黒金のまろうど 3

 巫女が倒れたと聞いたファルカが妹の天幕へ駆け込むと、診療を終えた年寄りの薬師が水盤で手を洗っていた。
肩で息をしているファルカは、眠っているレティシアよりも青白い顔だった。
「妹はどうです、何故倒れたのです」
彼はそう言いながら垂れ絹を跳ね上げ、薬師の許可も得ずに寝所へ上がった。
「長、落ち着いて下され」
薬師は目元と手以外が全て灰色の布で覆われ、傍目からでは性別がつかない。
レティシアとファルカの祖父母よりも長生きしているこの薬師は二人にとって親代わりでもあり、信頼出来る存在だった。
妹に触れたい衝動を抑える為に呼吸を整え、ファルカは薬師の隣に座った。
 鎮静剤を兼ねた香が焚かれ、その煙が天井へ真っ直ぐ立ち昇った。
「私の治療が必要ならば、今すぐにでも」
「長がご自分の目を治療する事がお出来になるというなら、巫女もお救いになれるでしょう」
ファルカは咄嗟にレティシアを振り返った。
妹は静かに寝息を立てていた。目の不自由な彼から見れば、何の障害も無い妹は健康そのものに見える。
「そんな……レティシアまでも……」
彼は胡坐をかいた膝の上で拳を握り締める。
激情に己を失わないよう、爪が皮膚に食い込むほど力強く握らねばならなかった。
 ハーディーを治癒した彼の力をもってしても、己の盲目は治せない。生まれつきの欠陥だからだ。
体内で破損したものの修復や本来あるべき姿に戻す治癒の力は、元来の奇形には通用しないのだ。
 薬師は焚き木の上にくべていた壷の中から匙で薬を掬った。小皿に入れてかき混ぜ、濃度を調整している。
「御子を育てる部屋が未発達であることが原因で、月の穢れが酷いのでしょう……婆に何の相談もありませんでし たが、ずい分と痛みはお辛い筈です。それも毎月」
ファルカは口元を手で覆い、薬師の言葉を受け入れられずに首を振る。微かに潤んだ目を瞬かせると雫が零れた。
 毎日一緒にいながら、何故気付いてやれなかったのか。
兄と妹という関係を超えて彼女の体を熟知するほどの間柄であれば気付いてやれたのか。
白皙の青年は悲愴な面持ちで不憫な妹を見つめ、紫の瞳は燃え上がるような赤に転じていた。
「巫女は体調がすぐれないだけとしか思っておられなかったのでしょう。あるいは、巫女として耐えるべき試練と」
皺だらけの手がファルカの上に重ねられた。
「御子は育ちません、巫女を娶れば血筋が絶えます。亡き父君のご兄弟などにはまだ白銀の血が。その娘をお選び下さい」
骨を皮で包んだ様な薄っぺらい手の甲が震えている。
長く生きる者として、そして残り少ない命を持つ者として一族の未来を憂えているのだ。
しかしファルカにとって、幼き日の誓いを破らねばならないほどの問題では無かった。
彼が最も優先すべきこと、守らねばならないものは変わらない。
「妹を裏切って他の白銀を選ぶことなど出来ない。私はレティシアを愛している」
薬師の手を振り切るようにファルカは立ち上がり、天幕を出て行った。
「どうか長としての決断を」
薬師は翻った垂れ絹へ頭を下げると、自らも壷を抱えて出て行った。

 炉の中の木が炎の勢いで形を崩し、乾いた音を立てた。
誰もいなくなっても、レティシアは目を開ける事が出来なかった。
目を開けてしまえば苛酷な現実が待っている。逃避出来ない現実ならば目覚めたくはない。
(何でこんな……私が、何で)
涙が溢れて枕を濡らした。
 兄の感情が高ぶっていなければレティシアの気配を察していただろう。
寝ている振りをして息を潜めている間じっと我慢していたが、もう抑えきれない。
手の甲で何度も拭っても、涙は止まらなかった。
 長の妻になるには致命的過ぎる欠陥であった。
(私は兄さんの子供を産めないのよ、長の後継者を作れない女なのよ)
長の隣に座る者として祝福される立場から、全く価値の無い白銀一族の汚点へと一気に堕落したのだ。
ファルカの想いが不変であるが故に、レティシアは愛される事の苦しさで煩悶するのだった。
 兄と共に村を治めることを基盤として生きてきた彼女の世界は壊れて何処にも見当たらない。先も見えない。
彼女は泥の中でのたうちまわる惨めさを味わっていた。
たった今、兄の至純の愛を知ったというのに、暗澹とした気持ちは拭えない。
(どうしたらいいの……何で、何でこんな体に)
息を何度も吸っても肺が満たされず、息苦しい。
自分という認識と五感が乖離してしまったような感覚さえ生じ、混乱していた。
その時、ハーディーが食事中に漏らした一言が脳内を走った。
『近親婚を繰り返した結果が、その目ってわけですか』
血の濃い婚姻は彼の国では罪だと言い、その後のファルカと側近はその場を取り繕うような様子だった。
(兄さん知っていたのね。知っていて、続けようとしていたの)
レティシアの知らない、長としての兄。彼女は戦慄して己を抱きしめた。
 村人は農作業をするのに適した強健な体をしているが、自然の法則を操るヌートの力は宿していない。
通常の容姿と引き換えに、長の一族は精霊の力を受け継いできたのだ。
 母は肩から手が付いており、一度も我が子を抱いたことがなかった。彼女はレティシアを産むと同時に死んだ。
祖父母においてはもっと悲惨な容姿だったと、レティシアは兄から聞いたことがある。
耳の不自由な父は精霊の力を母ほど受け継いでいなかった為に、忍び寄る獣の足音を察知できずに噛み殺された。
数代続いた異形の後に美しい銀髪をした兄が生まれ、四年後にも五体満足で生まれた妹を村人たちは奇跡だと驚喜した。
(気持ち悪い)
レティシアは祖先から引き継いできた自分の肉体が厭わしく思え、全身を掻き毟って汚れを剥がせるものならそうしてしまいたかった。
 レティシアは兄との結婚に浮かれていた自分の浅慮を恥じた。
ヌートの祭りによって村民には他族との混血が進み、長の一族の血は濃くなっていく。
長の家系の異常はヌートの血を引いている証と思い、レティシアはその発生の仕組みを考えた事は無かったのだ。
(村の皆は……皆はどうなの、知っているの? 私が知らなかっただけなの、そうなの?)
天幕を揺らすほどの吹き荒ぶ風と共に、岩山に生息する魔獣の咆哮が響いた。
兄が張った結界に侵入しようと試みる獣の遠吠えは、精霊ヌートが愚かなレティシアを嘲笑っているかのようだった。
 重々しい衣擦れが聞こえ、一陣の冷たい風が天幕の中を通った。誰かが入り口の布をまくったのだ。
「おい、大丈夫か。倒れたんだって」
大して心配している様子も無いハーディーの頓狂な声を受けて、レティシアの体は強張った。
「何の用事よ、来ないで」
レティシアは膝を曲げてうずくまり、頭を抱えた。
 布団の中からでは聞こえなかったのか、ハーディーは躊躇せずに中へ入って来た。
この男はどうして何も気にせず人の心に土足で上がることができるのか。
レティシアは沸き起こる怒気を抑えきれなかった。
「入って来ないでって言ってるでしょっ」
「うわ、なんだ……っ」
寝所から吹いた突風は御簾を跳ね上げ、ハーディーの体を外へ押し戻した。
薬師が置いていった皿が引っくり返って薬湯が零れ、卓上の書類も飛んだ。釣り棚も揺れている。
ハーディーは柱にしがみついて踏ん張ったが、堪えきれずに弾かれるようにして天幕の外へ転がり出た。
 雪の上に転がったハーディーは目を丸くしていたが、やがて苦々しい顔つきになって言った。
「何なんだよ、心配して来ただけなのに妙な術を使いやがってっ」
ハーディーは頭の上に落ちてきた布を顔から思い切り払って立ち上がると、天幕の中へ駆け込んだ。
 ハーディーは真っ直ぐレティシアの方へやって来る。彼女はハーディーの睨むような視線を背中に感じていた。
(何で来るのよ、来ないでよ)
レティシアはハーディーが自分を袋小路に追い詰め、難詰するのではないかという脅威を感じた。
 足音が垂れ絹を挟んだ向こう側で止まった。寝所までは入って来るつもりはないようだ。
しかしハーディーは沈黙し、あの軽口は一向に始まらない。
その時間が長く感じられ、レティシアの心臓は早鐘を打つ。
傷つけられる前に自分から傷つけば傷口は浅くて済むと、レティシアは自暴自棄に陥った。
「知ってるんでしょ」
寝床の中からくぐもった声でレティシアが言った。
「何がだよ」
ハーディーの言葉の端には苛立ちがあった。レティシアは布団を握り締め、自分の方へ引き寄せた。
「私の体の事も知ってるんでしょ、馬鹿な風習のせいだって笑っ……」
言葉の最後に嗚咽が交じり、その後はただ咽び泣いた。
語句を紡ぎ出せばそれだけ己の浅はかさを告白することになりそうな気がして、後に続かなかった。
 ハーディーは突然泣き出した少女に吃驚し、彼女の言葉を反芻した。
彼は彼女の体の問題など何も知らないし、レヴィ族では禁じられている血族婚を野蛮な未開人の風習と思ってはいなかった。
白銀の部族は彼らなりのやり方で村を治めているのだ。誰が犠牲になろうとハーディーには関係が無い。
責められる云われも無いが、絶望しているようにも見える少女に怒る気にもなれなかった。
「そんなこと……笑えねぇよ」
考えた後にようやく出てきた言葉は、つれない一言だった。
彼は泣いている少女に気の利いた言葉もかけられない情けなさを痛感した。
 ハーディーは急に手持ち無沙汰を感じ、足元に転がっていた小皿を机に置いた。
薬は絨毯に零れてほとんど残っていなかった。
寝具が小刻みに震え、上掛けの中から漏れ出てくるすすり泣きは止まない。
布団の中にもぐって泣くレティシアの傍で、しばらくハーディーは立ち尽くしていた。


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