さしのべられた腕 〜儚き夢〜 第二部ヌートの血祭り 10

矢傷で気を失い捕縛されたセリウスは、帝国の神殿地区で傷の手当てを受けていた。
彼を保護した女は、ガランディウムの神官と言うよりは薬師のようであった。
 矢毒による三日間の高熱の後に、セリウスはようやく回復の兆しを見せ始めた。
ガランディウム神に由来する術の治療ならば拒否していたところであるが、彼女は常に反抗心を見せるセリウスに 柔和な態度を見せ、薬草を用いて必死に看護した。
 瞼に光を感じて目を開けると揺れるカーテンがあり、セリウスは心地良い風を頬に感じた。
木製の簡素な寝台と白いテーブルだけが置かれた正方形の部屋だった。
窓の外から賑やかな騒ぎが聞こえた。
セリウスは寝台から降りたが、関節に痛みが走ってがくりと膝が折れた。
疲労と傷による衰弱から足の筋肉が萎えて力が入らないのだ。
寝具にしがみ付いて倒れまいとするが、今度は背骨に痛みが走って体を曲げられない。
めまいで息が荒くなりながらも、彼は壁と家具をつたって窓の方へ寄った。
 壁に寄りかかって呼吸を整えてから、噴出した額の汗を手の甲で拭った。
そこで彼は、肩と胸にかけての包帯以外、上半身には何も身に着けていないことに気付いた。
包帯は何回か変えられていることを夢うつつに覚えている。
首には術の行使を無効化する、重たい首輪がついていた。
セリウスははっきりしない意識を外へ向け、何処からとも無く聞こえてくる軽快な太鼓の音と人々の浮かれた叫び 声に耳を傾けた。
 そう遠く離れていない所で祭りのような騒ぎが続いていた。
そんな賑わいを聞いていると、戦争で村が焼け落ち、数千の命と誇り高き自由都市が陥落したことなど夢だったよ うにも思える。
(風の匂いが違う……)
内陸なのか、磯の匂いがしなかった。
自然の香りではなく、物質的な、人間の生活を思わせる匂いが風に混じっていた。
ここはサマルドゥーンではないのだと痛烈に感じ、腹の底から突き上げてくるような悲しみにセリウスは震えた。
 建物と建物を繋ぐ回廊に目を落とすと、鎖に繋がれて何処かへ連れて行かれる人々がいた。
頭を項垂れ、傷だらけの体からは血が滲んでいたり、多数の痣がある。
戦の捕虜であろう彼らを頭上から眺めている自分の存在があやふやに思え、何故ここで手厚い看病を受けているの か考えなくてはならないことに気付いた。
セリウスの思考が機能し始めた時、女が部屋に入ってきた。
 女は湯気が立ち上る薬湯が入った小壷を持っていた。
川辺で出会った時の様に丈の長い灰色の神官衣を着ているが、今日は帽子を被っていない。
彼女の細く柔らかい髪の毛がふんわりと揺れた。
「起きて大丈夫? もう歩けるの?」
セリウスを支える為に近寄ったが、睨まれて肩をすくめる。
「ずっと寝てばかりだったから、動くのが辛いでしょう。毒は抜けているから、あとは体力をつければもとに戻る と思うわ。薬湯を持ってきたから飲んで」
出窓から身を乗り出しているセリウスは、黙って外を見ていた。
彼はここに来てから誰とも口を利いていないが、女は話しかけることを止めなかった。
「私、ネイラ・プロ・ヴァスという者よ。貴方が不当な理由で兵士に傷つけられたことが明らかなので保護しまし た」
(戦争に正当な理由はない)
彼は唇を噛んだ。あの兵士が自分をどうしようとしていたのか、考えただけで鳥肌がたった。
セリウスは包帯を触って伸縮性を確かめ、いざというときの道具にはなるだろうと考えた。
 ネイラという女神官は母のように優しく接し油断ならない。
懐柔して利用する為に生きながらえさせているに違いないと彼は警戒していた。
寝台に戻ったセリウスに、ネイラは硝子の小瓶を差し出した。
「これを飲んだら下の中庭に行ってみない? そろそろ体を動かしてみましょう」
飲み薬は一切受け付けたくなかった。
ここまで治療されて毒を飲まされることは無いはずだが、万が一自白剤であるときのために備える必要があった。
「そんなに意地を張るなら、口移しするわよ」
ネイラがセリウスの隣に座り、迫った。
 彼女の体が傾き、大きな胸の先端がセリウスの腕に当たった。
その感触に驚いて腕を引っ込めたセリウスは赤面し、彼女は目を丸くした。
相手への視線を避けることが不自然に思えたその時、窓から風が吹き込んでネイラの茶色い髪がセリウスの頬を撫 でた。
嗅いだことの無い柔らかな香り。
セリウスはお互いの吐いた息が顔にかかるほど女性の近くに寄ったことがなかった。
なんて長い睫毛なのだろうと、セリウスは見とれた。
「飲んで」
木苺のジャムを塗ったような艶やかな口唇が動く。
彼は性急に体を動かして雰囲気を変える必要を感じた。
 セリウスはネイラの手から小瓶を奪うようにしてもぎ取り、薬を喉へ流し込んだ。
「良かった。見せたいものがあるのよ」
セリウス同様、視線を泳がせているネイラはほんのりと頬を赤くして立ち上がった。
彼女が離れると、彼は薬湯の強い苦味を急に感じた。まるで麻痺していた感覚が戻ったようだった。
喉が拒否を起こして戻しそうになり、堪えて彼はむせた。
彼は口の中に残る草の繊維を飲み込もうとしながら、ネイラの嬉しそうな顔を見上げる。
悪意の感じられない応対にやり込められているセリウスは、ネイラに手を引っ張られて寝台から降りた。

 甲冑に覆われた二人の番兵が部屋から出てきたセリウスを威圧した。
「ご苦労様です。ちょっと下へ降りますね」
ネイラが声をかけると番兵は飼いならされた犬のように恭しく頭を下げる。
彼女は足元がふらつくセリウスの隣を歩き、彼の背中に手を添えた。
 等間隔に立つ柱には人と動物を掛け合わせたような像の装飾が成され、回廊の奥から聞こえてくる祝詞が生物の唸り声のように響いていた。
手すりにつかまりながら御影石の階段を下りると、正面に緑溢れる中庭があった。
 背の高い木が吹き抜けに向かって伸び、格子状の天井から降り注ぐ陽光を我先にと競って浴びようとしているようだ。
爽やかな葉の音と湿った土の匂いに囲まれ、セリウスは深呼吸をした。
「この町って隣国から仕入れた花は売ってるけど緑は売っていないのよ。緑があまり育たない土地だから」
しかしそこは形良く刈られた低木と果実をつけた木が立ち並ぶ、手入れの行き届いた小さな庭園だった。
日干し煉瓦で囲まれた場所には花ではなく、様々な形をした草が植えられていた。
青々とした葉の色は土が肥えている証拠である。
「薬草を栽培したくて父にここを借りたの。母が農村育ちだったおかげで……」
ネイラは話を止めた。セリウスが木の幹に触れて頭をうな垂れたのだ。
久し振りの感触だった。葉を透過して降り注ぐ陽の光は柔らかくて心地良い。
新芽のような綺麗な緑だとセリウスは思った。
濁りが無く、温かく包み込むような……師の瞳の色だった。
「術を使わずに草で治療するなんておかしいでしょ」
セリウスの脳裏を掠めた人物は、ネイラの声で掻き消えた。
 ネイラは切り株に腰を下ろし、足元に生えている赤い茎をした薬草を撫でた。
彼女の隣にも切り株はあるのだが、セリウスは座らずに幹に寄りかかった。
太ももは痙攣して休憩を訴えているのだが、彼女の近くに行きたくはなかった。
「村でも薬草は育てていた。治療は神官や魔術に長けた者の特権ではありません」
セリウスの返事に、ネイラは微笑む。
張り詰めていた相手の心が、閉ざしていた口を開くにつれて垣間見れるような気がしたのだ。
「子供の能力は先天性でしょ。親譲りの魔力を秘めて生まれてくるのが普通だけど、たまに何の力も持たない子供が生まれる事があるわ。 どんどんそういう人間が増えて、遠い未来に魔力を持たない人間の世界がくるかもしれないって私は思うの」
小鳥が格子の間を通って中に入ってきた。
土の上を滑空し、何かを口に咥えるとそのまま空へ抜けていく。
「誰にでも使える薬があれば治癒の術が使えなくたって人の役には立つわ」
小鳥が消えた空を見上げながら、ネイラが言った。
(この人、術が使えないから薬草で僕を治療したのか)
未来を憂えて悲しみを湛えた横顔はガランディウムの毒気のある神官には見えない。
セリウスにはネイラが緑を愛で薬草を育てる、村娘のように思えた。
 ネイラはセリウスに向かって四つ折の紙を差し出した。
「貴方はずっとうなされてた。何度も謝って、叫んでた」
小春日和の温かい日差しを浴びているというのに、セリウスの背中を伝う汗は冷え切っていた。
「私、貴方が何度も叫んでいた名前を探したの」
呼んでも応えはしない。だが叫ばずにはいられないその名前。
セリウスは紙を受け取って開いた。
 『ヌートの血祭り対戦表』と走り書きされた表には、南と北に分類されて名前が羅列していた。
【第一回戦:南/カールヴラット・クォーレル 対 北/レグス・ルドレスト】
「こっこれは……これは何だ!」
「きゃっ」
丸で囲まれた箇所を見るなり、セリウスはネイラの肩を鷲づかみにした。
その勢いで彼女は体勢を崩し、座っていた切り株からずり落ちる。
「捕虜同士を戦わせる競技で、その組み合わせなの」
セリウスの顔が蒼白となった。

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