さしのべられた腕 〜神々の黄昏〜 第一部 4

 光の残像すら残らない漆黒が彼を取り巻き、捕らえていた。
自らの感覚さえ奪われ、そこは己の存在にすら疑いをかけたくなるような夢うつつの世界であった。
(ここは……)
セイランは今、ネスで幼顔の愛らしい少女の薬草摘みを手伝っていた筈であった。だが彼女の銀色の髪が日没の太陽に煌めいたかと思った次の瞬間には、現実とは思えないその闇の中に一人置かれていたのだ。
(またこんな暗闇……)
 不安、そして焦り。
憂慮すべきは自分の意識が離れた肉体がどうしているのかという事であった。
(早く目を開けなければ)
彼は目をこらしたが視界に入るものは虚無である。己の目が閉じているのか、開いているのかさえ解らない。
(早く……目を覚まさなければ……!)
彼は手を組んで座り込んだ。体が動いた様子も手の感触も感じ取れずとも、セイランは悪い夢から早く目覚める事を願った
(アヴァンクーザー神よどうか私をここから出してください!)
彼にとってその場所は聖なる神のみ座から最も遠い空間のように思えた。
邪悪なる者の巣窟に紛れ込んだような、恐怖。それにうち勝つためにセイランは絶え間なく祈った。
そして、超克する力を求めたセイランに奇跡は起こった。
遠近感の無い闇に突如として明かりが灯り、セイランは前方に淡い紅を見いだしたのだった。
(アストラルの光……?)
彼を誘うように明滅するその光は、神殿に奉られているアストラルの破片と同じく穏やかな霊力であった。
それは優しく包み込む揺りかごであった。
セイランは右手を伸ばし、光を掴もうとその方向へ歩き出した。


「……あんた、私に刺し殺されたいの?」
ラミィは焦慮にとらわれる原因となった相手の喉元に、剣の切っ先を当てて言った。
彼女の声が耳元でした事に驚き、セイランは目を開けた。
思考がはっきりしない中で花々の甘い香りがする金の髪が彼の鼻の頭をくすぐり、セイランはゆっくりと顔を上げる。
目の前にあったのは海原の深い色をした、大きな瞳であった。
「……ラ、ラミィさん!?」
 セイランは自分が彼女の腰に手をまわしていた事に気付いて、弾かれたように数歩先へと後ずさった。
そしてラミィの全身を見るなり、目のやり場に困る。汗の滴が付着した艶やかな胸が、大きく開いた服から見えたのだ。
「え……っ、あ、あの……私は……」
セイランは己の両手のひらとラミィを交互にまじまじと見た。
「トゥーラで保護された時みたいに、あんたまた私の前で気絶したのよ」
ラミィは剣を鞘へしまいながら、ため息混じりに呆れた口調で言った。
「すみません……たまに意識が飛んでしまうのです。先ほどまで私はネスで…」
「病気なら神殿で寝てればいいでしょ!仕事の邪魔をしないでくれる?!」
ラミィはそう言いながらセイランに背を向けると動きを止めた。
「……何です? この臭い……」
セイランは臭いをかがないように口元を押さえたが、胃の中の食べ物を吐きたい衝動にかられる。
森の中だというのに雨に濡れた墓場の、土の臭いがするのであった。
「これは遺体の臭い……?」
セイランは周囲を見回すが、彼は前方の草の中に隠れた死体には気付かない。
「……今頃気付くなんて遅いわよ!」
(私もね!)
ラミィは舌打ちして勢いよく剣を抜いた。
「セイラン下がって!」
「えっ……?!」
 彼女の声に思わず一歩下がったセイランの背中が木に当たる。彼の白い外套は小枝にひっかかった。
ラミィは剣を両手で握り、体勢を低くした。
セイランはラミィの肩越しに危機を知って大きく目を見開いた。悲鳴は押しとどめたものの、短く息を小さく吸って狼狽は隠せない。
ラミィが剣を構えて睨むその方向にはラミィと同じくらいの体格をした、一匹の獣が唸りを上げていた。
全身を覆う焦げ茶色の体毛から湯気のように邪気が立ち上っており、額には一本の角があった。踏ん張りながら地面に付ける四本の足には牙と同様の鋭さを持った爪があり、今にも飛びかかってきそうであった。
ラミィは剣を下に構え足を踏み込んだ。
「いけません……!」
セイランは両者の間に押し入るように入ったが、ラミィの勢いは止まらず僧衣を切り裂いた。
「何やってんの! 噛み殺されるわよ!」
獣はすぐさま反応し、セイランを見上げて牙を剥き出しにする。だがセイランは獣の咆哮を背中に受けながらも両手を広げたままラミィの前に立ちはだかっていた。
 ラミィが引き戻そうと手を彼の腕にかけた時、甲高い鳴き声が聞こえて彼女はその方向を見た。
「きっと子供を守りたいだけです」
セイランがそう言うや否や、死体を覆い隠すかのようにある草が揺れて小さな子供の獣が三匹頭を出した。そしておぼつかない足取りで乳のある母親の下腹部に近寄り、不安そうに泣きながらすり寄る。
「それにお腹をすかせているから気が立っているだけかもしれません。剣をしまってください」
セイランは剣の鍔を掴み、ゆっくりと下ろし始めた。
だが母親の魔力を持った腹の底に響く低い唸り声と、真っ赤な血色の目はそれが魔に属する者であることを示している。ラミィは手に力を入れて最後まで剣を下ろさせない。
「こいつは町の人を殺したのよ。魔物を目の前にして剣を下ろす奴が何処にいる!」
その力に諦めたセイランは獣の方に振り向いて屈んだ。
「何もしません、お行きなさい」
魔獣の唾液が黒い唇の端から糸をひいて滴り落ちるのを見ても、セイランは屈託のない笑みを浮かべてそう言った。
セイランの瞳を見た獣は逆立っていた体毛を落ち着かせ、子供達の甲高い鳴き声に母親はゆっくりと後ずさりしていく。
確かめるように黒い湿った鼻で子供達の背中をそっと撫でた後、子供達を引き連れて森の奥へと入っていった。
「むやみに殺す行為はよくありませんよ」
セイランは張りつめた気持ちを解いて満足げに立ち上がった。
「神は殺して良いような無用な魂はお与えになられる筈ありません。動物の親も人の親と同じ。親は子供を守るのが務めですから……」
セイランは聖典であるアヴェル・ロードから「神の言葉」を引用した。
未だ闘志を無くさないラミィの沈静を狙った彼にとっては実に日常的な発言であったが、セイランはすぐに後悔することとなる。
彼女の形良い唇が歪んだのである。
 ラミィはセイランに背を向け、剣を鞘に納めた。
「神官らしい平和的な解釈の仕方ね。教義にのっとって私に説教でもしているつもり?」
その場を立ち去ろうとするラミィの表情は、セイランには解りかねた。ラミィの背中は小刻みに震え太股の横で堅く拳が握られていた。
声をかけることに躊躇したセイランはラミィの後ろ姿をじっと見ている。
ラミィはやにわに振り返ってセイランに言った。
「私の親は自分の為に私を利用してきた。どこの親も守ってくれるとでも思ってるの?」
嘲笑混じりの笑みを浮かべた彼女を見て、ようやく彼女の機嫌を損ねた事に気づいたセイランは釈明しようとしたが、言葉が続かない。
軋轢が生じた二人の間に風が駆け抜けた。
 桜色の唇は堅く閉じられ、瑠璃色の瞳はセイランを威圧している。セイランの漆黒の髪と対照的な、ラミィのたなびく黄金の髪は夜陰の中でも輝きを失っておらず緩やかな曲線を描いて煌めいていた。
セイランは体裁を気にしないラミィの英姿に目を奪われ、同時に彼女との間に隔てられた壁にも気づいた。そして、彼女と己を比べずにはいられなかった。
これ以上関係を悪化させる事を望まないセイランは許しを乞うように言った。
「ラミィさん、私は何か気に障るような事を……」
彼の一言一言が、ラミィの機嫌を更に悪くさせていく。
一呼吸置いてから、ラミィは再び彼に言った。
「……えぇ、気に障るわ!私は己の保身の為に仲間を殺す神官を何人も見てきたし、私だって子供の頃生きるために何人も殺してきた……。現実をよく見る事ね!」
「そ、そんな……」
教義に則った自分の言葉をいとも簡単に否定され、セイランは息を飲んだ。
反論したくても言い返す言葉も見付からず、彼は山道に戻るラミィの後ろ姿をただ見ているしかなかった。
「サウィーンに伝えてちょうだい。無敵な筈のアストラル結界の中で魔獣が子育てしてたってね!」
ラミィは嫌みを言い残すと道を下って行き、セイランは腐臭漂う森の中に一人残された。
「ラミィさん……」
 すべてを見通すような彼女の目は一点の曇りも無く澄んでいた。
己を信じて正直に生き抜く彼女は時に激しく振る舞うが、それがセイランの胸裏に憧れにも似た想いを引き起こさせていた。
「それでも……私は貴女と一緒にいると何故か安らぐのです……」
暗黒の中でアストラルが導いた先は、ラミィであった。
神を否定し反社会的であるが為に周囲から孤立しながらも、彼女は何処かアストラルの波動に近いとセイランは思った。
セイランにとってラミィと過ごす一時はアストラルを目の当たりにしたような心休まる時間であった。


 ラミィは山道を早足で下りながら、起きたことを振り返っていた。
理由が定かではない上に、言葉には言い表せないセイランに対する不信感。
木の幹の横を通り過ぎる度に拳で殴りつけたくなるような鬱憤がラミィの心の中に生じていた。
(何なの……あの男と一緒にいると苛々する! それに……気持ち悪い!)
 ラミィが死体の傍らで殺気を感じて振り向いたあの時、そこに立っていたのはセイランであった。
彼の眼は虚ろで何も映してはおらず、トゥーラの広場で保護した時と同じ状態であった。
鳥肌の立つ奇妙な気を纏い威圧しながら近寄るセイランは彷徨う亡霊そのものであり、何かを求めるようにラミィを抱擁した。
金縛りのような全身の拘束感とセイランに背後をとられた屈辱を思い出して、ラミィ自分のふがいなさを恥じていた。
ラミィは自尊心を傷つけられていたのである。怒りはそれを覆い隠す為に生じていた。
体に密着されている時間はほんの数秒であったが、ラミィにはとてつもなく長く感じた。そしてラミィの腕をきつく握りしめるセイランの力が弱まると、彼女は体の自由が効くようになってすかさず剣を彼に突きつけたのであった。
(一体どういう病気よ……!)
彼の言う『病気』の症状は明確ではない。だが明らかに異常と思える彼の行動に、ラミィは疑わざるを得なかった。
 ラミィは息切れを感じて歩みを遅くし、腰に巻いていた上着を解いて冷たくなった肌の上に着た。
(それにしても……魔物を助けるなんてあの神官どうかしてる)
首の後ろから背中へ汗がつたい流れ、彼女は両手を髪の中へ入れて払う。
月は霞のような薄雲に隠れぼんやりと輪郭だけを光らせていた。細々とした弱い光を放つ星は、流れてくる雲に覆われてその姿を消していく。
松明代わりに持っていた光苔はセイランの予想外の登場に何処かへ落とし、山の中を下るには麓の家の灯りだけが頼りだった。
(いや……どうかしてるのはこの事態か……)
アヴァンクーザー神の力の結晶が世界の神殿に安置され、強力な結界が発動してから数百年。それまで魔族の横行に種の繁栄を制限されてきた人間は神の贈り物に歓喜し奉りたて、訪れた平和に酔いしれた。アストラルの結界内では、魔族の存在すら伝説となりかけていた程である。
だが食い荒らされた死体と魔獣の存在は、今や結界が無効となっていることの証明であった。
(さぁ、どうするのかしらね……。信者達は)
 ラミィは立ち止まって木々の間から麓の明かりを見た。
自警団員として守るべき家々の灯火は儚げで頼りなく、とても小さかった。
「あと一年も経てばアストラルをもてはやしてあんたを崇める者なんて誰もいなくなるんじゃないの?」
ラミィは神に見放された地上から夜空を見上げてそうつぶやいた。
「……無くなればいいのよ……アストラルなんて、ね」
ラミィは崇高な存在に対して不敵な笑みを浮かべていた。

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