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 3. 作 品  (バックナンバー目次)

              
作品−1作品−22  

            (作品−23 以降は 作品バックナンバー集01)

    

 
 

 
5. 友の会ニュース (バックナンバー目次)
 
     5.11日本自分史学会に春日井市から大勢の参加

    
5.10日本自分史学会に参加して(梅村レポート)      

    
5.9 自分史ネット(HP)で人気加速(日経新聞) 

    
5.8 泰(や)っさん 表彰(日本自分史大賞・ 受賞)

    5.7 
自分史シンポジューム(春日井)

    5.6 
自費出版自分史の新刊紹介(泰っさんの人生、形見の風景)

    5.5 
映画「大河の一滴}を観て

    5.4 
小泉メルマガより

    5.3 
「わだち」第11号(特集号)について

    5.2 
小学生も卒業記念に「自分史」

    5.1 
映画「ホタル」を観て

 
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 作品−22 私の山の家  ──私の ちっちゃな旅──

                                   宮 原 よしの

 私たち夫婦の、初めての旅は京都でした。二人の息子たちが京都の大学に入ったときのことです。

「二人のこれからの生活の場になる京都を知りたい」と京都行きをきめました。
戦時中の結婚、出産、それからの生活はきびしくて、旅行などとは全く思いもよらないことでした。

 二人だけの我が家が、急に四人になり、また、ここで二人ずつの生活ということになったわけです。

 下宿の準備も出来て、荷物の総てを送り出したあと、息子たちは京都へと出かけました。その頃の京都は、まだまだ遠く、長野から七時間もの汽車旅でした。

 入学式に出席出来るようにと、少しあとから出かけた私達が京都駅についた時には、二つあった出口(京都駅と八条通り)のそれぞれで待っていてくれました。

 京都には知人もなく、全く初めてのところでしたが、『婦人の友』友の会の京都リーダーであった佐川恒子さんに、下宿のことから、あれこれと、すっかりお世話いただき、改めてお人柄に感謝の気持ちと、安心で、ホッとした思いで帰ることができました。(その頃、友の会で家事家計の勉強をしていた時でした)


 長野の方では、春秋、農家の忙しい時期には、農繁休みと言って一週間程のやすみがありました。此の休みには、何をおいても私達は京都行きの計画をたてたものです。息子たちの顔を見ては、古都を楽しみました。それから、時々の京都の旅が始まりました。

 山科の家は、マンションの七階でした。最初の頃は、エレベーターを降りると、壁に沿って歩いたものですが、すぐに馴れて高い所である事も忘れて、生活出来ることに驚きました。

 此の頃は、孫との遊びをたのしみにしながら、山科方面の京都を、ゆっくりと楽しむことが出来ました。

 なれるまでは、息子の嫁の清子さんに、バス停、バスの番号までも、くわしく書き入れてもらった地図を持って出かけたものですが、そのうちに結構、じいさんばあさんでも自由に出かけられるようになるものです。

 ゆっくりゆっくりと、あのお寺、このお寺と落ち着いた気持ちで、お話を聞いたり、写経の出来るところでは、写経をしたり、いつまでも時を忘れて、お庭に見入り、昔をしのんだりと、その時々に、一つのところを楽しむようになりました。

 桂に移ってからは、じいちゃんばあちゃんにと、畳の一部屋も出来たことと、少し時間のゆとりも出来たことなどから、今度は、桂の方面の京都を、あちらこちらと歩きました。そして、次は奈良でした。勤めの都合で、奈良に住むことになり、奈良を楽しむ旅になりました。

 退職後、住宅を新築して、永住のつもりで始めた生活でしたが、二人とも年をとって来たこと、息子達の配慮と、同居の要望など、いろいろ考えた末、信州での生活のあれこれも一応(公的な役など)区切りがついたものとの思いに立って、生まれ育って七十年の信州を離れ、息子の増築した部屋に住むことになりました。そこから、今度は「信州の旅」となりました。

 長野に居る間は、いつも思い出の集まりに、改めて思うこともなく、気軽にあちこちと出かけておりました。(県内の会が多かったので)

 でも、こちらへ来てからは、会の当日を入れて三泊が普通になりました。途中のことなど思って、二人でゆっくりと安心して行ってくることが出来るようにとの思いからです。当日は、それぞれであっても、前の日と後の日は同一行動が出来るのですから。大体月に一回位は出かけておりました。

 その地を離れて見ると一層なつかしくなって、今まで教職三十八年間の総ての学校を、そして、その土地を訪ね、当時をなつかしみながら、しみじみと、あの頃をしのぶ旅もできました。

 恵那の宿で開かれた同級会に、二人で出席して、元気に帰ってから、本当に間もなく、じいちゃんは、私を残して逝ってしまいました。もうすっかり自分を失って、何の気力もないまま、ただ三年が過ぎてしまいました。

 ある日、息子たちと出かけて、一休みしたところが、小高い山の上の、定光寺研修センターでした。

 両側からせまる緑の間の曲がりくねった急な坂道を上りつめたところにあったセンターは、なつかしい信州を思いおこさせてくれました。あれから一度も行っていない信州を思い、私は、ここがすっかり気に入ってしまい、それからは、時々ここへ来ることにしました。

 ここだったら家から車で約二十分、目的が研修センターですから、とても静かです。昼間はいろいろの会議があって、多くの人々が集まりますが、それぞれに目的があってのことですので何か雰囲気がちがいます。

 広さ十二畳ほどの洋室には、バス、トイレがついている他には、必要最少限度のものがあるだけですから、私には、かえってこれが落着いて、ますます好きになります。

 朝、明るくなりはじめたとき、南側を全部開け放すと、目の前からは一面の緑、左からは檜の林、右側からは、斜めに緑の山がせまってきます。

 時々に移り変わる空の色、雲の動き、鳥のさえずり、何より嬉しい朝です。この小高い山の上のセンターを、私は、「私の山の家」と名づけて、今では土曜日に来て二泊して月曜日に帰ることが恒例になっています。

 一番見晴らしがよくて、とても気に入った部屋があるので、いつも、ここを予約して帰るのです。

 「今日も、おじいちゃんへのおみやげを下さいね」と、御燈明用のマッチを二つと、元気をもらって帰ります。

「ただいま」
 すると愛犬の(そよご)がしっぽをふりながら、とんで来て迎えてくれます。
 ここからは、「おるすい役」に変わります。

 「独りで!」と驚く人もいますが、一人とは思いません。ここではすばらしい出会いがあります。思いもよらない実にすばらしい出会いが、喜びの一つです。

 「『私の山の家』へ来て」とおさそいして、友達が来てくれることもあります。
 孫たちが来て、一緒に泊まることもあります。
 昨年は、松本の同級会も、みなさんここに集まって開きました。


 
 
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 作品−21 老僧の一言

             大澤今朝夫


 平成12年秋、某日の中日新聞掲載。
 
 松平実胤(じついん) 略歴
 名古屋市生まれ、6歳で得度。佛教系大学から名古屋大学大学院印度哲学科で佛教を学び、1973年犬山市の真言宗智山派の継鹿尾山寂光院の山主(住職)に就任。

  荒れ寺だった同院を整備して、紅葉の美しい現在の名刹とした。

 全国の市民講座などでの講演を始め、テレビ、新聞、雑誌にも登場する。

 正月の「初観音」、春の「火渡り会式」、真夏の「九万九千日法要」の三大祭を復活させた。さらに、市民向けの『やすらぎ説法』など多数の著作がある。

 人は幾つになっても、昔、果たせなかった夢(理想)に憧憬と郷愁を憶えるものであろうか。

 この松平山主の記事を読んでいて、いい歳(73歳)をした老人の血潮は年甲斐もなく、微かにうずくのである。
 なぜなら、Kが少年時代に直面し人生の岐路となった次のような理由からなのだ。

 昭和20年初冬の午後、埼玉県比企郡吉見村御所 真言宗の名刹 息障院、老住職の応接間。

 手入れされた老松、紅葉した樹々の枯葉が清冽な池の水面に音もなく静かに落ちる、まことに静寂なひととき。

 老師のこの部屋は、書院造りで、築山、そして、錦鯉が静かに泳ぐ池が限下に見える景観ながら、質素な佇まいである。

 K少年と父親は、先程、山門をくぐり、案内を乞い、この部屋へ通された。
 やがて、唐草模様の品のよい、やや小さめの茶器に、程よい濃さの緑茶の注がれた茶托と茶葉が運ばれてきた。

 彼は、この年の8月下旬に大平洋戦争が終わり、内原にあった満豪開拓幹部訓練所が解散したため、野望が挫析、空しく帰省して、失意の日々を送っていた。

 終戦によって、世の中の価値観が全く変わり、 〃鬼畜米英〃は戦勝国アメリカ・イギリスの〃進駐軍の兵隊さん〃になり、つい最近までそうであった軍国少年の夢は、無惨にも打ち砕かれてしまったのである。

 農家の次男坊である彼は、この先どうしたものか不安がつのり、あれこれと進路に悩んでいた。とりあえず何か職に就かなければならないが、さて、どうしたものかと思いを巡らせる昨今であった。

 どんな世の中になってもなくならない職業は……、と思いあぐねた末、神職か僧侶がよかろうかと考えたのだ。神主は、ぜひ、やってみたい職業だが、敗戦直後のこと、GHQの神社神道への締めつけが厳しく、将来性に間題がある。されば、抹香臭くて一林の抵抗はあるが、僧侶しかないような気がしてきた。

 人類が生存するかぎり、死は免れず、必ず寺院・僧侶は必要欠くべからざるものと思ったのである。「よし、坊さんになろう」と決心した。しかし、どうしたら僧侶になれるかが問題であった。

 祖母・ときの生まれた原口家は旧家で、今は没落してしまったが、代々名主を務め、菩提寺の息障院へ永年にわたって、相当の寄進をし、かつて、本堂の屋根の葺き替えは原口家だけの出費で奉仕した由を間いたことがある。現在の当主・佐平治伯父も、財力こそなくなったが、なかなかのきれ者で、寺の檀家総代を務め、何かと尽力はしている模様である。

 Kは、佐平治伯父に息障院への紹介を頼みたいと父に相談した。
 そこで父は、まず、住平治伯父に頼んだ上、万全を期すため、出井代議士(父はその選挙参謀)に老師宛の紹介状を書いてもらった。

 今、この部屋で緊張の面持ちで待っているのである。

 やがて、静かに襖が開いて、小柄ながら端正ないでたちの、白髪の口ひげをたくわえた老僧が席についた。

 父親が、待参した紹介状を差し出し、丁重に挨拶する。
 老師は、 一通り紹介状などに目を通して、静かに膝元へ置き、おもむろに切り出した。

「ご用向きはよくわかりました。日頃、大変お世話になっている原口様から、すでにお話を承り、なお、こうして、出井先生のご紹介状もいただき、その上、ご本人もしっかりしておられますので、ぜひ、当院で修行をと思うのですが、実は、年齢がもう少し若くないと難しいのであります。

 僧の修行は、十歳前後の小学生の頃からでないと、種々、問題があり、いずれ、ご本人にも迷惑がかかる仕儀とも相成るので、思案をいたしております。せっかくのお申し出に、こう申しますのも何でございますが、何とか僧侶志望を諦めていただき、他の道へご精進いただきたいと存じます」

 静かに老師の話を間いたKは、全身から血の気の引く思いがした。
 歳がいきすぎているのであれば仕方がないと思う一方で、何とも締めがつかないのだ。しかし、止むを得ない。

 親子は、丁軍に挨拶をして、辞去した。
 かくして、K少年の僧侶志望の夢は、はかなくも消えたのである。


 その後、彼は、やがて進路を変更して、大学へ入り、W大学を卒業した。
 そして、実業界に身を投じ、爾来40有余年にわたり、彼なりに精進を重ね、やがて、小さな企業ながら、社長、会長を歴任し、顧問に就任して、事実上リタィアした。

 馬齢73歳のKは、50数年前の純粋な僧侶志望の頃を追憶し、あの時、もし入門が許されて、修行生活の年月を重ねたなら、さて、どうであったろうか。果して、小さなお山の老住職たりえたであろうかと思うことがある。

 そして、幻の老僧の自分と、何とか健康にも恵まれて安泰な日々を送る昨今の生活に思いを巡らせて考え込む。
 あの時と同じ、やはり冷え込んだ初冬の静かなひとときである。

 
 
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 作品−20 「今夜、家に来い」──田丸栄春氏の恩愛──

                                 伊藤  務


 昭和10年、年が明けてまだ正月気分の醒めやらぬ1月半ばに在学中の私立工業学校(その年3月に卒業見込みだった)の校長先生から、父宛に出された速達が届いた。

 内容 は、私の朝鮮京城府(現・韓国ソウル市)への就職の推薦状だった。

 父は即座に許可をしてくれた。私の意見など差し挟む余地もないままの決定であった。
 そして開口一番、

「お目出度う。よかった。お前はまだ18歳になったばかりだが、知らぬ他国の他人様の中で生活のすべてを見つけて暮らすことは、若い時に必要な修行だ。行け。お前の成功を祈るぞ」
と、心から喜んでくれた。

 今から思うと、父は余程嬉しかったのか、その夜の晩酌が余分にはずんだことを覚えている。
 18歳とはいっても、それは数え年のことで、今風にいえば私は満17歳であった。

 私は工業学校で土木科を専攻し、親友の北島君と鈴木君との3人で進学を希望し、互いに競争し合っていた。就職するとなると、彼らとの約束を反故にしなければならない。しかし、鈴木君は既に朝鮮鉄道に就職し京城に行っていた。私も彼の後を追うかたちとなった。

 当時の京城は全く日本内地と変わらない生活環境であったので、毎日の勤務にも馴れ、一年が瞬く間に過ぎたころ、名古屋の北島君から、満州国新京の学校に合格した旨通用を受けた。

 ここで私は吾に返った。一年間目的もなく暮らした白分の社会生活を恥じ、本来の向学心を蘇らせられて、鈴木君とも将来の夢を語り合い、もう一度勉強をやり直そうと堅く誓った。そして、私も新京の大学をめざすことにして、受験課目などを確かめた。英語が必須課目でないことがわかり、英語が苦手な私でも、まず難関が越えられると安心した。

 さて、勉強となると、下宿人であり、務めのある身である。これらをどのように処理するかが問題だった。
 まず、下宿の同僚と家主のおばさんに目的を話した。皆は快く協力すると賛成してくれた。

 当時、私は京城市内の繁華衝を縦走する幅20メートルの新設道路の工事現場に監督として派遣されていた。

 毎日、道踏工事の新しい作業が進められ、2人の同僚とそれぞれの受待ち区域を担当していたので、一時も現場から目を離すことは出来なかった。

 勉強も予定通り順調に進んでいった。冬の京城は寒さが厳しく、深夜に勉強を続けていると、吐く息でガラス窓に氷の結晶が白く凍りつく有り様であったが、寒さと眠気とを相手に戦いながら必死に勉強を続けた。

 日が経つにしたがい、いかに全体の課目を習得するか欲望が出て、昼問の仕事の最中に参考書を盗み読みしてしまった。 一度体験すると、味をしめ、しばしば仕事中に参考書を読む始末となり、ついつい監督の任が疎かになっていった。

 ある日、その現場を田丸栄春さんという主任に見つかってしまった。どんな叱責の言葉が出るかと覚悟していたが、田丸さんは、
「今夜、家に来い」
と言われただけで、その場はすんだ。

 てっきり、こっぴどく叱られるものと思い、その夕方、恐る恐る田丸さんの家を訪ねると、奥さんが快く出迎えてくださって、タ食の支度もして待っていてくださった。

 拍子抜けの思いでいると、田丸さんが、
「君の希望を言え」
と言われたので、ことの次第を説明した。

 すると田丸さんは、
「志望通りに合格するように勉強しなさい。現場は私が見るから、君は事務所でお茶の準備と、官給品の請け出しの整埋をして、あとの時間は君が割り振って使いなさい」
と言われた。

 天にも昇らんばかりの鷲きと喜びで感激して、有難くその好意を頂くことにした。
 翌日、田丸さんは同僚の寺尾君と権さんにこの旨を話し、協力を取り付けてくださった。田丸さんはまた、本部の梶山係長にも了解を取り付けて、何ら支障のないように取り計らってくださった。

 お蔭で私の勉強は思うように進んでいったが、毎日これに甘んじていいのかと、申し訳ない気待ちが強くなって、とうとう耐えられなくて、田丸さんにこのことを申し上げると、
「君の弱い心は駄目だ。そんなことでは合格も難しい。何も遠慮することはない。ただ、君が本来の目的を達成することが私達に対する返礼だと思う。何の遠慮もいらんよ。努力して合格することだ」
と、力強く叱ってくださった。
 私は自分の気持ちの弱さを恥じて、「ようし合格せねば」と一層努力した。

 夏の8月から翌年2月に向けて、京城の寒さも乗り切って真剣に勉強に打ち込んだ。 2月の初めにはほとんどの課目を頭の中に入れることができた。

 時々、田丸さんが内容の指導をしてくださったことも嬉しいかぎりであった。聞けば、田丸さんは広島の出身で、苦学して中学を出て京城高工に入り、一年修了と同時に休学して働き、学費を貯めてから復学して卒業されたという。働きながら学ぶことの難しさ、尊さをもっともよく知っている人だった。

 そして遂にその春、満州国立大学新京鉱工技術院(昭和14年1月に新京工業大学と名称変更)に合格を果たすことができた。
 その後の満州生活も、波潤にみちたものであった。

 昭和14年4月に入学したものの、2年半後の16年12月には大平洋戦争が勃発、多くの学友が大陸の戦場ヘ、また南方へと送られ二度と相見ることができない人も続出するようになった。

 私は、左目が弱視のため、学徒徴兵検査の結果、「第三乙種合格」となり、兵役から遠ざかったことが、今日、82歳まで生き延びることにつながった。

 昭和17年、私は新京工業大学を卒業し、その年4月から満州国交通部の技師として測量の仕事にたずさわった。だが、その地の気候が身体に合わなかったのか、肺門浸潤で内地療養の身となり、無念ながら18年6月に帰国した。

 戦後は私鉄に動め、さらに系列の観光開発関係の職場で、とりわけ涯美半島の開発にかかわる様々なブロジェクトに加わり、かつての病弱の身が自分でも信じられないほどであった。そして、満80歳直前まで仕事を続けることができたのは、望外の喜びであったと過ぎ来し方をしみじみと振り返っているこの頃である。

 それにつけても、あの京城における10代の私を励まし励まし、進学への道をひらいてくださり、ひいては今日までの糸口を作ってくださったのは、職場の田丸主任の「今夜、家に来い」の言葉である。今日でも折にふれてはこの言葉を噛みしめ、感謝の日々を送っている。

 田丸さんとは終戦を境に文通が途絶え、一度、東京都の住所当てに手紙を出したが、宛て先が見当たらずとのことで返送されてきた。

 心にかけながらも、連絡をとるすべもなく、心で託びている毎日である。私達みんなで、幸福な社会を作り上げることが、せめてもの田丸さんへの恩返しであると、心掛けている。
                         平成13年度 春日井市自分史公募作品「その一言」 より

        伊藤  務氏  元の勤務地 ……京城府庁 工栄部土木課
                    <田丸氏の所在に、心あたりの方は ご一報を>事務局

 
 
 

                                 △作品 バック目次へ
  作品−19 忘れられない言葉

            中村 光雄


  菊地先生は、当時30歳。やせ形で小柄・小づくりの顔の眼窩はくぼんで、どうしたわけか高くもない鼻のまん中も凹んでいた。

 長い髪をひつつけ鬢に結つて、浅黒い額に化粧っ気などは、とんでもない。なにしろ女だてらに、剣道の先生だったから。

 わたしは、中学の受験に失敗して、高等小学校へ通った時期があった。昭和18年である。菊地先生は、そのときの但任で、いつもおなじ地味な着物に袴をつけていた。
 背すじをスッとのばして、音もなく廊下を渡る。風のようなそのさまは、忍びのものを髣髴させ、あやしい影がただよっていた。

 教室では、あやしい影などみじんも見せないやさしい先生だったが、剣道の授業となると人が変わった。吐きだされるその裂帛の気含はすさまじく、サッと床を這う木刀が、瞬時にはね上げられ、空を切り裂かんばかりの気迫には、まさに鬼気せまるものがあった。

 ──先生が柳生神陰流の道場に通いはじめたのは、9歳のときでした。と、そうした自分の生いたちを授業時間に話してくれたことがあった。それは、警察官だった父親の意向があってのことだが、もともと木のぼりや山あるきが好きなおてんばだった。

 道場では、小刀・棒術などを体得した。
 とにかく、世間一般の女らしいことには、まったく興味をしめさない風がわりな子どもで、叶うはずもない奇抜な夢をえがいていた。

 それは、帝大を出て海軍に入ること。海軍はもとより、当時帝大も女性の門戸をとざしていた。可能性のない少女の夢は、早期にくずれ去って、剣の道にのめりこんでゆく。

 そうして神奈川女子師範を卒業。十九歳のとき小学校の教員となった。先生が24歳のとき、両親が相ついで亡くなり、文字通り天涯孤独の身となった。
 火葬場から母規のお骨を持ち帰ったものの、納骨するに忍びなく擂鉢でくだいては、何日もかけてたべてしまった。

 ぼくは、そんな先生の生いたちをひと言ものがさず聴いていたが、骨を食う話だけはどうも胡散くさく、気色わるくて、半信半疑だった。

 菊地先生については、忘れられない挿話がある。昼やすみに、級友の名まえも旗も思いだせないだれかと、ぽくは揉みあっていた。どうしてそうなったかも思いだせない。そうするうちに、入り口の硝子戸に棒をぶつけて硝子を破ってしまった。

 午後の授業のベルが鳴り、例によって颯々と教室に入ってきた先生は、一瞬にして硝子の破れに気づいた。当然どうして破れたのかを全員に間いただした。

 そこで、おずおずと立ちあがったぼくは、「友だちとふざけていて、つい破ってしまいました」先生の顔を正面に据えてこたえた。先生は瞑目していた。目を閉じたまま全身で聴いていた。なにかにじっと耐えるような、とても哀しそうな顔をして……。

「ついと言わなくともよろしい。先生は中村さんが、わざと破ったとは思っていないから」。

 先生の心を哀しませたのは、教え子の心の貧しさであったかと、いまにして思う。
 こうしてついのきれはしは、たち切れることなく、きようまでつづいている。

 精神にふるさとというものがあるならば、その風景は、あの些細な事件のかげに隠されていたのではなかったか。


 もうひとつの挿話は、夏やすみの宿題で、先生にほめられたこと。
 その宿題の日記に目を通した先生は、後日教室でこんな意味あいの感想を述べた。

 ──日記は本来記録性のつよいもの、文学的に書けとは言わないが、みんなの日記を読むと、判で捺したように何かをしたことだけに終始している。そこを、もうすこし工夫してごらん。どんなちいさなことでもいいから自分なりの発見をしてごらん。

 文法など気にしなくともいい。自分らしい言葉を撰んで、正確に書くこと。そうすると文章が生き生きしてくるから……、

 そこで先生は、机の上に積まれた日記のひとつをとり出すと、「たとえぱ、こんなふうに……」と前おきして読みはじめた。

 ──その生徒は、たまたま庭の茄子の葉にテントウムシの幼虫を見つけて観察しはじめる。幼虫が成虫になるまでの経過を、たんねんに日記に記録していくのだが、茄子の花についたちいさな実にも目を向ける。

 ちいさな実が日々生長して、やがてたべごろに実のると、漬物となって会卓にならぶのだが。先生が感心して、引きあいに出したのは、色よく漬けあがった茄子の、その描写にあった。

 先生は、それがだれのものとも明かさなかったが、ぼくにはそれが、自分のものだとすぐわかった。しかし、みんなは知らない。それが、ぼくと先生だけの秘密だと気がつくと、身うちがたぎるようなはずかしさをおぼえた。

 そのときのはずかしさは、あの硝子を被ったときに、ついを指摘されたときのはずかしさとは、異質のものであったような気がする。

 翌年の春、ぼくは念願の中学に合格した。職員室に報告に行ったとき、菊地先生のくぼんだ目が大きくひらいて、きらきらかがやいていた。ほんとうにうれしそうに。


 すっかり忘れていた先生のことを思いだすようになったのは、いつごろからだったろうか。先生のことが、突然脳裏をかすめると、きまってとり返しのつかない大事な落しものをしたような、空虚なさみしさにおそわれたものだった。

 そして、先生はいまごろ何処でどうしているだろう、と想いをめぐらす。すると、きまって、人里はなれた山中で隠遁している山姥のすがたがあらわれるのだった。この想像は、あながちはずれてはいなかった。

  いまから20年程まえのことである。
 菊地先生の消思が絶えて、37年の歳月が流れていた。

  わたしは、たまたまたち寄った茶房で、備えつけの週刊誌をパラパラ操っていた。

 と、一枚の写真のペ−ジが目にとまって、思わず息をのんだ。

 わたしの目は、信しられない思いで、その写真に釘づけになった。
 茫々とした草むらを背に立つその老婆は、左の掌を顔前にひろげ、右の手は剣を斜にかまえている。眼光するどいそのまなざしは、まぎれもなく菊地先生その人だった。

  ああ、先生だ! 先生! 生きていてくださつたんですね! わたしは心の中で大きく叫んだ。

 記事の見出しは、いかにも週刊誌らしいエキセントリックなもので、ページの半分を使って、太明朝の三行組みになっていた。

 あばらやに住まい/一流ホテルで会事する/謎の女仙人
 それと並んだスミ抜きの二行には、
 ガス、水道、夫もない〃市の名士〃/天涯孤独の老婆菊池嘉江さん剣に生きる

 記事を読んでみると、先生はぼくたちのクラスの担任を最後に、単身満州へ波り、昭和21年5月、佐世保に引き揚げてきている。満州時代については、口を割ろうとしないので、何をしていたかは謎だという。

 そのあと、北海道まで足をのばした15年間の放浪の果てに、忽然と逗子にあらわれた。いまは、眼下に伊豆の海を見おろすかくれ里のような高みに居を構え、市の体育館で子どもたちに剣道の指導をしている。剣は、柳生心眼流免許皆伝の腕まえである。と、あった。


 わたしは家にたち帰ると、興奮をおさえきれない声で逗子に電話を入れた。夢ではないだろうか。先生の声を聞きとるまでは、信しられないでいるわたしの問いかけに37年をとびこえたなつかしい声が返ってきた。

 ──ナカムラサン?, ナカムラミツオデショ! オボエテル! オボエテル! アナタモイキテテクレタノネエ──

 うれしいひと言だった。生きているよろこびが、どつとばかりに身内にあふれた。


 その翌月、先生は惣中町のわたしの家に茶道具持参で紡ねてくださった。茶を点て、火鉢をはさんで、夜を徹して語り明かした。
 
 鉄瓶のたぎりも絶えて、気が付けば、窓のそとはいちめんの綺羅。冬枯れの裸木に、音もなく雪がふりつもっていた。
                         平成13年度 春日井市自分史公募作品「その一言」 より


 
 
 

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 作品−18 女房のワキヤク
                                     高谷 昌典

「また、水を出しっばなしで洗ってる! はじめにボウルの水で洗ってからって言っているのに……あなたのすることは、いつもいい加滅なんだから」
「うん、わかった」

 女房から小言を食らう羽目になったのは数日前のこと。洗う食器の汚れが少なかったので、つい手間を省こうと、洗いと濯(すす)ぎを一緒にしたせいである。
 彼女が教える食器の洗い方はなかなか面倒だ。

 まず、アルミ製の洗い桶(ボウル)の水で汚れを落とすのだが、これにも手順がある。最初、湯呑みなど汚れの少ないものをナイロンたわしで洗う。他の食器はその後で、クレンザー(みがき粉)を付けて洗い、最後に、油汚れのひどいものだけを「油汚れもスッキリ」と書いた合成洗剤で洗うのだ。

 だから、水道の水を出しながら洗うのは、この後、こうした食器を濯ぐときでなければならないのである。

 そもそも、私が食事の後片付けなどをするようになったのは、古希(こき)と呼ぶ年齢(とし)を過ぎ、サラリーマンを辞めてからのことである。家にいることが多くなった私に、

「あなた、少し炊事を手伝ってくださらない。手先を使うことって脳を活性化するんですってョ、お料理なんか覚えるの、一番いいと思うわ。わたしが先に死んだりしたら、あなた一人で炊事しなければならないことも考えてネ」

  かく宣(のたま)った女房殿の本音は、「一緒に家にいるようになったんだから、お互いのコミュニケーションのために、家事などできるだけ一緒にしたい」ということなのだ。

 その気持ちは分かるのだが、慣れぬ仕事のうえに、世間体も気にかかる。毎日のように返事を急(せ)かす女房に、何の彼のと逃げ口上を並べて時間稼ぎをしていたのだが、私の煮え切らぬ態度は、ついに彼女の怒りを招いてしまう。

「今まであなたは、何でも仕事、仕事。わたし一人でずっと炊事をしてきたのよ。これからは二人きりで暮らしていくのよ。自分勝手なことばかりしないで、少しは協力してくれたっていいじやあない!」

「あんまりうるさく言うなッ! 俺だって今まで遊んでいたわけではないんだ。仕事のために出来なかったことだって、まだ、いっぱい残ってるんだ」

 思わず大声を出したことを反省しながら、ようやく調理台の前に立ったのだった。

  だが結果は、不慣れのうえに、生来の不器用が加わって、何事も手際よくテキパキとやる女房の足手纏いになるばかり。ついに料理作りは勘弁願って、もっばら、配膳と後片付けを受け持つこととなったのである。

 とは言うものの、冒頭の一件のように、これらの仕事も細かくて気を使うことが多い。ゴミの分別から、流し周りの掃除、食器類の取り扱いなど、こと細かな注意が要る。

「そんな細かいことを、いちいち……」と愚痴ってみても、
「主婦の仕事がどれだけ大変か分かったでしょう! わたし、子育ても、ボランティア(視覚障害者のための音訳奉仕を30数年間)もやりながら、ずっと、こんな細かい家事をやってきたのよ」

 こんな調子で、くどくど反論されるだけなのである。


  敬愛する作家・遠藤周作氏の著書で『生き上手 死に上手』(海竜社刊)というエッセィ集を読んだのは、ちょうどこんな時期であった。私は、この本の次の文章によって強烈なボディー・ブローを食らったのである。

  我々は自分の女房の人生のなかでは、傍役(わきやく)である身分を忘れて、まるで主役づらをして振舞っていはしないか。

 あまりに遅きに失したのであるが、女房をみているうちに不意にこの事に気がつき、
「俺……、お前の人生にとって傍役だったんだなア」
と思わず素頓狂(すっとんきょう)な声をあげてしまった。
「何が、ですか」
 女房は何もわからず、怪訝(けげん)な顔をしていた。

 以後、女房にムッとしたり腹がたつ時があっても、
「この人のワキヤク、ワキヤク」
と呪文のように呟くことにしている。すると何となくその時の身の処しかたがきまるような気がする。

  それまで特別考えたことはなかったが、私たち夫婦の間でも、給料を待ち帰る自分が主役であると、当然のように思っていた節がある。だから、大方のことは「仕事優先」で通してきたと言つていい。

 さて、その仕事がなくなったため、重い腰をあげて女房の家事を手伝うことになったのだが、長年なじんできた主役の座の坐りごこちが変わったせいか、何とはなし割り切れない、もやもやっとした気持ちを引きずってきた。

  そんな私に、「自分の女房の人生のなかでは、傍役である」のひと言が、胸のなかのもやもやを、一瞬のうちに吹っ飛ばしてしまったのだ。


 あれから四年が経つ。いまでは、炊事だけでなく婦除や買い物などの家事も手伝っている私だが、自分の仕事として自然に体が動くし、気持ちのうえでもほとんど抵抗がない。

  しかしながら男の私には、濃やかな気配りと、細かい神経を必要とする女房流の家事方式で、合格点をとるのは到底無埋である。これからも、
「あなたのすることは、いつもいい加滅なんだから……」
などと、女房から指図や注意をうけることになるだろう。そして、それを口煩わしく思ったり、むかむかしたりする時がなんべんもあると思う。

 そんな時には、遠藤流に習って「ボクはこの人のワキヤク、ワキヤク」と、こころのなかで呟いてみようと思うのである。
                           ( 公募作品「その一言」より )


 
 
     
 


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  作品−16 コーヒー解禁日
                            まいしゃの会  藤原 広子

 私より早起きの夫が、自分で挽いた自分流の拘りのコーヒーを飲みながら、食卓いっぱいに朝刊を拡げて読んでいる。

 食卓いっぱいに新聞を拡げて読めるのは、早起きの特権。私は月に二度か、三度くらいしかこの特権に浴さない。言い訳めくが、夫のこうした時間を邪魔しないようにと、タバコとコーヒーの匂いがしていると、暫くの間、私は布団の中でグズグズして、頃合いを見計らって起きていく。

「おお、コーヒー入ってるぞ」
 「どうも……」私は台所の隅で熱いコーヒーを啜る。「ああ、美味しい」と、口の中にひろがるコーヒーを味わいながら、ここ十五年の間に四回コーヒー断ちをしたことを思い出す。

 それは、娘や嫁の明ちゃんが子どもをみごもったと知らされたときから、無事出産するまでの願掛けだった。
 でも少々勝手なのは、出先でどうしても辞退できないコーヒーは、言い訳無用、遠慮は無用、神様、仏様の嬉しい思し召しと有難く頂戴したこと。そして密かに、「またこんな機会をお願いします」とも思ったりして、私の願掛けはいつも都合よく穴があいていたが、寛大な神様、仏様のお心があって、四人の孫も無事誕生。娘も、嫁の明ちゃんも安産だった。

  私のコーヒー断ちはその都度、身内や職場、仲間うちにも通じて、「まあ、今どきね」と言われながら、外出先ではよくトマトジュースを注文した。

 一回目二回目は娘のところ。コーヒー断ちで無事を祈った孫たちも、もう上は中学三年生、下は小学六年生の男の子二人。
 
 一回目のコーヒー断ちのときだった。何を考えていたのか、うっかりインスタントコーヒーを作ってしまい、一口、口に含んでしまった。はっとして、すぐさま吐き出し、口をすすぎ、禁をやぶった罰として百草丸を一粒口に入れ、にがい、にがい思いをしながら、「これでどうぞ差し引きしてください」と真剣に隣のお宮さんに向かって手を合わせたことを思い出す。
 
 そして無事出産の電話が私の勤めている保育園に入ったのは、雛祭り会がすんでホッとしているときだった。みんなが「おめでとうございます。おばあちやんになれてよかったですね」と、特に「おばあちやん」に力を入れた言葉で祝ってくれた。
 
 その日の三時のおやつのときだった。調理員のSさんが「ハーイ、コーヒー解禁日。おめでとう」と、熱くて、濃くて、砂糖のたっぷり入ったコーヒーを出してくれた。「あっ」と思った。「ねっ、よかったあ。お孫さんが生まれて初めてのコーヒー、私が作ってあげられて」と言ってくれた。嬉しかった。美味しかった。「また三時のおばばは全員コーヒーで−す」と、Sさんはひょうけた。
 
 その当時のテレび番組『三時のあなた』をもじったもので、私と調理員さんの休憩時間を若い保母たちは『三時のおばば』と渾名していた。
 
 初めての孫に感激し、二回目、三回目、四回目もやはりコーヒー断ちをしなくてはと、げんをかついだ。二回目のときは娘が「無理しなくてもいいよ」と言いながら、紅茶を送ってくれた。
 
 三回目、四回目は息子のところ。女の子二人。二人とも母親の実家・稚内で生まれた。上の子は平成九年の夏。下の子はミレニアムベービー。有珠山噴火一週間前の三月二十三日の昼過ぎ、明ちやんの声で「女の児です。元気です」と電話が入り、ホッとする。早速、夫とコーヒータイム。
 
 その五月の連休に、母親の産後の肥立ちも赤子の様子もよく、東京の田無の社宅に戻ってきたのは、上が二歳半、赤ん坊が一力月半のときだった。「生活のリズムが整うまで手伝ってほしい」との息子夫婦の頼みに、職を退いて三年になる私はホイホイと喜んで出かけた。
 嫁の明ちゃんは荷物の整理、乳児医療の手続き、近所まわり、買物と忙しく働いた。
 
 上の子は突然の姉の役割にとまどい、赤ちゃん返りをくりかえし手をやかせたが、時には甲斐甲斐しく妹の世話を手伝ってくれたりした。
 
 久し振りに二人の子どもが一緒に昼寝をしてくれた日、明ちゃんの入れてくれたコーヒーを飲みながら、私のコーヒー断ちの話になった。

「う−ん、そうだ、改めてコーヒーで乾杯しようか」
 二人はコーヒーカップを上げ、
「おめでとうございます。よかったね。どうぞ元気に育ちますように」
「ありがとうございます」
と、カップをカチッと鳴らす。

「うふふ……」
「いい音ね」
 
 子沢山を望んでいた明ちやんだが、現実はきびしく二人が限度と、地味なマタニティのジャンパースカートやズボンを太っちょの私に「これ、楽ですよ」とくれる。
「でも、また要るかも知れないよ」
「いいです。そのときはまたカズちやん(息子の名)に買ってもらうから」
と、赤子を大切な宝物を扱うように膝に抱き、私の宝物よというように慈しむ。

  仕事を持って忙しく子育てをしてしまった私には、まばゆく見えた。
 一力月ほどの手伝いだった。
 さあ、私の五度目のコーヒー断ち、またあってもいいと思う。

 
 


                                              △作品 バック目次へ
  作品−15 全員が主役であった学芸会
                                  中崎 光男

 ”芋ごし”という言葉が、折に触れて恩い出される。小学校の恩師がよく口にされていたからである。
  当時、八百屋の店先で、四斗樽の水の中に里芋を入れ、板でかきまわして皮を剥く光景がよく見られた。先生はこれを”芋ごし”と称し、友人同士、或いはクラス全員でこれをやり、お互いに磨き合うようにと言われていた。


  それは勉強に切磋琢磨するということよりも、闇市に代表ざれる戦後の混乱の中で、皆が体と体、心と心をぶつけ合い、磨き合って子供らしく真っ直ぐな道を歩むようにとの教えを込めてのものであった。

 戦後間もない頃、小学校の春の学芸会と秋の運動会は、その地域での一大行事として大いに盛り上がったものであった。運動会は秋の日曜日の一日に、そして学芸会は3月3日の雛祭りの日にと、なぜかきまっていた。したがって、運動会は一家総出で我が子の勇姿を見に来ることとなり、一方、学芸会はその日が日曜と重ならないかぎり、主として幼な児違れの母親達が会場に詰めかけてきた。

 自分の子供が主役をつとめたり、独唱するということにでもなると、近所の人や知人に誇らしげに話しをし、当日は自分も着飾って見に行く親も少なくなかった。

 昭和23年、六年生の3学期が始まって間もなく、クラスで学芸会の”演しもの”を何にするかの話し合いを行った。担任の高根道雄先生からは、学芸会の上演はそのすべてを自分達の手でやるようにと以前から言われていた。

 私達は口々に
「いつものちやんばらごっこというわけにはいかないな」
「俺達は男女組ではないから、『自雪姫』もできないしな」
「学校の図書館に児童劇全集なんていうのがあるんではないか」
「そんなありふれたものは駄目だ」
「では何にするんだ」
「うーん、そうだ、何か全員が出られるものにしよう。そうしようぜ」
「舞台で分列行進かデモ行進でもやるか」
などと勝手なことを言い合っていた。

 30分ほどして、皆の話を聞きながら、ずーっと窓から外を見ていた先生が
「全員が登場するのはよいことだ。折角だから台詞も皆に一言以上あると良いだろう。劇の内容は六年生だからこそできること、六年生でなければやれないものを考えたらどうか。それに道具類の準備も筒単にでき、服装も普段着のままで出演できることを考えるように」
とヒントを下さった。それは、皆が、そして日本全体がまだ貧しかった時代にふさわしいアドバイスであるように思われた。

  いくつかの議論を経て、いろいろと起伏の激しかった6年間の学校生活をオムニバス形式でやろうということに衆議一決した。

 あとは昭和17年4月の入学時からの6年間をどうまとめるかということであったが、ここまでくると、アイデアが次々と生まれて、その内容が一気に決まっていった。

 一年生のときは入学式の情景を緊張気味の中で可愛らしく演じ、二年生風景は戦時下であったとはいえ、その学年の前半の頃はまだ少し余裕もあったということで体み時間の遊びを表現することになった。
 それは、「今は山中、今は浜、今は鉄橋渡るぞと……」と歌いながら生徒同志が手を組み合わせてつくったトンネルを、汽車となった十数人が次々とくぐり抜けていくのどかなものであり、それ以後の酷しい時代と対比する狙いも持っていた。

 三年生では一転して、戦況の悪化に対応して、防空頭巾を被り机の下に身体を隠す防空演習と、クラスの仲間達が縁故疎開や集団疎開で、散りぢり、バラバラに別れていく哀しみと不安に駆られる情景の描写にした。

 そして四年生では集団疎開から帰ってきて、列をつくって駅から学校に向かう途中
「おい、学校が見えたぞ」
「学校は爆撃に遭わなかったのだ」
「なつかしいなあ」
 などと口々に言い、全員が歓声をあげ、列を乱して学校に向かって駆け出していく場面設定とした。

 五年生では、戦後の自由主義、民主主義という風潮を反映して、クラスの討論会風景を演じることにした。舞台いっぱいに全員の椅子を並べ教室を再現して、活発な討論風景を展開することにした。議題は何であったか忘れてしまったが、ここでも多くの級友が発言する場面をつくった。

 最後の六年生のところでは、全員一致で”仰げば尊し”を合唱して締めくくることに決定した。間題は指揮者と伴奏者であった。ピアノだけは弾けるものが誰もいなかったので、やむなく先生にお願いし、指揮は級長をつとめていた白井があの6拍子のタクトを振ることになった。

  大道具、小道具などはほとんどなく、せいぜい、入学式、卒業式の看板を立てかけた校門の柱と、疎開から帰った時に、遠くから望見する校舎の畳一枚ほどの書き割りを自分達で手づくりしただけであった。

 特に台本をつくった記億もないが、体育館を兼ねた講堂で、その場面はこうだ。この場面はああしようなどと、皆で喧喧囂囂と意見を出し合いながら練習し、本番に向けて熱気が盛り上がっていった。それは、まさに”芋ごし”の摩擦で発した熱が、エネルギーをほとばしらせたものであったのかもしれない。

 皆で練り上げた劇について、先生はほとんど注文をつけなかった。討論会場面では小学生としてはきわどい社会風刺の発言もあったのだが、生徒の自主性と、そしてその則をこころえた良識に信頼を置く姿勢を崩さなかった。

 ただ一つ”仰げぱ尊し”の歌の場面で「中崎さんだけは唄わないようにしよう。他の場面で何回も出ているからよいだろう」と言われた。音痴で、ひどい嗅れ声だった私には、さすがの先生もそう言われたのだが、自分でも、それがまことに当を得た指摘だと即座に納得したほど、当時の私の歌はひどかったのを覚えている。

 学芸会が始まった。各クラスの精鋭や担任の先生の秘蔵っ子が次々と登場し、劇や歌やバレ工を披露していった。なかでも、当時すでに「音羽ゆりかご会」で活躍していた I 嬢の歌は圧巻であった。

 私達のクラスの順番が廻ってきた。大勢の伸間が出たり引っ込んだりの雑然とした雰囲気の中で、劇が進行していった。今までの”演しもの”との違った様子に場内の空気も少し変わってきたようであった。今まで、学芸会などとは無縁であった腕白坊主や漠垂れ小僧どもが、舞台で生き生きと躍動していた。

 その姿を母親達は身を乗り出して見守っていた。我が子の晴れの舞台をしっかりと目に焼きつけんとばかりに。ざわついていた会場がシーンと静まり返ったのは、疎開への旅立ちのときであった。見送りの父母、先生に
「お父さん、お母さんさようなら。先生さようなら。大岡小学校さようならあー」
と生徒が叫ぶ場面では涙する母親もいた。

 最後の”仰げば尊し”は期せずして会場から唱和する声もあがった。日頃の腕白坊主共もジーンとくるものを感じていた。指揮者の白井のタクトがピタリと止まったとき、会場は割れんばかりの大きな拍手に包まれた。

 その日、その時こそ、”芋ごし”の里芋の一つ一つが主役として光り輝いたのであった。すべての親が、光り輝く我が子をまぶしく見たのも、まさにこの日であった。

 ”クラス全員が輝いた日”は、また”恩師が輝いた日”であり、そして”教えること、学ぶことの素晴らしさが輝いた日”であった。

 仰ぎ見る恩師にめぐり会えた幸せを、六十路を越えた今なおかみしめている。


                    (平成12年度 春日井市自分史公募作品集「わたしが輝いた日」 より)


 
 


                                              △作品 バック目次へ
   作品−14 猿と共存の暮らし
                            まいしゃの会 浅見 志津香 
 
 姉の運転する軽トラックの荷台に乗った私達は、まるで小学生のようにはしやいでいた。何かにつかまっていないと振り落とされそうなでこぼこの山道、しばらくは杉の木立の中を走り抜けると、青空が開けてきて、山の中腹にある畑に着いた。およそ十分も走ったろうか。

 東方遙かに広がる濃尾平野には、揖斐川、長良川が帯のようにゆるやかな流れを見せている。いつ眺めても、雄大なこの景色は大好きだ。

 鋏と籠を渡しながら、姉は言う。

「柿も、みかんも、欲しいだけ採っていいよ」
「みかんは、色づきの良い、甘そうなのから採るのよ」
 南だれの一面に柿畑とみかん畑が広がっている。
(私は柿が好きだから、まず柿から採ろう)

 十一月も終りごろだったので、柿は収穫された後ではあったが、まだまだたくさん木に残っている。
 柿畑に近寄ると、異様な臭気があり、十五センチ程の棒のような物がぷら下がっている。

「この褐色の変な棒は何なの?」
「これは猿への脅しでネ。すごく効果があるんや。何だと思う?当てたらえらいワ」
「何かの骨みたい」
「当たり。でも何の骨でしょ」
「………………?」」
「豚の骨!」

 最近は猿の食害に困ったすえ、この豚の骨は猿が嫌って近づかないとわかり、屠殺所から買ってきて、木に吊るすのだそうだ。

 この多度山も、近くに団地ができ、またゴルフ場への道路が賑わい、猿も住みにくくなってきたらしい。

 五月の「上げ馬祭り」で賑わう多度神社までは、車で行けば五、六分の距離にある。そんな所でも、とりわけこの柿山は、猿たちにとって何処よりも楽園らしい。

 姉が柿畑へ行くと、必ず一匹の見張り猿がいて、ビヒュウーと口笛のような音を出したかと恩うと、数十匹の猿が一斉に同じ方向へ風が舞うように逃げるとのこと。逃げる時には、脇に子猿を抱え、背にも一匹、もう一方の手には枝ごと折り採った柿をひきずって、必死の姿で逃げていくそうな。

 猿による柿の食害は甚大だが、
「その恰好を見ると笑えてきて、腹立たしさも忘れてしまうよ」
 姉はむしろ、猿との共存生活を楽しんでいるようにみえる。

「あれっ、このみかん、色づいているのは、下半分だけ食べられてる」

 姉の猿談義を聞きながら、甘そうなみかんを選んで採ってゆく。
 猿の披害は秋ばかりでないと、今年の春の出来事を姉は話しはじめる。

 一雨降った三月のある朝、そろそろ淡竹(はちく──筍の中でもとりわけ味が良い)の出る頃と、裏山の竹藪へ行ってみると、一面に白い花びらを散らしたように、筍が食い散らされていた。
「またやられた。しようがないなあ」

 ひとり言を言いながら、目残しの筍を掘っていて、ふと頭を上げると、目の前に大きな猿が一匹、倒れた大木に腰掛けていた。

 猿は姉の方をじっと見ていて、目が合ってしまったそうだ。
 姉は腰が抜けんばかりに驚いて、息も止まりそうになり、金縛りにあったように身動きも出来なかったという。

 いつも見償れている猿ではあるが、さすがに目の前間近での予期せぬ対面には、姉も怖かったそうだ。
 しばらく睨み合っていたが、やがて猿が諦めて立ち去ったという。

 その日、姉が三十分ほど筍を掘って山を下りてくると、山の南側の原に、いるわ、いるわ、大きいのは子牛ぐらいに肥ったのから、一握りぽどの子猿までご二十匹以上の猿の大群がたむろしていたそうな。

 物陰から様子を見ていると、五、六匹でプロレスごっこをしてじやれている猿、お互いに蚤を取り合い、毛づくろいをする猿、畑で採ってきた甘夏みかんを器用な手つきで分けて食べている猿などの姿が目につき、飽きることなく、しばらくは猿の世界を眺めて楽しんだとのこと。

 姉にしでも、自分たちの核家族の寂しい生活を思うと、大所帯の猿たちの仲むつまじい光景が羨ましくも思えたという。
 しかし、殺されることなく増えつづけてきた猿たちも、生きるためには大変なようだ。

 最近はずうずうしくなって、住居のベランダに玉葱やトウモロコシを持ち込んで、悠々と食べている姿も見られるそうだ。
「賢い猿に負けないように、うまく共存していくしか仕方がないワ」

 ところが、柿畑の山一帯が、来年ごろから宅地造成されて、大きな団地が出来ることに決まっているという。後継者のいない姉の山家暮らしを思うと、
「姉さん、これでやっと楽になれるで良かったネ」
「この景色の良い山畑のみかん狩りも、今年で最後だよ。いっぱい採っていってネ」

 この姉は、女学校を卒業してすぐ、こんな慣れない山家へ嫁ぎ、働いて、働いて、先祖からの山を守ってきた。
 こんな重労働の生活の中にも、地域の婦人会、民生委員と活躍し、猿にも愛着を持ち、心豊かに生活している。

 猿には気の毒だが、七十歳に近くなった姉がやっと楽になれる時代が来たと思うと、安心した。



 
 


                                              △作品 バック目次へ
作品−13 アトリエ「角(かど)」の日々
                                              
草尾知子

 二十一歳になったばかりだった。

 地方から上京して勤めていた会社にもすっかり慣れ、周りの人たちとの関係もうまくいっていた。そのままそこで暮らしていれば、それなりに生きていく道が続いていきそうだったが、なぜか本来の自分ではない生き方をしているような気がし続けていて、毎日が苦しかった。

 そんな時、にわたしは会社の同僚に教えられたのが、アトリエ「角(かど)」の存在だった。わたしは、さっそくアトリエ「角」をたずねた。
 
  渋谷から井の頭線に乗り、明大前駅で電車を降りると、同僚に聞いたとおりホームから見えるビルの最上階に、大きな看板が取りつけられていた。

 駅に隣接したそのビルの横手から、階段を上がっていって四階の通路に出ると、粘土で作った頭部が数個すみに寄せて置かれていて、奥にはイーゼルや丸いすが重ねて並べてあった。

 通路を中ほどまですすむと、アトリエ「角」という黒い文字の入ったドアがあり、中からわたしより少し年上に思える女性が出てきた。掃除をしていたらしい女性は、そのまま外からいすを一つ運び入れると座るようにすすめた。

 丸い木のいすは、樹皮を思わせるような暗い色をしていて、絵の具のしみや汚れがあちこちについていた。わたしは、部屋に入るときに周囲の壁に気をつけたように、着ていた赤いコートが汚れはしないかと心配しながら腰をおろした。

  二十畳ほどある室内の青いリノリウムの床の片側には、作りつけの棚があって、数体の石膏像がのっている。どれも手垢やほこりで、純白からは程遠い色をしていたが、部屋の奥の壁いっぱいの窓からの光を受けて、美しい形を浮かびあがらせていた。

 立っていって開け放たれた窓から顔を出してみると、外は深い谷のような空問が広がっていて、底の地面を幾本ものレールが走っていた。

 わたしは、受付けや事務の仕事をしている佐木という女性から、おおよその説明をしてもらうと、その場で夜間コースに通うことに決めた。

  翌日、仕事を終えて夜間のコースに顔を出すと、白いブラウスのモデルを取りまくようにして、数人の男女がイーゼルを立てていた。

  だれが指導をするというわけでもないらしく、それぞれが思い思いに描いていて、モデルが立ち上がって身体を伸ばし始めるまで、話し声ひとつしなかった。

  そのうちに、わたしは、寮の部屋の押入れにしまい込んだままになっていた油彩道具を取り出してきて、周囲の人のやり方を見たり、佐木さんに聞いたりしながら白いキャンバスを絵具で埋めていつた。

 月初めの二週間がたったころ、合評会が行われることになった。

  入口の受付カウンターの周囲には、ドアを開けて入ってくるたびに目に入る場所に、展覧会のポスターや個展の案内などがピンで留めてあり、その上の天井に届く位置には、年間を通したカリキュラムがはってあった。

 それには、月ごとに異なる課題が記されていて、おおよそ月の前半に一つの作品を仕上げることになっていた。

  合評会には、アトリエ「角」の責任者で、私立高校の美術教師をしているという澤崎が来ることになっていたが、親しくなった同年齢らしい女性は、石膏像の棚の前に自分の絵を並べながら、
──澤崎さんがきたら、今日はみんなで飲みに行くことになると思うよ。彼は、すごいノンベエなんだから、
と、絵が一通り出来上がった解放感からか、饒舌になって教えてくれた。

 アトリエ「角」の人たちは、だれも澤崎のことを先生と呼ばず、サワザキさんで通っていた。彼は、これまでにも途中で顔をのぞかせたことがあったが、一巡してみんなの絵を見終わると、佐木さんに言葉をかけてすぐに帰っていった。

 作品を並べ終わったころ、澤崎は来た。

  彼は、いつものように細い身体に黒っぼいジャケットを着ていた。そして、真っ直ぐな髪が、白い額に落ちてくるのをはねのけるような仕草をしながら、並べられたキャンバスの、それぞれの色の使い方や、構図の面白さをことさらに強調しては、自分の受けた印象を言葉にしていった。

 彼の脳裏には溢れ出さんばかりに絵画の知識がしまい込まれているようで、目の前の一枚一枚の絵を見ながら、多くの画家の名前や作品の題名が次から次へと紡ぎ出されていった。

 月が移ると、画題は、裸婦の立ちポーズに変わった。月の半ばからは、裏返したパン箱の上にサケの干したのや瓶やりんごなどが置かれていたし、タ方から通ってくる高校生たちのように、アリアスやブルータス、メジチ、ラボルトといった石膏像をデッサンしてもよかった。

 そのうちに、わたしはアトリエ「角」の近くに部屋を見つけて、会社の寮から引っ越した。そして、通い始めて半年たった頃には、仕事を辞めて昼間のコースに移っていた。

 外を歩くと、街路樹のセミがやかましく鳴き、舗道は夏の暑さに焼かれていた。

 それから結婚するまでの数年間、わたしは疎になったり、密になったりしながら、アトリエ「角」と関わり続けた。

 定職も持たず、何の庇護も得られない不安定な生活は、周囲の大人の顰蹙を買い、小言を受けかねないものだったが、なんとか最低の生活費のためのアルバイトをするだけで凌ぎ続けた。

 そして、アトリエ「角」に通いながら、生きることの楽しさを満喫していた。

 立ち止まって、これまでのわたしの人生の中で、「わたしが輝いた日」をさがしてみると、あのアトリエ「角」に通っていた日々こそが、「わたしの輝いた日」の連なりだった気がしてならない。


                (平成12年度 春日井市自分史公募作品集「わたしが輝いた日」より)
 


 
                                                △作品 バック目次へ
作品−12  ビリビリ公害

                                      岸本 昭

 尾鷲三田火力発電所の公害問題の一つに、周辺地区民家の窓ガラスが“ビリビリ”音をたてて鳴る、よく世間一般に言う《ビリビリ公害》があった。

  原因は、ボイラ燃焼時の振動や、空気やガスの流れで風道や煙道が揺れ、これが空気中を伝搬して家の木枠の窓ガラスを揺らし、結果ガラスが桟に触れ、“ビリビリ”または“チリチリ”音を発生する。

  これは、人間の耳には聞こえない低周波空気振動に起因するもので、日中は生活音のため“ビリビリ”は判らない。周囲が静かになる夜中に気付き、一旦気にすると仲々寝つけず安眠が妨げられる。

 原因を説明しても「気味が悪い」と問題にされ、このため私が昭和五十四年に赴任する以前から、東大西脇名誉教授の指導を得て、現状調査と防止対策の研究が進められていた。

 ある夜、課内有志との一杯会で大分出来上がった頃、店の電話が鳴りママが出た。
「貴方たちに電話よ!」
 近くの一人が受話器を受け取る。
「判りました。すぐ行きます」
「どうした?」
「小山技術次長から、『一時間ほど前に大きな振動が発生し、向井と矢の浜(火力隣接地区)二つの公害対策協議会(以下公対協という)の委員が大勢押し掛けて来た。早く発電所に来てくれ!』とのことです」
??? 何ごとがあったのか?
「すぐ行こう。ママ、タクシーを二台呼んで!」

 勘定もそこそこにタクシーで発電所に向かう。

「遅いぞ!」
 発電所のPR室に入るやいなや、公対協の一人に怒鳴られた。
 もう所長、事務次長、技術次長と、二地区の公対協委員、尾鷲市公害対策課の関係者、さらに隣接の東邦石油株北村尾鷲工場長と環境部のメンバーもいて、室内は一種異様な雰囲気を醸していた。

 向井地区観測小屋のデータを机の上に広げると、周囲にサーッと人の輪ができる。

「ここで記録が上がっています。通常は70か80デシベルですが、ここで100デシベルに突然上がり、2、3分継続しています。3デシベルの上昇は2倍の音圧に相当しますから、これは異常な現象といえます」

 坂井係長の説明に続いて、水野係長が発電所の運転記録を示し、
「発電所は一、二号機とも、朝から37万5千キロワットの一定負荷運転中で、特別に変わった操作はしておりません」

  なるほど、発電電力量、燃料消費量のチャートは共に一本の綺麗な直線である。発電所側に原因らしいものは全く見当たらない。

 しかし、今回は本館がバリヤとなっていつも問題の少ない矢の浜地区でも、「窓ガラスがビリビリどころか、ガタガタ鳴った」「鏡台の鏡が大きく揺れ、女房が地震か? と、びっくりしたぞ」の、公対協委員たちの話を聞けば、確かに異常である。

「東邦石油の操業にも特に変わったことはございません。なお、本日の原油受入れ作業は夕方に終わり、揚油を終わったタンカーのフリージャー号も、丁度その頃出港しています」

 この報告を聞いた坂井係長は、「発電所も東邦石油にも操業に変わったことがなければ、ひょっとしてタンカーに原因があるかも?」と呟き、暫く考えていたが、

「その船は、次は何処の港に行きますか?」
「鹿島港(茨城県)の予定と聞いています」

  彼は怪しいものは徹底して検証する根っからの技術屋。しかし鹿島港では余りにも遠いと、すっかり頭を抱え込んで仕舞った。この様子を見た東邦石油の一人が、

「明朝、フリージャー号と同型のタンカーで安芸川丸というのが入港しますが……」

 聞いた坂井係長がひょいと顔を上げた。目が輝いている。

「一度その安芸川丸で調査してみましよう!」

 このやりとりで他の人達も、

「もう遅いし、そういうことにして今夜は解散だ」

 皆が帰ったのは真夜中。時計の針は一時近くを指し、酔いはすっかり醒めていた。

  翌朝早く、坂井係長らは安芸川丸の低周波空気振動の監視に、向井の観測小屋に集まった。小屋は小高い所にあり、安芸川丸が遠望できた。尾鷲市と東邦石油株の関係者の他、向井、矢の浜公対協委員の面々も立会い、全員が船の動きと記録計に注目していた。

 七時過ぎ、船の煙突から一瞬白煙が上がった。
「おー、煙だ!」

 外の一人が言うのと、ほぼ同時に観測小屋の中から、
「針が動いたぞ!」

 見ると記録計の指示が突然飛び上がっている。昨夜問題が発生した記録と同じパターンである。
──昨夜の原因はフリージャー号らしいぞ!──

 しかし同型船の調査結果である。問題はフリージャー号である。確証が欲しい!

  半月経ったある日、「フリージャー号が和歌山県の海南港に入港する。そこを出港した後、当分日本には寄港しない」という情報を掴んだ。このチャンスを逃したら、もう二度と調査の機会はない。

 直ちに調査開始である。坂井係長と野田担当、津支店(現在の三重支店)火力部から板倉担当も急遽駆けつけ、測定機材をライトバンに積み込み,42号線を海南港に向け船を捕らまえにひた走った。この後を尾鷲市公害対策課の車が、遅れじと追いかけるように走った。

 翌日、海岸で測定した結果は、あの日の状況と、全く同じであった。
──原因は特定できた!──

 ほどなくして、再び安芸川丸が尾鷲港に入港した。

 一連の調査結果を聞かれていた東邦石油株の北村工場長は、再現調査のため揚油作業の終わりがけに、
「一度船のエンジンを停止させてみよ!」

 指示のあと暫くすると、またまた大きなビリビリが発生した。

 安芸川丸のエンジンの起動、停止、即ちバーナーを順次点火、または消火する段階で、一時的に燃焼状態が不安定となる。このとき煙突と化粧板が振動して10ヘルツの微振動が大発生するのであった。

  こうして過日の大騒動の原因は、フリージャー号であり、同型の安芸川丸でも同様な現象が発生することを突き止め、ようやく“火力発電所には関係ない”ことが証明され、冤罪(えんざい)を免れたのである。

 その後、火力発電所の一、二号機には低周波対策用のサイレンサーが設置され、昭和62年6月増設された三号機には防音壁や諸対策の結果、火力によるビリビリ公害は一挙に解決した。

 また、日本船舶協会と船舶用ボイラメーカーによる、タンカー側の防止対策が検討され、『尾鷲モード』なる運転操作要領が確立されて、その後はタンカーによるビリビリ公害の発生も聞いていない。

 東大西脇名誉教授は、その後叙勲されるなど輝かしい日々の後、他界された。一方、市民の矢面に立って尾鷲市の公害行政に当たられた森本公害対策課長も、既に鬼籍入りされている。

 ビリビリ公害に係わった者として、一陣の風去ったの感がする問題であった。
 もう遠い昔の話である。
                              (「わだち」第九、十号より)
 
                                                △作品 バック目次へ
作品−11  空っ風の恋(その一)
                                       波多野 芳泉


 空っ風で有名な群馬県高崎へ朝早く着く。正月の二日にしては暖かい朝である。
 榛名山のふもとに住む、浜名雅恵に逢うためである。

 彼女とは文芸雑誌の投稿で知り合い、ペンフレンドとして、二年ばかり文通をしていた。お互いに農家の生まれで、話題が合っていた。

 駅前には、文通の写真で知っている雅恵が赤いコートにライトブルーのバッグを持って立っていた。新春らしい明るい装いだ。中肉中背で色白丸顔の雅恵は、写真より可愛かった。

「浜名さんお早うございます。永くお待ちになりました?」
「おめでとうございます。先程着いたばかりなの」と笑顔で答えた。
 初対面のような気がしない。

「遠い所で、お疲れでしたでしょう。朝食はどうなさいましたの」
「まだですから、モーニングコーヒーを」
「コーヒーのおいしいお店を知っているの」

 雅恵は先に立って駅前喫茶店に入った。しゃれた若い女性好みの明るい店であった。

「コーヒーとトースト、二つ」と雅恵が、さっさとオーダーをする。
「コースも宿もお任せですから、お願いします」
「今日は暖かくて助かりますね。高崎から榛名湖を廻り、伊香保へ行きましょうね」
「宿を予約していないが、大丈夫ですか」
「群馬は温泉が多いから、宿は心配しなくていいわ」と雅恵は答える。

 店を出て、駅前から、観音山公園行きのバスに乗る。すぐに着いて、高崎市のシンボル、白衣観音に登る。41.8米の巨大なもので展望台になっている。榛名、赤城、妙義の、上毛三山の眺望が美しい。

「お江戸見たけりゃ、高崎田町」と唄われ、江戸時代の関東唯一の都市といわれ、製粉、製紙、製材の中心地だった高崎の街が眼下に広がっている。

「私の家はあちらよ」と雅恵は指をさす。近くの洞窟観音にも参詣をする。中には多くの仏像が安置されていた。

  そこから榛名湖行きのバスで、榛名神社前にて下車して、初詣をする。初占は大吉であった。広い境内は由緒を偲ばせる。元日には多くの参拝者で混雑したと思われた。
「この神社に縁結びの神様が祀られていますのよ」と雅恵はニコッと笑った。

 続いて榛名湖を散策する。暖冬で氷も張らず、スケートを楽しめない家族連れが、残念そうに湖を見つめていた。榛名山が湖に映えて、一幅の墨絵を見る様だった。

 榛名山の夕映えを背にして、伊香保に向う。伊香保温泉旅館案内所に行く。「家族連れが多くて空室がないが、キャンセルを当たりますから、しばらく待って下さい」といわれ、予約をしなくて来たから、心配していたが、それが的中してしまった。

 しばらくして「空室がありましたよ」と老案内人から連絡があって、ホッとする。
 宿から迎えが来て、後に続く。旅館は純和風の大きな宿である。部屋は二間続きの和室で、食事の前に温泉に入る。

 男湯、女湯と離れているが、内に入ってびっくりした。男女混浴であった。二十五米プールの様な大きな浴室である。

 湯気で人の顔は見えない、家族連れの子供達は、プールよろしく水泳をしている。
 つられて泳いでみるが、湯の中では泳ぎにくい。端まで平泳ぎで泳げ、自信を持った。

 部屋へ戻ると、食事が並べられている。
「長湯でお疲れでしょう」
「いや大丈夫ですよ」
「泳ぎは上手でしたね」
「どこで見ていたの」
 雅恵は笑っていた。

 二人は新婚の様に向き合って食卓につく。
「上州の地酒『空っ風』で乾杯」
「宿があってよかったね」
「大丈夫と油断して、ご心配をかけました」

 少しの酒で陽気になり、お互いに故郷のこと、家族のこと、仕事のことなどを話し合いながら、知らない間に食事を終わっていた。
「湯の街探検に出掛けますか」

  四百年の歴史ある湯の街伊香保の三六〇段の石段を登る。両側の店から、名物の「湯の花まんじゅう」のセイロの湯気が立っている。
 上の方に徳富蘆花の文学碑を見てから引き返す。
 いつの間にか二人は手を握り合っていた。

 宿に戻ると、部屋にはふとんが並べて敷かれている。
「婚前旅行でもないのにね」と顔を赤らめる。
「奥の部屋に雅恵さんは休んでね」とふとん一組を奥の部屋に移す。
「もう一度湯に入ってくるからね」と部屋を出る。

 ついつい長湯となり、すっかり疲れて部屋に戻り、ふとんを深くかぶって寝たが、なかなか寝つかれない。隣の部屋で雅恵が寝ていると思うと。

 翌朝は早目に起きて、朝湯に行って帰ると、部屋では雅恵が早々と起きて、化粧を済ませていた。
「昨夜はよく寝られました?」
「寝つかれなくて睡眠不足ですよ」
「私もそうだったの」

 昨夜はおそかったので、今朝はゆっくりでいいと女中さんに頼んだが、早くも朝食が出てきた。

  帰り支度をして、温泉前からバスで渋川を経て、前橋駅へ出て、駅前の「上州屋」で名物うどんを食べる。うす味でおいしかった。
 駅のプラットホームで
「次は名古屋で逢いましょう」
「また逢えるとうれしいわ」

 発車ベルに促されて握手をする。雅恵の手は暖かかった。
「さようなら、榛名山、さようなら雅恵」

 雅恵の手のぬくもりを抱きながら、旅の余韻を味わっていた。雅恵の想像以上に明るく、カラッとした性格は、カカア天下の伝統と、空っ風の風土からくる上州気質であろうか。
 東京からは疲れが出たか寝てしまって、名古屋直前で目が覚めて、あわてて降りる。

 
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作品−10 こだま――自分史出版への響き──
                                  村上好一

1、感動の日

「おめでとう!」
 平成12年11月29日早朝。自分史友の会の会長堀田孝夫さんからの電話。
「エッ! 何のことでしょうか」と返事につまる。
「今朝の中日新聞に、あなたの自分史出版の事が出ていますよ。ほんとうにおめでとう」
「そうですか。私はまだ見ていないですが、ありがとうございます」
早速、新聞を見てびっくり。写真まで出ている。

――11月24日、木野瀬印刷から『運に恵まれた男の記』製本200冊を受け取ったとき、営業所長高橋明治さんから「中日新聞社から声がかかるかも知れないが、よろしく願います」との話があったが、気にも留めていなかった。

 ところが、28日に中日新聞の記者滝沢隆史さんからインタビューの申し入れがあり、会って話した。まさか新聞に載るとは思ってもいなかった――。

 続いて副会長の大沢今朝夫さん始め、市会議員の伊藤太さん(ご尊父のときから厚誼をいただいている方)や油彩クラブの林泰二先生から祝辞の電話がかかってきた。

 このあと外で知人と会う度に「おめでとう」の声をかけられた。思いもかけず私の生涯で”感動の日”となった。

2、響くこだま

 傘寿記念として自費出版の本は先ず、文化フォーラム春日井の「日本自分史センター」に寄贈すると共に、自分史講座でお世話になった平岡俊佑先生へお贈りした。

  拙文で赤裸々に書いたものだから、恥ずかしさ照れくささが多分にあったが、何かの役にたてばと思いなおして、12月早々から、年末の挨拶を兼ねて送配本を始めた。

  親戚へは家系図(村上・林田・国本・本多の四家)総覧を添えて贈った。
  在学当時の同窓生・同期生、戦友、戦後在職のときからの友人・知人、退職後入会の俳句クラブ・油彩クラブ・自分史友の会などの方々へも贈った。

間もなくして、祝辞と共に予想外の反響が次々に返ってきた。

            *
 鳥取商業学校の同窓生からの来信には、自分史の内容に感銘すると共に、在学当時のことや戦時中のことを改めて懐かしく思い出すことが出来たと称賛し、それぞれの体験のことが書かれてあった。初耳のことが多く私も感動している。

 陸軍騎兵学校の同期生145名は軍務で生死に直面する苛酷な道を歩き、戦死や病没して現在の生存者は53名。自分史は親交の続いている諸兄にしか贈らなかったが、全員から出版への賛辞・感謝・激励の言葉を戴いている。

「村上の記事を読んで体験記を書く意欲を啓発させられた」と言う方もあった。

            *
 軍務当時のことで私が知らなかったことを教えられ、感謝していること2つ。

 木下荘之介さん(陸士五十六期生、昭和18年1月より満州勃利の捜索隊第二中隊で共に勤務。兵庫県八鹿町に居住)からの来信で、昭和19年1月、私が大阪に転任とすれ違いに、隅倉秋寿大尉(私が千葉の騎兵学校当時の教官)が中隊長に着任。

 同2月動員下令により中隊は戦車十一連隊に配属され千島に移動。内山錦吾少尉・木下荘之介少尉・楢崎少尉の各小隊長、以下98名。中千島ウルップ島で1年余を戦車壕と道路つくりが主で食糧不足・栄養失調患者続出。終戦でソ連に抑留。
木下少尉は千葉の戦車学校に勤務していたので無事だったとのことが判った。

 八牧美喜子先生(俳句で厚誼をいただいている『はららご』主宰)からの来信で、先生のご主人通泰さんが陸軍航空士官学校を卒業して、昭和20年5月より満州勃利近郊の青山堡飛行場に勤務。私とは1年余の時差であるが、同じ所に居られた奇縁が判った。

            *
 戦後在職の鉱工品貿易公団・通産省・建設会社の友人・知人や現在身近に親交の自分史友の会・俳句クラブ・油彩クラブなどの同好会員、知人からも称賛と激励の書状や言葉を戴いている。

            *
 親戚の方々からは、本文を読んで古き時代のことを改めて懐かしく思い出すことができた感動と賛辞があった。特に家系図には感謝され、家系図は初めて見たという方が多かったのには驚いた。これにより今後広範囲の各家の詳細系図を整備して贈りたいと思っている。

            *
  自分史出版に対して、かくも多くの方々からの祝福、賛辞、激励を戴くとは予想もしていなかった。感謝、感激の衝撃が続いている。このよき【こだま】を大事に保存し、今後の人生へのバックミュージックとして頑張ろうと思っている。
 
 

                             △作品 バック目次へ
 作品ー9 Mさんと私
                          遠藤 毅


 「今度新京放送局へ赴任してくるMを知ってるか?
W大を中退した問題児だと言うぜ」放送局員が二人
廊下でひそひそ話している。

 たまたま放送劇(ラジオドラマ)の練習に呼び出されていた小学校六年生の僕の耳
に、珍しいMさんの姓が残った。

 新任のアナウンサーMさんが劇団員に紹介されたのは、練習の時だった。面長色
白で背が高く三十歳位で髪は黒く、細い目がにこやかである。

 早速「アイヌの英雄・コシャマイン記」のコシャマインをMさんが受け持つことになった。

 僕はその子供時代の役だった。読み合わせの後、Mさんはお碗を使った馬の足音、
小豆の入った柳行李を揺さぶって浜辺の波音、がやがやの話し声を一人でこなすなど
擬音にも器用な面を見せてくれた。

 どこが問題児?と思いながら、Mさんの明るい人柄と能力に引かれていった。 

「僕は猫が喜ぶ時のしぐさを知ってるんですよ。ほら」
Mさんは左手を招き猫のように軽く握って曲げ、右手もこれに添えて左側に挙げて、
右足で音を立てずに飛び上がり「ニャオー」と鳴いてみせた。

 本来は声の出演だけの新京放送劇団が、一日だけ舞台公演をすることになり、その
練習である。演目は「青い鳥」だ。
Mさんは動物の国でチルチルミチルを迎える「猫の精」。僕は吠えながら走り回る
だけの「犬の精」だ。

 生まれて初めてドーラン化粧をする。化粧落としが楽なように先ずコールドクリーム
を顔に塗りなさいと言われ、毒々しい色が落ちなかったら大変だと、顔が白くなるほど
たっぷり塗ってMさんの前に座る。

「こりゃ塗りすぎだよ」とガーゼで落としてくれながら、Mさんは筆をとって、目のまわり
が黒い可愛い犬の顔を作ってくれた。Mさんは自分で顔を作る。髭がピンと張った
威張った顔の猫である。何でも出来る人だなと感心した。

 昭和十六年、中学校へ入学した。太平洋戦争の直前で、四キロの徒歩通学は
国防色(カーキ色)の制服に戦闘帽、豚革の編み上げ靴にゲートル着用、背のう型の
カバンのスタイルである。軟弱を排して滅私奉公と教えられた。

 当時のラジオ放送はほとんどが生放送であり、ドラマも例外ではなかった。

 或る時、学校行事の教練があり、早引けしないと放送に間に合わない。 
「困った。学校へは届けて無いし『軟弱なドラマと国の為の教練とどちらが大事か』
などと言われたら嫌だな」とぐずぐずしていたら、担任の教師に呼び出された。

「父上から電話があった。種痘だそうだな。帰って宜しい」と早退けが許可された。
「種痘?」と一瞬考えたが時間が大事である。
放送局へ直行し、本番五分前にやっと間に合った。

「危なかったな。間に合わなかったら、僕が君の代役をやろうとしてたんだぜ」と、
出演者たちの非難の眼が集まる中で、ぼそりとMさんに言われた。
「放送があるので」の電話を教師は『放送−疱瘡−種痘』と勘違いされたらしい。
 こんな中学生に、それからはドラマ出演の誘いは途絶えた。

 昭和二十年の暮れ、敗戦後の新京(現中国長春)でMさんが劇団を旗揚げしたと
聞いた。懐かしい気持ちはあっても、家を失って8人家族が毎日食糧を得るのに精
一杯だった僕には、関係の無い事だった。

 日本へ家族ぐるみ引き揚げて、付近の農村への塩干魚の行商から帰ると唯一の楽
しみだったラジオを聞いた。

 森繁久弥の名が聞こえる。Mさんと同姓同名であるが、超有名人の徳川無声との
対談に出てくるわけがないと思いながら聞いたが、経歴を聞くと間違いない。
あのMさんが森繁久弥その人だった。

 その後の彼の芸能界での活躍は、よく知られている。
 Mさんはこんなに凄い能力のある人だったのだと感服し、かつて親しく声を掛けて 
貰ったことを誇らしく思いながら、「芸能は軟弱」と力み返って迷惑を掛けていた自分
が恥ずかしく、いまだに手紙の一通も出せずにいる。 
                                    (わだち第3号より)


 今年になって、米寿を迎えられた森繁久彌氏に、思い切ってお祝いの言葉と六十年
のご無沙汰の陳謝の書簡と共に「Mさんと私」の小文をお送りした。
 思いがけず早速に心情あふれる直筆のハガキを戴いて嬉しかった。貴重なハガキ
は、書斎の宝としている。


 
                                  △作品 バック目次へ
 作品−8 
私の Vita Sexualis ──幼い日の二人だけの秘密──
          
                                    高木 眞澄 

 わが家の小路口(しょうじぐち)を通る田舎道は、荷車が
やっとすり違えるほど狭いのに村一番人通りが多かった。

「今年の正月は寒びいなあ。ところでお前(みゃあ)姫始め済みゃあたかえ?
 おら、夕んべなあ……」

「馬鹿こくな。おらお嬶(かあ)と夜なべ仕事に精出すより、大酒飲んで三升樽
抱えて寝たほがよっぽど極楽や」

 こどもにはさっぱり訳の解らぬ話をしながら、村人が坂道を下っていった。そ
れにしても、「お姫さま」や「極楽さま」と言っていたから、大人にとってよっ
ぽど楽しいことに違いないと思った。

 年末に婆さまが襷がけで黄ばんだ障子を張り替え、せっせと拭き掃除をしてく
れたお陰で大黒柱も板戸も黒光りを放っていた。爺さまは搗きたての紅白の餅を
小さく千切り、えんごろ(猫柳)の枝先にくっつけて縁起物の正月飾りを作り鴨
居に飾ってくれたから、平素は薄暗い部屋が見違えるほど華やいで見えた。

 正月三ケ日も終わろうとする昼下がり、爺さまはお手継ぎの寺(菩提寺)ヘ初
詣りに、また、婆さまは隣近所へ正月の遅がけのあいさつ回りにと出掛けたから、
一人ぽっちで留守番をさせられた。

 身内の鍛冶屋のトミちやん(トミエ)はボクと同級生で、この四月から小学校二年生になる。

 彼女たち四人姉妹は田舎育ちに似合わず、目鼻立ちが整い色白な別嬪揃いとあって村中の評判だった。

 中でも末っ子のトミちやんが一番器量よしだと、女の子をもつ近所のお内儀さんたちをけなる(羨まし)がらせていた。

 そのトミちやんが、正月用に下ろした一張羅の着物を着て遊びにきた。久留米
の赤い絣模様や黄色い兵児帯の絞り柄、市松模様の綿入れの羽織紐や桃色のコー
ルテンの足袋の色彩が、煤けた部屋に色香を漂わせた。冬場、こどもたちは男女
を問わず、メリヤスの地厚なシャツと前割れの股引を、直に肌身へ着けていた。

 こどもの正月遊びには、双六と犬棒歌留多が欠かせなかった。小倉百人一首は
歌の意味が解らず、坊主めくりと化した。二人は勝った負けたのはしやぎ過ぎで
遊び疲れてしまった。

 「トミちやん。ボク腹減ったで、一緒に餅焼いて食べよみゃあか」
 火鉢の埋火に炭を継ぎ足し、五徳の上の金網に餅を載せた。両面とも色よく焦
げ、やがて餅がプクーンと小さな音を立てて膨らんだ。それを皿に移した瞬間、
焦げ目に砂糖だまり(醤油)がジユーと染み込みヘナへナと萎んだ。

 箸に挟んで食い千切ろうと引っ張ったら、長くのび切って最後にプツンと切れた。
その拍子に熱い餅の中身が、頬っぺたにぺタンと貼り付き火傷するほど熱かった。

 二人は満腹し遊びにも飽きた。夜来の小雪が遊んでいる間に、ボタ雪となって
吹き降りとなった。
「マスミ(眞澄)ちやん、寒うなったなあ……。布団を被ってドボンコショに入ろみゃあ
か」

 縁側に近い畳一畳を上げたところが、ドボンコショ(切り炬燵)になっていた。
 竈のおき火を底に入れ、丈夫な木作りのサナの上へ足を載せて、腰から下に布団
を掛け暖をとるようにしてあった。

 トミちやんに誘われ、二人で一緒に頭から布団を被って潜り込んだ。布団の隙
間から微かな光が射すだけで、相手の顔さへ定かでなかった。内部は予想より狭
く、互いの足がもつれ合ったり、さては股間に入るなど……。
 でも、無邪気なこども心には、別段、気に止めることではなかった。

 やっと身体が暖まったころ、トミちやんが私の耳元へそっと口を寄せ小声でさ
さやいた。

「あのよう、マスミちやん。私(わたゃあ)があんたの身体に触っても声出しゃあす
なえ」
 と、言うが早いかやにわにトミちやんの腕がのび、ボクの股引の開口部を探し
当てた指先がヌッーと入ってきた。ボクは予想だにしない突然の事態に狼狽し、
トミちやんの手首をつかんでつい叫んでしまった。

「なにしやあす、トミちやん。決まり悪りゆうから、早よ止めてやめて!」
「シイッ。声出したらあかんと言ったのに! ウッフン、あんたも早よう私の……」

 トミちやんは咄嵯にボクの右手を取り、着物の裾から奥へ引き入れてしまった。
不思議だった。そこには何もなかった。ボクの指先は、生温いぬめり気のある異
様な軟体動物に絡まれ、脳天が真っ白になった。

【閑話休題】 昔から富岡に伝承されてきた盆踊りは、太平洋戦争が激化した昭和
17年を最後に途絶えてしまった。その伝統的な盆踊りを覚えているのは、今や
私の老母(93歳)と近所の老爺の二人だけだ。昭和5年7月下旬発行の愛知新聞
の切り抜きを偶然に手に入れた。「犬山地方でたった一つ残る貴重な郷土芸能
『富岡の盆踊り』」と題し、世評が高くてJOCKからも放送されたことなど、詳しく
報じていた。

 実はその一曲に「オチョケ(おどけ)のぞき節」という、男踊り用に振り付けされた卑猥な盆踊りがある。

 ♪ オチョケ ヤレ のぞきはエー
   ササ この世のものかエー
   お釈迦さまでも目を回すゾエー
   わしはこの目で確と見たはエー

 古来から男はド助平であったらしい。その形態や機能を「露骨な名文句?」で、微に入り細に入り生々しく歌い込んだのが「オチョケのぞき節」である。このあとに続く歌詞を、私はとても紹介する勇気がない。

 かつて先祖たちが「ササ、この世のものかエー」とたまげた可愛い観音さまに、
ボクは迂闊にも触れてしまった。やっとわれに返った時、ボグの小さなご神体は、
まだ、彼女の柔らかい手の平に包まれていた。

「このこと、絶対に二人だけの秘密やぜ。誰にも話したらあかん!」
 トミちやんは、きつい目付きでボクをたしなめた。平素、「○○ちやんと××
ちやんは怒蓮根(おこれんこん)。ネンネができたらどうしゃあす」と、無邪気
に囃し立てていた「わらべ唄」がふと脳裏をよぎった。

           長じてトミちやんは高等女学校へ、ボクは旧制中学校へと進学した。彼女が澄
まし顔でセーラー服のスカートをユラユラなびかせて通学する後姿を見るにつ
け、ボクは脳(のう)ましくてドキンドキンと胸が高鳴った。

 昭和 25年、春爛漫の4月のことだった。トミちやんは故郷を捨ててイッチッチ、
ボクのことなんか忘れてイッチッチ。艶やかな花嫁姿で遠くの町ヘイッチッチ……。

 小夜嵐に舞う桜の花びらは何事も知らずおぽろ月夜にきらめく川面を、ボクの
指先に残る得も言われぬ不思議な感触を載せ彼女の嫁ぎ先目指してゆっくりと
下っていった。

ボクの耳にせせらぎの音を残して……。


 
 
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特別寄稿
作品−7 海の蛍
                                 講師  平岡 俊佑

 疎開した夏の初め、担任のジンジロ先生が声をあら
ためて「聞け!」と言った。

 神野次郎、今ならアメリカ映画の登場人物のように
JJ とでも呼ばれるかもしれない。
 背が高く痩せていて、いつも目玉をギョロギョロ光ら
せている男先生の雰囲気にぴったりの渾名だった。

 ジンジロ先生は、黒板にまず円を描いた。つづいて、
その円の下にたわんだ網のようなものを描き足した。

「あ、タモだ」
 クラスのガキ大将が叫んだ。
「そうだ。魚をすくうタモに似てるな。大きさも同しくらいでいいぞ。ただし……」

 先生は、たも状の円の中央に一本の線を描いた。
「ここに、もう1本、針金をわたす」
「ふうん、わからん」
 ガキ大将がつぶやく。

 先生は、タモの縁の3点からたこ糸で吊り下げるのだと言い、さらに、太めの竹竿を
描き足していった。できあがった図は、全体が「棹秤」に似たかたちとなった。

 それから先生は、2日後までに全員が1つずつ作ってくるように、それがこの夏の
第一の宿題だと言った。
「なんで?」
「なにするの?」
 クラスの大半の子たちが口々にざわめきの声を上げた。
「いま、兵隊さんたちが……」

 先生は、そこで背筋をピンと伸ばして、いっそう声をはり上げた。
「支那で、仏印で、南方諸島で、勇ましく戦っているのは知っているな?」

  その兵隊さんたちが夜戦で地図を見るのに使う特殊な懐中電灯の材料として「海
蛍」を集めるための道具がこれだ、と先生は話をつづけた。夜の戦いでは、マッチ
ー本すっても夜間飛行の敵偵察機に発見されてしまう。だが、「海蛍」で作った懐中
電灯なら敵に発見されることはない。海辺に住む少国民として、「海蛍」を集めて御国
のために奉公するのだ、先生はこう言って口を結んだ。

        *
 道具が出来上がった日の夜、クラスの全員は先生とともに港の突堤に並んだ。
 網の部分に使い古しの蚊帳、円にさしわたした針金には鯖の頭などの餌。それを
海に沈めて待っていると、餌にあたる魚のアラの部分を中心に、ぼうっとした光が
集まるようになってくる。

 頃合いを見て引き上げると、漆黒の闇の中でひときわ輝く小さな生物がある。
それは、虱ぐらいの大きさの柔らかな殻をもつ貝の一種で、波の中を漂う夜光虫とは
違うものであることを初めて知った。

        *
 次の日から、天気の良い夜には、突堤は男子生徒であふれるようになった。
 海に沈めた餌に群がる海蛍をひたすら待ちつづける子どもたち。やがて、引き上げ
られた網の上には、小さいながら強烈な星屑のような光が飛び散る。

 海蛍は、ほとんど動かない。そして、水から引き上げられるとじきに死んでしまう。
子どもたちは指先を青紫色に染めながら、すでに死にかかっている小さな小さな貝を
空き缶に拾い集めるのである。

  一晩の収獲は、家に持ち帰ってよく乾かさなければならない。そして、一定の量が
溜まったら学校へ持っていった。
 だが、ただ一人縁故疎開した先の家では、何かにつけて辛くあたる伯母が、「家中が
臭くなる。家では干すな」と厳命した。じっさい、海蛍は強烈な悪臭をはなつのである。

        *
  夏体みの昼の突堤は、家で干すことを禁じられた子どもたちが集まる場となった。
夜の収獲、昼の乾燥作業と、突堤で昼も夜も過ごす日々が多くなった。
 突堤のかわいたコンクリートの上で、自分の領域を守りながら前夜に獲ったわずか
な海蛍を干す間にも、そいつは強烈な臭いをまきちらし、”死”の連想を運んできた。

 疎開する前、一度だけ見た街の空襲の傷痕。吹き飛ぱされて電柱にからみついて
いた人間の手足、母親の背中におぶさったまま、不発焼夷弾の直撃で頭をなくした
赤ちゃん──。
 現実の死の光景と、小さな海蛍の”死”とが、頭のどこかで結びついて離れなかった。

 空の要塞と敵が誇ったB29が昼間も堂々と大都会を襲うようになると、海辺の小さ
な突堤も安全な場所ではなくなった。

 護衛についてきた艦載機グラマンが、機体を軽くするためか、それとも面白
半分か、町の窯屋の赤煉瓦の煙突に機銃弾で穴をあけたり、突堤の子どもたちを
狙い撃ちしていくようになったのである。

 ある日、執拗に反転を繰り返し、突堤上に弾丸を浴びせていく飛行機をふと見上げ
たとき、金髪で頬の赤い操縦士の顔がちらりと見え、その顔がまだ初々しい少年のよ
うな印象を与えたことも忘れられない。

 その日、突堤の子どもたちはうまく逃げおおせたが、沖の小舟で鱚釣りをしていた老
人が頭を撃ち抜かれ、不発弾を拾った六年生がひとり、金槌でそれを叩いて即死した。

 国民学校三年生の夏から秋にかけて、ひたすら集めた海蛍は、学校中で大きな
叺(かます)2杯分にもなった。
 校長先生は褒めたたえ、「君たちの努力は、きっと皇軍のお役に立つだろう」と結ん
だ。

 海蛍を人れた2つの叺は、うやうやしく”安置”され
るように、体育器具倉庫の片隅に置かれた。だが、
その叺は、いつまでたっても運ばれることはなかった。

 そして翌年の夏、子どもたちの目から、「そろそろ、
今年も海蛍とりが始まるかなあ」という声が出かかった
頃、戦争は突然終わった。

 2つの叺の海蛍の行方は、どうなったのか、今も頭
をかすめることがあるが、誰からも聞かされてはいな
い。

                

 
 

                            △作品 バック目次へ  
作品−6 巣立ち
                         
山田 泰良

 「死んでやる、死んでやる!」
 大声で泣き喚きながら、一キロ先の五十鈴川上流まで走りに走った。途中、涙が出
なくなり、声も出ないようになった。でも走った。

 伊勢神宮の御手洗場下流に水深十メートルぐらいの真っ青な深みがある。そこに飛
び込めば死ねると信じて走ってきた。
いよいよたどりついて、飛び込もうとしたとき、
ハッと気がついた。
「あーっ、自分は泳げる。

だめだ。ここに飛び込んでも死ぬ
ことはできない」
 我が人生を自覚した始まりであった。

 昭和二十年七月、B29が落とし
た 一発の不発焼夷弾。当時、消
防団員だった父が、この不発弾を
処理中に爆発。

 顔面に大火傷を負い、五キロ先の外科病院にそのまま担ぎ込まれた。 

 母には小学校四年の娘がいるので、六年生の自分が父の付添いについた。

 顔中包帯をして、失明するかもしれない父の手を引き用足しにも連れていく。「右、左」
と声を出しながら介添えをして一緒に歩くが、父は1メートル80センチはある長身。

 自分は特別背が低いので声が聞きとれないのか、柱に顔などぶつける度に、ものす
ごい剣幕で「親を馬鹿にするな!」と、父は手を振り上げる。

 当時は病院でも自炊生活で、困ったのは炊いている最中でもお釜ごとご飯が盗ま
れる始末。洗濯物も知らぬ間に全部なくなってしまったことがあった。

 そんな中、忘れられない出来事もあった。八月の暑い日、米軍の艦載機が病院
近くを機銃掃射して行き、ほんとに天と地がひっくり返るような恐ろしさだった。

 その最中、父は「俺の身体の下に潜れ。父ちゃんは死んでもよいから、お前は
生きよ」と大声で叫んでくれたのだ。言われたとおり父の身体の下に潜り、ほんの短い
時間ながら、嬉しくて涙が流れた。

 八月十五日、我が家に米をとりに帰った。空襲が恐ろしいので古市の田舎道を歩い
ていく。古市は、昔は大勢の人々で賑わったとは思えないほど淋しい町並みだった。

  母と二人、足踏臼で玄米を搗いているとき、ラジオからの天皇の声を聞いた。
 もう一力月早ければ父の不幸もなかったのに……と残念。でも、これで空襲におび
えることはないだろうと嬉しかった。

 当時、父は名古屋の三菱工場に勤める身であったが、終戦時は結核で古里療養
中だった。だが、終戦により三菱からの送金が打ち切られた。追い打ちをかけるよう
に、市からの治療費も打ち切られ、家にあるだけの金を払って大急ぎで逃げるように
退院した。

 国中に戦争犠牲者があふれており、食う物がなかったが、とりわけ我が家は悲惨だ
った。父は半病人、母は元気だったが働く所もない。子どもは七力月の乳飲み子と小
四の妹と六年生の自分。

 貧しい五人家族の我が家は今日も朝から夫婦喧嘩。もう慣れてしまって聞き流す
ようにしていた。それよりも、とにかく腹がへって仕方がない。そのとき、喧嘩の声に耳
を止めた。

 母が叫んでいる。
「もう金もない。着る物もなくなった。でも、他人のあの子さえいなければ、どんな苦労
もできる。誰の子かわからない子どもを貰って一緒に住むのはもうイヤ。私かあの子
か、どちらかがこの家から出ていかなければ厭です。一緒に生活できません」

 母は、自分が二歳ぐらいのときに、子連れで後妻に来た人である。だが、父だけは
実父だと信じていたから、もう頭を金槌で殴られたような衝撃だった。

 何が何だかわからなくなり、「死んでやる!」と家を飛び出したのだった。
 五十鈴川に飛び込んでも死ねないとわかり、少し冷静になったところで考えた。

「そうだ、自分は一度は死んだ人間だと思えばいい。死んだつもりなら何でもできる。
これからは養父母に尽くそう。今日までのお返しに……」と。だが、心には寂しさが
あふれ、涙がとめどなく流れた。

 我が家に帰り着き、なかなか入ることができなかったが、思い切って父母の前に足を
運んだ。
「父ちゃん、母ちやん、僕、これがら一生懸命働くから家に置いてください」とだけは言
ったが、あとのことは全然覚えていない。

 それから、朝は新聞配達をした。当時は各社の新聞を全部持って配達するため、
よく間違えて叱られたものだ。新聞配達が終われば、パンの配給受取の代行。

 当時、米の代わりにパンの配給もあった。引換券を各家庭から集め、五キロ先の
新道町までノーパンクの自転車でパンを受け取りに行った。

 背が低い自分はサドルに座ったのではペダルに足が届かないので、横乗りで行く。
上り坂はとても苦しいが、下り坂ではサドルに乗ってとても楽しい。

 出来たてを待って受け取り、すぐ配達したのでどの家庭でも喜ばれた。パン屋が
一個余分にくれるので、たまらなく嬉しかった。そのパンさえ食べずに売り、小遣いを
貯めて鶏を買い増しした。肉や卵が貴重品の時代だから飛ぶように売れて儲かった。
何よりも、養父母が喜んでくれるのが嬉しかった。

 夏になるとアイスキャンデー売りもした。これは、前もって商品を買い取りしなけれ
ばいけない。暑い日はどんどん溶けるから困ったが、大人も子どももよく買ってくれた。

 途中、「溶けたのを安く売れ」と大人は言う。半分以上溶けたのは友達に無料でや
ると、商売を手伝ってくれる。今でいうところの口コミで宣伝もしてくれる。

 卵がある。製造所からすぐに運ぶパンがうまい。パンのお得意が増えると余禄が
多くなる。だが、儲けの少ないキャンデーもやめられなかった。

 何より嬉しかったのは、少しずつ生活がラクになり、夫婦喧嘩がなくなったことだ。
養母がいつも、「貯金をしておいでやるからね。いつか返すからね」と口癖のように言
った。

 小学校高等科の一年、二年は、このようにどさくさの
中でほとんど学校には行かなかった。先生は家まで
来ても、何も言わずに帰ることが多かった。

 新制中学三年生は、一力月ほど行っただけで卒業した。

 貰われっ子と知り、泣いて泣いて……、死ぬのを諦め
てから、万分の一かの恩返しをすることができただろうか。

 このようにして私は巣立ちをした。

            自分史「泰っさんの人生」 より



                  


 
 

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作品−5 狂った歯車
                                       中尾 信義

 私と三つちがいの兄は陸軍士官学校(陸士)第六十一期生、即ち、帝国陸軍最後の
将校生徒であった。

 昭和十九年の秋、ようやく難関を突破して憧れの士官学校に入校したものの一年
足らずで敗戦。夢破れ挫折した若者の胸のうちは如何なるものであったろうか。

 敗戦の日を境に世の中の価値観は180度転換、新しい時代に上手に適応できる人
たちもいたが、うまく切り替えの出来ないまま、噛み合わせの悪い歯車のようにぎくし
ゃくした人生を生きてきた人もいた――。

 失意の帰郷
 昭和二十年八月の終わり――。兄は在校していた
陸軍士官学校が廃校になり、東京から幾つもの汽車
を乗り継ぎながらようやく故郷の駅にたどり着いた。

 憔悴した顔、力のない眼差し、それに着ているカーキ
色の制服は草臥れ、襟章のもぎとられた痕が無残にも
のこっており、まさに憐れな敗残兵そのものの姿であっ
た。

 一年ぶりに降りた故里の駅からみる村の佇まいは以前と少しも変わっていなかっ
た。兄は一年ほど前、ここで村の人々や親族に歓呼の声に送られて出発したときの
華やかな光景を思い出した。それにひきかえ、尾羽打ち枯らした今の姿がなんとも
情けなかった。

 奇異な行動
 帰郷した兄は翌朝、先ず裏庭に出て宮城のある東の空に向かって二礼二拍手一礼
して恭しく拝礼する。しばらく間をおいてから、一つ、軍人は忠節を盡すを本文とすべ
し、一つ、軍人は礼儀を正しくすべし……と軍人勅諭の五か条を朗々と唱えるのである。

 そして、それは毎朝の兄の日課になってしまった。父も母も兄の頭がおかしくなった
のではないかと気をもんだ。母は我慢できなくなり「近所の手前、恥かしかけん、もう
やめてくれ」と何度も諭したが兄は聞き入れようともせず来る日も来る日も同じことを
続けていた。

 日の丸の国旗事件
 十一月三日は敗戦までは〈明治節〉、明治天皇の生誕記念の祝祭日として全国的に
大々的に記念式典など開催されていたが、戦争に負けたのだからそんなことが出来
るはずがない。しかし、兄は父の注意も聞き入れず一人で〈明治節〉を祝って朝早く
から玄関に日の丸の旗を掲揚し秋風にはためく日の丸をうっとりと見上げていた。

 兄が外出していた昼間、家の前をジープで通りかかった進駐軍のアメリカ兵に日の
丸の国旗が目にとまり、アメリカ兵は旗竿から日の丸の旗を引きちぎるように奪い
去っていった。

 外出からもどってきた兄に事情を説明すると、兄は血相を変えて「なにーぃ? 
旗ばもっていかれた……? ばかたれ!」と言うなり兄の拳が私の頬にとんできた。

 怒りのあまり蒼ざめた顔の兄は奥の座敷に入り、天皇陛下の御真影が掛けてある
床の間の前に正座して平身低頭した。とんでもない失態を涙ながらに詫びていたの
であろうか、兄の肩は小刻みに震えていた。

 尊敬する人物は東條英機?
 その後、国立大学の応用化学科に進学した兄は、卒業の年にある大手の化学メー
カーの就職試験で、とんでもない事をしでかす。最終の重役面接のときである。試験
官の一人が質問した。

「あなたの尊敬する人物は……?」
 兄は正面を見据えたまま自信たっぷりに答えた。
「東条英機です」
「……?」重役と試験官は予期せぬ答えに呆気にとられ、互いに顔を見合わせた。

 喜寿を迎えた兄
 地元の新聞社を定年退職した兄は小さな印刷屋をやりながら
老後を送っている。

 一本気で、生きることの不器用な兄には、おおよそ金儲けと
は縁がなさそうだ。

 毎年開かれる陸士の同期会に出席するのが唯一の楽しみら
しい。

 宴たけなわになると「分隊行進!歩調をとれ!」と同期の仲間
と士官学校の校歌を歌いながら宴会場の広間でドスンドスンと
歩調をとりながら歩き回る。

 その時の童心に帰った兄の顔がいちばん至福のときに見える
そうである。
           
――『わだち』第8号、第9号、第10号に掲載の《狂った歯車》のあらすじ――


 
 

                             △作品 バック目次へ  
作品−4 まいしゃの実
                           
古瀬みち子
「まいしゃの実、拾いにいかない?」
「うん、いこか。いこう、いこう!」
 よっちゃんは一つ歳下の女の子、わたしとはツーカーの仲
である。

 まいし
の木は、川向こうの河原にあった。

 面を採った丸木橋の幅は約30センチほど、川面すれすれ
に懸かっている30メートルくらいのその橋を一息に駆け抜け
ると、まいしゃの木までは石垣沿いに50メートルばかり。不
安は、はたして実が落ちているかどうかということ。駆け足が
おのずと速くなる。

 スカートの両方のポケットに拾い溜めたまいしゃの実を詰め込み、じゃらじゃら鳴らし
ながらの帰りは、ひどく幸せな気分であった。小学校三、四年生の頃の話である。

 まいしゃの木は、毎年五月頃になると、直径2センチぐらいの白い花を枝いっぱい
に咲かせ、秋になると3センチほどの花茎の先に、淡い緑色の実が鈴生りになる。熟
すると上皮が爆ぜて種子が自然に飛び出す仕掛けになっており、子供たち、特に女
の子にとって、それは待ち遠しい時期でもあった。

 うす茶色の胡桃のような固い殻をもったまいしやの実は、ミニフットボールのような形
をしており、お手玉の中身として恰好の材料なのである。小豆よりは少し軽く、じゆず
玉の実よりは重い。お手玉を操るたびに、シャッ、シャッと、爽やかに鳴るのが何とも
いえない。

 草むらや、小石の間に落ちたのを拾い集めるのが面倒なときは、枝ごと折ってきて
乾かしたこともある。

  お手玉作りは母の仕事。夜なべに作ってくれた。三年経てば使い道があるだろうな
どと、丁寧に仕舞ってあった友禅の着物や長襦袢の端ぎれ、裏地に使った紅絹(もみ)
の残り布、八掛の切れっ端などなど、身の廻りいっぱいにそれらの布を拡げて、あれ
かこれかと色合わせをしている母は、とても幸せそうであった。

 茶巾に絞ったもの、卍に縫い合わせたもの、両端を俵のように括ったものなど、五つ
ぐらいずつ大きさを揃えて、いろいろ作ってくれた。

 隣のよっちゃんの家は家族も多く、小さな子供達もいたりで、お母さんは大変忙しか
ったので、母はいつも、私と同じ物を同じ数だけ、よっちゃんにも作ってやっていた。

 「オーサーラ・オヒトツ・オヒトツ・オヒトツオロシテ・オーサーラ……」

 これは、五個から七個ぐらいのお手玉を使ってする、坐り遊びの歌であるが、歌は遊
びに合わせていろいろあった。

 三つ・四つ・五つと数をふやしながら順番に放り上げ、くるくると回しながら操る遊び
など、慣れないとなかなかうまくゆかないものもあり、みんな夢中になってお手玉を競
い合ったものである。

 母はこの遊びが上手で、よく仲間に加わって一緒に遊んでくれた。楽しそうな顔をし
てお手玉を操っていた、若い日の母の姿が目に浮かぶ。

 まいしゃの木が、夏過ぎの洪水で根こそぎ持ってゆかれたのは、昭和十二、三年頃
のことであったろうか。

 永い間忘れていたまいしゃの木を見つけたのは、十五、六年前のこと。

 その日は雨が降っていた。傘を差して何気なく通りかかった銀行前、石畳を埋めつく
すほどにも散り敷く、真っ白な花びらを雨が激しく叩いていた。

 まいしゃの花であった。

 植えられたときはたしか”せんだん”と名札の掛かっていた木から、その花は降って
いた。胸が一杯になり、熱いものの塊が咽喉を塞いだ。

 秋になり、その木の下には予想どおりに、たくさんのまいしゃの実が落ちた。

「おばちゃん、それ、何にするの?」
 銀行の人に断り、ビニール袋にまいしゃの実を拾い集めているわたしに、女の子が
尋ねた。

「ああ、これね、これ、お手玉に入れるのよ。そりゃあ、いい音がするんだから……」
「ふうん。なあんだ、お手玉かあ……」

 女の子はつまらなさそうな顔をして行ってしまった。わたしがこんなに感激して、心を
昂らせているのに、と、ちょっと寂しかった。

 まいしゃの木が、エゴの木であると知ったのは、友人と奈良へ行ったときのこと。六月
の初め頃であったと思う。まいしゃの木は旅館の玄関先に、今を盛りと花を咲かせて
いた。

「ワアー、エゴの花だ。きれい!」

 歓声をあげる友人の声に呆然としてしまった。何という嫌な名であろうと思った。
しかし、誰に聞いても、それはエゴの花であった。

 家へ帰って早速『広辞苑』を繰ってみたら、「まいしゃ」は見つからなかったのに、
「エゴの木」ではちやんと載っていた。まいしゃの木というのは、どうやら方言であった
らしい。

 銀行前のエゴの木は二年程前に伐られ、跡地は駐車場になってしまった。

 よっちゃんは、高等科を一年で中退し、その後、大陸の花嫁
候補として満州の開拓地へ行ってしまった。そして終戦後、間も
なく、ざんぎり頭におできをいっぱいでかして、ぼろぼろの姿に
なって帰ってきた。

 しばらくは、ほとんど寵もりきりのよっちゃんと、たまに逢うこ
とはあっても、終戦時の苦労については、わたしも聞かなかっ
たし、彼女も語ることはなかった。

 私が結婚したのは昭和二十二年の秋、よっちきゃんはその頃、
都会に出てゆき、その後、職を転々としながら、ついに結婚す
ることもなく、晩年はふるさとの生家に帰り、ひっそりと逝って
しまった。三年前のことである。

「戦争がなかったら……」よっちやんのことを思い出すたびに、口惜しくてならない。

 まいしゃの木が正しくはエゴの木であるとは知ったが、エゴというのはエゴイズムを
連想されて、どうも好きになれない。別名、白雲木という、東洋的で美しい名のあるこ
ともそのとき知ったが、美しすぎて何となく落ち着かない。借り物の衣裳のようである。

 わたしは何としても、まいしゃの木という呼び名を捨てたくない。閉じた瞼の裏に、
まいしゃの木が揺れ、子供達の歓声が聞こえる。

 今年もふるさとのどこかで、真っ白な花をつけたであろうまいしゃの木が、そろそろ
実をこぼす季節となった。
                   
春日井市自分史講座・第五期終了記念文集より
 


 
 
                                 △作品 バック目次へ  
作品−3 自分史へのきっかけ

          ・・・子どもの姿から・・・        
                                       堀 田 孝 夫

  転勤は何歳になっても気が張る。特に初年
度は新職場になじむために何かと心労が大
きい。
 教員生活6度目、昭和56年4月のそれは母
校高座小学校(高蔵寺ニュータウンの玄関口に
位置する)であった。
  愛知県の人事異動は、教員免許状があれば
小中学校の交流があり、久しぶりの小学校
勤務である。年度初めの諸会議も一段落、5月
の連休を迎えほっと一息つく。

   雨上りの運動場にできた水溜まりに一輪車で山砂を運び入れていると、早上がり
の新入生がやってくる。「何やっとるの?」 「どうして?」 「なぜ先生がやるの?」「家の
お祖父ちゃんも一輪車を引くことうまいよ」
 周りを取り囲み、思いつくままの質問が矢継ぎ早に出てくる。中学生ならば「見れば
わかるだろう」の一言ですむが、小学生へのことば選びがもどかしい。

 そんなある日、久しぶりに早く帰り畑へ草取りに出掛けた。早苗田の中を曲がりくね
る畔道が郷愁を誘いこどもの頃歌った旧校歌が鼻歌まじりに口をついて出る。梅雨
晴れ間、夕日が赤い。腰をのばす頬に田面をわたる涼風が心地よい。

 その風にのってピンポポポーン地元農協の屋外有線放送である。
 「高座小学校2年生男子二人が行方不明です、心当たりの方は大至急連絡して
下さい」
   通用口の解錠ももどかしい。駆けつける関係者で
瞬く間に職員室は満杯、情報収集が先決と電話一本
がフル活動である。市教育委員会へ概要の一報を
入れる。

 サイレンを鳴らしたパトカー、消防車も到着する。
PTA会長、教育後援会長、地健連会長、区長、
消防団長等の代表者で対策会議が開かれた。

@ 二人とも裏山の11階建高層集合住宅の在住者
  である。

AAはこの4月に横浜からの転入生。Bは一年生か
  ら在籍、同じ棟の仲良しである。

B 二人の家庭や学校で、叱られたり困った問題も                      ない。

C 二人ともカバンが家にあるので、一旦下校後そろって出かけたものと思われる。
  etc.

D 9時までに見つからなければ山狩りに入る。東部の玉川小にも連絡して挟みうち
  にしよう。

  窓外の夕闇は一段と深まり,重苦しい沈黙の静寂はいたたまれない。冷えたお茶
をすすり、そうっと校庭に出て天空を仰いだ。星の数はわずかである。

  職員室や昇降口からの明かりで下段にある運動場のど真ん中に仁王立ちの人影、
近寄るとそれは学校の近くに住む昔の同級生、松本くんだった。

 「大変だなぁ、何か手伝うことがあったら、言ってくれよ」

と声をかけてくれる。簡単に現状の概要を話し「ありがとう」 といって、うつむく胸元に
涙がぽたっと落ちた……。
                      ──『わだち』第12号(13年9月発刊予定)原稿抄──


 
 
                              △作品 バック目次へ  
作品−2
 富士山頂勤務
 
                                  大石   洋

 富士山頂の石室(いしむろ)内、ストーブを囲んで
談笑していたとき、突然”尻に針が突き刺さった”か
のように一斉に皆、飛び上がった。雷である。

 それは、昭和43年夏の終わり、富士山頂臨時
電話局の仕事をした時のことである。

 当時、富士登山客のために毎年、夏のシーズンだ
け山頂に臨時の電話局を開設していた。電話局と
いっても数台の公衆電話機を設置するだけであるが、利用度は非常に高かった。

”一生に一度は富士山へ”と、登頂した人たちは、その感激を家族や知人に
知らせようと、電話機の前には大勢の列が出来ることが多かった。

 その通信設備のうち、運搬可能な無線設備等は毎年御殿場の基地局から運
び上げてアンテナを建て電話局を開設する。そして夏山登山のシーズンが終
わると、撤去して基地局へおろす。

 この臨時電話局の設営・運用は静岡県側の麓の電話局職員が交代でその任
に当たっていた。以前からそれらの作業を一回は経験してみたいと思ってい
たところ、幸いその閉局撤収作業の機会に恵まれた。

 今回の作業は総勢7人、二泊三日の予定である。富士宮口から私とK君
の2人、御殿場口から今回の作業のリーダーを含め5人である。
 この撤収作業は夏山登山シーズン終わりの8月下旬、天候の状況をみて実
施された。

 当日早朝、我々2人は二合目から徒歩で登り始めた。他の人達はブルドー
ザで御殿場口から、全員の食料等を積んで登り、その日のうちに頂上で落ち
合うことにした。

 当時、私も若く、富士登山は2回目であり、山に少しは自信もあって甘く
考えていた。ところが、登るのにつれてK君の健脚にはついて行けず、バ
テてしまった。九合目から上の胸突き八丁は特に苦しく、やっとの思いで頂
上へ辿り着いた。こんなに苦しい登山は初めてであった。御殿場からのグル
ープは既に到着して待っていた。

 山頂無線局の局舎は、基地局と見通しのきく山頂、吹きっさらしの地点に
あった。小さな窓が二つ、昼でも薄暗い十坪程の石室造りの部屋である。真
ん中にだるまストーブがあり、窓側に無線機等の通信機器が並べられ、他の
隅には木の二段ベッドが何基か設置されている。他に、10メートル程離れ
て電力室があって、石のトンネルで繋がっている。

 御殿場からブルドーザーで一気に登った中の二人は高山病で苦しんでい
た。そして、下山するまで気分は晴れないようであった。そんなことで、当
日は仕事にならず十分休養して明日、効率的に撤去作業をすることにして、
早めに夕食をとることにした。

 だるまストーブを囲んで、持参した弁当と、山の習慣としての気付け薬(ウ
イスキー)でご機嫌な食事を摂っていた。

 その楽しい食事がたけなわの頃、トイレに立った者から、「下界は雲に覆
われて遠くに稲光が見える」という報告があった。リーダーからは食事を早
めに切り上げるようにと指示があったが、みな意に介せず、盛り上がってい
た。

 ところが、暫くすると、微かに雷鳴が聞こえだしたな、
と思った途端、冒頭の雷による尻への感電である。

 皆、アルミの折り畳み椅子に腰掛けていたからで、
同時に、ストーブや煙突、その支線等、部屋中の金物
と金物の間、2メートル以上も稲妻が飛び交い、同時
に何とも表現のしようのない甲高いスパーク音。部屋中、雷が暴れ回っている。

 それが、ひっきりなしに襲ってくるので、身の置き所がない。誰かの「ベ
ッドへ!」の声に我先に潜り込んだ。思わず”クワバラ、クワバラ”と唱え、
布団のなかで丸くなって頭を抱え、震えが止まらなかった。

 しかし、さすがはリーダー、電源設備を雷害から守るため電力室へ走った。
そして電源の遮断機を切断した。室内は暗闇となり例の閃光と恐ろしい音と
が布団の中にも伝わってきて、なお恐ろしくなって生きた心地がしなかった。

 随分、長い時間に感じられたが、20分程だったろうか。やがて雷も鎮ま
った。

 今回のは、8合目以下に発生した雷雲で、麓からここまで敷設されている
電力ケーブルの近くで起こる雷が、そのケーブルに誘電雷として誘起し、頂
上まで登って来るとのことである。

 その夜は、初めて味わった恐ろしさのためか、気圧が低いためか、なかな
か寝付かれなかった。

 翌朝、目を覚ました時は既に日が昇っていて、楽しみにしていた御来光は
拝めなかった。

 いよいよ、各人の分担に従っての通信設備の撤収作業である。皆これらの
仕事は熟練者であり、リーダーの適切な先導もあって、日暮れ前には予定の
作業を終了する事が出来た。
 これにより、明日は天気さえ良ければ下山できる見込みがつき安堵した。

最後の平和な晩餐を願って、ウイスキーの雪わりで乾杯。雪はお鉢(噴火
口)内の万年雪である。安堵と疲れが重なって酔いがよくまわった。
 互いに談笑し、民謡なども飛び出して仕事の山を越したことを喜びあった。

 ふと、昨晩の雷襲が気になり外へ出てみた。空は満天の星、全く瞬きの無
い星、死の世界のようで不思議な感じがした。下界は街の灯りがぼーと霞ん
で見える。凝視してみると、駿河湾や伊豆半島も闇の中に微かに箱庭のよう
に見える。そして、足下には花火が小さくチリチリと見えた。たぶん、富士
市か富士宮市あたりの花火大会だろう。

 いよいよ下山の朝。今回こそはと暗いうちから起
き出し、十二分な防寒態勢で外へ出た。

 雲一つない星空、既に仲間の2人も日の出る方 
向を眺めている。

 待つこと暫く、次第に東の空が明るみ出してきた。
箱根の方向だろうか、更に遠くの房総半島だろうか、
白みがかってきたなと思っているうちに薄靄の水平
線から太陽が顔を出した。途端に黄金色の光芒が
中天に向かって走った。御来光である。

 初めて見る神々しさ。気がついたら他の人につられて柏手を打って拝んで
いた。

 早々に朝食を済ませ、持ち帰る機材等のブルドーザへの積み込み、室内の
整理・清掃。そして、石室の閉鎖である。木の頑丈な扉に施錠した後、扉、小窓
には溶岩塊を積み上げて完全に閉鎖した。これでこそ1年間どんな風雨にも
耐えられるのだ思った。

 いよいよ下山である。ブルドーザの2人以外は徒歩で一斉に御殿場口へ下る。
「砂走り」の快走1時間、登りに比べてなんと楽なことか。頂上から3時間もかか
らずに森林限界まで一気に下ることが出来た。 

 振り返ってみると富士山頂は既にすっぽり雲の中であった。

                               ── 「わだち」第10号より ──

                                            
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作品−1 凧 と 私

           

凧の歴史  ・・・・・・・・
洋の東西を問わず凧の歴史
は古い
凧との出会い ・・・・・
入院見舞いにもらった凧が・・・
凧キチ  ・・・・・・・・・
勉強はそっちのけで凧のことばかり
 ・・・
社員親睦たこ上げ
大会        
・・・
息子と昔取ったきねづか、大会に
臨んだが
凧の歴史                             

    凧の歴史は非常に古い。ものの本によると、凧の起源は、西洋ではギリシャのアル
キメデスの時代、東洋では中国の漢の時代に作られ、空から敵陣偵察のために使わ
れたとある。

 日本へは、千年以上も前に中国から伝わり紙鳶(しえん)と呼ばれ、子供の
成長を祈って上げられた。当時、紙が貴重品であったので上流階級に限られていた凧
が、和紙の普及と共に日本人の器用さも手伝って、全国に広まり庶民のものとなった。

 特に、日本には美濃紙等、凧に適する紙があったし、竹、麻糸などの材料も揃ってお
り、地方色豊かで様々な形の凧が考案され、その種類は世界一だそうである。

凧との出会い                           

 私の子供の頃、関東では正月前後には盛んに凧上げ
が行われた。冬の晴れ渡った大空に龍の唸りを響かせ
て悠々と泳ぐ様は、子供の憧れの一つであり、浩然の気
というのを味わうことができた。

 当時、小学校一年生前後の子供達は奴凧をよく上げて
いた。これは近所の駄菓子屋で一銭か二銭で買えたと
思う。

 小学校の高学年以上になると皆、本凧を上げた。即ち、上述の大空を悠々と泳ぐ
凧である。

 大きさが畳の3分の1畳から半畳程の角凧や六角凧である。東京、横浜あたりは東北地方等の出身者も多くそれぞれお国の凧を上げているご隠居さんなども時々見掛けた。

  そんな中で、頭に大きな弓形の唸りを付けた角凧を江戸凧といい、角(つの)のついた兜のようで一番格好がよく人気があった。

 私の本凧との出会いは、小学校一年生のときの1月、中耳炎で入院したときであ
る。風邪と思って家で寝ていて、中耳炎を拗らせてしまった。すぐ入院、手術をした。

 十日程苦しい思いをし、大分良くなってきた頃、父が大きな凧を買ってきてくれた。
それはあの憧れていた唸りの付いた武者絵の江戸凧。子供心にも、とても素晴らし
と思った。

 それを父が病室の壁の高いところに額のようにくくり
つけて、寝ながらそれが見えるようにしてくれた。

私は毎日それを見ながら大空に上がるのを想像し、
退院を楽しみにしていた。

 1月後、やっとの思いで退院できたが、更に、1月間の自宅療養で外に出られなかった。そうこうしているうちに冬の凧上げシーズンは終わってしまい、次の冬までお預けとなってしまった。凧は自分の部屋に飾り、眺めては楽しんでいた。

 やがて、待ちに待った次の冬がやってきた。誰が
上げているのか、からっ風に乗ってあの唸り音が聞こ
えてくると、居ても立ってもいられない気持ちになった。次の日曜日、長い間思いの
籠もっていた凧を持ち出し、近所の田圃へ出掛けた。

 当時、私の住んでいたのは京浜地区では、中心から少し外れた住宅地の周りには
まだまだ沢山の田圃や原っぱがあり、とても長閑であった。

 稲を刈り取った田圃には大きなお兄さん達が大勢いて、沢山の凧が上がっていた。
高さは百メートル以上もあるのか、凧は米粒程にしか見えない。

 私は凧を持ったままオドオドしていた。すると、みんなが寄ってきて「いい凧だな、揚
げてみろよ」と言われ、見よう見まねで揚げてみた。しかし、くるっと回って頭からすぐ
落ちてしまう。

 何回やっても駄目だ、お兄さん達は見かねて、ガヤガヤ言いながら十本程ある糸目
を一時間もかかって調整してくれた。細縄の尻尾も長くしてくれた。これで、やっと
安定して上がるようになってきた。

 高く上がった凧の糸をお兄さんから渡され、風が強くなると身体ごと凧にひきずられそ
うになった。繰り出す糸の摩擦で指が切れて、血だらけになったりした。それでも嬉しく
て、必死になって凧上げを続けた。
               

凧キチ

  それからというもの、風さえあれば、学
校から帰るのももどかしく、毎日のように
凧上げに熱中した。度々失敗を重ねなが
らも次第に上手になっていった。

 そして、2シーズン目を過ぎた頃には、
凧が米粒程に見えるまで高く安定して
上げられるようになった。

 日曜日などは朝から上げて、糸を杭などに
縛り付けておくと、一日中何もしなくても龍の
唸りを響かせて、天空を悠々と泳いでいてくれた。

  凧はひとりで揚がっていてくれるので、稲むらを背にして大空を見ながら居眠りを
したこともある。友達とメンコ遊びをしたり、ベーゴマ遊びなどをしていた。ところが
ある時、上空にも風がなくなり凧が次第に下がってきたので、糸をたぐり降ろしにかかっ
た。

 もう少しで凧が手元に届きそうになったとき、急に強い横風が吹いて思わぬ方に飛
び、すぐ横にあった電柱を支える斜めの支線に絡みついてしまった。友達に肩車をして
もらったり、棒やいろいろなことで取ろうとしたが駄目だった。

 周りの人達は「諦めろ」と言う。凧は私の宝なのに・・・。泣くに泣けない思いだった。

 夕方になり冷え込んできて皆帰り始めた。私にはどうしても諦めきれないでいた。
そのとき、ふと以前映画で観たことのあるターザンを思い出した。その真似が私にも出
来るような気がした。

 たまたまその時持っていたの肥後守(ひごのかみ=ナイフ)を口にくわえ、支線にしがみ
つき必死になって登っていった。すると、今までの私には考えられない力が湧いて
きて、絡まっている凧の所まで到達、片手で懸垂、他の片手で凧糸と尻尾を切りやっと
の思いで凧の本体を回収することが出来た。

 火事場の馬鹿力というのをその時初めて体験した。これまで鉄棒での懸垂もろくに
出来なかったのに、それからは人並みに出来るようになった。

 更に、腕相撲もめったに人に負けないようになり、腕の力にはある程度自信がつい
てきた。

  その後、自分で色々な凧を作っては皆に自慢し、上げては楽しんでいたので、
タコキチと渾名がつけられた。

 しかし、中学校へ入ってからは急に熱が冷め、沢山あった凧は全部天井裏へ押し込ん
でしまった。そして、もう凧上げなどすることはないと思っていた。
                                            

社員親睦たこ上げ大会

  ところが、二十数年後、東京本社に勤務していたある正月、社員親睦の全国郷土凧
上げ大会を実施したことがあった。本社には、出身地が北海道から九州まで全国各地
の社員が集まってきている。

 ことの起こりは、本社内幹部連の酒の席で、家族を含めたリクリェーション大会の
話が出たそうである。酒の勢いもあって色々な案が出たが、その中で、まとまったのが
部対抗の凧上げ大会。出場条件としては、自作の凧であること。

 出場者は必ず自分の子供と一緒に参加すること。また、凧揚げで競う種目として、

a. 凧の揚がった高さを競う「高度賞」

b. 凧の形や揚がり方にアイディアを凝らした「アイディア賞」

c. 東京ではお目にかかれない地方色豊かな凧の「郷土賞」

など。結局は子供を出汁(だし)にした大人のお祭りである。

 実施は正月三日、多摩川河川敷。その日は薄曇りのカラッ風の強い寒い日であった。
朝早くから動員された職員の奥様方の炊き出しで、おしるこ、おでん、燗酒など。
参加者は子供も含めて百人以上集まったろうか。

 私は小学校四年生の長男をつれて、昔の腕を示す好機と
ばかり張り切って参加した。持参したのは、一番簡単な六角
凧で、バランスよく作ったので尻尾なしでよくあがった。

高度賞を狙うので凧糸は、風の強さを考慮しながら、なるべく
軽い細めのものを使うことにした。

 大会実行委員長の挨拶があっていよいよ競技が始まった。

先ず、高度競技の判定時刻が告げられ、その三十分前頃から、
皆ぼちぼち上げ始めた。

 私達も負けじと凧をぐんぐん上げていった。十分前にはどの凧よりも高く上がって
いるように見えた。「これで一等賞間違いなしだ」と息子とほくそ笑んでいた。

 ところがである。近くで凧上げをしていた他部の親子が、私達の所へ寄ってきて、凧糸
の途中へ絡ませ糸どうしをしごき始めた。あっという間に摩擦で私達の糸を切ってしまっ
た。
 私は、かあっとなり「何をするんだ!」と噛みついた。ところが、彼氏曰く「こおゆう凧
上げもあるんだよ」 とすまして他の方へ行ってしまった。糸の切れた凧は、はるか彼方
へ飛んでいってしまい、探しに行ったが行方知れず。

 定刻も過ぎてしまい失格となってしまった。地方によっては凧糸を切り合う喧嘩凧が
あるとは聞いていたが、こんな所で体験しようとは思いもしなかった。
にがく懐かしい思い出の一つである。

 それからまた数十年後。こんどは孫相手に、凧上げを楽しんだりしている。「三つ子の
魂百まで」というのはこのことかと、我ながらおかしくなる。        ( Y .O )


                              △作品 バック目次へ 



5.友の会ニュース(バックナンバー)


                                         △Back No目次へ
  5.11日本自分史学会に春日井市から大勢の参加

 第16回国民文化祭・ぐんま2001に連動して行われた「わくわく自分史フォーラム」と日本自分史学会年次総会には、春日井市で自分史に取り組む多くの人たちが参加し、有意義な日を過ごしました。

〔研究発表〕
 日本自分史学会の会員であり、春日井市自分史友の会副会長でもある大澤今朝夫さんは11月4日に群馬県婦人会館(前橋市)において行われた学会において、

   取材の重要性について──物語としての自分史を書くために──

というテーマで研究発表を行いました。

 大澤さんは、埼王県出身で春日井市に住む人ですが、出身地埼玉と愛知地方との郷土史的つながりについて調べ、自身のルーツや、大学を卒業して以来今日まで仕事を通じてお世話になってきた愛知地方とのかかわりを明らかにしていこうと取材活動を続けています。

 ちなみに大澤さんは平成10年に自分史『夢いまだやまず』を出版。現在も続けている取材活勤の成果を活かして、77歳の喜寿を迎える年には自分史第2集を発刊しようと意気込んでおられます。

〔第5回日本自分史大賞・私の物語〕表彰
 日本自分史学会が行っている「日本自分史大賞・私の物語」は今年第5回を迎え、11月3日に群馬県婦人会館において表彰式を行いました。

 この式において、春日井市自分史友の会の会員・山田泰良さんの『成せばなる──泰っさんの人生──』が大賞にあたる最優秀賞を獲得。また、春日井市内の自分史サークル・まいしゃの会会員の倉橋文子さんの『ゆずり葉の詩──母へのレクイエム──』が第3席にあたる佳作を受賞しました。

〔自分史大国・愛知〕
 国民文化祭・ぐんま2001においては、「わくわく自分史フォーラム<全国自分史作品展>」を開催し、全国から自分史作品を公募しました。その作品集は総597篇に及びましたが、中でも愛知県が出色で注目を浴ぴました。

 愛知県からの作品は、597篇中146冊に及び、開催県群馬の56冊をはるかに抜き、全国的にみてもダントツの数宇です。

 愛知県は、全国の自治体で最初にして唯一の自分史センターを持つ春日井市をはじめ、多くの市町村で自分史請座などが盛んですが、そのあらわれとみていいでしょう。

 いま静かなブームとなっている自分史に、愛知の人々が真剣に取り組み、大きな足跡を残している証拠といってもいいでしょう。

                      
( 日本自分史センター講師 平岡俊佑 )



                                        △Back No目次へ          
 

  5.10
 日本自分史学会に参加して(梅村レポート)

 日本自分史学会・第8回年次大会は“自分史を草の根の文化に”を合言葉に、11月3日・4日、「第16回国民文化・ぐんま2001」が開催地、前橋市の群馬県婦人会館で行われました。

 「私の物語・日本自分史大賞」、表彰式をかわきりに記念講演・研究発表が行われました。

以下は学会員による発表です。(省略)

3日 記念講演 「ハンセン病をめぐる人々」清水威先生
        (日本自分史学会副会長・前帝京学園短期大学教授)
3日 研究発表 「自分史の読み方と創作の発想法」小田切善雄(帝京学園短期大学)
3日 研究発表 「事実を書くことのむつかしさ」清水威先生(山梨自分史の会)
3日 研究発表 「自費出版と自分史文化」新出安政(あゆみの談話室)
4日 研究発表 「生涯学習における自分史」加藤迪夫(日本自分史センター)
4日 研究発表 「取材の重要性―物語として自分史を書くために―」
                          大澤今朝夫 (春日井自分史の会)
4日 研究発表 「歴史学者の自分史運動覚書」廣島正(熊本出版文化会館)

 3日は午後から雨。皇太子・皇太子妃のお乗りになった車がパトカーに先導され会場の婦人会館前をお通りになりました。翌4日の前橋は快晴でした。

“第16回国民文化祭・ぐんま2001”の中に初めて自分史活動が取り上げられました。

 3年前からの準備だったそうです。昨年の“春日井市の自分史フォーラム”にも実行委員を5名参加されるなど大変な熱の入れようでした。

 第16回国民文化祭・ぐんま2001「わくわく自分史フォーラム/シンポジューム」にも参加してきました。

  第16回国民文化祭に際し広く全国に自分史作品の寄贈を呼びかけたところ、597篇の作品が集まり、一堂に展示してありました。(愛知県から146冊、開催県の群馬56冊をはるかに上回っています。春日井市自分史センターの自分史の蔵書は2千5百数冊に達し今も増え続けています。)

 シンポジューム・対談では「自分史を書く」をテーマに、講師:色川大吉(東京経済大学名誉教授、歴史学)、講師:土橋寿(帝京学園短期大学教授、心理学)、日本自分史学会会長の熱弁を聞くことが出来ました。

 色川先生から“自分史”造語の誕生について、名づけ親である色川先生の熱き思い、歴史を民衆の立場で語れるものにしたい。個人史からの出発のお話がありました。

 また自分史は賞の対象にすべきでないとの立場から、土橋先生の「私の物語・日本自分史大賞」の創設の趣旨についての問いかけがありました。

 土橋先生から横綱の胸をお借りすると謙遜されながらも、“物語る”ことと“物語”の違い認識について、色川先生に問いかけられるなど、“自分史は記録か文学か”の論点で対談が展開されました。

 土橋先生からは、「私の物語・日本自分史大賞」の創設について、自分史大賞の純粋性について語られました。

 ──北九州市自分史文学賞200万円の賞金と、出版の副賞付やダイヤモンド社の大賞100万円、「週間ダイヤモンド」全文掲載社等賞金のあるコンテストとは一線を画している。

 入賞者は等しく受賞したくて自分史を書いて応募した人は一人もいなくて、結果として受賞さてたのです。賞状1枚と記念の楯のために、今回も秋田からもご夫婦で10万円余の交通費と宿泊費を自己負担してでも来て下さる。

 物語性とは人に読んでもらえる工夫が結果として評価されるのでありそれが文学につながるのであればそれも良し、しかし端から文学作品を目指すことでは無い事を強調されました。

 自身の記録か、さらに読んでもらう自分史の物語性についての重要性を説かれました。

 まとめとして根底には普段着(ふだん記)の活動、書きたいときに直に書き留める、難しくしない、自分史を草の根文化として育むこと、読み手の立場も考える、分厚くするばかりではなく、年表等の活用で全体を読みやすくまとめる工夫が必要と言うことでしょうか。

 有意義な前橋でした。

         (要旨まとめ:梅村隆、2001.11.5)



                                          △Back No目次へ
 

  
5.9 自分史がネット(HP)で人気加速 ( 日経新聞 )


                                                     
                                                 
(伊藤 幸安さん提供)



 5. 8 泰(や)っさん 表彰             △Back No目次へ
 
     ──日本自分史大賞・最優秀賞 受賞──

     
春日井市自分史友の会会員 山田泰良さんが、平成13年度日本自分史
 
    学会の「第5回 私の物語・自分史大賞」の最優秀賞」に決定しました。



                                           △Back No目次へ
 
5.7 自分史シンポジウム ──地域文化に根づいた自分史活動──

                    
盛大裏に終了

    
(財)かすがい市民文化財団主催、中日新聞社後援で自分史シンポジウムを開催しました。

         10月14日 午後1時30分〜4時  文化フォーラム春日井・視聴覚ホール

      
第1部  基調講演「地域文化に根づいた自分史活動」

                        
名古屋大学名誉教授  堀内 守 氏


     第2部  シンポジウム「自分史サークル わがまちでは・・・」

      
パネリスト  春日井市自分史友の会               堀田孝夫氏
             
一宮自分史の会                久国博世氏
             
碧南自分史友の会                  原田弘子氏
                みどり自分史研究会・千種自分史研究会    神野正人氏
             
東浦自分史友の会・東浦自分史あしたの会   福原  薫氏

      
コーディネーター
             
日本自分史センター講師・相談員         平岡俊佑氏

       コメンテーター
                名古屋大学名誉教授                堀内  守氏


問い合わせ : 文化フォーラム春日井・文芸館
п@(0568) 88−6868



                                           
△Back No目次へ  
 
 5.6 自費出版自分史の新刊紹介

    
泰さんの人生   山田 泰良

        
和菓子職人技の頂点を極めた泰さん。底抜けの明るさとにじみ出てくる強さは何か。


      
・形見の風景    中村 光雄

       
満州そして太平洋。遠い日に逝ってしまった父母、薄命であった兄と姉に捧げる詩。


                                               
   
5.5 映画「大河の一滴」を観て   原作 五木寛之


 
 「人はみな大河の一滴、しかし、無数の
 他の一滴たちとともに大きな流れを
 なして、確実に海へと下っていく。

  高い嶺を登ることだけを夢見て、
 必死で駆けつづてた戦後の半世紀を
 ふり返りながら、いま私たちはゆったりと
 海へ下る。

  そしてまた、空へ還っていく人生を
 思い描くべきときに、さしかかっている
 のではあるまいか」


 
──この言葉がぴったりの映画である。
  作者の貴重な体験をベースに創られた
  物語故に感動を与えるのだろう。

                              また、よく聴くことばに


   
人間は 「生きている」 ただそれだけで、価値があると思うのです。
                                        五木寛之


   
エッセイ『大河の一滴』は世代を超え老若男女から絶大な支持を得て、200万部
 を超える大ベストセラーになった。

   物語の体を為していないそのエッセイをどのようにして映画化するか、非常に
 興味があった。

  解説によると、
    原作者自身が大まかなストーリーを創り、映画界の巨匠・新藤兼人氏が脚本
   を担当。これにより、
     「人はみな大河の一滴」 のテーマを織り込んだ重厚、感動的なヒューマン
   ストーリーが完成した。
                                             
( 洋 )



 5.4 小泉メルマガ(第2号)より     △Back No目次へ  

 小泉メールマガジンを観ていたら「私がタケノコ医者であったころ」(坂口厚生
労働大臣)の「ほんねトーク」が掲載されていた。

 三重県で一番短命な或る山村の診療所へ、その調査を兼ねて初めて赴任した
ときの話である。

 診療所は医者一人、看護婦一人 、その他スタッフ3人。着任早々の第1号
の患者が、耳に大きなコガネムシが入り、床を転がるようにして泣き叫ぶ男の
子。

 小児科でも耳鼻科でも習ったことも無い治療に遭遇。タケノコ医者は、異物
を取り出そうと悪戦苦闘するがコガネムシ君、ますます奥へもぐり込もうとす
る。少年は悲鳴をあげて七転八倒。

 思案に暮れ、一呼吸していると、看護婦の「コガネムシに麻酔を……」で救
われた。

 以後、婦長さんと呼ぶことにし、1年半の滞在期間中、彼女に何度も助けら
れ、急場を凌いだ。

 大臣は、「激務の中で知恵をしぼる看護婦さんの待遇をもう少し考えなけれ
ば……」と結んでおられた。


 過去を統括して、現在に活かす。これこそ自分史の一つの狙いではないかと
深く思う。

                                            △Back No目次へ  
 5.3 「わだち」第11号(特集号)について    

 春日井市自分史友の会の同人誌「わだち」は平成11年1月に創刊。
今回第11号を発刊するのに当たって、一つの節目として、特集号を組む
ことにしました。

すなわち、これまでにない内容の充実、更に、「わだち」発行の変遷、新
聞の関連切り抜き記事等、過去の各種情報を整理して掲載しました。これに
対して、春日井市長からも「お祝いのことば」を頂きました。

 「わだち」第11号(特集号)は、これまで、2年半の自分史執筆研鑽の
結果が凝縮されており、良い作品ばかりで優劣が付けがたいものです。

全部を紹介する事もできないので、その中の編集委員による「特集号に寄
せて」を次に掲載します。


   「わだち」特集号に寄せて ──編集委員──
                             
 書くのは一人きりの孤独な作業だが、書かれた作品は対話の相手を求めて
いる。私が、本号まで投稿をつづけることができたのは、毎月、共に書く仲
間と作品との、和やかで楽しいふれあいの場──『わだち』 の合評会があっ
たからだと思う。 (高谷 昌典)

                                 
 自分史友の会の前身である水曜会で年に4回雑誌を発行しようということ
になり、皆さんから雑誌の名前についていろんな案がだされ、その中から私
が提案した『わだち』が選ばれた。同人誌『わだち』には、自分の分身みた
いな格別な親しみを感じる。 (中尾 信義)
                                 

 手書きの原稿を受け取ってタイプ打ちするたびに、一字一句間違いなく打
ち出すために、何度も読み直し、何度もキーをたたく。その繰り返しの中で、
原稿を書いた人の生きた時代や環境や考え方を、深く認識させられてしまう。
そして、知らぬ間に影響を受けている気がする。大変だけど楽しい仕事であ
る。                       (水川 加知子)


『わだち』第1号創刊から早くも2年余にして第11号出版を迎えました。
自分史友の会会員の盛り上がった情熱の成果でもあります。挙って大いに祝
福すると共に、このときを新ステップとして励まし合い益々の充実に頑張り
ましょう。                    (村上 好一)


「書けるかな? 自分史なんて」と危惧一杯で始めましたが、先生や友人の
お蔭で続けることが出来、やっと少年時代が終わりました。その後の葛藤は
どう記すべきかと考えています。          (遠藤  毅)
              
 
 三に纏(まつわる)る熟語は「三日天下・三日坊主・三太郎・三号雑誌」
などのように使われる。言い得て妙である。良きにつけ、悪しきにつけ「三
省(サンセイ)」しながら「三途の川」を渡ることもなく特集号(11号)
を三千世界に問うことができたのは偏に皆様のお陰と三拝して感謝。   
                       (北野 政治)
                 

 退職して「自分史を!」と机に向かうも書き方が判らない。折りよく春日
井市自分史講座に参加、受講後グループに仲間入りして2年余。『わだち』
投稿の傍らボチボチ書き溜めた通史も、ようやく先が見えはじめ更新してい
るこの頃である。 (岸本 昭)


 会員の多くの部分史を読ませて頂き、各々の歩んだ人生の一部に触れ、学
ぶところが大きい。更に、合評会の回を重ねるにつれて、会員相互は単なる
知り合いではなく、次第に気心の知れた親しみ深い隣人、いや、それ以上の
仲間になりつつある。嬉しく、有り難いことである。 (大石 洋太郎)
 

 自分史『夢いまだやまず』を上梓して2年半。501名に配布して、198名か
ら感想文が届く。
 最高齢は 98歳、恩師 大谷恒蔵先生。最年少は 15歳、中学三年生、山本
佳那恵さん。
 大勢の旧知、又、新しい出会いの人々と交流がひろがり至福のひととき、
平岡先生に感謝。                 (大澤 今朝夫)


 自分史を書いていると楽しい。皆で同人誌をつくるのが楽しい。月1回の
例会に出るのが楽しい。そこで会友の批評を受けるのが楽しい。そして、出
来上がった原稿を前に一杯飲むのがまた楽しい。   (中崎 光男)


 日々、私ごとにかまけこれ多忙、いつも『わだち』の原稿締切に追われ大
変ありがたいことです。「人生僅か五十年」からすれば、弱冠18歳の「突
っ張り君」を自負して頑張っています。先輩諸氏のご指導により生涯学習に
励みたいと思います。 (堀田 孝夫)
 

 自分には自分の知らない自分がある。それを掘り起こし、それを伝えるの
が自分史です。
 初めの一筆を書きませんか。 (波多野 房吉)


 5.2 小学生も卒業記念に「自分史」         △Back No目次へ  


 最近、小学校では総合学習の一環として、

     ・住んでいる地域の歴史を知る

     ・地域の人々との交流を密にし、お話を聞く

など、地域社会に目を開いた学校教育が行われはじめているそうです。

 この度、春日井市内の北城小学校で

は、平成12年度の卒業記念として、

自分史 「いのち輝く明日へ」 を6年生

全員で執筆・編集しました。

 これは、家族、友達、その他まわりの

人等、共に生きてきた多くの人々と、

「私」を、卒業の前に振り返ってみる。

 このことにより

  ・ いのちの尊さ

  ・ 自分と他人との認識・確認

を学び、 更に、明日への目標を定める。

 この活動は、次の卒業生も継承するそうです。

 以上のお話を伺い、自分史とは年寄りの思い出を綴るだけのものではなく、

明日をよりよく生きる足固めのためにも、意義深いものであると痛感しました。 

                                 


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5.1  映画「ホタル」を観て ── 感動の 一編 ──

 
 先日、ホームページでの映画評を読み、遅蒔きながらこの映画を観た。


 朝日に映える雄大な桜島を背景に、沖合いで
の漁をやめカンパチの養殖を始めた山岡夫婦
の物語。

 この美しい鹿児島湾から、幾つもの若く尊い命
が重い爆弾を抱えて飛び立った知覧特攻基地
への回想。

 それから、40年以上も経つというのに、厳寒
の雪山で、昭和という時代の後を追い命を絶っ
た元戦友。

 生死を越えて戦った特攻隊の生き残り、山岡は

「俺たちが何も言わなかったら○○は
        どこにも居らんかったことになる」
 …………

──いつかは忘られてしまうようなことでも
   映画なら残しておける。今だからこそ、
   語り継がなければいけない。  (パンフレット解説より)

 「鉄道員(ぽっぽや)」と並び、高倉健の最近になく感動した映画だ。更に、
私達の「自分史」にも相通ずるものがあると強く感じた。   (洋)

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