さしのべられた腕 〜儚き夢〜 第一部サマルドゥーン陥落 3

 神殿の外壁を潮風から守っているセル・セアの森は深閑として、冷たい空気に包まれていた。
にぎやかな市場とは反対に、森に生息している小動物や小鳥も全て寝静まった後のようだった。
 セル・セアの源泉は神殿を出て湖を半周ほどした所にある。
日々の生活に使う水をほとんどこの湖に頼る近隣の村が、岸を補強したようだ。大小の石や板で固められているが、それでも苔が生えていて滑りやすかった。
レグスは湖面に向かって斜めに生えている木をしっかりと握り、慎重に腰を屈めた。片手には透かし模様が入った儀式用の白い瓶を持っていた。
セリウスは後ろでそわそわしながら辺りを見回す。時刻はまだ夕刻の礼拝前だというのに、朝靄の漂う森の中で道に迷った気分だった。
瓶を水につけ、レグスはゆっくりと掬い上げた。
「冷たそうだね」
セリウスは瓶を受け取り、蓋をしながら言った。
澱みが無く、聖別する必要を感じないほど澄んだ水だった。
 礼拝時に使う聖水はこの瓶から取られ、小瓶に移される。自然の水を神聖な水に清める儀式はカールしか出来ないが、元になる水を汲みに行く神官は当番制だった。
袖を捲し上げているレグスの肌に水滴がついている。
彼は神殿内にいた時と同じ服装で、神官が着る外套の上にもう一枚外套を羽織って着込んでいるセリウスには見ただけで鳥肌が立った。
寒がりであるセリウスにとっては嫌な仕事だけに、寒さで顔が強張っている。しかしレグスは特に顔色も変えず、いたって涼しい顔を保っていた。
「冬でも凍らない湖とはいえ、手のほうが凍る」
レグスは袖を下ろして外套を巻き込んだまま腕を組んだ。
湖面の上に吹く微風に乗って、甲高い声が聞こえてくる。レグスは顔を上げて反対岸を見やった。
「騒がしいな……」
「ルドレストで踊ってるんじゃないの? 男達は出稼ぎに行って、居ない時期だから」
ルドレストとはセリウスの出身地で自給自足の農村である。
畑仕事が手の空く季節になると、村人は行商しに来ている外国人に雇われて冬の稼ぎを作る。
男が海を渡って出稼ぎに出ている次期、その寂しさと不安を紛らわすかのように女と子供は踊り続けるという慣わしがあった。
 セリウスが神殿と反対側の岸にある村の方を見ると、湖の土手沿いに立っている木製の柵の間から焚き火が見えた。
「……僕ちょっと見てくる」
照れくさそうに言ったセリウスに、レグスは微笑んで頷いた。
神官になる修行を始める為に村を出たセリウスではあったが、神殿から近いこともあって、カールは週末に帰ることを許していた。
しかし遠慮がちなセリウスは一年以上も親に顔を見せていない事を、レグスは知っていた。
「お前一人じゃ危ない。俺も行く」
神殿へ向かう道とは反対側の方へ歩き出したレグスに、セリウスは言った。
「ユマに会いたいからって言えばいいのに。週末に必ず会いに行ってる事知ってるんだけど」
「うるさい。カール様が傍にいない時は俺がお前の保護者だから……」
彼が言い終わらないうちに、セリウスは笑い出した。レグスの耳が赤かったのだ。
 瓶を抱えながら歩くセリウスの隣を、レグスはふくれた顔で共に歩く。
湖沿いに歩いて村に近づくにつれ、怒鳴り声とかん高い悲鳴が鮮明となった。ここで、ようやく二人は祭りで騒いでいる様子ではない事に気づいた。
「何だろう、何かあったのかな」
セリウスの歩行が早まった。
レグスは無言のまま、うっすら赤く、また白んでいる空をちらりと見やった。それが煙なのか雲なのか解らない。
 そろそろ村の入り口にさしかかるところで、レグスが足を止めた。
「やはりおかしい。門番がいない」
村の前に建っている木製の門は開け放たれ、中から喧騒に混じって罵声が聞こえてきた。しかし、人が動く気配は無い。
「広場の方に集まっているみたいだけど……見えないな」
レグスはそう言いながらセリウスの腕を引っ張って木の影に身を潜めた。
少なくとも、二人が幼少時に過ごした村の雰囲気ではなかった。
「一体何が」
レグスの静止を聞かずにセリウスが足を踏み出すと、源泉の方から馬の蹄の音が聞こえた。
 瓶が地面に落ちて、鈍い音が森に反響した。
セリウスは悲鳴を上げる代わりに小刻みに短く息を吸った。喉が意思に反して痙攣しているのだ。
「レグス、あ、あれはっ」
割れた瓶の中にあった冷たい水は二人の靴を濡らし、中へしみこんで来る。
レグスは迫り繰る蹄の音の方を振り返った。
 彼らは三頭の馬を目の前に、棒立ちとなっていた。
首を横にふるって、馬が二人の前で止まった。空気が馬の鼻息で真っ白に染まっている。
レグスは馬上の人間を見るなり、セリウスをかばうようにして前に進み出た。
「村人の残りかと思えば、アヴァンの使徒か」
馬から一人の女が降りた。顔は暗くてよく見えない。
 他の二人が甲冑姿であるのに対し、女は黒衣に身を固めた魔術師風の出で立ちだ。そして子供のように小柄で細い。
女の凍てついた目はセリウスとレグスをその場に束縛した。見えない縄で縛られたかのように、二人は動けなくなっていた。
女の微笑みに何やら魔力のようなものを感じ、恐れて逸らした視線の先。
レグスは兵士の肩当てにある紋章を食い入るように見つめた。
「こいつら……」
四枚の花弁を象り、それに蔓が絡み合っている。
ヴレード帝国の花弁紋章だった。

 闇夜に黒い行進が続いた。
ヴレード兵士は槍で街道の石畳を打ち鳴らし、先頭を行く者は角笛を吹く。
カラジャル皇帝率いる第一師団のみが馬に乗り、幾つもの花弁紋章旗をなびかせながら後ろに続く歩兵たちをサマルドゥーン中心部へと導いていた。
黒い毒素が青々としたセル・セア針葉樹林と湖、そしてアラードの海を汚染していくようであった。
 サマルドゥーン議会は関所の守備を強化していたが、一刻と持ちこたえる事が出来ずに撤退となった。
議会は第一、第二公共広場に自由軍を配備したがそれもすぐに破られ、およそ三刻後にヴレード軍はアラード港へ到達する勢いだった。
敗れたサマルドゥーンの兵士や傭兵は馬に踏みつけられ、ヴレード軍が去った後には死体の道が作られていた。
港は積荷を運ぶ者やサマルドゥーンから脱出しようとする船で混み合っていた。人を踏みつけて逃げようとし、海の中へ落ちる市民もいた。
抵抗した市街地の村は焼き払われ、炎はセル・セアの森にまで及んでいる。逃げ惑う人々は神へ助けを求め、神殿へ押し寄せていた。
神殿の門は閉ざされてはいなかった。
 血と土が付着した信者は物乞いの姿に成り果て、聖堂の中で体を押し合いながらすすり泣いている。
母親は状況を察して脅える子供を泣きながら抱き、怪我を負った男達は傷みに唸り続ける。
人々は親に捨てられた子供のように傷付いた心を閉ざし、侵略者に立ち向かう気力すら失っていた。
怪我をした者は手当てを受けながら、神の代わりに神官を糾弾している。
神殿の廊下は人々の嘆きと苦しみで風すら通さぬ張り詰めた気配に満ちていた。
だが彼らの嘆きは神へは届かない。神は奇跡を起こさなかったのだ。
 神殿の外壁周辺を神殿騎士が囲み、魔力が込められた盾と剣を手に勇姿をさらしている。
白銀の兜で表情は見えないが、使命を果たす為に逃げも隠れもしない決意で来るべき敵に構えていた。
その門の中にある参道では、二人の中年の神官がカールに懇願していた。
「もう二刻以上経ってます。これ以上は待てません」
「カール様! アストラルの結界を神殿に張ってください」
「結界を張って時間さえかせげれば援軍の到着に期待できます」
たて続けに言われて、カールの顔が歪んだ。
(ちくしょう、セリウス、レグス早く帰って来い! それとも、もう……)
カールは思いついた最悪の事態に、首を振って否定した。
 暑苦しさを感じて、カールは僧衣の胸元をはだけた。
「皆傷付き脅えています。ここに攻められても戦えるものは神官しかいません。結界を!」
白髪交じりの神官がそう叫んだ時、門の内側を固めていた神殿騎士が退いて二人の神官が中へ入ってきた。
セリウスとレグスであった。
「カール様……」
セリウスは倒れ込むようにしてカールに抱きついた。
「お前たち無事だったか!」
カールはセリウスを硬く抱擁すると、レグスをも引き寄せて頭を撫で回した。
「よく戻ってきた……」
カールの顔は緩んだが、弟子の顔色は師の喜びに同調しているようには見えなかった。
 僧衣には飛び散った泥が付着し、疲労困憊といった様子である。瞳は暗く濁り、何も目に入っていないようだ。
二人は無言でカールに抱かれていた。
「カール様! さあ早く!」
白髪の神官が急かして言うと、カールはしっかりと頷いた。
「騎士達全員に中へ入るよう言い、門を閉じて封印を施せ」
凛とした声で、カールは命じた。
数人の神官が外へ出て行くと、剣を構えたままの騎士がセル・セアの森方面を警戒しながらゆっくりと入ってきた。
最後の一人が中へ入ると、神官二人がかりで人間の胴体ほどもある太い閂を閉めた。その後で、白髪の神官が扉の真ん中に施されたアヴァンクーザー神紋に呪文を唱え始めた。
「これよりアストラルの力を借りてこの神殿に結界を張る」
カールは声を張り上げて、その場にいる者に伝えた。そして、己の外套を取ってセリウスにかける。彼の体は冷え切って、ガチガチと震えていた。
 セリウスとレグスに連れ添うようにしてカールが階段を上った時であった。
「お前たちも聖堂へ……」
カールは背中に冷たいものを感じて黙った。
「許してください、カール様」
レグスが言い、セリウスと共にカールの腕から離れた。
カールが振り向くとレグスが短剣を握っており、その切っ先は……。
神殿騎士と神官は呆気にとられて身動きが出来なかった。
 誰もその裏切りを予想していなかった。カールでさえも。
カールの思考は停止し、時が止まっていた。
弟子の持つ剣の刃が、自分に向けられている。
網膜を通じて、その光景だけが脳裏に刻まれた。彼の頭の中は真っ白だった。
衝動的に手を差し出したが、すぐさま引っ込める。
何故、自分に剣が向けられているのか。それも弟子に。
いつもの冗談では無いという事だけしか、カールには解らなかった。
「お前たち……まさか……」
双眸に涙を溜めた二人の弟子を見て、カールは悟った。
その時階段の下ではカールを救うべく、レグスを狙って騎士の一人が弓を構えた。

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