さしのべられた腕 〜儚き夢〜 第一部サマルドゥーン陥落 5

 ルドレストへの落雷は神殿に身を潜める者達の耳にも届いていた。
彼らは率直に神の怒りだと思った。自分達を本当に見捨てたのだと。
それから神を呪う声は聞こえなくなった。
ただ、迫り来るヴレード軍に怯え震えていた。
 静寂を切り裂く剣戟の響きが聞こえ始める。
雲間から顔を覗かせる月だけが、その死闘を見守っていた。
ヴレード帝国宮廷魔術師の放った波動を皮切りに、アヴァンクーザー北の分殿も戦場と化したのだ。
木に止まって休んでいた鳥達が、一斉に飛び立つ。
参道入り口の両側に立っていた神の像は魔術師の術により砕け散り、その残骸を踏みしめながら白と灰色の鎧が衝突した。
 沿道を行くヴレード軍に攻撃をしかける算段だった神殿騎士の外套が、濁った湖に浮かんでいる。
重たい鎧が錘の役割を果たして、彼らの亡骸を湖に沈めようとしていた。
神の家へ続く石畳は死の宣告者達に用意された血塗れの参道となり、行く手を阻むものはいない。
飛散した赤黒い血が神殿の壁を染め、汚していく。
突き当たりにある門に彫られている十字神紋は、後方から支援する魔術師の一撃で粉砕された。
 アマルは馬から下りて盾を鞍に置き、剣を握る手に力を入れる。
彼は湖岸で難なく神殿騎士を五人葬った。
しかし、最後の相手が持っていた盾が口元に当たり、溢血している。
アマルは口内に溜まった血を吐き出した。
「なんて手ごたえのない戦だ。つまらん」
オメガの脅迫とも言える交渉は、少なからずアマルに罪悪感を持たせる事となった。
無抵抗の者を武力で更に追い詰める所業は、彼が理想とする戦からかけ離れていたのだ。
 神殿騎士が全て死に絶えると、わずかな神官が門の前で足止めの術を放ち始めた。
アマルの体に重力がかかり、足は地から離す事が出来なくなった。
剣は上から押さえつけられているような重さに変わったが、それでもアマルが腕力にものを言わせて振り上げた時だった。
神官達は突然口から泡を吹き、白目を剥いて次々に倒れた。
ヴレード軍の最後部で神官の術を見ていた魔術師にとっては、子供だましもいいところであった。
オメガは彼らの息の根を瞬時に止めたのだ。
「アストラルを探せ!」
体への負荷が解除されると、アマルは内部へ突進していく部下に向かって叫んだ。
 神殿一階の懺悔室、食物庫に隠れていた市民は追い立てられ、回廊に出た所をヴレード兵に縛られた。
三人の神官が聖堂の扉の前に立ち、彼らの力を結集させて『鎧を纏いし者』を排除する結界の呪文を唱えていた。
額に汗が浮かび、こめかみに青い筋が浮き立っている。
だがそれもオメガの前には意味の無いものだった。
未だにセル・セアの岸辺に立って神殿に近寄らない彼女の腕が振り下ろされると、数ルード離れた先にある扉が砕け散った。
立ちはだかっていた神官は崩れた天井の下に埋もれ、熟れた果実を押しつぶした鈍い音がする。
天窓を突き破るような喚声が聖堂から響いた。助けを求めて神の名が叫ばれた。最後の哀願だった。
「カール様、軍が聖堂に! お逃げください!」
カールの私室へ直結している祭壇横の階段の下から、老神官が弱った声帯を無理に震わせて叫ぶ。
瓦礫と煙を突き破るようにしてヴレード兵が聖堂になだれ込んだ。
 階下の怒号と悲鳴に耳を澄ましながら、窓辺に立つカールは囁いた。
「俺はここを離れるわけにはいかない」
彼の身を案じた老神官への返事では無く、己に向けた言葉である。
腕の中には美しい虹彩を放つ紅の結晶体があった。
(アヴァンの祝福が皆の手に宿るように……)
カールは祈りを捧げる。
窓の外にかすかな月光で照り返す波が見えた。
 市内では命を賭けた激しい戦闘が繰り広げられているというのに、アラードの海は以前と変わらず水平線を作っている。
その所有を巡って人が何をしようと、全く関心が無さそうに。
サマルドゥーン議会の塔は投石によって真ん中から折れていた。
各公共広場には炎が灯り、墓地に発生するという陰火のようだった。
(サマルドゥーンは終わりだ……)
何かが彼の胸を締め付けていた。息が苦しく、目頭が熱い。
彼が生まれ育った故郷は見る影も無く、隣国の支配者に蹂躙されている。
窓の下に目を落とすと、神殿騎士とヴレード兵の骸が連なっていた。
信じるものと主が違うという点以外に、外見では彼らに異なるものを見出せない肉の塊だった。
「一体我々の何処が違うというのだ。同じ人間同士、何故殺しあわねばならない!」
カールは壁に拳を打ちつけた。
 止めていた息を全て吐き出し、彼は目を閉じた。
(これだけは失ってはならない。均衡を保たねば……希望を繋がなくては)
大陸各地に安置される事でアヴァンクーザー圏の結界を作り上げてきたアストラル。
結界があるからこそ、人々はガランディウム神の子である魔族と共存できていたのだ。
世界規模で人々に連帯感を持たせ、絶対的な存在の守護を受けているという安心感をもたらす唯一のもの。
その紅に明るい未来を夢見て希望を持つ事が出来るもの。
しかし、ここサマルドゥーンに一つの穴が空けられようとしていた。
一度空いた穴は深淵となり人々の心深く憂いが刻まれ、不安定な情勢は子々孫々まで続いていくのだ。
(破壊の神なぞに渡してなるものか。俺は俺のやり方で守ってみせる)
カールは腕に抱えていたアストラルを天井に向かって掲げ、囁いた。
 師から受け継いだ古き言葉、今ではほんの一握りの神官のみ許されている知識がカールから放出される。
「我、器となりて古の契約を果たさん」
閃光が走り、アストラルはカールの手を離れて中に浮いた。
『音声確認。Code No認識中……OK。アストラル解除Code確認』
アストラルから「音」が発生している。
固体として存在していたアストラルは握り拳程度の大きさに凝縮していく。
カールが煌く緋色に魅せられていると、アストラルは砕けて空気中に四散した。
その破片が赤い霧のようになって部屋に充満した後、母性を兼ね備えた美しい女性の姿を形取った。
(アヴァンクーザー神だ)
カールは感じた。
ゆるやかな髪に、ふっくらとした頬、かすかに微笑んだ口元。
参道に建っていた像はあながち嘘ではなかったのだとカールは思った。
憂いを帯びた表情に、カールは何処か懐かしさを感じた。
紅の神は両腕を差し出し、そのまま彼に重なった。
 体中を駆け巡る血潮が沸騰する。神経が麻痺するどころか全身の伝達神経が火花を散らした。
目の奥で何かが点滅している。
カールは頭痛に体を折り曲げて悶絶した。
(アストラルよ……我が体に宿れ……ッ!)
翠の目が大きく見開かれ、彼の呼吸が停止する。
意識が遠のく瞬間、アストラルは体内に全て吸収されて彼は吹き飛んだ。
 二階に異変を感じたアマルが階段を駆け上り、扉を開ける。
剣をかざして部屋に飛び込むが、中は何の変化も見られない書斎だった。
東の壁の下に、神官がうつ伏せに倒れている。
 アマルは屈んで金色の髪を引っ張り上げ、彼の頭部を起こした。
「おい! 聖堂のアストラルはどこにいった!」
カールは一時的な気絶から目を覚まし、唸った。
「解りません……」
カールは腕を付いて上半身を起こす。頭部に波打つ痛みがあった。
「アストラルはここにあったのですが……一体何があったのか……」
意識が朦朧とし、痛みで片目を開けられない。壁にぶつけた頭を撫でながら、カールは言った。
アマルは苛立ちを隠そうとせず、部屋の中を歩き回った。
「司祭長が持って逃げたのか?」
「いや、司祭長は私だが」
階段の前に立っていた二人の兵士は顔を見合わせると、慌ててカールを羽交い絞めしにかかった。
「そうかお前がアヴァンの高司祭か」
アマルはゆっくりと近寄り、下から舐め上げるようにしてカールを見る。
カールの鼻面まで接近して言った。
「では責任者カールヴラット・クォーレル。貴様をヴレードまで連行する」
光の残像のように、脳裏で白と灼紅が明滅している。
未だ十分に視界を捉えきれないカールには、アマルの顔がかすんで見えている。
カールはこの男がセリウスとレグスに苦渋の選択を強要した、神殿攻めの指揮者である事を悟った。

 階段から聖堂へ降りてきた高司祭の姿を見て、民は更に幻滅した。
首と手足を鎖で繋がれた高司祭はヴレード兵の言うがままに引っ張られ、歩かされていたのだ。
 カールは心とは裏腹に、絶望に打ちひしがれている様を演じなければならなかった。
平静でいるには場違いの雰囲気であると思い、自虐的にならざるを得ない。
人質にされたルドレストの村民と市民の命を助ける方法とはいえ、全ては決断を下した自分の責任だと。
だが自責の念を察する者はおらず、市民の視線は痛々しいものだ。
彼らの期待を裏切った代償が怨嗟であろうと、カールは受け入れねばならなかった。
「随分と余裕だな。助けもしない神への信心の賜物か」
隣に並ぶアマルは皮肉を言った。
カールは視線を落とし、彼と目を合わせないようにした。
「いいえ、アストラルがあなた方の手に渡らない事は救いです」
「ふん、すぐに見つけてやるさ」
アマルはカールを一瞥すると、聖堂内の中心に惹かれている絨毯の上を歩いて先に出て行った。
 参道には生き残った八人の神官が集められていた。
不信の冷たい眼差しを受けて、カールはかけようとした言葉を嚥下する。
彼らの口は閉ざされているが、今にも怨言が飛び出しそうに震えていたのだ。
カールはただ深いため息を付き、術を封じる魔力の鎖の重みを感じていた。
 門の前に折り重なるようにして倒れている神官の死体があった。
五人分の血が死体の下に溜まって、小さな池を作っている。
僧衣は土足で踏まれた為に汚れていた。
ヴレード帝国兵の侵入を阻もうと、己の術によって結界を張ろうとしたのだった。
歩きながら、カールはその中にセリウスとレグスの姿を探した。
(あいつらは逃げられたのだろうか)
二人の死体は見あたらなかった。
 弟子の死体を眺めるカールに、アマルが言った。
「良い選択をしたな。私は無抵抗の者を嬲り殺す趣味は無い。犠牲は最低限で済んだだろ」
その言葉の裏には、抵抗するものには容赦しないという意味が含まれているに違いなかった。
現に、最後まで神の家の守人であった神殿騎士は皆殺しにされているのだ。
(これが最低限だと?)
歯軋りするカールは兜を脱いだアマルと目があった。
 肉食動物の鬣のような髭と猛禽類のような目は猛々しく、戦士のそれに相応しい。
カールはアマルの奥底の野心を垣間見る。
アマルはカールの瞳の奥に、冷めやらぬ赤い炎を見ていた。
「カラジャル皇帝がサマルドゥーン太守を討ち取られ、アラード港を制圧されたとの報告が」
「……よし」
部下の報告によって二人の視線は逸れた。
 アマルは悦喜した表情で剣を鞘から抜くと、高く掲げて勝ち鬨を放つ。
彼の部下は三分の一と数を減らしていたが、それでも隊長に呼応して上げた歓声は打ち砕かれた市民の心に釘を打つようなものだった。
兵に束縛されながらも気を張って立っていた神官たちががっくりと肩を落とす。
事態が飲み込めず、蒼白となって頭を抱える神官、現実を拒んで首を振る神官。
カールは弟子に駆け寄って彼らにねぎらいの言葉をかけてやりたかった。
(すまない……耐えてくれ……)
彼は拳を強く握り締めた。
「アマル隊長、オメガ様が見当たりません」
馬を引いてきた兵士が行った。
「放っておけ。勝手に帰ったのかもしれぬ」
鞍に手をかけ、アマルは馬にまたがる。
兵士に腕をとられ、カールは部隊の後方へ連れて行かれた。
 アマルが居る先頭の方では、神官を鎖に繋ごうとする兵士に何やら命令が下されている。
カールは兵士と共に歩きながら、後方の仲間の様子に注意を払っていた。
「我らは先に帝都へ戻るとしよう。町が奴隷でごったがえせば陛下の凱旋行進がしらける」
その言葉を聞いた神官達が口々に騒ぎ始めた。
「何だって?」
「奴隷だと!」
「そうだ。お前たちは奴隷として売買され、祭りの生贄となるのだ」
手に枷をはめようとしていた兵士を押しのけ、老神官がアマルの馬の下に平伏した。
それはまるで細い枝がぽっきりと折れてしまったかのように哀れな姿だった。
「どうか今、ここで殺してくだされ! このような老いぼれに奴隷になれと? わしはサマルドゥーンと命をともにしたい!」
アマルが鼻で笑うと、老神官はカールの後を追う。
それを止めようとした部下を、アマルは手で制した。
「ああ、カール様!」
「泣くな……我々はお前の知識と共に行きたい。皆にはお前のような年寄りが必要だ」
懇願する老神官の涙が、織り込まれた皺に溜まる。カールは立ち止まって老神官を抱擁した。
 微笑むカールに、老神官はすがりつくようにして耳元で囁いた。
「カール様、ご自分がレフィリム様の血を受け継ぐ者だと悟られぬように……御身の為です」
二人は悲観しながら別れの抱擁にふけっている素振りを見せた。
(やはりご老人にはかなわぬな)
思いもよらぬ助言に悲壮感が取り払われ、カールは老神官の配慮をかみしめた。
「おい離れろ! お前は一番後ろだ」
老神官が引き剥がされた時、カールは力強い笑みを見せた。
(祖父さんは前皇帝の首を刎ねられたんだからな、孫とはいえ復讐されかねない。だが奴らは気付いていない。アストラルの事しか頭に無い)
引きずられるようにして連れて行かれる老神官の背中を見ながら、カールは確信した。
相手に見落としがあれば勝機がある。負けを認めるには早かった。
「お前たちは残ってアストラルを探せ!」
カールの腰に縄が巻かれ、彼の後ろにつれて来られた神官の腰に結び付けられる。
彼らは一列になって公共広場方面の北の門を出発した。
向かう先はヴレード帝国、帝都ダルフォードであった。
 村人と市民は神殿の中に残されている。
神聖さを剥奪された惨めな姿の神官達を、窓から無表情のまま見送っていた。
(皆、すまない。俺には何も出来なかった)
カールは誰もが自分を見ているような気がしていた。
サマルドゥーンを救った英雄の孫がヴレードに連行されていく。
ヴレード兵の後に続いて歩く「奴隷」を、幾つもの黒く澱んだ目が見ていた。
 この地で以前のように世界中の人々が集まり、その開放感と自由を享受することは無い。
町から活気が失われ、栄耀は衰微する。
吟遊詩人は英雄の歌の代わりにヴレード皇帝を賛美し、子供達は外で遊ぶことを止め、議員は己の保身の為に金を使う。
アラード港は軍船の波止場となり、清廉な僧衣に代わって、黒衣の神官が見ることが出来るだろう。
アヴァンクーザー圏の商人はもはやヴレードの手に落ちた国とは交渉をしない。
自由都市は死に、邪神を崇拝する国の一部と成ったのだ。
(サマルドゥーン以上に栄えることは無い。俺の故郷は死んだんだ)
カールは黙って馬の後を歩く。重苦しい雲に透けて、白み始めた空が見えた。
 森を抜ければヴレードに至る街道に出る。
セル・セアの森に生き物の気配は無く、ただ煙が靄のようにかかっているだけだ。
森にさえ見捨てられたようにカールは寂寞の情にかられ、ふと神殿の方を振り向いた。
三階の私室の窓から誰かが覗いている。
(誰だ?)
背筋に爪を立てられているように感じて、汗腺から冷や汗が噴出した。
 おぞましい、何かがいた。人知を超えた正体不明の、何かが。
姿形は兵のものではなく、長い髪が揺れている事から女と見て取れた。
顔が見える距離ではない。明け方とはいえ、森に囲まれて周囲も暗い。
しかし、カールには彼女が笑っていると思えた。
見えるはずが無い。
そう思いながら目を凝らした時だった。
「おい歩け!」
鞭打たれ、彼の視線は地に落ちた。
何者なのか確かめたい気持ちを振り切って、カールは仕方なく歩を進めた。
 夜明けの生ぬるい風が吹き、魔術師の髪が揺曳する。
「ふ……わらわに気付いたか。その力、先が楽しみなことよの、カールヴラット」
オメガは千里をも見通す金の目でカールの表情を楽しんでいた。
彼女の口元は自然と緩んでいる。
「運命の書の紐がついに解かれた。これで良い、わらわは見届けたぞ……」
背後の部屋の中では兵がアストラルを探して、箪笥や本棚、隠し扉を調べている。
しかしオメガは知っていた。
一縷の望みがかけられたアストラルの行方を……。

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