さしのべられた腕 〜儚き夢〜 第二部ヌートの血祭り 1

 カストヴァール大陸東部に寄り添うようにして位置するテュニジア島は、サマルドゥーンの関所付近とセル・セアの森から見ることが出来る。
隆起した断崖で構成され、潮風が強く吹き込む為に森と農作物の育ちが悪い島国だ。
 テュニジアで行う農耕はもっぱら根菜類ばかりで、小さな草原では家畜を放し飼いにしている。
住み心地はそれほど良くは無くても、帝都から離れた島で暮らす人々は皇帝の暴慢な支配に怯える必要が無いだけで平和とも呼べる日常を送っていた。
このテュニジア島を統治するのは先帝ジャハイルから褒美としてテュニジアを与えられた、ディ・オール卿である。
代々温厚な当主が多いせいか、このディ・オール家は島民の信頼を得ていた。
 昼の休憩を終えた農夫が、肩に鍬を担いで畑へ戻ってきた。
昨晩の雨雲は何処かへ消え去り、澄み切った空に海鳥が飛んでいる。
彼は土手から畑の作業経過を見ようとするが、桃色の何かが動いているのを見て、叫んだ。
「セティーヴェお嬢様! いけません、お召し物が汚れてしまいます」
セティーヴェは屈んでいた腰を伸ばして手を振った。
「いいのよ、手伝わせてちょうだい。こっちの方が楽しいわ」
太陽が出ているとはいえ未だ寒いこの時期に、彼女は額に汗の雫を着けていた。
 丸く大きな瞳は蒼穹を映し込んで輝き、頭の天辺で結わいた金の髪は屈む度に地面に着く。
彼女はそれでも構わずに、乾いて固くなった土中から芋の蔓を引っ張っていた。
「また賢者様のご指導が嫌で抜け出してきたのですね」
農夫は畑へ降り、鍬を振り下ろして土を掘り起こす。
セティーヴェは苦笑し、汗を拭おうと額を擦った。
桃色と藤色が織り交ざった、滑らかな光沢を放つ衣服も煤けてしまっている。
細くてめりはりの無い体つきと、無邪気に土と戯れる素行が彼女の年齢を示しているようであった。
彼女は口を尖らせた。
「だってお父様ったら……」
そう言いかけたところで、海を挟んだ向こう側にある大陸を眺めていた彼女の口が開いたままになる。
セティーヴェは芋を手から落とし、ドレスの裾を持ち上げて土手へ上った。
 本土のセル・セアの森から煙が上がっていた。
否、霞んで見える公共市場の方からも何本か煙が立ち昇っているのが見える。
「サマルドゥーンで何かあったのかもしれない」
小さくつぶやくと、畑を囲む柵に結んでおいた手綱を解き、馬に跨った。
「お嬢様、気をつけてくださいよ!」
馬に全力疾走させる命令を下したセティーヴェの背中に向かって、農夫は叫んだ。
 鐙で思い切り腹を蹴られた馬は碁盤の目に並んでいる畑の間を走り、石畳の街道へ出た。
(お母様、大丈夫かしら……)
真っ直ぐ走れば館に着く。セティーヴェは手綱を握り締めた。
 館の門を通過してから玄関までは、馬車か馬を利用しないと息が上がってしまう距離がある。
散歩に適した庭だと思っていたはずが、今のセティーヴェにはその広さをもどかしく感じていた。
 敷地には背の高い木が植えられ、潮風から館を守っている。
テュニジア島で最も木が茂る場所だ。
一角獣や妖精の形を模して刈入れられた低木は小鳥の良い休み場であった。
 鳥の巣箱を木に取り付けている庭師が、馬蹄を聞きつけて振り返った。
「お嬢様!」
セティーヴェは手綱を引いて馬を落ち着かせた。
「小屋に戻しておいてちょうだい!」
飛び降りて庭師に馬を預けると、セティーヴェは館へ走った。
 厨房の勝手口を掃除していた使用人の横を駆け抜け、館へ入る。
彼女は昼食の後片付けで混雑している厨房を通って階段を駆け上がった。
海風で湿った髪が、セティーヴェの頬に張り付いている。
背中の後ろで絡まった髪を放ったまま、彼女は母親の寝所で立ち止まった。
「お母様!」
セティーヴェが両開きの扉を開け放つと、寝台で横になっている母が上体を起こした。
 母の隣に腰掛ける父は眉間に皺を寄せた。
「セティーヴェ、静かにしなさい」
父から穏やかな叱責を受けて、彼女は静かに扉を閉めた。
「そんなに慌てずとも、私は大丈夫ですよ」
天蓋のレースを避けて、彼女の母であるセティヴェラが顔を覗かせた。
 セティーヴェと同じ金の髪に青い瞳。
大人になれば自分も同じように美しくなれるのだろうと期待をしてしまう、セティーヴェには自慢の母である。
今日は哀婉極まりない表情が母を更に美しく見せていた。
思っていたほど顔色が悪くなく、口元に微笑を浮かべている様を見て安心したセティーヴェは小さく息を漏らした。
「驚いて眩暈がしただけです」
母は案じ顔で寝台に腰を下ろしたセティーヴェの、乱れた頬周りの髪をそっと整えるようにして顔を撫でる。
彼女は目じりに涙の後がある事に気づき、秘めたる意中を明かしてはくれないものかと母親を見た。
「先ほど帝都から使者が参られた」
父シードレスは深緑色のカーテンを開けて窓辺に立った。
 彼は目を細め、晴天下に煙るサマルドゥーンの方角を見ていた。
セティーヴェが状況を察するには己が見た情景と父の説明だけで十分であった。
「やっぱり……。煙が上がっているのが見えたの。父上はご存知だったのですか? 帝がサマルドゥーンを攻める事を」
「いや。何も聞いておらぬ」
腕を組んで壁に背中を預け、シードレスはにべもない答えを返した。
「…何ということを。人々が集う楽園を一日で陥落させるとは」
視線を落とした母の肩にそっと触れ、セティーヴェは母の傷心を癒そうとした。
「お前の祖父母はもはや生きてはいないかもしれません。このような事になる前に、お前を私の生まれた港へ連れて行きたかった。見せてやりたかったのです、あの自由で活気のある町を」
故郷の最後を部屋から見守った母、セティヴェラは哀惜に堪えない。
嫁いで以来、一度も故郷に足を踏み入れていないセティヴェラの忍耐が水泡に帰したのだ。
 いつか娘と共にサマルドゥーンへ帰る事が、彼女の数少ない願いの一つであった。
サマルドゥーンがヴレード領となった為に帰郷しやすい環境は整った。
しかし、自由都市としての誇りが侵略によって打ち砕かれた後に訪れては何の価値も無い。
ヴレード領内とはいえ、このテュニジア島に住む方がサマルドゥーンよりも快適になるであろう。
(お母様……きっと使者の報告を聞いていた間中、我慢していたのね)
皇帝の勝利を耳にして、サマルドゥーン出身の妻が取り乱すわけにはいかない。
ヴレード貴族に嫁いだ者としての立場がセティヴェラに平静を装わせたのだ。
親兄弟の身を案じて涙を流すことさえ、罪であった。
 怒りを押さえ込み、震える声でセティヴェラが言った。
「皇帝の手に落ちれば、サマルドゥーンに自由などありますまい」
「セティヴェラ、少し休んだほうがいい」
シードレスは慎ましい妻らしからぬ感情の高ぶりに気を止め、額に口付けをした。
安臥を促して母に布団をそっとかけ、セティーヴェは寝台から立った。
(可哀想なお母様……)
上掛けで顔を覆ってしまった母に、かける言葉は見つからない。
何の慰みの言葉をかけてあげられない自分の未熟さに気落ちしながら、セティーヴェは父の後について部屋を出て行った。
 部屋を出てから、セティーヴェは服の汚れに気づいた。
(いけない、忘れてたわ……お母様の寝台が汚れちゃったかもしれない)
胸元のレースに引っかかっている、芋の細い根をつまみ上げる。
島はずれに住む賢者の授業を聞かずに畑へ出た事を父がいつ怒り出すか、セティーヴェは気が気では無くなった。
 父が気づく前に、背後の階段を下りていこうとした時であった。
シードレスは廊下の突き当たりにある書斎の前で足を止め、振返って言った。
「セティーヴェ、帝都では凱旋の宴が開かれる。明日から私も行かねばならない。留守を頼むぞ」
セティーヴェは咄嗟に手に持っている根を後ろへ隠した。
「まさかお母様も?」
「ああ、我がヘレ・ディ・オール家の席は二つ用意されている」
シードレスは書斎の扉に手をかける。
両手を後ろへ回したまま、セティーヴェは部屋へ入ろうとする父に歩み寄った。
「そんな! お母様には辛すぎます。お母様の故郷を奪った祝いの宴なんて……!」
「ここへ嫁ぐ時に覚悟していた事だろう」
父の緑の瞳は濁っていた。
 板ばさみとなっているのは母だけでは無い。
妻を思いやる気持ちがありながら、ヘレ・ディ・オール家の当主として帝に仕えなければならない責務。
立場に縛られて悲しみを閉じ込めねばならない心労は、セティーヴェに己の身分をも自覚させる事となった。
両親の跡を継ぐべきただひとりの権利者という自負が、彼女を突き動かした。
「私が」
扉の向こうへ姿を消した父に向かって、セティーヴェは言った。
「お父様、私が代わりにお供いたします」
セティーヴェは閉じられた扉の前で父の返事を待つ。
次期当主である自分への教育を怠らない父が断りはしないだろうと彼女は思っていたが、即答は無い。
しばし間があった後で、くぐもった声が返ってきた。
「ならぬ。まだ早い」
「そろそろ都を知っておかなければ我が家が恥をかきます。私はもう15です」
セティーヴェは尚も強く言って扉に手をかけると、部屋の中から開かれて父が顔を覗かせた。
「ならば芋掘りなどするな、セティーヴェ」
父の表情は笑いを堪えているようで厳格な顔つきがほころんでいる。
思わず胸の前で芋の蔓を両手で握りしめてしまっていたセティーヴェは赤面し、何の言い訳も出来なかった。

 ヴレード帝国領の三分の一は、セル・セアの湖である。
この湖はサマルドゥーンのセル・セア源泉から湧き出た水が川となって、ヴレードまで流れついて形成されたものだ。
ヴレードのセル・セア湖はサマルドゥーンの源泉より四倍程の大きさで、大海へ通じる水路ともなっている。
湖に寄り添うように作られた帝都ダルフォードには三本の大通りがあり、三角で結んだ頂点にヴロンズ城が建つ。
セル・セア湖から流れるリブローダー下流には橋がかけられ、向こう岸のヴェルデン地区は貴族の別荘等に使われていた。
 市街地に住む人々は滅多に帝都へ向かうことは無い。
石が隙間無く敷き詰められた帝都は、彼らには息苦しく感じるのだ。
隣国ソリヴァーサとの国境付近には平民の居住区としてあてがわれ、彼らは細長く柔らかい草が広がるヴレード草原で放牧や農業を営んでいる。
開放的な暮らしが草原にはあるが、国境に位置する為に物見の塔や国境警備兵の詰め所が多かった。
帝都の神殿地区には黒衣の神官が甘言をもって、上京してきた農民や裕福な市民を洗脳し、アヴァンクーザー圏への敵意を煽る為に徘徊している。
異形の彫像と柱が立ち並ぶ神殿地区は治安こそ良いものの、人の出入りが少ない閑散とした場所であった。
 サマルドゥーンにあったアヴァンクーザー北の分殿で捕虜となった聖職者は、このヴレード神殿地区内の収容所に搬送されていた。
彼らは岩盤をくりぬいた地下牢へ無作為に三、四人ずつ入れられた。
大部屋でも足を伸ばして寝られる広さはない。部屋に四人入れられれば膝を曲げて抱えるようにしなければ横にはなれないのだ。
魔力封じの檻で作られた地下牢には神官の他に何人かの傭兵や市民が入っていた。
神官以外は皆そろって体格が良く、武力に秀でているようである。
彼らは戦いの後に捕虜となっても意気消失する事なく、番兵に敵愾心を燃やして口論を起した。
二日間何も飲食物を与えられる事無く歩かされた事がすでに拷問のようなものである。
牢に入ったその晩に疲れを癒す為の時間を与えられ、神官達は神へ感謝を述べた。
 波打つ浅黄色の髪を肩まで伸ばした若い神官は息も絶え絶えになっている老神官を介抱し、己のわずかな気力を掌から分け与え始めた。
老神官は裂けた唇を震わせて何か囁いたが、聞き取れる声の大きさは出ていない。
「大丈夫です、私はまだ元気ですから」
青年神官は己の水分を犠牲に、老神官の関節の痛みを和らげていた。
その力の反動で彼の体内の水分が失われ、口の中が苦く乾いてくる。
「エドレル……カール様はまだお戻りになられぬのか……?」
痛みが和らいだ老神官はエドレルを休ませようと、彼の手を握って術を止めさせた。
「はい…まだお戻りには……」
「いくら高司祭様といえども徹夜で歩かされた後に拷問かけられりゃ、生きて帰ってくるとは思えないぜ」
湿った壁に背中を当て、己の筋肉を揉みほぐしている同室の傭兵がすげなく言った。
 彼は牢に入る前に鎧を脱がされ、今は逞しい筋肉に覆われた上半身をさらしている。
もう一人の傭兵は大きないびきをかいて寝ていた。
数々の戦いに明け暮れた傭兵だけあって、この二人はどんな状況下でも戦闘への準備を怠らない。
 エドレルが傭兵に反論しなかったのは、その気力が残っていないからではなかった。
師を庇うには根拠が無さ過ぎたのだ。
体は疲れきって頭も働かない。
誰かを非難せねば平静を保っていられないエドレルは、老神官に治癒の術を施しても雑念が入って続けることが出来なくなっていた。
(何故、こんな事に!)
はたしてセリウスとレグスの脅迫を受け入れたカールヴラットの決断は正しかったのか?
仲間の反逆と師の無慈悲な決断に、自分を捕虜にさせた責任があるのではないのか?
エドレルだけではなく拘束された神官のほとんどが同様の疑心を抱き、暗く冷たい岩牢の中で理性をすり減らしていった。

 一階の拷問部屋にカールが入ってから五刻が回った。
最初の半刻は鳩尾と顔を集中的に殴られ、その後は鞭打ちが続いている。
部屋の隅に設置された小さな篝火が四角い部屋を小さく見せていた。
汗と血で濡れているカールに火影が映りこみ、六つに割れた腹筋の逞しさを浮かび上がらせている。
両足が繋がれている為に体の均衡を保ちにくい。
天井から吊るされた鎖に手首を繋がれ、足の力が抜ければ己の全体重がそこに集中した。
 両肩の関節が軋んで悲鳴をあげていた。
殴られる度に口から噴出す血は彼の顎をつたい、汗と混じり合って腹部へ流れ落ちる。
目を開けているつもりではあるが、腫れ上がった眼窩で視界が悪かった。
僧衣を切り裂かれ、露になった上半身への鞭打ち、絶え間無い尋問と罵言。
ヴレード兵は鞭打つ力を弱めまいと、二人交代でカールの肉体へ打撃を与えた。
 カールの背中と胸の皮は蚯蚓腫れになって裂けている。
部分的に火あぶりに処せられているような焼けつく痛みもあれば、胸骨が内臓を押しつぶす圧迫感もある。
(骨は折れていないだろうな……)
カールは兵士の質問に沈黙を守ったまま、浅く呼吸をするように努めた。
己にかけた回復呪文の効果範囲は痛みの緩和のみで、肺に突き刺さる骨の治療まで行き届かない。
受けた傷を全て治癒しては相手を逆撫するだけである。
カールは兵士を刺激しないように痛みを甘んじて受けた。
(もう少しだ……もう少し耐えろ)
カールは己に言い聞かせるが、術を使って拷問を耐え忍ぶ事に限界が訪れようとしていた。
 容赦無い鞭が肌を襲う度に、カールは喘ぐ。
体を反らせた所で鞭から逃れられはしないが、危機を避けようとする神経はまだ機能していた。
「何なんだ、一体! まだ答えないつもりか」
巻き毛のヴレード兵は鞭を床に放り捨て、壁にかけられている短剣を取った。
先が針のように細く、殺傷能力がそれ程高くは無い刺殺用の剣である。
(次は何だ……)
カールは胃から上がってくる血を嘔吐しながら、近づいてくるヴレード兵をぼんやりとした視界の中に見た。
「アストラルはどこにある? 答えろ!」
ヴレード兵は手早くカールのわき腹を掠めた。
切っ先は皮膚を上下に二分して、熟れたような真っ赤な肉を露出させる。
カールが一向に答えようとしない様を見て、巻き毛の兵士はぱっくりと開いた傷口に剣の先だけ刺し込んだ。
のけぞるようにして暴れるカールを見てから兵士が剣を抜くと、栓が外されたように血が噴出した。
 極端に減った血量をどうにかして体中に巡らせようと、心臓が激しく動悸し始める。
カールの唇は青ざめ、胃の中には何も残っていないというのに再び吐き気がこみ上げてきた。
「何て強情な奴だ! 命が惜しくないのか!」
髭面の兵士がカールの脇腹に手を押し当てる。
掌で傷口が塞がれた事によって血の流出が止まった。
だが太い指はカールの肉をしっかりと捕らえ、握り潰す。
声というものでは無い、雄叫びのような絶叫がほとばしる。
暗い拷問部屋が真っ白になり、カールの目の前から消えていった。
「とうとう気絶したか」
髭面の兵士はカールの脇腹から毟り取った肉を床に投げ捨てた。
 床にはカールから流れた血溜まりだけではなく、以前からこびりついている染みがあった。
汚物と体液にまみれながら拷問され、死んでいった者の名残である。
部屋に充満する腐液の悪臭を気にも留めずに、巻き毛の兵士は深呼吸をした。
「寝かせないぞ、答えてもらうまではな」
巻き毛のヴレード兵が床においてある壷の中から薬品を染み込ませた布を取り出し、カールの鼻にあてがった。
「おい、起きろ!」
鼻腔の粘膜が痙攣するようにして収縮し、カールの意識は一瞬にして蘇った。
(アヴァン、我が母なる神よ、この試練を乗り越える力を!)
目が見開き、呼吸が荒い。
豊富な精神力とは反対に五体が限界を知らせていた。
 カールは手首に体を預け、ぶら下がったまま揺れている。
鎖が不愉快な音を立てて密室の中に反響した。
ヴレード兵はカールの髪を掴んで首をそらせ、耳元で怒鳴りたてた。
「お前が三階の私室にアストラルを持って行った後、それをどうしたと聞いている!」
カールは口を動かしたが、まるで話し方を忘れたように声は出なかった。
食いしばった歯が磨り減ってギリギリと音を立て、呻き声しか出ない。
髭面の兵士は呆れ果て、椅子に座った。
 お互いに精神戦であった。
この拷問がいつ終わるのか、彼らには解らなかった。
カールが口を割らないことには終わらないのだ。
大概の囚人は鞭打ちと脅しで口を割る。
カールのように時間をかけて痛めつけても何も応えない人間は、二人の兵士には初めてであった。
 カールは薄目を開けて兵士を観察した。
髭面の兵士は腕を組んで座っているが、巻き毛の兵士の動きに落ち着きが無くなって焦りが見て取れる。
カールはこの時を待っていた。
 拷問に耐え切れなくなった後に吐いた言葉はどんな内容であれ、焦り始めた拷問官を安堵させる。
これ以上刺激は与えない為に、カールが用意していた言葉を紡ごうとした時であった。
「これでどうだ!」
苛立ちを隠せない巻き毛の兵士が松明を取り、肉が削げているカールのわき腹にあてがった。
血液が蒸発する音と共に肉が焦げる匂いがした。生臭く、燻したような煙が上がる。
その痛みはカールの術の範疇をはるかに超えた。
 カールの首はがくりと項垂れて動かなくなったが、薬品を嗅がされて強制的に意識を取り戻させられる。
「神殿の責任者だったとか聞いたぞ。手加減はいらねぇ、どうせ後で治癒魔法を使っちまうんだろ」
巻き毛の兵士は再び火をカールのわき腹にあてようと近づけた。
「ま……ってくれ……俺は後ろから殴られて……アストラルを奪われたんだ」
掠れた貧相な声がカールから漏れた。
「何ぃ?」
髭面の兵士が椅子から立ち上がり、カールの顔を覗き込んだ。
 カールは恐怖に悶える弱者を演じた。肩を震わせ、弱々しい目つきで訴え始めた。
「神殿の責任者としてあるまじき失敗を、貴様らに知られたくは無かった。お前達のようなガランディウムの僕に……!」
カールはもつれた舌を懸命に動かした。
巻き毛の兵士が、棒を篝火の中に投げ入れる。
拷問されてながら己の失敗を語る神官は、二人の兵士の目には哀れに映った。
カールは思惑通り、兵士達に屈辱を与えた満足感を覚えさせる事に成功したのだった。
 惨めな姿のカールを、髭面の兵士が鼻で笑った。
「ふん、ご立派な責任者だな。そんな自尊心の為に拷問に耐えるとはな。顔は見たのか」
「いや……後ろから襲われたんだ……見ていない。アストラルを持っていれば安全だと考えた市民か誰かに盗まれたのかもしれない……」
カールは二人から顔を背け、わざと羞恥心を表現する。
緑の瞳に蓄えられた涙が、白状した内容をさらに信用のおけるものにした。
「最初から大人しく話してくれれば痛い目に合わずにすんだのによ。じゃ、次の質問だ」
再びやる気を起こした髭面の兵士が、机に置かれていた鞭を握った。
 腐りかけた木の扉を、外から叩く者がいた。
兜を被った兵が中へ入って髭面の兵士に何事か耳打ちすると、速やかに出て行く。
「英雄の子孫についての情報はもういらねぇだとさ」
髭面の兵士は相棒に言った。
「本当か?」
巻き毛の兵士は己も責め苦に合わされていたかのように胸を撫で下ろす。
「ああ、戦場で魔術師様直々に手をお下しになったとかで、死んじまったらしい」
二人の会話を聞いていたカールの体が硬直した。
(何だって…?)
どんな拷問にも耐える訓練を受けた肉体ではあるが、これほど精神に衝撃を受けたことは無い。
カールはひどく狼狽し、呼吸が不規則になった。
 誰かが自分の身代わりになったのか?
市民のうちの誰かが自分と間違えられて殺されたのか?
様々な推測を脳裏でめぐらせても今ひとつ答えが出てこない。
「こいつにはもう用がねぇ、大部屋にぶち込んどけ」
拷問官の声が小さくなっていく。
(俺は……死んだのか……)
老神官の助言を守って素性を隠す事にも配慮していたカールは、放心して安堵のため息をもらした。
それがきっかけとなって、意識が深淵の中に吸い込まれていく。
現実と夢の境界で、カールは歓声を耳にした。
大通りの凱旋門を通る皇帝の勇姿を賞賛し、ヴレードの民が狂喜していたのである。

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