作品集(バックナンバー 01)   ──作品−23  〜  作品−42──

 
     
 


 作品−42 
蒸気機関車が私を殺す                                                              △作品 バック目次へ

                             佐藤 孝雄

 

 昭和19年入学の旧制中学と新制高校へ通う6年間、私は北海道の山深い炭鉱町から、片道2時間弱の汽車通学を楽しんでいた。 時、あたかも敗戦色濃く、東条内閣総辞職の時代だったが、極楽とんぼの私はあまり深刻になれなかった。

 毎朝6時12分発に乗り、家に帰り着くのが午後8時過ぎが多く、稀に5時過ぎのこともあった。蒸気機関車が引っ張る石炭専用貨車「セキ」が3、40両連なる最後尾に、固い椅子のおんぼろ客車が 2、3両くっついている。唯一の交通手段、三菱炭鉱の私鉄だ。

 冬は、ダルマストーブ近くが特等席。夏は、窓から炭塵まじりの煙が容赦なく目に入ってくる。

 昭和12年頃の切符には
「この鉄道は、三菱炭鉱の石炭輸送専用線であり、乗客に万一のことがあっても、責任は取らない」
 と書いてあったという。

 私が乗る始発駅からは3つの中学校へ通う男女合わせて3、40人の生徒と乗客が乗り、鉄道省が所轄する省線の乗換駅までの16キロを、約1時間の「予定」で走る。 1日4往復か5往復程度だったと思う。

 単線のため、行き交う列車を待ち合わせたり、急勾配を登るため、行きつ戻りつを繰り返したりで、2時間以上かかることも珍しくない。
 窓を開けたままにしておくと、3つのトンネルをくぐるうちに皆の顔が黒くなり、互いに顔見合わせて笑ったものだ。

 雨や雪の日は、濡れた線路に砂を撒きながら喘ぎ喘ぎ登る黒煙を、窓から顔を出して楽しむ心で後押ししていた。

 三菱線を降りると、省線の駅まで砂利道を数百メートル歩き、そこで乗り換える汽車はC51やD51、D52に引かれて 20分程でようやく学校のある次の駅に到着。

 SLの逞しさを目にして、その迫力に憧れる毎日だった。
  型式を汽笛で聞き分けたり、たまには運転室に乗せてもらうこともあり蒸気機関車は身近な存在だった。

 

 中学何年生の頃からか、人生について仄(ほの)かに考えるようになった。死について頭を巡らすこともあった。

 心理学に興味を持ちはじめ、哲学書も砂を噛むような思いで繰り返し読むようになった。理解できない語句や内容が多く、同じページを何度も、何度も、上滑りしながら読んだ。哲学とは「鉄の学問」すなわち、鍛冶屋の勉強とさえ思われていた環境である。

 磨いた校章が眩しい制帽を誇らしげにかぶり、円錐台に似た黒マントをまとって町を歩くと、誰かが羨望の目でこっちを見ているような気がした。帽子の上先端を尖らせて故意に破いたり、つばを不自然に曲げて恰好つけて粋がっていた。

 人口2、3万の田舎町では中学生は珍しい存在のようだった。国民学校初等科卒業時、12歳の私のクラス50人で、中学校へ進学したのは3、4人にすぎなかったと記憶している。

 

 そんなある日、確か、乗換駅への数百メートルを歩いていたときのこと、目の前の地面が突然横に割れて、機関車が自分に向かって突進してくる恐怖感に襲われた。その速さと凄まじさは、避ける余裕を与えない容赦無いエネルギーだった。

 私の足は地面に凍りついたようで動くことができない。死を感じた。死が目の前にあるのを感じた。

 その黒い悪魔は枕木を敷いた線路をこっちに向かってばく進してくるのだ。毎日見ている情景にオーバー・ラップして、ひたすら自分に向かって牙をむいた巨大な怪物が襲ってくるのだ。黒い煙がもうもうと立ちのぼり、ヘッドライトの眩しさが際立ち、両脇から真っ白な蒸気を吐き出している。

 地響きと超低音の汽笛も聞こえていただろう。
  親しみを込めて毎日眺めていたあの蒸気機関車が、炭車も客車も従えず、彼自身だけが確実に私を殺そうと迫ってくる。

 そのような恐れに繰り返し襲われる日々が続いた。道を歩くことも、外出することさえ恐ろしくなったこともあった。
  あの重い汽車にひかれたら痛いだろうな。血がたくさん出るだろうな。死んだらどうなるのだろう。そんな姿を見てみんなは何と言うだろう。

 笑われそうで誰にも言えない。
  暫くのあいだ、避けることのできない不安に付きまとわれた。

 学校を替えることなんか出来ないし、他に通学手段もない。寄宿舎に入れてもらおうかな。
  懸命に逃れることを考えつづける毎日だったが、自殺志向はなかった。

 しかし、学校で机に向かったり、家に帰り着くころにはすっかり忘れていた。

 今にして思えば、青年前期にありがちな通過点としての被脅迫観念なのだろうが、十代半ばの身には考えつかないことだった。
  あるいは読みふけった心理学や哲学の本の、かすかな記憶や潜在意識が増幅し、映像化したのだろうか。

 昭和25年春、高等学校を卒業する頃には完全に解放されていた。

                *

 無垢への郷愁か。おさな子の愛らしさに心奪われ、可愛らしさが服を着てひたすらに動き回るさまに心癒される昨今。
  古稀を迎えた今、死は新たな現実味を伴って頭をよぎる。

 日本尊厳死協会会員に名を連ねて久しいのも時のなせる業か。

 

 
 


作品−41 
新 婚 登 山                         △作品 バック目次へ

                                         大石   洋

 もう40数年にもなる。私達が結婚したのは、神武景気から一転して「ナベ底不況」に見舞われた頃である。

 当時、まだまだ住宅事情も悪かったことと、俄百姓(戦時中、縁故疎開で始めた富士南山麓での農業)で人手が必要だったので、親と別居する状況ではなく、我が家へ嫁を迎えることとなった。

 だが、彼女の希望で当面は共稼ぎとしたが、何処の農家の嫁さんもするように、家にいる時は家事をし、農業も手伝ってほとんど休む暇など無かった。
  狭い我が家には小舅もおり、さぞ心身ともに疲れたことだろう。だんだん不機嫌な日が多くなってきた。

 そこで父の奨めもあって、小旅行でもと思い立った。たまたま妻も勤め先では職場の登山サークルに所属していると聞いていたし、先立つ資金も乏しいので、比較的近い2泊3日程度の登山を計画し、長野県の八ヶ岳と決めた。

 この山は初めてであったが、北アルプスや南アルプスに比べたら、アベック登山でも比較的楽なコースだろうと甘く考えて出発した。しかし、最初から躓くことになる。

 

 梅雨も明けた7月中旬のある早朝、2人で家を出発した。身延線、中央線、小海線と乗り継いで小海駅で下車。すでに、午後1時を回っていた。そこからバスでは50分程の距離であるが、接続が悪く、バスを降りたときは3時近かった。

 そこから今夜1泊する本沢温泉までは、地図上では山道を5キロ程、たいして登るわけではないので多くみても2時間もあれば到着するだろうと安易に考えていた。

 登山口でバスを降りたのは2人だけ。鬱蒼とした針葉樹林、久しぶりに山の空気に触れた喜びで、ルンルン気分でゆっくり登って行った。しかし、しばらく歩いて、ふと気がつくと辺りが暗くなってきているではないか。

これは急がなければと歩を早めた。しかし、予想もしていなかった深い樹林が続き、たちまち日は暮れてしまった。茂みの道を懐中電灯を頼りに急いで進んだが、そのうちに、道を見失ってしまった。もうすぐだろうと思って、笹を振り分けながら、ともかくも上へ上へと進んだ。

 歩き始めてから既に2時間半以上も経過しただろうか。とっくに宿へ到着するはずなのに。そのうちに、1本ずつ持っていた懐中電灯も次々に消えてしまった。

 これではビバークするしかないなと覚悟を決め、大分疲れたので笹の中に埋まって2人肩を並べて暫く休んだ。静かになってみると、梢の風の音やいろいろな深山のささやきが聞こえる。

 耳を澄ましていると、狼なのか山犬なのか遠吠えが聞こえる。さらに違う方向からも聞こえてくる。近くからも聞こえた時には、たまらず、彼女は抱きついてきた。狼の餌食にされてはたまらないと、身を固くしていた。しばらくそのまま辺りをうかがっていたが、声の主は近寄る気配はなかった。真っ暗闇の恐ろしさもあり、じっとしてはおれず、また歩き始めた。

 もう方角も何も解らず、手をつないで、ただ歩いた。やや高みの所へ出たので一呼吸していると、何か人の声が聞こえるような気がする。空耳かなと思ったがそうではない。少しずつその方向へ進んでは耳を澄ましてみた。歌声だ。疲れも忘れてその方向へ一目散に歩いた。

 学生達のキャンプファイアーの歌声に救われ、やっとの思いで目的の本沢温泉に到着した。歩き始めてから深山の暗闇を徘徊し4時間もかかってしまった。

 宿の主人には新婚旅行だと言って、学生たちの一部屋を空けて貰った。ただし、隣室とは唐紙1枚で仕切られているだけである。それでも、新妻にこれ以上怖い思いをさせずに寝かせられるのが有り難かった。 

 

 翌日は快晴、朝食もそそくさと済ませ、六時過ぎに宿を出た。1時間ほどで、夏沢峠に着く。これからが本番の山登り、南八ヶ岳の縦走である。

 昨夜の不安と恐ろしさは悪夢だったかのように、2人とも晴れやかな気持ちで登頂を開始。先ず硫黄岳から横岳、スリリングな鎖場、ハシゴの岩登りなどのルートを通って赤岳に到着。そこは360度の素晴らしい展望、2人とも山の醍醐味を十分に満喫した。

 それで昨夜の失態は帳消しになったものと私は思っていた。ところが、後々尾を引くことになる。

 その日の宿泊は赤岳を少し下ったキレット小屋とした。小屋に到着したのは3時頃だったか。先着者たちがしているように、私達も持参した弁当で早い夕食を済ませ、大分疲れたので横になっていた。

 寝てしまったようで、暫くして揺り起こされた。後から後から到着する登山者が次第に増え大の字で寝ているわけにゆかなくなってきた。

 そのうちに寝返りもできない程の寿司詰め状態。男も女もない。顔の前に人の足が。私はうとうとしながらも少しは眠られたが、彼女は一睡も出来なかったようである。

 

 次の朝、ガスがかかっていたが、小屋の主人によると「日が出れば晴れるさ!」とのことで安堵。混んでいる宿の朝食をやっとの思いで済ませ、早々に出発した。2人とも勤めの都合もあり、今日中に帰り着かなければならない。

 権現岳まで昨日のピッチから、1時間と予測して登り始めたが、彼女は遅れぎみ。私はいらいらして早く歩くよう督促するが、無口になって黙々と歩く。

 2時間もかかってやっと辿り着いた権現岳。そして最後の山、編み笠山までなんとか辿り着いた時には、疲労極に達し、2人の気持ちも冷えきってしまっていた。

 最初の夜の遭難しかかった愚痴から始まって、家での日頃の鬱憤が爆発。私もイライラが重なり、山頂で初めての夫婦喧嘩。幸いまわりに人はいなかった。しかし、ここでは別行動をするわけにもいかず、完全に冷戦状態のまま山を下る。

やっと今日中に帰り着くための列車に間に合い、2人とも死んだように座席に沈み込んで眠った。しかしやがて、空腹に耐えられず、途中駅の立ち食い蕎麦を掻き込むと、犬も喰わない喧嘩は何処へやら。

 乗り継ぎの甲府駅では、「新嫁さん」よろしく、姑や小姑たちへの土産をいろいろ買い揃え、新郎新婦となって 帰宅した。

 

 その後、子供ができたりで、2人での登山は最初で最後になってしまった。

 今回、これを書くのに当たって、遠い過去をたぐり寄せたくて、最近の登山ガイドを何冊か読んでみた。

 40数年も経つので当然かも知れないが、登山ルートや山小屋も随分増え、整備されているのに驚く。あの頃、このような詳しいガイドブックがあれば、あんな失敗はしなかっただろう。読めば読むほど、若気の至りで無謀な山行きをしたものだと思う。

 楽しみにしていただろうに、新妻に大変な恐ろしい思いや、疲労困憊をさせてしまった。今更しかたないが深く反省している。けれども一方、この登山が強烈な思い出として残り、私たち夫婦の絆の1つになったのだろう。
                                                「わだち」第13号より

 

 
 


 作品−40  
二日おくれの人生航路                 △作品 バック目次へ

                                                        奥田 敏雄

 きょうは4月8日、むかし人間の自分は、この日を“潅仏会”といった覚えがある。 父母が信仰していた浄土真宗東本願寺派の西祐寺にて盛大な花祭りがなされ、和尚さんからお説教をきいた。

「一呼吸一生涯、一瞬の永劫、自らの行いを殊更に重視する」……なにやらむつかしいが、父は特に、「間違ったことや、人のいやがることをするな」と言い、母はすかさず「みっともないことや悪い(わりい)ことはせんことだ」と言った。ギクッとした。

 実は2日前、学校の体操の時間に箱跳びと平均台が苦手で、校舎裏の物置小屋にかくれて授業をサボったのが、もう仏さまに見つかっていただろうか。とにかく不思議の世界だ。

 お寺の宝前の真ん中に2畳敷きくらいのお堂を建て、お釈迦様の立像が安置されていた。本来は香水をふるのだそうだが、ほんのり甘いお茶をそそいだ。そのあとのお相伴にあずかったことが、とてもうれしかった。

 2月15日頃から、近所の子どもを中心にお釈迦様を讃える歌を稽古した。題目は忘れたが、そして少しずつ間違っているかもしれないが、追憶の糸を手繰ってみよう。

           花祭りのうた

   ♪  むかしむかし三千年

    花咲き匂う春八日

    響きわたったひと声は

天にも地にもわれひとり

   立派な国に生まれいて

   富も位も有りながら

   一人お城を抜け出でて

   山にこもりし十二年

まるい世界の真ん中で

教えの門を打ちひらき

渇ける人にふりまいた

甘露の水は限りなき

   数年経っても変わらず

   咲いた侭なるのりのはな

 この第四小節の終り2行がどうしても思い出せない。「のりのはな」は「法の華」か、「則の花」か。どちらでも意味は通ずるだろう。

 昭和のはじめ頃は、あちこちでよく目にしたが、戦中の苦難、戦後の虚脱と立ち直りの繁栄や平和ぼけにより、いつの頃からか、こんな光景はあまり見かけなくなった。

 兄に比べ大いに劣る自分を噂する小宇宙がある。井戸は神の住み給える処。

 語るなと人に語ればまた人が

 語るななどと語る世の中

 名古屋市東区葵公園内の徳川園正門脇に立派な井戸が残っていて、錆び気味だが、頑丈な“くるる”が笠屋根の下に存在感を誇っている。この“くるる”をふつう滑車と呼んでいるが、詩人・三好達治さんによれば、くるくる音を立てるのを、揚げ雲雀の棲み家の神聖な場所と位置づけたように思われる。電線に並んだふくら雀がチュンと鳴いても、くるるの音は美しい。

 烏合の宿の最合い井戸は浅くて、汲み桶を竹竿の先にブラ下げるようにして縛り、ヨイヨイと音頭取って汲み上げていた。時折、話に夢中になり、折角汲んだ満水の桶の手が外れてまた下へ落とすことがあった。

 こんな時、西祐寺の和尚さんの法話をよく思い出した。父は「神聖な場所での話題は侵すべからず。静かにきけ」と、母は「お前は体が丈夫だから、ひとさまに迷惑かけぬように、己より人を上にして生きよ」と行き先の心配をしていたようだ。

 西祐寺の真向かい東むきに、台湾出身の恰幅いい男の人が脂ぎった顔に豆絞り模様の手拭いで鉢巻きをして鰻を焼いていた。その隣、角から西へ長い蔵造りの酒問屋、その前が廣井小学校、西祐寺の隣で酒蔵の前に人力帳場といって輪の大きな人力車が二台あった。

 倭民族の島国根性か、一字宛別に読んだら、非常に爽やかな朝と鮮だが、その朝鮮の人を蔑視していた。また台湾も格下の野蛮人呼ばわりして慢心していること気づかず過ごした時があり、子ども達が横着すると「青蛮人が青龍刀持って威しに来る」ようなことを言って戒められた。しかし、蒲焼屋さんは好々爺だった。人を威しの道具にすることはいけない。

 外国の人から見れば、池に右を投げた時のアノじゃぽんという昔くらい軽視しているだろう。
 それでも外地征服の野望の前に、世界の眼をそらすように昭和12年に名古屋汎太平洋平和博覧会が、同15年・紀元二千六百年記念博が催され、軍靴の響きが高くなってきた。

 インド政府が釈迦の遺骨を仏教囲のシャム王室に寄贈。王室はその一部をセイロン(現スリランカ)とビルマ(現ミャンマー)に分与。日本も譲り受けた。
 昭和14年、シャムがタイと国名変更で、悟りを開いた人の意の「覚王」を山号として、覚王山日泰寺が誕生。

 普通の寺院の山門を守るのは金剛力士あ・んの仁王様だが、日本で唯一の超宗派寺院である日泰寺の山門には釈迦十大弟子の中の阿難尊者と舎利子尊者が居られると聞く。

 戦火をくぐり抜けた奉安塔も健在で、釈迦の遺骨を見守るかのように多くの参拝者が訪れる。小学校の夏休み中、この塔の裏手へ廻って昆虫採集したとき、キレイな玉虫とひげの長い白黒模様のカミキリ虫にかまれ、痛かった。宿題放ったらかしで日長遊び呆けていた。

 人力帳場のおばさんがダイツーな人で、ニッと笑うと金歯が光る。どうかして笑って貰いたくてたまらなかった。学校給食の制度がなかったので、自分ンちへお昼を食べに行くとき裏門を通って、おばちゃんの土山間を覗き見した。おじさんはいなせな葦駄天おとこ。

 思い切って「上り坂はエライネッ」ときいたら、「ナンノナンノ、下りの方がエラクて、お客さんが乗った時の方が空の時より楽だよ」ときた。「フーン」池に長方形の煉瓦をなげても、水面の波紋は丸く拡がる。

 電車に乗って立ち身の人が、発車の時のけぞったりする「くわんせいの法則」や、コマ結びした紐をはどく時、下の方の先に結んだ結び目に錐の先等で穴を拡げると比較的楽に解くことが出来る等、不思議がいっぱいだった。

 水中の蝌蚪は一網打早が容易だが、五線に並んだオクマジャクシは会得に難儀する。

 当時の文部省唱歌『人生航路』は味わい深いが、この詩も終りの2行が思い出せない。

♪人生の航路平坦ならず

 波浪逆巻き風雪荒し

 百折たわまぬ意気だにもたば

 光明常に彼岸にあらん

   百里のみちを踏みゆく者は

   九十里を以って半ばとすべし

   九の山を登らんとして

   功名一揆にかくことなかれ

 人を羨み妬むは愚か

 彼も人なりわれも人なり……

 昔の人は、百里の旅路も九十里ほどの処で、半分来た、残り半分しっかり歩こうと。峻峰を登る時、九合目で半ばとして、後を気を緩めないように頂上目指そうと。人生の指針とも思われる考え方をしたようだ。

 今でも、この歌が好きで時々口ずさむ。

 青春時代は戦時色で夜の街は暗かった。
 迷路のような路地に裸の丸電球が灯り、遠くから見ると狐火を想像させ薄気味悪かった。
 戦火烈しくなって、その電球も外され、街の板塀や電信柱等の大人の目の高さに白いテープ状の紙を貼り、
かな目印としていた。

 月夜以外は全くの闇夜。おのずと草履をひきずったり、擂り減った下駄等を履いて音を出していた。治安を守る警察も同じこと、腰に下げたサーベルを態とガチャガチャさせて巡視していた。ゴソゴソやっている輩どもは、そのサーベルと靴と咳払いが遠ざかるのを息を呑んで待つ。“赤と黒” “善と悪”、闇夜では自分のような近視では判別不可能だ。

 「国破れて山河あり」というが、まことに非道かった。奉職していた掘江金属工業株式会社も空襲で焼け出された。
 昭和19年の末ごろ、夜中の大空襲があり、死なば諸共で当時西区深井町の自宅から、練兵場を突き切り、必死で自転車を漕いで、昭和区白金町の工場へ馳せ付けた。

 防空壕の出入口は爆風で飛んだ機械片等で塞がれ、あちこちで火の手が上がり異様な焦げ臭いにおいがする。空が白みかけた頃、もだえたであろうか虚空を掴むように僻せになった友の屍が6、7体、肘から先は炭化して指先は無く、熱かったろう。
それを慰めるかのように、破裂した水道管から水が流れていた。

 工場近くの乳牛を飼う白金牧場から、怖さに暴れた牛の群れが、火焔で明るくなった空めがけただろうか、殆どの数の牛が小さな川になだれこんで死んでいた。群れから外れた2頭は平面交差の中央線踏切に転がっていて、馬と違って蹄は巨体を平面に横に突き出ていた。かわいそうに。

 牧場の人に仲良くしていただいて、ある日、絞りたての青白い生鮮牛乳を飲ませて貰った。大変有難うございました。踏切に転がっている牛さんは道を塞いでいるが、屈強な人でなければ後始末が出釆ないで大変だった。

 工場の立ち直りは早かった。というより、戦争は一刻もゆっくりさせてくれない。一宮西の起町へ疎開。
 自分はリヤカーを曳いて歩いた。幸いに母方の親戚が稲沢におり、一晩泊めて貰って助かった。空腹と闘って終戦間際に炎天下、履物無く裸足で起〜扶桑間を歩いて往復。

 尾張一宮駅前で艦載機の機銃掃射に遭い、畑で半熟の青いトマト2個盗んで空腹の足しにした罰で、「もう、これまで」と観念した。
 母が言った「悪い(わりい)こと」が頭をよぎった。
 空腹に負けた。どうもすみませんでした。

 平和は有難い。バレンタインデーで心も躍る。
 お返しがしたいが、結局自分よがりで周囲の人に迷惑が及ぶ。
やっぱり二日おくれの人生航路を行くのは自分の運命だ。
                                           「まいしゃ」第4号より  

 

 
 

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 作品−39 
むくげ二本(ふたもと)の野辺送り

                                               倉橋 文子

 暑い日盛りの中、今年も「むくげ」の花が咲き始めた。緑の葉の中に赤紫色の花を次々咲かせる「むくげ」は華やかではあるが、私にとっては一抹の寂しさも感ずる忘れられない花である。

 今日もお向かいの(まがき)に咲く花を眺めながら、私は遠い昔の、あまりにも悲しみに包まれた祖母の晩年を思い出している。

 あれは太平洋戦争の敗色も迫った昭和二十年三月のことだった。我が家に一通の電報が届いた。

「クウシユウデ スベテウシナウ 三ジ イイダエキニツク ムカエタノム マツ」

 それは東京に住んでいた父の養母からのものであった。

 指定された日時に、私は両親に代わって、祖母の名前を父が筆太に書いた一枚の半紙を持って、飯田駅へ迎えにでかけた。

 混雑した電車から降りてきた祖母は、小さなリュックサックを背負って、キョロキョロと辺りを眺めながら降り立ってきた。そして、半紙を胸高に掲げて、人待ち顔の私をすぐに認めた様子だった。ちょっと微笑むと、「迎えにきてくれてありがとう」と言った。

「遠いところを大変だったでしょう。ご無事でよかったですね」

 私もちょっと大人っぽく生真面目に答え、祖母の背のリュックサックを代わって背負った。

 考えてみると、私が祖母と会ったのは、その頃から10年くらい前に、家中で東京見物に出かけた、小学校一年生の夏休み以来のことであった。

 祖母は若くして祖父と死別し、その後、再婚をして、ずっと東京に住んでいたのだった。

 私の家へ来たころの祖母は、すでに胃の具合が悪く、大分衰弱していて、一日の殆どを床に臥せっていた。配給品や野草の入った食事は殆ど喉を通らない様子だった。

 母は飯田病院の院長先生の往診をお願いしたが、胃潰瘍との診断で、週二回のリンゲルの注射をしていただくことになった。やせ細った祖母にとって、この注射は苦痛らしく、先生が注射を始めようとすると、子供のように泣き声をあげて嫌がるのだが、これをしなかったら、命の保障はできなかった。

 梅雨が近づき蒸し暑い日が続くようになると、祖母の体調は目に見えて衰え、色の黒い吐血や下血が繰り返されるようになった。

 頼みの綱だったリンゲルもだんだん受け付けなくなり、7月の暑い日、とうとう帰らぬ人となってしまった。

 焼け出されて我が家へ来てから、わずか四方月という短い命だった。

 弟を出産して体調を崩していた母を手伝って私は、勤労動員の生徒たちと共に諏訪の工場に出かけていた父に電報を打ったり、乏しい材料で煮物や精進揚げを作ったりして、通夜や告別式の準備をし整えたのだった。

 葬儀に必要な品もすべて市役所で手続きをした上で、あっちこっちと伝(つて)を頼って、ようやく求めた物ばかりだった。遺体を納める柩、そこに入れる多量の氷と、すべてが人々の善意や助け合いで、何とか詞達した物ばかりだった。

 葬儀は、お寺のご住職お1人、身近な親戚2、3人と私達家族、それにご近所の方々という本当に寂しいものであった。

 難解な経文は解らなかったが、最後のはうで、ご住職が「ご一緒に読んでください」と言って渡された口語体のお経を唱和しながら、私はまだ未熟な頭と心で、色々なことを考えていた。

 駅頭で会った祖母の姿、寝込みながらも幾度か繰り返されていた母との葛藤、人の命のはかなさや、持って生まれたであろう幸、不幸と運命など。私の頭の中は、色々な想いが駆けめぐっていた。

 その日、祖母の柩に納められたのは、飯田駅に降りたときに背負っていたリュックサックの中身すべてと、母が工面して作った一盛りのおだんごと、畑で獲れた野菜、そして、幼い妹が近くで摘んできた野辺の草花が一握りという、まことに寂しいものであった。

 今のように飾りたてた霊柩車などあろうはずもなく、柩は屍を茶毘に付すため、ようやく手に入れた薪数把とともに、荷車に載せられていた。

 荷車は、ガタゴトと音を立て、上下に激しく揺れながら、火葬場へ向かう坂道を上っていった。私達子供たちは、砂ぼこりと滴る汗にまみれながら、一生懸命、急な坂道を後押しした。

 私はその光景を思うとき、戦後よく口ずさんだ『ドナドナ』の歌を思い起こす。何と悲しく切ない歌だろうか。時代の波に翻弄され、荷車で火葬場に向かった祖母の姿と、売られていく子牛の姿が重なってしまうのだ。

 汗を流しながら到着した一本松の火葬壕は、想像していた以上に寂しいところだった。 広い敷地に高い煙突だけが目立つ掘っ建て小屋は、遠くから眺めたときより荒涼としていた。その中で、唯一私達の心を和ませてくれたのが、敷地の周りに咲く「むくげ」の花であった。

 その時、小屋の中から出てきた係の方は、私達に無言で頑を下げると、何のためらいもなく垣根に足を運

び、二、三本の「むくげ」の花を手折ると、そっと祖母の柩の上に供え、手を合わせて頭を垂れた。

 重苦しかった雰囲気の中に、何かはっとするものを感じたのは、私一人ではなかったと思う。

 その頃は皆、明日の命さえもわからない状態の中で、精一杯生きていたような気がする。そんなぎりぎりの中で生まれた人の心の温かさ──。

 「むくげ」の花が、暑い日盛りの中に咲く姿を見ると、遠い昔のこの日の情景が、昨日の革のように、私の胸に蘇ってくる。

                                                   (「まいしゃ」第4号より)

 

 
 

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作品−38  
早春の散歩道
                          
 高谷 昌典

 わが家のある春日井市高蔵寺の周辺は、年々宅地化が進んでいるが、まだ随所に自然が残っていて四季折々の風情を楽しませてくれる。

 私たち夫婦はそんな自然の変化を求めて、季節ごとに散歩のコースを変えている。

 三月はじめの日曜日。陽当たりのいい縁側で朝刊を読んでいると、

「あなた、きょうはお天気もいいし内津川の方まで歩きませんか〜」

 天気がいいと気分も爽やかになるのであろう、女房の明るい声がする。思わず、

「うん、行こう」と立ちあがった。

 青く晴れわたった空に、旅客機が美しい白線を描きながら飛んで行く。外気はまだ肌につめたいが、日差しは春のぬくもりを感じる。

 車を避けて静かな住宅地のなかを歩く。冬の間、赤い花をいっぱい付けていた生け垣のサザンカに代わり、あちこちの庭先や空き地で、満開のウメが白くかがやいている。花の少ない季節、玄関まわりに鉢植えのパンジーを飾っている家が目立つ。

 小さな公園の前にきたとき、

「あらっ! ちょっと見て」女房がゆびさすシダレヤナギの枝を眺めると、かすかに緑の芽吹きが見られる。根元に目を移すと、草むらのなかでタンポポが春を告げている。ことし(平成十四年)は、春の訪れがずいぶん早い。

 内津川の近くには、まだあちこちに田んぼが残っている。区画整理をした田んぼのなかの舗装した道を行くと、向こうから犬を連れた小学校一、二年の女の子が父親といっしょにやってきた。と、私たちの数メートル前まできたとき、手綱をたぐり寄せながら道の片側に立ち止まってくれた。

「やあ、ありがとう!」

 手をあげて礼を言ってから、うしろの父親に向かい、

「いいお子さんですネ。今時、横を通ってもちゃんと避けてくれる人が少ないのに……」

 通り過ぎようとして振り向くと、親子は顔を見合わせ、うれしそうにほほ笑んでいた。

 かつて農家の集落だったという川の土手近くの静かな住宅地を通る。いまは、ところどころに残る小さな畑や、屋敷まわりなどに昔の面影を残すだけである。

 少し行くと、こんどは腰の曲がったお婆さんが、杖がわりのカートを押しながら、うつむき加減に歩いてきた。近くのスーパーで買い物をしての帰り道であろう。

「こんにちは! 今日はお天気が良くていいですねぇ」傍らの女房が声をかけると、

「ほんとに、暖かくて……」と笑顔を向けてくれた。

「お元気でネ」

「ありがとうございます」

 土手にのぼると、冬枯れていた河川敷に、いつの間にか草の緑がひろがっていた。

 川のなかをカモの親子が気持ちよさそうに泳いでいく。川上からアオサギが一羽ゆっくりと舞い降りてきた。なんとものどかな風景である。思わず両手をひろげて、大きく深呼吸をする。

 土手を降りて河川敷の道を行くと、われわれと似た年配の夫婦に出会う。服装も同じように軽装でスニーカーを履いている。お互いにあいさつを交わしたが、近年、歩いている中高年の人たちを見ることが多い。これも高齢化と健康志向のせいであろう。

 やがてスーパー「バロー」に着く。私たちは買い物と休憩を兼ねて、あちこちのスーパーに立ち寄ることが多いのだが、店内に入ると、何故かほっとした気持ちになる。夫婦ふたりだけで暮らしていると、時々人込みのにぎわいが恋しくなるのだろう。

 日曜日のせいか、店内は家族連れで混みあっていた。幼児用カートに、一歳くらいの男の子が退屈そうな顔で座っているのを見つけた女房が、すかさず

「こんにちは! ボク、ママといっしょでいいねぇ」

 こぼれんばかりの笑顔で話しかける。たいがいは、にっこり笑顔を返してくれるのだが、恥ずかしいのか横を向いてしまう。

 手で顔を隠し「あれっ! 見えないなあ〜」と言いながら、横に回って顔を見せると、「ばあ〜」。こんどは相手も、にこっ! 見事なコミュニケーションだ。

 以前私も、「ボク、こんにちわ!」などと真似てみたが、びっくりして泣かれてしまい、「子どもにモノを言うときは、同じ目線で言わなくちゃあ……」と、たしなめられたことがある。

 

 散歩道には、行き会うたびに挨拶を交わす顔なじみがいる。住宅地のはずれの畑で、ひとり野菜作りをしているお婆さん。中学生になるダウン症の女の子を連れて歩いている母親。毎日、一〇キロメートル以上もウォーキングをしているという七十歳に近い男性。急逝された奥さんに代わっていつも二匹の愛犬を散歩させている男性は、定年退職後まだ数年が経ったばかりだと話す。

 私たち夫婦の散歩道は、季節ごとの自然にふれて心身の爽快を覚える場所だが、同時に、さまざまな人たちとふれあい、人間の温もりを感じる場所でもある。

 この温もりのあるふれあいこそ「愛」だと思う。私たちは愛を身近に実感し、幸せをたしかめながら歩いている。

                                                  (「わだち」第16号より)

 

 
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 作品−37 身近にいた物の怪(け)的生き物たち
                     
──「狐の嫁入り」(抜粋)──
                                      
高木 真澄
 

 つい半世紀前までは「奇妙な生き物」の類が、私の住む村の界隈をうろついていた。
 古老の話やゲナゲナ話だけではなく、自分でも実際に見たり怪しい物音を耳にしたことがある。

 戦後、人間さまの生活習慣が激変し、奴らの住みかを人間さまが奪ってしまったのか、近ごろはとんと聞かなくなってしまった。

 「昔は物の怪がおり、今もきっといる」と言おうものなら、「そんなもん、いるわけがにゃあ」と、世間は愚か者扱いするだろうが、でも、奴らの存在を完全に否定することができるだろうか、どうも気に掛かる。

 地球上には未だ確認できていない動植物が数万種類もあると言われ、さては「物の怪」「妖怪」などの不可思議も、解明されていないのが現状である。

 「図説日本未確認生物事典」という奇妙奇天烈な書籍がある。妖怪・龍蛇・獣類・鳥類・湿性類の五編に分類、その115種を古事記以来の古文書などを引用し紹介している。

 天狗や河童は言うに及ばず、貉、鎌鼬、管狐、魑魅、魍魎、魃などの生態、形態、生息場所につき詳細を極める。しかし、次ページから出てくる物の怪的生き物たちについて、この事典からの引用は紙幅の関係上できないのが残念である。

──本作品は各種「物の怪」にまつわる物語を第1話から第6話まで掲載されていますが、当HPには第5話の「狐の嫁入り」(筆者他体験)を抜粋掲載します 。(事務局)──

《 狐の嫁入り 》 ──あり得ない「灯」 を見た──

 B29の本土爆撃が激化した、昭和二十年の初夏だったと記憶している。

 わが家から南へ三キロほどの間は、奈良時代の条里制の跡を残した田圃が羽黒村まで続いていた。田植え時ともなれば早苗を取る人、植える人々が田圃を埋め尽くす。

 そんな時、アメリカの艦載機来襲の空襲警報が鳴り響くと、機銃掃射恐ろしさに人々は蜘蛛の巣をけ散らしたように、沖の田圃から一目散に村へ逃げ帰ったものだ。

 そんな日の亥の刻(夜十時)ごろのこと、二階の窓からなんの気なしに田圃を見渡した。ちょうど真南一キロほどの塔野地の村はずれの高処に、お山王さまの杉木立がある。そこから西へ百メートルぐらいの間に、提灯らしい灯りがちらついていた。この灯火管制の厳しい時に、虫追い行事をする者などいるはずがない。

「おい、お父ちゃん。お山王さまのところに、提灯のような灯りがぎょうさん点っちょる。B29の爆撃目標にでもなったらえりゃあこっちゃ。ひとっ走りして、早よ消せと叱っちゃらにゃ?」

 警防団長をしていた親父は落着き払った顔で腕組みし、その灯りをじっと凝視していた。

「ありゃ、提灯の灯りやにゃあ。『狐の嫁入り』の火や。おらのこどものころには、しょっちゅう見たもんや。近付くと消えてまう。帰ろうとして振り向くと、また、灯りがチョロチョロと燃えちょる。昔は狐によう化かされよったもんや」

 よく見つめていると、なるほど一定間隔をおいて灯りが明滅していた。そのうちに全部がフッとかき消えてしまった。生まれて初めて「狐の嫁入り」の火を見、思わず背筋に寒気を覚えブルッと身震いした。

 その年の大雪が降った丑満刻に、裏の田圃を狐が一匹「コーン、コン」と啼きながら走って行く姿を見た。

                                                     (「わだち」第15号より)



《私も同じ体験》

 私もほぼ同じ体験をしました。

 戦時中、疎開していた富士山の南山麓でのこと。毎晩のように富士山を目がけて北上して来るB29は、頭上で旋回し関東か関西方面への空襲のための定期航路になっていた。

 私達への直接の被害はまだ無かったが、夜、空襲警報が頻繁に発令され、灯火管制で家にも居れず、よく近所の人たちと、すぐ近くの潤川の堤防で、夕涼みなどをしていた。

 夜10時頃だったか、そこで上記と全く同じ不思議な灯に出会った。地元の人は「狐の嫁入り」だ、と大して驚きもしないで眺めていた。

 戦後、何年か経って、ある本で「世の中の七不思議」とか、学者による解説が載っていた。その中に「狐の嫁入りの灯」は蜃気楼の一種だとあった。

 あの時見た灯は、灯火管制下で、どこにも明かりは無かったはず。蜃気楼などとはどうしても思えないでいた。

 高木さんの作品に接し、当時を懐かしく思い出すと共に、その意を強くしている。

 合評会でこの作品の話が出た時、殆どの人からは、実体験の「狐の嫁入り」も、他の「物の怪」物語と同じ、「古老からの言い伝え」や、「昔物語」の範疇に入れられたのには考えさせられた。

 10年一昔とよく言うが、50年も前のことなど大昔のことになるのか。(昭和一桁生れは古老?)

 同じような体験をされた方がおいででしたら、是非ご一報下さい。
          
当HPの掲示板か、Eメール(   y-ohisi@mub.biglobe.ne.jp )で

 全国各地からの情報が集まれば、面白いことになりはしませんか。HP上で「狐サミット」とか……。

                                                    ( 事務局・管理人 )

 

 
 

                              △作品 バック目次へ

 作品−36 
くさい川の秘密

                                       成瀬 嘗子

「来週、くさい川の秘密を探りに行きます。土曜日ですから、お家の人と相談してきてください」

 昭和47年、私は二度目の小学三年生を受け持ちました。二年間の中学校勤務の後、小学校に転勤し、二年生、三年生と持ち上がりの担任をしました。

 低学年の子供たちと出会ってまず面食らったのは、どんな言葉で話したら私の言うことをわかってもらえるかということでした。

 そこで私は、毎日毎日、子供たちと遊んで、その中に入っていくことに努めました。その頃の授業はどんな具合に進めたらよいのか、あまり自信がありませんでした。

 その後、五年生、六年生と持ち上がりの担任をして、再び三年生を受け持つことになったのです。三年生の社会科では、自分たちの町から市へと学習が進んでいきます。

 私が勤務していた春日井市立白山小学校は、地域の区画整理が終わって、昭和43年に開校したばかりの学校で、転入生も多く、児童数が年々増えていきました。だから、町の移り変わりを勉強していくには、いろいろ興味深い題材がありました。

 前に受け持った三年生の子たちは、町の家々の屋根の色に着目した子がいたので、そのことを中心に調ベ学習をしました。黒い瓦屋根の家の多い地域とその家の大きさ、カラフルな屋根の多い地域とそのまわりの環境などから、その家に住む人々の仕事など、調べることはたくさんありました。

 校区内を歩いて調べることなので、子供たちはグループに分かれて、楽しんで調べて発表してくれました。

 私も古くからの大きなお屋敷に出向いて、おばあちゃんから区画整理前の町の様子などを伺って、授業に備えました。調べ学習は私自身にも大変よい勉強になりました。

 このような経験をした後の二度日の三年生では、校区と名古屋市の境を流れている”くさい川”(地蔵川)に注目した子がいて、それを調べようということになりました。

 川は校区内だけでは調べられないので、授業後の校区外への探検を教務に申し出ました。

 私の計画では、クラス全員の児童を連れて地蔵川を逆上り、くさい川の秘密を探らせようというものでしたが、校区外まで出ることや、授業後では、万一の時の責任の所在が問題になるということで、よい返事はもらえませんでした。

 いろいろと話し合った末、土曜日の午後、帰宅後有志だけで、という条件付きで許しがいただけました。

 さて当日は、社会科が好きで熱心に授業に参加する子も、そうでない子も、合わせて十名ほどが集まってきました。もう少し多くの子たちをと、期待していたのですが、もうその頃から、おけいこの塾に行かなければならない子も結構たくさんいて、小人数での探検となりました。

 中新町のはずれの堤防からスタートして、旧41号線にかかる橋を越え、名鉄小牧線を越えると、校区を出ることになります。

 子供たちは、仲良し組が手をつないだり、いたずら好きの男の子たちが前に行ったり、後ろに行ったりと、半ば遠足気分です。私自身も、まだ自分の子供はいなくて、半分はお姉さん気分なので、みんなとワイワイやりながら、楽しく歩きました。

 流れる川の色は、私の小学生の頃に比べると、ずいぶんきれいな水の色になっていましたが、臭いは、何とも言えない独特のものがありました。子供たちは、そんなことは気にもせず、社会科の勉強に釆ていることも忘れて、解放感にひたっていました。

 護岸工事がされていて歩きやすくなっている堤防道路を、ふざけ合って歩いている子たちを見ていると、自分自身の子供の頃のことを思い出します。

 

「トマコマイの工事の人が通るから、学校の行き帰りは気をつけるんだよ」
「トマコマイ?」

 トマコマイが苫小牧のことで、王子製紙のことだと知ったのは、小学校の高学年になってからのことでした。

 小二の夏ごろから、学校に通う道が広くなり、工場建設のための荷車が通るようになりました。私たちが通った小野小学校は田んぼの中にポツンと建っていました。

 私の住む松新町から学校まで一本道、学校を越えて次の町まで、その道は続いていました。その道を私たちが通い、工事の車も通っているうちに、いつの問にか、大きな工場の煙突から煙が上るようになり、学校帰りにメダカをすくったり、ザリガニを捕った川が、コーヒー色の水が流れる川になっていたのです。

 鼻を突くいやな臭いは町のシンボルとなり、寒い冬は、コーヒー色の水から湯気が立ちのぼっていました。夏も冬も渇れることのない川、工場排水を流すために拡幅された川は、私たちの恰好の遊び場でした。

 高学年になったころ、あの工場は王子製紙春日井工場で、紙を作るために木を砕いたものをしぼった、しぼり汁が川に流れているのだということを教わりました。そして、学校にも、北海道苫小牧から転校してきた子が、何人かやってきました。

 私の家の近所の借家にも、王子製紙工場の偉い人の家族が引っ越してきました。その家に一年上の女の子がいて、私が所属していた器楽部に入ってきました。とても上手にピアノを弾く人で、ピアノなんて高嶺の花だった私には、ただ眩しいばかりでした。

 だから、王子製紙工場は、私には特別な存在で、黒い煙がもくもく出ていても、コーヒー色の川が流れていても、当たり前のこととして受け入れていました。

 昭和40年代に入り、公害の問題があちこちで取り沙汰されるようになって、少しずつ煙の色も薄くなり、川の色もきれいになりつつありましたが、臭いのほうは完全にはなくなってはいませんでした。中央線で庄内川鉄橋を渡って春日井に入ると、車窓から臭いが流れ込んできて「ああ、春日井へ帰ってきた」と思ったものです。

 

 こんなことを思い出しながら歩いていると、19号緑に出ました。現在の19号線ほど道幅は広くありませんでしたが、車はたくさん走っているので、気をつけるようにと、声をかけました。ここが一番の難所で、その後、中央線の下をくぐって、懐かしい私たちの通学路へとさしかかっていきます。

 水かさは増し、水は濁って、水草がなびいています。さらに逆上ると、とうとうやって来ました。王子製紙の大きな工場の近くで川は曲がっていて、工場の道路脇に排水口が見つかり、みんな歓声を上げました。

 くさい川の秘密がわかったのです。

 私はホッとしました。下見もなしに、子供たちを引き連れ、とにかく歩いてみる。子供たちと一緒にワクワクしながら……。今なら、とても許されそうにないことで、私も若かったと反省しています。

 かなりの道のりを歩いたので疲れましたが、また、同じ道を歩いて帰らなければなりません。秋の日は短く、もう、夕暮れが迫っています。

「疲れた。もう歩けん」
「先生、何かおごって」
「腹減ったなあ」
「じゃあ、先生が小さいころ行ったお菓子屋さんで、一つずつ何か買おうか」
「わあーい」 「やったあー」

 こうして帰り道は、おやつを食べ食べ、歌を歌いながら、学校まで辿り着きました。

 もう、薄暗くなりかけていましたが、どの子の顔も満足そうで、私もうれしくなりました。

 その年の社会料の授業は、うまくいったことは言うまでもありません。

                                            (「まいしゃ」第4号より)

 

 
 

                             △作品 バック目次へ

  作品−35  
みんな、みんなやさしい      

                                   坂 本 正 江 

 

 待望の補聴器ができてきた。店で装填すると、クラクラする程の音量で、慌てて調整してもらった。

 第一の感想は、「ああ、楽だ」

ということだった。「楽?」健聴者には理解し難いだろうと思う。私自身、初めての体験だった。無意識のままに、私は聴くということに、かなり神経を使っていたのだなと思う。

 夫が玄関先で 「オイ」

と呼ぶ。私は「ハイッ」と元気よく裏口へ向かう。

「こっちだ。こっちだ」 と、夫が玄関へ呼び戻す。

 夫が裏口で 「オイ」 と呼ぶ。

 私は、尻尾を振って 「アイ」 と玄関へ飛んでゆく。

「お前、何をやっているんだ」 と夫が笑う。決して、ふざけている訳ではない。音の方向が拾えないのだ。

 勤め先で、床に這って拭き掃除をしている時、お客さんから声をかけられて振り向くと、誰もいない。お客さんは、私の前に立って、そんな私を不思議そうに見ている。

 左側と後から声をかけられると、全く気づかないことが多い。お客さんに顔をのぞき込まれて、初めて声をかけられていたことに気づくといった調子だ。

 補聴器は、今回、初めて用いる訳ではない。もう十何年も前から使っている。しかし、それはオーダーではなかったので、一日中、つけっぱなしだと耳がいたくなる。家に、いる時は外していたし、そのまま忘れて外出してしまったりした。それに騒音を拾って肝心の人声が聞きとりにくいという難点も多々あった。

 今度の就職に際し、私は耳が悪いことは隠していた。還暦を目前にした就職は、かなり厳しい。不利になることは言いたくなかった。

 しかし、就職後すぐ、私の耳が遠いことはばれてしまっていた。直接そのことにはふれないが、私の左隣りに座っている上司が、私を呼ぶ時、

「坂本さ〜ん」

と、声を張りあげ、大きな声で用件を言ってくれるようになった。大変ありがたかった。

 他の部署の若い子達が早口で何か言ってくる時は、からだ全部を耳にする。それでもよく理解できなくて、うろうろする私に、彼等は、改めて、ゆっくりした口調で説明してくれる。皆やさしい。いつまでも甘えていてはいけない。私は、なけなしの財布をはたいて補聴器を注文した。

 以前使っていた補聴器では、忘れられない珍事がある。

 平成九年十一月、私は、運転免許を取るため、教習所へ通い出した。五十五歳だった。

 私自身は運転免許の必要性などみじんも考えてはいなかったが、友人がしつっこく誘った。当時、彼女は、この上なく運転が下手で、同乗していてハラハラすることが多かった。こんなに下手でも免許が取れるのなら私でもと、食指が動いた。

 しかし始めてみると、そう簡単なことではなかった。私が通った教習所では、お金はかかるが時間さえ許せば、一日に何時間でも練習が許されたし、その方が効率が良いということで、生徒の評判はよく、若い人達は二、三週間で免許を手にして出て行った。

 一ヵ月もたつと、そろそろ私にもあせりがでてきた。

(ほんとうに、私でも受かるだろうか)

そんな私に巣立ってゆく若い人達がそれぞれエールを送ってくれた。

「おばちゃん、もう少しやよ。がんばって」

 金色に髪を染めた女の子がいた。ピアスをした男の子もいた。私達とは全く世界の違う、言葉も通じないのではと思っていた子達のやさしさに、私は励まされ奮起した。

 仮免が無事受かり、明日は、いよいよ本免のためのテストという夜、私は授業の一環として後部座席に同乗した。助手席の指導官が運転者に、いろいろアドバイスをする。

 それまで私は、車の運転練習に際して、補聴器はつけなかった。いかにも年寄りじみて見られるのではという見栄があったからだ。

 しかし、今夜は、明日に備えて、どうしても指導官のアドバイスが聞きたかった。幸い、夜の車内は暗い。私は、こっそり補聴器をつけた。しばらく走って両脇が崖になった狭い道路にさしかかると、いきなりピーッと笛を鳴らすような音がした。私は、急いで補聴器を外した。補聴器は、正面となる部分を遮るとピーッと鳴るのである。

 補聴器を装填する時とか、何気なく髪をかきあげようと耳のそばに手をやると鳴る。この夜は、どう作用して鳴ったのか、よくわからないが、道路の両脇が狭くなったことで空気圧が変わったのだろう。

 補聴器を外すと指導官の声はまるきり聞えないので、改めて装填する。しばらくするとまた、鳴り出して、はずす。びくびくしながら、そんなことを、くり返していると、指導官が運転している子に向かって言った。

「おい、この車、へんやぞ。さっきから、ピー、ピー音がする」

 翌日、私は、私の専任指導官を通じて事情を話し、昨夜の指導官に詫びた。専任指導官は、私の耳が遠いことは知らなかったと言った。

「僕が話をしている時、無視していることがあったが、あれは聞えていなかったのか」

 真っすぐに走れない私のために車の数メートル前に立ち、

「僕に向かって走って来い」 と叫び、途中で投げ出そうとする私に、

「僕が必ず合格させてやる」 と激励してくれた指導官。

 十二月十三日、おかげさまで私は免許証を手にすることができた。

 年が明けて、元旦、私は中央高速で東京にある寺へ初詣に出かけた。友人達は、一様に驚き、

「運転していった、あんたも凄いけど、隣りに乗って行った御主人は、もっと凄い」 と言った。

 

 昨年の八月、私の不注意から、自動車事故を起こしてしまった。幸い大事には至らなかったが、車は大破した。

 警察で

「もう車には乗りません」 と言ったら、交通課のおまわりさんが、

「あんたは、年がいっているから、続けて乗らないと、乗れなくなってしまうよ」

と言ってくださった。みんな、やさしい。

 支えられて、支えられて、私は生きている。

どうしたら、御恩返しができるのだろう。
                                           (「けやき」第2号より)

 

 
 

 

 
 

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作品−33 
郵便局を標的とする男
            
                     中崎 光男

 まだあけやらぬ北国の駅頭に1人の男が降り立った。北風が吹きつのり、粉雪が舞っていた。男はあたりをそっと見まわした。

 昨夜遅く始発駅を発った夜行列車の中でも、男はなにげないふりをして全車輌をまわり、それらしき人物が乗っていないか気をくばっていた。

 もし自分の眠っている間に途中駅から乗り込んだ者がいればそのチェックは出来ていなかったので、用心するにこしたことはなかったのであった。みたところ、その列車からは仲のよさそうな男女が数組降りただけであった。

 それを見届けた男は、そそくさとホームを離れ、陸橋へとつながる階段を駆け登って行った。急いで改札口に来てみると、県庁所在地の駅にしては改札が2つほどしかなく、早朝とはいえひっそりとしているのにいささか面食らったようであった。所在なげに改札口にいた駅員に男は尋ねた。

「こちらは街側の方ですか。それとも山側ですか」
「山側といっても、山はずーっと向こうですが」

 男はもどかしげに声を大きくして聞いた。

「え−と、海側はどっちですか。海側は」
「反対側に大きな改札口があります。そちらが海側というか、中心街に向いた方の改札口ですよ」

 列車の先頭車が東へ向いて駅へ進入したとばかり思っていたが、実際は列車はぐるっとまわり、西へ向かって進入していたのを、駅到着寸前まで眠っていた男は知らなかった。

 しまったと思い、急いで踵を返して正面の改札口へ走った。フルスピードで駅構内を抜け、ドアをあけ、一歩外に出た。そこにもまた、北風が待っていた。

 男は野球帽を目深に被り直し、毛糸のマフラーを目元でたくし上げ、防寒コートの襟を立て、革の手袋をはめ直し、背中の黒いリュックをゆすり上げて、右手にチラッと見えた赤い軒下灯を目指して大股に歩いていった。

 平成12年12月12日、闇の中にまだ街が眠っていた5時10分過ぎ、その男は駅前の交番に入っていった。何故かドアのガラスは割れ、丸い穴があき、そこから四方にヒビが入っており、ところどころをガムテープでとめ、入口の床には割れて落ちたガラスが散乱していた。

 男は声を掛けた。
「ちょっとお尋ねしたいのですが」

 奥のドアから、仮眠中ででもあったかのような腫れぼったそうな目をした若い警官が顔を出した。男の風体を見て、一瞬、ギョッとしたようであったが、さすがに職業柄か落ち着いた口調で、

「何の用でしようか」
「あのー、沼垂(ぬったり)郵便局へ行く道を教えて下さい。あっ、それからその近くに銀行があれば、そこも……」

 警官は、まだ夜も明けきらぬこんな早朝に、郵便局だの銀行だのと言われ、さて身なりといえば目だけを出した異様な姿にどう応対したものかと、とまどっているように思えた。

 それにその時はわからなかったが、男が後から知ったところでは、前日の深夜、酔客だか暴走族だかに、こぶし大の右を投げ込まれ、玄関のガラス戸を割られるという事件の直後だったことも、警官の態度を堅くさせていたのかもしれない。鑑識による詳しい現場検証がまだなのか、ガラスの破片も散乱したままであった。

 男はガラスの破片を避けるように慎重に歩み、カウンターに近寄った。そして、警官の警戒を解くように帽子を脱ぎ、マフラーをとった。警官も安心したようにほっとした顔になった。男が話しはじめた。

「まあ、何かしでかそうという者が、わざわざ交番に道を尋ねに寄ることもないでしょう。実は、私はこんなことをしているのです。

 下らないといえば下らない話ですがね。一般の人からみれば、何でそこまでやるのかと思われることだと思いますよ」

 と言いながら、一通の貯金通帳を取り出し、
「ここのところを見てください」
 と、或る欄を指さした。

 そこには、入金年月日は11・11・11、取扱局11111、お預かり金額111111円で、飯田風越郵便局となっていた。男はこのとき、行列の先頭に並び受付順1番ということで大いに満足していたのだが、実は現在高を1,111,111円として、1が24個並ぶようにするのを気づかなかったことを、今でも残念に思っていた。

「なるほど、見事に1が並びましたね。ところで、それが沼垂郵便局」とどういう関係になるのですか」

「ええ、その沼垂郵便局の局番(郵政省が付けているコード番号)が12121なのですよ。今日は平成12年12月12日なので、これから121212円入金に行くところですがね」

「それはご苦労なことですね。それで、さっきの局番ですが、121212というのはないのですか」
「残念ながら局番は五桁までしかありませんので……」

「それで、どちらから来られました?」
「名古屋からです」

「ずいぶん遠くからですね。それではさっきの『ムーンライトえちご』に乗って来られたのですね。名古屋の人には、こちらは寒いでしょう」

「ええ、やはり寒いですね。ところで、私と同じように沼垂郵便局の道を聞きに釆た人はいませんか」
「まだいませんね。あなたのような人は結構多いのですか。それに、そういうことをよく調べるものですね」

 男は少し安心した。数日前に沼垂郵便局に所在地などの問い合わせをしたとき、同様の電話があったかどうかも同時に聞いたが、それが1件もないということであったので、いささか安心はしていたのであった。

 1年前に飯田風越郵便局へ電話したときは「だいぶ問い合わせがありますよ」と言っていたことを考えると、今日の一番乗りへの希望は大きくふくらんできつつあった。男は言った。

「蛇の道は蛇といいますからね。前回はインターネットで情報が流れたという話もありましたよ。昨年の一並びの日には、その山あいの郵便局に千人ぐらい押しかけ、長い行列ができました。

 貯金するまでに2、3時間も待った人がいましたよ。テレビ局や新聞社も3、4社来て、とても賑やかでした」
「まあ、そういう人をマニアというのでしょうが、世の中にはいろんな人がいるもんですね」

 そんな話をしつつ、警官は戸棚から出した地図をもとに略図を描いてくれた。目印になるものも書き入れ、丁寧に道順を説明してくれた。二キロ弱の道程ということであった。

 男は雪の中を歩きはじめた。雪がちらついていたかと思うと、突然激しく降るなど、天気は北国特有の気まぐれさを見せていた。だが、北風だけはやむことなく吹きつづけていた。

 男は、今出てきた交番での警官とのやりとりを思い出していた。江戸の昔から「越後からは米つきにやってくる」といわれ、越後の人はその律儀さが称されていた。北国の人は天候が厳しい分、人情味が豊かになるのだろうかと思い、自分までもが暖かく包まれたような気がした。

 男は念願どおり沼垂郵便局への一番乗りを果たし、すべて1と2で埋まる印字をしてもらった。「1」と「2」が12個続く欄も作った。男は充実感を味わった。

 男は「青春18切符」で新潟へ行った。まさに男は青春の真っ只中にいた。

 そう、私の次なる狙い、それは東海道五十三次の全郵便局巡りである。

 

 
 

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 作品−32   
折り紙の不思議      
              
                      宮 原 よしの 

 六十歳を過ぎて、おばあさんと呼ばれ、おとしよりと言われるようになった頃、新しい喜びを持つことが出来たことは、とてもうれしい、ありがたいことでした。

   折り紙との再会    

 あの時、全く思いがけないことから、「世界折り紙展」を見る機会に恵まれました。
 所用のために長野へ出かけた折、ふと目にとまった「世界折り紙展」の広告に、私は思わず引き込まれるように会場へ入ったのです。

 ただただ驚きました。

 これが折り紙の作品なのか、と目を見張るばかりの会場一ぱいに陳列されている折り紙のパノラマ、そして、多種多様な個人作品でした。

 色とりどり、形さまざまな、何十何百もの作品から作り上げられている30余りのパノラマ、20種類もの折り紙の花で作った、『花のまつり』。花火まで打ち上げられている『秩父の夜まつり』等々の群像は、今でもはっきり思い出されます。

 国内は勿論のこと、イギリス、カナダ、フランス等々13カ国もの個人作品の数々でした。
「何とすばらしい集団の力であろうか」と驚嘆させられたパノラマ。「これが一枚の紙から作り出されたのか」と感動さえ覚えた個人作品の見事なこと。

 ことに、折り紙についての、今までのイメージを一変させられる程の衝撃をパノラマから受けました。
 今までも好きであり、関心を持っていた折り紙でしたが、再会して、全く新しく目覚めた思いでした。

   折り紙の勉強        

 すっかり魅せられた私は、次の日も会場へ行きました。
 よく見て、よく聞いて、その場で入会の手続きをとりました。

「日本折り紙協会」入会。この時から毎月、雑誌『おりがみ』が届けられることになり、此れを見ながら、次々と折る楽しみのため、あれこれの仕事も早くすませて、夜は晩くまで、折り紙に夢中になる日が多くなってきました。

 折り紙以外の記事も、なかなか惹きつけられ、また、毎月出題の「おりがみ頭の体操」も楽しみの一つになりました。

 図形の問題が多く、学生時代の幾何の製図を思い出しながら、あれこれと頭をひねって、応募すると、応募者の絶対数も少なかったのでしょうか、抽選で5名の中に入ることも多く、その度に、正解であったことの喜びと、珍しい折り紙の入った「折り紙セット」が送られて来るので、これを使って折るのもまた、重ねての楽しみとなりました。

 協会として年1回行われる3日間のシンポジュウムは、いつも、なかなか、みのりの多いもののようでしたが、私は一度も出席しないまま過ぎてしまいました。

 協会には、初級講師認定制度なるものがあって、折っている間に、初級講師の資格と、バッヂをいただきました。
「こんなことも、あったな」との思い出のものです。

 春日井へ転居することになった時、須坂市の小林さんから、「名古屋には、佐竹先生の折り紙教室があるから」とのお話がありました。

(小林さんは、入会の折に、居合わせた須坂在住の方で、奥さん共々、熱心に折り紙にとりくんでおられて、創作発表、展示会などと、とても熱心な方でした)

 まだなれない名古屋でしたが、早速、教室をお訪ねしました。
「日本折り紙協会名古屋支部」は、御園座前通りのポーラ会館ビルの中にありました。
 それからは、毎週土曜日、午後一時から四時までの集まりに出席することにしました。

 当時の人数は、男女合せて30名程だったと思いますが(名簿の上で)、いつも集まるのは10名から15名位でした。

「折り紙が好き」と言う人の集まりで、上も下もなく、みんな生活している社会や家庭、性別、年齢、資格を問わない、同好の士と言った集まりでした。会の中程では、当番の方の、心くばりで、お茶とお菓子をいただきながら、短い時間ではあっても、心から、くつろぎの一時を一緒に持つことができた、楽しい土曜日でした。

 名古屋まで行くのは大変だな、と感じるようになった頃、NHK学園(通信教育)生涯学習講座('88年4月入学生)に創作折り紙のあることを知り、受講することにきめました。

 創作折り紙機関誌の紹介に掲載された作品「ピノキオ」に、68歳と書きそえてありましたから、その頃だったのでしょう。

 創作折り紙終了の頃、折り紙の創作に励んでおいでの布施知子先生(長野県北安曇郡八坂村在住)の『ユニット折り紙』4冊が出ていることを知りました。

1. 箱を楽しむ

2. ユニットあらかると

3. 生長する立体

4. 立体七変化     

 嬉しくて、早速この4冊を求めて、折り始めました。
 今までの本についても、そうであったように、此れも、次々と心ひかれて、一応全部を折ってみました。

 自分で折りながら、びっくりしたり、感心したり、童心に帰った世界に遊んだり、四苦八苦の末にやっと作り上げて、嬉しがったり、とてもとても、とっておきの楽しさを味わいました。
 今、私の手元に、それらの作品は、ほとんどありません。
 

   こんなこと あんなこと  思い出す ままに        

 私達一家が埴生の家に移った頃、埴生は、まだ、埴生町でした。
 歌の「埴生の宿」を思って「埴生」は大好きでした。

 間もなく、まわりの町と合併して、更埴市となり、市役所は杭瀬下(くいぜけ)地区に新しく立派に出来上がり、役場のあとは公民館となって、婦人会、青年団、老人クラブ等の活躍の場となりました。
 請われるままに、公民館内に、くす玉、折り紙など、少しかざったように思い出します。

 何年か過ぎた、秋の更埴市の文化祭の折、「折り紙を出品して」と言われて、びっくりしたり、困ってしまいました。みんな立派な、書、絵画、木彫り、手芸品等々すばらしい作品の中ですから。

 ことわりきれなくて、心をきめた時からが大変でした。出品するのだったら、美しくて、楽しいもの、そして誰にでも出来そうなもの、などなどといろいろ考え、出来るだけ多く作って、折り紙を知ってほしい、と思うようになり、その前日まで、折ることに一生懸命の日が続きました。

 にぎやかに出来た2日間の催しも終わりの頃、
「これを是非ほしいのですが」と1人のお母さんの一言から、みなさんに、さしあげることにしました。
 自転車で2度も運んだ作品でしたが帰りには、1つのダンボール箱に、ちまちまとおさまり、自転車も軽く、家へ帰りました。

 

 そのあと、公民館から、「折り紙」をと希望があるから、とのお誘いで、1日高齢者の皆さんと、くす玉を折って遊びました。

「何にしようか」「どんな順序で」、「どうしたらわかり易く、折り易いだろうか」、あれこれ考えては折り、また、考えては作りながら準備をしました。

 前日、会場づくりの折、畳の部屋に長机を2列に並べると、「寺子屋のようですね」と言われ、当日になって見ると、壁には昔の寺子屋の図の掛軸がかかっていました。

 館長さんの雰囲気づくりにまで気づかって下さった、「ありがたい心」をひとしお感じました。そんな中で楽しくくす玉づくりが出来ました。
 あとで、館長さんの「くす玉を持ち帰るみなさんの目は、輝いていましたよ」と、とても嬉しい一言でした。

 

 思いもかけず、今度は、幼児とお母さんの折り紙をと言われて、また、集まりました。
 今までの本をみんな出して、中でも「よかった」と思うのを何日かつくり続けました。
「もっと、たくさんの折り紙を見ていただきたいな」と思いながら。

 当日は、作品を壁にはったり、机に並べたり、窓枠につるしたり、とてもにぎやかにかざりました。
 遊べるものを作り、折って遊んで楽しんだそのあとで、館長さんと居合わせた方々が、「のし袋」(つるののし袋、その他)に目をとめて、「これを折ってみたい」とのことで、大人たちの折り紙教室になりました。

 館長さんから「年間を通しての折り紙教室を」とのお話があったのは、こちら春日井へ転居のきまった時でした。

 須坂の小林さんを紹介して、こちらへ参りましたが、その後、「みんなで楽しんで、折り紙を続けております」とのお便りをいただき、ほっとした思いでした。

 春日井に来てからも、思いもよらない出会いがあり、その数々を思ったとき、好きな折り紙で楽しみ、そして喜びながら、自分で意図したことでないのに、何か折り紙に引かれて、ただ、ひたすらについて来た道といった思いがしております。

                                                    (「けやき」第2号より)

 
 
 

                             △作品 バック目次へ
   作品−31 
ウイルスの襲来
                                  遠藤 毅

 パソコンの前に座ったのは、愛子内親王ご誕生ニュースの落ち着いた2001年12月1日夜9時を回っていた。

 親友I君からのメールだ。三十年もの長い付き合いである。最近のメールでは、「ウイルス対策が必要ですよ。何ならお手伝いしましょうか」とあった。

 普段から冗談は言い放題だし、英語も堪能な人なので、件名が英文で「 i found ……」とあったのも気にならなかった。

「ははあ、先達てのウイルス対策が見つかった連絡だな」と本文を開くと、「 peace」とだけ記してあった。

 すぐに返信を書いた。

「今受け取ったメールは、件名も、本文もおかしな英語で、サッパリ訳が判らない。英語でも良いが、もっと判る様にしてくれよ」と。

 送信した途端に、10通ものメールが舞い込んだ。パソコン初心者の私は、キーを打つのが極めて遅い。回線を繋いだままでメールのやりとりなどは到底出来ないのと、電話料節約の為に、接続はメールを送受信する数分間だけにしている。10通のメールが来るのは、嬉しいが異常である。

「送信しましたが、宛先に届きません」「……届きません」「……届きません」

 とI君以外には全然送信していないのに、携帯電話や中華人民共和国の友人アドレスからの連絡だ。いずれも、数ヶ月前にメールしたが、同様の「……届きません」メールが来た記憶がある。もう一つは

「あなたから今受信した○○宛のメールは、ウイルスに汚染されています(中部大学)」

 の連絡もあった。ここへも発信していない。「おかしいなあ。送信していないのだけれど……。迷惑かけたわけでもないから、ま、いいか」

と寝てしまった。

 

 翌日は風光明媚の犬山市で、会社OB有志が集まる昼食会。退職して七年経つたが四十年も共に苦労した仲間は懐かしい。総勢三十余人、露天風呂で入浴もし、酒も話も弾んだ。

 良いご機嫌で夕方帰宅すると、妻が目を吊り上げて待ち構えていた。
「留守中にあちらこちらから電話があって、大変でしたよ。元上司のTさんからは

『お宅のパソコンの住所録にある全員にウイルス付きのメールが送られたようですよ。私の所へも来て、今、対策に大童です。すぐに全員に電話して、メールを開かずに削除するように連絡しないと、お宅から発信されたウイルス付きメールがメールを生んで、ねずみ算式に世界中を駆け回り大変なことになりますよ。莫大な費用を請求されることになるかも知れません』。

 

 群馬県の親戚Aさんからは、

『パソコンの電源を切って、電話接続を切っておく。メール先には早く連絡した方が良い』と。

 貴方には連絡がつかないし、莫大な費用が掛ったらどうします。すぐに処置してください」。
 それからは、大騒動だった。

 先ず、アドレス帳を印刷して残し、ウイルスに悪用されたら困るメール先などの記録をすべて抹消。送受信記録も抹消し、「削除済みボックス」の中も削除した。それから印刷したアドレスを基に、北海道から九州まで、40人に電話を掛けまくった。

 幸い、半数近くはまだメールを開いていなかったので助かった。久しぶりの友達との電話がこんな慌しいものになるとは、思わなかった。調べてくれた大部分の人が、

「君から、件名の文字化けしたメールが、5分間隔で2通着いていた」と言う。

 うーん、電話接続した数分間に40個所へ2回もメールしたとは、凄い奴だと感心した。
 半数はウイルスに注意していた人で「開封前に気がついたので、開かずに削除した」そうだ。

 

 10日ほど経って、四国に住む中学の同窓生W君からファックスが届いた。彼はストマイ治療の副作用で聴覚障害者なので、電話は使えない。

「君からのメールが11日に届いた。先日の『メールは開くな』とのファックスの時はメールは届いていなかった。10日たったからもういいのかなと開いたら、本文は白紙で何も書いてなかった。添付書類があるが、それはまだ開いてない」と。

「大変だ。私はこの半月メール送信は誰にもしていない。間違いなくウイルスだから削除して下さい。アドレス帖の友人にも送られた可能性があるよ」と私から返信。

 こちらの電話線もパソコンから外したままなのに、あの時から10日たって私の名前でウイルスが活動を始め、世界を飛び回り始めたかと、背筋が寒くなった。

「どうしたらいいだろうね。困った。困った。田舎なので、近くにパソコン屋もないし」とW君。

 翌日、
「若い友人が立ち寄って見てくれることになった。2〜3の友人と連絡をとったが、僕からのウイルスメールは来ていないと言う。あと20箇所ほど連絡を取らなけりゃ」。

 又翌日、
「若い友人の診断の結果は、大丈夫だった。でもこれからの為に明日は町に出て、ウイルス駆除ソフトを購入してくる。7千円ぐらいらしいね」と、W君。

 以前に私の所へ来たウイルスとは違う種類らしいが、どうやって私の名前を盗んだのだろう。腹が立つがぶつける所がない。W君に被害が無かったようでやれやれである。

 

「自分史友の会」のOさんに電話して、迷惑を掛けたその後を聞いた。

「ウイルスメールを受け取った時は、パソコンの画面が真っ赤になって、暫く動かなくなり、初めての経験でびっくりしたけれど、息子が入れてくれたウイルスワクチン『ノートン』の警告だったようだ。今は異常なく動作している」。

 Oさんへの電話連絡の後、もういいかなと、こわごわ受け取ったメールの中に、発信者名も件名も意味不明のカナや記号のがあった。ウイルスと直感してすぐに削除しようとした。その瞬間から白い羽根がパタパタと黄色いファイルから別のファイルへ飛び移り始めた。慌てて削除キーを押した。

 その頃、私のパソコンでは、文字打ち込みの途中、マウスやキーボードを動かしても画面が動作しなくなる異常がしばしば起こり、禁じ手のオフボタンを5秒間押す羽目になる。

 これを繰り返すとパソコン内部が破損する恐れがあるという。ウイルスのせいか、それとも焦って多種類の対策を注ぎ込んだ為か判らないが、非常事態である。

 ここに至って、私も一旦パソコン内容を空にしてウイルスを追い出すことにした。

 手順に従って、内臓のシステムソフトを全部消去して、改めてウインドウズ98と、ワープロ等のソフトを入れた。資料を探しては必要事項を打ち込んで行く。間違えたり、やり直したりで、復旧に2日もかかってしまった。

 保存を忘れたハガキ用の住所録が消えてしまい、年賀状向けに300人分の住所・氏名を打ち込むのに又、2日かかった。

 パソコン店でウイルス対策ソフト「ノートン・インターネット・セキュリティ」を購入した。結局、捕捉したウイルスは2種(最初に侵入した「アリツ」と、二度目に侵入した「バッドトランスB」)、感染したのは計四箇所、検疫個所へ隔離して騒ぎは収まり、ワープロの不具合もなくなった。

 当方からのメールも、検査してから送信してくれるので、一応安心である。

 パソコン初心者の私には厳しい2001年末だった。

    ウイルスへ年賀遠慮とする師走

                                                   
                                        (「わだち」第15号より)

 
 
 

                                    △作品 バック目次へ
 作品−30 きつね と とうちゃん
     
                                       加藤 素子

 私が幼かった頃、父からよく聞かされたはなしである。

 深夜、中水野から瀬戸に向かう雑木林のなか、でこぼこの一本道で小田妻を過ぎたころ、いきなり目の前に垣根が出てきた。大八車が通るだけのせまい道、あっ間違えたかなと思い、引き返そうとすると道がない。

 こりや ”キツネ” が出たな。

「しょうがないなあ。何をしにきた、遊びあいてがほしいのか」

「いい湯だ、いい湯だ」と野だめに入った人の話を笑えないと思いつつ、夜の明けるまで待とうと、しゃがみ込んでしまった。

「ごちそうほしいよ」 「折のなかのものほしいよ」

「やらぬ。だめだ」

「もう、もらいました」

「早いやつやなあ。まあ仕方ないか」

 遠くに灯が、五つ六つ、いや七つ八つ、狐の嫁入りだ。

 一服吸ってしばらく待つうちに、あたりが少しずつ明るくなってきた。気がつくと水野の親類の祝いごとに行って、もらって来た折箱が空になっていた。

                          *

 瀬戸の中央にある蔵所橋(くらしょばし)、昔は土橋で、まわりは草ぼうぼうであった。そのたもとに柳の木があり、夜になると娘が、木の下で 、「たけなが」(日本髪の装飾品)を売っていた。

 こないだ、だまされたが今夜はだまされないぞと、「たけなが」を買った。表をみたり、裏をみたりしながら、友達と話しつつ、家に帰ってみると木の葉になっていた。

 なぜ買う時にわからないか、いつまでもいつまでも、謎がとけない、不思議な出来事。

 父は両親に縁うすく、夜、墓地や神社によく行ったという。

 墓地は、にぎやかでやかましいけれど、お宮さんは、しんとして恐い。静かすぎて身がしめつけられる。

 ある時、灯が宙にういて、こちらに向かって来る。なんだろうと、木に登って見ていると、女の人が頭にローソクを立てて、お宮さんに近づいてくる。

 息を呑んで見ていると、おそがい顔。怖ろしさに木にしがみついて、目をつむり、神経をピリピリさせて、その人の立ち去るのを待った。それはながいことだった。

 後で人に聞くと、もしみつかれば殺される、という。なぜなら「丑の刻」参りは、人を呪い殺す祈りのため、人にみられると、願いが、かなわなくなるという。

 くわばら、くわばら。

 どこかから、ほうー、ほうー、と鳴き声が聞こえてきた。

 この昔ばなしを、思い出し、おもい出し書き綴っていると、亡き父の顔や当時のことなどが、不思議に昨日のことのように思い出され目頭が熱くなる。

     親も子もつつがなき日や麦こがし

      一人来てひとりで帰る旅路かな

                        (父・柳郊)
 
                                         「わだち」第15号より


 

 
 
 

                                        △作品 バック目次へ
 
作品−29  君のいない山
                                 伊藤平八郎


 早朝七時の近鉄名古屋駅ホームは、通学生や出勤のサラリーマン、OLたちで混み合っていた。

 私は乗客たちの波に押されるようにして、7時10分発の四日市行きの電車に乗り込んだ。車内は身動き一つできず、棒立ちの状態であった。

「四日市行きです。まもなく発車しまぁーす」

 案内のアナウンスが間延びしたように流れた。私はドアのガラスに顔を押しっけ、移りゆく町や道の風景を眺めていた。

 隣で男子高校生が携帯電話のボタンを熱心に押している。おそらくメールでもしているのだろう。座席では学生服姿の女子高校生が一心に文庫本を読み耽っている。

 窓から流れ込む風になびいて髪がサラサラと舞った。艶やかな髪が風と遊ぶたびに、シャンプーの芳しい匂いが流れた。

 あの秋の日、三岐鉄道西藤原駅で、午前9時に由紀や俊夫と集合し、恒例の藤原岳へ登り、銀色に輝く夕陽を眺めようと約束の日であった。私は待ち遠しくウキウキした気分になっていた。

 しかし、今年は由紀の姿はなかった。私や俊夫の胸の内にだけ生きつづけている。

 私は8時30分過ぎ、西藤原駅ホムを抜けた。自販機でお茶を買い、ベンチに腰を下ろした。前日コンビニで買っておいたおにぎりをリュックから取り出し、朝食を摂った。

 9時を回って、改札口に現れたのは俊夫であった。私の前に立つと、「由紀は?」と辺りを見回したが、「あっ、そうか」と納得した顔に変わった。

 あっさりと「いつものことさ」と返した。今までの由紀は、約束の時間に遅れ、二人は待たされることが多かった。

 由紀が顔を出したように感じたのは、9時30分少し前のことであった。いつものように「遅くなってゴメン」とピョコンと頭を下げ、おどけた仕草をしたように映った。

 昨年集まったとき、”遅れの由紀”にその理由を聞いたことがあった。その時、

「行くのが気が進まないからではない。出掛ける間際になると、あれこれ用事を思いつき、ついついそれを片づけることに追われてしまう。もっと前からやっておけばよかったのにと反省するが、すぐ忘れてしまう」

 と、ケロッと言っていたのを思い出した。

 私と俊夫、二人の胸の中にいる由紀と、さまざまな想いを抱きながら、頂上を目指して歩き始めた。土埃のたつ曲がりくねった道路を進むと川が現れ、滝から落ちる水しぶきが大きな岩に砕け、白波と化している。

 道端には野菊が太陽に照らされ、ふくいくとした香りをふりまき歓迎している。

 川を渡り、登山道の標識にそって進むとすぐ急坂が現れた。私はそこを登りながら、前年の出来事を想い起こしていた。

 それは、由紀が登っていく途中の山道に降り積もっていた枯れ葉に足を滑らせ、転び落ち、そこの岩で思い切り膝を打ち擦りむいた。その場に座り込み、「痛い、痛い」と今にも泣き出しそうな顔で「もう登らない」と我が儘を言い、二人を困らせた。私の持参していた湿布薬を貼り、30分ほど休憩を取った。

 少し落ちついたところで、由紀のリュックの荷を私と俊夫のリュックに分けて背負い、ゆっくりと登って行った記憶が蘇ってきた。

 枯木の枝を杖に、地面から半分むきだしの大きな石に足を載せ、一歩ずっ上へ登っていく。雑木や雑草が山道の両側から迫って、ともすると道を隠す場所もしばしば現れる。その都度、そこに立ち止まり、地図を広げ確認した。

 腰にかけていたタオルで顔や首筋の汗を拭った。頭上でバサバサと音がした。見上げると山鳥が一羽、かなたへ飛び去った。二人はあの鳥は何というのだろうかと首をかしげ合った。

 しばらく進むと、ゆるやかな道に変わり、熊笹が両側に生い茂っていた。その熊笹の根元に野麦という白い実がなり、それれを主食として食べたという言い伝えを聞いたことを思い出した。

 1時間も歩いただろうか。見晴らしのよい峰に辿り着いた。15分小休止し、少量の水分補給をする。空を仰ぐと晴天に白い雲が浮かぶ。夕陽が楽しみである。靴の紐を締めなおし歩さだす。

 昼近く目指す藤原岳へ着く。山荘へ入り、食事をし、夕刻まで休息する。
 午後4時過ぎ、山荘を出て、毎年同じ西側の高台になっている大きな岩の夕陽が輝く場所に坐った。
 西の空が真っ赤に燃えだした。やがて、大きな熟れた太陽が遠くの山際に沈もうとしていた。

 俊夫は、横に居るはずのない由紀の幻に向かって、
 「こうして夕陽を眺めるようになって、何年目になるかな……」

 独り言のように小さく言った。それは空しく、答えはなかった。

 「もう5年になると思うけど」
 と、私が返した。

 そして、私は胸の中で「由紀、お前もこの茜色を見ているかい」と呟いて、遠くを見つめた。

「早いものだなあ。あれからもう1年になる。私はまだ信じられない」
 俊夫に話しかけた。

「俺もだ。由紀のやつ、いつもここに坐って、『夕焼け小焼けの赤トンボ 負われて見たのはいつの日か』
 と歌っていたのを想い出すよ」

「女って、いつもロマンティックを求めているのかなあ……」

 私は近くにあった小石を拾い、深い谷に向かって投げた。石は音もなく吸い込まれ、由紀の姿とだぶって映り、谷へ落下していった。いつも真ん中に坐っているはずの由紀の姿はなかった。

「あの時、雨と霧のなかを無理して下山しなければよかった」
 沈んだ声で言った。俊夫は頭を振った。

「それは三人で決めたことだ。君だけの責任じゃあない」

 私は日をつぶった。涙が一滴頬を伝わった。

 あの日、三人は、雨と霧で視界が悪いなかを下山するため、尾根伝いを進んでいた。中を歩いていた由紀が、苔が生え雨で濡れていた大きな石に足を載せた途端、足を滑らせ、「ワァー」と言いながら落ちていく光景が、くっきりと瞼に浮かんだ。後尾にいた私が手を差し出したが、間に合わなかったのだ。

 俊夫が溜め息をついた。

「あいつ、しつかりしているようで結構抜けていたからな」

「ほんと、由紀はドジなところがある女だったもんな」
 相槌を打った。

──悪かったわね、ドジな女で──

 いつもの調子で言う声が、一瞬、山の向こうから聞こえたように思った。
 私は「もう一度逢いたいな……」そう言って立ち上がると、夕陽に向かって

「由紀……」

 と力一杯叫んだ。
 木霊が「ゆき……」と返してきた。また、涙がポロリと転げ落ちた。

「俺も逢いたいや」

 俊夫が言った。そして、小さな声で”夕焼け小焼けの赤トンボ……”と歌いだし、目頭を潤ませた。

 由紀の声が
「ごめんね、二人を置いて先に旅立ってしまって。あなたたちは、ほんとうにいい友達だったわ。これからも二人、ここで夕陽を眺めて私のことを思い出してね」 

 谷から吹き上がってくる風に乗って聞こえたように感じた。

 陽は沈み、空に星がきだした。天空に昇った青白い月の光が、私と俊夫、由紀の影を岩の上にぼんやりと描き出していた。

 二つの人影と一つのかすかで小さい薄い影は、そこに並んだまま動かなかった。

 遠い山並みの空に、一際大きな星が一つ瞬いていた。

                                           「まいしゃ」第3号より


 

 

 
 

                               △作品 バック目次へ
  
作品−28  カササギの渡せる橋

                                           古瀬みち子

 母の若いころのこと、
「川向こうに住む恋人に逢うために、湯もじ1枚の裸となり、頭に着物を入れた風呂敷包みを載せ、月夜の晩に川を渡って行ったそうだ……」 という話ほど私を驚かせたものはない。

 私の知るかぎりの母は、父に仕え、古い家の仕来りを守り、大勢の子供を育てるのに余念のなかった人であり、そんな大胆な行動の出来る人とは、とても思えなかったからである。

 話をしてくれたのは、母の実家の嫁であるおはなばあさん。通夜の客も去り、ごく親しい身内の者だけで線香の煙を守っていた時のことである。

 白菊に囲まれた祭壇のうえには、95歳6か月という永い生涯を終えた母の写真が、煙の向こうに静かな微笑みをたたえて私達を見守っていた。

「うっそう! 嘘でしょう。聞いたことないわ」 妹が場に似合わない声をあげた。

「嘘じゃないと思うよ。もっとも……、別にわたしがこの目で見たわけではないが……」と前置きしながら、

「村の衆がなんかの話の折りに、そう言ってござったこと聞いたことがあるもん! 一ペんや二へんでなかったような気がするよ。もっとも、随分昔のことじゃけんどな」

 おはなばあさんは同意を得るように母の遺影に目を当てながら、少し心許なさそうに、ゆっくりと、しかし、自信をもって言い切った。

 傍らに坐っていた叔父(母の弟)が、
「うん! そうやなあ……、その話、わしも知っとる。なかなか両家の話し合いがつかず、許してもらえなんだから……。二人とも若かったしなあ」

 咳をしながら、低くしゃがれた声で相槌を打った。相槌を打ちながら、手元の数珠を揉むようにしている叔父を、私は黙って見ていた。おはなばあさんの話は続く。

「なんしろ、若いころのおっかさんは美しい人やったそうや。村の若い衆が目つぼに取っていたんやろうなあ。よそ村のもん好きになんないたって、みんな口惜しがったというこっちゃ」

 通夜の席にはおよそ不似合いな話であり、誰も笑うものはなかったし、「それから?」と促すものもなかった。

 おはなばあさんは生来が快活なたちであり、この夜も重苦しい場の雰節気を和らげようとの魂胆からこの語を持ち出したのであろうが、「母が困っているだろうな」と、私は思った。

 がつと立ち上がり、短くなった線香を取り替え、祭壇に手を合わせた。は最後の最後まで母を優しく看取ってくれた人であり、時として、娘の私が羨ましく思うはどに仲の良い嫁・姑であった。切なかったのであろう。母に詫びているように私には映った。

 聞くところによると、母の恋人であった人は、その後、志願して海軍に入り、1、2年して両家の承諾を得て母と結婚し、敦賀軍港に勤務していた関係上、母との新婚生活は官舎で始められたとのこと。

「考えてみれば、その頃が姉さんにとって一番しあわせな時期であったかもな……」

 沁々とした口調で、叔父が言った。

 しかし、その倖せな生活も永くは続かず、その後生じた双方の実家の複雑な事情から、母はまるで生木を裂かれるような思いの中で、婚家を去ったのだという。

 終生、姉である私の母を慕い、心から愛してくれた叔父は、青年期において母の苦しみを最も身近で見てきた一人であり、辛い想い出であった筈である。

「どうして……」

「信じられないわ……」

と言う私達の視線を避けるように、俯きながら、

「まあ、いいやないか。今更それを言ったってどうなるものでもないし……。第一、お前たちにさえ何も言わずに逝った仏さまや、可哀相やないか……」

 叔父は赤くなった眼でチラッと私達を見たきり、もう何にも言ってくれなかった。

 複雑な心境であった。母が再婚であったことは知っていたが、そんな過去があったことは全く知らず、ショックでもあった。 

 話というものは、永い歳月を語り継がれていくうちに微妙に変化していくものであり、センセーショナルな部分のみが、聞く人の主観によって、より強調されていくものである。

 その夜、おはなばあさんから聞いた話が、どこまで真実であるかわからないが、母が若い日に、火のような熱い恋をし、一度は結ばれたとはいえ、心ならずも自らその思いを断ったということだけは確かであるらしい。

 遺影の母の穏やかな笑顔を見ながら、心から母をいとおしいと思った。

 その日のことは、それぎりで終わってしまったが、日が経つにつれて、月夜の川を渡っていく母の姿は、美しい映像として私の胸に焼き付けられていった。

 母と娘として、60余年の永い付き合いのなかで、その口からは唯の一度もそれらしいことを聞かなかっただけに、母が心の奥底に秘め通してきたものの哀しさが胸にこたえた。

 母は色白で大柄の人であった。若い日は15貫(60キロ)はあったという。その白い肌を惜しげもなく蒼い月光に晒して、キラキラ光る川波を必死になって渡ってゆく母の姿を想像する度に涙が溢れるのである。

 母が父と結婚したのは、数え年23歳の時であったという。

 話は前後するが、あれは小学校3年生ぐらいのことであったろうか。

 母と妹と私を入れて3人、珍しく縁側に出てくつろいでいた。

 かすかな音をたてながら稲田を渡ってくる風が快かった記憶から察すると、季節は6月の終わりごろであったろうか。「忙しい、忙しい」を口癖にしている母なのに、あのタベ、どうしてあんなにゆったりとした時間があったのだろう。

 低い山脈(やまなみ)の間に点在する集落である。山脈の間を東西に細長く伸びた空があり、まるで、青いガラスの破片でも撒き散らしたように、大小さまざまの星がキラキラと瞬いていた。

 月のない晩であったが、星明りとでもいうのであろうか、あたり一面うすぼんやりとした明かりに包まれており、植え込みのどこかでは、気の早い虫が 「チロ、チチッ」と、遠慮がちの声をあげていた。

 星の間を縫うように、天の川が星屑を取り込みながら、白い紗の帯のようにかかっていた。

 白地に細かい柄の浴衣らしいものを着ていた母は、きちんと正座して、持っていた団扇を申し訳のように動かしながら、突然、

「あしたもお天気だね……」

と言った。

 縁側に腰掛けて足をぶらぶらさせながら、お手玉を弄んでいた私達は、手を止めて空を見上げた。

「この分だと、七夕さまもお天気だろうな」

 まるで独り言のような母の言葉であった。母は何かほかごとを考えているらしく、白い顎を見せてはいたが、熱心にお星さまを見ているようでもなかった。

 やがて、

「七夕さまって、なあに?」

 小さい妹が体をねじ曲げるようにして声を出した。

「そうだなあ……」

 少し居ずまいを正しながら、間をおいて母が言った。

「七夕さまってのはなあ、織り姫さんという、それはそれは可愛らしい星のお姫様が、1年に一ペんだけ、ホラ、あの天の川を渡って彦星さんという男の子に逢いに行きなれる日なんや……。お父さんのお星さまに許してもらってな」

「ふ−ん」

 わかったのかわからないのか、妹が長い返事をした。お手玉はやめて、2人ともに空を見上げた。

「天の川ってあれ?」

 天の川を指さしながら、

「水、流れているの? どうして落ちてこないの」

 妹の素朴な質問ほ、母には届かなかった。

「そうなんや、織り姫さんも彦星さんも、1年365日、毎日、毎日、その日の来るのを待っておいでるんや……。その日にもし雨が降って、天の川が大水になり、渡れんかったら、また1年逢うことが出来んのや。可哀相に……」

 語尾は消えるようであった。

 (専門家の話によると、牽牛、織女の二つの星が相逢うことは永久にないということである)

 彦星さんに逢いに行く日の織り姫さんは、スカートが大きく膨らんだ水色の透き通る服を着て行くんだろうな、と、私は勝手に思っていた。いつの間にか雲が出て、天の川のまわりは、薄いもやのようなものに包まれてしまった。

 母は、それから、織り姫さんがどんなに美しい娘であり、星の王様である両親の言いつけを守る優しい娘であるとか、彦星さまは牛伺いの身分の低い青年であるが、相手のことを思いやることの出来る心を持った立派な若者であるとか、いろいろ話してくれた。

 考え、考え、ゆっくりと、自身、とても楽しそうな顔をして話してくれた。今思えば、多分にフィクションもまじえての独りよがりの解釈であったような気もするが、その場の情景は今もはっきり思い出すことが出来る。

 その夜、私達は母にねだって、余り裂布(きれ)を出してもらい、「七夕さまがお天気でありますように……」と、おそくまでかかって、色とりどりのテルテル坊主をいくつも作った。

 母が亡くなって十余年。この時、あの情景の中で漠然とではあったが、幼い私が感じ取ったものと、通夜の席で聞いたおはなばあさんの話が、どこかで繋がっていたように思えてならない。

 雨が降って、天の川が渡れないときは、どこからかたくさんのカサザギが飛んできて、互いの羽を繋ぎ合わせて橋を作り、織り姫様を渡してあげるのだそうだとは、ずっと後になって聞いた話。美しい物語であるが、母は知っていたかどうか。

 かささぎの渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞ更けにける(新古今集 ─中納言家持─)の歌を思い出した。

  愛憐の情が心に沁みてゆくようである。                       「まいしゃ」第3号より
 


 

 

 
 

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作品−27
自分史「終り良ければすべて良し」を発刊して

                                       伊藤 幸安

 平成12年8月9日午後、電話予約して、「文化フォーラム春日井」2階「日本自分史センター」講師平岡俊佑先生を訪ねる。

「先生、自分史を亡妻の23回忌法要開催予定の平成12年12月23日までに刊行いたしたいと思っていますので、改めてご指導願いませんか、取り敢えず、纏めた原稿とそのパソコンのフロッピーなどを持参しました」

「吃驚したね。何時の間に、こんなに沢山の原稿を揃えられたのですか」

 平成10年8月、春日井市主催、平岡先生の自分史講座を受講してから、社史を含んだ自分史を何とか纏めたいと思いたった。そして、400字詰め原稿用紙に書いたり消したりしていたが、一向に捗らず、悩んでいた。

 一方、中日文化センター桃花台教室の「初めて習うパソコン講座」で勉強を始めていたところ、偶々、春日井市自分史友の会の同僚Oさんから、「パソコンで原稿を作ると、案外思うように捗るよ」と激励された。

 面白味が沸き、原稿づくりに精が出て、量だけは上述の先生が感心されるようなものに、何とか纏めることが出来た。

 原稿が大分まとまりかけてきた頃、知人を介して、自分史など自費出版のサポートをしている朝日新聞名古屋事業開発室編集制作センターを訪ねてみた。そこでは自分で纏めて 、ある程度完成度の高くなった原稿を持って来て下さい。発刊に関しては協力しますとのことだった。

 自分史発刊に関する基礎知識がない私には、自分で纏める力がないので、以前からお世話になり、日本自分史センターで自分史編集指導をしておられる平岡先生を頼ることにした。

「ところで奥さんの法要まで、あと4月の期間しかなく、急がないと刊行が難しいと思うが、心当たりの出版社か印刷所でもありますか」と平岡先生。

「何れにしても取り掛からないことには始まりませんので、ご紹介をお願いします」
 早速、先生から
K印刷に電話して頂き、先生ご同行の上訪ねた。

「色々予算、その他お考えもあるかと思いますが、取り敢えず、フロッピーを基にして荒刷りでもしますか。荒刷りをしたから発注しなければならないということはありません。何れにしても、所要頁数、その他検討・見積資料が必要ですが如何されますか」

 他に頼るところもないので、先生のご指導を頂きながら、妻の法要に間に合わせるべくお願いすることにした。

 さて、大変なことになった。その後、毎週先生を訪ね、色々ご指導を頂きながら、300頁ぐらいの原稿をフロッピーに纏め、9月7日、K印刷に荒刷りをお願いした。

フロッピー原稿を基礎にして、1頁を43字/行、16行/頁と取り決め、初校が出てきたのは10月5日であった。

 その校正・添削を先生、Oさん、その他適任者に依頼した。不足原稿や、挿入写真の準備など、急ぎにいそいで、10月31日第2校が出てきた。

 更に表紙カバー・デザインなどの案をK印刷から提出願い、11月15日の第3校で目次・前書き、アルバム、その他 、ある程度細部を取り決めた。そして、第4校まで行って、どうやら製本化まで漕ぎつけた。

 心配した納本も、12月18日に間に合い、関係した方々のご協力により無事完成した。


 参考までに製本に至るまでに取り決められた事項を列挙する。

@ 本の大きさ A5版

A 文字の書体 本文……細明朝体、見出し……ゴシック体

B 文字の大きさ 本文……15Q、見出しなど……24Qまでの大きさの文字を使用

C 口絵、カラー写真……24頁、本文内写真100枚程度。頁の都合も配慮しながら、章、節、その他割振り、校正に取り掛かり、纏める

D 紙質は 見本を見ながら、決定した

E 本のタイトル「終り良ければすべて良し」は、色々悩んだが平岡先生と相談し決めた

F 題字文字は私の友人の書道家に依頼、5案の中から 選択して決めた

G 製本は、布張りの上製本、見返し、カバー、ケース付き(K印刷が言うのでは最高の作り)

H 印刷方法は16頁を表・裏同時印刷という 最新式の方法で、文字の入力、編集、写真の位置を決めた

 最終的にK印刷によって、本文380頁・総頁420頁の自分史「終り良ければすべて良し」が完成し、当初希望の亡妻23回忌法要に間に合い、参拝者全員への配本が出来たことを深く感謝している。

 今から十年前、経営者の立場を離れたとき、会社の社史を編集したいと思い、資料を集めていたが、社史は一般的には自分で単独に作成すべきものではなく、委員会方式で行っているところが多い。 しかし、それでは形式的なものしか出来ないと私は考え、自分史の中で社史を取り入れて行こうと決断した。

 自分史原稿作成までには、手元にある書籍、同窓会資料、参考書類、メモ、手帳、写真、書簡などを基に記憶を辿り、総括的に利用した。また、私なりに、関係者に内容についてのチェック、並びに寄稿依頼などをしていった。

 荒刷りを終わり、初校の段階にはある程度の構想は固まってきていたが、第2校段階では、更に目次、写真、その他具体的に決めねばならず、息子、孫にも手伝って貰いながら、まとめを急いだ。

 今から思えば、納期を自分自身決めて協力をお願したのが、好結果に結びついたと思っている。


 刊行にあたり、留意したことは、

@ 文書は何時の時代にも残るもので、また、誰の目にも留まるものであるので、他人を誹謗したり、自慢したり,己惚れたりしたことは慎まねばならない。特に自分の生き様を基にした自分史は真実に基づいて書くことである。

A 内容は 率直に、解りやすく、具体的に、読んで頂きたい読者は誰か 、ということを念頭におき、自分が一番読んでもらいたい人は誰かを問い直した。

 1、恩師・恩人 2、息子・孫 3、職場を共にした仲間 ・後輩諸君 4、兄弟姉妹・親族 5、先輩・友人・その他…

 思い切って自分史を発行し、自分の生き様を述べることが出来、自分の一生が終わった感じだが、しかし逆に、これを起点として新しい目標を決め、再出発したい。

 発刊後、その反響の大きさに驚くと共に、自分を曝け出したために新しい友人も増し、今後の人生に大いにプラスであったと思っている。

 読後感想文の多くを読ませて頂き、その意を強くしている。

                                       (「わだち」第11号より)
 


 

 
 
 

                                     △作品 バック目次へ
作品−26  
姥捨山の思い出と介護

                                        川口わかば

 いつのことだったかよく覚えていないが、『檜山節考』の映画を見た。俳優さんもストーリーもあまり覚えていない。覚えているのは、年寄りの嫌いな殿様がおり、60歳になると年寄りを山に捨てにいくという習わし。

 大切な親でもこの習わしを破ることが出来ない。息子たちは涙を流して、父や母を背負い、姥捨山へと登っていった。

 更科に親思いの心の優しい若者がいた。母が60歳を迎えると、姥捨山に行かなければならない。若者は母をしっかりと負ぶい、涙をこらえて山に向かった。月のきれいな夜だった。

 母は息子が歩くたびに、ポキリポキリと木の枝を折っては道に捨てていった。 月が西に傾くころ、若者は姥捨山の頂上に近い洞穴に着いた。

 持ってきた食べ物を母の膝に置くと、
「おっかあ、かんにんしてくろ。近いうちにきっと会いにくるぞ」と言い残した。
「おらのことは忘れて、早く嫁をもらえ」と、母は言った。

 母の捨てた小枝は、息子の帰りの道しるべだった。
  母は山に置き去りにされた。人の骨が散乱する岩の上に、一人ぽつねんと座って月を見ていた。

 家に帰った息子は、さっき置いてきた母のことが気になって再び山へと。
 母を背負って我が家へ帰った。
 そんなことが村人に知れたら大変と、床下に穴を掘り、その中に母を隠した。


 一度、姥捨山に行ってみたいと思っていた。
 去年の5月、句友に誘われて、姥捨山と佐久鯉を見に出掛けた。姥捨
SAで休憩した。ここからは一般道に出られないので、更埴ICで出た。

 長男が小学四年の夏休みに、昆虫採集や、野猿公園とか、川遊びを楽しんだ3泊4日の家族旅行の帰りに「田毎の月」の側を通った。周りには木がたくさんあり、家などなく、月が田の一つ一つに映り、すばらしい情景だった。

 5月のときには、「田毎の月」の田は粗鋤きにされ、畦道に保存者の看板が立っていた。その際に、大きな桐の木が根を張り、お地蔵さんが傾いていた。近くまで家が建てられ、あの時とは大きく違っていた。これも時代の変化で、仕方がないんだろう。

 「田毎の月」を背に、少し上り坂を行くと、こんもりとした小山がある。そこが目的地の姥捨山で、車から降りた。そこからは徒歩。途中に、還暦碑や小さなお堂がいくつもあった。

 頂上の大きな岩山は、二方が絶壁になっていた。昔の悲しい出来事は嘘のよう。今は、誰でも岩山に上がることができる。ここから、善光寺平が一望出来、すばらしい。夜、灯がつけばもっと素晴らしいだろうなあ。

 山を去るころ、雨が降りだした。4人は姥捨駅に行った。今は無人駅。ホームにはつつじが咲き、駅の広場には、苺畑があり、真っ白な花がたくさん咲いていた。

 花を見ていると、心が安らぐ。旅の記念に俳句を作ってみた。

 粗鋤きの土に混じれり夏の芹

 姥岩に佇みをれば夏燕

 苺畑姥捨山の無人駅

 芹の花姥捨山の絶壁に

 登りきて姥捨の蚊に刺されたり

 木下闇石積まれたる還暦稗

 学舎に石盤置かれ藤の花

 解体の山車置かれたる古校舎

 60歳を過ぎた今、老母の介護真っ最中。
 母は生まれて間もなく父と死別。5年生のとき、母とも死別し、姉たちに育てられた。
 健康で働き者の母。89歳のころまでは、大好きな畑仕事がそれなりに出来ていた。

 90歳になった昨春のある日、夫が大切に育ててきた(あかざ)を鎌で切り落とした。藜は草には違いないが、よい杖を作るため、針金を巻き、形を整えてあった。
 仕事から帰った夫が、どうして切ったんだと聞けば、草だから切ったと言う。

 そんなことがあって数日後、母は、
「なんでか忘れてしまった。畑はやれんで、まあちゃんに頼む」
と言ってきた。
 夫は「分かった」と返事した。

 それからも草取りはしたが、91歳になった今年は、草取りする気もなくなったらしい。

 昨年の夏、最後の友達も亡くなられて、母は一人ぼっち。毎月、老人クラブから福祉の里へ行っていたのも止めてしまった。
 家の中ばかりじゃ可哀相だ、何とかしなくてはと、私はあせった。そこで、介護センターに週2回、通所することにした。

 最初は、母も私も何かと大変だったが、このごろは、早くから玄関の床に腰掛け、バスの来るのを待っている。「ヨシ子さん」と言って、手を引いてもらい、うれしそう。センターのどの人も親切でやさしい。家まで来て、バスに乗せてもらい、もったいないことだと言う。母が明るくなってよかった。

 だんだん物忘れが早くなり、今言ったこと、したことを忘れる。自分で仕舞った物を忘れ、私に聞く。同じことを何度か言ったり、聞いたりする。我慢の限界を越えることもある。

 高齢者と接している人は、程度の差こそあれ、同じことに悩んでいる。自分もそうなるかも。

 母は自分のことは出来るので、助かっている。今は、火を使わせていない。線香、ろうそくもやめてもらった。母は不服だが、仕方がない。

「歩かないかんよ。外がだめなら、家の中を行ったり来たりしなさい。歩かんと自分でトイレにも行けなくなる。頑張って歩いてね」
 時々、母に睨まれる。

 母の人生が、この先何年あるか分からないが、少しでも長く、自分を失わず、元気で生きてほしい。

 幸い、私は健康に恵まれ、体力、忍耐力もある。母にやってあげられることを精一杯やり、悔いを残さず、自分たちの生活を大切に、楽しく過ごしたいと思っている。
                                                「まいしゃ」第3号より


 

 

 
 

                                    △作品 バック目次へ
作品−25 豆を作ってきた    

                             M ・ I

 この数年、晩秋の今頃になると、よく口にする言葉がある。

「もう来年は作らないからね」

 60代に入って3年たった年だったと思う。毎年作ってきている豆が特に不作だった。出来の悪い作物の収穫処理は本当にいやなものである。

 その時口に出してしまった第一声であるが、その後体力の衰えや老化も速くなることから毎年のように言っている。松本町での豆作りは、嫁して間もない頃のある朝だった。

「いりゃあす?」
「はーい」

 玄関に顔を出すと西隣のおばさんだった。

「苗が残ったであげるに植えときゃあか」
「有難う」
「ほな、ここへ置いとくでな」

 ついでの話をするのでもなく帰って行かれた。嫁してまだ日が浅く親しく言葉を交わしてもいない頃である。苗は少々しおれた表情で小さかったが、3、40本あるようだった。

 縁側で糸結びをしている姑に声をかけると
「植えても植えんでもどっちでもええぞよ」
つぶやくようにぼそぼそとしたもの言いである。

 隣のおばさんの好意を無にしたくないが、どこに植えたらよいかわからない。姑もわからないそうだ。夕方まで待つことにした。水をかけ、木陰に入れておく。

 結婚話が具体化する頃、話題にしたことがある。女が主体になってやらねばならない百姓はしたくない。とてもきつくてえらいからと言ったら、百姓仕事はしなくて良いとのことだった。

 おばあちゃんは84歳。若い頃から身体が弱く、田の仕事はもちろん畑の仕事もほとんどしなかった人だ。「気ままが薬」ということにしてあるから承知してほしい。留守番、家事がしてもらえれば良いという。

 だが、その時、百姓はやらなくてもよいが、田畑のある家だから家族の食べる分に1反だけ作付けするつもりだ。おれがやるでいいからな。

 反くらいなら、1人でやっても軽いことと思えたから反対の意思表示をしなかった。夜になって豆の苗の話をすると、姑と同じようにどちらでも良いが、植えたければ中田に植えなさいという。

 翌朝、家からお宮さんへ行く途中の中田へ案内してもらった。この中田は3年ばかり草生えのまま荒れていたが隣接している田のMさんが

「人手ができると聞いたで、今年は植えやあすといいから、自分の田を耕す時、草を焼いといて耕しておいたで植えやあな」と言ってくださった。

 そう言われては植えないとも言えず、東神明町の妹夫婦に助けてもらい植えておいた。半反くらいあるだろうと説明された。小さな畝まちが四つあり自分畦(隣接地の下畦)が多くなっていた。

「では、今日植えておきます」
「どっちでもいい。好きにしなさい」

といって夫は勤務に向かった。

 その日、畦に豆を植えつけた。嫁して初めての農作業だった。この日植えずに以後もサラリーマンの主婦になりきっておくと良かったかな……。その後、現在も時にはふと思う。

 畦豆作りは楽なものである。成長を見せる頃、肥料を少し根の近くに施して豆泥をおき、根をしっかりと張らせる。畦草を2回も刈ってやれば上々の収穫となるのである。

 11月頃になると葉を落とすので抜き集め、はざがけにし乾燥させてこなせばわけのないことではあるが、豆作りに手を出したことからと言えようか、おばさんがよく声をかけて教えて下さる。

 近所のおばさん2人、裏隣のおばさんも、年令は同じ60歳で村一番の働き者と言われる2人だ。互いに競い合うようなところも見られた。

 私も里では、父のいない家の農業をかなり頑張ってこなしてきた経験者であったから、1年、2年と過ぎ、嫁いで来た家に田畑はかなりあるが草生えで荒れており隣に迷惑をかけてきている事実を知ってきた。

 それやこれやで手が出て足を出すことになってきたのだ。一生けんめいに働いて当たり前で段々いっぱしの百姓女に鍛えられた。

 小作地が返されたり、農地改良で草生えの田が整地されてきた。草生えの荒れ田にしては申し訳ないと3反が4反になり5反にもなって田植えをすることになったものだ。現在は息子たちが田の稲作だけはやってくれている。

 区画整理されてからは畦に豆を作らない協定がなされて畦に豆を作ることはなくなった。畑や田に作るようになって、土壌によって出来具合が異なる。天候に左右され易いと豆もむつかしい作物だ。下手で不出来も再々になる。が豆作りは、大なり小なり続けてきた。

 米の減反政策で1反も豆を作付けたこともあった。さすがに大変な思いをしたものだ。家には、輪転式脱穀機がなかった。風飛ばしをするトウミも使わないからと他家へあげてしまってなかった。

 田畑はかなりあるのに百姓家らしくない農家になっていた。姑が横槌で叩いてこなすとよいこと、酒の1升瓶をおいて叩きつけるとよいなど教えてくれた。しかし1反も作付けた時は追いつかない。よく干し上げて踏みつけてこなし木枯の風力で仕上げた。

 えらいえらいと言いながらも、白豆、赤豆、黒豆、緑豆、あづき豆、うずら豆など、おいしいからと種豆をいただいて作付けた。3種類も5種類も作った年もあった。たくさん収穫できた年、新聞紹介の作り方で味噌を作ったことがあった。上出来でとてもおいしかった。

 豆腐も作った。主人が糖尿病の1年間、豆腐をせっせと作りおからも食して治療に精を出したおかげで現在の健康を得たと思う。豆は健康を支える大切な目玉食品であるから毎年作付け頑張ってもきたのだ。若かったし、元気も出せた。

 70代になる2001年だ。去年から丹波の黒豆を作るようになった。丹波の黒豆は本当においしい。黒豆は栄養価も高いということであるから、今年は丹波の黒豆だけにした。一種類で苦労も減らせるというわけだ。手軽くいけそうで作付けが少々多くなってしまった。

 9月10月枝豆シーズンになって枝豆のおいしいこと。おいしいこと。たくさん植えたからと毎日食べた。他家へもさしあげたりできた。

「めっちゃ旨いね、丹波の黒豆の枝豆がこんなに旨いものとは初めて知ったよ」東神明町の甥が賞めてくれたので、又二回ばかり運んだりもした。

 とにかく今年はたくさん作付けたので、黒豆の減収になると危惧することもなくふんだんに枝豆にして食べられた。このおいしさは、豆作りしたおかげ、作っておいて良かったねと語りにもした。

 だがしかし、11月末になって取り入れに入ろうとしたが豆の葉がほとんど青くて落ちないでいる。実りが揃っていないのだ。

 11月23日、勤労感謝の日が過ぎた。4、5回の霜にも平気で緑を残している。師走に入ってしまう。又今年も
「来年はもう作らないよ」

 口に出て来そうである。

「わだち」第14号より


 

 
 
 

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作品−24 酒 と 海鼠(なまこ)──海鼠美味いかショッパイか──

                                    村上 静枝

 私は巷で俗に言う下戸である。ということはつまり私の父も下戸だったということである。

 私が子どもの頃、父は付き合いの酒宴から帰ってくると真っ赤な顔で、ふうふううと大きな息をして苦しそうだった。
 よく皆で「金時さんの火事見舞いだ」と笑った。
 金時さんは、それでも苦しい息のしたで、よく「山中ぶし」を唸っていた。

 長じて私も何度か酒の席に出る機会があったが、やはりお猪口一杯で真っ赤になり、他人には酒類はだめな人と思われている。しかし、下戸だからと言って酒が嫌いとは限らない。むしろ、量的にはあまり飲めないが、私は酒が大好き人間なのだ。

 夏には冷たくてさっぱりしたビールが何と言ってもいい。
 冬にはやはり熱燗で一杯がほのぼのとして旨い。
 そこで「酒と海鼠(なまこ)」である。

 海鼠ほど酒にマッチしたツマミは他には見当たらない。ほのかな甘味と辛味がとろんと混ざりあった日本酒と、コリコリと噛み応えがありピリッと鷹の爪と酢が効いた海鼠は絶妙の取り合わせである。

 私は、金時二世になりながら、この味は日本人でなければわかるまいと大いに堪能する。

 料理前の生の海鼠は何とも気持ち悪く、色や形を見ただけで食欲が減退する。ましてや、自分で切り刻むとなると相当の勇気がいる。

 しかし、塩で揉まれ俎板の上でゴリゴリと転がされて、食べやすく切られたころには、何とも旨い食べ物に変身している。最初に食べた人には、「あのグロテスクな風体に、よくぞ」と脱帽である。

 

 私が酒の味に目覚めたのは、今は昔、ある会合の新年会に出席したことからだった。

 今となっては会合の内容は定かではないが、北陸は金沢の料亭で出された、海鼠としめ鯖を肴に地酒を飲んだときの印象が、鮮烈に今も残っている。

 あの忘れ難い思い、身体に電流が走ったように感じたあれは何だったのだろうか。
 ひょっとして大人の世界への憧れも少しは混じっていたのかも知れない…。

「うまい」
「酒ってうまい。ええ、酒っていいなあ!」
 二十歳の私は素直に感動した。

 あれから時が流れて私の子どもも酒を飲む年齢になった。
 ところがよくしたもので、子ども達は女男二人とも父親の遺伝子をしっかりと受け継ぎ、酒が飲める体質ときている。

 しかも、息子に至っては高校生の時からビールなんぞを夫と一緒になって飲み、うわばみ体質十分である。

「日本酒飲む?」
「チュウハイかワインなら飲むけど、日本酒はいらん」

 おいおい。海鼠にはビールもワインも似合うけれど、おばあちゃんがよくつくってくれた寒鱈の煮物や日本鯖の酢〆などには、やはり日本酒が一番だよ。

 昨年亡くなった母は、私が海鼠を大好きなことを知っていて、いつも里帰りをする大晦日や正月には準備をして待っていてくれた。けれど、今年からは私がごりごりと海鼠に塩をまぶし鯖をしめねばなるまい。

 そう、ぜひとも次の世代に、「山中ぶし」なんぞをバックに杯を傾けつつ
「うーん、よくぞ日本に生まれけむ」

と言わせしめるように。
                            (春日井市自分史友の会「わだち」より)
                                         


 

 

 
 

                                          △作品バック目次へ
作品−23   
孫呉の空に演奏は響けども      

                               神 戸 孝 允

 孫呉は北満小興安嶺に続く丘陵の連なりを背にして東に開けた地にあった。私の入隊した独立守備268連隊は、練武台と名付けられた丘の上にあった。

 元は昭和11年の2・26事件に関わる東京の歩兵第一連隊が移駐し、北満の寒村であった孫呉の地を軍都として開発したものであった。

 その後、昭和16年の関東軍特種大演習に依って増強されたが、昭和19年から20年3月にかけて、東京の参謀本部からの関東軍に南方転戦の意向を、当時関東軍参謀総長(朧な記憶のまま記載、調査確認不足)であった梅津美治郎(終戦時東京の参謀総長)が受け入れ、孫呉の部隊はサ号作戦名によりレイテ戦線に転戦した。この時重火器も携行したため、北満の国境は手薄になった。

 私達はレイテ転戦の穴埋めとして現役召集され入隊したもので20年2月10日、兵庫県加古川の戦車隊が九州方面へ演習に出掛けて留守になった兵舎を利用して編成、5日後には北満に出発した。連隊は少数の残留兵が居るだけで兵舎の殆んどは空き兵舎であった。

 その後3月には在満の既教育兵が招集され漸くこの時期になって、南方転戦によって崩れた儘の関東軍指揮命令系統が再編され、私達は、第四軍に属する123師団(師団符号松風)満州第15202部隊268連隊となり、1中隊から3中隊に編成替えになった。

 5月になって、在満未教育兵(年齢40歳代)および義勇隊からの現役兵が召集を受け、更に2次にわたって朝鮮人現役兵が入隊した。その中には日本語を知らない兵もいて、日本語教育を施す有様であった。

 さらには根こそぎ動員と呼ばれる召集が7月に行われ、一応人的には連隊の陣容は整ったが、兵器を伴わない集団であった。東京の参謀次長河辺虎四郎の手記に「蘇は遂に起ちたり、余の判断は外れたり」とあるが、東京の参謀本部が如何にソ連について甘い認識をもっていたかがよく判ると思う。

 最後の根こそぎ動員で入隊した中に、新京交響楽団でトランペット奏者であった団員が入隊し、私の中隊へ配属になった。

 中隊ではこの新兵を喇叭手として教育していた。8月7日この団員を慰問するため、新京交響楽団が連隊を訪れた。連隊では8日、連兵場に舞台を造り、連隊本部から各隊とも軍務に支障なき限り、各員出来得る限り演奏を観賞せよと、通達があった。

 私達は同じ二等兵であったが唯一軍事教練を終わり1期の検閲を受け、連隊の各任務に就いていて、とても楽団の演奏を観るどころではなかったが、私は古年兵が声を掛けてくれたので、練兵場の舞台へ駆けつけると、丁度最後の曲目、「勝利の日まで」が始まった所であった。

 中隊に配属になった団員も、楽団に混じって、トランペットを奏しており、軍服の侭の姿は一際目について、水を得た魚のような演奏に顔も紅潮していた。盛大な拍手と共に演奏会は終わり、私は直ちに中隊に帰り軍務についた。

 交響楽団はその夜、将校食堂で歓待を受け一泊したと聞いたが、翌日ソ連が満州に進攻して戦闘状態に入った後、楽団員がその後どうなったかは知らない。

 関東軍上層部がソ連の動向に気付いていなかったとは思わないが、開戦の前日、華やかな演奏会で「勝利の日まで」の最後の音色が空しく孫呉の空に響いたのだと今になって回想している。

                          (春日井東部自分史友の会「けやき」創刊号より)     △作品 バック目次へ