さしのべられた腕 〜神々の黄昏〜 第一部 7

 赤い火花が散り、ザスクカッツの大刃に細身の刃が食い込んだ。
ラミィはそのまま体重を乗せ、刃を真っ二つにして曲刀の上方を叩き落す。
舌打ちしたザスクカッツは剣を引き戻したが、ラミィはすかさず足を踏み込んで突いた。
ザスクカッツは咄嗟に体を傾ける。
「ぐっ……」
ラミィの剣はザスクカッツの胸骨を貫いた。断ち切られた骨は内臓を圧迫する。
(……外した!)
再び急所を狙う為に胸壁から引き抜かれたラミィの剣をザスクカッツは打ち払った。
「……きゃっ……!」
体勢を崩したラミィは倒れて堅い岩肌に顔を打ち付けた。
「何処を狙ってるんだぁ?」
 口からどろりとした赤黒い体液を滴らせながら、ザスクカッツは胸を押さえる。
ラミィは体を回転させて横へ移動してから素早く立ち上がった。
頬の皮膚が擦れて血が滲み出ていた。
(巨体のくせに動きが早い!)
剣を正面に構えてラミィは唇を噛む。
灰が付いた金髪は色がくすんで、彼女の頬に張り付いている。
草の燃えかすが目に入ったラミィがまばたきをした後、ザスクカッツの姿はその場所から一瞬にして消えていた。
(な……っ?! 消え……)
背後に殺気を感じたと同時にラミィは振り返る。
(こいつ異動を!)
 激しく突いてくるザスクカッツの攻撃を、ラミィはものともせず全て剣で受けた。
暫く打ち合いが続いた後、ザスクカッツは再び忽然と姿を消した。
何事も無かったように辺りは静まり、燃え残った炭がそよ風にカサカサと揺れていた。
ラミィは慎重に辺りを見渡し、次の出現位置を読もうとする。
「何処よっ!?」
ラミィは何度も焼け落ちたネスを見回すが、一つの場所を見落としていた。
丁度その時ラミィの前方に岩山があり、その力はそこから放たれた。
(上か!)
ラミィが押し寄せる青い半月状の魔法に向かって切りかかった時、剣の赤い輝きは薄れてザスクカッツの力にかき消されていった。
(……アストラルの力が……?!)
 アストラルの光が消えただの剣と成り果てても、ラミィは動きを止めなかった。
剣の切っ先がザスクカッツの力に触れた途端、中から無数の風が四方に噴出す。
ラミィが罠だと悟った時にはすでに皮膚に焼けるような痛みを感じていた。
爆風に足を踏ん張るのが精一杯で自らを防御できず、ラミィの肌は刃と化した風に容赦無く切りつけられていった。
外套は切り裂かれ、髪は不揃いに切られていく。
服から露出しているなめらかな肌に赤い筋が一つ、また一つと増えていった。
封じ込まれていた風の刃が全て解き放たれると攻撃が止み、ラミィは剣を支えにして腰を屈めた。
足の裂傷はじんじんと熱を持ち、長靴の中に血が垂れていく。
頬の擦過傷の下に、新しく皮膚が破れた傷が出来ていた。
唇まで伝ってくる血を、ラミィは舐める。
「お前もまだアストラルの力とやらを期待していたのか?」
ザスクカッツはラミィの前に現れた。
「違う! 私は……!」
そう言いながら、ラミィは剣を重ねた。
(いらない、こんなモノ……!)
 己に価値があるとすれば、それはアストラルの器としての自分。
己の力のみで生き抜いてきた証など何一つ無い事。それがラミィにとっては屈辱であったのだ。
実際、アストラルが無ければザスクカッツの一撃でスクルドと共に死んでいたのである。
だがたとえ人々を救うものであろうと、自分の自由を奪い人々の希望を押し付けた両親の遺産はラミィには不要であった。
アストラルを甘受する事は己の存在を否定する事と同等なのである。
(こんな物に頼るくらいなら死んだほうがマシよ!)
ギリギリと力で押し合った後、ザスクカッツは剣を振り払って後ろへ二歩飛び退いた。
「あっ……!」
握りが弱かったラミィはまともに受けて剣共々弾き飛ばされた。
 剣は弧を描いてラミィが倒れた場所から数歩先の地に刺さる。
利き足である右太腿の、三つの傷のうち一つは骨を露出させる程の深さであった。歩けば痛みが響いて力が抜けていく。
(剣を……)
血を垂らし灰燼にまみれながら、ラミィは這って剣までずるずると体を進ませる。
「哀れな姿だな。神に見放されたか?」
ザスクカッツは喉の奥を鳴らし、ラミィに侮蔑の嘲笑を浴びせた。
まるで彼女が力尽きる様子を楽しむかのように。
ラミィはようやく剣まで辿りつくが、手が血で滑り柄を握りそこなってずるりと倒れた。
うつ伏せのままもう一度震える手を伸ばして剣を掴もうとした時、ザスクカッツの足がラミィの左腕を踏みつけて固定した。
「うあぁ……っ」
「神の後ろ盾無いと俺達には勝てぬのだろう? ……何故戦う」
腕の骨を押しつぶさんばかりの強い力に、ラミィは声帯から搾り出したような悲鳴を上げる。
血の循環が止まり、指先が紫色になって浮腫むと痺れが襲った。
「もはやアストラルの力など俺たちには及ばない」
ザスクカッツはラミィのうなじにかかる髪を剣の先で除け、首筋に剣を突きつけた。
「……終わりなんだよ、アヴァンクーザーは」
 折れた剣の先に、吸い込まれるように風が集められていく。
「アヴァンの世は我が主のご子息によりまもなく終焉を迎えるだろう。お前が器としてアストラルを守っていても何も変わらぬ」
ザスクカッツは仮面の下で笑っているに違いなかった。
「違う……っ! 私はアストラルの為なんかに生きているんじゃないっ!」
腕の痛みは頂点に達し、ラミィは叫んだ。
「せいぜい叫ぶがいい……さぁ、どう切り刻んでやろうか!」
今まで頼ってきた剣は目の前にある。だがラミィには遠く感じていた。
彼女はごくりと唾を飲み込んだ。


「やめてください!」
その一声が、ザスクカッツの剣を止めた。
「おおセイラン様!」
ザスクカッツは地を蹴って飛び上がり、崩れている木の前に立つ神官の前へと移動した。
(痛……っ! あいつ腕の骨にひび入れたわね……!)
ラミィは腕の束縛を解かれてもすぐに態勢を整える事が出来ない。
切り傷と骨に入ったひびの痛みが、体を動かすたびに電撃のように神経を駆け巡るのだ。
(いまのうちに……剣を……)
左腕を曲げる事が出来ず、ラミィは腕を伸ばし庇いながら右手で剣を引き抜く。
そして、恐る恐るザスクカッツが移動した方向を見やった。疑心に満ちた眼差しで。
「……セイラン……!」
 そこには上半身を前に屈ませて息を荒くするセイランがいた。
彼はラミィの睨みを感じながら一度深呼吸をし、声の調子を落としてザスクカッツに言った。
「……僕が行けばいいのでしょう」
ザスクカッツは仮面を外し、セイランの前に傅いた。
「トゥーラでは俺の部下がしつこくお迎えにあがり、ご無礼をいたした。しかし、セイラン様のお力を拝見させていだだき光栄に思います」
仮面の下から現れたのは、顔の形が角ばった浅黒い中年の男であった。
落ち着きのあるその瞳を見れば、誰も先ほどまでの激しい術を想像できないであろう。
「お父上は貴方様をお気にかけられておられるのです。ですが会いたくとも会えぬお立場。そんな我が主を見ていられず、俺は個人的な判断でお迎えに参った次第です」
「父って……」
 いまだ会った事も無い、父。
セイランは青ざめ、言葉を失った。
「どういう事よ! あんた一体……」
彼はラミィを直視できずにうつむいた。
(どうなってるのよこれ……!)
明らかに人とは異なる生き物がアヴァンクーザーの神官に跪き、丁重に迎えている。
魔族の存在すら現実味を帯びない世上で、この雰囲気は異様であった。
セイランは落ち着きを見せ、事態を受け入れているかのようにさえラミィには見える。
ラミィにはそれが腹立たしく、彼女の許容を超えていた。
……ありえない。
彼女は思った。
セイランに対して募る不信感が明らかになりつつある今は、否定したくなる衝動にかられていた。
「ラミィさん、怪我を……!」
「来るな!」
ラミィの両足に血の筋が付いているのを見たセイランは足を一歩踏み出すが、ラミィの一喝で止まる。
「あんたも魔族だってのなら、一緒に斬るわよ!」
 理由を考えて判断する余裕は無かった。
剣を構えたが足元はふらつき、彼女は岩で背中を支えさせる。
ラミィの呼吸は浅くなり、回数が増えていた。出血が多い為に寒気さえ感じている。
ザスクカッツの肩越しに見えるセイランの瞳に涙が浮かんでいるのを見て、ラミィは目を細めた。
「僕は記憶が途切れる時がある……。本殿にいる時はそんな事は無かった。多分本殿のアストラルじゃないともう押さえきれないから……」
首の後ろで一つにくくられたセイランの黒髪が、風になびいている。
白い法衣は風を受けて静かに広がった。
「トゥーラで神殿騎士と魔人を殺したのは多分僕だと思う……ネスで亡くなった少女も僕のせいかもしれない」
「あの子を……あんな……あんな惨いやり方で殺したのは…あんたなの…?」
 住人から親しまれている温和なセイランがクレアを殺したとは、ラミィには信じがたかった。
身の危険をかえりみず魔獣でさえ教典にのっとって逃す程の神に忠実なこの神官が、無残な殺戮を行えるはずは無いとさえ思えていた。
セイランに対して剣を振るうには、まだ迷いがあった。
だが、ラミィは一つの答えを見出していた。
……この神官が来てから全てが狂ったと。
 セイランは俯いて目を閉じた。
「僕は……解らない……解らないんです! 覚えていないんです!」
首を振りながら両手で頭を鷲づかみにするセイランを、立ち上がったザスクカッツが案じて覗き込む。
「セイラン様、どうかお気を確かに。私めが邪魔者をお払いいたします故……」
「や、やめてください! 私に用事があるのなら他の方には……」
セイランはすがるようにザスクカッツに言った。
「……人を殺しておいて分からないですって?」
ラミィはゆっくりとセイランに近寄っていた。
「ふざけないでよ! あんたさえ来なかったら皆は……!」
 思う様に体は動いてくれない。
だがクレアとスクルド、そして団員達の死を引き起こした原因を断ち切る為に彼女は剣をセイランに向けた。
次の戦闘で仕留めなければ自分の命はもたないと解っていても、前へ進む気持ちだけは押さえようが無かった。
今までそうであったように、何が待ちうけようと彼女は剣を振るう事だけはやめられないのだ。
神聖なる紅の光が一瞬だけ放射状にラミィから発散され、荒廃したネスの情景を浮かび上がらせた。
「ラミィさん……」
セイランは確かにラミィから光が生じ、全身を包み込むのを見た。
 空が轟き、アストラルの光が雲を朝焼けのごとく染めていく。
(そうか……だから僕は……貴女に惹かれたのですね……)
その光は彼を安堵の眠りへと誘うものだった。
大海に身を浮かべているような解放感に意識が遠のき、セイランの精神は引きずり込まれるようにして闇の中へと消えていった。
「セイラン様!」
膝をおって前のめりに倒れこむセイランをザスクカッツは支え、地に横たえた。
「今だ覚醒しきらぬセイラン様にそのアストラルは邪魔だ」
ザスクカッツは毒々しく唾を吐き、手にしていた仮面を再び顔にはめた。
二つの目がぎらりとラミィを睨む。
(アストラルがあっても無くても私がする事は同じ)
 体の何処にも痛みは感じない。
光の照射が淡くなったアストラルはラミィの傷口に入り込み、持ち主の傷を癒していた。
(……目の前の敵を切る……っ!)
ラミィの意識がザスクカッツのみに注がれた今、アストラルを押さえていた枷は無い。
完全に解放された神の力はラミィの周囲に紅色に輝く球形の結界を作り出した。
「最後よ!」
ラミィは剣を振り上げてザスクカッツの上に飛び掛った。
「死ねぇ!」
ザスクカッツはセイランの前に立って壁となり、全ての魔力を放出させて黒い結界を張った。
ラミィの剣がそれに触れると相容れぬ力同士が反発し合い、閃光が走った。
「おのれ……っ」
ザスクカッツは両手に力を込め、邪悪な力をラミィへと押しやる。
「……くっ」
眩い光に目を細めながら、ラミィは両手を突き出して押し戻される剣を必死に止めていた。
足は岩にめり込み、周囲には電光が幾つも飛び散る。
(どっちの力もいらない……っ!)
 人間本来が有する力のみで生き、聖なる力も邪悪な力も必要としない世界の到来。
己の価値を求め、彼女はその願いを叶える為に剣を振るう。
剣の抵抗が無くなり、黒い結界が紫煙となって消失した。
「ぐぅあぁぁぁアントラージェ様……ッ!」
ラミィは持てる全ての力を持ってザスクカッツの頭から切りつけた。
ザスクカッツを縦に割った波動は、灰を巻き込んで勢いを止める事無く木の前に横たわるセイランへと迫る。
(セイラン……!)
赤い光がセイランにぶつかると、それは何かに飲み込まれるかのように消え去った。
(アストラルが……消えた……)
ラミィは肩の力を抜いて剣を降ろした。
 アストラルの光はラミィの内側へ戻り、辺りが月明かりに照らされるだけの闇夜である事に彼女は気づく。
半分に切られた仮面が転がっているだけで、ザスクカッツの体は何処にも見当たらなかった。
(やったか……)
ラミィが呼吸を整えている間に、セイランはゆっくりと体を起こした。
纏めていた黒髪はほどけて、風にうねる様に蠢いていた。
彼の顔を覆う髪と髪の間から覗く鋭い目が、ラミィを硬直させた。
(……な……っ?!)
 黄金の、瞳であった。
月に掛かる雲が取り払われるがごとくセイランの顔が露になる。
彼は無言で微笑を浮かべていた。
セイランは肩膝をつき、右手をラミィに向かって広げた。
「うっ……!」
一瞬にして肩当ては溶解し、ラミィは熱を感じた。その熱は痛みに代わり腕を侵食していくように広がる。
(肩を!)
ラミィは剣を右手に持ち替えた。
「セイラン……!」
剣を振るう動作さえする間も無く、セイランは次々に手から熱線を放射してくる。
ザスクカッツの比ではない。
彼女の中のアストラルが前へ進むことを拒否しているように、逃げようにも体が動かない。
胸が締め付けられてセイランを正視することすら出来ないのだ。
靴の中に血が溜まり、足を動かすと滑った。
空気に触れてひりひりと痛む傷を押さえる為に、ラミィはとうとう手から剣を離して蹲った。
(ただの魔族じゃ無い……!)
その強大な魔力を前に、ラミィは初めて諦める事を知った。
 腕で己の体を抱くようにしながらしゃがみ込み、ラミィは立ち上がったセイランを見上げた。
妖しく煌く、美しくも無慈悲な金の瞳。
セイランの口元には薄っすらと笑みが浮かんでいる。
生まれたての赤子のように純粋で、生まれながらに持つその属する所の欲望を果たそうとしている。
彼はもはや命を尊ぶアヴァンクーザーの神官では無い。
ラミィの本能が心臓の鼓動を早めて警鐘を鳴らす。絶望であった。
(セイラン……!)
ラミィは未だ信じる事が出来ずに、己の命を奪わんとする相手を見やった。
セイランが広げた掌に黒い光が灯る。
『……アヴァンクーザーの名の下に』
ラミィが目を閉じた時、聞きなれた声で唱えられる呪文が風にのって聞こえてきた。
 彼女が声の主を確認する為に前方へ目を移すと淡い黄色の光がセイランの周りに生じ、思わず耳を塞ぎたくなる程の絶叫が彼からほとばしった。
「グァアアアアァッ」
セイランは体を強張らせると突然ラミィとは反対の方に振り向き、放とうとしていた魔力を木の根元目掛けて投げつけた。
「……ぁあああ……っ」
木の屑と血肉が飛び散る。
呪文の詠唱は止まり、黒い塊を浴びて後ろへ倒れた者が誰であるかラミィは確信した。
「サ……ウィ……ッ!」
だが喉が渇いて掠れ、声さえ出ない。
サウィーンを貫通したセイランの力は幾筋もの稲妻となって上空へ上って行った。
 彼女は腕を支えにして腹ばいになりながら、再び呪文を唱え出した。
『ェフュロ、闇に潜む悪しき者よ去ね……其の求むるものはこの地にはあらず』
歌うように、囁く様に。
『アルオ・ィウ、アヴァンクーザーの子をイュの霊にお渡しいたします』
咳をする度にサウィーンは吐血する。唇は血に濡れて鮮赤に染まっていた。
『…ェフュロ・ル・アルオ…ィウ』
萌黄の光は白光となり、セイランは頭を抱えてうずくまった。
やがて光が翼有る人の形を成し、光の粒子を撒き散らしながらセイランを両手で包み込む。
ラミィはその間に体を引きずりながらセイランの横を通ってサウィーンへと歩いた。
 風景は揺れていた。息が苦しく、額から流れてくる血が目に入って視界も悪い。
呪文を唱え終わったのか、サウィーンが力尽きて倒れるとセイランも残光と共にうつ伏せに倒れた。
「怪我は……」
抱き起こそうとして、ラミィはサウィーンの腹部に開いた傷にハッとなる。
(こんな傷で……呪文を唱えるなんて……!)
えぐられたような傷口から血が脈打って噴出していた。
清廉さの象徴とも言えた女性神官の衣は血を吸って重たい。
「あの子を責めないで……」
初めて見る、養い親の涙であった。
「……全ては聖典の掟を破った我が妹……サーラの過ち……貴女ならセイランの辛さは解ってあげられる筈……」
己の腹部を押さえるサウィーンの手が、ラミィの頬を撫でる。
ラミィはその手を握るが、頬に血の跡を残してサウィーンの手はだらりと垂れ下がった。
腕にかかるサウィーンの重さが増した。
(サウィーン……)
口の端から血を流しそのまま動かなくなったサウィーンの両手を、ラミィは胸元で組ませた。
そして、ラミィは眩暈を起こしてサウィーンの遺体の横に倒れこんだ。
「伯母上……?」
 震える声がして、ラミィは首を横へ向けた。
「まさか僕が……また僕は……!」
(戻ったんだ……いつものセイランに……)
ラミィは仰向けの体勢でサウィーンの腰にあった短刀を抜いた。
「あんたが悪いわけじゃ……ない……。でも……あんたがいたら……皆殺される……」
目はかすんで眠気が襲い、目を開けている事すら困難であった。
(……この男は、私と一緒だ……それでも、殺すの?)
生ある者全て、誕生する場所に選択の余地は無い。
そしてその一生は己の生まれた境遇にあがき苦しみながらも行き続けるか、死ぬかのどちらかである。
ラミィは自らの身の上を、セイランに重ねていた。
(苦しんでいるセイランを……私は殺せるの?)
答えは見つからない。だがラミィは膝を突いて体を起こそうとした。
「ラミィさん……!」
 セイランは歩み寄ってラミィの肩に手を置き、涙を目の縁に沢山溜めながら治癒の呪文を唱えた。
「……私を治したら……あんたを殺す……かもよ……?」
「……弱い僕が悪いんだ」
セイランは悄然として、物寂しい微笑を浮かべていた。
暖かく、柔らかい水の流れが彼の掌から体の中に浸透していく。
セイランの力はラミィの細胞に活力を与え、傷口を修復する作業を活発化させていった。
痛みと緊張感が和らいで張り詰めた顔が緩くなっていくラミィを見ると、セイランは安堵のため息をついた。
そして立ち上がって一歩一歩しっかりとした足取りで後ろへ下がる。
「ラミィさん……自分と戦わない者は最初から負けているのです」
(……少し……動けそう……やれる……!)
頭の中が澄んで意識がハッキリしたラミィは剣を手にふらりと立ち上がった。
「僕は貴女のように強くは無い……」
 二人の目が合った時、セイランの踵の後ろにもう大地は無かった。
(何て目をしているの……)
ラミィは前進を躊躇した。
(初めてだ……こんな気持ちで人を殺すのは……!)
自分が生き抜く為に何人もの追っ手を殺し、生きる理由を求め続けて平和なソリヴァーサヘ逃れた。
忘れかけていた過去がまたもやラミィの前へ姿を現している。
……だが、ラミィの中で何かが違っていた。
「でも僕はもう誰も殺したく無い……だから僕は……」
哀れにもセイランは悲嘆の涙を流し、目にかかる前髪が涙に濡れていた。
セイランは追い詰められていた。
だからこそアヴァンクーザーの神官でありながら、彼は聖典で禁じられている大きな罪を犯す。
己の素性が明らかになった今、彼は初めてアヴァンクーザーと己の信念に逆らい、命を救う為に命を犠牲にするのだ。
 ラミィがよろけて木に手をつき顔を上げると、そこに彼の姿は無かった。
「……セイラン?」
どのようにして視界からセイランが消えたのか、ラミィは状況を読む事が出来ない。
ドスン、という鈍い音が崖の下から聞こえた。
ラミィは木から手を放しネスの端の方へと歩き出したが、眩暈と耳鳴りに襲われて燃え残っていた草の上に倒れ込んだ。
「セイ・・・ラン…」
(駄目だ……血が……出すぎた……)
傷は塞がっていても、失われた大量の血は戻ってはいない。
セイランが自ら身を絶壁の下へ投じた事実を認められないまま、ラミィの瞳は閉じられる。
だがラミィは瞼の中にまで届く、輝く深翠の光照を感じ取った。
その中心に光沢のある黒い外套に身を包んだ者が表れ、崖の下を覗き込んでいる。
(誰……?)
ラミィの意識は途切れて泥の中に沈んでいった。


「この娘がサマルドゥーンのアストラルを受け継いだ予定外の産物か」
 月明に照らされた黒ずくめの男の、長い影がラミィに掛かる。
彼は頭巾を節くれだった大きな手で少し寄せ、短剣を握り締めたまま倒れているラミィに視線を注いだ。
「合間見える筈の無い二つの運命の書が軌道を逸れて重なった……。神々よ、それでも結末は同じだとお思いですか?」
一陣の潮風が焦げた大地から灰を巻き上げる。
男はその風に姿を溶け込ませて消えていった。

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