3. 作 品 (バックナンバー目次) |
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5. 友の会ニュース (バックナンバー目次) 5.11日本自分史学会に春日井市から大勢の参加 5.10日本自分史学会に参加して(梅村レポート) 5.9 自分史ネット(HP)で人気加速(日経新聞) 5.8 泰(や)っさん 表彰(日本自分史大賞・ 受賞) 5.7 自分史シンポジューム(春日井) 5.6 自費出版自分史の新刊紹介(泰っさんの人生、形見の風景) 5.5 映画「大河の一滴}を観て 5.4 小泉メルマガより 5.3 「わだち」第11号(特集号)について 5.2 小学生も卒業記念に「自分史」 5.1 映画「ホタル」を観て |
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△作品バック目次へ 作品−22 私の山の家 ──私の ちっちゃな旅── 宮 原 よしの 私たち夫婦の、初めての旅は京都でした。二人の息子たちが京都の大学に入ったときのことです。 「二人のこれからの生活の場になる京都を知りたい」と京都行きをきめました。 戦時中の結婚、出産、それからの生活はきびしくて、旅行などとは全く思いもよらないことでした。 二人だけの我が家が、急に四人になり、また、ここで二人ずつの生活ということになったわけです。 下宿の準備も出来て、荷物の総てを送り出したあと、息子たちは京都へと出かけました。その頃の京都は、まだまだ遠く、長野から七時間もの汽車旅でした。 入学式に出席出来るようにと、少しあとから出かけた私達が京都駅についた時には、二つあった出口(京都駅と八条通り)のそれぞれで待っていてくれました。 京都には知人もなく、全く初めてのところでしたが、『婦人の友』友の会の京都リーダーであった佐川恒子さんに、下宿のことから、あれこれと、すっかりお世話いただき、改めてお人柄に感謝の気持ちと、安心で、ホッとした思いで帰ることができました。(その頃、友の会で家事家計の勉強をしていた時でした) 長野の方では、春秋、農家の忙しい時期には、農繁休みと言って一週間程のやすみがありました。此の休みには、何をおいても私達は京都行きの計画をたてたものです。息子たちの顔を見ては、古都を楽しみました。それから、時々の京都の旅が始まりました。 山科の家は、マンションの七階でした。最初の頃は、エレベーターを降りると、壁に沿って歩いたものですが、すぐに馴れて高い所である事も忘れて、生活出来ることに驚きました。 此の頃は、孫との遊びをたのしみにしながら、山科方面の京都を、ゆっくりと楽しむことが出来ました。 なれるまでは、息子の嫁の清子さんに、バス停、バスの番号までも、くわしく書き入れてもらった地図を持って出かけたものですが、そのうちに結構、じいさんばあさんでも自由に出かけられるようになるものです。 ゆっくりゆっくりと、あのお寺、このお寺と落ち着いた気持ちで、お話を聞いたり、写経の出来るところでは、写経をしたり、いつまでも時を忘れて、お庭に見入り、昔をしのんだりと、その時々に、一つのところを楽しむようになりました。 桂に移ってからは、じいちゃんばあちゃんにと、畳の一部屋も出来たことと、少し時間のゆとりも出来たことなどから、今度は、桂の方面の京都を、あちらこちらと歩きました。そして、次は奈良でした。勤めの都合で、奈良に住むことになり、奈良を楽しむ旅になりました。 退職後、住宅を新築して、永住のつもりで始めた生活でしたが、二人とも年をとって来たこと、息子達の配慮と、同居の要望など、いろいろ考えた末、信州での生活のあれこれも一応(公的な役など)区切りがついたものとの思いに立って、生まれ育って七十年の信州を離れ、息子の増築した部屋に住むことになりました。そこから、今度は「信州の旅」となりました。 長野に居る間は、いつも思い出の集まりに、改めて思うこともなく、気軽にあちこちと出かけておりました。(県内の会が多かったので) でも、こちらへ来てからは、会の当日を入れて三泊が普通になりました。途中のことなど思って、二人でゆっくりと安心して行ってくることが出来るようにとの思いからです。当日は、それぞれであっても、前の日と後の日は同一行動が出来るのですから。大体月に一回位は出かけておりました。 その地を離れて見ると一層なつかしくなって、今まで教職三十八年間の総ての学校を、そして、その土地を訪ね、当時をなつかしみながら、しみじみと、あの頃をしのぶ旅もできました。 恵那の宿で開かれた同級会に、二人で出席して、元気に帰ってから、本当に間もなく、じいちゃんは、私を残して逝ってしまいました。もうすっかり自分を失って、何の気力もないまま、ただ三年が過ぎてしまいました。 ある日、息子たちと出かけて、一休みしたところが、小高い山の上の、定光寺研修センターでした。 両側からせまる緑の間の曲がりくねった急な坂道を上りつめたところにあったセンターは、なつかしい信州を思いおこさせてくれました。あれから一度も行っていない信州を思い、私は、ここがすっかり気に入ってしまい、それからは、時々ここへ来ることにしました。 ここだったら家から車で約二十分、目的が研修センターですから、とても静かです。昼間はいろいろの会議があって、多くの人々が集まりますが、それぞれに目的があってのことですので何か雰囲気がちがいます。 広さ十二畳ほどの洋室には、バス、トイレがついている他には、必要最少限度のものがあるだけですから、私には、かえってこれが落着いて、ますます好きになります。 朝、明るくなりはじめたとき、南側を全部開け放すと、目の前からは一面の緑、左からは檜の林、右側からは、斜めに緑の山がせまってきます。 時々に移り変わる空の色、雲の動き、鳥のさえずり、何より嬉しい朝です。この小高い山の上のセンターを、私は、「私の山の家」と名づけて、今では土曜日に来て二泊して月曜日に帰ることが恒例になっています。 一番見晴らしがよくて、とても気に入った部屋があるので、いつも、ここを予約して帰るのです。 「今日も、おじいちゃんへのおみやげを下さいね」と、御燈明用のマッチを二つと、元気をもらって帰ります。 「ただいま」 すると愛犬の(そよご)がしっぽをふりながら、とんで来て迎えてくれます。 ここからは、「おるすい役」に変わります。 「独りで!」と驚く人もいますが、一人とは思いません。ここではすばらしい出会いがあります。思いもよらない実にすばらしい出会いが、喜びの一つです。 「『私の山の家』へ来て」とおさそいして、友達が来てくれることもあります。 孫たちが来て、一緒に泊まることもあります。 昨年は、松本の同級会も、みなさんここに集まって開きました。 |
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△作品バック目次へ 作品−21 老僧の一言 大澤今朝夫 平成12年秋、某日の中日新聞掲載。 松平実胤(じついん) 略歴 名古屋市生まれ、6歳で得度。佛教系大学から名古屋大学大学院印度哲学科で佛教を学び、1973年犬山市の真言宗智山派の継鹿尾山寂光院の山主(住職)に就任。 荒れ寺だった同院を整備して、紅葉の美しい現在の名刹とした。 全国の市民講座などでの講演を始め、テレビ、新聞、雑誌にも登場する。 正月の「初観音」、春の「火渡り会式」、真夏の「九万九千日法要」の三大祭を復活させた。さらに、市民向けの『やすらぎ説法』など多数の著作がある。 人は幾つになっても、昔、果たせなかった夢(理想)に憧憬と郷愁を憶えるものであろうか。 この松平山主の記事を読んでいて、いい歳(73歳)をした老人の血潮は年甲斐もなく、微かにうずくのである。 なぜなら、Kが少年時代に直面し人生の岐路となった次のような理由からなのだ。 昭和20年初冬の午後、埼玉県比企郡吉見村御所 真言宗の名刹 息障院、老住職の応接間。 手入れされた老松、紅葉した樹々の枯葉が清冽な池の水面に音もなく静かに落ちる、まことに静寂なひととき。 老師のこの部屋は、書院造りで、築山、そして、錦鯉が静かに泳ぐ池が限下に見える景観ながら、質素な佇まいである。 K少年と父親は、先程、山門をくぐり、案内を乞い、この部屋へ通された。 やがて、唐草模様の品のよい、やや小さめの茶器に、程よい濃さの緑茶の注がれた茶托と茶葉が運ばれてきた。 彼は、この年の8月下旬に大平洋戦争が終わり、内原にあった満豪開拓幹部訓練所が解散したため、野望が挫析、空しく帰省して、失意の日々を送っていた。 終戦によって、世の中の価値観が全く変わり、 〃鬼畜米英〃は戦勝国アメリカ・イギリスの〃進駐軍の兵隊さん〃になり、つい最近までそうであった軍国少年の夢は、無惨にも打ち砕かれてしまったのである。 農家の次男坊である彼は、この先どうしたものか不安がつのり、あれこれと進路に悩んでいた。とりあえず何か職に就かなければならないが、さて、どうしたものかと思いを巡らせる昨今であった。 どんな世の中になってもなくならない職業は……、と思いあぐねた末、神職か僧侶がよかろうかと考えたのだ。神主は、ぜひ、やってみたい職業だが、敗戦直後のこと、GHQの神社神道への締めつけが厳しく、将来性に間題がある。されば、抹香臭くて一林の抵抗はあるが、僧侶しかないような気がしてきた。 人類が生存するかぎり、死は免れず、必ず寺院・僧侶は必要欠くべからざるものと思ったのである。「よし、坊さんになろう」と決心した。しかし、どうしたら僧侶になれるかが問題であった。 祖母・ときの生まれた原口家は旧家で、今は没落してしまったが、代々名主を務め、菩提寺の息障院へ永年にわたって、相当の寄進をし、かつて、本堂の屋根の葺き替えは原口家だけの出費で奉仕した由を間いたことがある。現在の当主・佐平治伯父も、財力こそなくなったが、なかなかのきれ者で、寺の檀家総代を務め、何かと尽力はしている模様である。 Kは、佐平治伯父に息障院への紹介を頼みたいと父に相談した。 そこで父は、まず、住平治伯父に頼んだ上、万全を期すため、出井代議士(父はその選挙参謀)に老師宛の紹介状を書いてもらった。 今、この部屋で緊張の面持ちで待っているのである。 やがて、静かに襖が開いて、小柄ながら端正ないでたちの、白髪の口ひげをたくわえた老僧が席についた。 父親が、待参した紹介状を差し出し、丁重に挨拶する。 老師は、 一通り紹介状などに目を通して、静かに膝元へ置き、おもむろに切り出した。 「ご用向きはよくわかりました。日頃、大変お世話になっている原口様から、すでにお話を承り、なお、こうして、出井先生のご紹介状もいただき、その上、ご本人もしっかりしておられますので、ぜひ、当院で修行をと思うのですが、実は、年齢がもう少し若くないと難しいのであります。 僧の修行は、十歳前後の小学生の頃からでないと、種々、問題があり、いずれ、ご本人にも迷惑がかかる仕儀とも相成るので、思案をいたしております。せっかくのお申し出に、こう申しますのも何でございますが、何とか僧侶志望を諦めていただき、他の道へご精進いただきたいと存じます」 静かに老師の話を間いたKは、全身から血の気の引く思いがした。 歳がいきすぎているのであれば仕方がないと思う一方で、何とも締めがつかないのだ。しかし、止むを得ない。 親子は、丁軍に挨拶をして、辞去した。 かくして、K少年の僧侶志望の夢は、はかなくも消えたのである。 その後、彼は、やがて進路を変更して、大学へ入り、W大学を卒業した。 そして、実業界に身を投じ、爾来40有余年にわたり、彼なりに精進を重ね、やがて、小さな企業ながら、社長、会長を歴任し、顧問に就任して、事実上リタィアした。 馬齢73歳のKは、50数年前の純粋な僧侶志望の頃を追憶し、あの時、もし入門が許されて、修行生活の年月を重ねたなら、さて、どうであったろうか。果して、小さなお山の老住職たりえたであろうかと思うことがある。 そして、幻の老僧の自分と、何とか健康にも恵まれて安泰な日々を送る昨今の生活に思いを巡らせて考え込む。 あの時と同じ、やはり冷え込んだ初冬の静かなひとときである。 |
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バック目次へ 作品−20 「今夜、家に来い」──田丸栄春氏の恩愛── 伊藤 務 昭和10年、年が明けてまだ正月気分の醒めやらぬ1月半ばに在学中の私立工業学校(その年3月に卒業見込みだった)の校長先生から、父宛に出された速達が届いた。 内容 は、私の朝鮮京城府(現・韓国ソウル市)への就職の推薦状だった。 父は即座に許可をしてくれた。私の意見など差し挟む余地もないままの決定であった。 そして開口一番、 「お目出度う。よかった。お前はまだ18歳になったばかりだが、知らぬ他国の他人様の中で生活のすべてを見つけて暮らすことは、若い時に必要な修行だ。行け。お前の成功を祈るぞ」 と、心から喜んでくれた。 今から思うと、父は余程嬉しかったのか、その夜の晩酌が余分にはずんだことを覚えている。 18歳とはいっても、それは数え年のことで、今風にいえば私は満17歳であった。 私は工業学校で土木科を専攻し、親友の北島君と鈴木君との3人で進学を希望し、互いに競争し合っていた。就職するとなると、彼らとの約束を反故にしなければならない。しかし、鈴木君は既に朝鮮鉄道に就職し京城に行っていた。私も彼の後を追うかたちとなった。 当時の京城は全く日本内地と変わらない生活環境であったので、毎日の勤務にも馴れ、一年が瞬く間に過ぎたころ、名古屋の北島君から、満州国新京の学校に合格した旨通用を受けた。 ここで私は吾に返った。一年間目的もなく暮らした白分の社会生活を恥じ、本来の向学心を蘇らせられて、鈴木君とも将来の夢を語り合い、もう一度勉強をやり直そうと堅く誓った。そして、私も新京の大学をめざすことにして、受験課目などを確かめた。英語が必須課目でないことがわかり、英語が苦手な私でも、まず難関が越えられると安心した。 さて、勉強となると、下宿人であり、務めのある身である。これらをどのように処理するかが問題だった。 まず、下宿の同僚と家主のおばさんに目的を話した。皆は快く協力すると賛成してくれた。 当時、私は京城市内の繁華衝を縦走する幅20メートルの新設道路の工事現場に監督として派遣されていた。 毎日、道踏工事の新しい作業が進められ、2人の同僚とそれぞれの受待ち区域を担当していたので、一時も現場から目を離すことは出来なかった。 勉強も予定通り順調に進んでいった。冬の京城は寒さが厳しく、深夜に勉強を続けていると、吐く息でガラス窓に氷の結晶が白く凍りつく有り様であったが、寒さと眠気とを相手に戦いながら必死に勉強を続けた。 日が経つにしたがい、いかに全体の課目を習得するか欲望が出て、昼問の仕事の最中に参考書を盗み読みしてしまった。 一度体験すると、味をしめ、しばしば仕事中に参考書を読む始末となり、ついつい監督の任が疎かになっていった。 ある日、その現場を田丸栄春さんという主任に見つかってしまった。どんな叱責の言葉が出るかと覚悟していたが、田丸さんは、 「今夜、家に来い」 と言われただけで、その場はすんだ。 てっきり、こっぴどく叱られるものと思い、その夕方、恐る恐る田丸さんの家を訪ねると、奥さんが快く出迎えてくださって、タ食の支度もして待っていてくださった。 拍子抜けの思いでいると、田丸さんが、 「君の希望を言え」 と言われたので、ことの次第を説明した。 すると田丸さんは、 「志望通りに合格するように勉強しなさい。現場は私が見るから、君は事務所でお茶の準備と、官給品の請け出しの整埋をして、あとの時間は君が割り振って使いなさい」 と言われた。 天にも昇らんばかりの鷲きと喜びで感激して、有難くその好意を頂くことにした。 翌日、田丸さんは同僚の寺尾君と権さんにこの旨を話し、協力を取り付けてくださった。田丸さんはまた、本部の梶山係長にも了解を取り付けて、何ら支障のないように取り計らってくださった。 お蔭で私の勉強は思うように進んでいったが、毎日これに甘んじていいのかと、申し訳ない気待ちが強くなって、とうとう耐えられなくて、田丸さんにこのことを申し上げると、 「君の弱い心は駄目だ。そんなことでは合格も難しい。何も遠慮することはない。ただ、君が本来の目的を達成することが私達に対する返礼だと思う。何の遠慮もいらんよ。努力して合格することだ」 と、力強く叱ってくださった。 私は自分の気持ちの弱さを恥じて、「ようし合格せねば」と一層努力した。 夏の8月から翌年2月に向けて、京城の寒さも乗り切って真剣に勉強に打ち込んだ。 2月の初めにはほとんどの課目を頭の中に入れることができた。 時々、田丸さんが内容の指導をしてくださったことも嬉しいかぎりであった。聞けば、田丸さんは広島の出身で、苦学して中学を出て京城高工に入り、一年修了と同時に休学して働き、学費を貯めてから復学して卒業されたという。働きながら学ぶことの難しさ、尊さをもっともよく知っている人だった。 そして遂にその春、満州国立大学新京鉱工技術院(昭和14年1月に新京工業大学と名称変更)に合格を果たすことができた。 その後の満州生活も、波潤にみちたものであった。 昭和14年4月に入学したものの、2年半後の16年12月には大平洋戦争が勃発、多くの学友が大陸の戦場ヘ、また南方へと送られ二度と相見ることができない人も続出するようになった。 私は、左目が弱視のため、学徒徴兵検査の結果、「第三乙種合格」となり、兵役から遠ざかったことが、今日、82歳まで生き延びることにつながった。 昭和17年、私は新京工業大学を卒業し、その年4月から満州国交通部の技師として測量の仕事にたずさわった。だが、その地の気候が身体に合わなかったのか、肺門浸潤で内地療養の身となり、無念ながら18年6月に帰国した。 戦後は私鉄に動め、さらに系列の観光開発関係の職場で、とりわけ涯美半島の開発にかかわる様々なブロジェクトに加わり、かつての病弱の身が自分でも信じられないほどであった。そして、満80歳直前まで仕事を続けることができたのは、望外の喜びであったと過ぎ来し方をしみじみと振り返っているこの頃である。 それにつけても、あの京城における10代の私を励まし励まし、進学への道をひらいてくださり、ひいては今日までの糸口を作ってくださったのは、職場の田丸主任の「今夜、家に来い」の言葉である。今日でも折にふれてはこの言葉を噛みしめ、感謝の日々を送っている。 田丸さんとは終戦を境に文通が途絶え、一度、東京都の住所当てに手紙を出したが、宛て先が見当たらずとのことで返送されてきた。 心にかけながらも、連絡をとるすべもなく、心で託びている毎日である。私達みんなで、幸福な社会を作り上げることが、せめてもの田丸さんへの恩返しであると、心掛けている。 平成13年度 春日井市自分史公募作品「その一言」 より 伊藤 務氏 元の勤務地 ……京城府庁 工栄部土木課 <田丸氏の所在に、心あたりの方は ご一報を>事務局 |
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私より早起きの夫が、自分で挽いた自分流の拘りのコーヒーを飲みながら、食卓いっぱいに朝刊を拡げて読んでいる。 |
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バック目次へ 作品−12 ビリビリ公害 岸本 昭 尾鷲三田火力発電所の公害問題の一つに、周辺地区民家の窓ガラスが“ビリビリ”音をたてて鳴る、よく世間一般に言う《ビリビリ公害》があった。 原因は、ボイラ燃焼時の振動や、空気やガスの流れで風道や煙道が揺れ、これが空気中を伝搬して家の木枠の窓ガラスを揺らし、結果ガラスが桟に触れ、“ビリビリ”または“チリチリ”音を発生する。 これは、人間の耳には聞こえない低周波空気振動に起因するもので、日中は生活音のため“ビリビリ”は判らない。周囲が静かになる夜中に気付き、一旦気にすると仲々寝つけず安眠が妨げられる。 原因を説明しても「気味が悪い」と問題にされ、このため私が昭和五十四年に赴任する以前から、東大西脇名誉教授の指導を得て、現状調査と防止対策の研究が進められていた。 ある夜、課内有志との一杯会で大分出来上がった頃、店の電話が鳴りママが出た。 「貴方たちに電話よ!」 近くの一人が受話器を受け取る。 「判りました。すぐ行きます」 「どうした?」 「小山技術次長から、『一時間ほど前に大きな振動が発生し、向井と矢の浜(火力隣接地区)二つの公害対策協議会(以下公対協という)の委員が大勢押し掛けて来た。早く発電所に来てくれ!』とのことです」 ??? 何ごとがあったのか? 「すぐ行こう。ママ、タクシーを二台呼んで!」 勘定もそこそこにタクシーで発電所に向かう。 「遅いぞ!」 発電所のPR室に入るやいなや、公対協の一人に怒鳴られた。 もう所長、事務次長、技術次長と、二地区の公対協委員、尾鷲市公害対策課の関係者、さらに隣接の東邦石油株北村尾鷲工場長と環境部のメンバーもいて、室内は一種異様な雰囲気を醸していた。 向井地区観測小屋のデータを机の上に広げると、周囲にサーッと人の輪ができる。 「ここで記録が上がっています。通常は70か80デシベルですが、ここで100デシベルに突然上がり、2、3分継続しています。3デシベルの上昇は2倍の音圧に相当しますから、これは異常な現象といえます」 坂井係長の説明に続いて、水野係長が発電所の運転記録を示し、 「発電所は一、二号機とも、朝から37万5千キロワットの一定負荷運転中で、特別に変わった操作はしておりません」 なるほど、発電電力量、燃料消費量のチャートは共に一本の綺麗な直線である。発電所側に原因らしいものは全く見当たらない。 しかし、今回は本館がバリヤとなっていつも問題の少ない矢の浜地区でも、「窓ガラスがビリビリどころか、ガタガタ鳴った」「鏡台の鏡が大きく揺れ、女房が地震か? と、びっくりしたぞ」の、公対協委員たちの話を聞けば、確かに異常である。 「東邦石油の操業にも特に変わったことはございません。なお、本日の原油受入れ作業は夕方に終わり、揚油を終わったタンカーのフリージャー号も、丁度その頃出港しています」 この報告を聞いた坂井係長は、「発電所も東邦石油にも操業に変わったことがなければ、ひょっとしてタンカーに原因があるかも?」と呟き、暫く考えていたが、 「その船は、次は何処の港に行きますか?」 「鹿島港(茨城県)の予定と聞いています」 彼は怪しいものは徹底して検証する根っからの技術屋。しかし鹿島港では余りにも遠いと、すっかり頭を抱え込んで仕舞った。この様子を見た東邦石油の一人が、 「明朝、フリージャー号と同型のタンカーで安芸川丸というのが入港しますが……」 聞いた坂井係長がひょいと顔を上げた。目が輝いている。 「一度その安芸川丸で調査してみましよう!」 このやりとりで他の人達も、 「もう遅いし、そういうことにして今夜は解散だ」 皆が帰ったのは真夜中。時計の針は一時近くを指し、酔いはすっかり醒めていた。 翌朝早く、坂井係長らは安芸川丸の低周波空気振動の監視に、向井の観測小屋に集まった。小屋は小高い所にあり、安芸川丸が遠望できた。尾鷲市と東邦石油株の関係者の他、向井、矢の浜公対協委員の面々も立会い、全員が船の動きと記録計に注目していた。 七時過ぎ、船の煙突から一瞬白煙が上がった。 「おー、煙だ!」 外の一人が言うのと、ほぼ同時に観測小屋の中から、 「針が動いたぞ!」 見ると記録計の指示が突然飛び上がっている。昨夜問題が発生した記録と同じパターンである。 ──昨夜の原因はフリージャー号らしいぞ!── しかし同型船の調査結果である。問題はフリージャー号である。確証が欲しい! 半月経ったある日、「フリージャー号が和歌山県の海南港に入港する。そこを出港した後、当分日本には寄港しない」という情報を掴んだ。このチャンスを逃したら、もう二度と調査の機会はない。 直ちに調査開始である。坂井係長と野田担当、津支店(現在の三重支店)火力部から板倉担当も急遽駆けつけ、測定機材をライトバンに積み込み,42号線を海南港に向け船を捕らまえにひた走った。この後を尾鷲市公害対策課の車が、遅れじと追いかけるように走った。 翌日、海岸で測定した結果は、あの日の状況と、全く同じであった。 ──原因は特定できた!── ほどなくして、再び安芸川丸が尾鷲港に入港した。 一連の調査結果を聞かれていた東邦石油株の北村工場長は、再現調査のため揚油作業の終わりがけに、 「一度船のエンジンを停止させてみよ!」 指示のあと暫くすると、またまた大きなビリビリが発生した。 安芸川丸のエンジンの起動、停止、即ちバーナーを順次点火、または消火する段階で、一時的に燃焼状態が不安定となる。このとき煙突と化粧板が振動して10ヘルツの微振動が大発生するのであった。 こうして過日の大騒動の原因は、フリージャー号であり、同型の安芸川丸でも同様な現象が発生することを突き止め、ようやく“火力発電所には関係ない”ことが証明され、冤罪(えんざい)を免れたのである。 その後、火力発電所の一、二号機には低周波対策用のサイレンサーが設置され、昭和62年6月増設された三号機には防音壁や諸対策の結果、火力によるビリビリ公害は一挙に解決した。 また、日本船舶協会と船舶用ボイラメーカーによる、タンカー側の防止対策が検討され、『尾鷲モード』なる運転操作要領が確立されて、その後はタンカーによるビリビリ公害の発生も聞いていない。 東大西脇名誉教授は、その後叙勲されるなど輝かしい日々の後、他界された。一方、市民の矢面に立って尾鷲市の公害行政に当たられた森本公害対策課長も、既に鬼籍入りされている。 ビリビリ公害に係わった者として、一陣の風去ったの感がする問題であった。 もう遠い昔の話である。 (「わだち」第九、十号より) |
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バック目次へ 作品−10 こだま――自分史出版への響き── 村上好一 1、感動の日 「おめでとう!」 平成12年11月29日早朝。自分史友の会の会長堀田孝夫さんからの電話。 「エッ! 何のことでしょうか」と返事につまる。 「今朝の中日新聞に、あなたの自分史出版の事が出ていますよ。ほんとうにおめでとう」 「そうですか。私はまだ見ていないですが、ありがとうございます」 早速、新聞を見てびっくり。写真まで出ている。 ――11月24日、木野瀬印刷から『運に恵まれた男の記』製本200冊を受け取ったとき、営業所長高橋明治さんから「中日新聞社から声がかかるかも知れないが、よろしく願います」との話があったが、気にも留めていなかった。 ところが、28日に中日新聞の記者滝沢隆史さんからインタビューの申し入れがあり、会って話した。まさか新聞に載るとは思ってもいなかった――。 続いて副会長の大沢今朝夫さん始め、市会議員の伊藤太さん(ご尊父のときから厚誼をいただいている方)や油彩クラブの林泰二先生から祝辞の電話がかかってきた。 このあと外で知人と会う度に「おめでとう」の声をかけられた。思いもかけず私の生涯で”感動の日”となった。 2、響くこだま 傘寿記念として自費出版の本は先ず、文化フォーラム春日井の「日本自分史センター」に寄贈すると共に、自分史講座でお世話になった平岡俊佑先生へお贈りした。 拙文で赤裸々に書いたものだから、恥ずかしさ照れくささが多分にあったが、何かの役にたてばと思いなおして、12月早々から、年末の挨拶を兼ねて送配本を始めた。 親戚へは家系図(村上・林田・国本・本多の四家)総覧を添えて贈った。 在学当時の同窓生・同期生、戦友、戦後在職のときからの友人・知人、退職後入会の俳句クラブ・油彩クラブ・自分史友の会などの方々へも贈った。 間もなくして、祝辞と共に予想外の反響が次々に返ってきた。 * 鳥取商業学校の同窓生からの来信には、自分史の内容に感銘すると共に、在学当時のことや戦時中のことを改めて懐かしく思い出すことが出来たと称賛し、それぞれの体験のことが書かれてあった。初耳のことが多く私も感動している。 陸軍騎兵学校の同期生145名は軍務で生死に直面する苛酷な道を歩き、戦死や病没して現在の生存者は53名。自分史は親交の続いている諸兄にしか贈らなかったが、全員から出版への賛辞・感謝・激励の言葉を戴いている。 「村上の記事を読んで体験記を書く意欲を啓発させられた」と言う方もあった。 * 軍務当時のことで私が知らなかったことを教えられ、感謝していること2つ。 木下荘之介さん(陸士五十六期生、昭和18年1月より満州勃利の捜索隊第二中隊で共に勤務。兵庫県八鹿町に居住)からの来信で、昭和19年1月、私が大阪に転任とすれ違いに、隅倉秋寿大尉(私が千葉の騎兵学校当時の教官)が中隊長に着任。 同2月動員下令により中隊は戦車十一連隊に配属され千島に移動。内山錦吾少尉・木下荘之介少尉・楢崎少尉の各小隊長、以下98名。中千島ウルップ島で1年余を戦車壕と道路つくりが主で食糧不足・栄養失調患者続出。終戦でソ連に抑留。 木下少尉は千葉の戦車学校に勤務していたので無事だったとのことが判った。 八牧美喜子先生(俳句で厚誼をいただいている『はららご』主宰)からの来信で、先生のご主人通泰さんが陸軍航空士官学校を卒業して、昭和20年5月より満州勃利近郊の青山堡飛行場に勤務。私とは1年余の時差であるが、同じ所に居られた奇縁が判った。 * 戦後在職の鉱工品貿易公団・通産省・建設会社の友人・知人や現在身近に親交の自分史友の会・俳句クラブ・油彩クラブなどの同好会員、知人からも称賛と激励の書状や言葉を戴いている。 * 親戚の方々からは、本文を読んで古き時代のことを改めて懐かしく思い出すことができた感動と賛辞があった。特に家系図には感謝され、家系図は初めて見たという方が多かったのには驚いた。これにより今後広範囲の各家の詳細系図を整備して贈りたいと思っている。 * 自分史出版に対して、かくも多くの方々からの祝福、賛辞、激励を戴くとは予想もしていなかった。感謝、感激の衝撃が続いている。このよき【こだま】を大事に保存し、今後の人生へのバックミュージックとして頑張ろうと思っている。 |
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バック目次へ 作品−8 私の Vita Sexualis 抄 ──幼い日の二人だけの秘密── 高木 眞澄 わが家の小路口(しょうじぐち)を通る田舎道は、荷車が やっとすり違えるほど狭いのに村一番人通りが多かった。 「今年の正月は寒びいなあ。ところでお前(みゃあ)姫始め済みゃあたかえ? おら、夕んべなあ……」 「馬鹿こくな。おらお嬶(かあ)と夜なべ仕事に精出すより、大酒飲んで三升樽 抱えて寝たほがよっぽど極楽や」 こどもにはさっぱり訳の解らぬ話をしながら、村人が坂道を下っていった。そ れにしても、「お姫さま」や「極楽さま」と言っていたから、大人にとってよっ ぽど楽しいことに違いないと思った。 年末に婆さまが襷がけで黄ばんだ障子を張り替え、せっせと拭き掃除をしてく れたお陰で大黒柱も板戸も黒光りを放っていた。爺さまは搗きたての紅白の餅を 小さく千切り、えんごろ(猫柳)の枝先にくっつけて縁起物の正月飾りを作り鴨 居に飾ってくれたから、平素は薄暗い部屋が見違えるほど華やいで見えた。 正月三ケ日も終わろうとする昼下がり、爺さまはお手継ぎの寺(菩提寺)ヘ初 詣りに、また、婆さまは隣近所へ正月の遅がけのあいさつ回りにと出掛けたから、 一人ぽっちで留守番をさせられた。 身内の鍛冶屋のトミちやん(トミエ)はボクと同級生で、この四月から小学校二年生になる。 彼女たち四人姉妹は田舎育ちに似合わず、目鼻立ちが整い色白な別嬪揃いとあって村中の評判だった。 中でも末っ子のトミちやんが一番器量よしだと、女の子をもつ近所のお内儀さんたちをけなる(羨まし)がらせていた。 そのトミちやんが、正月用に下ろした一張羅の着物を着て遊びにきた。久留米 の赤い絣模様や黄色い兵児帯の絞り柄、市松模様の綿入れの羽織紐や桃色のコー ルテンの足袋の色彩が、煤けた部屋に色香を漂わせた。冬場、こどもたちは男女 を問わず、メリヤスの地厚なシャツと前割れの股引を、直に肌身へ着けていた。 こどもの正月遊びには、双六と犬棒歌留多が欠かせなかった。小倉百人一首は 歌の意味が解らず、坊主めくりと化した。二人は勝った負けたのはしやぎ過ぎで 遊び疲れてしまった。 「トミちやん。ボク腹減ったで、一緒に餅焼いて食べよみゃあか」 火鉢の埋火に炭を継ぎ足し、五徳の上の金網に餅を載せた。両面とも色よく焦 げ、やがて餅がプクーンと小さな音を立てて膨らんだ。それを皿に移した瞬間、 焦げ目に砂糖だまり(醤油)がジユーと染み込みヘナへナと萎んだ。 箸に挟んで食い千切ろうと引っ張ったら、長くのび切って最後にプツンと切れた。 その拍子に熱い餅の中身が、頬っぺたにぺタンと貼り付き火傷するほど熱かった。 二人は満腹し遊びにも飽きた。夜来の小雪が遊んでいる間に、ボタ雪となって 吹き降りとなった。 「マスミ(眞澄)ちやん、寒うなったなあ……。布団を被ってドボンコショに入ろみゃあ か」 縁側に近い畳一畳を上げたところが、ドボンコショ(切り炬燵)になっていた。 竈のおき火を底に入れ、丈夫な木作りのサナの上へ足を載せて、腰から下に布団 を掛け暖をとるようにしてあった。 トミちやんに誘われ、二人で一緒に頭から布団を被って潜り込んだ。布団の隙 間から微かな光が射すだけで、相手の顔さへ定かでなかった。内部は予想より狭 く、互いの足がもつれ合ったり、さては股間に入るなど……。 でも、無邪気なこども心には、別段、気に止めることではなかった。 やっと身体が暖まったころ、トミちやんが私の耳元へそっと口を寄せ小声でさ さやいた。 「あのよう、マスミちやん。私(わたゃあ)があんたの身体に触っても声出しゃあす なえ」 と、言うが早いかやにわにトミちやんの腕がのび、ボクの股引の開口部を探し 当てた指先がヌッーと入ってきた。ボクは予想だにしない突然の事態に狼狽し、 トミちやんの手首をつかんでつい叫んでしまった。 「なにしやあす、トミちやん。決まり悪りゆうから、早よ止めてやめて!」 「シイッ。声出したらあかんと言ったのに! ウッフン、あんたも早よう私の……」 トミちやんは咄嵯にボクの右手を取り、着物の裾から奥へ引き入れてしまった。 不思議だった。そこには何もなかった。ボクの指先は、生温いぬめり気のある異 様な軟体動物に絡まれ、脳天が真っ白になった。 【閑話休題】 昔から富岡に伝承されてきた盆踊りは、太平洋戦争が激化した昭和 17年を最後に途絶えてしまった。その伝統的な盆踊りを覚えているのは、今や 私の老母(93歳)と近所の老爺の二人だけだ。昭和5年7月下旬発行の愛知新聞 の切り抜きを偶然に手に入れた。「犬山地方でたった一つ残る貴重な郷土芸能 『富岡の盆踊り』」と題し、世評が高くてJOCKからも放送されたことなど、詳しく 報じていた。 実はその一曲に「オチョケ(おどけ)のぞき節」という、男踊り用に振り付けされた卑猥な盆踊りがある。 ♪ オチョケ ヤレ のぞきはエー ササ この世のものかエー お釈迦さまでも目を回すゾエー わしはこの目で確と見たはエー 古来から男はド助平であったらしい。その形態や機能を「露骨な名文句?」で、微に入り細に入り生々しく歌い込んだのが「オチョケのぞき節」である。このあとに続く歌詞を、私はとても紹介する勇気がない。 かつて先祖たちが「ササ、この世のものかエー」とたまげた可愛い観音さまに、 ボクは迂闊にも触れてしまった。やっとわれに返った時、ボグの小さなご神体は、 まだ、彼女の柔らかい手の平に包まれていた。 「このこと、絶対に二人だけの秘密やぜ。誰にも話したらあかん!」 トミちやんは、きつい目付きでボクをたしなめた。平素、「○○ちやんと×× ちやんは怒蓮根(おこれんこん)。ネンネができたらどうしゃあす」と、無邪気 に囃し立てていた「わらべ唄」がふと脳裏をよぎった。 長じてトミちやんは高等女学校へ、ボクは旧制中学校へと進学した。彼女が澄 まし顔でセーラー服のスカートをユラユラなびかせて通学する後姿を見るにつ け、ボクは脳(のう)ましくてドキンドキンと胸が高鳴った。 昭和 25年、春爛漫の4月のことだった。トミちやんは故郷を捨ててイッチッチ、 ボクのことなんか忘れてイッチッチ。艶やかな花嫁姿で遠くの町ヘイッチッチ……。 小夜嵐に舞う桜の花びらは何事も知らずおぽろ月夜にきらめく川面を、ボクの 指先に残る得も言われぬ不思議な感触を載せ彼女の嫁ぎ先目指してゆっくりと 下っていった。 ボクの耳にせせらぎの音を残して……。 |
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△作品 バック目次へ 特別寄稿 作品−7 海の蛍 講師 平岡 俊佑 疎開した夏の初め、担任のジンジロ先生が声をあら ためて「聞け!」と言った。 神野次郎、今ならアメリカ映画の登場人物のように JJ とでも呼ばれるかもしれない。 背が高く痩せていて、いつも目玉をギョロギョロ光ら せている男先生の雰囲気にぴったりの渾名だった。 ジンジロ先生は、黒板にまず円を描いた。つづいて、 その円の下にたわんだ網のようなものを描き足した。 「あ、タモだ」 クラスのガキ大将が叫んだ。 「そうだ。魚をすくうタモに似てるな。大きさも同しくらいでいいぞ。ただし……」 先生は、たも状の円の中央に一本の線を描いた。 「ここに、もう1本、針金をわたす」 「ふうん、わからん」 ガキ大将がつぶやく。 先生は、タモの縁の3点からたこ糸で吊り下げるのだと言い、さらに、太めの竹竿を 描き足していった。できあがった図は、全体が「棹秤」に似たかたちとなった。 それから先生は、2日後までに全員が1つずつ作ってくるように、それがこの夏の 第一の宿題だと言った。 「なんで?」 「なにするの?」 クラスの大半の子たちが口々にざわめきの声を上げた。 「いま、兵隊さんたちが……」 先生は、そこで背筋をピンと伸ばして、いっそう声をはり上げた。 「支那で、仏印で、南方諸島で、勇ましく戦っているのは知っているな?」 その兵隊さんたちが夜戦で地図を見るのに使う特殊な懐中電灯の材料として「海 蛍」を集めるための道具がこれだ、と先生は話をつづけた。夜の戦いでは、マッチ ー本すっても夜間飛行の敵偵察機に発見されてしまう。だが、「海蛍」で作った懐中 電灯なら敵に発見されることはない。海辺に住む少国民として、「海蛍」を集めて御国 のために奉公するのだ、先生はこう言って口を結んだ。 * 道具が出来上がった日の夜、クラスの全員は先生とともに港の突堤に並んだ。 網の部分に使い古しの蚊帳、円にさしわたした針金には鯖の頭などの餌。それを 海に沈めて待っていると、餌にあたる魚のアラの部分を中心に、ぼうっとした光が 集まるようになってくる。 頃合いを見て引き上げると、漆黒の闇の中でひときわ輝く小さな生物がある。 それは、虱ぐらいの大きさの柔らかな殻をもつ貝の一種で、波の中を漂う夜光虫とは 違うものであることを初めて知った。 * 次の日から、天気の良い夜には、突堤は男子生徒であふれるようになった。 海に沈めた餌に群がる海蛍をひたすら待ちつづける子どもたち。やがて、引き上げ られた網の上には、小さいながら強烈な星屑のような光が飛び散る。 海蛍は、ほとんど動かない。そして、水から引き上げられるとじきに死んでしまう。 子どもたちは指先を青紫色に染めながら、すでに死にかかっている小さな小さな貝を 空き缶に拾い集めるのである。 一晩の収獲は、家に持ち帰ってよく乾かさなければならない。そして、一定の量が 溜まったら学校へ持っていった。 だが、ただ一人縁故疎開した先の家では、何かにつけて辛くあたる伯母が、「家中が 臭くなる。家では干すな」と厳命した。じっさい、海蛍は強烈な悪臭をはなつのである。 * 夏体みの昼の突堤は、家で干すことを禁じられた子どもたちが集まる場となった。 夜の収獲、昼の乾燥作業と、突堤で昼も夜も過ごす日々が多くなった。 突堤のかわいたコンクリートの上で、自分の領域を守りながら前夜に獲ったわずか な海蛍を干す間にも、そいつは強烈な臭いをまきちらし、”死”の連想を運んできた。 疎開する前、一度だけ見た街の空襲の傷痕。吹き飛ぱされて電柱にからみついて いた人間の手足、母親の背中におぶさったまま、不発焼夷弾の直撃で頭をなくした 赤ちゃん──。 現実の死の光景と、小さな海蛍の”死”とが、頭のどこかで結びついて離れなかった。 空の要塞と敵が誇ったB29が昼間も堂々と大都会を襲うようになると、海辺の小さ な突堤も安全な場所ではなくなった。 護衛についてきた艦載機グラマンが、機体を軽くするためか、それとも面白 半分か、町の窯屋の赤煉瓦の煙突に機銃弾で穴をあけたり、突堤の子どもたちを 狙い撃ちしていくようになったのである。 ある日、執拗に反転を繰り返し、突堤上に弾丸を浴びせていく飛行機をふと見上げ たとき、金髪で頬の赤い操縦士の顔がちらりと見え、その顔がまだ初々しい少年のよ うな印象を与えたことも忘れられない。 その日、突堤の子どもたちはうまく逃げおおせたが、沖の小舟で鱚釣りをしていた老 人が頭を撃ち抜かれ、不発弾を拾った六年生がひとり、金槌でそれを叩いて即死した。 国民学校三年生の夏から秋にかけて、ひたすら集めた海蛍は、学校中で大きな 叺(かます)2杯分にもなった。 校長先生は褒めたたえ、「君たちの努力は、きっと皇軍のお役に立つだろう」と結ん だ。 海蛍を人れた2つの叺は、うやうやしく”安置”され るように、体育器具倉庫の片隅に置かれた。だが、 その叺は、いつまでたっても運ばれることはなかった。 そして翌年の夏、子どもたちの目から、「そろそろ、 今年も海蛍とりが始まるかなあ」という声が出かかった 頃、戦争は突然終わった。 2つの叺の海蛍の行方は、どうなったのか、今も頭 をかすめることがあるが、誰からも聞かされてはいな い。 |
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△作品 バック目次へ 作品−3 自分史へのきっかけ ・・・子どもの姿から・・・ 堀 田 孝 夫 転勤は何歳になっても気が張る。特に初年 度は新職場になじむために何かと心労が大 きい。 教員生活6度目、昭和56年4月のそれは母 校高座小学校(高蔵寺ニュータウンの玄関口に 位置する)であった。 愛知県の人事異動は、教員免許状があれば 小中学校の交流があり、久しぶりの小学校 勤務である。年度初めの諸会議も一段落、5月 の連休を迎えほっと一息つく。 雨上りの運動場にできた水溜まりに一輪車で山砂を運び入れていると、早上がり の新入生がやってくる。「何やっとるの?」 「どうして?」 「なぜ先生がやるの?」「家の お祖父ちゃんも一輪車を引くことうまいよ」 周りを取り囲み、思いつくままの質問が矢継ぎ早に出てくる。中学生ならば「見れば わかるだろう」の一言ですむが、小学生へのことば選びがもどかしい。 そんなある日、久しぶりに早く帰り畑へ草取りに出掛けた。早苗田の中を曲がりくね る畔道が郷愁を誘いこどもの頃歌った旧校歌が鼻歌まじりに口をついて出る。梅雨 晴れ間、夕日が赤い。腰をのばす頬に田面をわたる涼風が心地よい。 その風にのってピンポポポーン地元農協の屋外有線放送である。 |
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