さしのべられた腕 〜神々の黄昏〜 第二部 2


 未だ騒ぎたてる民衆を外に残し、ため息をつきながら廊下を歩いている女神官にジェゾルドは足早に近寄った。
そして小声で話しかけると、女神官は掠れた声で力なく答えた。
「ローヴィッチ様をハダトへ入れた時の門番ですか…?あ、あそこに」
女神官は入り口近くに設けられた騎士達の詰め所の扉を指差した。
中にいる騎士は皆ジェゾルドと共に本殿からやって来た者である。部屋の外に立つ兵はこの神殿にもともといた騎士で、本殿の騎士より薄い甲冑を付けている。冑は被っておらず、槍を片手に扉の前に立っていた。
ジェゾルドはずかずかと前へ進んで、いかにも田舎臭い、赤毛で煤けた顔の鼻にそばかすのある騎士に言った。
「カイル・ローヴィッチと共に来た神殿騎士について聞きたいのだが」
唐突な質問に、頭を下げる事も忘れて騎士は答えた。
「え?ローヴィッチ殿はお一人でソル・ハダトへ来られたようでしたが」
「騎士を伴わずに来たのか?ではお前は僧衣を着ていたという理由だけで奴を中へいれたのか!」
鋭い指摘に、赤毛の騎士はおどおどしながら背中を丸めて小さくなった。
「い、いえ、神紋の付いた文書を自分にお見せになったので本殿からの使者かと…」
「そうか…解った」
詰め寄ったわりにはあっさりとした返事をしただけで、ジェゾルドは下がった。
そして何事かと二人のやり取りを見ていた女神官の前を通り、彼は書庫のある方へと廊下を進んだ。
 柱の間から光が差し込み、ジェゾルドの金髪に混じった何本かの白髪を際立たせる。
額を瘤のように隆起させて顔をしかめ、物思いにふけっている間に彼は書庫に付いていた。
丁度ジェゾルドが扉を開けようとした時に、背後の角を曲がってカイルが現れた。
「遅くなりました!」
明朗な声に、ジェゾルドは一層顔をしかめる。
だがカイルは臆する事無く相変わらず愛想の良い笑みを浮かべ、ジェゾルドは無視するように扉を開けた。
 その書庫はサウィーン専用として使われ、他の神官達は立ち入りを禁じられている司祭長用の私室も兼ねていた。
入って正面の壁に窓があり、その前に飴色の木材で作られた机が置いてある。
皿に溶けきった蝋、開かれたままの本に二冊重なって置かれた本。何かを書き止めていたのか、固まった墨が入っている小皿に置かれた羽根付きのペン。
持ち主は少々この席を離れただけで、用事を済ませてまた部屋に戻って来るような雰囲気があった。
(サウィーン…)
修行の合間を縫って熱心に本を読んでいたサウィーンの姿を思い出して、ジェゾルドは懐かしさを覚える。
彼の固く結ばれた口元がほころんだ。
「…入らないんですか?」
 カイルの高い声を聞いて、ようやくジェゾルドは足を踏み入れた。
「さて、ローヴィッチ。私には選ぶ権利がある。秘書として使えるか簡単な試験を行なうつもりだが、いいな」
ジェゾルドは中に入りながらそう言い、選択の余地を与えない文句にカイルは言葉を詰まらせた。
「…試験、ですか?」
ローヴィッチは窓を覆っていたヴェールを端へ寄せて部屋の中へ光を入れた。
硝子を透過して、昼間の太陽が絨毯に木枠の影を作る。窓辺に立つカイルの影がそれに被さった。
「噂どおり手厳しいですねレニー卿」
彼は口元だけ動かしてそう言ったが、口角が嫌味な程上に釣り上がっていた。
ジェゾルドは四方の壁に沿って立っている本棚の前に置かれた、四客の長椅子の一つに座る。
彼は足を組み、椅子に座るよう顎でカイルに促した。
それでカイルは一礼してから、ジェゾルドの真向かいの椅子に腰を下ろした。
「私は半年ほど前にこの衣を通す事を許されたばかりの新米ですので、ご指導の程よろしくお願いします」
深々と頭を下げるカイルを黙視しながら、ジェゾルドは腕を組んだ。
窓の外に木が立っているのか、葉が揺れて硝子を何度も擦る。
「修行には聖典の暗唱が必須だった筈だ。出来るな」
「…暗唱…ですか?」
頭を上げながら目を丸くしたカイルに、ジェゾルドは上から鋭い視線を送った。
「出来ないのか?」
脅しともとれる口調である。
カイルは身構えるように足を揃えて座り、膝の上で手を組んだ。
「いえ、では第一章から」
カイルの顔は急に大人びて、真っ直ぐジェゾルドを見るその視線は反抗するかのように、力強い。
その夜、書庫に明かりが灯されても明け方まで消える事は無かった。


 鳥のさえずりが澄んだ空気に溶け合っている。
薄暗い聖堂から出てきたばかりで、ラミィは柱の間から差し込む朝日が眩しくて目を開けられない。
彼女は何度もまばたきして自然の照明に慣れようとしていた。
(今日も起きる気配無しか)
朝方は冷え、肩が出る服では日中も肌寒い。
ラミィは袖の付いた青い貫頭衣を着て、太股までの長い丈を革のベルトで締めている。もちろん剣を下げる事は忘れない。裾と袖に施された唐草模様の刺繍は、サウィーンが縫ってくれたものだった。
(今朝はずいぶんと静かね)
 ジェゾルドが来た次の日だというのに、サウィーンがいた頃と同じような日常が戻ってきているようにも感じる。
神官達はくだらない立ち話をしていたり、歩きながら読み物にふけっていた。
ただ、レニーという新任の司祭長が本殿から連れてきた神殿騎士の姿が目立った。
彼らの洗練された身のこなしと礼儀正しさはこの田舎の神殿には不似合いで、ラミィの気に障った。
ラミィは彼らの間を無言ですり抜け、参道を警備している顔見知りの神殿騎士に話しかけた。
「皆落ち着いたみたいね」
「さすがはレニー卿。不安な民衆の心を今朝の礼拝でお慰めいたしたようですぞ」
使い古したような光沢の無くなった白い鎧を装着している騎士は、相棒と交わらせていた槍を引っ込めてラミィを通した。
(へぇ、あんなに皆騒いでいたのに…どういう説教したんだろ。礼拝の時間にもセイランあそこに置きっぱなしだったみたいだし…なんて説明したんだか)
眠りが深かったのか、ラミィが早朝の説教で起床する事は無かった。
神殿責任者の死、そして聖女の息子までも眠ったまま目を覚まさない。
魔族の出現と結界が破れつつあるというこの状況下で、ソル・ハダトの市民をどうやって黙らせたのか少なからずラミィには興味があった。
「サウィーンの代わりになれるといいけどね」
ラミィは階段を下りながら振り向かずに手を振った。
 参道を歩きながら、ラミィは神の像を見上げていた。
女神は憂いを帯びて、もの悲しげな視線をラミィに送っている。
人の心の状態一つで神の像はこんなにも表情を変えるのかと思いながら、ラミィは視線を石畳へ戻した。
国境警備兵の詰め所に代わった事務所の裏手に回り、ラミィは胸元から小さく折りたたまれた紙を取り出した。
今朝ラミィが自室の水盤で顔を洗っていた時にふと扉の下の隙間に目が行き、親指一本分位の床との隙間にこの小さく折りたたまれた白い紙が入り込んでいたのだ。
倉庫前のたき火の前で、ラミィは紙を広げた。
『レニー様が私を疑っています。時間が有りません。今夜月が天頂に達した頃出発しますので、トゥーラ広場の奥で待っていてください。セイラン様は私が運びます』
名前は無い。だが議会から密命を帯びたというカイル・ローヴィッチの手紙であることは明確だった。
(ジェゾルド・レニー…)
彼の鋭い眼光は全て見透かすようで、やましい事が一つでも心にある者には痛烈に感じるであろう。
ラミィはその紙を焚き火の中に投げ入れ、火の粉が上昇して紙がしっかり燃え尽きるまで見届けた。
 倉庫の角からラミィが姿を現すと、苔が生えている山の斜面の下にいたテオフィロが声をかけた。
「ラミィ」
テオフィロは沢山の土饅頭の上に一つ一つ剣を差している途中であった。
肩までの黒髪は首に張り付いて、布の額当ては汗を吸ったせいで色が濃くなっていた。
「テオフィロ…」
何の作業であるのか悟ったラミィは声の調子を落とす。
草の上にはラミィがテオフィロの配下に配った剣が置かれていたのだ。
「墓標代わりに?」
「…ああ。もう、誰が誰だか解らんがな」
テオフィロは視線を湿った盛り土に落として言った。
その下には焼け焦げた骨が埋まっている。顔などは判別付くわけも無い。
それでもザスクカッツの一撃で命を落とした団員の骨をかき集めたテオフィロは、同じ人数分の剣をも拾って帰ったのだ。
刃の部分が溶解していたり湾曲している剣は魔人の起こした炎の凄まじさを物語っていた。
 ラミィはしばらくテオフィロの作業を無言のままで見ていたが、一番手前にある盛り土が横長に一番大きい事に気づいた。
その隣にそれより小さい小山もあり、剣の代わりに小さな白い花が添えられていた。
生前クレアが好きだった花であった。
小粒の清楚な花はクレアを彷彿とさせ、ラミィは唇を噛んだ。
小鳥のような愛らしさを持ち姉のように慕ってくれた彼女が、今や肉の塊だけの姿となってこの土の下に眠っているとは信じがたく、想像するに耐えない。
「町の外れにある墓場の役人も逃げ出して受理して貰えなかった。こんな所に埋められるのは可哀想かもしれんが…」
テオフィロは釣りあがった翠の目をいっそうきつくしながら、花の隣に彼女の兄の剣を刺した。
「二人きりの兄弟だし…離れない方がいい」
そう言って、ラミィは墓碑の前に両膝を付いた。
(スクルド…)
自分の部下が持っていた全ての剣を刺し終えたテオフィロは手袋を外して放り投げた。
そして顔に土を着けたままラミィの横に立つ。
 乾いた風が、墓と二人の間を吹きぬけた。
水分を失って木から落ちた葉が足下を通り過ぎていく。
(私のせいだ…こんな力を持っていながら誰も助けられなかった)
黙ってスクルドの墓を見つめているラミィの目は殺伐として、それを隠すように髪が広がって顔を覆った。
「自分を責めるな」
テオフィロはラミィの肩に手を置いたが、うつむいたままラミィは返事をしない。
「お前にどんな力があろうとスクルドがした事は同じだ」
凛然と言い放たれた言葉は確信に満ちて力強い。ラミィはようやく視線をテオフィロへ向けた。
「ラミィ」
精彩の無いラミィの顔付きを見て、テオフィロは暫し言葉を続ける事が出来なくなった。
 二人はラミィがソリヴァーサに来て以来からの幼なじみとも言える。
スクルドが町に帰ってくる以前から、テオフィロはラミィと一緒に時間を過ごしてきたのだ。
そして、スクルドとは別の方法で彼女を見守ってきた。
ラミィは同じ年頃の娘達とは違って母親の家事や畑仕事を手伝うことも無く、一日中剣を振り回している気丈な少女であった。
だから彼女は過去を振り返らずに前に走る事しか知らないとさえテオフィロは思っていた。
だが、今の彼女は当惑顔だ。
 テオフィロは息を吸い込んで、逞しい胸板を膨らませた。
かつては並んでいた背丈が今では頭一つ分差を付けた頭上から、テオフィロは笑みを浮かべた。
「あの力を持っていなくても、な」
「…テオフィロ…」
(何があってもあんたはいつも何も聞かないね…)
ラミィが発するアストラルを目の当たりにしながら、テオフィロは彼女を助ける為にネスへ戻った。
心を込めて、その感謝を表す方法をラミィは知らない。
彼女は失って初めて、自分が温かい人々に囲まれて育ったかを知った。
サウィーン、スクルド、クレア。そして灰となって消えた仲間達。
さしのべられていた手を掴まずに、黙殺していた自分がどれだけ愚かで、幼かったか。
彼女は己の憎悪に立ち向かわずに、ただ彼らとの共存生活の消失を恐れ続けていた薄情者にすぎない。
(あんたが言いかけた言葉…忘れないよ)
人を避ける事で過去を封印し、己を守ってきたラミィはようやくスクルドが最期に言いかけた言葉を受け入れた。
アストラルではなく、ラミィ自身を必要とするその言葉を。
 嬉しさがこみ上げる一方で、どんな表情をしてみせればいいのか解らずラミィは顔を曇らせる。
テオフィロは一目見れば心を捕らえる涼しい目元を持った凛乎たる姿勢の青年であり、向き合うには恥じらいを捨てねばならなかった。
戸惑いを隠しながらラミィは立ち上がり、上司であり兄とも呼べる存在を見つめた。
テオフィロは頼もしい笑みをしながらしっかりとラミィの肩を抱き、二人は墓を見た。
「お前は先に進む事だけを考えればいい」
「…ありがとう、テオフィロ」
ラミィはテオフィロの手からすり抜けて、彼の正面に立った。
「私、本殿へ行ってアストラルを返して来る」
「…そうか」
「こんな大変な時に出て行くなんて卑怯かもしれない。でも、アストラルが無くなってもここへ帰ってきて皆と一緒に戦う」
テオフィロは無言で頷いた。
不抜の意志を見せる、惹かれてやまない蒼い瞳を見ながら。
「このままじゃ何も変わらないから」
ラミィはそう言うと、ふっ切れたかのように小走りしながら神殿の方へ戻って行った。
その後姿を目で追いながら、テオフィロはスクルドの剣の柄を掴んだ。
「正直、お前が羨ましい…スクルド」
目頭が熱くなり、テオフィロはこらえた。
「盾になってでもラミィの役に立てたんだからな…」
テオフィロは目元を手で覆った。
(あいつを失うこと以外何も恐れる事は無い…だが、俺があいつの重荷になるわけにはいかないだろ)
 ラミィが掴むべきものの為に、テオフィロは共に行く事は出来ない。
彼女自らの手で得るべきであって、手を貸すべきでは無いのだと。
…テオフィロは己にそう言い聞かせる。
彼は自分の背負った業に押しつぶされそうな少女に、他人の命まで背負う枷を嵌める事だけはしたくなかった。
少女は大人へと近付き、己の手で進むべき道を切り開こうとしていた。
共に過ごした日は帰らず、ラミィも彼の元から去った。
テオフィロに許された唯一の行動、それは彼女が帰る場所を守る事だけであった…。



 月が中天に上り詰め、雲のない夜空に沈黙の光を放っている。
ぼんやりと照らし出されているネスの頂を、ラミィはトゥーラ樹林の間から半分欠けた月の下に見ていた。
「遅いわね…」
ラミィは皮の背嚢を草の上に置いた。自警団にいた時に使っていた外套が袋からはみ出している。
(特に持って行かなきゃいけない物は無いと思うけど…)
麻の小袋に入った数枚の金貨、火打石と干し肉。そして竹の筒に入れた酒と剣についた血をふき取る紙。
自分に必要不可欠な物は入れてあるつもりであった。だがソル・ハダトに居ついて以来ここを出るのは初めてで、実の所、彼女は何を用意すれば良いのか解らなかった。
もともと見た目にこだわらない為、装身具も持っていない。髪は手ぐしで整え、櫛も持っていないくらいだ。
(まぁ、いいか。剣と金さえあれば王都へ行っても何とかなる)
ラミィは背嚢をしばらく見ていたが、考えるのをやめて周囲を見回すことにした。
 虫の声に加え、遠くで魔獣の不気味な遠吠えが聞こえた。
(ここに長居出来ないってのに)
魔族は斬れても人は剣で口を塞ぐ事が出来ない。
神殿を守る騎士の巡回経路と頻度は把握していても、新しく配置された国境警備兵の動きはラミィには解らないのだ。
魔族の出現には対応できるよう柄に手を掛けたまま木に寄り、彼女は見つかった時の為に言い訳を考えていた。
やがて町の方から馬の蹄の音と車輪の音が聞こえ、ラミィは馬上にカイルの姿を見出した。
「遅いわよ!」
「す、すみません、遅くなりました」
町で手に入れたのか、馬に荷台が繋がれていた。
 ラミィが荷台に目をやった途端、彼女は脱力して深いため息をついた。
黒く塗られた木製の棺おけが横たわっていたのだ。
側面に幾つかの穴が空けられており、ラミィが身を乗り出して穴から中を覗くと僧衣と手が見えた。
「ちょっと、縁起でもない!」
「これでも周囲をごまかすの大変だったんですよ。さぁ、乗ってください」
ラミィが荷台の縁に手を掛けてよじ登ろうとした時である。
「待て!」
カイルがやって来た方向から呼び止める者があり、その者は太い幹の影から姿を現した。
「あんた…」
ラミィが足を下ろして振り返ると、そこには憮然としたジェゾルドが立っていた。
「…そういうことか」
彼は目を細め、カイルを睨む。
「騙されたようだな、ラミィ・クォーレル。こいつはお前を本殿へは連れて行かぬぞ」
背後のカイルが舌打ちするのを聞いて、ラミィは訝しげに振り返った。
「カイル?」
「やはり誤魔化せませんでしたか」
温和な表情のまま、カイルは肩の力を抜いてため息をもらした。
「ガランディウムに属する者にしてはよく聖典を暗唱したものだな。だがな、修行の必須項目は聖典の暗唱ではなく、判読書の暗唱だ」
「…己の思うままに聖典を解読しないように先に判読書を叩き込む修行でしたか。新米と名乗ったのが仇になったようですね」
棘のある言い合いをする二人の間に立ちながら、ラミィは交互に顔を見ていた。
二人の会話に入り込む事が出来ず、ただそこに立って内容を整理するだけで一杯だった。
 ジェゾルドが手を上げると、茂みの中と暗がりから一斉に国境警備兵が十名ほど現れた。手には剣を握り、カイルを威圧する。
「今や神官は騎士を伴えねば神殿から出られぬ掟だ。調べが足りなかったな」
「最高議会の老人どもは頭が固いかと思ってましたが、アストラルの力が失われつつある事には敏感な対処したんですねぇ。これは意外でした」
カイルのふざけた調子に、今すぐにでも切りかかってやりたい気持ちを抑えてラミィはゆっくりと剣を抜いた。
「あんた何者」
ラミィはカイルに剣を向けながらジェゾルドの方へ後退する。そして国境警備兵が構える所で止まった。
遅疑するラミィに向かって、カイルはおもむろに外套を片手で脱いだ。
神聖さを表す純白の外套の下から現れたのは、体に密着した光沢ある黒い神官衣であった。
「私の本名はカイル・プロ・ヴァス。貴方のお父上を殺しながらも貴女をソリヴァーサへ逃したセリウスの息子ですよ、ラミィさん」
兵に囲まれながらも、不敵とも見える余裕の笑みはまだ消えていなかった。
「…なっ!」
ラミィの頭の中は真っ白になり、思考する前に体が動く。
彼女が振り上げた剣を止めたのは近くにいた兵士であった。
「奴を拘束しろ!」
ジェゾルドが手を振り下げると兵士は一斉に動いた。
ラミィは彼らに任せようと剣を納めると、それを待っていた兵が彼女の両腕を掴んで後ろへ回した。
「痛ッ」
国境警備兵は、ジェゾルドとラミィを拘束した。
「お前達何を」
背後から羽交い絞めにされたジェゾルドが叫んだ。
「何やってんのッ!?捕まえるのはこいつでしょっ」
何を血迷ったのかとラミィは兵に怒鳴る。
だが彼らの顔は真顔であった。
 剣をベルトから取り上げられ、ラミィは蹴り上げて暴れるが二名の兵士が彼女の腕を付かんで草の上に組み伏せた。
「こんのぉ…ッ!」
ラミィが兵士の手を振り払おうと全身に力を込めて顔を上げた時、カイルの足元が目の前に迫った。
楽しくてたまらないといった表情で彼はラミィを見下ろし、蔑んで笑っていた。
もはや少年の顔ではなかった。
「彼らは私と一緒にソリヴァーサへ入ったヴレード兵士ですよ。こちらへ向かっていた国境警備兵は我々が討ち取りました」
純粋な笑顔を作っていたとは思えないほどの悪意に満ちた顔であった。計略が成功した喜びでほくそえんでいる。
ジェゾルドは兵士に両膝の裏を蹴られ、顔を地面に打って崩れても冷静さを保っていた。
「やれやれ、大掛かりな仮装大会でした」
 カイルが荷台に上がると、セイランが入っている棺おけの上に腰掛けた。
「放せっ!!セイランをどうする?!こいつは…」
「アストラルの力をお使いにならなければ貴女もただの女の子ですねぇ。魔人の心配などせずにご自分の心配をされては?」
ラミィは歯を食いしばった。丸腰となっていても、どうにかして今すぐにカイルを殺したい衝動に駆られていた。
だが彼女を押さえ込む力は強く、もがくと関節が外れそうになって痛む。
カイルは足を組み、静かに言った。
「レニー卿にも一緒に来ていただきますよ。ラミィさんの生まれ故郷ヴレード帝国へ」
その言葉に、ラミィは脱力した。
 皮肉にも、過去を振り切って前進の決意を固めた矢先に彼女は悪夢へと呼び戻された。
父と母が殺され命からがら逃げ出した、国。
そして、苦しみと憎しみが始まった土地。
(…ヴレードへ…)
ラミィは唇を震わせて青ざめた…。


 彼がふくよかな感触を堪能したい時に彼女の臀部を揉む理由は、胸の膨らみがそれほど大きくは無いからだ。
閉じたままの瞳は幼子の寝顔のようで、肉体は淫靡な大人の動きをする。それに加え、しろがねの髪は月の光に共鳴するかのごとく輝き、言いようのない神秘をかもし出していた。
彼女を抱く時は、まるで美しい少女を犯しているようにも思えるのだった。
そう、本能を満足させるのには、彼女で事足りるのだ。
だがこの女では、愛する者を腕に抱いた時のような胸震える喜びは決して手に入らない。
それでも彼女が上に重なる時は、その妖しいまでの美しさに我を忘れ、狂ったようにその大きな手で形の良い尻を力強く握る。
そんな時、彼女も男の胸に置いた指を立て、肌を爪で引っかいて一層激しく腰を動かすのが常であった。
小柄な体が仰け反って動きが止まった。
女は男に跨って目を閉じたまま、動きを静止したのだ。
「…じらしているつもりか、オメガ」
 男が息を荒くさせながら上半身を起こして嘲笑をオメガに向けると、ようやく気が付いたかのように彼女は目を開けた。
オメガはゆっくりと体を起こした。
長い睫に縁取られた金色の目は瞳孔が大きく開く。
オメガが交わりの最中にも術を使い、ソリヴァーサに潜入した間者へ意識を飛ばしていた事を知った男の性欲は萎えていった。
「ふふ…カイゼフよ、どうやらあの小僧はうまくやったようだ」
オメガはそう言うと、カイゼフから降りて乱れた上掛けの上に座った。
「…お前の言う魔人の話か?」
カイゼフの首筋から、汗が胸まで筋を作って垂れる。胸元は汗ばんで濡れていた。
彼の青い髪は湿って重たく、前髪を掻き揚げながら息を短く。
オメガは何事も無かったかのように汗一つかいていない。肌に赤みも無く白いままであった。
後を追うように続きを促して、カイゼフは露になっているオメガの胸を触った。
人肌とは思えない鋼の冷たさである。だが火照った男の体にはその冷たさが心地良かった。
「我々にその魔人の力を使いこなす事が出来るのか」
オメガは背後から抱擁するカイゼフに寄りかかった。
「わらわの力をお疑いか?カイゼフ皇帝。あの男から引きずり出したアストラルを再び結晶化させたわらわの力を」
美しい曲線を描くオメガのうなじに這わせていたカイゼフの唇が止まった。
「お前はやはり…」
ただの魔術師ではない。
カイゼフはその言葉を飲み込んで灰色の目を艶麗な彼女の横顔に注いだ。
 オメガが寝台を降りて窓辺に立つと、誘われたように夜風が入り込んで天蓋の御簾を揺らした。
裸体に、長い髪が衣のように纏わりいていく。
「わらわは古の契約に基づき、ヴレード建国以来七百年にわたって皇帝に御仕えするただの魔術師。そなたの代にてようやく神から承った使命に手を付けることが出来る」
喜びを隠しもせずに、恍惚とした妖艶な笑み。
月明かりに照らされながら、オメガは待ちわびた日の到来をその目に映した。
「そなたの国は暗黒の中で繁栄し、我が神が求めた答えをわらわは得るだろう」
オメガは月光より輝く金の瞳を細めた。
「相反する二つの力をもってな」
カイゼフは上掛けに下半身を滑り込ませ、寝台に方膝を立てて座った。
彼は手を伸ばし、大理石の台に置かれた杯を手に取る。
「あのアストラルだけでは力不足だ」
柄の付いた銀の杯の中で、どろりとした赤い酒が揺れた。
「我らの手にあるものはほんの一欠片。ゆくゆくは世界のアストラルを集めねばならぬ。その手始めにサマルドゥーンのアストラルを完全な形に戻す」
「まさか…見つけたのか?!」
取り乱すカイゼフを、オメガは優しく微笑んだ。
「時は成った。わらわがあの娘を戻してやろう」
オメガは血色の唇を近付け、カイゼフの耳元で囁いて息を吹きかける。
すらりとした片足を彼の腰へ引っ掛け、体を密着させた。
だが、彼の視線は何も無い壁へと向けられたまま、押し黙っていた。
オメガはもはや何の反応も示さないカイゼフに向かって言った。
「ふ…これは笑止…。ヴレード皇帝ともあろう方が過去の女に縛りつけられておるわ」
そして息を吸い込み、空気を体に取り込みながらそれと一体となって、姿を消していった。
 突然姿を消したオメガに別段気を止める事なく、カイゼフはグラスを強く握っている。
一人部屋に残されたカイゼフの肌を、風にゆれる御簾がかすめた。
(戻って来い…)
やがて彼の唇は愛しき者の名を紡ぐ。
「戻って来い、ラミィ」

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