さしのべられた腕 〜儚き夢〜 第二部ヌートの血祭り 6

 背が低く足の短い兵士は気も短そうだ。
苛立たしげに軍靴をコツコツと鳴らしている音が聞こえ、カールは腹部の鈍痛に耐えながらレグスの腕を引き上げた。
腕に全体重が掛かった痛みでレグスは目を覚まし、呻き声を立てる。
「レグス、立てるか? オレに捕まれ」
レグスはぼんやりとする視界にカールを捕らえた。
とたんに目が見開かれ、カールから離れようとする。が、よろけたところをカールがしっかりと抱きとめた。
「カール様……」
「すまなかったな、レグス。何も方法が思いつかなくて」
カールは自分の肩にレグスの腕を回させ、彼の腰を抱えるようにして歩く。
レグスの表皮は縮こまって硬く、強張っていた。
 二人は顔を合わせる事無く、右回りに伸びている回廊の先を見つめたまま歩いた。
長身で薄っぺらい体格の兵士が先立って歩き、奴隷の後を短足の兵士が務めている。
私語が許されるような雰囲気では無い。
アストラルの力を放出した後ではかなりの集中力がいるが、カールは想いをレグスへ送った。
(まだ、自分を責めているのか? お前の無力な生き様が彼女への裏切りになるとでも思っているのか)
ぽっかりと空いてしまったレグスの心が、カールの熱弁で埋められていった。
(再会した途端にお前を失うなんて、絶対お断りだ。お前を失いたくないんだ、レグス)
レグスは気を失う寸前に体で受け止めた、カールから解き放たれた喪失への恐怖を思い出した。
絶望では無く、互いに互いを必要としているのだという想いが流れ込んだのだ。
レグスにはまだ魔力封じの首輪があり、カールの念話を受信できても送信は出来ない。
その代わり、レグスの頬に涙が伝った。それは彼が生への渇望を見出した証であった。
 汗まみれの男が恋人同士さながらに体を密着させているというのに不愉快さは無く、ごく自然な様子に見える。
言葉を交わす必要も無いほどに、二人は何処かで繋がっているのだ。戦いの末に友情を深めたかのように。
体を支えあって歩く姿は哀愁漂う絵のような美しさがあり、それが彼らの後ろを見張る小柄な兵士の癇に障った。
彼は自分と正反対の容姿を持つ上、廉潔なカールに対して嫉妬していた。
光を前にした時に出来る影は自分なのだと指摘されているようで、兵士は我慢ならず槍を向けて吠えた。
「お前ら八つ裂きにされてぇのかっ?! グズグズするな、さっさと歩け!」
先頭を歩く相棒が振り返った。
「おい、こいつは首輪をしてねぇ。刺激するな。……さっきの力、見ただろ」
そう言うと細身の兵士は手を一度だけ振って、カール達に回廊を進むように促した。
後方の兵士はしぶしぶ槍を下に向け、不服そうに唾を吐いた。
 念話が兵士に聞かれる心配は無い。カールは構わず続けた。
(オレはあの時お前達の要求を呑もうと突き返そうとどちらでも良かった。アストラルを守る事しか頭に無かった)
心に直接響いてくるカールの声によって、レグスの瞳に涙が溜まっていく。
聖堂に奉られていた結晶体の、癒しの力。
その力を何故カールが使えたのかを問うほどレグスは愚かではない。
あの混乱の中でもカールは自分が守るべきものが何なのか、間違えなかった。
それはレグス達弟子でも無く、神殿に逃げ込んだ民でも無い。責任と使命から行動を起こしたのでも無い。
レグスは喉の奥で、力なく笑った。師に屈したような心持ちで腹の底から笑える気力が無いのだ。
「貴方は何も変わっておられない。俺は貴方みたいにはなれません」
口に出さずにはいられなかった。レグスはゆっくりと首を振り、むせび泣いた。
 戦争に巻き込まれ、奴隷となり、殺し合いを強要される。
その中で誰も憎まずにいる人間などいるはずも無い。だが、カールはそれだけで終わらないのだ。
彼の目的はずっと高みにあり、その実現の為に希望をつなぎ続け、決して諦めない。
己の無力さを呪う前に、カールは夢に向かって前進する男だった。
その強さは弱き者を嘲るわけでもなく、アストラルのような暖かさで常にレグスを包み込む。
神殿にいた頃と何ら変わりは無かった。
(人にはまだ神の奇跡が必要だ。神無しでは戦えないほど人は弱い存在になってしまったのだからな。だからアストラルが魔に属する者の手に落ちれば世界の均衡が崩れてしまうとオレは思う)
くだけた口調で高邁な理想を語る師を見ているだけで、レグスの中に尊敬の念が溢れる。
カールはレグスの活路そのものであった。
張り詰めた筋肉が緩み、弟子は師の胸にもたれた。
 カールは先のとがった氷が溶けていく様子を肌に感じて安堵した。
魔がアストラルの結界を破って人間の世界に横行し、力を増した邪神の国に蹂躙される『紅の同盟』国。
世界に安置されているアストラルが魔を押さえられねば、近い将来訪れる終末だ。
目を閉じればアストラルを失った人々の絶望と神への呪いを叫ぶ声が聞こえる。
カールはその世界を表す言葉を『人の世の終わり』以外に考え付かなかった。
それを防ぐ為に、カールは遠い先を見据えて最善の方法をとらねばならない。
サマルドゥーン陥落の際にカールが選んだ道は険しく、そして重かった。
 カールは声に出さず神に祈りを捧げ、レグスを自分の元へ返してくれたアストラルの力に感謝した。
(ここを出て共にソリヴァーサの本殿へ行こう。アストラルを奴らに渡してはいけない)
カールの念を受け取ったレグスは力強く頷く。カールの孤独な戦いは終わったのだ。
(誰かから押し付けられた運命なんてまっぴらだ。オレ達が生きればサマルドゥーンも生き続ける)
ヴレード帝国から自由を勝ち取った英雄レフィリムの誇りはカールの心に刻み込まれている。
カールは血に酔った大地から離れ、アストラルを本殿へ返すまでの一本の道が見えるような気がした。
 回廊を半周したところで、コロッセウム中心の壁に扉が見えた。
「着いたぜ」
短足の兵士はレグスをカールから引き剥がした。
「お前はこっちだ。次の試合まで控え室にいるんだ」
カールは細身の兵士に腕を掴まれ、先に進むよう引っ張られる。
師と弟子の距離が再び離れ、レグスの顔に不安が浮かんだ。
 短足の兵士が黒い染みだらけの木扉に付いている鍵を開け、錆びた取っ手を引く。
湿気で形が歪んでいるせいか、扉は布を引き裂くような不愉快な音をたてて開いた。
「レグス、また後で会おう」
振り返ったカールは慎重に言葉を選んだ。
扉の向こう側は灯り一つ無く、真っ暗で何も見えない。
カールが立つ位置からは部屋の中がどうなっているのか見えず、明確に出来ない危惧の念は消えてくれないのだ。
死体に群がる虫の羽音のような歓声が、カールの耳に届いた。地上では次の試合が開始されたようだ。
コロッセウムの地下深くで聞く観客の声は、地獄へ誘う亡者のそれであった。
 レグスの表情が一変した。
扉の前で呆然と立つレグスは青ざめ、じりじりと後ろへ下がっていく。
「レグス、どうした」
兵士に腕を引っ張られている為に立ち止まる事も出来ず、カールは思うように後ろを振り返れない。
「こ、ここは……ッ」
レグスの唇が白くなり、戦慄いた。
「ここはお前の墓場だよ!」
短足の兵士はそう言い、手にしていた槍が弧を描く。
その間も貴族達が奏でる死の調べは絶えず流れていた。
「レグス!」
槍がレグスの背中に突き刺さったと同時にカールの全身に電撃が走り、眼圧がかかった眼窩が痛んだ。
 レグスの心臓は体内で真二つに裂けた。
逆流した血液は出口を見つけ、レグスの口から飛び出す。
串刺しになったレグスは突然身に降りかかった禍を信じられないまま、カールの方へ顔を向けた。
「カ…ル…様……」
カールに向かって差し出された手は死の恐れと生への哀願そのものだった。
「レグスーッ!」
その手を掴もうとカールが己の腕を伸ばして肉迫した時、兵士は目障りな物を排除する為にレグスの腰を蹴った。
「さっさと落ちろ!」
最期に伸ばしたレグスの手とカールの名を叫ぶ断末魔が闇に吸い込まれ、徐々に小さくなっていった。

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