さしのべられた腕 〜儚き夢〜 第二部ヌートの血祭り 8

 レグスに切りつけられた胸の傷はアストラルの力によって塞がり、傷跡が薄っすらと残っている程度だ。
だがあまりの心身の疲弊に虚脱感さえある。
過度の緊張と激昂が収まった後には、もう地に足がついていないようだった。
「二回戦までここで待て」
地下の待合室に戻ると、兵士はカールを広場に放り込んですぐさま入り口の鍵を閉めた。
 階段を駆け上る軍靴の音を聞きながら、カールは待合室を振り返った。
そこには一戦目に勝って次の試合を待つ者、勝っても買い手が付かず処刑に怯える者が無言で座り込んでいた。
血と汗の臭い、そしてあらゆる思念が撒き散らされている控え室は戦場さながらの光景だった。
戦同様、相手を殺さねば生き残れないのだ。
 顔や体に浴びた返り血を洗い流さず、冷めやらぬ興奮に目をぎらつかせている囚人がいた。
一度手を汚した者は理性のたがが外れて、次の殺人に何のためらいも無さそうだ。
頭を抱えて蹲っている者はまだ壊れかけであり、ぶつぶつと言い訳を唱えながら己の手を見つめて震える者は狂人と人との狭間にいるように見えた。
ここに来た時より人数が少ないことは確かで、もう半数近くになっていた。
 カールはエドレルを探したが、牢の中にも広場にもいなかった。
予想はしていたものの、想いを違えたあの会話が最期になったことがカールに重く圧し掛かっていた。
憔悴しきって壁にもたれるカールを神官達は白い目で見ていた。
彼らは他の捕虜よりも神経が高ぶっているようだ。
カールに一切の責任を負わせるという我意を押し通してはいても、淡い期待を抱いていたのだろう。
彼らは師が言葉どおりに相手を殺めることをしなければ、殉教したと認めるつもりであった。
だが一戦目から戻って来たカールの姿を見た壮年の神官は、失望も露わに言った。
「殉教することも出来ず仲間を殺して凱旋ですか。貴方の信念とやらはどうしたのです」
神殿敷地内の警備を担当していたその神官は、友達であった神殿騎士を神殿の前で何人も失っていた。
お前が私の友達を殺したも同然だと、痙攣する目で語っていた。
見殺しにした事実は拭えない。せめて誠実であろうと、カールは交わした視線を逸らさなかった。
 殉教を求められていたことを感じ取ったカールは、彼らにとってやはり自分は必要なのだと再認識した。
それこそ体当たりで相手にぶつかって自分の想いを伝えれば、微々たるものでも関係の改善が可能かもしれないと思う一方で、カールは別のこと考えていた。
彼らに何が出来るのかカールが思い浮かべてももう何の躊躇も起きない。
かつては羨望の対象、今は憎むべき唯一の矛先。
それでいい、と心底彼は思っていた。
彼らにとって肝要なのはどのようにして生き残るかではなく、どんな手段を用いてでも生き抜くことなのだ。
人を殺めるのはその過程に過ぎないのだろう。
自分とは違うのだと、カールは今更ながら己に言い聞かせた。
憎しみが生きる糧となるのならば、彼は憎悪の的でも一向に構わなかった。
(俺はこういう愛し方しか出来ないのかもしれない。自己犠牲でも無い、臆病者のやることだ)
少女からもらった物を心臓の上で握りしめると、それだけで不思議と胸のつかえが取れていく。
カールは二回戦をどうやって切り抜けるか考え始めた。
 欠伸をしながら牢を出てきた捕虜が、掌を見つめるカールを見逃さなかった。
突然男はカールの腕を捻り上げ、掌を無理やり開いた。
「てめぇ、何持ってやがる」
掠れた声の男はカールからそれを奪い取り、高く掲げた。
太い二の腕に刻まれた碇と海竜の刺青、日焼けした浅黒い肌はサマルドゥーンの水夫であることを示していた。
かなりの巨漢で、カールは見上げなければならなかった。
「おい、こいつこんなものをもってやがるぜ、仲間を殺した勲章か!」
男は集まって来た囚人達にそう言い、不ぞろいな歯を見せて笑った。
「返してくれ」
カールは静かに言った。
どうすれば穏便に返してもらえるか考えたが、静かな水面に出来た波紋は荒波となってカールに押し寄せた。
 いつの間にか、カールを中心として人だかりが出来ていた。
「お前もとうとう人殺しだなぁ」
男はカールを同類と思ったのか、馴れ馴れしくカールの肩に手を置いた。
「返せと言ってる」
揶揄する男に手を差し出して、カールは強く言った。
「うるせえ」
男がカールの頬を殴った拍子に、手の中にあったものが何処かへ転がった。
「どうせすぐに術で治しちまうんだ、構わねぇ、やっちまえ!」
その一声を合図に、すぐに三人の男がカールを殴り始めた。
 餌にとびかかる飢餓者のような男達に殴られながら、カールは理由などどうでもいいのだろうと思った。
はけ口が一つでもあれば彼らも冷静に物事を考え、逃げる機会が増えるかもしれない。
そう考えながら、カールは頭を腕でかばった。
膝の裏を蹴られ、その場に倒れ込む。すると鳩尾を容赦無く蹴られ、口から血が噴出した。
神官達は人垣から少し離れた所でカールが袋叩きに合う様子を見ていた。
口元に薄ら笑いを浮かべている神官が、カールの目の端に映った。
やがて調子付いた一人がカールの上に馬乗りになって顔を殴り始めた。
 このまま気を失ってしまえば体を休められるし、余計な事も考えずに済む。
物事を良い方に捉えはしても、痛みは耐えがたかった。
頭に拳が当たる度に、目の前が真っ白になる。レグスの姿が現れては消えていく。
彼は己の罪を誰かに裁いてもらいたいというレグスの想いが解った様な気がした。
体が血を流して痛めつけられ続ければ、許されない死との距離が近づいていく。
(やりたいだけやれ、俺に何もかもぶつければいい!)
過酷な状況に自分を追い込めば追い込むほど、それはカールにとっての戒めになった。
 カールが防御することも出来なくなった時、騒ぎを聞きつけた衛兵とギルバが黒山の人だかりを掻き分けた。
「何やってる、こいつは買い手がついたんだぞ! 商品を傷つけたらお前らただじゃおかねぇ!」
ギルバが怒鳴りながら剣を抜くと、暴漢は捨て台詞を吐きながらあっさりと散った。
カールは体をくの字に曲げ、咳き込みながら血を何度も吐いた。顔面が熱を持ってじんじんと脈打つ。
一通り殴られた後で、カールはどんなに深手を負っても状況は変わらないという当然の事に気付いた。
笑いがこみ上げてきたが、腹部の鈍痛がそれを許さなかった。
 貴族に買われた商品に何かあっては首が飛ぶのだろう、衛兵は囚人を怒鳴りながら追い立てて牢に入れている。
「大丈夫か、あまり逆なでするようなことはするな」
ギルバが手を差し出したが、カールは自力で起き上がった。
「放っといてくれ」
そう言っているつもりだが、唇の感覚が麻痺してもつれていた。
(拷問に比べれば楽だ)
カールはよろよろと噴水まで行き、汚水に塗れたような寂れた地下で唯一清浄たる水に頭を突っ込んだ。
熱をもった皮膚が冷やされて幾分痛みが和らぐ。
次に口をすすぎ、口内の血を洗い流すと崩れるように座り込んだ。
 噴水の縁を枕代わりにカールが天井を見上げると、ギルバが覗き込んできた。
「おい、これお前のか」
ギルバは緑の輝石がはめ込まれた首飾りをカールの顔の上にぶら下げた。
壁にかけられた魔法の灯りが涙型の宝石を照らし、アヴァンクーザーの聖十字を浮かび上がらせた。
(な、なんで……ッ?!)
カールは飛び起きてギルバの手からペンダントをもぎ取ったが、震える掌にある宝石には何も映っていない。
もう一度灯りにかざして見ると、やはり聖十字が宝石の中に現れた。
それはアストラルと並んでアヴァンクーザー神の象徴とされ、自然の力と循環が聖そのものである事を示す紋章であった。
「大事な物なら取られないようにしっかり懐に入れとけ」
そう言いながらギルバは背中を向けたが、カールの視線は少女から貰った首飾りに釘付けになっていた。

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