さしのべられた腕 〜儚き夢〜 第二部ヌートの血祭り 5

 生と死の饗宴は彼女を椅子に貼り付かせ、身動きできない程に体を凍らせていた。
(……私は何故ここにいるの? どうしてこんなところに!)
セティーヴェは自ら望んで帝都に赴いた事などすでに頭に無い。
予期せぬ場所に連れて行かれ、人が殺し合う場面を強制的に見させられていた。
 ヘレ・ディ・オール家に用意された席は皇族の正面の部屋だった。
革張りの椅子の下には、金色の花弁紋章が織り込まれた深紅の絨毯がひかれていた。
由緒正しき貴族の娘達は上質の繻子を纏い、重石のような宝石を身に着けて部屋の中を燦爛とさせている。
セティーヴェも一番気に入っている桃色の繻子を着て精一杯めかし込んで来たのだが、都の洒落た流行の前には引き立て役にもなれなかった。
だがセティーヴェの隣に父親が座っていたら、周りから発せられている嫉妬の眼差しが和らいでいただろう。
貴族の娘にとって、無礼講の誕生祭は皇族に見初められる大事な機会である。
皇帝の息子をどうやって虜にするか四六時中模索している都育ちの娘達には、いかにも純粋そうな田舎の美少女は邪魔な存在なのだ。
自分の美しさを知らずにいるセティーヴェは、冷たい視線の意味を理解していなかった。
 開会の銅鑼が鳴らされた時は一体どんな宴が開催されるのだろうと、セティーヴェは期待の眼差しでコロッセウムを見下ろしていたものだ。
しかしヌートの血祭りが始まって数刻経った今までに、何度気絶しかけたことか。
流れる血に嬉々とする貴族と、血を流しながら生き延びようとする奴隷達。
彼女は残虐非道な殺し合いが皇帝の誕生祭に行われているとは全く知らなかった。
そして、尊い命が散っていく様を見世物にして娯楽に興じる人間の存在など知りたくも無かった。
だが彼女の属する国の新の姿、それはガランディウム神を崇拝するに相応しい血と狂気そのものだったのだ。
早かれ遅かれ、彼女はテュニジア島の領主としてヴレード帝国と切れない縁を結ぶことになる。
(お父様、どうして教えてくれなかったの)
父は競り落としの会場に行き、まだ一度も戻ってきていない。
彼女は心細さを堪えて威儀を正し、跡継ぎとして立派な姿を見せようと両膝の上で拳を握り締めた。
 母の代役などまだ自分には早すぎたと彼女が悟ったのは、先の戦いで切り刻まれた肉の塊を見た時だった。
思い出すだけで彼女は吐き気をもよおした。
それを忘れさせたのは、今、闘技場に立っている金髪の青年だった。
澄んだ空を居通すような陽光が彼の髪に焦点を合わせ、際立って照らし出しているように見えたのだ。
セティーヴェには彼が他の奴隷剣闘士と何処か違って見えた。
危殆に瀕しているというのに背筋を伸ばして立っている姿は威厳に溢れ、何と堂々としている事か。
その姿に惹かれ、セティーヴェの視線が彼を追う。
闘技場から目を背けていた彼女でさえ、彼の試合に見入っていた。
 青年は両手を広げて少年を抱こうとした。
(ああ、何て残酷な戦いをさせるの)
おそらく知人か、それ以上の関係なのだろうと彼女は察した。
長い沈黙を突然破って殺意をむき出しにする相手を、彼は決して傷つけなかった。
そして、セティーヴェは彼から発せられた暖かい紅の光を見た。
(ああ……良かった。二人とも死なずに済んだのね)
眩しくて閉じていた目をゆっくりと開きながら、彼女はそう直感した。
観客は戦闘結果を批判し、闘技場の青年に向かって物を投げ込んでいた。
セティーヴェただ一人を除いて、青年を褒め称える者はいなかった。
(どうして? 私、間違ってるの?)
誰にも聞けない悩みを抱えた彼女は、自分が嘲罵の的になっているような気がしていた。
青年は少年に覆いかぶさって、担架を持った兵士から守ろうとする素振りを見せている。
貴族の男は喧々囂々と青年の競り落としに声を張り上げ、貴族の娘はいくじなしと扇を投げて罵っていた。
(もう、嫌……やめて! こんなのは嫌!)
セティーヴェは奴隷剣闘士と同じ赤い血が、観客に通っているとは思えなかった。
だが彼女はその暴虐的な人間達の中に座っている。
怒りで体が震えるのは初めての事だ。こらえきれずに、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれる。
田舎の娘だと罵られても、帝都に受け入れられなくても彼女は一向に構わなかった。
セティーヴェはついに席を立ち、戸口に立つ兵士の制止を聞かずに貴賓室を後にした。
 熱狂的な喚声と罵声はコロッセウム内部に響き渡り、何処へ行ってもセティーヴェは逃れようが無かった。
途中で何人かの兵士が彼女を呼び止めるが、真っ青な貴族の娘を追いかける者はいなかった。
彼女は無我夢中で回廊を走り、脳裏に焼きついている奴隷達の殺し合いを頭の中から追い払おうとしていた。
 階段を駆け下りる途中で息がつまり、セティーヴェの足がようやく止まった。
ざらざらとした壁に手をついて、彼女は涙を拭きながら荒い息を整えた。
耳鳴りのように遠くの方で観客の声が聞こえる。
(私……何やっているのかしら)
彼女は力なく壁に寄りかかり、石の冷たさを背中に感じた。
逃げたくても逃げようの無い場に立たされている奴隷剣闘士と、家の名前を背負っていながらその責務を簡単に放り投げた自分。
我に返った彼女に、取り乱してしまった事への恥ずかしさと情けなさがこみ上げていた。
(戻らなきゃ……。でもここ何処なの)
階段の下は突き当たりで左に通路が延びている。
セティーヴェが階段を降りきると、炬火が作り出す甲冑の影が壁で揺れていた。
(誰かいるわ。貴賓室に連れて行ってくれるかしら)
「おい起きろ! 歩くんだよ!」
兵士が一人ではない事に気付いたのは、彼女が角を曲がった時だった。
(や……やだどうしよう)
セティーヴェは息を呑み、思わず階段の方へ戻って隠れた。
 廊下にかかった松明に照らされて、門の前に倒れ込んでいる二人の奴隷が浮かび上がる。
「聞いているのか!」
起き上がりかけていた青年の脇腹を、小柄な兵士が蹴った。
青年は呻き声を漏らし、横に転がって痛みに悶絶する。
(あ、あの人は)
不安が押し寄せ、セティーヴェは高鳴る胸を両手で隠すようにして押さ込もうとした。
腕で腹部を押さえながら起き上がったのは、戦わずして勝利したあの青年だった。

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