さしのべられた腕 〜神々の黄昏〜 第二部 5

「抵抗しましたので眠らせました。そろそろ起きる頃かと」
ラミィの脳裏で誰かの囁きがこだました。
ぼんやりとした意識の隅に何かが見えているが、目に膜が張っているようでそれが何かは判らない。
(くらくらする…)
ラミィが薄目を開けると、正面の壁から垂れているヴレードの国旗が目に入った。
焦げ茶色の布地に四枚の花びらとがく、そして蔓が刺繍されたヴレード帝国花弁紋章である。
国旗を背景にして置かれた王座にカイゼフが座っており、右側にオメガが立っている。丁度カイルが皇帝に何事か話しかけていた。
 ラミィのすぐ手前には祭壇があり、セイランが眠っている。
(セイラン…)
眩暈と吐き気を催しながら、ラミィは手を動かした。が、動かない。
立ったままの状態で手足は何かに繋がれていた。
じっとりとした、やけに冷たい嫌な汗が背中を流れた。
ラミィはようやく自分が何かにくくりつけられていることを知ったのだ。
冷たい感触が肌を通して伝わってくる。筋が浮き上がる程に首を動かして横目に見ると、二匹の龍が絡み合いながら丸十字を描いている円盤がラミィの背後にあった。
その円盤は天井と床から鎖で固定されて部屋の中央に立っているのだ。ラミィ自身も鱗ある龍の体に鎖で繋がれていたのであった。
(何なのこれ、これがアストラルを取り出す為の…)
部屋を見回し焦るラミィと、カイゼフの目が合った。
「…目が覚めたようだ。始めろ、オメガ」
皇帝はラミィから目を離さずに言った。
(カイゼフ…!)
野心に燃え、自分を取り戻す事しか考えていない事を、ラミィは彼の目に見た。
 カイルが王座の横に置いてあった銅鑼を叩いた。
厳かな音が鳴り響き、燭台の炎がいっそう激しく燃える。
オメガは祭壇の前に進み出て、黒手袋をはめた両手を前に差し出した。
赤い艶のある薄唇がもぞもぞと動き、オメガは呪を詠唱しだす。
広間全体の空気が振動していた。亡霊の呻き声のようにそこにいた全員の耳元へ囁くかのようだ。
オメガの手元から光の粒子が散り、先端に三日月形の刃が備え付けられている杖に物質化した。金の板が何枚もぶらさがっている部分に、螺旋を描いて上昇していく二匹の龍が描かれた細長い布が輪で止められている。
「この杖にまずカールヴラットの中にあったアストラルを封じる」
オメガは左手に小さな紅の灯火を出し、杖と共に高く掲げた。
杖の中にアストラルが吸い込まれると刃の根元に淡い光を放つ宝珠が形成された。
「さて…覚悟は良いな、ラミィ・クォーレル」
オメガはその杖をセイランの上に置いた。
(…取られる)
ラミィは察知した。
 手足を動かして逃れようとするが虚しい金属音を奏で、ラミィを暗澹とした気持ちに突き落とす。
もがけばもがく程、鎖が手足の皮膚に食い込んで血が滲んだ。
オメガの銀髪が浮き上がった。足元から風が吹き始めたのである。
やがてその風は光の竜巻となり、その中心でオメガは目を見開いた。
逸楽に耽るオメガの肉体を、青白い光の線が走っている。血の道が、白い肌を透かすようにして発光していた。
光が交差する中でオメガがラミィの胸元にかざすと、紅の色がふわりと現れた。
(アストラルが…!)
ラミィは体の中から何かが引き剥がされる気がした。失っては成らない半身を喪失する感覚である。
だがラミィはその目で見なければならなかった。
アストラルが自分の体内から現象化し、奪われる様を。
「や…めろ…っ!」
ラミィの体内から閃光がほとばしり、赤い光が空中で一点に集められた。
オメガがうっとりとしながらそれに手を出すと、一筋の風が何処からか吹いてオメガの腕を掠めた。
 透明な液体がオメガの切り裂かれた手袋から飛び散った。血には見えなかった。
「貴様ッ!」
オメガの顔は老婆の形相となり、振り返った。
「もはや修正は出来ぬ…オメガ」
アストラルの煌々とした紅が満ちる部屋に、穴が開いたかのような黒い点があった。それは次第に大きくなり、その穴から黒頭巾の男が現れた。
「何者だ」
闖入者にカイゼフは席を立った。
オメガの集中力が途切れ、アストラルはラミィの中に再び戻っていく。
「…ぐっ…」
アストラルの移動は苦痛を伴った。いつしか髪はぐっしょりと濡れ、心臓の鼓動が早い。
(崖の下に落ちたセイランを…見ていた男…)
ラミィには見覚えがあった。
首を上げる気力さえ奪われ、額に汗を浮かべながら彼女は上目遣いでその男を見ていた。
このまま失意のうちにオメガの術で命を落としてもおかしくはない程、彼女の身体には負担が掛かっていた。
「我が名はアントラージェ。息子は返してもらうぞ」
彼は頭巾を降ろし、カイゼフに向かって言った。
 鼻筋の通った顔に、こしのある前髪が被さっている。上へ伸びた眉と縦に割れた瞳はやや高圧な感じを醸し出しているが、何処となく優しい人となりを感じる穏やかな容貌であった。
「おのれ…アントラージェ!妖魔六人衆の一人でありながらガランディウム様を裏切るのか」
「よもや神の定めた運命は人に通用せぬ」
「魔人でありながら人の血を受け入れたふぬけめ!聖女の血をくらって聖人にでもなったつもりか」
オメガは杖を取り、アントラージェへ向けた。
「邪魔だてすれば誰であろうが容赦はせぬ」
アストラルが宿った一筋の光線が宝珠から放たれるが、アントラージェは片手をかざしただけではね返した。
「セイランの前で魔力を使えば目覚めるぞ」
オメガは嘲笑しながら、空いている手で火球を幾つも飛ばした。
(ち、ちょっとやめてよ…!危ないじゃないのッ)
火の粉がラミィに降りかかった。着衣が数箇所でちりちりと焼け、肌が露出した。彼女には防ぎようが無いのだ。
 アントラージェは反撃せずに防御するばかりであり、オメガの攻撃がかわされる度に壁や天井が砕け散る。その破片がそこにいた全員の頭上に降ってきていた。
「お前は皆に避難するよう言え」
カイゼフは立ち上がりながらカイルにそう言うと、腰に下げていた剣をすらりと抜いた。
「しかし、陛下は…」
「私もすぐに行く」
カイルは暫しの躊躇の後で一礼すると、崩れ落ちてくる石を交わしながら駆け足で部屋を出て行った。
オメガとアントラージェの戦闘は人が立ち入る余地も無く苛烈を極めている。
「貴様にセイランがとめられるものか!もはや誰にも止められぬ」
「迫力に欠けるな、オメガ。儀式で大分魔力を使ったようだな。充電が必要ではないのか」
アントラージェは電光と共に黒い波動をオメガに放った。
セイランが魔力に反応を示す事を避ける為に術を使わないであろうと見込んでいたオメガは結界を張っておらず、吹き飛んだ。
柱に打ち付けられたオメガの手から杖が転がり落ちた。
「おのれ…!」
オメガの腕は肩から千切れ、瓦礫の下に埋もれていた。
ラミィは様子を見ようと首を動かすが、龍の円盤の後ろにいるオメガは見えなかった。
 オメガは膝を付きながら肩を押さえた。
肩の断面からは骨の代わりに細い管やら鉄の骨組みが垂れ下がり、火花が散っている。
「怪我は無いか」
戦闘の中断を見計らってラミィに忍び寄ったカイゼフが言った。
「カイゼフ」
カイゼフは剣の先を彼女の体と鎖の間に入れ、引き千切った。
ラミィの腰に腕を回し、抱きかかえるようにしてカイゼフが円盤から離れた時、オメガの声が響いた。
「ならば切り札を使うまでよ」
「オメガ、ならぬ」
アントラージェの静止も聞かず、円盤の影から現れたオメガはセイランに向かって黒き球体を放った。
「破壊の定めを受けし者よ、目覚めよ」
祭壇は爆発し、二つに割れた。
煙が立ち込める中、腰を屈めて扉の方へ進んでいたラミィであったが爆音で振り返った。
 煙の中からゆらりと起き上がる影があった。
長い髪が揺れ動き、その者は微笑と共に立っていた。
「セイラン!」
ラミィが彼の名を叫ぶと、彼はその方向を見るなり雄たけびを上げた。
耳をつんざくような咆哮を上げながら、セイランは片手を横へ振った。
(嘘…っ)
ラミィは目を疑った。
彼の一振りで巨大な大気の刃が現れ、柱や天井に穴を空けたのだ。粉々に砕けた石がラミィの方へと落ちてきていた。
砂煙が立ち、瓦礫の山と化した部屋の中でセイランの押し殺した笑いが響き渡る。
ラミィは目を開けた。
何処にも痛みは感じなかったが、上に誰かが乗っているのか、重たい。
甘い香りに、ラミィは気付いた。
「カイゼフ!」
カイゼフは頭から血を流しながら、ラミィの胴から転がるように体を移動させた。
「早く…行け」
咳き込み、彼は口から血を吐いた。呼吸が浅い。
ラミィを庇った為に落石の直撃を受け、カイゼフの背骨は折れて内臓を圧迫していた。
「お前が入れられた牢の近くに…武器がかけられている拷問牢がある…そこから剣をとれ…」
カイゼフはそう言うと再び血を吹いたきり、動かなくなった。
「ち…父上」
ラミィは彼の肩を揺さぶったが、何の反応もなかった。
 彼女の呼吸は異様に早く、途中何度も詰まったように止められる。
(何故こんな…!)
ラミィは目をきつく閉じ、拳を握った。
爪が食い込み、指の間から血が流れている。それでも尚彼女は拳を強く握っていた。
体が戦慄き、震えていた。
ラミィは恐る恐るセイランを見た。
そこに立っていたのは三人の人ならざる者達であった。
酸鼻を極める状況に、涙が浮かぶ。
セイランは威喝しながら激越な攻撃を続け、オメガとアントラージェを襲っていた。
部屋は崩れ、穴が空いた天井のひびは音を立てて広がっていく。この部屋が…否、神殿が崩壊するのも時間の問題であった。
ラミィの視界は涙でぼやけていた。
彼の手には、アストラルを帯びたオメガの杖が握られている。
セイランは杖のアストラルを武器として行使し、眠りから覚めた喜びで顔を綻ばせながら己が父親とオメガに術を放っていた。
獰悪な顔つきで炎を操り狂喜乱舞する様は、まさに悪魔そのものであった。
「セイラン…!」
顔をくしゃくしゃにし唇を噛みながら、ラミィは崩れかけた出口へ一気に駆け抜けた。


 外で待機していた神官達が右往左往し、兵士を呼べと叫ぶ者がいる。
地鳴りがして神殿が揺れ、悲鳴を上げながら階段を駆け上っていく者がいる。
そんな彼らの間を縫うように、ラミィは走った。儀式の衣装が邪魔で、何度も転びそうになりながら。
(何処よ、何処に武器があるっての!)
古びた牢が並ぶ回廊の壁を探し回っても、何も無い。
ラミィは一刻も早く広間へ戻る為に先を急いだ。
 突き当たりには腐り掛けた木の扉があり、入り口は屈まないと入れない位小さかった。
「…そこにいるのはどなたですか…?外が騒がしいようですが、何かあったのですか」
息を切らせたラミィが扉の前で立ち止まると、中から声がした。
ラミィは扉を開いて入ると、ラミィが入っていたものと同じ鉄の牢があった。
だが、入り口の壁には剣や斧、そして拷問用の器具などがかけられていた。
部屋の角に置いてある一組の机と椅子は、何かの染みがこびりついて汚らしい。
ラミィはすぐさま壁の一番下にかけられている剣を取った。刃は血で錆ついており、研がれた様子は無いが持ちやすい。
安堵のため息を付きながら、ラミィは剣を握る感触を確かめた。
「私の息子は…カイルは無事ですか?役目は果たしたのでしょうか」
ラミィは剣を下に構えて暗い鉄格子に近づき、すえた臭いが充満する牢の片隅で蹲っている男を見た。
垢染みた顔にある両目は白く、見えていないようだ。眼窩は窪んで暗く、やせ細っている。
黒髪は油で固まったまま腰の方まで伸びていた。
擦り切れて黄ばんだ衣はかろうじてアヴァンクーザーの僧衣の形を保っていた。
(なっ)
ラミィが彼の素性に驚くと同時に突然神殿が揺れ、ラミィは壁に頭を打った。
「きゃ…ッ」
回廊の奥から、セイランの咆哮が再び聞こえた。
「貴方は一体…看守では無いのですか」
男は顔を上げた。壁と足に繋がっている長い鎖を引きずりながら、まるまった腰でラミィの方へ近付く。
「父とヴレードどちらも裏切っておきながら、よくもおめおめと生きられたものねセリウス!」
ラミィは近寄ってくる男に嫌悪感を剥き出しにして叫んだ。
「お…おぉ…神よ…最期に…彼女に会わせてくださったのですね…」
セリウスは濁った白い目を大きく見開いて鉄格子を握り締めた。
「何が神よ」
ラミィは机の上にあった鍵を使って牢を開け、中に入った。
「無事だったのですね…」
ラミィは涙を流す彼の前に立ちはだかると、首筋に剣の先をあてがった。
「最期に一つ聞きたい。あの時…何故私をわざと逃した」
「…私はカールヴラット様が己の保身の為に友達を殺したのだと誤解していました。彼への憎しみを利用され…私は…」
セリウスは剣に抵抗せずに、神から懺悔の機会を与えられたのだとただ喜びで震えている。両腕を胸の前で組んで座り込み、ラミィの裁きを待っていた。
「あの草原で、貴女にアストラルを移すカール様を見て私は悟ったのです。彼は奴隷になりながらもアストラルを守り抜く決心をなさったのだと…カール様は何も変わっておられなかった。どんな状況でも己の信念を全うされる方でした」
剣を握るラミィの手が汗ばんだ。
(だから何)
切っ先は振るえ、セリウスの肌を傷つけた。
「そして最期にカール様は私を生かす為に身を投げ出してくださったのです。だから私は…アストラルを守る為に貴方を逃しました。ですが…それで私の罪が消えるわけもない…」
セリウスは鉄格子を握る手に力を込めた。見えない目から涙が行く筋も流れて煤けた顔を洗い流していく。
 息子を人質に取られ、アストラルを手に入れる為にただ生かされ続けただけの男、セリウス。
死ぬことは許されず、罪を背負って責め苛まれながら生きることが神から下された罰であった。
ラミィには哀れに思えた。
「私は罪を犯しました…大きな罪を…!」
「…もういい!」
ラミィは剣を彼の首から離し、行く当ての無い怒りを牢の鉄格子へ向けて思い切り叩いた。
「儀式は失敗したのですね…本当に良かった…カール様は報われたのですね…」
セリウスがラミィに向かって顔の皮をひきつらせながら微笑んだ時であった。
「そうです。貴方の罪は大きく、息子の私まで背負う事になったのです」
鉄棒の間をすり抜けラミィの横を素通りして、矢がセリウスの胸を貫いた。
「カ…イ…ル…」
目の動きが静止し、セリウスは仰け反って仰向けに倒れた。
「何を…!」
ラミィが振り返ると、弓を手にしたカイルが木の扉の外に立っていた。
「お前自分の父親を」
「捕らえられた父は、オメガ様にアヴァンの修行の全てを私に教え込むよう命じられた。私と母は人質だったのです。貴方を捕らえる為、神殿に潜入する計画の為に」
カイルは矢を番え、弓を構えた。セリウスが最期に見せた微笑に似た顔つきで。
ラミィは舌打ちして剣を構え直した。
 矢を交わせそうなものは転がっていない。ここは突き当たりであり、的のようなものだ。
盾代わりになるものといえば、今死んだばかりのセリウスの死体だけだ。
「息子と夫を取り上げられた母の悲しみは大きく、病で死にました。全てこの男のせいで」
カイルは弓を引いた。
「ねぇ、ラミィさん。私と貴方は似ていませんか」
「一緒にするな」
放たれた矢を剣で叩き落すラミィを、カイルが放った電撃が襲う。
足元を破壊されたラミィはよろけて鉄格子に背中を打ち付けた。
態勢を整え回廊の死角にラミィが移動しようとした時、再び神殿が振動しだした。
ラミィがおぼつかない足取りで何とか壁に張り付いた時、カイルの絶叫が聞こえた。
(な、何)
ラミィは剣を胸元で構え、扉の前に思い切って飛び出した。
 青白い光に包まれ全身殺気立った魔人が、血を流して倒れているカイルを踏みつけて廊下を歩いてくる。
彼の手には淡い光を放つアストラルの宝珠を抱いた杖を握っていた。
(セイラン…アストラルは目の前にあるのに…何故戻らない)
恐ろしい笑みを浮かべながら、セイランは火柱を廊下に這わせた。
炎はカイルを焼き尽くし、ラミィの方まで伸びてくる。開いていた木の扉が燃え出した。
ラミィが牢の方へ下がった時にはすでに、セイランはその炎と共に目の前に移動していた。
「私が誰だか解らないのか」
ラミィはセイランに言った。
 体はすくんで、剣を握った腕は上がらない。
セイランを見ているだけで、言葉にならない幽愁を催す。
これが聖女と魔人との間に生まれたアヴァンクーザー神官の末路かと思えば、せつなさが込上げてくるのだ。
「セイラン」
白炎の中に立つセイランはもはや人間ではないと判っていても、ラミィには無罪の人間を犠牲にする事は出来ない。
セイランの存在全てを否定する事は、彼女にはどうしても出来ないのだ。
ラミィにはあのセイランがまだ生きているのではないかという期待がある故に、剣を動かす事は不可能であった。
彼の禍々しい気炎に当てられ、傍にいるだけでラミィの心臓が痛む。
冷艶たる金の瞳は獲物を…ラミィを見据えて睨んでいた。
 セイランはアストラルを帯びた杖をラミィに向け、腕から宝珠に魔力を送り込んだ。
残酷な微笑を浮かべたセイランはラミィに向かって力を解き放ち、光は全てをかき消していく。
眩い閃光はラミィを飲み込む勢いで迫っていた。
「や…やめろ…セイランッ!」
ラミィは剣を捨てた。
そして、正面からセイランの胸元へ飛び込む。
その行動に、ためらいは無かった。

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