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 風の中に、血の匂いが漂う。

 近い。こちらが風下なのは有利だ。ギリギリまで近づける。いくらこっちの足が速くて気配を殺せても、急襲するならできるだけ寄れる方が良い。

 血臭の持ち主は、次の茂みを抜けた辺りか。そっと向こう側を覗き込む。

 ――いた。あのオーガーだ。傷が痛むのか、その歩みは覚束ない様子。

 気配を殺し、その背へ数歩で接近する。足場はあまり良くないが関係ない。

 振り返らせる暇も与えず、一撃でその首を切り落とす。首が地に落ちるよりも前に、リュシイはその場から跳躍した。

 走り出したリュシイの背後で、斬り口から血が高々と吹き上がる音。ばたばたと音を立てて、雨のように降り注ぐ。むせ返るほどの濃い血臭。

 前方に、また切り立った崖がある。その中程に岩棚があり、右側のやや奥まった辺りに洞穴が口を開けていた。あれが巣穴か。入り口から地面へかけて岩肌が何箇所か削られ窪んでいる。そこを伝って上り下りしているのだろう。

 気配はある。何匹か巣にいる。

 リュシイはぐるりと周囲を見回す。

 三方を崖に囲まれ、袋小路になっている。巣穴のある崖の前は開けていて、岩塊は点在するものの、ちょっとした広場のようだ。オーガーが集会をやるとは思えないから、ここに居をかまえたのは偶然だろう。剣を振り回すにはちょうど良い、が。

「大勢さん出てこられたら厄介だよな……」

 壁を背に戦えない。

 一人ごちて、岩棚へ跳躍する。

 着地するやいなやオーガーが姿を現した。仲間の血が匂ったか。 <

 一気に間合いを詰める。左腹から右肩へ逆袈裟に斬り上げる。よろけたところを蹴り飛ばす。血の糸をひいて、なす術もなく崖下の薄闇へ消えた。物体が地に落ちた音が続く。

 次。

 仲間を殺されて相当に怒っているらしく、醜く歪んだ顔。棍棒を振り回して襲いかかる。夜は奴等の行動時間内だ。その動きは昼とは格段に違う。

 だが、そこで劣るリュシイではない。負けるつもりも手を抜くつもりもない。

 降ろされた棍棒を避け、腕に剣を叩きつける。棍棒を握ったままの手が地に転がった。骨の白い断面がいやにはっきりと闇に映える。

 その後ろから、棒に石を蔓草で巻き付けた槍を突きつけてくる。下から払いのける。空いた胴を、刃を水平にして裂くように斬る。真っ二つに分かれた上体が背後へ折れる。支えきれずに背骨が湾曲して、血を撒き散らしながら後方に倒れていった。

 新たに立ちふさがったオーガーは、他のオーガーより一回りほど大きい。刃の毀れただんびらを構えている。こいつがボスか。むやみにかかってこようとしない。

 さすがに一撃では殺れなさそうだ。

 間合いを計って一歩引いた足が、何かを踏みつけた。さっき切り落とした腕。バランスを崩す。

「ヴォオオオオッ!!」

 雄叫びをあげて、オーガーがその隙を狙う。

 しりもちを突くように倒れ込み、左手を地に付く。肩に伝わる鋭い痛み。堪えて、右手だけでロングソードを掲げる。

 ガチリ、と、剣と剣の噛み合う鈍い音。

 両足をつっぱり、腹筋に力を入れて踏ん張る。痺れる左手をどうにか添える。

 真っ向からの力比べでは負けないだろうが、上から両手で押されては分がない。地に背が当たる。

 刃が迫る。

 押し切られる――!



 風を裂く音が。

 耳に届く。



 目の前のオーガーの首が、真横から一本の矢に貫かれた。



 力がふっと抜けたところを弾き返す。手首を返し、左手を柄に当て、刃を押し込むように右肩から腹まで斬り下げた。

 絶妙のタイミングに、リュシイはにやりと笑う。返り血の付いた笑顔はいっそ凄絶だ。

 姿を見なくても解った。

 矢に残る微かなアルウィンの気。龍気。納得する。確かに間違えようもない。

 さらに蹴りをボス・オーガーの膝に叩き込む。骨の砕けた感触。はらわたを飛び散らせてよろけ、足を踏み出した先は崖。

 まだ息があったが、オーガーは心臓をを射られて地に落ちる前に絶命する。

 弓手のいる場所は、街のストリートに例えるならワン・ブロック離れたくらい。大した距離ではないが、この暗がりで、しかも静止していない物体を正確に狙えるとは。

 新たに現れたオーガーが不格好な石斧を振り上げる。その腕へ矢が突き刺さる。怯んだ一瞬の隙を逃さず、腹を薙いだ。



 たち込める異臭に、リュシイは腕で顔を覆う。

 いったい何匹殺したのか。途中で数えるのを止めた。

 屠ったオーガーどもは、魔族の端末の筈だ。受信先を断たれて指示を送れなくなったと解れば、様子を見に来るだろうか。こっちから穴へ出向くのではなく、引き摺り出したい。

 崖下へ身軽に飛び降りる。

 溜まったオーガーの死体を避けてアルウィンが歩み寄ってきた。

「助かったよ。もう少しで首チョンパになってた」

「間に合って良かった。……リュシイは強いですね。これだけを独りで倒してしまえるんですから」

 累々たる屍のほとんどは剣で斬られて死んでいる。

 リュシイは照れて、へへっと笑う。

「アルウィンだって、弓、すげぇじゃん」

「これしか取り柄がありませんから」

「……その剣は?」

 アルウィンは一振りの剣を帯びていた。大きさはバスタードソード程度。それほど大仰でも立派でもない。ごく普通の造りの剣。先程会ったときは弓しか持っていなかったから、後から来たのはこれを取りに行っていたからだろうか。

「借り物です」

 そう言って、鞘を抜く。刃を見た途端、ただの剣ではないことを知る。

「……魔法剣?」>

「ええ。山中とはいえ人里が近いのですから、まさか龍身になるわけにはいかないでしょう?」

 リュシイたちリンドヴルムのファイア・ブレスは下位魔族なら一瞬で倒せるが、そんなものを吐けば周囲まで焼き払ってしまう。山が燃えてしまったらラケルの町の人々に迷惑がかかる。

 だから敢えて――不利な条件だが――人間形で戦う。

「完全に倒すには聖なる焔で灼かなければいけませんから」

 首を刎ねるだけでは駄目なのだ。魔族はそれでは死に至らない。

 アルウィンが構えると、刃から白い焔が揺らめいた。

 神官魔法≪プリースト・マジック≫だ。聖なる焔は魔力封じの効果もある。オーガー程度の雑魚相手に使うような代物ではない。上位魔族を屠れる、滅多にお目にかかれない業物だ。

 軽く剣を振るうと、焔はオーガーどもの方へ飛んだ。ぼっと音を立てて燃え上がる。

「扱えるのか?」

 剣の腕を問うているのではなく、神官魔法を使えるのか、と。

 アルウィンはドラゴンだ。龍族が人間族の神の力を操れるとは思えなかった。信仰の対象が違うからだ。例えば、神官は神官魔法を使うが、魔術師たちの使う魔法は操れない。さらに一口に神官魔法と言っても、どの『神』を信仰しているかで――至高神、大地母神などさまざまだ――また系統が変わってくる。

 彼の持っている神官戦士の剣は、授与された神官本人にしか使えない筈だ。純粋に魔法を帯びただけという遺跡の発掘品とは違う。

「持ち主から特別に許可をいただいていますから、何とか」

「無いよかマシってことか。で? 俺は?」

「弓をお願いできますか」

「ふぅん……って、ええっ?! 俺が?!」

 素っ頓狂な声で叫んでしまった。

「だってリュシイはこの剣を扱えないでしょう?」

「うん……」

 それもそうだ。

 剣を担当したくても、リュシイに魔法剣は扱えない。

 弓はまったく扱えないわけではないが、上手く命中させられるかどうか自信がない。獣を仕留めるのとは訳が違う。

 差し出された弓とゆがけ、箙(えびら)を受け取る。箙は先程アルウィンが使っていた矢を入れてあるのとは別の物だ。数は六本。

「でもあんま、上手くないよ?」

「大丈夫ですよ。この矢は対魔族用の特別仕様ですから」

「特別?」

「この剣と呼応するようになってるんです。本当は剣だけで『場』を作るのですが、僕にはそれだけの力がないものですから、矢を使って補うんです。射損じることはありませんよ。全然違う方向へ射っても中ります。でも、一応、狙って下さいね」>

 リュシイの不安を和らげる為に、アルウィンはおどけた感じで言い加えた。

 箙からアルウィンは矢を一本引き抜く。くるりと回して鏃(やじり)を見せる。

「ここに聖句が彫ってあります。神官魔法で使われる文字です。捕縛の『場』を踏んで形成させて、この矢で固定する。つまり楔ですね」

「聖句? へえ、これが……なるほど。『場』かぁ。初めて見た」

 夜闇に浮かぶ、入り組んだ記号のような文字。感心してはいるが読めているわけではない。その言葉の持つ本質を感じ取れているだけだ。

「射る位置は剣を突いて教えます。固定して、動きを封じたら、こちらの――白い羽の――矢で喉を射て下さい」

 リュシイは弓を持つ手に力をこめる。握りに巻かれた革が、ギチリと音を立てる。固定の茶斑の羽の矢は五本、白羽の矢は一本。外れることはないとは言え、失敗は許されない。

「『場』が形成されても、対象は停止するわけではないんです。動きは鈍りますが。――射るタイミングは」

「俺次第か」

 同族とは言え、会ったばかりの見ず知らずの男に任せる。無謀なのか考えなしか。

 信頼――目的が一緒だから? それとも同族の絆?

 何故だろう。任されてみようという気になった。

 箙を背負い、ちょっと弦を引いてみる。それほど強弓ではなさそうだ。

「やってみるよ。外さないんならぶっつけでもそこそこいけるだろ。……ここは、オーガーどもしかいないな」

「そうですね。多分、魔族の住み処はもう少し奥……」

 最後まで言わずに、アルウィンは口を閉じる。前方を見据える。



 ――来る……!



 緊張が疾る。

「どうやらお出ましのようだぜ?」

「望むところです」

 不敵なセリフとは裏腹に、アルウィンの口調は穏やかだ。

「リュシイは狙いやすい場所へ」

「了解」

 短く言い残して崖の上へ跳躍する。さらに樹に登る。下と違って木々が密集していて、葉も生い茂っているから潜むには好都合だ。

 安定の良い枝に腰掛け、矢をつがえて待つ。

 アルウィンは剣を持っているだけ。自然体で、構えてもいない。龍気は隠している。剣から立ち昇る、陽炎のようにたゆとう焔。

 そして――現れた巨魁。

 鋼のように黒い表皮の体躯。異様なほど盛り上がった、縄を縒ったような筋肉。手の爪は人間などチーズを切るより容易く裂けられるだろう。ザンバラに剛毛の生えた頭部には、こめかみの辺りから二本の角が天を突き刺すように生えている。瞳孔のない朱色の眼球。そして、禍々しい気。

 上位魔族。オーガーなどものの比ではない。

 リュシイが陣取った場所は地面からずいぶん高さはあるのに、それでも魔族との目線は同じくらいだった。佇むアルウィンが人形のように見える。

 魔族に会うのは初めてではない。だからその強さは多少は知っているつもりだが、この威圧感はどうだ。モンスターどもを使役するだけはあるということか。

 人間を困らせるなど許せない。ここは奴の住処ではない。

 魔族の下瞼が持ち上がり、目が細められる。獲物を見つけた歓喜か。

 聖なる焔と魔気が対峙する。

 真正面からぶつかってせめぎあう。



 先に動いたのはアルウィンだった。

 背後に大きく跳躍し、着地したところで切っ先を地に立てる。その場所と、少し抉れて散った土が白金色に輝く。すぐに光は消えて、元の土色に戻った。

 リュシイの番えている矢の鏃に同じ白金色の光がぽうっと点る。呼応。放つ。的を外すことはないと言われても、踏まれた『場』をきっちり狙い定めた。ひょうっと風を切って飛んだ矢が、示された場所に違わず突き立った。同じように矢も一瞬だけ光った。『場』が固定された証拠だ。

 同時に矢そのものも消滅した。それには少々驚いた。消えるとは思わなかった。突き立って『固定』するのかと考えていた。

 リュシイは今までに文字を使った魔法とは縁がなかった。精霊使いに知り合いはいるが、精霊魔法≪シャーマン・マジック≫は音声魔法だから文字を使わない。龍魔法≪ドラゴン・マジック≫には言語魔法があるらしいが、龍魔法そのものを習い覚える機会はなかったからリュシイには解らない。

 魔族はその巨体にもかかわらず動きは素早かった。アルウィンが五歩進むところを一歩で済ませてしまう。せっかく横へ回り込んでも魔族は軽く半回転しただけで追いつく。

 もっとも、アルウィンは間合いをかなり取っている。用心の為に離れているのか、その距離がアルウィンの間合いなのか。後者だろう。アルウィンの表情に焦りは見られない。『場』を作る為に緊張はしているだろうが、余裕がないわけではなさそうだ。

 魔族の一抱えもありそうな尻尾が遠心力を加えられて凄まじい勢いでアルウィンを襲う。

 バックステップでそれを避けたアルウィンの頬が風圧で浅く割ける。血がしぶいた。鼻先を通り過ぎた尻尾を追うように、アルウィンは下がった分だけ前へ踏み込んで戻り――剣先でまた地を突いた。ふたつめ。

 龍族と魔族の戦いざまを、のんびり鑑賞している余裕はない。充分に引き絞った矢を放つ。矢が白い残光で線を描く。地に刺さったそれは、魔族が振り返る前に消滅する。アルウィンもその場にはすでにおらず、魔族の関心を他方へ向ける。朱色の目が射手を捜して一瞬彷徨った。

 首を竦め、葉陰に潜んでやり過ごしたリュシイはほっと息を吐く。急いで三本めの矢をつがえた。

 もしアルウィンが『場』を作り終える前に、魔族がアルウィンではなくリュシイを襲いはじめたらどうしたらいいのか。応戦するしかないが、渡された矢では戦えない。失うわけにはいかない。どこまでやれるだろう。モンスターが相手ならともかく。

 いったんこの場所を追われたらもう戻ってこられない。魔族は弓手を逃さない。

 直接狙われてはいないが、思い出したように矢が射られてくるのは鬱陶しい筈だ。挑んできているアルウィンは、魔族の嫌悪する聖なる焔をまとう剣を持っている。それも排除したいだろうが、弓手は居場所を動かず射ってくる。

 つまり、戦闘は向かない、あるいは近接戦闘を避けたい――。

 その場合、より仕留め易いのはどちらか。

 悩むまでもなく明らかだ。

 リュシイは魔族の気をひいてはならない。向かせないようにアルウィンも動いているが、それよりも増して心得ていなければならない。

 単純に射っていればいいのではない。リュシイもまた『場』を作っていることに違いはないのだ。

 ゆっくり気息を整える。

 気配を殺す。

 エディにしこたま鍛えられたのを、忘れたわけでもあるまいに。



 剣のまとう焔は、月明かりが乏しい為にさらに良く視える。その軌跡に包まれてアルウィンの姿がブレる。わざとそうしているようだから、目晦ましの応用だろうか。強烈過ぎて、直接対象ではないリュシイまで眩暈がしそうだ。

 何度か瞬きして、弓を引き絞る。

 魔族の腕が唸りを上げて振り下ろされる。拳が地面にめり込む。放射状に亀裂が走る。拳に込められた力が地中で爆発し、土塊が凄まじい勢いで放散する。

 アルウィンは叩き潰されるのを間一髪で避けた。

 凄まじい礫弾と爆風に、両腕を上げて庇いながら飛びのく。魔族は連続で拳を繰り出し、落ち着いて剣をかまえる暇もなくアルウィンは跳躍を繰り返す。

 リュシイは見失うまいと動きを必死に追う。

 残る矢は一本。

 アルウィンが作ろうとしている『場』は五芒星の魔法陣。かなり広範囲に描かれようとしている。完成に近づくにつれ、少しずつ、少しずつ追いつめられていることに、魔族は気づいているのか。

 応戦一方とは言え、よく正しく踏むことができると感嘆する。

 右に回り込み、ステップを踏んでフェイク。すぐに左へ逸れる。魔族の反応が遅れる。半瞬にも満たなかったそれを見逃さず、アルウィンは『場』の最後の一歩を踏む。切っ先を突く。

 光る――。

「――!」

 ビン、と音がして、弦から矢筈が外れた。馬手に力を入れ過ぎたか。

 慌ててつがえ直す。焦って上手くいかない。こめかみを汗が一筋伝う。

 アルウィンがこちらを見たそうな素振りをしたが、すぐに向き直って剣を振るい魔族の気を逸らす。焔をちらつかされて注意を削がれた魔族が背を向けた時、ようやく放てた。

 突き刺さる矢。光って、消える。固定。

 魔法陣が完成する。

 五つの頂角から、うっすらと小さな蝋燭のような焔が現れ――地面に染み込むように魔法陣のラインを疾る。輝く五芒星。

 途端に魔族の動きが目にみえて鈍る。人間のように表情筋があまり発達していないらしく、顔つきから変化は窺えない。焦っている気は伝わってきた。むやみに拳や踵を地に打ちつけ――アルウィンには一発も中らず土だけを抉る。

 亀裂が蜘蛛の巣よりも微細に、広範囲に入り始め――場所によってはアルウィンのふくらはぎの半ばまで埋まる。どのような魔力を込めているのか、地表よりも下の方が激しく崩れているらしい。魔族自身は足元が陥没しても気にもしないようだ。

 もう『場』の生成作業をしなくてもよくなって、アルウィンは自由に動き始める。

 剣が舞う。思わず見惚れてしまう。踊っているような。流麗で、隙がない。彼に剣を教えたのは、あの剣の持ち主である神官戦士だろうか。相当な手練れだったに違いない。アルウィンの無駄のない動きを見れば一目瞭然だ。

 斬りつけていても魔族の硬い皮膚は浅く裂けるだけで、致命傷には程遠い。出血するまでにもいかない。わざと魔族を苛立たせようとしている。そして明らかに魔族は冷静さを――持っていたとするならば――失い始めている。

 楔の矢。他のより少し重い。そう思うのは緊張ゆえか。



 地響きが樹上に伝わる。擦れてざわめく葉。しっかり座っていなければ落ちそうだ。

 五芒星の魔法陣の内側は、掘り返されて平らな部分はなくなっている。縛の『場』からは出られない為、外側の平らな地面との境目はくっきりしている。

 魔族の鋭い爪がアルウィンの衣服を捉える。無理に逆らおうとせず、引っかけられるままに彼の体が宙を飛んだ。爪から外れる。崖壁が迫る。

 思わず息を飲んだリュシイの目の前で、体を丸めてくるりと回転したアルウィンは崖に着地し、その勢いを殺す。裂けた衣服から垣間見えた胸板に、一条の朱線が走っていた。

 モンスターには爪に毒を持つ種類がいる。魔族の毒なら人間など即死だ。リンドヴルムは大丈夫なのだろうか。アルウィンの動きに変わった様子は見られない。

 壁を蹴って跳んだ無防備なアルウィンに、魔族がパンチを繰り出す。節くれだった、巨大な拳。直撃すれば内臓破裂は免れない。

「――っ!」

 アルウィンは躊躇わず突っ込む。

 だが彼の身体は砕かれなかった。

 迫り来る拳の勢いに合わせて、肘を基点に内側から外側へ向けて円を描くように振り上げられる。それが拳の軌道を逸らせた。魔族の腕に手をついて前転を決めて、視界から消える。断たれた白金の髪が数本舞い散る。アルウィンを捜して一瞬だけ生じた、魔族の隙。

 背後に着地して、振り向かれる前に魔族の膝裏に蹴りを打ち込む。動きの鈍っている今なら容易い。人間形でも満身の力を込めれば、骨を砕くくらいは可能だ。

 思わぬ方向からの攻撃によろけた魔族は、倒れまいと一歩下がる。影が覆い被さるようにアルウィンの上に落ちる。踏み込みが甘かったか。

 しかし足場が悪かったのが幸いした。

 踏みしめきれず、自らが作った亀裂に魔族は上体を反らしたまま、足首が嵌まる。すぐには抜けない。

 反動で無防備に晒される、喉元。



 今だ――



 限界まで引き絞った矢を放つ。

 狙いすまされて一直線に魔族の喉に突き立った。

 衝撃で魔族の首がさらに仰け反る。

 瞬きを一、二度するほどの時間を置いて、頭がゆらりと持ち上がった。何かを探すように。

 朱に濁った双眸が真正面にいるリュシイを捕らえた。離さない。

 記憶が、蘇る。

 忘れることなどできない。絶対に忘れない。戦きと――怒り。覚悟はしていた。それでも。

 悪寒。全身が総毛立つ。



 普通の人間ならば発狂する。魔族の直視に耐えられやしない。

 だが目線の合った人間は眉をひそめた程度だった。気を失うことも倒れ伏すこともない。

 違和感。

 魔族は訝しんだが、すぐに悟る。

 人間ではないのだ。人の形をした、別の存在だ、と。

 アレハ。ナニカ。

 ――思い出そうとした、その時。

 横合いから凄まじい勢いで接近するものがあった。視界の端に映る小さな、矢を射った人モドキよりは幾分大きめの人影。振りかざされる、手に持っているもの。淡い月光に反射して、まなこを灼くほどに輝く。

 白く沸き立つ陽炎のような揺らめき。

 聖なる焔を宿した剣。

 小賢しい真似をする。怒りが底の方から、じわり、と湧く。唇が捲れ上がり、二重に並んだ尖った歯が剥き出しになる。

 どう料理してやろうかと考えた、次の瞬間。

 瞳孔のない朱い目に驚愕が浮かんだ。

 アレハ――コレラハ。

 ニンゲンデハナイ。

 コレラハ。

 今や容赦なく叩きつけられる闘気――龍気。

 大嫌いな『聖なる焔』に魔力を封じられて思うように使えず、惑わされて気がつかなかった。気づかれないように隠れ蓑にされていた。

 魔族にとってはごくごくちっぽけな存在でしかなかったモノが、一気に何倍にも膨れ上がったように錯覚する。恐ろしいまでの威圧。

 己が相手にしていたモノが何者であったか。

 しかし解ったところで魔族は何もしなかった。否、できなかった。足が動かない。



 アルウィンの渾身の一撃のもと、魔族の頭部は胴から斬り飛ばされていた。



 軌跡とともに尾を引く白い焔。胴と頭部の切り口が灼かれる。魔族の全身を浄化の焔が包む。白い薄布で覆われるようだ。

 リュシイはそれを――不謹慎かもしれないが――綺麗だと思った。

 落とされた頭部を追うように、巨体が斜めに傾ぐ。

 寿命を終えた古木が倒れる様に、似ていた。

 地響きとともに地に伏した。土埃が舞い上がる。



 アルウィンは地面に突き立てた剣を杖代わりに寄りかかり、しばらく動けなかった。流石に体力を消耗した。ぽん、と肩を叩かれて振り返ると、リュシイの笑顔。

「……やったな」

「ええ」

 嘆息して頷く。

 服はあちこち切り裂かれて見るも無残な恰好で、全身血まみれだ。止血もせずに動き回っていたから出血は多くて当然だが、傷の程度はたいしたことはない。血は固まり始めているし、傷口もじきにふさがる。

「胸の傷。毒、大丈夫なのか?」

「ええ、平気です。龍族にはたいていの毒物に対する免疫がありますから。このくらいでは死にませんよ」

「そうなんだ……」

 安堵したリュシイの顔が、不意に強張る。

「アル!!」

 尋常でないその声。振り返ったアルウィンの視界の端に。

 黒い物体。丸い。焼け焦げた頭部。耳まで裂けた口。並ぶ牙。

 あれは――斬り飛ばした。

 魔族の首!

「くたばってなかったかよ!」

 リュシイの怒声。

 剣を抜いている余裕はない。

 駆け抜けざまにアルウィンの手から奪う。聖剣。感じる強い力。握り締める。気を抜けば負ける。

 ほんの一瞬で良かった。叩っ斬るだけの、僅かな時間、保てば。



 持ち主よ。



 お願い。

 力を貸して――



 翻る黒髪が。



 指し示すように。

 視えた。



 刃が再び白い焔をまとう。同時に青白い光がリュシイを包む。

 どちらがどちらに引き摺られているのか解らない。互いに干渉し合い、気が高まっていく。

 体の奥の方から。熱い力が。止められない。

 これは――これが、龍気。

 膨らんで、天を突く。

「――おおおおおっ!!」

 裂帛の気合い。

 腕を振り上げる。

 白焔の軌跡を描いて。

 重い手応えとともに。

 黒く迫った視界が二つに割れた。



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