さしのべられた腕 〜儚き夢〜 第二部ヌートの血祭り 4

 喧騒の中心にいる二人の奴隷剣闘士は、向かい合って何か話をしているようだった。
珍しい事では無い。殺害への葛藤で苦しませるのがヌートの血祭りである。
その間も貴族達は生き残る一方を見定め、賭けの対象をどちらにするか吟味するのに忙しい。
試合が始まるまで固唾を呑んで見守る者は一握りである。知人同士の対戦は祭り最大の見世物だった。
 貴族の頂点に立つ皇帝の世継ぎは、空になった王座の隣に座り続ける公務に退屈を感じていた。
父に血を献上するべく開かれた祭りを、カイゼフは冷めた目つきで見下ろした。
退席して後宮へ向かった父の体は、女の肌に温められているに違いない。
カイゼフは寒空の下、自分の体を温めてくれるぶどう酒に目を落とした。
「自分の誕生祭だというのに、途中で退席するなど国民の不満を招くだけだ」
カイゼフは酒を一気に飲み干し、隣に座っていた銀髪の女にグラスを渡した。
久々の祭りを目の前にして騒ぐ貴族は、君主の不在に気付く様子も無い。
興奮が最高潮に達している彼らにとって重要なのは祭りが開かれた意味ではなく、非日常的な殺戮だった。
腕を組み、腰を深くうずめてため息をつくカイゼフに向かって女が言った。
「不満なのは貴方様ではなくて?」
女はデカンタからいぶし銀のグラスにワインをたっぷりと注ぎ入れ、不機嫌なカイゼフに返した。
寒さのせいで手の動きがぎこちない。
天蓋のある貴賓室にいるものの、吹き込んでくる風が冷たいのだ。
「皇帝陛下はご自分のお好きなように楽しみたいのですわ」
毛皮の帽子を耳まで被りなおし、女はそう続けた。
 帽子の下から流れ出ている銀の髪は、真っ直ぐ伸びて艶やかな光沢があった。
後宮内では最も謙虚で学もあるカイゼフの妾だ。
彼が幼少時に見た、宝物庫の壁画に描かれていた月の巫女を髣髴とさせる容姿に惹かれて妾妃にしたのだった。
銀髪に白い肌はヴレード帝国の母体であった北部民族ヴォルフの血が濃い証拠であり、カイゼフの亡き母の血筋でもある証拠だった。
「今頃は私の後宮の女も集めて宴でもしているだろう。カエナ、お前も行っていいぞ」
「殿下ったら!」
カエナはカイゼフの手の甲に己の手を重ね、神秘的な銀の光を振りまきながら首を振った。
「たとえ皇帝であろうとカイゼフ様以外の腕に抱かれるなど、私には想像もつかぬことですわ。リレゼと同じ扱いをなさらないで」
彼女の言葉に、カイゼフはリレゼという娼婦のような妾を思い出した。
たわわに実った葡萄の房のように重々しい黒髪と、浅黒く艶かしい容姿。
外は寒いからと言って出席を拒否した、高慢な女だ。
その穴埋めの為に、湯浴みをして着飾り、寝台の上で主の帰りを心待ちにしていたと言うだろう。
清廉なカエナとは相容れない存在だった。
「確かに黒と白は似ても似つかぬ」
真珠の指輪が輝く白い手からするりと抜け出るようにして、カイゼフは双眼鏡を構えた。
 魔術がかかったこの双眼鏡は、瞳孔の動きに反応して遠くまで見ることが出来る魔道具た。
闘技場の二人はまだ何か話し合っているのか、一向に試合が始まらない。
感情的な発言があれば聞き取れそうな距離なのだが、静かな会話だった。
否、何も言葉を交わしていないのかもしれない。カイゼフの席から状況は読めなかった。
カイゼフが真向かいの部屋を見ると、ふと黒い石が窓枠に詰まっていると見間違えた。
すぐにそれがガランディウム神官衣だと解ると、何とも苦々しい気分になる。
(このような祝いの宴に死神の装束とは。奴らは他に着るものが無いのか?)
無数の黒い頭巾の中の眼が、奴隷に堕ちた闘技場のアヴァンクーザー神官を凝視していた。
 黒い部屋の隣は煌びやかな貴賓室であり、貴族の中でも重職に付く者達に用意された部屋だった。
女達が必要以上に身に着けている宝石が陽光を照り返し、カイゼフの目には目障りだ。
「正妃に相応しそうな良い娘は見つかりまして?」
妾にしては珍しい主の正妃を探す世話好きのカエナは、石組みの窓辺に身を乗り出した。
「どれもこれも同じような女に見える」
双眼鏡から目を放してカエナの方を見ると、品の良さではこの妾の方が申し分ないとカイゼフは思った。
十代後半から二十代前半の娘達は似たり寄ったりの個性の無い化粧を施し、胸を強調する服を着ている。
カイゼフはヴレード中の美女をかき集めた父の後宮を見慣れているせいか、彼女たちの美しさに驚きもしなかった。
「まあ酷い言い様ですこと。皆、殿下の為に美しくしているというのに」
「妃に選ばれる為に、だろう」
カエナは笑いを隠そうと、羽飾りが付いた扇子を広げて煽いだ。
ずらりと並んで座る妃候補に全く関心を示さない彼女の主は、時にいじけた子供のようにカエナには見えるのだった。
再び双眼鏡を覗き込んだカイゼフの手が止まった。
「左側の部屋の娘、顔が真っ青だ」
カエナが貴賓室を見ると、最前列に一人だけ帽子を被っていない金髪の少女が見えた。
 年は十代半ばくらい、蒼い瞳が身に付けた宝石よりも目立つ美しさだ。
上気した顔色の娘たちと比べると顔色が悪く、縮こまって口元を抑えている姿は孤立しているようにも見える。
遠くを見ようとしすぎて目が乾いてしまったカエナは瞬きしながら言った。
「見慣れぬものを見て、気分が悪いのでしょう。何処の娘か調べさせますか」
「いや……いい。場に不相応な子供がいたと目に止まっただけだ」
双眼鏡を置いたが、カイゼフの目は彼女から離されていなかった。
彼女は怯えていた。
しかしその瞳には目の前に繰り広げられる人殺しの宴を否定する、強い意志を併せ持っていた。
少女はヌートの血祭りに嫌悪している。カイゼフはそう思った。
その時、二人の奴隷の間で動きがあった。

 これ以上の沈黙は、耐えられなかった。
カールはレグスに歩み寄りながら両手を広げた。
生きている事が彼にとって良い事なのか、それすらもあやふやな現実。
神殿で何度となくレグスに見せた愛嬌のある笑みを浮かべ、あえて自分の気持ちを素直に言う事がカールに今出来る全てだった。
「レグス、生きていたんだな。オレは嬉しい。また会えて、嬉しい」
レグスは剣の切っ先をカールへ向けて制した。真心は通じなかったようだ。
「ええ、ただこの時の為に生きていました」
冷たい風が吹き付け、血を求める観客の声が二人を取り囲んでいた。
「貴方に裁かれる為に」
レグスの髪はぼさぼさだった。
カールを見ているようで見ていない、瞳孔が開いた目。
何年も会っていなかったような懐かしさと、変わり果てた姿への動揺が入り混じり、カールはかける言葉を失った。
(お前を追い詰めたオレに許しを請うのか、レグス)
たとえ死が彼に安息をもたらすとしても、カールには出来ない。
レグスがとった行動は裏切りではなく、愛するものを守ろうとした結果だった。
彼が罪を犯したというのならば、カールもしかり。
カールは神殿に逃げ込んだ市民を守って戦うよりも、ヴレードからアストラルを守る事を選んだのだ。
愛ゆえの選択をした人間を、責められるのだろうか。
剣を放り投げ、カールは意志を示した。
 乾いた音が会場に響き、観衆が一斉にカールへ罵声を浴びせた。
「おい、どういうつもりだ! さっさと戦え!」
舞台の下に降りていた審判が早く試合を始めるように促したが、構わずカールは言った。
「オレにはお前を裁く権利なんて無い」
つぶやきに近い、小さな声だった。
自身に言い聞かせるつもりの言葉が、レグスを更に打ちのめす要因となった。
どんなにすがっても、師は己の信念を曲げようとはしないのだ。
「貴方は残酷だ、カール様」
静かに紡がれる声は、か細く震えていた。
「罪を犯していながら俺に生き続けろと言うのですか! 償いきれぬ罪を背負って生きろと!」
レグスの声が徐々に大きくなり、最後の言葉は怒鳴り声によって押し出された。
「でもここに立ったらどちらかが死ななくてはいけない、死ぬのは俺です!」
レグスは激しくまくし立てた。無口で泰然としていた面影は何処にも無い。
「俺はユマを失いたくなくて貴方を裏切った! 俺のせいで皆死んだんだ!」
「お前に罪など無い。俺が決めた事だ。あの時、お前達の要求を突き返す事も出来たのに、そうしなかった」
カールは穏やかに言ったが、レグスの耳には入らない。
死による断罪を簡単に拒否され、レグスの張り詰めた糸が切れかかっていた。
エドレルのように他者を責める弱さは、レグスには無い。
しかし、悔悟の情と良心の呵責を胸に生き続ける勇気も彼には無かった。
先の試合と何か違う、と誰しも感じ始めたのはその時であった。
「俺はユマを失いたくなかったんだ! でもユマは……っ」
愛を失った悲痛な絶叫がほとばしった。
細い体から漏れ出る感情の激流によって、器がついに決壊したのだ。
 レグスの呼吸は乱れ、充血した両目からは今にも血の涙が流れそうだ。
彼は今、恋人が陵辱された現場に戻っていた。
「レグス!」
カールは頭を抱えて蹲る弟子に駆け寄ったが、レグスの目は彼を捉えない。
何かを振り払うかのように頭を激しく揺さぶっていた。
「ユマ、ユマ!」
錯乱状態となったレグスの唇は戦慄き、もうこの世にはいない者の名を呼び続けた、
白い肌を握り潰すように掴む、獣の手が次々と彼女に伸びる。
男達の体の間から恋人の体が垣間見えた。
両手両足を地面に押し付けられた彼女が助けを求め、切れた唇からレグスの名前を叫んでいた。
レグスは自分を羽交い絞めにしているヴレード兵士の腕を振り払おうと暴れた。
レグスの呼吸は不規則に早く、心臓は今にも張り裂けそうに早く鼓動する。
カールは過去の幻影から逃れようとするレグスを呼び戻そうとした。
「レグス戻ってこい、オレだ!」
目に見えない魔手を払うかのように暴れるレグスの腕に、カールは倒された。
観客は再び歓声を上げ、発狂した弟子と師の戦いに見入った。
「やめろ、放せ! ユマに触るなぁっ!」
痛みと恐れに悲鳴を上げ続ける彼女の声が、レグスの耳の奥に留まっていた。
 どれだけ長い時間その光景を見させられたのだろうか。
……殺してやる。
この手が自由ならば、生きて体が腐るような呪いをかけてやる。
ただでは死なせない。苦しめて殺してやる…エマが味わった恐怖以上のものをお前達に!
だが彼は何も出来なかった。辱められる恋人を見ること以外、何も許されなかった。
絶え間ない叫び声が、突如兵士の一撃で止んだ。
剣の柄で顔を何度も殴られた彼女の顔は、陥没して血が溜まっている。
栗色の髪は汚れた糸のように土の上で絡まり、腫れた瞼の下に見開かれた瞳があった。
涙の代わりに、目から血が流れていた。
うめき声さえ出さなくなった彼女に次々と覆いかぶさり、男の荒い息使いが聞こえてくる。
「お前ら……殺してやる! 殺してやるっ!」
手を伸ばせば彼女に触れられるレグスの目の前で、兵士達はユマを嬲り殺したのだった。
『これが戦争の醍醐味ってもんだ、坊や』
『それで、お前の神様は助けてくれたか?』
ユマの遺体を草の間に転がしたまま、兵士達はレグスを嘲笑った。
瞳が収縮したユマの灰色の目は、何故助けてくれなかったのかとレグスを責めたまま時を止めていた。
それは呪いだった。死をもってでしか解く事の出来ない、呪いだった。
 教本で見たことのある、悪魔の彫像だとカールは思った。
憎悪が信仰を消し去ったに違いない。
姿が見えぬアヴァンクーザー神よりも、カールに救いを求めて殺される為だけに今日まで生き続けてきたのだろう。
レグスは救いを求める余りに自ら命を絶てず、現実と過去の間に彷徨っていた。
憎しみに歪んだ邪悪な顔で、弟子は尚も訴えた。
「殺せ! 殺してくれ……っ!」
神の特質である憐れみも許しも、何の役に立たないのだとカールは悟った。
人間の都合の良いように、奇蹟は起きない。
決定権は、どうしたらよいのか解らないカールに委ねられていた。
 罪悪感に苛まれて死刑を求める哀れな罪人は、支離滅裂な叫びと共に剣を振り回すという暴挙に出た。
怒りに身を任せたレグスの剣は踏み込みが浅く、カールが彼の攻撃を避ける事は容易だ。
だがカールに迷いがある分、傷が増えるのは時間の問題だった。
カールは胸元を切り裂かれた。右の肋骨あたりから左の鎖骨まで、斜めに一筋の赤い線が走る。
落とした剣を拾う気は一切無い。だがこのままでは殺されると、カールは思った。
そしてそれは我に返ったレグスに耐えられることではない。
彼は迷うこと無く、自らの手で己の命を絶つだろう。
「殺せぇっ」
「俺を殺させはしない。オレも、お前を殺しはしない」
拳を握った右手を胸元へ引き寄せ、カールはレグスに向かって左腕を伸ばす。
左手が開かれた瞬間、紅の光がレグスを襲った。
 解き放たれた光はレグスのみならず、舞台全てを飲み込んだ。
観客は眩しさに耐えかねて物や手で顔を覆い、護衛兵士は貴賓室から皇族を避難させた。
術封じの首輪が流れる力を制御しきれずにカールの首から砕け散った。
光はコロッセウムを内包しつつ中心に向かって凝縮し、観客の賭け札や札束を一緒に巻き上げて天空へつき抜けた。
観客が眩しさをこらえて目を開けると、闘技場に立っていたのはカール一人であった。
やがて光は青天に溶け込み、辺りは静まり返った。何事も無かったかのように。
 レグスは刃が折れた剣の柄だけ握り締めたまま、突っ伏して倒れていた。
レグスの戦闘不能とカールの勝利が、審判によって声高に発せられる。
途端にカールに賭けていた貴族達が喜び叫び、圧倒的強さを見せた奴隷を買う為の競り落としの声が飛び交い始めた。
ガクガクと震えるカールの膝が力を失い、崩れるように石舞台に方膝をついた。
冷静さを失っていたのは、カールも同じだった。
今まで温存していた力を抑制出来ず、感情に任せて一気に放出してしまったのだ。
多大な疲労は四肢を痺れさせて思うように動けない。
肌から染み出した気持ちの悪い冷や汗が、カールの顎から滴った。
客席では人々が空中に飛び交っている掛札や札束を追って狂騒を極めており、誰もカールを見てはいなかった。
彼は腕で這いずり、レグスのところまで行こうとしていた。
 痙攣している腕で体を引き寄せ、前進する。
何度か体を引きずった後、カールはレグスの上に覆いかぶさった。
そしてレグスを仰向けにし、彼の顔にかかっている髪を掻き揚げる。
悪魔の形相は消え失せ、神殿の中庭で昼寝をしていた時のように安らかな顔だった。
芝生の上で寝転がるレグスとセリウスに混ざってふざけ合った日々。
木漏れ日を浴びながら、くだらない談笑をした時間。
懐かしくて、遠い記憶がカールの胸に去来した。
(レグス……辛かっただろう。よく生きていてくれた)
カールは祈るような気持ちで弟子の二つの瞼と額に接吻した。
 南の門から担架を持った二人の兵が現れた。
咄嗟に、カールはレグスを誰にも渡したくないと思った。彼は弟子に被さって己の体で覆い、兵士を睨んだ。
「触るな、オレが運ぶ!」
カールの一声で、担架を下ろそうとした兵士の動きが止まった。
首の制御装置を壊してしまった奴隷の、真っ青な顔に言い知れぬ気迫を感じ取ったのだ。
カールは歯を食いしばってよろよろと立ち上がり、レグスを肩に担いだ。
神官であった時より痩せたのか、少年の体は抜け殻のように軽かった。
とはいえ前に進むには足を引きずらねばならず、眩暈でコロッセウムが回っているように見えた。
「さっさと引っ込め、偽善者め! 早く行けよ!」
カールの後に続く兵士が傲然と唾を吐いて罵る。
一筋の涙も誰にも見られぬように、カールはレグスの胸に顔をうずめながら門へ入って行った。

BackNext
Since 2003.03.01 Copyright TABERAH SHELAH/RAYGAH All Rights Reserved.