さしのべられた腕 〜儚き夢〜 第二部ヌートの血祭り 7

 二人の兵士は部屋へ駆け込もうとしたカールを慌てて羽交い絞めにし、回廊に留まらせた。
「レグスッ」
兵士もろとも引きずらんばかりの力で、カールは前へ進もうともがいた。
「レグス、レグス! 何故レグスを…ッ」
「おいおい、お前はまだ続きがあるだろ。落ちるには早ぇ」
カールよりも背が高い兵士は宥める様にそう言い、上から押さえ込もうとする。
冷たい微風がカールの前髪を持ち上げた。
(なっ……そんな)
そこに、部屋など無かった。
カールの足元には奈落が広がっていたのだった。
 むせ返るような死臭が奥底から立ち上った。
吹き溜まりに彷徨う死者の霊に取り囲まれたかのような、怖気をもよおす気配が立ちこめていた。
「嘘だ、おい、レグス何処にいる、何処に隠れて……嘘だろ、おいレグス!」
隠れる所どころか、床さえ何処にもない。その入り口で、カールはレグスの姿を探した。
「ここは死体処理場だ。このコロッセウムは隕石が落ちた穴を有意義に使ってるんだぜ」
背が低い方の兵士は得意そうにそう言いながら、槍を振ってレグスの血を落とした。
床石に出来た赤い模様がレグスの一部であることを、カールはまだ信じることが出来ない。
彼の死を拒絶して、カールは必死に呼んだ。
叫びながら、レグスの気を感じ取ることに全神経を集中させる。
何度も、何度も、カールは何も見えない底に向かってレグスの名を叫んだ。
「うるせぇな、初戦敗退者は死ぬ運命にあるって事、知らねぇで助けたのかよ。誰も弱い奴には興味ねぇって事だよ。試合で前が殺してやれば奴も本望だったんじゃねぇのか、奴のゴミ溜め行きはお前のせいだぜ」
良心の欠片が少し残っているのか、兵士は言い訳のようにまくし立てながら血の付いた槍を持て余す。
(ゴミ溜めだと)
その言葉は命への冒涜であり、命を塵芥の同義とするガランディウム神をカールに思い出させた。
(貴様は悪魔の手先だ)
カールは歯を食いしばって震えたまま、ゆっくりと振り返った。
 涙で潤み、血走って真っ赤になったカールの怒りの眼差しは兵士を竦ませた。
「そ、そんなにあの男が大事ならお前が殺されてやればよかったんじゃないのか? お前みたいな偽善者には虫唾が走るぜ、お前だって死ぬのが怖いくせに!」
臆病さは暴言で隠せない。身の危険を感じて震えているのは槍を持った兵士の方であった。
「お前達にっ、お前達に一体何が解る?! お前達のような人間に……っ」
今にも破裂しそうに盛り上がったカールのこめかみの血管を見て、兵士は槍を構える事も忘れて動揺し出す。
萎縮した兵士の前に、カールは無言で詰め寄った。
(レグスが死んだ? ……違う、こいつらに殺されたんだ!)
生きる希望を見出したレグスの手を、何故掴んでやれなかったのか。
カールは骸を拾う事も出来ない自分の手が恨めしかった。
彼の体から煙のように怒れる力が滲み出し、手を固く握り締めて全身に力を込める。
髪の毛一本一本までが針のように殺気立ち、カールは今にも取り殺さんばかりの面持ちで兵士に向かって掌を向けた。
 ……ドサッ。
背後で何か物が落ちる音がして、カールの気迫に気圧されていた兵士の注意がそれた。
「お、おいあれ!」
背の高い兵士はカールの背後、曲がり角で倒れている少女に指を指して言った。
「な、何で貴族がこんなところに」
すぐさま背の低い兵士が我慢の限界に達しようとしている奴隷よりも優先するべき対象へ駆け寄った。
対処いかんによっては彼らの立場を危うくしかねない、ここには似つかわしくない存在へ。
「お嬢さん、しっかり!」
兵士が十代半ばくらいの少女を起こそうとしている間に、カールは扉の取っ手に手をかけた。
鍵は掛かっていない。この中に、いや奥底に投げ出されたレグスがいるのだ。
数多の死体に埋もれたレグスがカールの目にちらついた。
(置いていけるわけがない、こんな、こんな地獄のようなところに!)
ここが、レグスの終着点であってはならなかった。
そんな事の為にレグスは己を責めながら生きてきたわけではないと、カールはレグスの死を否定し続ける。
彼の脳は扉を開けと体に命令を送った。
 カールが取っ手を手前に引くと同時に、少女の目が開いた。
「……だめよ」
手を差し出した兵士の手をすりぬけ、少女は素早く起き上がってカールに飛びついた。
「ダメ! 貴方まで落ちちゃうわ」
柔らかい腕が、カールの素肌に巻きついた。
力を込めて必死に彼を止めているのだろう。頬をカールの固い腹筋に押し付けてその形を歪ませている。
生暖かい感触で、カールの意識が扉から少女へと移った。
カールは一呼吸遅れて驚き、彼が下を向くと胸元にある金色の頭が上を向いた。
 陽の光も入る事の出来ない闇の中で、突然カールの視界が開けた。
暗雲を二つに引き裂くようにして一筋の光が差し込み、その隙間から見えたものがあった。
(……空だ)
カールは息を呑んだ。
瞳の中に晴れた空があったのだ。しかし、たちまち雨模様になり、頬を伝ってこぼれ落ちる。
桃色のドレスは雨に濡れた花びらのようだった。
悲惨な現実に突然入り込んできた少女は、憎しみを吸い取らんばかりにカールの体を締め付けていた。
 カールの手は自然と扉から離れていた。
「お嬢さんいけません、離れてくださいその男は危険です!」
兵士が強引に彼女を引き離した。
「貴族のご息女がこのようなところにいらっしゃっては、良くない噂が立ちますよ」
「……道に迷ったのです」
少女はそう短く言った。
「そうでしたか、では私が貴賓室へお送りいたします」
短足の兵士は恭しく彼女の背中をそっと押し、先を歩いた。
もう一人の兵士は扉に南京錠をかけ、掛かり具合を確認している。
少女は兵士達の様子を見回しながら首の裏で何やら手を動かすと、身動き一つしないカールの前に小走りで戻った。
頭の上方で一つに纏められている金の髪は腰の辺りまで垂れており、それが左右に大きく揺れていた。
「貴方に神のご加護がありますように」
ふわりと、彼女の囁きと花の香りが流れる。
兵士の目を盗むようにして、彼女はカールの手を両手で包んだ。
(これは)
カールがすぐさま握り返すと、少女は何事も無かったかのように兵士の後を付いて行った。
「おい、お前も行くぞ」
鍵を腰に下げた兵士が言った。そして反応の無いカールを歩かせようと、肩を掴んで引っ張る。
「貴族の中には自分のイケナイ遊びの為に奴隷を飼う娘もいるらしいぜ。お前目ぇつけられたな」
控え室に向かって進みながら、兵士は下卑た笑いをした。
 鉛が入った靴を履かせられている奴隷のように、カールの足は重かった。
レグスから遠ざかる為には己の体に鞭打って無理やり足を動かし、苦痛を感じながら歩かねばならなかった。
カールはあの部屋から離れたくは無かったのだ。
(最低だ、オレは)
弟子を置き去りにしている自分を、カールは蔑まずにはいられなかった。
頭を両手で覆い、彼は髪を掻き毟る様にくしゃくしゃにする。
弟子が味わった無力さは師に受け継がれていた。
希望を刈り取る国はサマルドゥーンのみならず、アヴァンクーザーの信徒個人にも牙を剥いた。
レグスの中にあった責め苦がカールの中に広がり、その底なしの泥沼に一滴の涙が落ちる。
先程の少女がカールの心に入り込んで、いつの間にか居座っているのだった。
少女の蒼い瞳とレグスの血が、どろどろに溶け合って黒い渦を作っていた。
(レグス……レグス!)
心は通い合い、それが彼の最期となった。
今となってはその明証も無力さの証でしかない。
必死に止めようとした少女の努力も虚しく、カールはレグスを失った悲しみに支配されていた。
 立ち止まりたいと、カールは思った。
立ち止まって心に渦巻く何かを吐き出し、詰まっている涙を全て流したい。
だが弟のようだったレグスを失っても涙はもう出ないし、足は前を進むのをやめない。
(麻痺したのだろうか。頭がおかしいのならそれでいい。神よ、それが許されるのならオレは狂ってしまいたい)
感情的になった自分に呆れて、彼は乾いた笑みを浮かべた。
カールは正面に向かって顔を上げ、歩いた。
これが現実に向き合う自分なのだと半ば諦めながら、手の中に残る少女の温もりを心のよりどころとして。

(何も言えなかった)
何が言いたかったのか彼女自身解らないのに、何か言える筈も無い。
誰も彼を守れないのならせめて神の加護があるように、彼女は祈る事しか出来なかった。
 セティーヴェは貴賓室の前に立っていた。
数分前に兵士に案内されたのだが、火が付いた様に赤面した顔では恥ずかしくて中へ戻れずにいたのだ。
彼女は自分が二人の奴隷の後を付いて行き、その一人に抱きつくという突拍子もない行動にも出た事を後悔していた。
 今まで父以外の異性に自分から触れた事など無い。
女性としての落ち着いた挙措は常に念頭に置くべき事柄として幼い頃よりしつけられていたせいか、外での品行で誰かに咎められたことは無いのだ。
それを忘れさせるほどあの青年が気になったのか、やはりそれも解らない。
何回かあったような、畑の土手から転げ落ちそうになっている子供に駆け寄って引き戻す、ごく自然の行動。
セティーヴェにしてみれば、そんな当たり前の手助けは頭で考える必要が無いのだ。
(生きて欲しいだなんて、彼にだけそう思うのはきっと不公平なんだわ)
誰しも生死をかけた戦いなど、したくない筈である。
そんな多くの奴隷を差し置いて、彼だけを特別視している自分が嫌だった。
 背後に聞こえる衣擦れと荒々しい足音が自分に向かっている事に気付き、セティーヴェは振り返った。
濃い緑の外套を着て正装をした父は眉を攣り上がらせていた。
「探していたぞ、セティーヴェ!」
「お父様」
父の怒りをひしひしと感じながらも、何故一人にしたのだとセティーヴェは責めたかった。
「一体何処へ行っていたのだ。これは公務だと言わなかったか?」
「ごめんなさい」
セティーヴェは項垂れ、ため息をもらした。
最初の威勢だけは良くても、やはり芋ほりしか能が無いと思われても仕方が無い。
「先程の試合での競り落としは終わった。私も席に座る」
シードレスが娘の肩にそっと手を置いただけで、心細さは何処かへ行く。
昔からその魔法で、娘は守られてきた。
しかし、父の言葉に何か引っかかりを覚えたセティーヴェは顔をしかめた。
 父が奴隷を買うなぞ初めての事であった。
自分の父親は他の貴族と違うのだという理想が崩れ、嫌悪感を示すより先に言葉が出た。
「誰か、お買いになったのですか」
「ああ、お前の母への土産にな」
(人が土産だなんて!)
言葉を失いつつも、セティーヴェは父に促されてあいも変わらず血に飢えた獣達が座している部屋に入った。
(ああもう嫌。いつ終わるの? 早く帰りたい)
熱狂的な歓声は鳴り止まない。セティーヴェは耳が痛かった。
 華々しい社交界への門出に、セティーヴェは生きようとする命の儚さと単なる傍観者としての立場を知った。
島民との信頼関係を重要視していた温厚な父も、人が変わったかのように奴隷の売買に参加した。
人に隠された醜さを助長させる力があるとすれば、その影響力は万人にあるのだ。
とはいえ、彼女は己の幼さと醜さを知る為に帝都の社会に飛び込んだわけではない。
島で培った価値観が通用しないのなら、テュニジアに帰って潮風に当たりながら領民の畑仕事を手伝いたい。
結局それ以外に、セティーヴェは帝都で自分に出来る事を何一つ見出せなかったのであった。

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