さしのべられた腕 〜儚き夢〜 第二部ヌートの血祭り 9

 貴族に競り落とされたカールは奴隷の中でも価値が上がり、地上部の個室が用意された。
地下の控え室でも十分な待遇だったが、そこでは飢えを満たす以上の食事が振舞われた。
 暖色系でまとめられた内装が暖かい色合いを放つ一方で、窓に嵌められた鉄格子と扉の厳重な鍵が冷たさを際立たせている。
新たに付け直された魔力封じの首輪は肩が凝るほど重たかったが、一人で過ごせる空間と肌色の壁紙は、剥き出しの岩牢よりも心を落ち着かせる効果をもたらした。
 カールは備え付けの浴室で体を洗い流し、上半身裸という生活を強いられていた心身を癒した。
箪笥の中には幾つか服が入っており、カールはその中から白の貫頭衣と襟付きの上着を選んで袖を通した。
寝具は羽毛を使用して作られ、その柔らかさにカールの身が沈むほどだった。
 カールは寝台の角に腰掛け、少女からもらった首飾りを燭台の火に透かして見ていた。
聖十字は宝石の裏側から光を当てないと見えない彫り方をしてあるようだ。
(良い細工物だ。問題はこれをあの少女が何故持っていたかということだな)
聖十字の装飾品を持つ者はアヴァンクーザー信徒以外に考えられなかった。
 アヴァンクーザーの紋章にはいくつかの種類がある。
聖堂には聖十字の周りを一匹の龍が囲っている紋章が飾られ、正式な紋章は聖十字そのものがお互いの尾を銜えて絡み合う二頭の龍で表される。
開祖アヴェルがアストラルと共に授かった刻印が簡易版の神紋、丸十字であり、この首飾りにはその紋様が彫られていた。
 一見ただの首飾りとしか見えないように作ってあることを考えれば、あの少女がアヴァンクーザー神を崇拝出来る立場にないという見方も出来る。
異教の神への信仰が露見すればただでは済まないその困難な環境にあっても、神を崇拝せずにはいられない彼女に相通ずるものを見出したカールは心が奮い立つのだった。
少女が止めなければ、カールはレグスを追って奈落の底へ落ちていただろう。
絶壁の淵へと押し出された時に訪れた奇跡は、同時にアストラルを背負った運命から逃れられないことを示していた。
 くじけそうになれば成る程、何かに助けられ前へ進ませられているという奇妙な感覚。
その『何か』が神であろうとなかろうと、カールには利用する以外術は無い。
アストラルを本殿へ返す道のりを守られているような心強さを感じていながら、何も出来ない歯がゆさは刻一刻と増していた。
カールは少女と引き合わせた神に感謝し、首飾りを握ったまま両手を組んで祈りを捧げた。
 扉を叩く音がして、カールは首飾りを腰紐の中へ押し込んだ。

 鍵と閂が外される音が二回した後、昼間の暴行を止めたギルバが入ってきた。
鎧も肩当も外した後に残ったのは中年に差しかかった、ただの男に見えた。
風呂上りらしく、黄土色の髪の毛が濡れてかすかに湯気を纏っている。
「何だ、痣一つ残ってねぇじゃねぇか」
親しげに話しかける男に対し、カールの顔が険しくなった。
 カールは生身の人間からはかけ離れた特異体質になっていた。
アストラルを体内に取り入れて以来、わざわざ傷が治りにくい術をかけておかないとすぐに治ってしまうのだ。
 カールは寝台から立ち上がり、腕を組んで言った。
「何しに来た」
ギルバは壷のような酒瓶を見せ、白い歯で笑う。
「祝杯に来たぜ」
意外な返事に言葉を失ったカールに構わず、ギルバは戸棚から二つのグラスを出して透明な酒を注いだ。
その動きを見ながら、カールは冷たく言った。
「何も祝う事など無い。誰が商品だ、ふざけるな」
「ん? 何ださっきの事か。まだ怒っているのかよ。ここを出られるってのにいちいち……」
「奴隷としてな」
カールの指摘にギルバはわざとらしいため息をもらし、グラスをカールの前に突き出した。
「ほら飲めよ、一杯やれってお前の後見人がくれたんだぜ」
その目は陽気に笑っていた。
 コロッセウムの地下でこれだけ明朗な男はギルバぐらいだろう。
目の前に突き出したグラスを断固として動かさない様子のギルバに折れ、カールはしぶしぶ手に取った。
「毒なんて入ってねぇからよ、飲んでみろ」
カールはギルバから目を離さずに、一口飲む。
酒が喉の奥へ通り過ぎた後に、舌が慣れ親しんだ味わいを感じ取った。
「これはセル・セアの源泉を使った地酒じゃないか! この辛味は、第三公共広場の屋台にしか売っていないものだぞ、しかも冬季限定の……」
「おい、お前詳しすぎるぞ。本当に神官だったのか?」
ギルバはカールを訝しげに見ながら、しなやかな獣皮の長いすに腰を下ろした。
「失礼な。今でも神に仕える身のつもりだ。どうやって手に入れたんだ、酒蔵は無事なのか」
そう言いながらも、カールは酒をすするのを忘れない。
切れた口内に少ししみるが、酒を飲む動きは止まらなかった。
 神殿でよく飲んでいた酒は彼を郷愁へ導き、晩酌していた日々が蘇った。
飲みすぎですよと酒瓶を取り上げられて始まるレグスとの喧嘩、仲裁に入ってもなんの役にも立たないセリウス。
強い酒で喉が焼けるよりも目頭が熱くなっていた。
「詳しくは知らねぇが、俺たちの後見人はサマルドゥーンに縁があるらしいぜ。卿が後見人のうちはこの酒にありつけるってわけだ。俺たちは運がいい」
カールはグラスに残った酒を一気に飲み干した。
「弟も見殺しにして尚、奴隷として生きていくというのが良い運か」
最後の一口は、舌に痛みをもたらすほど辛かった。
「何だよ、いつまでもうだうだしやがって。どうせ自分があの子供を殺したも同然とか思ってるんだろ」
ギルバはずけずけとカールの心に土足で上がる。
レグスを子供と呼んだギルバの豪快さの難点は、無神経とも受け止められることだった。
あまりに的を得ている為に反駁する言葉も見つからないカールは苦し紛れに呟いた。
「あんたとその話をする義理は無い、出て行ってくれ。酒だけ置いてな」
カールはそう言うと、酒瓶を抱えて窓辺へ寄った。
 鉄格子の間から見える空は澱んで、星一つ見出せなかった。
自棄酒に溺れたくて、カールは酒瓶の淵に直接口につけて飲み始めた。
「おい、俺のだぞ! ちくしょうッ」
ギルバは頭の後ろで両手を組み、長いすに横になった。
居座る体勢になったギルバを横目で見ながらも、カールは振り返らずに酒を飲み続けた。
それから聞こえてきた静かな声は、今まで聞いたギルバのどんな声よりも厳かで重々しかった。
「……話したくないなら、俺が一人で喋ってやる。聞いてろ」
貴重な酒を分かち合いに来たわけではないようである。
(何なんだこの男は)
カールはテーブルに酒を置き、寝転がっているギルバの真向かいにある椅子に座った。
 つかみ所の無い大男はカールの調子を狂わせていた。
「ここで知り合いと戦う奴は少なくない。俺はそういう奴を沢山見てきた。まぁ、生きたいがために構わず友達を殺そうとする奴がほとんどだがな」
カールは背中をソファに預けて足を組んだ。
「俺の友達もそうだった。話せば長くなるがな……酒の肴のつもりで聞きやがれ」
ギルバの鳶色の瞳は蝋燭を映して橙に燃え上がっていた。
 ギルバがその男と会ったのは隣国ソリヴァーサのソル・エドム山中にある孤児院だった。
傭兵をしながら当て所も無く世界を旅していたギルバが行き倒れたのが、孤児院の前だったのだ。
「花と子供が好きで、女みたいな奴だった」
頼り無さそうな体格をした体に、黒い長髪。孤児院の院長は女のように優しい面持ちをしていた。
若い院長は警備と子供達の相手をする条件でギルバに衣食住を約束した。
がさつながらも子供に対して体当たりでぶつかっていくギルバはすぐに孤児院に溶け込み、毎日遊んで暮らした。
 彼らがヴレード兵に捕らえられたのは、子供達と山へ遠出に行った先でのことだ。
現皇帝になってからまだ一度も戦が無かった為に祭りに出場する奴隷が不足し、それを補う目的で派遣されたヴレード兵に国境付近で捕まったのだった。
「奴は迷う事無く自分の命と引き換えに子供たちを見逃すよう兵士に懇願した。俺はもちろん抵抗したがな、結局捕まっちまった」
筋骨隆々とした無骨な男が、長いすに身を投げ出して思い出話に浸っている。
無言でギルバの話を聞きながら、カールは意図を探っていた。
外見だけ見れば無骨で昔話に浸れるほどギルバは繊細では無いし、饒舌には見えなかった。
「牢の中で俺達は約束した。子供達はお腹を空かせ、不安でいる。どちらかが勝ってここを出たら、必ず孤児院へ戻って子供の面倒を見るってな。けどよ、俺はどうしたらいいのか解らなかった。一戦目で奴に当たっちまってよ」
カールは自分の、生唾を飲み込む音を聞いた。
 一戦目。
カールが最初で最後に体験した、生きた敗者は処刑されるという残酷な規則がある試合である。
「……それで、どうしたんだ」
ギルバが生きている、その事実が結果だ。
だがカールはその選択に行き着くまでの過程を問わずにはいられなかった。
外廊下を歩く軍靴の音が静かな部屋に響き、二人の胸を苦しく締め付けていた。
 二人はいつまでも致命傷を与えられずに、血に塗れながら戦った。
床は血で滑り、目に飛び散った血を拭う暇も無く二人は剣を交えた。
殺せ、殺せ、殺せ……!
観客の常軌を逸した声援が渦巻く中、どちらかが失血死するまで戦うのかと思われた時だった。
「俺は今でも頭から離れねぇ、あいつの目が……!」
獰猛な獣が獲物に襲い掛かる瞬間に見せる目だった。
生き残らねばならない理由など頭からとうに消え、生きようとする本能が彼を殺戮者に変えたのだった。
そんな友人に、観客は喜んで声援を送った。殺せと。
「あいつは優しい奴だった。あんな獣みたいな奴じゃなかった」
カールは淡々と語るギルバから視線をそらした。とても、見ていられなかった。
「俺を殺させたら、こいつはどうにかなっちまうって思った。俺は花と子供を愛したあいつがいなくなるのが耐えられなかった」
ギルバはテーブルに手を伸ばして酒瓶を取ると、寝ながら飲み始めた。
喉を鳴らせながら全て飲み干すと、口の端から首まで流れた酒を腕で拭った。
「俺には言い訳にしか聞こえない。あんたはそうやって彼を殺した事を正当化しているだけだ」
「そうかもしれん。だがな、俺は後悔していないぜ」
カールは膝の上で拳を握り締めていた。
(人を殺して後悔していないだと)
偽善以上の罪だと、カールは思った。
 テーブルに戻された酒瓶の中は空だったが、カールは酒への執着などすっかり忘れていた。
視線を陶器の酒瓶一つにしぼることで意識を外へ向けさせ、冷静さを保とうとしていた。
レグスの死で負った傷を故意にこじ開けようとしているのか、それとも他意は無いのか。
カールにはギルバという男の考えている事が解らなかった。
「どんな奴になっても、どんな状況でも生きて欲しいって思うなんてな、後のことを全然考えていない無責任野郎が言うことだろ。願望の押し付けだ」
「違う、後のことを考えるからこそ今を乗り越えて生きなければ」
「ほとんどの奴はここから出られるなんて希望も持てねぇ。お前は絶望ってやつを知らねぇんだよ」
ギルバはカールの反論を遮った。
 下がりつつある瞼を持ち上げるようにして目を開きながら、ギルバはカールを見る。
後ろめたい気持ちなど何処にも無いというのに、カールは視線を下げて逃げた。
「お前さんの仲間が味わった絶望を、解っちゃいねぇんだ。だからそんな無責任な事を簡単に言える」
カールは押し黙った。
突然脳内に空白の部分が出来たように、何の言葉も思いつかなかった。
仲間を思う気持ちを否定され、更に絶望というものを知らないという指摘は指導者としての素質を問うものだった。
『貴方のようにはなれません、カール様』
レグスは確かにそう言った。
彼らが幻滅した事とは一体何だったのか?
救いをもたらさなかった神とカールへの期待に対する裏切りか、それとも奴隷剣闘士となって直面した死か?
カールはそう仮定しても自分には当てはまらないことを知っていた。
レグスとの戦いを経て彼を失っても、生きていたくないほどの苦しみを感じてはいないのだ。
必ず遂げなくてはならない使命故に。
(オレは何も解ってやれていなかったというのか。生きて欲しいと思うのがそんなに押し付けがましいことなら、オレはどうすれば良かったんだ)
ギルバを見ると、顔を赤くして今にも眠りそうに見える。
この酔っ払いの一言に頭を悩ませてしまう自分が、カールは愚かだと思えてならなかった。
「ホラ、直ぐにそうやって迷っちまう。お前さんは甘ぇんだ。何かを貫く決意があるのなら、犠牲はつきものだろ。その覚悟がねぇなら何も貫けねぇ」
仲間からは残酷だと言われ、何も知らない男からは甘い、覚悟がないと言われる。
カールはもはや酔っ払いの戯言として受け取れず、自分への不信が募る一方だった。
 思案にふけるカールには目もくれず、ギルバは話を続けた。
「俺は九十九(つくも)斬りという剣闘士の契約を結んだ。優勝者以外に選ばれる見世物奴隷と戦う役目でよ、99人勝ち抜かなきゃ自由の身になれん。それまではバッサリと斬り続ける」
「孤児院に行く前に一体何人を殺すつもりだ」
思わず嫌味が口を突いて出た。
だがギルバが血に汚れた戦士に成り果てても、心まで蝕まれることはないと解っていた。
そう思わせる心の清さが、この男にはあるのだ。たとえ行いが血なまぐさいことだとしても。
どれだけ時間がかかっても環境に順応できない奴隷が多い中で、ギルバはその潔さを天性のものとして最初から持ち合わせていたのだった。
死闘の場数を踏んだ体は生きる術を本能的に悟っているに違いない。
ギルバのように様々な苦境と戦いを勝ち抜いた男が見せる剛毅な精神力さえあれば、孤児院長は生きる目的を忘れて狂うことなどなかっただろう。
容認できる範囲が狭い為に、許容量から溢れ出るような心境が絶望に結びつくのだ。
「実は今97人目でな。今回のヌートで晴れて自由の身の予定さ」
相手の心情を思えば振り下ろす剣の動きが鈍るが、ギルバの一撃は無情と温情が錯綜した重たい一振りだ。
もしこの男と剣を交える機会があれば、全力で戦うことが出来るとカールは思った。
否、全力で挑まなければ相手の生への渇望に呑まれてしまう危険をはらんでいる。
カールはギルバと対戦せずに済んだ幸運に気付いた。
そして、一見冷酷とも見える潔さに惹かれ始めると、カールはギルバを己と比べずにはいられなかった。
「だが、友達の願いをお前が叶えた所で人殺しの罪は昇華されない。あんたは救われないのだぞ」
ギルバは掌をひらひらと振って言った。
「なんだぁ、お前。……えーと、神官、っぽいことを言うじゃねぇか」
地酒の酔いが回り、呂律が回らなくなっている。
ぼんやりし始めた思考回路を繋ぎ止めて言葉にするのに苦労しているようだ。
 たとえアストラルを本殿に返すまで守り通せたとしても、犠牲は多い。
人は目的の為に手段を選ばない。そして、固い信念の前に、目的も無い人は脆すぎる。
本心からそう思ってはいても、神殿に逃げてきた市民や仲間も見殺しにした結果に耐え切れる度量は、カールには無い。
彼は己の罪を知っているが為に味わう苦痛を甘んじて受けなければならなかった。
この世に命の天秤が常に水平に保たれるような平等は無く、何者かの判断でどちらかに傾けられる。
罪を知っていてあえて犯すか、それとも罪から逃れる為に理想を常に求めるか。
その迷いこそが甘いと言われる所以だった。
「己の目的の為に、たとえそれが誰かの為であってもそれを理由に人の命を手にかけていいわけがない。それが甘いというのか!」
カールは顔面を片手で押さえ、吐き捨てるように言った。
「剣を放り投げた時の、あの威勢の良さが、戻ってきたなぁ」
ギルバは白い歯を見せ、愉快そうに笑った。
 彼が言った通り、カールは戦闘意思が無い事を示して剣を放り投げ、最後まで試合の規則に逆らった。
どんなに巨大な力でも、カールの意志を曲げる事は出来なかったのだ。
挫折を感じている暇など無い。ギルバの一言は力強く、カールの背中を押した。
「お前は……ここにいちゃいけねぇ、そんな気がする。いいかぁ、明日、絶対契約しろよ……」
指をさして途切れ途切れにそう言うと、ギルバは豪快な鼾をたて始めた。
深夜の部屋に響く鼾は廊下にも洩れているに違いない。
大口を開けて寝ているギルバを見ながら、カールは呟いた。
「こいつ、全部飲んだな」
肩の力が抜け、カールは椅子に寄りかかった。
 目的が果たされるとすれば、その間に一体何人の命が犠牲にされるのか。
ギルバのように何人も犠牲にせねば悲願を成就できない時、耐えられるのか?
苦渋の選択をしなければならない時、何を優先するのか。
ギルバの決意がカールにも現実味を帯びて圧し掛かった。
(弱点はそこか。残酷になりきれない、俺の)
カールは腰帯から首飾りを取り出して握り締めた。

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