さしのべられた腕 〜儚き夢〜 第一部サマルドゥーン陥落 2

 テーブルの上に絵柄を見せるようにして半分かけられている緋色の絨毯を、カールは見下ろした。
足元には三、四本の絨毯が丸められて積んであった。
カールは絨毯の表面を撫でた。敷物とは思えないほど肌触りが滑らに出来ている。
紋様がオフィラーダを象徴する火の鳥であるせいか、羽毛を撫でているような錯覚を起こさせた。
「さすがはオフィラーダの絨毯。しっかりした造りだ。……寄付にしては上等すぎないか?」
酒を並々注がれたグラスをカールから受け取ると、バカロは半分飲んだ。
「お気にせずに。来週まで第二公共広場で店を出していますので他に何か入用ならば声をおかけ下さい」
垂れた目を眩しそうに細めながらバカロは笑った。
 バカロはオフィラーダ「黄金の砂漠」地帯を牛耳る当代きっての豪商だ。
本来ならば王都ラオシェル本店のなめした皮の椅子で、煙草を吸いながら売り上げを聞いていれば良いだけの身分である。
だがバカロは船がサマルドゥーンに行くと聞けば、こうして多額の寄付をする為に神殿に必ず寄るのだ。
(一体何の為にここまでしてくれるんだか)
相手の利益だけを想ってするのが寄付ではあるが、バカロはアヴァンクーザーの信者では無く、商業の守護神ギタイムに仕える僕だ。
頭のきれるバカロのこと、何か利益あっての事なのかもしれないと疑うものの、カールには彼が何を考えているのか解らない。
だが世界情勢を耳に入れておきたいカールにとって、大陸を股にかけるバカロを利用しない手はなかった。
幸い、バカロは定期的に神殿に訪れてくれる。間者や忍びの者を利用するより、一般人の方が情報を得やすいのだ。
他国の動向よりもカールが一番知りたいのは民衆の心。酒場で思わず口にするたわいも無い愚痴のようなものである。
カールは貿易の中心地として栄える都市の神官として、参拝に訪れる人々が己の国にどのような不安を持っているか知っているべきだと思っていた。
「で、エルゼリア大陸の方はどうだった?」
カールは仕事机に腰掛けると酒瓶とグラスを持ったまま、話を切り出した。
「フェスティーヴやミストあたりは落ち着いていますね。ただ、カルディア帝国とオフィラーダ王国の国境付近で兵士たちの小競り合いがあったとか」
カールは頭に地図を思い描いた。
 十代の頃、世界中の分殿で修行したカールではあったが、その記憶は薄れ始めていた。
「敵対心が募りに募っているのは解るが……オフィラーダの男達は喧嘩早いからな。あまりガランディウム派の者達を刺激しないでもらいたいよ」
彼の地について思い出せる事は、日差しの暑さと血気盛んな男達の事であった。
オフィラーダの王都ラオシェルにある神殿に滞在中、毎日のように絡まれて喧嘩騒ぎを起こしていたのだ。
夜に下町を出歩いた自分も悪かったとも反省しているが、整った容姿が気に入らないという理由だけで殴られてはたまらない。
そんな痛い思い出の地で出会ったのが、このバカロであった。
「オフィラーダの若い男は皆あんなものですから」
バカロは笑った。
(アンタもそうだったとは思えないけどねぇ……)
金の帯に臙脂色の上着を羽織っているバカロは、どう見ても肥えた貴族にしか見えない。だが髭と垂れた二重の目のおかげで愛想だけは良く見えていた。
「イルファスへ装飾品を売りに行ったうちの船員の話では、市民はデスロニア帝国からの制裁に恐れを感じ、不安な日々を送っているようです」
バカロの一言で和んでいた雰囲気が一変し、カールの眉間に皺が寄った。
「デスロニア帝国か……あまり聞きたくない名前だな」
それは邪な闇の大国であり、アヴァンクーザー神を崇める国々から恐れられていた帝国の名であった。
 デスロニア帝国はアヴァンクーザー神と対極にある、混沌を象徴とする神ガランディウムを奉る国である。
皇族は今ではその存在が伝説となっている偉大な龍の一族とも言われ、最も広大なアヴァス大陸全土を支配することのみならず他の大陸まで魔の手を伸ばしてきている。
イルファス国はエルゼリア大陸沖合にある小さな島国で、次のデスロニアの標的と噂されていた。
「こちらはどうなんです」
バカロは両足を肩幅に開くと腕を組んだ。
(情報はそれだけか……)
カールは自分が入手した話を始めた。
「ソリヴァーサ国ではレヴィ族がまた暴れ出したらしい。今回は王宮近くで男狩りの被害が出た為に軍を上げての警戒だ。関所の見張り台からの報告ではここ数日、街道に何回かヴレードの兵士を見たとか」
グラスと酒瓶を置き、カールは椅子に座った。そしてレグスが用意したペンに墨をつけ、上から順に重ねられた書類に目を通しながら己の名前を署名していく。
「……危険ですね」
書類の中の一枚を受け取りながら、バカロは言った。
 サマルドゥーンで安全な商いをする為には、やはりこの地方の動静を知っていなければならない。
戦争になれば需要は食料と武器であるが、バカロの所属する組合ではどちらも取り扱っていないのだ。
バカロがこうして定期的に神殿へ寄付をするのもその為だ。
カールはサマルドゥーン議会からの告知よりもずっと信用のおける情報を礼拝者から直接聞いている。バカロはそれに目をつけたのだ。
寄付をすると言ってカールに近付く口実を作り、不穏な情勢を逸早く聞いてサマルドゥーンから引き上げる時期を決めるのだ。
場合によっては取引を全て中止することもある。
「……そうかもしれん。今何かあってもソリヴァーサからの援軍は期待できない」
カールはペンを置き、両肘を机について手の甲に顎を乗せた。
「そうは言ってもいつもここは平和に見えますね」
書類をまるめて広い袖口の中にしまいこんだバカロが窓に寄ると、つられてカールも窓の外を見た。
 大海原へ向かって開かれた、美しい港が見えた。
サマルドゥーン市民の誇りであり彼らがヴレード帝国から守り続けてきた港、アラード港である。
波に照りつける陽光が、大型船の帆の陰から隠れたり現れたりを繰り返していた。
波止場には黒い点が忙しく動き回っている。おそらく水夫であろう。三つの公共市場は人だかりだらけで屋台か人かの判別もつかない。
鳥かごから飛び立つ小鳥を描いたサマルドゥーンの旗が、堂々と尖塔の先で大きく揺れていた。
ヴレードという籠から飛び立った鳥は、棲家に何者も受け入れてここまで巣を大きくしてきたのだ。
旅立った子供達が遠くにいても巣を誇れるほどに。
(ここの歴史は浅い。この平安もいつまで続くか解らない。だがオレはまず、ここに生まれた事を神に感謝するな……)
カールはアヴァンクーザー神への祈りを、胸の中で短く唱えた。
 彼が神殿近くへ目を落とすと、市場からの一本道を見たこともない衣装を纏った者が歩いていた。
何処かの部族の民族衣装だろうとカールは思った。その者が流離の者か、ただの旅行者か、巡礼者かなどはさして気にもならない。
「平和を願う気持ちは人の肌の色に関係ない。国も、種族も性別も人柄さえ越えて皆同じだ。皆希望と安息の地を求めて神殿に祈りに来る」
ようやく視線をバカロに戻して、カールは言った。
「アヴァンクーザー神殿は人々の願いが込められた場所なのですね」
「そうだ。人々は平和を夢見て希望を求め、神を心のよりどころとして支えにしている」
「何処へ行ってもいつでも共にあるものは神への信仰、いや、希望ですか」
バカロは恭しく言うと、訳も無く何度も頷いた。
 バカロはカールが何故世界で二番目に大きいとされている、『アストラル』を奉るサマルドゥーンの神殿に派遣されたのか解ったような気がしていた。
たとえデスロニア帝国の息がかかった国から来た者であっても、カールは神殿に受け入れる神官だった。
分け隔てなく接し誰からも例外なく敬愛される、このカールヴラット・クォーレルにしか貿易中心地の神殿責任者は務まらないのだと確信したのだ。
「私は仕事柄いろんな国の神殿を回ってますが、ここの神殿ほど居心地が良い場所はありません。戦などこの世から消えたような気がするのです。サマルドゥーンから一歩外へ出れば、夢を見ていたのだと現実に向き合うハメに合うのですが」
バカロは苦笑した。
旅は安全であった事など一度も無く、これまで何度もガランディウムの下僕に襲われている。
海の上にいればデスロニア帝国の息がかかった海賊、地上においては山賊盗賊の類に。
邪悪な魔獣に襲われていないという点では、まだ良い方だった。
「だがその夢さえ打ち砕く輩の存在を忘れてはならない」
カールは己に言い聞かせるように囁いた。
彼の眼は春の暖かい木漏れ日から真冬の氷のように鋭くなり、バカロはその気迫に圧倒されて押し黙った。
「恐怖と絶望による支配という悪夢をな……」
脅威はすぐ隣にある。それを市民が忘れているわけはない。
カールには、彼らが恐怖を忘れる為に自らの町に酔っていると思える事がしばしばあった。
反対側の窓を食い入るように見つめるカールから殺気のようなものを感じながら、バカロはこの男だけは敵に回したくはないと思っていた。
ヴレード上空にはやけに雲が立ち込めていた。



 時を同じくして、カールと同様に空を凝視する者がいた。
雲が押し合って重々しい灰色をしているその下で、彼女の銀髪は向かい風で四方になびいている。
身に纏う漆黒の外套がサマルドゥーンから吹く潮風をたっぷりと吸い、彼女の肌に吸い付くようにして四肢に張り付いている。
 バルコニーに出て両手を広げ、ひたすら空を仰ぎ続け黙る事一刻。
黒衣に包まれた女はようやく振り返って、背後に待つ者に言った。
「カラジャル様、我が神は申された。時は満ちたと」
赤い唇には笑みが浮かんで挑戦とも挑発とも受け取れる含み笑いをしている。そして、野性的な金の瞳を備えていた。
 女の言葉を受けて、カラジャルと呼ばれた男は口の端を吊り上げて卑しい笑みを浮かべた。
「ソリヴァーサではレヴィ族に手をやいているそうだ。クク……とうとう俺の代で……」
カラジャルが絹張りの長椅子に腰を下ろすと、先に据わっていた若い男が立ち上がって席を譲った。
額に白銀の冠を戴くカラジャルの顔に威厳は無い。
酒を飲みながら女の発言を待っていたせいで顔は赤く、酔っ払った荒くれ者のようだった。不揃いな黒髪が肩に掛かって、皇族の気品など何処にも見当たらない。
それに比べ、若い男の方はカラジャルに似て浅黒い肌をしているものの、怜悧で鼻筋の通った端整な顔立ちをしている。
彼の青い髪の間からカラジャルと同じ銀色の額冠が覗いていた。
「いかにも。歴代の皇帝のように失敗される事は無い」
女は部屋の中へ入ると、カラジャル皇帝の前に跪いた。
「カラジャル様は『サマルドゥーンを陥落させアストラルを手にする最初のヴレード皇帝』とおなりになる。これが、わらわがガランディウム神より預かった言葉」
女は顔を上げた。
幼女の顔つきをしながらも成熟した女を思わせる、不可思議な美しさを合わせもっていた。
「おめでとうございます、父上。これでサマルドゥーンの利益がそのまま国益となりますね」
言葉とは裏腹に、青年の表情は硬い。彼は女を横目で見ていた。
カラジャルはせせら笑った。
「魔術師風情が預言とはな……まあいい。アストラルまでも奪えるとは好都合、ただの復讐劇にならずに済むわけだ」
足を組んで肘当てに寄りかかり椅子に体を全て預けたカラジャルに対して、横に控えていた青年が聞き返した。
「復讐、ですか?」
「お前は知らなかったか、カイゼフ。俺の親父、お前の祖父はな、ローハイム家の三男に首をとられた為にアラード港を奪えなかったのだ」
カラジャルは大げさな身振りで己の首を手で切るようにした。
「ローハイム家……父上に爵位を取り上げられ没落した貴族ですね」
「そうだ。だがサマルドゥーンでは英雄扱いだ。レフィリムとかいうあの裏切り者がな!」
息子に説明しながら、カラジャルは怒りが込上げてくるのを感じた。
「出撃だ。カイゼフ、お前は宴でも用意して待ってろ」
「わらわが必ず裏切り者の一族を八つ裂きにし、アストラルを手に入れましょう。殿はサマルドゥーンの象徴たるアラードを」
「頼もしいことだ」
魔術師の言葉を受けて戦闘心を抑えきれなくなったカラジャルは、勢い良く立ち上がって剣の柄に手をかけながら部屋を出て行った。
女も立ち上がり、彼の後を音も無く静かに歩く。まるで床から浮いているかのような足取りであった。
 自分の横を何の挨拶もせず素通りする女を目で追いながら、カイゼフは両腕を組んで入り口の柱に背中を当てた。
(お前が動けばサマルドゥーン陥落はすでに成就したようなものなのだろう? オメガ)
部屋を退出する女の後姿に、カイゼフは冷笑を浴びせる。
女がふと、廊下の角にさしかかった所でカイゼフの方を振り向いた。
(まさか、聞こえる筈が無い)
目が合ったカイゼフは心臓を鷲づかみにされたように息を呑んだ。
柱が続く薄暗い王宮の回廊で、オメガの瞳だけが光っている。
カイゼフの問いかけに応えるようにして、オメガは妖美な微笑を浮かべていた。



 雨雲がサマルドゥーンの海上に押し流されていた。
どんよりとした空の下で、心細そうに船が浮かんでいる。船の数は昼間よりめっきり減って疎らだ。
ぶ厚い雲の層は夕焼けも隠してしまい、重苦しい気配に包まれていた。
 三階の私室から日の出と日の入りを眺める事が日課であったカールは残念とばかりにため息をつく。
(雨でも降るかな)
鐘が鳴り、夕刻の礼拝の刻を知らせた。
カールは机の引き出しから聖典を取り出すと、椅子から立ち上がった。
 彼が部屋を出ようとすると、回廊を走るけたたましい音が聞こえた。肩当てと胸当ての鎧がこすれて耳障りな音を奏でている。
「その格好で廊下を走るのはやめてくれ」
そう言いながら回廊へ出ると、白い甲冑を着けた騎士がカール目掛けて走ってくる。
神殿や神に仕える者の警備を使命とする神殿騎士であった。
「カールヴラット司祭!」
「どうした」
息も荒く、切れ切れの騎士を見て、ただ事では無いとカールは悟った。
「ヴレード帝国軍がサマルドゥーンへの街道を進行していると関所の番人が見たそうです」
言うや否や、騎士は思い出したようにカールの前に跪いて頭を下げた。
「数にして一万以上」
「何だと!」
カールは自屋に戻り、聖堂へ続く階段へ向かった。
「ロッツ参謀が傭兵を召集し、自警団の指揮も取っております。ソリヴァーサへ使いを出したようですが…援軍が間に合うかどうか」
すでに礼拝の時間であった。聖堂には信者が集い、高司祭カールヴラットの登場を待っている。
「如何いたしましょう」
階段は薄暗く、一人が通れる分の幅しかない。階段の入り口から見えるカールの部屋の明かりだけが頼りだった。
 壁に賭けられている蝋燭に火を灯さずに、カールは足早に下りていく。騎士はカールの後に続いて指示を待った。
(ソリヴァーサの混乱に乗じたな……皇帝!)
カールは唇を噛んだ。
「奴らの目的はアラード港だ、アストラルではないだろう。ここはまず素通りする。だが怪我人が運び込まれるぞ」
聖堂への木製扉に手をかけ、一呼吸置いたカールは振り返えると声を潜めて言った。
「神殿騎士は配置に就き、神官にも戦闘の準備をさせろ。女神官には薬を広間に集めるように言え。オレは聖堂から皆を出して結界の儀式を始める」
「解りました」
騎士は階段を駆け上っていった。
 礼拝前の聖堂は私語が慎まれ、アストラルと神紋に礼拝者の意識が集中していた。
高司祭が聖堂正面の扉から現れるのかそれとも私室の階段から現れるのか、首を動かして信者が待っていた時である。
(祈る前に、戦闘準備だな)
恐れていた事が、始まろうとしていた。
カールは扉を蹴破るような勢いで開け、叫んだ。
「セリウス! レグス! 皆を広間へ誘導しろ」
厳かな雰囲気は一変し、聖堂内は騒然となった。
 アストラルの状態を本に記録していた初老の神官さえも驚いて羊皮紙を床に落とした。
何が起きているのか聞かされていないその神官はやれやれ、と、硬くなっている腰をゆっくりと曲げながら巻物を拾い上げた。
「いかがいたしました? 二人ならセルセアの源泉に水を汲みに行っておりますよ」
その言葉を聴いた途端、カールの顔から色が消えた。

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