さしのべられた腕 〜儚き夢〜 第一部サマルドゥーン陥落 4

 痛みに悶絶し、神を呪う声。
神殿内にいる負傷者の精神が錯乱し始めている。
否、信者だけではなく彼らを導く筈の神官にも暗影が差していた。
 階段の下からきしんだ弓の音がした。
「誰も手を出すな」
カールの鷹揚な口調が皆に向けられ、弓を構えていた騎士は隣に居た神官と顔を見合わせる。
神官が頷くと、弓は下ろされた。
 セリウスは涙を何度も手で拭き、擦り切れたように目元が赤くなっていた。
「ルドレストの村はヴレード軍に占拠されていました」
鼻をすすりながら話すセリウスの視線はカールの足元に向けられ、目を合わせることは無い。
「奴らは結界を張るなと」
レグスは剥き出しの鋭気をもってカールに言った。
二人をここまで追い詰め、剣を向けるという行動にかりたてられた理由を話すまで、カールはしぶとく待つことにした。
 謹厳な態度で黙している師の反応が、レグスには冷たいものに思えた。
「神殿に結界を張らなければ、市民にはむやみに手を出さないと……!」
喉につかえていた言葉が、レグスの口から放たれた。悲痛な叫びは灰色の空に吸い込まれていく。
(卑劣な!)
カールは目を細めた。
「村人全員が…いや、市民全員人質というわけか? 神殿に結界を張れば無差別に殺すと言われたんだな」
自然と足が動いたカールを制するように、レグスは短剣を手前にかざした。
「我々神官には奴らからアストラルを守る義務があります。でも、人の命とアストラル、どちらが大事なんですか! 被害を最小限に食い止められる機会なんです!」
レグスが言い終わるや否や、セリウスが叫んだ。
「議会はどうせアラード港を死守する事しか頭に無い! 結界をはって篭城したって、助かるわけが無い!」
「ああ、その通りだ援軍なんて期待できない。俺達がどうにかするしかない」
カールは事実を述べ、答えを急がなかった。
 二人の訴えを考察しながらレグスを見ていると、カールは切れた唇に気づいた。
カールは細部に目がいくようになった事に、自身が冷静さを取り戻しつつあるのだろうと自覚する。
よく見れば彼らの目元と口元に、痣と皮膚が裂けた痕があった。
(殴られても抵抗したのか……)
カールならば二人を参道まで弾き飛ばす事は容易だ。
セリウスとレグスも、術で戦えば師に敵うはずも無い事は知っている。
家族や恋人を守る為に、二人にとってこれが唯一取れる行動の全てなのだと、カールは察した。
 戦を前に、神から享受していた安慰と幸福は消え去った。
残留したものは絶望を回避する為に手段を選ばない、種としての本能のみだったのだ。
可愛い弟の進むべき道を外させ、闇へ引きずり込んだ国、ヴレード。
カールは胸の奥が帝国への憎しみで支配されそうになりながら、表面上は安気な様子を取り繕った。
(確かに市民の命を助ける方法はそれしかない。だがおかしい……何故ここまで神殿に固執する? 最初からアストラルが目的か?)
誰もがカールの決断を待って、沈黙していた。
「解った。お前達の言うとおりにしよう」
「カール様!」
信じられない面持ちで、レグスは短剣を持つ手をゆっくりと下ろす。
「アストラルが奴らの手に渡れば結界で守られたアヴァンクーザー圏の均衡が崩れる。それだけは防がなくてはならない。だがそれはお前たちの責任じゃ無い、心配するな」
もともと飄逸なところがあるカールの軽快な言葉運びと温顔が、セリウスとレグスの心を溶かしていく。
 セリウスは一層、涙が止まらなくなっていた。
「お前達には守りたいものがあるのだろう?」
肩にカールの手が置かれると、レグスは頭を項垂れて口元を押さえた。
「申し訳ありません……! お、俺は……!」
レグスはこみ上げる悔しさを必死に押さえ込もうとしていた。
ヴレードの戦略に利用された汚辱は、真っ直ぐ己に向かっていたのだ。
「また会えて良かった。だから生きてまた会おう、セリウス、レグス」
セリウスの頭を撫でながら、カールは力強く言った。
そして、抱擁。
これまでになく、カールは愛する弟子を強く両腕に抱いた。
師の恩威に、弟子達はしがみつく事で応える。
「何があっても死ぬな。生き抜くんだ」
その言葉はそこにいた全ての者に向けられていた。
 高司祭カールヴラットの決断に、異を唱える者はいなかった。
状況は不利であるというのに、微塵も感じさせない威光がカールにはあったのだ。
聖堂で礼拝をとりしきる時のように厳かで、何処からともなくアストラルの光明が差していた。
神の守護を受けて戦場に立つその勇姿は生への渇望に満ち、自信に溢れた笑みは部下の疑念を払拭させる。
それはさながら彼の祖父、サマルドゥーンの英雄が舞い戻ってきたかのようであった。
 幸い、彼の発言に不安な表情を見せる者はいなかった。
(これで、いい。俺は俺のやり方で守ればいい……)
騎士と神官は武器を掲げて神への忠誠を叫んでいる。
彼は背を向け、唇を噛んだ。
(戦わずに生き残る事はもはや不可能だ)
戦は生と死をもたらし、双方の未来に復讐の連鎖を残す。
自分が守ろうとしているものは、それだけの価値があるのか?
途方も無い生命の数が失われる事を考えただけでカールはめまいを感じる。
その様子を見せまいと、彼は足早に神殿内に入って行った。
 英姿が見えなくなって現実に戻された事に気づくと、騎士の長が進み出て部下に何やら命令を下し始める。
神殿騎士達は再び門の外に出て行った。
まずは神殿の外、セル・セアの岸辺からヴレード兵を迎え撃つ作戦である。
 レグスとセリウスは互いを見つめたまま黙っていた。
お互いを慰めることも無く、ただ、もう後戻りは出来ないと確認し合っている。
「用意周到なことじゃの。きやつら、カール様の術を調べておったとは」
初老の神官が屈めた腰に両手を当てながら階段を上ってきた。
「アストラルの力を借りるとはいえ、カール様の施される術は特定の者を拒む事の出来る高度な結界だ。それを恐れ交渉を持ちかけるなど、カラジャル皇帝の考えでは無い」
セリウスとレグスが目に入らなかったというように、老神官は独り言のようにつぶやいて神殿の中へ入っていった。
 二人の脳裏に魔術師の姿が思い出されたのは、ほぼ同時だ。
カールの動きを封じる為に神官を捕らえ、市民を人質にとった狡猾な魔女。
厭悪すべき存在でありながら艶麗な魔術師。
「俺達は市民の命を救うためにここにいる神官とアストラルを犠牲にするんだ。その報いは受けなくてはならない」
レグスは短剣を再び握りなおし、階段を駆け下りる。
セリウスもそれに続き、二人は騎士達に混ざって神殿の外へ出て行った。
敵の強襲に備えて警戒を進める中で、二人を止める者は誰もいない。

 セル・セア湖畔にあるルドレストの村はヴレード帝国第八部隊に占領されていた。
村人は広場の中央で捕縛され、四方にヴレード兵の監視がついている。
若い女は何処かへ連れて行かれ、ここに捕らえられているのは年寄りと中年女しかいない。
出稼ぎに行っている男達は故郷が戦場と化しているとは知らず、今頃海の上である。
もっとも、農夫の彼らがいたとしてもヴレード軍相手に全く歯が立たなかったであろうが。
年寄りには抵抗する体力も気力も無い。憔悴しきって、座り続ける事すら一仕事のように見えた。
 彼らの背後にある炎が轟々と燃え、木の皮が弾ける音がする。
武器になりそうな鎌や鋤が積み上げられ、燃えているのだ。
三十代前半という若い年齢で一部隊を任されたアマル隊長は馬に乗ったまま、灰になっていく農具を見ている。
今回の戦で一旗上げて昇進しようと目論んでいたアマルは、辺鄙な村で待機しなければならなくなった理由である上官の隣に立つだけで、勇んでいた戦意が消失するような気がしていた。
隣には彼の指揮官である宮廷魔術師オメガがいる。
二頭の馬は体重を乗せる足を時折交代しながら大人しく主たちを跨らせていた。
 喉の奥で低く笑う声があった。
「あの青二才共、師を説得できたようだな」
絶対的な自信を誇る魔術師にとって、交渉は賭けでは無かった。
オメガが閉じていた目を開ける。
毒蛇の目はアマルの体を縛り上げられている錯覚に陥らせた。
彼は抗うように反論する。
「良いのですか? 陛下からこのような命令は……」
「皇帝はアラード港の富で酔っておられ、我らが神の憎き敵を討つ事を忘れておられるのだろう。お前はわらわに従えば良い」
(陛下に対し何という驕りを)
アマルは兜を脱いで脇にかかえ、三白眼で訝しげに魔術師を見る。
(たとえ上手くいったにせよ、行き過ぎた行動は陛下の目に余るだろう。思い上がるのも今のうちだ)
自分の部隊が皇帝の下から外され、魔術師の下に付けられた事に不服であったアマルは、腹の中が煮えたぎるような怒りを感じていた。
美しい容姿であるというのに、同じ温血が流れているようには見えないオメガと共にいるのが嫌でたまらなかったのだ。
 村人の一人が興奮し、顔を上気させながら言った。
「くッ……セリウス……なんてことを! こんな事をさせる為にわしはカール様の元に預けたわけじゃねぇ!」
「あなた、落ち着いて」
なだめようと、女が肩を傾ける。だが傍に寄ろうとしても体は思うように動かなかった。
「ふ……聞いていたか、村長。お前の息子はよく働いてくれているぞ」
アマルが馬上から見下ろして笑う。色黒に白い歯が映えていた。
「貴様ら許せん……! アヴァンクーザー神の裁きを受けるがいい!」
村長は髪が一本も生えていない頭部まで真っ赤に染め悪態をつく。
見かねた兵士にわき腹を蹴り上げられても、ヴレードへの罵倒は続いた。
彼の妻、セリウスの母はただ涙を流していた。
 鼻を鳴らすアマルの元に兵士が走ってきて、馬の前で跪いた。
「オメガ様、皇帝がアラード港に到着いたしました」
魔術師は満足そうに笑みを浮かべた。
「ではわらわも参ろう……アヴァンの子等の家へ」
オメガの黒馬が嘶き、前足を高く振り上げた。
「見張りの者は待機していろ! あとの者は俺に続け!」
アマルの号令が村に響き渡り、夕食をとっていた兵士は繋いで置いた馬に慌てて飛び乗る。
だが彼らを待つこと無く、オメガを乗せた黒馬はルドレストの門から出て行った。
(何て勝手な女だ!)
アマルは舌打ちし、兜を被りなおして馬を走らせる。
250名の部下が後ろに付いてきている事を認めると、馬を襲歩させて村を出た。
 地上に圧力をかけるかのようにひしめく暗雲が、セル・セアの森上空を覆っている。
風が無く、湖は鏡の如くヴレード軍の姿を映していた。
ルドレストの村を出て湖を半周ほどした時、前触れ無く上空に音波が広がった。
雲の隙間を繋ぎ合わせるように、閃光が走る。
その直後である。
「な、なんだこれは……っ!」
彼らの頭上から轟く稲光が発して、アマルら兵士は目を覆った。
訓練されている筈の馬さえ恐怖に暴れ、兵士を振り落とす。
アマルは鼓膜を突き破ろうとする雷鳴に耳をも塞ぎたかった。しかし、手綱を握り、目を覆っているだけで精一杯だ。
セル・セアの森は昼間のように明るくなった。
アマルが指の隙間から背後を見やると、青白い稲妻がルドレストを何度も直撃していた。
(俺の部下が!)
湖面に光の筋が何本も映り込み、細かい光の粒子となって揺れ動く。
煤煙に包まれたルドレストの村から、人の声からはかけ離れた金切り声がした。
風向きが変わって鼻をつく臭気が漂い始める。
 顔を歪ませて何度も瞬き、光の残像を追い払おうとするアマルの目に、岸辺で黒い外套をたなびかせるオメガの姿が映った。
「一体今のは……」
村に残っていた部下の安否を気遣いながら、アマルはオメガの方へ馬を寄せて尋ねた。
しかしオメガは湖面の向こう岸に見えるルドレストを凝視したまま、微動だにしない。
「アヴァンクーザーの裁きじゃと?」
阿鼻叫喚の悲鳴を快く感じながら、オメガは低く囁いた。
「……そなたらを救えぬ神がわらわを裁くことは出来ぬ」
微かに笑みを含んだ侮蔑であった。
戦慄して体が反り返ったアマルの黒目が萎縮して針穴のようになる。
それはルドレスト村長への返事だったのだ。
はたして村長が生きているうちにオメガの返答を理解できたのか、定かではない。
 木々の間に、白亜の神殿が見えていた。

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