さしのべられた腕 〜神々の黄昏〜 第二部 7

 振り下ろされた剣はアヴァンクーザーの神官衣を切り裂き、毛足の短い絨毯に突き刺さった。
「…ラミィさん…何故…」
白く薄い胸板が露になったセイランは驚きと困惑の表情を隠せない。
「悪いな、私には出来ない」
ラミィはきっぱりと言い放ち、彼の両足の間に突き立った剣の柄から手を離した。
「神だけではなく貴女まで私に魔に成り果てても生きろというのですか」
セイランは肺腑をえぐられる思いに顔を歪め、剣を抜いた。
己自身の手で胸を貫く為に。
すかさずラミィは彼の手を蹴って剣を払い、セイランにぶつかるようにして躍り掛かった。
 セイランの両肩が床に打ち付けられる。
ラミィはセイランの僧衣を広げて胸を剥き出しにさせ、彼の下半身に馬乗りになった。
「まだ方法があるのに、何で死ななくちゃいけない」
真っ直ぐ彼を見下ろしてラミィは怒鳴った。
「…方法など…他に…ありません」
言葉は熱に浮かされてうわ言を言っているようだった。目は虚ろとなり彼の呼吸は早い。
ラミィは彼の両肩をしっかりと握って床につけた。今にも涙がこぼれんばかりの面持ちだ。
「しっかりしろ、今…私が…」
セイランの全身から邪気が立ち上る。
眼瞼が痙攣し、彼が瞬きする度に茶色と金が入り乱れていた。
…セイランの上に覆いかぶさるラミィから涙が零れ落ち、彼の頬に落ちた。
「セイラン、行くな」
ラミィは彼の頬を両手で包み、彼の注意を自分に向けようと唇を押し付けた。
彼が遠くへ行ってしまわない様に。
そして、彼女は着ていた服を脱いだ。
 太腿の下敷きになっている裾は、勢い良く脱いだ為に破れて残った。
「ラ…ラミィさん…」
衣装に押し込められていた胸元は形を取り戻し、柔らかな曲線を見せている。
腰は手を添えたくなるようになだらかで、細かい刺繍が施された下着から出ている太腿はしっかりとセイランの角ばった腰を挟み込んでいた。
小さな傷が、ラミィの体中にある。
肩の陥没した傷跡は、ネス山中でセイランがつけたものであった。
暫しラミィに見とれていたセイランは我に返って目を見開いた後、首を横に向けた。
「い、いけません…そ…そんな事をしたら…貴女に魔の血が…」
「私は平気だ」
顔を真っ赤にさせ目を反らすセイランに、ラミィは体をぴったりと添えた。
 少女とは思えない豊麗な肉付きがセイランの肌に重ねられ、金の髪が彼の胸元をまさぐる。
熱した体を冷やしてくれる彼女の肌と重みが心地良い。
セイランは彼女の感触を失いたくないと思った。
これほどまでに近くにいる少女を見続ける為に、息を荒くし呻き声を漏らしながらも意識を失うまいと耐えている。
彼をこの世に繋ぎ止めていたのは、目の前の少女であった。
「アストラルをセイランにあげる」
口元でそう囁いたラミィの唇に、セイランは求めるように自らのそれを合わせた。
「それでも駄目だったらその時は、私があんたを殺してあげるから」
ラミィは微笑を浮かべた。
(…これでいい…)
無謀にも彼女は最後に残されたものに賭けた。
アストラルの祝福以上の、力に。
「ラミィさん…」
美麗な金の目で見つめながら、セイランは体を起こしてラミィの背中に腕を回してゆっくりと倒した。
 セイランは躊躇しながらも、ラミィの太腿に絡み付いていた布の切れ端を取り除く。
露わになった太腿を撫でるように彼が優しく触れると、ラミィは目を閉じた。
そして、乳房に手を当ててアストラルを解放した。
全てのしがらみを捨て、彼を救う為に。
聖堂が淡い光に包まれていく中で、共鳴するかのように杖のアストラルとソル・ハダトの結晶体が輝き始めた。
ラミィの蒼い瞳に、金色の瞳が映る。
凄まじい電光と閃光が窓を付きぬけると双方が持つ力は反発を始め、二人を引き離そうと働きかけていた。
だが二人は美しい紅の渦の中でお互いを受け入れ、離れまいと固く抱擁し合った。


 黒い裂け目から伸びている太い鉛色の管が彼の四肢を拘束している。
細い糸のようなものがアントラージェのこめかみに食い込み、開かれた神への通路の前で繋がれていた。
「オメガを壊し失敗を招くとは…聖女と寝て人間にかぶれたな、アントラージェ」
裏切られた神は何の落胆を示さずに言った。むしろ声調にいつもの刺々しさが無い。
腕と足には無数の針がさされてドクドクと管の中に彼の血を移している。
アントラージェは頭をぐったりと下げたまま言った。
「…貴方は知っていた。人の血を受け入れた私が息子を助ける可能性がある事を」
その言葉を受けて、神の苦笑が空間に響き渡った。
 水面のようで金属のような光沢を見せる壁の色が様々な形に歪む。
アントラージェの頭上の切り開かれた窓口から発せられている振動は、眩暈を催す模様を周囲に作っていた。
「この現象が連鎖反応を起こす事はすでに承知だ。セイランとラミィ・クォーレルはもとより出会う運命ではなかった。彼女は国境で死ぬはずであったのだからな」
神はため息交じりの声で言った。尋問であるはずが、神は肩の力を抜いた会話をする。
「自らの求める道を最後まで突き進んだカールヴラットと憎しみを抱いていた筈のセリウス、そして我が息子に救いがもたらされた事は貴方の思惑通りでは無かった」
アントラージェは面を上げ、神に向かって睨んだ。ただ暗黒があるのみの空間へ向かって。
「…何が言いたい、アントラージェ。あの少女に儚い夢でも見たとでもいうのか」
神の指摘は十字に拘束されたアントラージェの手に力を込めさせ、拳を握らせた。
彼が目を閉じると、神殿に嘆きの声を上げるだけの同種族とは違った道を選んだ娘の姿が蘇った。
アヴァンクーザーの守護を体内に秘めても尚、己の力で戦い続けようとする少女が。
(そうだ…私はあの少女に賭けた)
「あの娘の両親は運命に翻弄されながらも自らの意志で別の道を作った。そして、彼らの娘はセイランの運命の流れをも断ち切った。人の運命は神の手の中には無い」
アントラージェは温かみのある低い声を張り上げた。
 神の手を離れた人の行く末。
そこには自分が聖女に囚われた理由と、人と成り行く自身の顛末がある気がしていた。
彼らの結末を見たいが為に、アントラージェは神の奴隷であるオメガを破壊したのだ。
全てを二人の若者に委ねて。
絶対的な力を持つ全悪の産みの親、ガランディウム神を前にアントラージェは微笑んだ。
「大それた事を…まあ良い。お前が何を想い、何故道を踏み外したのか、それを吸い上げるとしよう。今回は面白いデータがとれたと思うことにしてやる」
その言葉を最後に、神の世界とこの世を繋ぐ空間の裂け目は、アントラージェに繋がっている管の回りまで収縮を始めた。
 管は低い音を唸らせ、針から彼の体液を搾り出している。
透明な管の中をアントラージェの体液が流れ、黒い裂け目の向こう側に集められていく。
(サーラ、私は見届けるぞ。お前が愛したこの世界を…最後までな)
部屋全体が蜘蛛の巣の形に発光していた。
アントラージェは血の気が引いていく体を奮い起こし、管を引きちぎった。


 森を切り裂く甲高い咆哮がソル・ハダトに響く。
草木は踏み荒らされ、熱気で木の葉が舞い上がる。
嘲笑うかのような魔の呼び声を背中に受けながら、団員達は逃げまどっていた。
「お…終わりだ…勝てるわけがない…」
「アストラルの結界を破った魔族に、俺達がかなう筈もないじゃないか」
「国軍はどうしてるんだ、何故助けに来ないんだ」
剣を握り、鎧で身を固めているというのに、彼らの足は一向に前へは進まなかった。
盾も役に立たない。触手に捕らえられれば滲み出る焼け付くような体液に解かされるからだ。
 テオフィロの演説で勇気付けられ、魔物が闊歩するトゥーラへ意気揚々と出た時までは彼らの士気は衰えてはいなかった。
だが、這い回る魔物を見た途端に彼らの戦意は喪失した。
黒煙がもくもくと上がるトゥーラの森を、木をなぎ倒しながら獲物を求める異形の者達。
浮き腰で剣を構える人間を捕まえようと、魔は丸い口の中にあるびっしりと生えた牙の間から長い触手を伸ばす。森から頭を出し、ぎょろりとした目で逃げ惑う獲物を追い詰めていた。
固い節くれ立った体から出ている四本のかぎ爪の足は動くたびに幹を、大地を剔っている。
火をも噴き出す口を避けながら、人間達は死に場所を探していた。
「ちっくしょう」
一人の巻き毛の若者が魔族の足の間を疾走した。
ソロンである。
彼は魔物の腹部を斬りつけた。
傷口から飛び散った体液で彼の肩当てが解けると、痺れるような痛みが彼を襲う。
一瞬立ち止まった彼を、触手が四方から捕らえようと迫った。
「ソロンッ」
テオフィロは蹲ったソロンを襲う触手を、渾身の力を込めて切断した。
「大丈夫か」
「だ、大丈夫です」
ソロンは立ち上がり、止めを差す為にテオフィロと共に再び駆けだした。
魔族の長い足は腹と地との間に人が立てるほどの空洞を作っていた。その死角では長い触手も的確に人間を取られることは出来ないのだ。
二人は体液に当たらないようにしながら、腹部を何度も切り裂いた。
最後にテオフィロが足を一本切り落とすと、態勢を崩した魔族は金切り声を上げながら口から火を吹いて倒れた。
死に際に放った炎は五人の自警団員を直撃し、炎に包まれていった。
(朝から戦い続けて…やっと一体か)
生き残った者を見渡して、テオフィロは目じりを吊り上げた。
二十五人の有志は、テオフィロを含めて八人に減っていた。
残りは四体である。
 戦う事を自ら進み出た、体力にいささか自信のあるソル・ハダトの男達に疲れが見え、覇気さえすでに無かった。
辺りは炎に包まれ、風に流されて町まで飛び火する勢いであった。
目には恐怖の色を灯して、彼らは半ば半狂乱にぶつぶつとつぶやくばかりだ。
「無理だ…おしまいだ…俺達の町はもう…」
「神は何処におられるのか、ここか、そこか、それとも…」
のたうち回る者、身悶えして泣く者。
ある男は草を剣で薙ぎ、ある男は地に伏して慟哭する。
「いねぇんだよそんなもんは」
「あはははははははははははは」
腰が抜けその場に座り込んで空を仰ぎ、笑う者。
「ぎゃあああああ」
発狂したまま喰われる男。
「ここまできて何もしなかったら皆殺しにされるぞ、体を動かせ」
溶けた屍が散乱する惨烈な戦場でテオフィロは励まし続けていたが、心身共に疲弊した彼の声は嗄れかかっていた。
剣の刃は魔物の体液で溶けて無い。虫食いの刀身に、柄の部分がかろうじて残っているだけだ。テオフィロはそんな剣を振り回しながら力の限り叫ぶが、敗北を感じた人間の心を動かすには全く持って不利な状況であった。
テオフィロでさえ全滅を覚悟していたのだ。
 木を勢い良く燃やし小さな三角の顔をぐるぐると回転させながら、少なくなった獲物を探す魔族の中には町の方へ降りていく者がいた。
(まずい)
テオフィロは追いかけた。
女と子供、そして年寄りには支度をさせて岬の方へ逃げる手はずを整えているものの、まだ残っているものがいれば死は免れない。
アストラルを移動できる手段を知らない為に、神殿を死守することを誓った神官達はあてにはならない。
テオフィロは町へ向かう魔族の意識を自分へ向けるために、剣を投げて膨らんだ臀部に突き刺した。
「ギャーッ」
魔物は悲鳴をあげ、振り返る前に触手を自分の後ろへ放った。
「テオフィロ」
ソロンが視界の隅に入った彼の危機を知って叫ぶ。
丸腰のテオフィロが身構えた時であった。
 魔物の体が真二つに割れ、彼の手前で触手は止まった。
(な、何だ)
体液が飛び散り、ぐしゃりと魔族は潰れた。
切断された面から体液が流れ、大地を焦がす。
「遅くなって悪かった」
青い鎧を身に纏う少女は、剣についた魔の体液を振り払いながら言った。
「なっ…ラミィ今まで一体何処に」
ソロンの声は驚きのあまり裏返っていた。
テオフィロは口を開けたまま立ち尽くし、幻影かと疑う。
火の粉が舞い、背後で燃え上がる炎と共に金の髪が揺れている。
五色の雲の中から顔を出した太陽が彼女の持つ剣に照り、彼の目を眩しくさせた。
 悠然と剣を構えるラミィはテオフィロに力強く頷くと、感情を面に出さない彼は歓喜に顔を綻ばせた。
少女はいつの間にか艶やかな微笑みをする女になり、印象を柔らかくさせて彼の元へ再び帰ってきたのだった。
「何ぼうっとしてる。行くぞテオフィロ」
「あ、ああ」
ラミィは己の体液で解けつつある肉の塊からテオフィロの剣を引き抜き、彼に手渡した。
「セイランが岬でこの火を消す術を行う手筈になってる」
ラミィがテオフィロにそう言うと、並んで走っていた二人の前に根こそぎ木を倒しながら魔族が現れた。
「俺は向こうへ行く」
ソロンは二体の魔族に苦戦している仲間の元へ走って行った。
ラミィとテオフィロは二手に分かれた。
ラミィは頭上から縦横無尽に伸びてくる触手を切り落とし、テオフィロは足元に切りつけていた。
粘液を撒き散らす触手は痙攣しながらぼとり、ぼとりとラミィの足元に落ちる。火種が灯った口がラミィに向けられ、放たれた。
意識を一つへ集中している余裕は無かった。ラミィは魔物の足の間を駆け抜けた。
「ラミィが帰ってきたぞ」
背後で、ソロンの掛け声が聞こえた。
「…おいラミィだ、ラミィが帰ってきたんだ」
「ラミィだ」
「ラミィだ」
木陰に身を潜めて魔族をやり過ごしていた生き残りが、口々にラミィの名を呼んだ。
「戦わない奴は死ぬ時を待ってればいい。死にたくないなら戦え」
遠目に自分の戦闘を見ているだけの男達に向かって、ラミィは叫んだ。
生半可な切り傷では固い甲羅のような皮膚に致命傷を与えられない。常に力を振り絞って剣を叩きつけなければならなかった。
「コォオオオオオ」
魔物は高熱をラミィに向かって噴射させた。
彼女は木を盾にしてやり過ごしたが、煙がラミィの肺に入ってひるんだ所を鉤爪が襲った。
「…っ」
剣を持つ肩を庇った左側の腕が、縦に引っ掻かれた。
「何すんのよッ」
怒りで防御すら忘れた彼女の一撃は、見事に腹部の急所を突いた。
その後を、喚声を上げながら飛びつくように団員達が魔物を袋叩きにしていった。
 太陽は姿を消し、トゥーラの上空は同じ位置に重なっていく雲に覆われている。
セイランの術によって呼び寄せられた雨雲が押し合って灰色の濃淡を強めていた。
(早くしないと山火事になっちゃうわよッ)
やがて小雨が降り、森に広がる炎をゆっくりと沈静化させていく。
湿気と蒸気に満ちた緑土を踏みしめ、団員達は魔族への激しい反撃を始めていた。
雨は次第に本格的に降り始め、彼らが草を踏みしめる度に水が跳ねる。
「あと一体」
腕を伝って柄に垂れている血までも握りながら、ラミィは立ち止まって下腹を抑えた。
足を動かす度に、ひりひりと痛む場所があるのだ。
(ここが一番痛いなんて)
ラミィは舌打ちした。
純潔を失った痛み。…それが今のラミィにとって弱点となっていた。
アストラルの祝福を受けながらの逢瀬の後、余韻にひたる事無くセイランとラミィは装備を整えた。そして打ち合わせ通りの場所に向かったのだ。
二人は酷使した体を休ませる暇も無かった。
「あぶねぇっ」
濁った調子外れの声がしてラミィが振り返ると、髭を蓄えた中年の男が目の前に飛び出して触手を叩き切った。
ラミィは飛散する体液を飛び退いて避けた。
「…団長」
彼女を助けた男は国境警備隊を装ったヴレード兵士に解任させられた、自警団の団長であった。
「急にいなくなって何やってたんだ、お前がいねぇとどうにもしまりがねぇっ」
「私にだっていろいろあったんだっ」
ヴレードに拉致されたとも言えないラミィはそう言い、団長の背中について剣を構えた。
 低俗な魔族は、雨が振る中でも火を拭く事をやめない。
二人は火を避けるうちに魔族から離れ、接近戦が出来なくなっていた。距離が出来れば触手の攻撃の方が有利である。
「こいつは俺がメレーナの宿場町から追ってきたんだ。俺が片付ける」
皮膚が爛れた痛みをものともせず、団長は魔物に向かって突進していった。
「ラミィ、後は頼むぞ」
「団長っ」
彼は雄たけびを上げながら魔物の放った炎に包まれた。
だが、彼は火だるまとなってもそのまま走り続け、首の下から腹部めがけて剣を振り下ろした。そして、口を開けた内部に体を突っ込みながらも剣でえぐる。
断末魔の叫びを上げる魔物は口から一筋の火を空に向かって放つと、自らも炎に焼かれていった。
一人の戦士を腹に包み込みながら。
 雨は小降りになり、生き残った者達の鼻に肉が焼けた悪臭が臭った。
風が木々の残骸を通り過ぎ、湿った臭いと共に死臭をさらっていく。
ラミィが霧雨を浴びながら空を見上げると、早くも雲に切れ目が出来ていた。
「…終わった」
「やったんだ…」
ぼそぼそとした声が、ラミィの元に聞こえてくる。
ラミィが剣を鞘へ納めると、方々から大きな歓声が上がった。


 傷を負った者には手を貸して、彼らは燃え残ったトゥーラの林道を語りながら歩く。
男達はくだらない冗談を言い合いながら、死闘の疲れを癒していた。
ほとんど全員が爛れた火傷を負っている中で、テオフィロだけは目立った傷が無い。
彼は足早に歩くラミィに近づき、話しかけた。
「これで皆に少しは自信が付くといいのだが」
「…神は見守ってくれてるだけだっていずれ解るでしょ。嫌でもこれからは戦わないと生きられないのだから」
返答とは裏腹に、ラミィの表情は明るかった。
 メレーナ街道を下っていくと、神殿の屋根が見えてくる。
ソル・ハダトの空は穏やかであった。上空では強い風が吹いているのか、雲粒の氷の結晶が絹のような光沢を見せていた。
アヴァンクーザー神像の背後に、薄くなった雲の真ん中から光冠を伴った太陽が現れた。
神殿の中から勝利を神に感謝する神官達の賛美歌が聞こえる。
(あんたたちを救ったのはこいつらなんだけどね)
ラミィが岬に近付くにつれて、彼らの歌声に波の音が重なっていった。
 彼らは神殿の外郭を歩いていき、裏にある岬の洞窟へとたどり着いた。
緩やかであるが足場の悪い岩の階段を下りると、洞窟の入り口に白い僧衣を着た青年が立っていた。
「皆さんやりましたね」
彼は清爽の気がみなぎる笑みを浮かべた。アヴァンクーザーの白い神官衣が低い太陽の熱を浴びて橙の光を放っていた。
「セイラン様、いつお目覚めになられたのですか」
「急に姿が見えなくなって皆不安で…」
「何故魔族が」
身も心も傷付いた団員は彼の元へ駆け寄った。
「心配をかけました。さぁ、皆が中で待ってます」
セイランを先頭にして彼らが中へ入った後、洞窟を轟かす歓喜の声が沸き起こった。
ラミィは胸を撫で下ろし、崖の先に足を向けた。
 岩に打ち寄せる波の音が足元から聞こえ、べたつく風がラミィの髪を絡ませる。
彼女は一人、波に照り映える太陽を見ていた。
「入らないのですか。皆が貴女に会いたいと呼んでます」
洞窟の中からセイランが出てきた。


 ラミィは振り返らずに、黙って崖からヴレードの方を見渡していた。
「また怪我をしたのですね…」
セイランはラミィの腕を取って、未だ固まらない血を自分の僧衣で拭いた。
「そっちこそまだ本調子じゃないでしょ」
そう言うものの、セイランから負の陰りが一切消えている事を彼女は知っていた。
久し振りに見た爽やかな笑顔はラミィに安堵のため息を漏らさせた。
 空は藤色から朱色を経て鮮やかな黄色になっている。
海は夕日に照らされて煌いていた。
刻々と移り変わる空の色彩は見飽きない。
太陽が水平線に向かって降りていくにつれ、高い空の雲が真っ赤に色づいていく。
「…信じられません。晴れやかな気持ちで、こんなに美しい夕焼けを見られる時が私にくるとは…」
海に出来た煌く太陽の道が眩しくて、セイランは目を細めた。
 ラミィは寒気を感じて己の両腕を組み、すくませる。雨に濡れて冷えた体の温度を、風がさらに冷やしているのだ。
セイランは外套を留めている二本の鎖を外して脱ぎ、ラミィの肩に掛けた。
ラミィは礼も言わずに体を外套で覆った。
「…何を考えているのですか」
「オメガとあんたの父親はどうなったのか…」
彼女の視線の先には反対側の岸の、ヴレードの微かな明かりがあった。
「父は人となり、仕えているガランディウム神に背いた。無事でいるといいのですが…もし無事なら、きっと影から僕を見守っていてくれると思います」
「どうして解る」
「親子ですから」
訝しげに見上げたラミィに、セイランは笑窪を作りながら微笑んだ。
ラミィは一瞬呆れ顔を作った後、再びヴレードの方へ見やった。
「けど…オメガは何をするか解らない…今回の魔獣は奴が放った気がする。神殿の地下に何匹か飼っていたみたいだったし…」
美しい風景を前にラミィは塞ぎこんでいた。
ソリヴァーサを烏有に帰する実力を持つ、魔術師オメガ。
彼女がどうなったのか、ラミィに知る手立ては無い。
元凶と知っておきながら止めをさせなかった事が彼女には悔しく、また今後の事を危惧する理由であった。
セイランはラミィの肩に触れる程寄って、言う。
「アストラルの力は確実に落ちている。それでも、貴女といると何とかなりそうな気がしてきます。皆きっと同じ気持ちでしょう」
「…あんたと話してると、考えてるのが馬鹿馬鹿しくなってくるわ」
ラミィは苦笑した。
 洞窟の中から賑やかな笑い声が聞こえてきた。
勝利の酒が振舞われ、酒場でよく聞いた下手な歌が聞こえてくる。
一時的とはいえ、彼らは自ら勝ち取った平和に酔っていた。
(…よくやったよ)
その祝宴で神の名が叫ばれようと、ラミィは不愉快にならなかった。
どんなに彼らが神に感謝していても、彼ら自身が生きる為に戦ったのだから。
ラミィは安閑として、清々しい気持ちだった。
唯一つの目的の為に、団結して戦う事の悦び。
一人ではなく皆と共に戦った後が、これ程まで快いとは思っていなかった。
洞窟の中から時折湧き上がる笑いと楽しげな会話に耳を傾けるラミィに、セイランが言った。
「人の力とは不思議ですね…あれだけ神を求めて嘆いていたのに、最後に我々を助けたのは神の力では無かった」 セイランは神に感謝を述べなかった。
穢れた魔の血から救ったのは、他ならぬラミィだからだ。
セイランはラミィを抱きしめた。
「ラミィさん…ありがとう」
「なっ、ち、ちょっと何すんのよッ」
ラミィの怒声をかき消すように、波が断崖に当たって水しぶきが上がる。
「何か誤解してない、あれは仕方なくやっただけで別に私は…ッ」
必死なあまり羞恥心を捨ててセイランを誘ったラミィであったが、今になって顔が赤くなった。
 彼女はもがいても離れようとしない彼に、平手をくらわせようとした。
が、セイランは手首を掴んで止めた。
「私さえいなくなればと…私は自分の事しか考えていませんでした。それが自身を弱めていたのかもしれません」
セイランは顔をラミィの髪の中にうずめて見せない。
「セイラン…」
様々な事情が伏在するとはいえ、彼は人を殺めた。
魔の血が消滅しても、彼は己の弱さを責め続けるのだ。
手を掴む力は見た目以上に強く、ラミィは抵抗を止めて手の力を抜いた。
「貴女が諦めなかったから私は生きているのです」
セイランは手を離し、ラミィの背中に両腕を回してしっかりと抱いた。
 冷え切ったラミィを、彼の体温が暖めていく。
聖堂で感じたセイランの温もりが、体中を巡って思い出された。
ラミィの体は彼の感触を覚えていたのだ。
状況を打破する為にはどんな手段を使っても構わないという想いが、女であることを自身に認識させる事となった。 セイランは男であり、ラミィは女であったのだ。
(…アストラル)
ラミィは彼の中に分けた、紅の光を感じ取った。
命を賭けた揺ぎ無い二人の絆。
それは同時に両親との絆でもあった。
「…自分で自分を弱めていたのは私も同じだ。アストラルは自分の中にあるというのに、憎しみに囚われ自分の為にしか剣を振るわなかった」
潮風はセイランに遮られ、ラミィには当たらない。
彼女に掛かっていた僧衣が風になびいていた。
「自分以外のものの為に戦うことなんて考えたこともなかった。私はアストラルを託された意味を本当は解っていなかったのかも知れない」
ラミィは顔を上げた。
「それでも、やっぱり私には剣を振ることしかできないけど」
はにかみながらも、彼女は澄んだ蒼い目に己の道を映して微笑む。
セイランはそんな彼女に微笑み返した。
「貴女には、それが似合ってますよ」
 時は黄昏、カストヴァール大陸を最後まで照らそうとする太陽が海に沈みかけていた。
美しい彩色に彩られた雲の中を、鳥が飛んでいる。
燃え上がるような太陽柱を海上に作りながら、夕日はその雄大な姿をゆっくりと消していく。
お互いの中に分かれたアストラルを再び合わせるように、ラミィはセイランの胸に身を委ねた。
アストラルにも似た暗紅に染まっていく空を、二人は眺め続けていた…。

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