日の昼の。二人前」
「二人前? ――良いわ。任せて。とびっきり美味しいお弁当、作るから」
リュシイ以外の分も頼まれることで、明日出て行くのは仕方ないことなのだとエディトは納得したようだ。寂しそうに微笑みながらも承諾してくれた。
「よし、坊主、しっかり寝とけよ。起きたら祝杯だ!」
わぁっと、周囲の方から歓声が上がった。
群青の空に上弦の月が浮かぶ。――ちょっと力を込めれば簡単に折れてしまいそうな。
月の出から、アルウィンはずっと眺めていた。
今は夜半を過ぎ。あれから一昼夜たった。魔族の仲間による報復はどうやらなさそうだった。穴も閉じて、モンスターどもも鳴りを潜めている。
昨夜は――すでに払暁も近かったが――疲れ果ててすぐに寝入ってしまい、目が醒めたのは昼も回った頃だった。何をする気も起きず、午後いっぱいはぼんやりとしていて、日が落ちてからようやく動き始めた。
ねぐらの入口の上に張り出した岩のベランダはとても見晴らしが良い。周囲よりも高所にあるから木々に邪魔されることなく満天の星空を望める。
ここに座って山を渡る風に吹かれていると、どこよりも落ち着けた。
ジゼの好きだった場所。
彼女に話し掛けたくなったとき、ここで空を仰ぐ。
ジゼが死んだ日を忘れたことはない。いつもは思い出の一番深いところに沈めてあるが、浮上してくれば息もできなくなるほど、切なくて、痛い。
彼女が怪我を負ったのであれば治してあげられた。彼女の得た病は、龍族の薬草の知識を持ってしても癒すことはできなかった。病状が進み過ぎて効かなかったのだろう。手遅れだったのだ。そう解っていても、ずいぶん時間は経ったけれども、哀しみは薄れなかった。
枕元から片時も離れようとしないアルウィンに、ジゼは――苦しかっただろうに、そんな素振りはちっとも見せずに微笑んで、アルウィンが謝ることはないのだと言い続けた。
泣くことは、ないのだと。
アルウィンは涙など流してはいなかったし、ジゼを不安にさせないようにずっと笑っていた。
だけれども彼女は見抜いていた。アルウィンの、表に出すまいとしていた哀しみを。そういう人だった。
ジゼと一緒に眺めた時と変わらない星空を見上げていると、彼女の声が聴こえてくるような気がしてくる。
もうこの世にはいないことは解っている。ねぐらの裏の小さな草地に埋葬したのは、他ならぬアルウィンだったのだから。幻の声を聴くことを望んではいない。望みもしない。
彼女はまだ生まれ変わってきていない。
たった独りで辺境の地へ赴き――当時は別ルートに街道が通っていたからラケル市はこんなに発展してはおらず、住人が暮らしていくだけの余裕しかない小さな山村だった――魔族討伐の使命を果たし、この岩棚で死を迎えた。
看取ったのは、龍族のアルウィンだけだった。
抱きかかえた亡骸は、人をひとり抱えているとは思えないほど軽かった。
「ねぇ、ジゼ。昨夜、まだ稚い龍に会ったんです。不思議な『力』を持ってて。その彼にね、誘われたんですよ。一緒に旅をしないかって。ここを出て貴女を捜しに行こうって、誘われたんです……」
誰かと口を利いたのは何年ぶりだろう。世間話でも道を尋ねられたのでもなく。
言われたのは、思いも寄らなかったこと。
『行こうぜ!』
元気で一生懸命な、リュシイの言葉。
深い、深い藍色の闇が満ちる。
アルウィンの問いに、応える者はいない。
夜更けの風だけが吹き抜けていく――。
翌日は気持ち良い快晴だった。絶好の旅日和。風の向きと雲の様子から、峠越えの途中で天気が崩れる心配はなさそうだ。
支度を終えて階下の食堂へ行くと、朝食を摂りに来ている客が何人かいた。
昨夜のどんちゃん騒ぎはもう欠片も見当たらない。レクターなどはまだ自宅で眠りこけているだろう。人間族の寿命の何倍も生きているリュシイだが、アルコールにはそれほど強くない。いや、弱い。エディトが未成年に酒を勧めるなと止めてくれたおかげで宿酔いにならずにすんだ。
「おはよう、リュシイくん。良く眠れた? はいこれ、お昼御飯。この街の近くに来ることがあったら忘れずに寄ってよね」
エディトの差し出した包みを受け取る。思ったより大きめで、ずしりと手に重い。二人分以上あるのではなかろうか。奮発してくれたのだろう。
「ありがと。またね」
またね――。
でも、そんな日はじきに来なくなる。
リュシイの外見的成長は人間に比べると格段に緩やかだ。当たり前だが龍族の年相応に育っていく。いつまでも大きくならないことを不信に思われる。そうしたら、この街へも寄れない。少なくとも、物陰から覗いていたあの子供たちもいなくなって、こんな事件があったのだと言う『事実』が、消えてなくなるくらいまでは。
悲しいが、龍族である以上、仕方のないことだ。そんなふうな『別れ』は、いくつあるだろう。本当なら正体を知っている人以外の前へ出るのは一回きりにした方が良いのだろうが、リュシイにはできなかった。
せっかく仲良くなった人がいるのに会わないでいるのは、寂しかった。
食堂にいる人達にも笑顔で挨拶して、『羊と干し草亭』を後にした。
街道へ出て太陽を見上げる。まだ低い。次の街に辿り着くにはちょうど良い時間だ。
一緒に市門を出た人々は、思い思いに街道を歩いていく。荷馬車の気の良さそうな小父さんに行き先が同じなら乗っていかないかと誘われたが――それは大変魅力的な申し出ではあったのだが――断った。独りなら一も二もなく肯定しただろうが。
街の人達が整備しているのだろう、街道沿いの並木道。緑の葉が揺れる。整然と並ぶ木々の、市門から少し離れた場所にある一本。
木陰から現れたのはアルウィンだった。すっかり旅装を整えている。背負った弓と箙と、あの剣も。
「アルウィン!」
すっかり嬉しくなってリュシイは大声で叫ぶ。何事かと道行く人々が振り返る。通りすがりの行商人が吃驚したように振り返る。関わり合いにならないよう、そそくさと立ち去るその背中へ悪ィ悪ィと笑って謝る。
駆け寄るリュシイに、アルウィンは小さく笑んだ。
「決めてくれたんだな!」
「ええ」
「来ると思ってた!」
「どうしてですか?」
「うーん。勘」
リュシイのちぐはぐな答えに、アルウィンは困惑の面持ち。
「だから、上手く言えないんだけど、500年も待ってたってことは、その間、全然迷わなかったってことだろ。なのにアルウィン、迷ってるように見えた――気がした。もしかして俺の誘いに興味を持ってくれたんじゃないかなぁって。自分で捜してみるのも良いって考えてくれたかもって。だから来てくれるんじゃないかなって思った。そんだけだよ」
にっと笑う。
「それにアルウィン世間知らずだしな。ちったぁ見聞を広めるのも良いぜ」
「僕は500年前の知識しか持っていませんし、買い出しも何ヶ月かに一度くらいですから、世情には疎いですね。その代わり、500年前ので良ければ龍族について教えてあげられますよ。龍魔法とか、召喚とか、仲間の気配の読み方とか」
虫も殺さぬような天使の微笑みで応酬するアルウィンに、しかめっ面になって上目遣いに睨みつけるリュシイだ。
「――リュシイ?」
「……あんだよ」
すこぶる不機嫌な返事に、アルウィンは微苦笑する。だがこちらを見たリュシイの目に怒りの色はない。拗ねているだけだ。
「また気を悪くさせてしまって、ごめんなさい、謝りますから。それとお礼を。誘ってくれてありがとう。貴方が言ってくれなければ僕はずっと解らないままだった。待っていて欲しいって言われましたけれど、僕はそれを額面通りに受け取ってしまっていた。本当は、そうじゃない、違うって、貴方は教えてくれました」
会いたいと言ってくれたのは本当。
生まれ変わって会いに来ると言ったのは、真実。
だけれども、待っていられる寿命を持っているからと、ジゼが来るのをひたすらに待っているだけでは、駄目なのだ。
そんな情けないままで良いのかと、気づかせてくれたのは、会ったばかりの若い同族。
「貴方のおかげです。感謝してます」
「……いーよ別に。感謝なんて」
ぶっきらぼうに言って、そっぽを向く。赤い髪の間から見え隠れする耳たぶが負けじと赤い。
「もしかしたらそんなのはぜぇんぶ嘘っぱちで、本当は俺は実はすっげー悪い奴で盗賊か何かで、どっかに仲間が隠れてて、俺がアルを家から連れ出してる隙にドラゴンの宝物を盗もうって計画なのかもしれないじゃないか」
ドラゴンは光り輝く宝石や素晴らしい細工物をその巣に貯め込んでいる――とは子供でも知っている。実際に宝を手に入れた冒険者達の話もある。
アルウィンは顎に軽く握った拳をあてて、思案げに少し俯く。
「……騙されているのかもしれないんですね。それは考えつきませんでした。でもあいにくと、僕は龍族の中でも変わり者で、そういった物に興味はないんです。ねぐらに値打ち物は何もありませんよ、申し訳ありませんけれど。――計画は失敗ですね?」
目を合わせ、次の瞬間、吹き出した。
「あはっ、あはははは! 負け、俺の負け! 冗談だよ、騙してなんかない。本音を言えば、一人旅が寂しくなったんだ」
別の意味で、アルウィンは微笑む。他愛もない戯れ言を言い合えるのが嬉しかった。
一人旅が寂しいと言う、リュシイと同じように、自分もこんなにも人恋しかったのかと気がついた。長い間、一人で過ごしてきたけれど。
彼に、もっと『人の心』を教えてもらえたら。
「そういうわけで、これ。必要ありませんので、お返しします」
差し出されたアルウィンの掌に、ころんと転がる朱縞の石。
魔法陣にこんな仕掛けはされていなかった。変化させたのはリュシイだ。
「こんなこと、どうやったらできるんです?」
「へっ?!」
リュシイは素っ頓狂な声を上げて、目をまんまるにした。
「嘘っ。えっとだって龍気? あれ発動させてモンスター斬ると変化するだろ。魔族もできるとは思わなかったけど。んで結構高値で買い取ってくれて、鱗売って換金すっときもあるけど、大事な収入源で。……龍族だったらできるんじゃないの?」
「できない、と思います。少なくとも僕はこんなことできません」
二人のリンドヴルムは、それぞれ深刻そうに思いに沈んでしまった。
ややあって、あきらめじみた笑いが二人の口から漏れる。
「……や、まぁ、俺、どうやら変わってるみたいだからさあ」
「同族に会えば必ず僕も変わってるって言われますし、良いんではないですか、変わり者同士で? その石の作り方、ぜひ覚えたいですね。龍気の具現化も。教えてもらえます?」
「ぜーんぜん、かまわねーよ。時間はたっぷりあるしな」
能天気に笑って答える。
「あ、それでさ、もし――すれ違っちゃったときは? どうするんだ?」
「置き手紙をしてきました。それから、合図の仕掛けも」
「そっか。良かった」
ほっとする。自分が言ったことに、リュシイなりに責任を感じていた。迷惑だったのではないか、大きなお世話だったのではないか。仮にもアルウィンは年長者なのだし、生意気なことを言ってしまったのではないかと不安だった。待ち人のことがなくても、好んであの場所に住んでいたのかもしれないのだから。
ふと、もしかしたら、ラケル山の『神様』を連れていってしまうかもしれないと、気づく。
エディトが話していたこと。アルウィンの召喚魔法。風と水。雨。
「ラケルの街……これから大丈夫かな」
「なぜです?」
「エディトが――このお弁当持たせてくれた人だけど――ラケル山には神様が住んでいるって教えてくれたんだ。豊かなのはその神様のおかげだって。それってアルウィンじゃないのか? アルウィンがいたから栄えてたんじゃないのか?」
市門を振り返る。
街道沿いの町並み。朝餉の支度の煙が幾本も立ち昇って霞む。騒々しいほどの朝市の声がここまで聞こえる。林の向こうにちらちらと見える白い塊は牧場へ向かう羊たちか。
「神は、街の人の言うところの神などは……最初からいなかったでしょう。ここまで大きくなったのは、もともと気候が良かったのと、ラケルの街の人達の努力ゆえですよ」
旅路の合間に立ち寄り、通り過ぎる人々。気に入ればそのまま落ち着く者もいただろう。街を囲む白い外壁は、年月と共に外側へ外側へと新しく造られていった。街中に残る古い外壁は、街が大きくなっていった証。
500年前とは比べるべくもない。
「そうと解れば遠慮なく! 今日中に峠越えようぜ」
「あの、リュシイは、仲間を捜してたって言ってましたよね。僕を見つけたのは偶然でしょう? 僕のいる場所を知っていて、ここまで旅してきたのではないのですよね?」
ラケル峠を越えて、どこへ向かうのか。
「……うーん。仲間を見つけたかったってのは、そうなんだけど……見つけたらそのあとどうするかなんて考えちゃいなかったなぁ。あぁ、そうかぁ。誘っといて行き先がないや。どうしよう?」
「僕に振られても……」
困る。
アルウィンにこそ明確な行き先などないのだから。
「そうだ、アルウィンは他の龍族が何処にいるかとか知ってんの?」
「ええ、まあ。何人かは。……会いに行くんですか?」
「迷惑かな」
「そんなことはないでしょうけれど……ねぐらを移してるかもしれませんし。会えるかどうか解らないですよ?」
「いいさ。別に。風の向くまま気の向くまま!」
取り敢えず、行き倒れる心配はないのだし。
頭上に広がる、何処までも続く蒼い空。どの街に繋がっているのか、探してみるのも面白い。目的なんかなくたって、楽しそうなことはそこら辺にいっぱい転がっているに決まっている。
「行こうぜ!」
リュシイの元気な声が、谺した。
―― 終 ――