さしのべられた腕 〜神々の黄昏〜 第二部 2

《異族間結合》
人と魔族とは相容れない
人は皆生まれながらにして聖神アヴァンクーザーの子であり
魔族は皆生まれながらにして邪神ガランディウムの子だからである
異族間交配後の人間には理性維持が難しく
心身共に異族化することが多い
その悲劇はアヴァンの子の運命を狂わし
邪神の子への変化を促すのだ
よって、血が異なる結合は忌むべき事とされ
これは第三巻中絶対的な掟である
〔聖典アヴェル・ロード判読書第三巻・二章一節〕




 魔である自分にさしのべられた、か弱き女の細い腕。
僧衣を全て脱ぎ捨て、サーラはアントラージェに手を差し伸べた。
彼女の瞳に恐れの色は無く、哀れみもない。
黒衣の男ただ一人をその瞳に映していた。
(軌道は最初からそれていた…お前が俺を寝台へ誘った時から…)
「…北部監視者、アントラージェ」
己が主の声にアントラージェは回想を中断した。
 彼が傅く場所は果て無き空間であり、様々な色に移り変わる模様があった。
その中心にあるどす黒い裂け目から若い男の声が響いてくる。
喉の発音器官が震えて直接聞こえるものではなく、何か膜を通して発せられているような篭った悪声である。
向こう側の世界、すなわち神の領域から聞こえてくるこの声こそが、アヴァンクーザーに対立するガランディウム神の唯一の顕現であった。
「それで、お前の息子はアヴァンクーザー側の中にいるのか」
「はい。サウィーンが死に際に眠りの精霊イュを召喚し、息子の魔に属する部分を眠らせた為に正気に戻り崖から身を投げて自害。肉体は彼らの元にあります」
アントラージェは思考を現実に馴染ませる為に順序良く報告した。
「まさかお前の部下にも計画を狂わせられるとは思ってはいなかった」
声色に落胆は無く、アントラージェには含み笑いさえあるように感じた。
 人間じみた、話し口調と言い回し。
神との対話だというのに厳かな雰囲気など無く、むしろアントラージェには青臭い青年のような声になったり低いだみ声になったりするガランディウム神の声が不愉快であった。
子守のようにアストラルだけ授け、声すら聞かせないアヴァンクーザーの方が神々しいと思えるほどだ。
「申し訳有りません…。ザスクカッツは私の忠実な部下。僭越ながら、息子を想う私の気持ちに拉致をもくろんだようです」
「上手くいったのはアヴァンの聖女にお前の子を妊娠させる最初の計画だけというわけか」
からかうように、ガランディウムは言う。
声は細波のように広がり、幾何学的な文様を作りながら風景を変えていった。
「十二年前オメガの失敗により本計画にアストラルが関与し、運命の書の筋書きを大きくそれた…今更どう狂おうともう俺は構わん。結末さえ同じならな」
アントラージェは顔を下に向けたまま眼だけでガランディウムを伺っていた。
神の計画、そしてその結末が一体何かを探る為に。
だが相変わらずこの世と神がおわす場所との狭間の奥には虚空が広がっているだけで、ガランディウムの姿すら見えない。
「オメガはあの娘を仕損じ、軌道を修正させようとして躍起になっている。お前までヤツラのように遺伝子の本能を裏切ってくれるなよ、アントラージェ」
神は語尾を強めて念を押した。
 ガランディウムの用いる語句は魔族にとって難解であった。
運命の書、そして遺伝子という言葉が何を示すのかさえ知らない。
人類に対する神々の計画さえ、だ。
それでも彼らは父親に従わずにはいられない。アントラージェも例外ではなかった。
主の期待通りの働きを見せなかった仲間達が、目の前で瞬時に消し炭にされるのはよくある光景なのだ。
「御意に…ガランディウム様」
彼はそう言うと立ち上がり、一礼してから姿を消した。
 移動した場所は息子が安置されている神殿の上空であった。
彼はすじ雲に姿を隠しながら下を覗き込むが、刷毛ではいたような薄い雲では黒衣が透けている。
(私が変わり行く事も…ガランディウム様のお考えになった予定の一つなのだろうか)
異族間結合の副作用は魔にもあった。
アントラージェ自身がアヴァンクーザーの聖典の記述に偽りが無い事の証明である。
肉体と精神が結合によって塗り替えられる事が人類を作り出した神々の取り決めならば、ガランディウム神が知らないはずは無かった。
では何故、自分にそうさせたのか。
彼には解らない。
(皆、神々の手の内に踊らされているのか?それとも…)
 神殿の参道が町民によって埋め尽くされていた。
人々は神殿の入り口に立つ女性神官に群がり、懇願するように何かを叫んでいる。
(答を求めているのはアヴァンの子等も同じか…)
アントラージェは篤実さを示す柔らかな笑みを浮かべる。
その表情は魔には無い、人間が誇るべき感情が表れていた。


 澄み切った青い空に、流れるような白い巻雲。
朝の冷え込みと共に、それは秋の訪れを感じさせる。
だがその青天井の下では人々の悲痛な叫びが篠突く雨のように神殿を覆っていた。
「セイラン様が生きているって本当なのか?!」
「魔族にやられたって聞いたぞ!」
「うちの息子が魔族に…!」
彼らの怒号が、立ち並ぶ柱の間を通って神殿の中にこだまする。
平和の象徴であった参道前の神の像は人々の厭世観にまみれて笑みを失っているようにも見えた。
「どうかセイラン様に会わせてくれ!」
「サウィーン様のお骨に触れさせておくれ…!」
口々にそう叫ぶ町民の前に立つ女神官は眉間に皺を寄せ、両手を胸の所で合わせて静かに言い放つ。
「皆様御引き取りください。ここは聖所。騒がしくしてはなりません」
女神官は聞く耳を持たない民を哀れに思いながら、太陽が昇りきらない時間からずっとそう言い続けていた。
彼らは身に迫った危機に喚き散らし、一心不乱にすがっている。
皆、アストラルに祈りを捧げなければ心を安定できないのだ。
「アストラルの拝謁を!」
「神に祈りを!!」
「本殿から後任の者が到着するまではしばらく聖堂は解放いたしませぬ!」
深いため息の後で、女神官は強く言い放った。
 いつ押し入るやも知れぬ人々の前で、二人の神殿騎士が槍を交差させて通路を塞ぐ。
だが叫びはやまず、神殿の奥、聖堂まで届いていた。
「うるさいな…」
鬱陶しそうに、少女はつぶやいた。
目の前のアストラルは何の反応も見せないというのに、早朝からその叫びは途絶える事が無いのだ。
薄暗い聖堂の天井近くの窓から朝日が差し込んで、金髪が照らされた。
柱に据え付けられている紙燭の火が揺れて、磨かれた床に彼女の影を動かす。
彼女は悄然としてアストラルの前に置かれた大理石の寝台に横たわるセイランを見ていた。
「本当に眠っているみたい」
セイランは手を胸元で組み、長い黒髪を床まで垂らしたまま寝ている。
顔に生気は無いが、黒髪が見事な艶を見せていた。
 彼がここに運び込まれてから一ヶ月の間に国は魔族に対して強く身構えた。
ソル・ハダトの町は厳戒態勢だ。今やソリヴァーサ内の何処の町でも警備が強化されている。
ハダトの自警団員からもたらされた情報によって魔族の出現を知った国軍は、国境警備隊を派遣した。
素人の集団である自警団は解散され、有志のみが兵士と行動を共にしている。
だが回りがどんなに変化しようと、渦中のセイランは未だに目を覚まさないでいた。
(あの高さから落ちたというのに骨も折れてないし…呼吸もしてる。私の方がよっぽど重症じゃないの!)
ラミィは自分の腕をさすった。
 スクルドの亡骸を町まで運んだテオフィロはすぐにネスへ引き返し、気を失ったラミィを神殿まで抱いて帰った。
ザスクカッツが待ち受けていると知りながらもテオフィロは決死の覚悟でラミィの元へ戻ったのだ。
そのおかげでラミィは魔獣に食い荒らされずに済み、命拾いした。
だがザスクカッツに踏まれた腕に力を入れると肩の方まで痛みがひびく。
太腿と肩の傷は肌がひきつれて残っていた。どちらも彼女が動く度に服から見え隠れする。
(聖女サーラの息子ね…セイランにすがっても仕方ないか)
 町民の声はセイランの名を叫んでいた。
ラミィには滑稽としか思えず、思わず噴出す。
(魔族だなんて言ったら起きる前に殺すでしょうね)
ラミィは悪戯をしている子供のように笑いながら、セイランの閉じられた瞼にかかっている前髪をやさしく除けた。
「このまま負け犬で終るつもり?」
ラミィはセイランに語りかける。
サウィーンの遺言そのままに、ラミィはセイランに罪は無いと思っていた。
それ故ラミィはセイランの素性を神官達に話さなかったのだ。
彼女が怒りを感じる相手は別にいるのだ。
(何が、聖女よ)
 血と肉の交わりは双方に精神的苦痛をもたらし、肉体にも変化を促す。
幼い頃から、ラミィは聖堂から聞こえてくるサウィーンの説教を子守唄のように聞いていた。
アヴェル・ロード半読書の内容、それがまだ脳裏に残っていたのだ。
聖女サーラは魔に変わりはてたのか、それとも人であるうちに死したのか。
どちらにしろ壮絶な最期であったに違いなかった。姉として、サウィーンはそれを見届けたに違いない。
「あんたも、大層な事を隠してたのね」
ラミィは灰となってアストラルを見守る司祭長たちの中に加わったサウィーンに言った。
セイランが神官としての道を歩み、忠実に神に従い続けた理由も今となってはラミィにさえ理解できる。
救いは無いと悟り、彼は人間として生き続ける事を望んだまま崖から身を投げたのだと。
(もし目が覚めたら…どっちのセイランだろう…)
 セイランが目を覚ました時のために、ラミィは毎日朝からこの場所にいる。
一日をほとんどこの聖堂で過ごす毎日など、彼女にしては珍しい事であった。以前は聖堂にさえ入る事もほとんど無かったのだ。
(あの時私が止めを刺さなかったから…あの時こいつを殺していれば…!)
己の不始末でセイランは生き続けていると、責任を感じずにはいられないのだ。
(体に流れる魔の血は一生こいつを苦しめる…どんなにあがいたって!)
ラミィは勢い良く剣を抜いて両手で握り締め、セイランの喉元に突き付けた。
彼女はそうやって、一日数回はセイランに剣を向ける。
自分と同じように苦しみながら行き続けるのなら、命を絶ってやる事がせめてもの優しさだと思いながら。
「…諦めるなよ…。一人で楽になろうなんて、ずるい…」
だがラミィには彼を殺す事がどうしても出来ないのだった。
操る糸が途切れた人形のように、ラミィは脱力して剣を手にしたまま床に座り込んだ。
 …その時である。
入り口で物音がして空気が動き、燭光がかすかに揺れた。
ラミィは立ち上がって両開きの扉の方を見た。
片側の扉が少々開き、顔だけ中へ突っ込んで辺りをキョロキョロと見回す者がいた。
「誰!?今聖堂は一般公開禁止よ!」
ラミィは剣で中を切り、侵入者に切っ先を向けた。


「わっ、ぼ、僕は…」
 その者はすでに向けられていた剣を見て慌てたのか、手が扉に当たって完全に開いた。
「お前、見慣れない神官だな」
部屋の入り口に立っていたのは童顔で目の大きい神官であった。
黒い短髪の少年はおどおどしながら、上目使いにラミィを見る。
年下なのかそれとも成長が悪いのか、彼の身長はラミィの首までしかない。
「あの、ラミィ・クォーレルさんですね」
剣を鞘へ納めようとしていたラミィの仕草が止まった。
「どうして私の名を」
ラミィが剣を閉まった時、少年の肩を押して背後から中へ入ってくる者がいた。
「神聖なる聖所で何を騒いでおる」
 皺一つ無い、ぴんと張り詰めたような糸で織られた神官衣を着る男は、額を広く出して黄味が強い金髪を背中まで垂らしている。
彼は額に刻まれた、壮年にさしかかっている事を示す年輪をより深くして少年を見た。
「私はジェゾルド・レニー。先ほど到着したばかりだ。本日よりこの分殿の司祭長を務める者だ」
彼がそう言うや否や、廊下に待機していた神殿騎士が甲冑の音を鳴らしながら入ってくる。そして持っていた巻物を開いて掲げた。
ラミィは文面を読まなかったが、本殿の紋章を見てすぐに最高議会の決定の証だと解った。
「お前はここの神官か?」
長身のジェゾルドは少年を上から見下ろした。
「いえ…。私はカイル・ローヴィッチと申します。レニー卿の秘書代わりの世話役を本殿から言い付かり昇殿しました」
そう言いながら、カイルも片手一杯に抱えている荷物の中から巻物を取り出し、止め具を解いて見せた。
「たった今合流したばかりの若造に世話をさせるほど私は年をとってはおらぬ」
その文面に目を通すと、ジェゾルドは訝しげに目を細める。
本殿からの旅路は衰えつつある肉体に予想以上にこたえた事を彼は言わない。だが瞼が幾重にも重なった、憔悴しきった目元がそれを物語っていた。
(何よこの二人、初対面なの?)
 ラミィが腕を組んで二人を交互に見やっていると、ジェゾルドの鋭い眼光を感じて思わず組んだ腕が緩んだ。
「…何?」
ラミィは方眉をピクリと上げた。
ジェゾルドはラミィの前へ進み出て目を細める。
「お前が…サウィーンが拾ったという子供か」
「そうよ」
ジェゾルドは食い入るようにラミィの顔を見た後、何かに想いをはせているように遠い目でふと微笑んだ。
彼女にはその笑みの意味は解らず、部屋の中心に立ってアストラルに一礼するジェゾルドの動きを目で追った。ジェゾルドは簡易礼拝を済ませてからサウィーンの骨が埋められている柱に手を触れた。
ラミィの立っている位置からは彼がどんな表情をしているか見えない。
しかし頭を垂れ、痩身の後姿が物寂しげであった。
 暫しの沈黙の後でジェゾルドは顔を上げ、寝台に横たわるセイランを見た。
「なるほど、聖女の息子は聖遺体か。確かに報告通り安らかな死に顔だ」
「セイランは死んでないわよ」
ラミィはすかさず訂正する。
「お前がサウィーンとセイランの最期を知っていると聞いたが」
ジェゾルドの声は幾分高めの声を出しながら扉の方へと引き返す。
「そうよ」
ラミィは頷きながら二人の壮絶な死を思い返し、強く目を瞑った。
彼女は無意識に腕の傷に触れていた。
「では後で聞かせてもらうぞ」
ジェゾルドはラミィの横を通ったが、彼女の顔の方は見なかった。
「私は先に書庫へ行く。ローヴィッチ、お前はアストラルの確認後、外の民衆に明日私が聖堂で礼拝を取り仕切る事を宣告しろ」
言い終わらないうちに、ジェゾルドは騎士を伴って部屋から出て行った。
「はい」
カイルは返事をしながら扉を閉めた。
「何あいつ!偉そうに…!」
 ラミィは再び腕を組んでセイランのつま先の前にどかっと座る。
一方カイルは荷物を床に置き、脇の下に挟んでいた本を開きながら言った。
「偉いですよ、サウィーン様を本殿で指導された方ですから」
「あっそう!聞いてないわよそんな事」
カイルはせわしく何頁かめくり、目的の箇所を開くと今度はアストラルと交互に見比べている。
(そういえばさっきの神官もこの子供も何で私の名前を知ってるんだろ…)
よそ者に対するラミィの警戒心は消えない。
ラミィはアストラルの状態を本の記述と比べているカイルを見た。その視線に気付いたのか少年は振り向いて言った。
「この本には世界の分殿に安置されているアストラルの形状と波動の強さが事細かに書かれているんですよ」
カイルは片手でぱたんと本を閉じ、表紙をラミィに見せた。
「神官達はこの本を元に、毎日アストラルの状態を確認するんです」
 四方が槍状に尖った十字架を囲む、己の尾を咥えた龍の紋章。
その神紋が大きく浮き出た加工をされている表紙は使い込んだ様子が見受けられた。
「聞いてないって…」
ラミィが話を中断させようとするも、カイルは押し話す。
「でも、十九年前から開く必要の無い頁が出来てしまった」
(十九年前…)
ラミィは立ち上がった。
(…十九年前…私が生まれる二年前…)
ラミィはその年を頭の中で反復する。
カイルが話す前に、ラミィの体は強張った。
すでに知っている事実を他者から聞く行為は、忘れる事が無いよう念を押されるようで耳を塞いでしまいたい心境にラミィを陥らせた。
身構えた彼女を捕らえるようにして、カイルはゆっくりと近寄る。
「南の分殿のアストラルがサマルドゥーン陥落時に一人の神官の体内に隠され、今は固体として存在しないからです」
カイルは真っ直ぐラミィを見て言った。


「…用が済んだなら早く出て行って。外部からの雑菌をこの部屋に入れたらセイランの体に障る」
 ラミィはカイルに背を向けて視線をそらした。
「…ラミィさん、アストラルに共鳴作用があるのをご存知ですか?」
ラミィはカイルが言わんとしている事を悟って恐る恐る振り向いた。
そして彼の顔を見る時にはサウィーンがよく行っていた、アストラルの力を用いた本殿との通信を思い出していた。
「すでに議会は貴女の存在を知っています。失われたサマルドゥーンのアストラルの行方を、ね」
「…お前は何のためにここへ来た」
ラミィはセイランを守るようにして寝台の前に足を広げて立ち、柄に手をかけた。
「やっやだなぁ、僕は敵じゃないですよ」
カイルは両手を挙げてひらひらと振る。
「私は貴女を本殿へお連れする密命を本殿より受けました。貴女の中にあるアストラルは我々なら取り出せます」
張り詰めたラミィの表情とは正反対に、カイルは相変わらず笑みを浮かべている。
「貴女の体内に吸収されたアストラルを本殿へお返しください」
 驚きの表情がすでに顔に表れてしまった今となっては白を切る事は出来ない。
ラミィは、せめて無表情を取り繕おうとするが、ぎこちなかった。
「私はジェゾルド様の付き人だと言いましたがそれはこの神殿に入る際の嘘ですから、レニー様は何も知りません。内密にお願いしますね」
カイルは腰を屈ませて荷物を手に取り、脇の下に抱えた。
そして時折ラミィに笑顔を振りまきながら扉に向かって歩く。
ラミィは大げさな仕草で首を横に向けカイルの笑顔を避けた。
「信用できないわね」
「では貴方だけ残りますか?セイラン様もお連れするようにとの命令ですが」
扉の前で体ごと振り向き、カイルはラミィの表情を確認するように見た。
ラミィは下唇を噛んでカイルを睨む。
「お返事はまたの機会に伺いますね」
カイルは満足そうに笑みを浮かべて外へ出て行った。
(…アストラルを…返す?)
 ラミィは胸元をぎゅっと握る。
自分が動揺している事を知って、彼女はさらに驚いていた。
そして一つの疑問が自分に向けられる。
(私は…今まで何でアストラルを神殿に返そうとしなかった?)
責め立てるように、自身に対する疑問が膨らんでいく。
(いらないなら、拾われた時にさっさとサウィーンに話しておけば…!)
…本当に、アストラルは自分に必要無いのか?
アストラルを守る為に子供まで利用した両親の呪縛。
解放される日を願って止まない筈なのに、ラミィはアストラルを手放さなかった自分に愕然とした。
 ラミィは前髪を掻き揚げるようにして片手で目元を押さえた。
(カイルの言うとおり本殿でアストラルを私から除去して返せば、ようやく二人の願いが叶うわけか)
命を賭け、子供にまで背負わせた人々の希望の力。
(…あんたたちの思い通りに…!)
答えは過去へ向けられた憎しみと妄執そのものであった。
両親への復讐。たった一つの、反抗である。
そして、人間にそこまでさせる神への小さな反逆であった。
(私は死んだ人間に復讐なんかを…)
 一人でソリヴァーサに逃れた時、彼女はあまりにも幼かった。
足の裏が擦り切れ、怪我で四肢が腫れていようと、迫り来る追っ手から逃げる為に自分の足で立たねばならなかった。
小さな手で重い剣を振るい、生き抜くために手段を選ばなかった。
…幼かったのだ。
ラミィはその時アストラルを託されたその意味を知らなかった。
そう、生き抜くには憎しみと執着が必要であったのだ。
 今になって、ラミィには予想もしなかった不安が襲い掛かっていた。
神に守られていた環境が激変し魔族の出没が激しくなった今、ラミィの元にも変化の兆しが訪れていた。
己が秘めていた過去の傷、それも元凶が彼女の下から去るのは心もとない。
ラミィの目の縁に今にも零れ落ちそうな涙が浮かんだ。
彼女は深呼吸をすると、目をこすってセイランに目を落とす。
(本殿の神官達なら…セイランが目覚めても対応出来るだろうか)
アストラルの力を直接行使できるのはラミィだけである。
セイランに対抗するにはラミィが持つ以上の力が必要なのだ。
「私は、セイランみたいにさんざんもがいた挙句死ぬのは絶対に嫌」
つぶやく声が次第に力強く大きくなり、聖堂に反響した。
「見なさい!」
ラミィは拳を握って足を踏み出し、聖堂の神紋に向かって叫ぶ。
「アストラルはまだ私の中にある。私の意志でね!」
すでにラミィの決心は固まっていた。

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