さしのべられた腕 〜儚き夢〜 第二部ヌートの血祭り 3

 ここはセル・セアの森最北端、源泉からの流れが湖となる地点である。
水は冷たく、手を凍りつかせる。だが源泉よりはまだ温かい方かもしれないとセリウスは思った。
彼は川辺で身を屈め、泥にまみれた顔を洗いながら今までの事を反芻していた。
 神殿にヴレード兵がなだれ込んでくる直前、彼はレグスと共にルドレストの村に向かった。
嫌な予感がしていたのだ。あの奸悪な女魔術師が素直に約束を守るとは思えない。
村に着くとレグスが恋人の名を叫んで悲鳴を挙げ、セリウスは友人の慟哭に金縛りになった。
耳鳴りがし、視界が回転していた。
 村に燻る炎は弱弱しく、視線を何処に落としても生きている者の姿は見えない。
熱風で家屋が陽炎のようにゆらめき、真二つに裂けた木には未だ炎がちらついている。
無数の雷が村を襲った跡のようにも見えた。
 レグスは恋人の姿を探して駆け出したが、セリウスは足を進ませるのが恐ろしかった。
天災ではなく誰かが故意に村の上に落雷させた事は確かだが、ヴレードの歩兵隊も何人か死んでいたことが不可思議だった。
脳裏で魔術師の高笑いが聞こえたような気がした。
(あの魔術師が……?!)
黒焦げになっている甲冑を跨ぎながら、彼は広場に進んだ。
 よろよろと歩きながら遠目に見ると、山積みにされた炭のようなものが目に入る。
セリウスは焦げた肉の臭いに涙を浮かべながら何度も空嘔吐し、咽び泣いた。
人質は縛られて逃げることができないまま、身を寄せ合いながら炎に焼かれたのだ。
自分の両親とおぼしき焼死体は、まるで堅く抱き合った黒曜石の彫像だった。だが触ると、ボロボロと崩れていく。
(あいつらは神殿を狙っていたんだ……アストラルを!)
セリウスの握る拳から、血が垂れた。
 魔術師にとってルドレスト村の人質は神殿攻略の為の、手段の一つでしかなかったのだ。
両親の命を守ろうとして魔術師の要求を呑み、師を脅して結界を張らせなかったセリウスの裏切りは何の実も結ばなかった。
神殿はヴレードの手に落ち、村は焼かれたのだ。
己の浅はかさに気付き、彼は蹲って胸が圧搾される痛みに悶絶した。
村に残る炎が己の胸をも焼いているようであった。このまま焼け死んでもいいと、彼は思った。
彼は神殿に逃げ込んでいた市民と神殿騎士、仲間の神官を犠牲にしただけでなく、村を破壊させたのだ。
セリウスは誰も助けることが出来なかった。
「カール様……許してっ! 僕はどうすれば良かったのですか、カール様!」
灰が巻き上がり、虚しい叫びがこだました。
「誰か僕を罰して! 誰か僕を罰して! 死ねというのなら僕はっ……!」
セリウスは神に助けを求めず、ただひたすら師へ呼びかけていた。
 灰に顔を強く擦りつけ、拳で何度も地面を叩く。
文字通り泥まみれになりながらセリウスは己の裏切りを恥じ、責めた。
(僕を罰して下さい……)
そして、彼の中に残るカールが奈落へ落ちたセリウスを救い上げた。
『何があっても死ぬな。生き抜くんだ』
カールの言葉がセリウスの中で再生される。
最後に見た師の微笑を思い出し、セリウスの涙が止まった。
彼を覆っていたどす黒い汚れが瞬時に洗い流されたのだ。
空気のように彼を包み込む、温かい面差しと絶対の信頼。友情にも似た兄弟愛。
彼が師との約束を守る為に生きようと決意したのはその時だった。
 レグスといつ何処ではぐれたのか、解らない。
セリウスはアヴァンクーザーの神紋の縫い取りがある外套は脱ぎ捨て、寒さに凍えながらセル・セアの森を移動した。
森のいたるところで戦闘が聞こえたが、彼が生まれ育った森の中で隠れながら逃げるのは容易なことであった。
白かった僧衣は灰塵に塗れ、誰も彼を神官だとは思わなかった。
それに、子供のような顔立ちのおかげで、セリウスは何度かヴレード兵の目から逃れてきた。
 ヴレード帝国の関心はアラード港にしかなかった。
公共市場以外は包囲網が手薄となっており、彼は関所の混乱に乗じてヴレードへ入る事が出来た。
戻る場所は無い。
彼はソリヴァーサ領の外れにあるソル・ハダトの南の分殿に助けを求めようと、危険な賭けに出ていたのである。
 軍靴が草を踏みしめる音が背後で聞こえ、セリウスは回想を打ち切った。
(しまった、長く居過ぎた)
振り向いた彼の肩に、一本の矢が突き刺さった。その勢いで、セリウスの体は川辺に倒れる。
「何だ、男か!」
矢を射た兵士はそう言いながら幹枝を押しのけ、森陰から出てきた。
彼はセリウスの華奢な体を女と間違えたのだった。
 セリウスは倒れたまま矢を抜き取ろうともがくが、筋肉に食いんだ痛みに耐え切れず悲鳴を漏らした。
「女みてぇないい声で鳴きやがるぜ」
弓を持った兵は口元を斜めに上げ、卑俗な笑いを浮かべて言う。
セリウスは背筋を撫でられたような嫌悪を感じた。
後から出てきた二人の兵の一人がセリウスの服に手をかけようとした時、彼らを呼び止める声がした。
「そこで何をしているの?! 長槍隊の怪我人が運び込まれたわ。天幕に早く……まぁっ」
兵士達は舌打ちし、セリウスから離れた。
腕に蔓で編んだ籠を通し大事そうに抱えて歩く彼女は、倒れている少年を見るなり駆け寄った。
「子供に何てことをするのですか!」
微かに柔らかな花の匂いがするが、セリウスの視界からは踝までの長い衣しか見えない。
彼女はしゃがみ込んで矢を抜き取ろうとする。が、セリウスは体を引きずって女から離れようとした。
 己の尾を咥える悪しき龍の紋章が入った帽子。そして黒装束。
それらは彼女がガランディウム神官である事を示していた。
「近寄るな……ガランディウムの……」
そこまで言って、セリウスは意識を失った。

 ヌートの血祭りが前日に迫った夜、老神官の心肺機能が急激に低下した。
異郷の地での奴隷生活は心身共に計り知れない負担をもたらし、彼の生命力を削り取ったのだ。
術封じの枷をはめられた状態では、治癒が得意な神官もろくな回復呪文が唱えられない。
満足のいく治療も出来ないまま、カールは帝都内のコロッセウムに移送されることとなった。
これが今生の別れとならないように、カールは牢を出る時まで老神官を励まし続けた。
 祭り当日の朝には市内外にある五つの収容所にいた捕虜が、帝都ダルフォードのコロッセウムに集められていた。
天井の無い円形の闘技場は隕石が落ちた跡を利用して作られており、地上七階建て地下三層から成っている。
ヴレード建国以来から使われ続ける死の舞台の客席は、貴族ら全てが招待されてもその席が余るほどの規模だった。
回廊には等間隔に兵が並び、詰め所もある。
いつでも立射出来るように、コロッセウムの最上階にいる兵士は弓を構えた状態でいた。
隙の無い警備が奴隷の反乱を今まで防いできたのだ。
 捕虜は二つのグループに分けられ、南と北にある地下の控え室に集められた。
10人ずつ入れられた部屋では今までいた収容所とは異なる、格別の待遇が彼らを待っていた。
これが、拷問と厳しい稽古に耐えてきた捕虜に用意された罠とも言うべき誘惑である。
 魔力による灯りが壁に備え付けられ、地下とは思えない程の明るさだ。
広場には観葉植物が植えられ、絶えず水を送り出す噴水が開放的な雰囲気をかもし出していた。
室内には整えられた寝台が並び、飲食物は常に補充される。
練習場への出入りも自由であり、一番奥にある浴室は戦いの疲れを癒す憩いの場だ。
剣闘士として働かせ、使い捨ての命だという認識を麻痺させる為の処遇である。
ヴレード帝国において、戦の戦利品とも呼べる奴隷は国の財政を潤す物として売られるのが常だった。
彼らは国内外の貴族に高値で買い取らせる為の商品なのである。
だが地下の収容所は寒く、ただでさえ戦闘に怯える囚人達を震え上がらせていた。
 カールは神殿地区から一緒だった二人の傭兵と、別の収容所から来た7人の市民と同室となった。
奴隷達は捕囚されてから一ヶ月の間に技と体を鍛えぬき、今は戦いの前の準備で無口だ。
(エドレルの部屋は何処だ)
カールは広場に出た。
 広場を囲む囚人の部屋を見渡すが、弟子の顔は鉄の柵の間から見えない。
逞しい体つきをした市民や傭兵がカールを睨んでいるだけだった。およそ戦闘向きの男ばかりである。
おかげでカールにも何の為の捕虜であるか、容易に察する事が出来た。
カールは肩を落とし、噴水の縁に腰を下ろした。
(とうとうここまで来てしまった。どうするかな)
逃げ出すのなら移送中しかないと、カールは思っていた。
その話を傭兵やエドレルに持ちかけたのは昨夜である。だが、誰も関心を示さなかった。
それでカールは一人で実行を決めたのだが、思ったより兵の数も多く、隙が無かった為に断念したのだった。
 カールは背中に様々な視線を感じた。張り詰め、殺気だった嫌な空気である。
皆が皆、自分を殺そうとしているとカールは思った。
死と生の選択を目前にして、生きようとする精神力は計り知れない。
呟かれる罵言は次第に呪いとなってカールに振りかかっていた。
(……飲み込まれるな。平静を保て)
連日の稽古で鍛えられた筋肉に、首輪が食い込む。
外せないものかとカールが首輪を動かしていた時、四人の懐かしい面々が兵士に連れられて広場へやって来た。
 彼らの顔を見るなり、カールは走り寄った。
「皆、無事だったのか!」
次の瞬間、カールの体が噴水の中でずぶぬれになっていた。
弟子の一人に体を突き飛ばされ、噴水の中に落ちたのだ。
呆けた顔でゆっくりと起き上がったカールに、壮年の神官が言った。
「無事なものか! 私達は敵同士だ。対戦すればどちらかが死ぬ運命にある」
移送用の拘束具を兵士に外されながら、神官は続ける。
「我々は貴方の力がいかほどのものかよく知っている。北側にいる神官達も皆貴方に復讐を誓った。貴方もせいぜい本気を出すことだ」
その言葉に、奴隷部屋の柵を力任せに揺らして囚人達が呼応する。
突然火がついたように始まった怒鳴り声はカール一人に向けられていた。
まずは神殿の高司祭であったカールという脅威を排除しようと、彼らは結託したのだ。
「お前を先にやってやる!」
「俺がお前を殺してやる!」
「いい気味だなその様は!」
「何が高司祭だ! 裏切り者!」
「何故結界を張ってくれなかったんだ!」
あらゆる悪罵と嘲りが浴びせられ、今度ばかりはカールの顔も怒気を含んで歪んだ。
(狂ってる……!)
濡れた髪から水がしたたり落ち、彼は前髪を掻き揚げた。
黙って立つカールを尻目に、弟子達はそれぞれの部屋に入って行った。
今まで保ってきた不撓の気力すら失せる、衝撃だった。
 広場に誰もいなくなると、カールは上着を脱いで水を絞った。
込み上げてくる怒りによって、布を絞る手に必要以上の力がこもっていた。
カールが部屋に戻ろうとした時、二人の兵士が地下へ降りてきた。
「カールヴラット・クォーレル! 第一回戦だ」
一旦静かになっていた奴隷部屋は再び騒がしくなった。
彼をおとしめる罵声が響く中を、カールは兵士につれられて出て行った。

 天気は快晴だ。コロッセウム地上部の回廊は日の光がよく入って温かい。
北方に位置するヴレードも四月になってようやく寒威が衰えたのだ。
整った服装をしていながら下卑た笑いと歓声を上げる貴族さえ目に入らなければ、心地良い朝だ。
 南の入場門でカールと入れ替わりに入った男は、返り血を浴びて目を真っ赤にさせていた。
兵士に両脇を抱えられながら歩き、狂気の目をしてヘラヘラと笑っている。
しっかりと握られている剣からは血が滴り落ちていた。
闘技場の石畳を見ると、丁度死体が片付けられている所だった。
カールは息をゆっくりと吐き、それから神に祈った。
(神よ、私に勇気を)
彼に磨がれた両刃の剣が渡される。
兵士から闘技場に押し出されても、彼はまだ誰も殺さずに済む方法を考えていた。
 入場したカールの容貌を見るなり、客席からどよめきと歓声が沸き起こった。
上りきらない陽光が彼の金髪を目立たせたのだ。
二階の貴賓室から見ている貴族の令嬢達は、上半身が露わな金髪奴隷をもっとよく見ようと身を乗り出した。
審判が真ん中に立ってカールの名を呼ぶや否や、貴族たちはこぞって賭けを始める。
カールの正面には対戦相手が立ち、審判は彼の名前を言った。
(今、何て)
貴族たちは大声で金を掛け始めたが、カールの耳は蓋をしたように何も聞こえず無音の状態になった。
 殺気立っている剣闘士は立ち尽くすカールの方へ距離をせばめていく。
相手の顔がはっきりと見える距離になると、カールの頬に熱い涙が伝った。
カールはこれ以上の禍福は無いと首を振った。
これから起きる事を全て忘れられたら、カールは心の底から彼が生きていて本当に嬉しいと思ったに違いない。
感情の無い暗い瞳で、青年が言った。
「お久し振りです、カール様」
共に過ごした時間は長く、彼は有能な秘書であり弟であり、そして仲間だった。
神殿で別れて以来、一時も忘れた事は無い。
初戦の相手はレグスだった。

BackNext
Since 2003.03.01 Copyright TABERAH SHELAH/RAYGAH All Rights Reserved.