さしのべられた腕 〜神々の黄昏〜 第二部 3

 車輪が小石の上に乗り上げ、荷台が大きく揺れた。
瞼の中まで入ってくる光が眩しく、ラミィは目をきつく閉じた。
(眠っていたのか)
ようやく慣れてきた目を開け、体を動かそうとするが縄で括られ身動きできない。
足元に棺おけがあり、ラミィは自分が荷台で運ばれている事を知った。
緑色の甲冑を着た兵士が荷台を牽く二頭の馬の手綱を操作している。
ラミィが視線を外へずらすと、四方をヴレード兵士に囲まれながら砂利道を進んでいた。
「お目覚めですか」
 背後から声をかけられ、ラミィが振り向くと馬上にカイルがいた。
「カイル…ッ!」
ラミィはカイルに飛び掛ろうとしたが足がついていかず、前につんのめって荷台の縁に胸を打った。
足首と太腿にある縄の存在を忘れていたのである。
「痛…」
「危ないですねぇ、縛っていなかったら首をひねられてる所ですね」
腕も後ろに回されて縛られている為、胸を抑えたくても出来ないラミィは蹲って痛みに耐えていたが、カイルは何食わぬ顔で馬を進めていた。
「やめろ」
棺おけをはさんだ反対側から、ジェゾルドが静かに言った。
「術で眠らされている間に暗黙の呪をかけられたようだ。何かあっても治療できんぞ。しばらく大人しくしていろ」
ジェゾルドは下を向いたまま、眠りこけているようにも見える。
(使えない神官ね!)
ラミィは冷静なジェゾルドに苛立ち、気を紛らわせる為に街道脇の風景を見た。
 馬車は四人のヴレード兵士に護衛されながら、草原の街道を走っていた。
太陽はすでに高く、黄色の熱を放射させて曇り空をなんとか明るくしている。
平らな翠の絨毯の先には森も無い。ぼやけた地平線の向こうに町の影が見えていた。
(ヴレードの草原だ…)
背後には川が流れ、国境はとうに越えていた。
煉瓦の橋の向こうに、ソリヴァーサ国境警備隊の詰め所である塔が見えた。
風が吹き、草が大きく揺れて倒れた。
微かな陽光が草に当たり、揺れる葉に合わせて波のようにうねっている。
所々に岩が突き出して、それにはじかれる様にして草の動きが止まる。
ここは、ラミィが両親と死別した場所であった。
「懐かしいですか?」
カイルが眠そうに話しかけた。
(あんたの顔を見てるだけで吐き気がするわ)
振り向いて視線をカイルへ注ぎ、ラミィは精一杯睨んだ。
 愛嬌のある丸顔に、大きな黒目。
カイルの容姿は裏切り者であり、殺人者であるアヴァンクーザーの神官を思い出させるのだった。
ヴレードの草原にセリウスによく似た息子と共にいるだけで、両親が殺された時に戻ったような気がしていた。
懐かしむ以前に、それは決して気持ちの良い思い出では無い。
「本殿へ行ってどうするつもりだった?」
 ジェゾルドが顔を上げて言うと、ラミィは声を張り上げるようにしてきっぱりと言い放った。
「私は…用事を済ませたらすぐにハダトへ帰るつもりだった。魔族が増えてきたし、戦わないと」
ジェゾルドは口を開けたままでいたが暫くして口元をほころばせ、笑みを浮かべた。
「…やはり血は争えないな。娘も父親と同じ事をするとは」
「…どういう意味よそれ」
「お前はカールヴラット・クォーレルからアストラルを受け継いだ。だから奴らに囚われたのだろう」
久しく聞いていなかった名前を耳にして、ラミィは息を呑んだ。
数えられる回数しか耳にした事の無い名前。
それが自分の父親の名前である事をラミィが思い出すまでに、時間がかかった。
「…父を知ってるの」
探るように、そして慎重にラミィは聞いた。
「おい、黙ってろ」
ジェゾルドの背後を警備していたヴレード兵士が馬を早めて言った。
「私は構いませんよ。ヴロンズ城まではあと二刻程掛かりますからねぇ。思い出話くらい、いいじゃないですか」
反対側にいたカイルが、退屈そうに言った。
明らかにこの中では一番年下に見えるカイルではあったが、指導権を握っているのかヴレード兵士はしぶしぶと元の位置に戻った。
「…サウィーンの手紙を読んでまさかとは思っていたが、聖堂で会った時に確信した」
ジェゾルドは真っ直ぐラミィを見ていた。
「お前の目はカールヴラットと同じだ、ラミィ」
ソリヴァーサの方角から強風が吹き、ラミィの金髪が光り輝くようにして一瞬広がった。
ラミィは唇を噛んだ。
胸が止めの一撃を受けたように痛み、体が硬直していた。
「お前は、死を恐れない挑戦者の目をしている」
馬の蹄の音、車輪の軋み、兵士達の鎧の音。それらが遠くかなたへ行ったかのようであった。
(私の目が、あいつに似てるって…?)
ジェゾルドが真剣な眼差しを向ける中、ラミィは力なく笑った。
「サマルドゥーンが陥落して二年ほどたった頃、サウィーンの手紙を持った神官が本殿にいた俺の前に現れた」
 ジェゾルドが雲に覆われた空を見ながら静かに話し出すと、その場にいた誰もが聞き入った。
カイルでさえあの取ってつけたような笑みを捨てて、真顔になっている。
ヴレードの奴隷達を反乱に導き、皇帝の后を奪い返したアヴァンクーザーの神官。
兵士に包囲されながらも最期まで戦い続けたカールヴラットという男の物語を、そこにいた誰もが聞きたいと思っていたのである。
「彼はヴレードの奴隷になりながらも体内にアストラルを隠し、ハダトを経由してソリヴァーサまで逃げてきた」
ジェゾルドの言葉は呪文のようにラミィの体に染込んでいく。
じわじわと毒が広がり、聞くに耐えない。
ラミィは憎き父親の英譚に付き合う気は無かった。
(今更そんな話…あいつがどんな苦労したかなんてどうでもいい。あいつのせいで今こうなってる。それだけよ)
彼女は膝の上に顎を乗せた。
「カールヴラットは命をかけてアストラルを守ったというのに、本殿の反応はあまりに冷たいものだった。サマルドゥーンの民が奴隷におとしめられ、ヴレードで苦しんでいると彼は訴えた。私も議会に掛け合ったが…」
「国は応じずに見捨てたのね。アストラルさえ手元に戻れば他はどうでもいいんでしょ」
ラミィはここぞとばかりに冷笑し、見事に神殿側の主張を看破した。
だが、ジェゾルドは気に止めず続ける。
「最期には己のアストラルと引き換えに彼は交渉し出したが…政治が絡んでくるからな…戦争回避の為だろう。カールヴラットの絶望した様子は、俺には忘れられん」
そう言うと、ジェゾルドは目を閉じて黙った。
『俺は一体何の為に…ここまで来たんだ』
カールヴラットの翡翠の目は涙で濡れていた。
首筋の金の髪は少しくせがあり、細い顎に掛かっている。
アヴァンクーザー神官の衣を着たカールヴラットは、どこかの国の貴族と思わせるような品位ある立ち姿であった。
だが彼は会議室から出た途端に、今までの疲労が噴出したようにやつれていた。
ジェゾルドは彼の肩にねぎらいの手を置こうとした。
…刹那であった。
肩を落として落胆していたカールヴラットは、胸の首飾りを握ったその一瞬にして別人のように変わって振り向いたのだった。
『俺の中にあるアストラルはサマルドゥーンを取り戻す為の鍵。自治都市の自由の象徴、希望だ。俺には彼らを見捨てる事なんて出来ない!』
『ではどうすればいいと言うのだ!この国はヴレードの手に落ちた自治都市の民を助ける気など無いのだぞ!』
『…約束したんだ。俺は一人でも行く』
強い意志をはらんだ濃い翠の瞳は理由無く自信に満ち溢れ、ジェゾルドは言い返すことが出来なかった。
カールヴラットの逞しい笑顔は高慢とも、力強いとも言えた。
彼の圧倒的な態度は不可能を可能にする期待すら感じさせるのだ。彼にはそう信じさせる何かがあった。
だからこそ、ジェゾルドは止める事が出来なかったのである。
「せっかく奴隷から解放されソリヴァーサに逃げられたというのに、わざわざ戻るなんて正気の沙汰ではないですね」
カイルがさらりと言った。
「お前は彼を突き動かしたものの存在を知らないだけだ」
ジェゾルドは一言そう言い、横目でカイルを睨んだ。
(突き動かしたもの…)
ラミィは母を、思い浮かべていた。
『あの人は来るわ。必ず…何があっても』
(必ず迎えに行くっていうそれだけの約束で?)
何度と無く母親から聞かされた、父との約束。
それを話す時の母親は少女に戻り、優しい笑みを浮かべていた。
 …この人は夢を見ている。
…皇后でありながらアヴァンクーザー神官の子を生み、帝を欺いた罪で処刑を待つだけの現実から逃れているだけだ。
幼いながらに、ラミィは思ったのだった。
あまりに哀れな母の姿が思い出され、ラミィは打ち消すように首を振った。
「私は神殿騎士を彼につけてやったのだが…ヴレードに戻った後どうなったか解らん」
「…じゃあ、父はアストラルを自分のものにした罪人というわけね」
いつの間にか道は舗装された道路に入って揺れが無くなっている。
日干し煉瓦の家が近くに見え、ラミィは動物を放牧している人を遠目に見ていた。
「無駄死にね…。約束を守っても、死んだら意味がない」
ラミィは目を細めた。
とらえどころの無い形をした雲が、下界へ下界へと降りてきている。天気が悪い方へと向かっていた。
「…知っているのか」
「ええ、二人はカールヴラットの弟子だったコイツの父親に、目の前で殺されたわ」
ラミィが首を後ろへ傾けてカイルを示した途端、ジェゾルドの顔色が青白く変化した。
「…アヴァンクーザーの神官に…」
 カールヴラットの弟子ならば、アヴァンクーザーの神官である。
仲間の神官が事もあろうに師を殺し、その裏切りを娘が目撃した。
「あれほどまでに正義を貫いた男が教え子の手にかかるなど…!」
…許されるはずが無い。
ジェゾルドは己の知らなかった事実に大きな衝撃を受けていた。
「どうかしましたか?顔色が悪いですよ」
カイルは得意げに声をかけたが、ジェゾルドは震えながら押し黙っていた。
「偽善者の塊よ。神官なんて」
追い討ちをかける様にラミィがジェゾルドにそう言うと、カイルが苦笑した。
「貴女の、その反発的な態度は私の父のせいですかねぇ…」
「うるさいわね!」
ラミィは噛み付くようにしてカイルに怒鳴った。
「あんたサウィーンの師でしょ。セイランの事で何か聞いていないの」
 ジェゾルドの懐旧談をさっさと終らせたいラミィは、話が途切れたのをいい事にさっそく話題を変えた。
「…妹サーラが自殺した後の、セイランの処遇についてかなり悩んでいたようだ。父親に心当たりがあると言って、私にセイランの修行の願いでを申し出た」
ジェゾルドの口調はゆっくりと、重たい。
尊敬の念さえ抱いていたカールヴラットの最後を知って、未だ心が穏やかでは無いのだ。
「…サウィーンは気づいていたのね…セイランがおかしいってこと」
ラミィはセイランが入っている棺おけに目を落として言った。
「おかしい?…何の話だ」
顔を上げたジェゾルドと、ラミィの視線がぶつかりあった。
(何も…知らない?セイランが本殿にいた時は何も起きていなかったのか?)
ラミィが言葉を選んでいるうちにジェゾルドは正気を取り戻したのか、身を乗り出して言った。
「何故セイランとサウィーンは…。一体何があった、ラミィ。何故奴らはヴレードへ運ぶ」
「レニー卿はここで降りてもらいますから、お気にせずに」
言葉を捜すラミィの代わりにカイルが言った。
 先頭の馬が止まって嘶くと、馬車を操作する兵士が轡を引いた。
荷台は急停止し、つかまる事が出来ない二人の囚人は横に倒れた。
「痛ッ…もう!」
頭を打った痛みに顔を歪ませながらラミィが目を開けると、門番二人が詰め所から出てきた。
話している間に城下町の入り口まで来ていたのだ。
大通りの門には門番の詰め所が左右にあり、中から数人出て来る。
「ご苦労様です、プロ・ヴァス様」
落とし格子が持ち上がった中には、金で装飾された銀色の馬車がすぐ前に待機していた。
その立派な造りはどう見ても貴族が乗るものだった。
(帝都の中では私の姿を見られたくないというわけね)
大通りの突き当たりには神殿があり、東西にも参道が走っていた。周辺には柱が何本も立つ建物があり、魔物の彫像が点在している。
帽子を被った一人のガランディウム神官が歩み出て、カイルに一礼した。
カイルは頷いて馬から降りると、ラミィに言った。
「貴女はここで乗り換えです」
「セイランはどうするつもり」
「この馬車に棺おけは積めませんからねぇ」
ラミィはヴレード兵士の肩に担がれ、窓付きの馬車の中に押し込められた。
カイルが馬から下りてラミィの後に続いて中に乗り込み、扉を閉めようとした時であった。
兵士に引き摺り下ろされるようにして連行されていくジェゾルドが声を張り上げて叫んだ。
「アストラルを託された意味をよく考えろ!」
「さようなら、レニー卿」
カイルは扉を閉めた。
(今までイヤと言うほど考えたわよ!)
動き出した馬車の窓から、ラミィは小さくなっていくジェゾルドの背中を見ていた。
数人のガランディウム神官の黒衣に囲まれ、ジェゾルドの着るアヴァンクーザーの白衣が見えなくなっていく。
(拷問で苦しむ前にさっさと殺される事を願ってるわ)
彼とはもう二度と会う事は無いだろうとラミィは思った。
セイランが乗ったままの荷台は、ジェゾルドが連行されて行った神殿の方へ動き出す。
そして、ラミィの乗る馬車はヴレード王城ヴロンズへと向かった。


 神殿区間を抜け半刻経つと、馬車は王城ヴロンズの城郭門を通っていた。
継ぎ目の見えない石造りがずっしりとヴレードの大地に構え、そびえ立っている。
平行に並んでひだのようになった灰色の雲が放射状に見え、豪壮な城を覆い隠すかのように集まってきていた。
「着きましたよ」
カイルは扉を開き、腰を屈めて降りた。
ラミィは縄を解かれ、両側に付き添った兵士に腕を抱えられながら階段を上っていった。
緩やかな階段の近くには兵士二人と、カイル以外は誰もいない。
ふと、逃げる事が出来るかもしれないという考えがラミィに浮かんだ。
(…駄目)
だが、ラミィはすぐにその考えを振り払った。
(セイランは何処に連れて行かれたか解らないし…)
長い間留守にしていた家に帰り、そこは庭のようなものである。
自分ひとりなら逃げ切れるような気がするものの、大きな荷物がある身では無理な気がした。
(まったく、何でこんな事になるのよ!)
心の中では悪態をつきながらも、ラミィは大人しく王宮の中を歩いていた。
人通りの多い広間は避けて細い通路を通っているせいか、王宮務めの者に会わない。ラミィは知った顔を見ないで済んだ事に胸を撫で下ろしながら最上階まで階段を上った後、左翼の渡り廊下に向かうカイルの後に続いた。
(何で後宮に)
 渡り廊下の壁には歴代の皇帝の肖像画が飾られている。絵の中の帝は皆自分を睨んでいるようで、ラミィは気が引き締まる思いだった。
その奥には後宮が広がっている事を、ラミィは知っていたのだ。
自分が生まれ育った場所であった。
美しい光沢を放つ布が柱と柱を繋ぐようにかけられ、回廊を吹き抜ける風に揺れている。
突き当りには天井まで届くくりぬかれた入り口があり、何十にも御簾がかけられていた。
その後宮入り口の前に、女性が二人立っていた。
「この先は我々には入れませんので、これにて」
先を歩いていたカイルが立ち止まり、ラミィの方へ振向いて言った。
二名のヴレード兵士はラミィから離れ、カイルの後をついて王宮の方へ戻っていく。
(どうしろっていうのよ)
「あ、ラミィさん、くれぐれも変な気は起こさないでくださいね」
ラミィが官女の前まで歩くと、カイルが背後から話しかけた。
「ここの官女は訓練された兵士でしょ。ここまで来たら逃げる気すら失せるわね」
縄を解かれて自由になったとはいえ、ラミィは後宮の官女達の肉付きが普通の宮仕えの女とは程遠いものに気付いていた。服から出ている肌には柔らかい肉の代わりに、筋と筋肉が浮き出ているのだ。
「さすが、五年も後宮で過ごされていただけにご理解が早い。ではまた、後程」
「ラミア・ティヴェル様、どうぞこちらへ」
御簾を端へ寄せて中へ招きながら、女官が言った。
「私の名前はラミィ・クォーレルよ。そんな名前で呼ばないで」
「…陛下にそうお呼びするようにと言われましたので」
「くだらない」
ラミィが足を踏み出すと彼女の後ろで御簾が降ろされた。
(この香り…あの人が好きな…)
 奥から風に乗ってくる香りに気付くと、ラミィの脳裏にある男の姿が過ぎった。
(もう皇女では無いのに、昔の名前で呼べと…あの人が?)
再び柱が立ち並ぶ回廊になり、ラミィは真っ直ぐ進んだ。
磨かれた床は鏡のようにラミィの姿を映している。
(確かここは…妾たちの部屋へ続く回廊の中心の部屋だ)
その広間からは四つの回廊が伸びており、ラミィは立ち止まった。
それぞれの回廊の先には皇帝の妾達の部屋が隣接しているのだ。
(何も変わってない…)
吹き抜けの天井から薄い布が何枚も垂れ下がり、その間から夕焼け色に染まる空が見えた。
沈む前の夕日は雨雲を燃えるように赤く染め上げ、広間を照らしていた。
部屋の中心の噴水から四方の壁に向かって水路の溝があり、絶え間なく清涼な水が流れている。
ラミィは噴水に近寄り、淵に手を掛けた。
(この傷)
自分が剣で縁に彫った悪戯がまだ残っていた。
込上げる懐かしさに、ラミィの固い表情は和らいでいく。
飲物を運ぶ官女が城左翼と後宮とを結ぶ回廊から歩いてくると、ラミィに一礼して西の回廊へ去って行った。
広くゆったりとした空間で流れる水の音は時間の感覚を無くし、ラミィを焦らせた。
花々のけだるい香りで鼻が麻痺し、体の動きが鈍くなってきている。
この香りは、いつもここで満ちているのだ。
…昔も、今も。
(しつこい香り)
逃れても逃れても後から追って絡み付いてくるような、甘い香り。
香炉を見つけたら叩き割って香りを止めてしまいたいとラミィは思った。
(未だにこの香りが好きなのね)
 ラミィが噴水に腰掛けた時、銀製の盆に何かを載せた女官が東の通路からやって来た。
「湯浴みのお支度が整ってございます。どうぞこちらへ」
「お風呂入れにここまでさらってきたわけ」
ラミィはすぐに立ち上がった。
ここに長居したくはなかったのだ。
「お疲れでしょう。汗をお流しになってくださいまし」
奥に進むにつれ、香りの密度が濃くなっていく。
その香りはラミィの神経を蝕み、警戒心を緩めていった。


 円形の浴槽の回りには湯気が立ちこめ、その熱気だけで汗が出てくる。
白い獣の形をした彫像の口から流れ落ちるお湯に当たっていたラミィは、湯船から半身を投げ出した。
「もう駄目、のぼせちゃう」
ラミィはふらふらと階段を上り、浴槽から出た。
その湯殿は大理石で組まれ、城の外に作られていた。
浴槽を囲むようにして柱が四つ立っているだけで、窓も覆いも無い。
日はすっかり沈み、暗い空に浮き出るような雲は白い。
石畳の端に立つと、下に城下町の明かりが広がっていた。
大小様々な形をした尖塔が立ち、ジェゾルドが連れて行かれたガランディウムの神殿も眺める事が出来た。
そして、その向こうにトゥーラの森が薄っすらと見えた。ネスの山々がその森の向こう側に見える。
(ソリヴァーサがあんなに遠い…)
湯気が風に乗って太陽が消えた空へ消えていく。
ラミィは大判の布で体を隠しながら涼しい風に当たって体を冷やしていた。
 この城からソリヴァーサへ逃げ、トゥーラでサウィーンに拾われてアヴァンクーザーの神殿に住み、自警団の一員として働いていた事など夢だったかのように、儚く思えた。
スクルドやテオフィロと過ごした時間など妄想で、昔からこのヴレードに自分がいる事が現実とさえ思えた。
何も、無かったのだと。
(アストラルは今こうして、私の中に在る。それは変わらない事実でしょ)
ラミィは己に言い聞かせた。
自分が求めているものがあまりに現実からかけ離れていたからであった。
「こんな所に私が帰ってきたら、それこそ無駄死にねお父さん」
彼が命を賭けて守ったのものは、再び元の鞘に戻っている。
果たして、彼が守りたかったものは何だったのか。
娘である自分と母親なのか、それとも命をかけて守り通したアストラルなのか。
彼の神官としての自尊心だったのか。
…ラミィには解らない。
だがカールヴラットの押し付けがましい思いは、ラミィから憎しみを抱くことへの罪悪感さえ奪っていた。
 濡れた髪が重たく、ラミィが布で水分を吸い取ろうとした時である。
「お待ちください!ラミア様はただ今湯浴み中で…」
部屋の外で控えている筈の官女達が慌ただしく動く音が聞こえた。
「構わぬ、そこをどけ」
有無を言わせぬ威厳を備えた低い声。
ラミィはその声を聞いただけで裸体のまま立ち尽くした。
香りが、近付いてきたのだ。
そして御簾がおもむろに跳ね除けられ、押し出しの良い美丈夫な蒼い髪の男が現れた。
「ラミィ…!どれ程待ち焦がれたか!」
「父上…!」
ラミィは思わず出た自分の声に、愕然とした。
(…私…)
濁った青色の衣の上を豪奢に飾る装飾品が輝いた。
 湯気が香りと混ざって妖しい蜃気楼のように立ちこめ、男の姿を一度かき消す。
(違う、この人は)
彼は煙の中を切るようにラミィの方へと歩き出した。
(私の父親じゃないでしょ…!)
後ずさりしたラミィの背中が柵に当たった。
もう後が無い。
「カイゼフ」
ラミィの唇が戦慄く。
その場から離れようと思っても、カイゼフは着実にラミィの元へ歩いてくる。
ラミィは震えていた。
己が取るであろう反応に、恐れおののいていた。
「…大きくなったな」
カイゼフはラミィから布を取ると、彼女の体についている雫をそっと拭いていく。
「や、やめてよ。もう子供じゃない、自分でやれる」
視線をそらし、ラミィは苦し紛れに言った。
カイゼフは熱い眼差しをラミィに注ぎながら、彼女の肩から布をかけた。
目元を緩ませ、没我の状態であった彼はラミィの濡れた髪を一房手に乗せて言った。
「隣室で待っている」
湯冷めした体は冷たいというのに、ラミィの顔は上気して火照っていた。
胸の高まりも一向に収まらない。
カイゼフは後ろ髪を惹かれる思いで彼女の髪を放し、御簾の向こうへと去って行った。
 終始ラミィは視線を彼に注ぐ事が出来なかった。
(こんな事で動揺してどうするのよ)
ラミィは体を拭き、衝立の陰にある台に用意された服を手に取った。
薄紅色の、長い衣であった。
カストヴァール大陸北部に位置するヴレードは、ソリヴァーサで秋の季節を迎える頃にはすでに冬なのだ。生地は厚めの物を使っていたが、ラミィにはどうみても薄いヒラヒラした布切れにしか見えなかった。
足を通すと涼しく、裾が絡み付いて歩きにくい。この状態で剣を振れば、通常動作の半分の俊敏さに落ちそうだった。
「髪を結い上げましょう」
女官が御簾の向こう側からそう言い、浴室に入って来た。
「失礼いたします」
女が衝立の中へ入ると、そこにはすでに着替えたラミィがいた。
先ほどまでの粗末な衣装から一転して、その変わりように女官は同じ少女とは思えずに息を呑んだ。
伏せた青い目は麗しく楚々として、哀愁に暮れる美姫がそこに立っていたのであった。
ヴレードの衣装に包まれたラミィは美しく、剣を振る攻撃的な少女には見えない。
「父が待ってる…早く結って」
「父…?は、はいただ今」
 かつて、ラミィはカイゼフの娘として育てられていた。
幼い日に受けたカイゼフからの愛情は、ラミィの決意を揺らがせるほど強いものであった。
そう、ラミィの口からつむぎ出されたカイゼフの呼び名。
それは彼女にとって父親はカイゼフだけであることを物語り、未だに慕っている想いの現われだった。
実の両親への憎しみとは反し、育ての父親ヴレード皇帝カイゼフに対して抱く想いは、限りなく恋に近い慕情であったのだ。
「父上…」
ラミィは支度を終え、カイゼフが待つ部屋の前に立った。


(私は死ぬ事さえ許されないのですか?)
 セイランはつぶやく。
漆黒の闇と同化していきながら、セイランは神へ尋ねた。
(生きて己の血に苦しめと…それとも、それと戦うようお望みですか、神よ)
彼は自分が今何処にいるのかさえ解らない。
暗闇の中にいる事に気づく前は、ネスの崖にいたのだ。
中空へ身を投げ出した後、自分は死んだ筈であった。
断ち切る筈の苦しみが、より抗え難い強大な力となってセイランを侵食していく。
気を緩めば、意識が無くなる。
一瞬たりとも気が抜けない己との戦いである。
脳内を電光が閃き、煮えたぎった血潮が全身を駆け巡っている。
何かが自分の中で変わろうとし、「外」へ出ようとしている。
脱ぎ捨てられた自分という殻は消し去られると解っていながら、セイランが引き止めるにはその力は強すぎた。
(ここはアストラルから遠い…)
光は、見えない。
セイランを幾度も闇から救い出したあの紅の光は何処にも見当たらない。
(ラミィさん…貴女は今何処にいますか)
相手が何者であろうと、立ち向かっていく勇気を秘めた青い瞳。
彼が意識を手放す瞬間に見えたものは自分と同じ孤独を背負って戦う、一人の少女の姿であった。
「これで駒はそろった」
 明かりの無い広間に、オメガの姿がぼんやりと現れた。
オメガがセイランの上に腰掛けると、銀の髪が彼にかかった。
儀式台の上に寝かされたセイランに目を落とす彼女は酔ったように恍惚の表情だ。
そして、眠り続ける男とオメガ以外誰もいないこの儀式の間で、一人つぶやく。
「後はアストラルをあの娘から取り出せば『運命の書』の軌道が修正される」
憂いがありながらも、冷酷無慈悲な微笑み。
それでいて、勝利を確信した者の強い口調だ。
舌なめずりするように、オメガは己の真っ赤な唇を舐めた。
体が疼き、王手をかける時を待ちきれないのだ。
「カールヴラット…お前が乱した軌道、娘の命で贖ってもらうぞ」

BackNext
Since 2003.03.01 Copyright TABERAH SHELAH/RAYGAH All Rights Reserved.