さしのべられた腕 〜神々の黄昏〜 第二部 4

 焚かれている香が咽るように強く香る部屋の中を、洗いざらしの清楚な香りがほのかに過ぎる。
揺れているのだ。高く結い上げられ、頭上に抱く銀の髪飾りに勝るとも劣らぬ輝きを放つ髪が。
「…どうした」
カイゼフが奥の寝室から言った。
すでにカイゼフが待つ部屋の中にいるというのに、ラミィの足は進まない。
カイゼフは一向に自分の前に現れない彼女にしびれをきらし、横になっていた寝台から降りた。
「い、今行く」
ラミィは衣擦れさせながら、ゆっくりと足を動かした。
 天蓋から降りている布を寄せようやく姿を見せたラミィを見て、カイゼフは微笑んだ。
「セティーヴェに似て美しく育った」
カイゼフはラミィに近寄ると顎をくい、と支えて自分の方を向けた。
「あの男の遺体はもう無いが、セティーヴェの遺体はヘレ・ディ・オール家に帰した。行きたいか?」
「私は連れてこられたのよ、墓参りに来たわけじゃない」
ラミィは視線を上げられずに、彼の胸元を見たまま言った。
「…私といるのは嫌か」
カイゼフの問いかけを、ラミィは無視して背を向けていた。
背中が大きく開いた衣から、緊張した肩甲骨が見える。
自分を揺さぶり狂わせられるような気がして、ラミィはカイゼフを真っ直ぐには見れなかった。
「セイランは何処?」
ラミィは落ち着きが無く目をあちこちへ動かしていたが、彼女自身は平静を装って言っているつもりだ。
口調に凄みを利かせて。
「…あのアヴァンの神官は魔術師オメガが管理している。私とて手出しできぬ…魔人の血が流れているらしいからな。それも、上位の」
 カイゼフはラミィの手を引き、寝台に腰をかけた。
彼が座った事により、立っていたラミィの体が傾いたので仕方なく彼女もつられて隣に腰を下ろした。
二人の距離は近く、背中を向けない限りラミィの表情はカイゼフから丸見えである。
ラミィは体中が熱くなっていた。息が、苦しい。
「セ、セイランをどうするつもり」
ラミィはセイランの話に集中して雑念を取り払った。
セイランは今何処にいて、彼をどうするつもりなのか。
それさえ聞けばいい。
それさえ聞ければ、ここで大人しく捕まっている必要は無いのだ。
他の話をさせる隙を作るまいと背筋をピンと伸ばし、彼女は張り詰めた面持ちを何とか保っている。
ラミィはきちんと両足をそろえて座ったままの姿勢だった。
一方カイゼフは口元をほころばせてくつろいでいた。
体を横に傾けて重ねた枕にもたれ、成長したラミィから目を離さない。
床を見つめるラミィの横顔は整って、何より首筋の曲線が滑らかで美しい。
金の糸が首に絡みついて、思わず触れたくなるような艶かしい襟足だった。
真っ直ぐ伸びた姿勢に毅然とした横顔は、彼が愛した女性によく似ていたのだ。
「セティーヴェもよくそのような結い方をしていた」
夢心地のカイゼフに、ラミィの話は聞こえていなかった。
そんな彼が彼女の頬に触れようとした時であった。
「昔話はやめて。セイランは何処」
ラミィが声を張り上げて突然カイゼフの方を見たので、彼は手を引っ込めた。
カイゼフはそこで初めて、ラミィが自分と同じ気持ちではない事に気づいたのだった。
表情がきついラミィを、カイゼフは眉を下げて不憫に思った。
娘は世間擦れして、十二年の時を経てようやく再会できた喜びを分かち合う事は出来ないのだと。
「…私は妻をあの男から守れなかった…だからこんな事になったのだな」
(やめて)
哀れみの眼差しを向けられ、ラミィは息が詰まった。
「お前にも辛い思いを…」
真珠が絡み付いている腕を伸ばして、カイゼフは娘の肩を掴んで引き寄せた。
ラミィは奥底に秘めた迷いをカイゼフに見られている気がした。
(何故私の父が貴方では無いの)
今更悲観しても何もならないと解っていても、これほど近くにカイゼフを感じては取り繕う事さえもはや出来ないのだった。
「…私が貴方の子ではないと妾に暴露され、幽閉された後、母はずっとカールヴラットが迎えに来るのを待っていた」 ラミィの瞳に溜まった涙に、その光景が映し出されている。
そして、徐々に彼女の襟懐が開いていった。
 後宮の妾たちの勝ち誇った嘲笑を浴びながら、母とラミィは兵士に拘束された。
皇后と王位後継者という地位がありながらも、二人は罪人として囚われたのだ。
「そこで初めて私の父親が貴方では無いことを知ったのよ」
ラミィは顔を手で覆った。
前髪をくしゃくしゃに掴みながら。
「私は貴方の娘のままでいたかったのに…!」
崩れるようにして胸に伏したラミィを、カイゼフは抱き締めて髪を梳くように頭を愛撫した。
「ラミィ…」
枯れていた筈の涙が止め処なく溢れ、カイゼフの服を濡らしている。
 ラミィには止められなかった。
ヴレードを脱出して以来心の奥底に封印していたカイゼフへの想いを、止める事が出来なかった。
女子である事が王位継承者として疎まれる原因ならと、ラミィは幼いながらに帝王学を学んだ。体を鍛え、初陣に備えて戦術をも学んだ。皇女でありながら煌びやかな衣装を着て座っているよりは、剣を振る事が当たり前の生活であった。
そのようにして、他の皇子を差し置いて皇帝の寵愛を一身に受けている自分がカイゼフの足もとをすくうことにならぬようにと、常に努力していたのだ。
それが実を結ばずに罪人として捕らえられるなどと彼女には想像もつかなかった。
「私にとって、血筋は重要ではない。たとえお前が私の血をひいてなくとも、お前は私の娘なのだ」
カイゼフはラミィの頭上から、言い聞かせるように静かに言った。
ラミィは息をゆっくりと吐いた。
肌に触れながら聞くカイゼフの声はラミィを落ち着かせ、安心させていく。
「私はお前達をヘレ・ディ・オール家へ帰すつもりでいた。だが、お前はあの男と共にソリヴァーサへ…行ってしまった。私が本当にお前達を殺すと思っていたのか」
「私は…」
 迫り来る死刑の日。
すでにカイゼフの力ではもうどうすることも出来ないと思いながら、ラミィはその宣告を待っていた。
だが彼女の母だけは違った。
暗い牢の中でもしゃんとし、身だしなみを整える事を忘れなかった。己の不運を嘆きもせず、誰も恨まず、青い瞳の輝きを濁らせる事は決して無かった。
母をこれほどまでに強くさせるものは何なのか、五歳のラミィには解からなかった。
後宮の皇子や妾の策に落ち、彼らは王位継承者ラミィと皇后の命を欲しがっている。
欲望と策略が渦巻くこのヴレードの後宮で、ラミィは生きる希望さえ失いかけていた。
そんな時であった。
外が騒がしくなったかと思うと、突然暗い牢獄の扉が開け放たれ眩い光と共に白い衣を纏った男が入ってきたのだ。
幼いラミィには、その者は神とさえ思えた。
純白の衣に、宝石のような輝石の瞳。
神々しいまでの金の髪、そして力強い容姿に、ラミィは一瞬にして虜になったのだ。
一目見て、ラミィは彼が自分の本当の父だと悟った。
『ラミィ』
初めて見た気がしない、優しい微笑み。
その笑顔で不安は何処かへいき、神が救いの手をさしのべたのだと思った。
さしのべられた腕に飛び込んだのは、紛れも無くラミィ自身であった。
悪しき神にしろ、善き神にしろ、人間を見守ってくれる神の存在を信じたのはそれが最初で最期であった。
彼女はただ生きたい一心で、父カールヴラットの手をとったのだった。
「三人で草原まで逃げた時、父の弟子だったセリウスとかいう神官が私達に向かって術をかけた」
ラミィは目を閉じた。
「カールヴラットは…自分の中に残っているアストラルを私へ移して、私をソリヴァーサの国境まで吹き飛ばした」
ラミィの声は震えている。
セリウスの放った光の槍が実体化して二人を貫くと、ヴレードの草原に血が飛び散った。
転移させられる間際に見た光景は、血の海だった。
二人の最期を伝えるには、カイゼフには残酷過ぎる結末だとラミィは思った。
「二人はもう離れる事が無いって幸せそうな顔をしていた。私にアストラルを託して気が抜けたみたいに」
カイゼフは歯をくいしばってラミィの話に耳を傾け、耐えた。
今はただ、ラミィに最後まで全てを語らせてやりたい一心で。
「一人残されて、怖くなった。いつ兵が追いつくか解らない。助けくれる神など何処にもいないと思った。怖くなった。だから私はヴレードから…」
…逃げた。
言葉は最後まで紡がれなかった。
 ラミィは押し黙り、カイゼフの胸にしがみついた。
「…二人を殺すために兵を出させたのは私だ。私を憎むか」
ラミィはカイゼフを気遣う優しい面持ちでゆっくりと首を振った。
二人を塔に幽閉する事は、カイゼフにとって苦渋の選択であった。
言葉に表さずとも、ラミィには解っていた。皇帝として仕方なかったのだと。
「二人への貴方の仕打ちは皇帝として当然の事。…貴方だって十分苦しんだ筈」
「…今となっては恨む気持ちは無い。セティーヴェの輝きはあの男あってものだった。彼女はあの男を信じ、その強さと美しさに私はどれだけ癒されたか。憎んではおらぬ」
涙が止まったラミィは体を起こし、カイゼフから離れて熱っぽく見入った。
惜しみない愛を注いでくれた父親、心から尊敬しているカイゼフを。
「カイゼフ…」
 壁沿いに置かれた寝台の上にある窓は開け放たれていた。その窓から夜風が吹き込み、寝台の御簾を揺らす。 ほの暗い部屋には何の音も無く、ただ男女の息遣いが聞こえるのみだ。
「セイランを手に入れたからにはアストラルが必要だ。だが、私が欲しいのはアストラルではない」
カイゼフは手に力を込めてラミィの両肩を握り、自分の方を向かせた。
「ラミィ、お前を連れ戻したかったのだ」
両肩が痛む。
だがそれ以上に、カイゼフの言葉は痛々しかった。
「もう、二度と離しはせぬ」
カイゼフは再びラミィを自分の胸に閉じ込めた。
きつく、きつく…。
「月が満ちる頃に儀式を行い、お前からアストラルを取り出す」
鱗のように千切れた雲から、冴えない光を放つ月が現れた。
まだ満月に満たない、いびつな形をした月である。
「そして昔に戻れば良い。父と娘として過ごしたあの頃に」
その身をカイゼフに任せていたラミィの体が、固くなった。
(あの頃に)
果たして、戻れるのだろうか。
 ラミィは自問する。
アストラルが無くなれば救いの手をさしのべない神への怒りも忘れ、ただの娘に戻れると?
ここで昔と同じように暮らせると?
(アストラルが無くなれば…)
アストラルが無くなれば、どうなるのか。
真っ先に浮かんだのは、セイランであった。
『僕は貴女のように強くはない』
セイランは、崖から飛び降りる前にそう言った。
強くない者は生きていく価値が無いのか?
(誰も助けられなくて…何処が強いって言うのよ)
ラミィは彼の手を掴んで自分から離させ、背を向けて立ち上がった。
「…いいえ、もう戻れない」
「何故だ」
思い余って、カイゼフも席を立った。
「私は…知ってしまった。私の為に戦ってくれる人がいた事、あがき苦しみながらも生きようとする人達、救いを求め続ける人達を」
「ラミィ」
カイゼフはラミィの言葉を遮ろうとした。が、ラミィは続けた。
「辛いのは私だけじゃ無いって解ったの。己の過去を恨んで神を憎むよりは、前へ進んで変えたい」
カイゼフは、目をみはって震えながら立ちすくんだ。
「きっと、ヴレードにいたら気付かなかった」
カイゼフの方に向き直ったラミィの悲しみをたたえた青い瞳に、迷いは無かった。唇を固く結び、その目はカイゼフを見てはいない。彼女の想いはすでにカイゼフから遠ざかっていた。
先ほどまで泣いて身を崩していた娘とは思えないほどのラミィの凛々しい顔つきを見て、寂しさがカイゼフを襲い焦燥の念にかられた。
「お前の本心ではあるまい!」
「違う。私にはアストラルを無かったものにして生きて行く事は出来ない。逃げる事なんてもう出来ないのよ」
「では、あいつがお前に遺したものと共にソリヴァーサで生きるというのか!」
己の選択をカイゼフに言われて、ラミィ自身も殴られたような衝撃を受けた。
 父に代わってそれに応える責任がある。認めたくなくても、それが事実だった。
ジェゾルドの問いの応えは簡単だった。
…それを必要としている民がいるからである。
「サマルドゥーンを復活させるとか、そんな大それた事は出来ない。でも、私の力だけじゃ心までは助けてあげられない人たちがいる。私は神じゃ無いから」
神殿の責任者を失い、魔獣の侵入に脅えて神殿に詰め掛けたソル・ハダトの人々。
自分たちを導く者として歓迎していたセイランの、眠り。
そして、己の力だけではその変貌に逆らえないセイラン。
すがるだけの彼らに、自分はその時何かをしてやったのか。助けてやれたのか。
応えは否である。
(私は何で自分の事しか考えて無かったんだろう)
憎しみが戦う原動力となるように、希望が戦う為の力になる事を身をもって知っていたのは、ラミィ自身であった。
揺れた御簾が起こした微かな風によって、寝台の横に置かれた蝋燭の火が消えた。
部屋の中が暗くなり、か弱い月光がラミィとカイゼフを照らしている。
「貴方はこの国を守る皇帝で、私はもう皇女ではない」
ラミィはカイゼフに歩み寄った。
彼女の桃色の口紅が瑞々しく光る。
煌く黄金の髪が眩しく、カイゼフは目を細め、拳を握った。
「私はソリヴァーサの人間として、戦う」
「ならば、私は力ずくでもお前をここに置く!」
カイゼフはそう言うと、御簾を勢いよく跳ね除けて部屋を出て行った。
(さよなら…父上…)
外から閂がかけられる音が聞こえ、カイゼフの荒々しい靴音が遠ざかって行った。
窓辺の香炉がまだ甘い臭いを放っている。
ラミィは卵型の香炉の火を吹き消した。
「…皆どうしてるかな」
 ラミィはようやく何かを見つけたような気がし、ソリヴァーサに戻りたくなっていた。
(皆…無事だろうか。魔族は出ているのだろうか)
ジェゾルドとカイル、そしてセイランまでも神殿から突然いなくなり、ハダトの民の不安は最高潮に達しているだろうとラミィは思った。
(テオフィロが何とかしてくれている気もするけど…魔獣と戦う気がある人間が他にいるかどうか)
ラミィは寝台に横になって窓の外を見た。
全て吐露した後となっては、心が穏やかになり彼女を眠気が襲った。
夜空の月が一回りして同じ位置に来る頃には、満月である。


 翌朝、ラミィは女官に起こされ朝の沐浴をさせられた。
そして部屋で女兵士の監視付きの食事を摂った後、後宮の入り口でガランディウム神官に引き渡された。
「…何処へ行く」
「今夜の儀式に備え、神殿へ連れて行けとの陛下の命だ」
カイルと違って無愛想な太った中年の神官は短くそう言っただけで、その後一言も口をきかなかった。
馬車で神殿地区に連れて行かれる間ラミィは抵抗せずに大人しく従った為、縄で拘束されることはなかった。
(落ち着かないのは、こんな服を着ている上に剣が無いからか)
沐浴後に用意されていた衣装は蘇芳色の簡素な貫頭衣で、やはり長衣だった。
太腿の横に深い切れ目が入れられているが、蹴るように歩かなければ裾を踏んで転んでしまうのだ。
 参道の前で馬車から降り、神官達数名はラミィを囲むようにして神殿へと進んだ。
彼女はここに入るのは始めてであったが、遠目に見るだけでも柱が多いアヴァンクーザーの神殿とは違う事がラミィにも解った。
半円を被せたような屋根の周りに尖塔が立ち並び、窓は小さくくりぬかれただけのものだ。アヴァンクーザーの神殿に比べて柱の数が極端に少ない。
参道には朝日を浴びて黒光りする悪しき獣の彫像が、上からラミィを見下ろしている。見たことも無い異形の獣は魔族に違いなかった。
神殿の中に入ると、黒服の神官達の姿があちこちに見える。
ラミィを案内する太った神官と若い茶髪の神官は、右殿の端にある階段へ向かった。
表のなめらかに磨がれた石とはあからさまに違う、古びた石組み。このガランディウム神殿はもともとあったこの地下部分の上に作られていた。
湿った空気がひしめく中を、彼らは暗い地下へと降りていった。
階段を下りながらラミィが壁に触ろうとすると、腹まで響く咆哮が何処からか聞こえてきた。
金具か何かに何度も体当たりする音も聞こえる。
(…魔獣を飼っているのか)
その激しさに、ラミィはぞっとした。
檻が壊れてこちらへ突進して来るのではないのかという危惧さえ浮かぶ。姿が見えないだけに、それが恐怖を膨らませていた。
地下牢は人間が収容される廊下と魔獣用の頑丈な檻がある廊下に分かれていた。
中年の神官はもう一つ、奥へとのびる回廊を進む。
 二人の人間がやっと通れる横幅の細い回廊は赤い絨毯が敷き詰められ、突き当りにある両開きの扉まで続いていた。
「中へ入れ」
太った神官が前にせり出した腹をさすりながら扉を開ける。
ラミィが中へ入ると、二人の神官は扉を閉めた。
中は暗く、様子が見えない。
ラミィの靴音が長く響き、その部屋がだいぶ広いことしか解らなかった。
(…誰かいる)
前方で炎が灯り、一つ、また一つとその炎が部屋の中に増えていく。
誰も動いている気配は無いのに、独りでに炎が灯ったのだ。
…そして、白皙の美女が赤々と照らされた。
「久方ぶりじゃの…ラミア姫。…否、ラミィ・クォーレル」
「お前は…確か宮廷魔術師のオメガ」
ラミィは自分の方へ歩み寄るオメガの見目形が昔と何も変わっていない事に気づき、息を呑んだ。
(…この女…昔と同じ姿を…私より年下に見える!)
オメガは黒衣の外套を引きずりながら彼女の前まで歩き、鼻で笑った。
「ふ…何やらふっきれたような…清清しい顔つきをしておる」
カイゼフと常に行動を共にしていた魔術師、オメガ。
背筋が凍るような妖美は全く衰えてはいなかった。
(こいつ…!)
「ふふ、わらわは年を取らぬ」
オメガはラミィの心を読み取ったかのように言った。
「人間じゃないわね。何が魔術師よ、化け物!」
ラミィがそう言った時オメガの背後にある祭壇の、四方に設置されていた燭台に火が付いた。
(…え)
 広間が明るくなり、石の上から黒髪が垂れている事にラミィは気づく。
長い、黒髪。
そしてこの神殿ではありえない、アヴァンクーザー神官の僧衣。
「セイラン!」
ラミィはオメガの横を駆けてセイランに触れようとした。が、青い火花が散って弾かれ、手が痺れた。
「怪我をするぞ。アストラルの結界と違うて、わらわの魔方陣は少々荒い結界じゃからな」
オメガはそう言いながら祭壇に腰をかけた。そして、美しい目を伏せてセイランの頬を撫でる。
「この者が目覚めた時、ヴレードは新たな兵器を持つことになるであろう」
「セイランはあんたたちに協力なんてしない」
ラミィは一時的に感覚を失った右手を広げたり握ったりした後、左手で包んだ。
傷は無いが、右手がびりびりと痛むのだ。
「我々にはアストラルがある。すでにカールヴラットから取り出した微小なアストラルと、お前のなかの、な」
オメガは手を前に差し出し、広げた。
蝋燭の火のように小さな紅色の光が灯り、その中心には砂利石程の大きさの結晶体があった。
オメガはアストラルの光にうっとりと魅入りながら、太腿まで覆う皮の長靴を絡ませ足を組んだ。
(…あれが…カールヴラットの中に残っていたアストラル…)
父親の命の源そのものであった。
それが取り出され、オメガの手の中にある。
彼の死が白日の下にさらされているようなものであった。
「…あんたの目的は何なの。セイランを使って一体何を」
(剣があれば…こいつを叩き切ってやるのにっ)
ヴレードを動かす黒幕は他ならぬこの魔術師なのだと、ラミィは判ったのである。
「無論、ヴレードの繁栄による我が神ガランディウムの勝利。この魔人が覚醒すればソリヴァーサを破壊させる事は容易だ。だがそれだけに、我々を守る為にもアストラルが必要不可欠。だから分裂させる必要があるのだ」
「…分裂?」
ラミィは眉をひそめた。
神殿に奉ってあるだけのアストラルが分裂するという話など、彼女は未だかつて聞いたことが無かったのだ。
「一度ヒトの体内に吸収されたアストラルは生殖により分裂する。お前の母親が後宮に上がる前にカールヴラットと関係し、アストラルがお前に受け継がれたのだ」
「…母を通ってアストラルが私に移った…?」
聖堂に奉られている結晶体は鉱物にしか見えない。
宝石の輝きを持つアストラルが人間の体内に吸収され親から子へと受け継がれる等、ラミィには予想もしなかった。 その行為によって自分にアストラルが存在するなどとは。
「母体はアストラルを子へと排出する。そう、お前はアストラルを持って生まれたのだ」
「わ、私は生まれたときからこうなる運命だったとでも言うのか!」
ラミィは激しい怒りを感じずにはいられなかった。
 自分は何かに踊らされている。
…見えない、何かに。
ラミィは笑みを浮かべているオメガにつかみかかろうと足を踏み出したが、標的は忽然と姿を消した。
目の前には深い眠りに落ちているセイランだけがいた。
見ているだけで心が和むような、安らかな寝顔であった。
ふと、ラミィは彼がまだ生きているのか、彼の胸に耳を押し当てて心臓の鼓動を確かめたくなった。
だが触れればまたオメガの結界に入る事になる。
迷っているラミィの背後でオメガが哄笑した。
「何故何もかも知っておきながらここまで放っておいた」
蔑むような笑い声が勘に触り、物凄い剣幕でラミィは振り向きざまに言った。
「我が神の運命の書にはアヴァンクーザーの聖女の息子がこの大陸を破壊させ、ガランディウム神の時代に導くとあった。その前にヴレードがサマルドゥーンのアストラルを手にし、この国は何の被害も被らないとも。お前の誕生は予定通りだったのだ」
魔術師の手にあったアストラルの光が微かになり、やがて消えた。
「神の思惑通りに進んでるって言いたいの?」
自分の行いが予め定められていたとは信じられず、ラミィは一笑に付す。
「私の事は私が決める。神になんか干渉させない!」
ラミィは知らず拳を握って立っていた。
「ふふ…両親に習ってお前も抗うというのか…神の定めた運命に」
オメガは珍しいものを見たかのように目を丸くさせ、ラミィに近寄った。
彼女はラミィと同じくらいの背の高さだ。
オメガは並んで立つと、ラミィの顎を鷲づかみした。
「本来ならば十二年前にカールとお前の中に分かれたアストラルを手にする筈であった」
長く整えられている爪が、ラミィの皮膚に食い込んだ。
「お前はあの時両親と共に死ぬ運命にあったが、カールヴラットとその弟子セリウスが運命の書の筋書きを書き換え、お前は生き延びた」
(運命の書って何なのよ…書き換えるって!)
 オメガは意味の解らない話を続け、ラミィには苛立ちが現れた。
唇が重なる位置まで、オメガはラミィに顔を近づけた。
大きな瞳が目の前にあり、ラミィは胴震いした。その瞳は月の光よりも明るく神秘的だというのに、どこか硝子細工の作り物にも見える。
生気が無いのだ。
「奴らのせいで予定が狂ったが、お前は帰ってきた。経過は違っていたが結末は変わらぬ」
「結末はまだ解らない。決まってない!」
ラミィは金の目が恐ろしくなり、オメガの手を払った。
「…おもしろい。神に創られしヒトごときが、神に逆らえるものならやってみるがいい」
二人は、睨み合った。
オメガの絶対的な力をも感じながらも、ラミィは負けまいと今度は目をそらさない。
「今夜、お前からアストラルを取り出す儀式を行う」
オメガはラミィに背を向けて扉に向かって歩き出した。
「皇帝はお前を生かしておくようにと言われたが…わらわにその気は無い。軌道を完全に修正する為には、お前の遺伝子を残してはならないのだからな」
「高尚過ぎて何の話だか解らないわね!」
部屋を出ようとするオメガに向かって、ラミィは叫んだ。
そしてしっかりとした口調で、言った。
「私とセイランはハダトへ帰る」
「…今夜が楽しみな事だ」
ラミィの方を向き直らずに、オメガは静かに言った。
「時が満ちるまで牢に繋いで置け」
扉の外には神官が頭を下げて控えており、オメガはすれ違い様にそう指示を与えた。
神官達が入ってくるまでにと、ラミィはセイランに再び近寄った。
 オメガの張った結界がセイランの体を包み、青白く発光している。
彼は、自分がアヴァンクーザー圏を破壊する為に遣わされた魔人だとは知らずに眠っていた。
神の僕として訓練し、全てを慈しむ優しい心を持っていながら。
「さあ、来なさい」
ラミィは茶髪の神官に腕を掴まれてもまだセイランの顔を覗き込んでいた。
(…涙…)
セイランの頬に、一筋の涙の後が残っていたのだ。
神官は中々動かないラミィを無理矢理引っ張って祭壇から離した。
部屋を追い出されるようにして連れ出されながらも、ラミィは首をセイランの方に向けたままだった。
彼女は確信していた。
彼はまだ、あのセイランのまま生きていると。
(必ず助けるから、負けるな)
眠り続ける男に、ラミィは初めての約束をした。


 雲ひとつない夜である。
冷たく張り詰めた空気が石造りの牢を冷やしている。
窓も無い牢の中では月が出たかどうかも、時間さえ解らない。
何処かで獣が暴れる音がしていた。
角の継ぎ目から水が染み出して石には苔が張り付いており、陰湿なその牢でラミィは水溜りを見ていた。
(神官なら、後宮の女官戦士よりは弱い筈よね)
ラミィは機会をどう生かすか、考えていた。
恐らく、逃げるには一度しかないであろうその好機を。
石畳を歩く靴音が、牢屋の中に反響した。
「出なさい。時間だ」
鍵をちらつかせてやって来たのは、先ほど祭壇へ案内した二人のガランディウム神官であった。
 太った神官は眠そうに目を何度もこすりながら鉄格子の入り口の閂を引いて、南京錠に鍵を差し込んだ。
きしむ音をたてて檻が開き、神官がラミィを立たせようと入った時であった。
ラミィは神官の足を払って横に倒し、間髪入れずに顔と鳩尾を思いっきり殴った。
「ぐはっ」
ぶよぶよとした肉の神官は鼻から血を滴らせて倒れた。
「き、貴様!」
外にいた茶髪の神官は慌て、手を前に広げて呪文を唱えだしたがラミィの方が動きは早い。
倒れた神官が握っていた杖を拾い、ラミィは剣のように振り回したのである。
結果、顔を殴打された神官の呪文の詠唱は止まり、よろけて壁に打ち付けられた。
「お、おのれ」
頭から血を流し、ふらふらとしながらもその神官は帯にさしていた短刀を抜いた。
(剣だ)
ラミィはほくそ笑んだ。
彼女は神官の腕を杖で叩き、握力が落ちた手から剣を落とさせた。
それから、痛みに耐えるために態勢を崩した神官の頭に、ラミィは容赦無く杖を振り下ろす。
バキン、という音と共に杖は折れ、神官は短く唸ると頭から倒れて動かなくなった。
「術を使う時間なんてあげないわよ」
ラミィはそう言いながら、短刀を拾った。
 戦闘において体力のない神官や魔術師は、術による後方支援が主流である。接近戦ではラミィのような戦士の方が有利だった。
「さすがですねぇ」
切れ味を確かめようと剣を掲げた時、刀身の端にカイルの姿が映った。
「…カイル!」
ラミィは振り向いて剣を構えた。
…距離は、遠い。
牢が並ぶ部屋の入り口に立つカイルまでは50ルードあった。
一気に間合いを詰めなければカイルに呪文を唱える余裕を与えることになる。
ラミィは剣を逆手に握って口元を隠すように腕を伸ばした。
「父が何故あなたを見逃したのかは解りませんが、そのおかげで私の父は罰せられ、私はこの日の為に訓練されたのですよ」
「戯言はいい!そこをどけ…ッ」
ラミィはカイルの正面に向かうしかなかった。
出口は、カイルの背後にあるのだ。
「だからやめたら、と言うつもりだったのに…浅はかですねぇ」
カイルは突進してくるラミィに一度微笑むと、何も唱えずに右手から眩い光を放った。
(しまっ…!)
その光を見てしまったラミィは目が眩み、動きが鈍る。
(言霊の力を借りずに瞬時にこれだけの力を出せるなんて!)
目を閉じても頭の中は真っ白で、頭を強く両手で押え付けられるような感覚に見舞われる。
頭全体が心臓のように脈打っているのを感じながら、ラミィは失神した。
 力が抜けた膝がかくんと折れ、ラミィの手から落ちた短剣が水溜りに落ちる。
「アストラルの力を使われたら僕も危なかったですが、貴女は使うのがお嫌な様ですし」
ばったりと石畳の上に倒れたラミィをカイルが抱えると、物音を聞きつけて白髭をたくわえた老神官が現れた。
「な、何事でございますか」
「大事無い。…牢には神官が倒れているかと思いますが」
それを聞いた神官は小枝のように細い老躯を揺らしながらラミィが入っていた牢へと急いだ。
「さぁ、ラミィさん。儀式の時間ですよ」
カイルはラミィを抱きかかえて地下牢を出、祭壇へ続く回廊を歩き始めた。

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