さしのべられた腕 〜神々の黄昏〜 第二部 6

 亀裂から地下水が染み出し、床に座るオメガの足元まで及んでいる。
膝が水につかりつつあっても、彼女は座ったまま動こうとしない。
髪は枯れた老木の枝のようにだらりと垂れ下がって、美しさの欠片も無かった。
「翼の力を使わないとは見くびられたものだ。基盤を新しい体に載せ変えて貰え」
アントラージェは残っている方腕を床につき肩で息をするオメガの前に進み出てそう言い放った。
手の甲はすでに水の中にあり、オメガの体の節々から火花が散っている。彼女の表情はぎこちなかった。
「コノママデハコノ大陸ガ吹キ飛ブ…コノ大陸ダケデ済メバ良イガ…、あすとらるハ依然トシテ娘ノ中ダ。破滅ハ避ケラレヌ」
オメガの声は元の澄んだ声を失い、感情の無い終始同じ調子の低い声に変わっていた。
「人ではないお前に神を超える力は解るまい」
アントラージェは彼女を見下ろしながら、天井にあいた穴に向かって上昇を始めた。
「運命ノ書ハ…正確ダ…スデニ彼ラハ…自分タチデハナニモ…神無シデハ…生キラレヌ…」
パンッ、という音がオメガの後頭部から鳴り、目が見開かれた。
(回路が遮断されたか)
そのまま人形のように動かなくなったオメガを見届けた後、アントラージェは神殿一階に降り立った。
柱の一部がオメガの頭上に落ちて当たるが、避ける事も無く石と共に金属音を立てて床に転がった。
 もぬけの殻となった神殿内部は暗く、幽寂たる遺跡のようである。
セイランの魔力を帯びた咆哮が神殿を形成している礎石にひびを入れ、壁と床に亀裂を作っていた。
アントラージェは意識を息子へと向けて位置を探ると、自制心を失い狂態をさらすセイランの荒々しい魔力を感じた。
(アストラルに惹かれて娘の元へ行ったか)
目を閉じセイランの気を辿る途中で、アントラージェは胸を押さえた。
「ぐ…」
突然彼の意識に侵入してきたものがあった。
紅の光、である。
(この力は…)
彼の足元、床から淡い光が滲み出て、壁伝いに神殿全体へ広がっていく。
「な…っこれは一体」
神殿全てがその赤い光に飲み込まれる時には、セイランの反応が消えていた。
彼は拒否反応を示す体に鞭打って息子の元へと急いだ。


 反発する二つの、力。
それは相反する立場にいるラミィとセイランを引き離すかのように作用する。
ラミィの体からほとばしる紅色の光はセイランに襲い掛かるかのようにして包み込んでいた。
稲光が牢を駆け巡り、壁にぶつかっては華やかに散っていく。
「目を覚ませ」
眩い光に目をかたく結ばずにはいられない。
ラミィは電撃が体中を駆け巡る痛みを感じながらも、離れまいとセイランの衣服をしっかりと掴んでいた。
 抵抗する力を失い、仰け反っているセイランを支えながらラミィは名を呼び続ける。
「セイラン、セイラン」
声は届かないのか。
ラミィは紅の光を押さえる事無く無制限に放出させながら、彼の名を呼び続けた。
(戻れ)
顔をセイランの胸にうずめていると、鼓動が二重に聞こえた。
動物のように早く動いていた二つの心臓はやがて重なり合うようにして緩やかになり、規則的になっていく。
電光が止むと、セイランとラミィは力を出し尽くしてその場に崩れた。
「…神の力を使ったのか。ようやく受け入れたようだな」
その場所に姿を形どったアントラージェが言った。
 しっかりとセイランを腕に抱くラミィは否定も肯定もしない。
ラミィはただ驚愕の様相で、セイランを見ていた。
(何やってるんだ…私…剣を捨るなんて)
アストラルを使う事など彼女の頭には無かったが、拷問部屋にあった剣は足元に転がっている。
剣を手放して敵の胸へ飛び込むなど自殺行為にも等しい。だが彼女は彼を止める為に、必死であった。
セイランの暴走を今止めなければ、まずヴレードが滅びると…その一心であったのだ。
ラミィの膝でセイランは気を失っており、人が変わったかのように静かな面持ちで少女に身を委ねていた。
初めてトゥーラで出会った時のように、ラミィの腕に掴まりながら。
それがせめてもの救いであった。
己の不可思議な行為を責めるつもりが、彼の顔を見ているだけで張りつめたラミィの心が癒されていった。
 辺り一帯は未だ紅のヴェールに包まれており、その中心にいるラミィの凄烈なまでの緋の光に近付くにつれてアントラージェの皮膚がちりちりと痛む。
魔の血を幾らか体内に残すアントラージェが結果内に留まるには、そこまでが限界であった。
「魔人を人の世界に潜り込ませ聖女の息子として信望を集めさせながら、最後には絶望させアヴァンの世界を一掃する計画であった」
訪れていた沈黙を、アントラージェが破った。
アストラルの光は霧が引くように薄れ、彼は二人に近付く。
「だが…幼いサーラを監視し、彼女の成長を見ていくうちに私は変わってしまった。オメガの計画と我が計画は合間見える事は無いはずであったが、全てが親の代で狂ってしまったのだ」
彼は微笑んでいた。それが後悔していない事の表れであった。
サーラの死を目の当たりし、息子が魔となっていく姿を見守り続けた男はようやく肩を落として深いため息をついた。 セイランの顔にサーラの面影を見ているのか、魔とは思えないほど優しい視線であった。
「お前の判断のみが先を切り開く。…セイランの事は、お前が決めろ」
「決めるって…」
その真意をラミィが問うと、アントラージェは二人が座る石畳に指差して円形の方陣を作り出した。
「何を」
ラミィは思わずセイランを守るようにして覆いかぶさった。
 方陣の文字が回転しながら発光して一閃が放たれた後に、そこに二人の姿は無かった。
緩んだ地盤が沈下していったのはその直後の事であった。


 二人の周囲は輝き、流星が飛び交うような壁であった。
(…移動してる…)
ラミィはセイランに覆いかぶさりながらそれらを呆然と眺めていた。
二人の金と黒の髪が絡み合うようにして風に流されている。
途中で、様々な風景を通り過ぎていった。
ガランディウム神殿の参道、ヴレードの草原。
そして、ラミィが振り返ると静けさの中にたたずむ王城ヴロンズが見えた。
それらが次第に遠ざかって、見えなくなっていく。
ふと、カイゼフの姿が思い出された。
(カイゼフ…)
自分をかばって命を落とした、ヴレード皇帝の姿である。
彼は最後までラミィの父親であろうとしたのだ。
 颯々たる風が吹いた後、二人の下にあった結界が小さくなって消えた。
「ここは…」
ラミィが体を起こすと、ソル・ハダトのアストラルの輝きが目に入った。その後ろにアヴァンクーザーの神紋がいつものように飾られている。
「神殿の聖堂」
ラミィは短時間で帰ってきたことが信じられず、思わず立ち上がった。今まで、ガランディウムの神殿にいたというのに。
セイランはラミィの膝からずり落ちて絨毯の上に転がった。彼はそれでもアストラルの杖を手にしたままだ。
彼がまだ意識を取り戻さずにいるのを確かめてから、ラミィは剣を拾って胸の辺りの高さからくり貫かれた窓の外を見る為につま先立ちをした。
「トゥーラが」
ネスの山並みに、早暁の眩しい陽光が照り映えている。だが朝靄に包まれたソル・ハダトの中を一際明るくするものは太陽ではなかった。
幽翠なトゥーラがめらめらと燃えていたのだ。火の粉が舞い、森の切れ目から火柱が上がり魔獣の咆哮が聞こえた。
(皆は…)
ラミィが神殿の入り口に目をやると人だかりがあり、参道を埋めている。神官も、町民も入り乱れてひしめいていた。 階段の上に一人立つ者がおり、剣を掲げてなにやら叫んでいるようだった。
(テオフィロ)
脅威を前に立ち上がろうともしない民衆を奮起させる為の演説をしているに違いなかった。
だが明らかに戦う意志を持った者は前に進み出ているラミィの同僚達、元自警団員だけのようであった。何かとラミィに絡んでくる、あのソロンでさえ鎧に身を固めていた。
(たったあれだけで)
死を覚悟しての決意なのか、彼らの無謀さに涙が込上げた。
血路を自らの手で開こうとする彼らに対して嬉しさが込上げる一方で、破滅の予感がしていた。
 剣を握り締めて窓から降りると、かすかにセイランが動いたような気がしてラミィはぎくりとした。
「…セイラン」
ラミィは息を潜めた。
一体どちらのセイランなのか、と。
「…ラミィさん…」
セイランは片手で顔にかかっている前髪を上げて顔を見せ、ゆっくりと体を起こした。
声は穏やかである。
ラミィは止めていた息を短くはいて、セイランに駆け寄った。
「また貴女に助けられましたね…」
杖を片方の手に持ち替え、セイランは立ち上がった。そして、ラミィに憂いを帯びた悲しい笑みを浮かべた。
「…何があったかは解っています。儀式の間での事も…。不思議と、周囲の声は聞こえていましたから」
(…セイラン、あんた…)
責め苦は絶える事無く続いていた。ラミィは彼の額に汗が浮かんでいる事に気付いたのだ。
 落ち着きを払っているがよく見れば息が荒く、彼女に対して精一杯の気遣いを示していた。
それでも尚自分に対して笑みを浮かべるセイランを、ラミィは見ているだけで痛々しく思った。
再び、獣の咆哮が幾つも重なるようにして木霊した。それはトゥーラにいる魔獣が一匹や二匹ではない事を物語っていた。
「…私などに構っていられない状況のようです。彼らには貴女の力が必要でしょう」
「自分は必要だと思わないのか。私が剣を掲げて励ますより、あんたが皆の前に出て戦うように言った方がいいに決まってる」
「人ではない、私がですか」
セイランは苦笑した。
「皆を騙す事になります…私には出来ません」
うつむいたセイランに、ラミィは詰め寄った。彼女より頭二個分程背が高いセイランを下から覗き込むようにして。
「そんな事言ってる場合か。皆殺しになってもいいのか」
「解ってます…時間がありません。だから貴女は早く私を殺して、彼らを助けに行くべきでしょう」
セイランの口調はいつもより強い。
「そうしなければ私が皆殺しにするでしょう」
ラミィの脳裏に、ネスでの事が想起された。
 セイランを殺しておけばこんなことにならなかったのか。
あの時の躊躇を今責められているような気がして、ラミィは黙った。
ラミィは落ち着かない目つきで床に目を落とした。
「私を殺すことに迷い、時間を浪費しているのはラミィさん、貴女です」
セイランはラミィの胸の内を喝破した。
言い返せない自分がいる。あまりの図星にラミィは赤面した。
「貴女は優しい…そんな貴女に私はなんと残酷な事を押し付けていることか」
彼女の頬にかかっている金の髪を、セイランはそっと払った。
(優しい…私が)
初めてセイランに触れられ、そして、初めて言われた言葉を避けるようにラミィは視線を泳がせた。だがセイランは暖かな目でじっとラミィを見ていた。
「貴女は私が死なずに済む方法を探している。希望を捨てるなと」
「ち、違う…私は…」
セイランはラミィの前に跪き、うやうやしく顔を上げた。
「私は生きていても破滅を招くだけです。彼らを助けてください。貴女にはその力がある」
ラミィにとっては曲論であった。だが、何も言い返せない。彼を突き放す事さえ出来無い。
彼女はおもむろに彼を殴った。
「わっ…私はただ諦めて欲しくないだけだっ」
頬を殴られてよろめいたセイランは背後のアストラルを支える柱にぶつかった。
 ラミィの拳はわなわなと震えていた。
(殺さなければ、私は殺される…解ってるのに)
何故躊躇するのか。
運命に翻弄されている彼が、己と同じとでも思っているのか。
余りに哀れで同情しているのか…。
彼女は剣をだらりと下げたまま、彼を殴った手で顔面を覆った。
ラミィにとって、これほど自分が分からないことは無かった。
「彼らを守るために、確実に貴方の剣で私の胸を貫いて下さい。何故とまどうのです」
「うるさい!」
これ以上喋らせまいと彼女は一喝した。
彼の言葉はラミィを動揺させ、一層の混乱を招くのだ。
涙を流しても何もならない筈が、彼女の目は潤んでいた。
「ラミィさん…」
セイランはじんじんと痛む頬骨をさすりもせずに立ち上がった。
 殴られた痛みすら気に止めさせない程の、苦痛。それが彼の内側にあるのだ。
こめかみが脈打ち、セイランは胸を押さえ、アストラルの前に蹲った。
呼吸は早くなり、ふわりと彼の黒髪が動き始めていた。
(ここには三つのアストラルがあるのに…それでも抑えられないっていうの)
ラミィは一刻を争うことを知り、ごくりと唾を飲み込んだ。
セイランは再び邪悪な輩に代わろうとしていた。
誰も太刀打ち出来ない魔に。
「私は…悪しき神の手駒にはなりたくありません…私は生涯人間でありたい」
杖を両手で握り締め、セイランは懇願した。
彼が今祈り求めるのは神ではなく、一人の少女であった。
セイランは紛れも無く救いを求める弱き人間なのである。
(死こそが唯一の救いなのか…もうこれしか方法が無いのか)
セイランを殺せば皆救われるのか…破滅を回避できるのか?
ラミィは疑問を抱きつつセイランの前に足を向けた。そして、両手で握り締めた剣を高く振り上げ静止させる。
 ラミィと剣の影が、セイランに被さった。
執行人であるラミィから目をそらさずに、彼は自分を解き放つ為の一撃を待っていた。
「ラミィさん…貴女の手で…私の運命を断ち切ってください…」
だが己の意思のみがラミィにとって最後の砦である。
「運命に抗う為に死ぬなんて、私は許さない」
…許せるものか。
その想いだけでヴレードから出て生き抜いてきた彼女は尚も強硬に主張する。
ラミィはセイランを見据え、胸元に向かって袈裟懸けに剣を振り下ろした。

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